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『政治家の交渉術』( 2006年5月刊) 第64回 ―第4章1―?「すでに解決している」 |
2011年1月23日 14時0分の記事 |
目次 第4章 平気で「断言」しろ―「舌は長く記憶は短く」 1 「弱者の戦法」しろ 「すでに解決している」 「戦後の四分の一世紀に亘る日中関係は、二千年の歴史からみれば、ほんのひとコマにすぎない」 田中角栄が、日中国交正常化の道を選択したのに対して、岸信介や賀屋興宣、灘尾弘吉らの党内親台湾派は、激しく抵抗し始め、自民党内はさながら、「内乱」状態に陥った。だが、田中角栄は、自民党内の日中国交正常化推進派である国会議員による協議会が結成し、三百十六人が参加した。この勢いで台湾政府の蒋介石総統に恩義を感じ、かつ、利権を握っていた自民党内の親台湾派を抑えることに成功した。さらに、田中角栄は、社会党や公明党まで取り込んだ。 一九七二年九月二十五日、午前八時十五分、羽田空港から北京へと飛び立った。外務大臣・大平正芳と官房長官・二階堂進らが同行していた。外遊の際にはいつもファースト・レディ役の長女・眞紀子を同行していたが、このときは止めることにした。右翼をはじめ日本が共産・中国と国交を正常化させることに反対する勢力が不穏な動きを示しているという情報を治安当局が入手していたからである。 いざ出発というとき、田中角栄は眞紀子に、 「生命を賭けて日中国交正常化を成功させてみせる」 と言って車に乗り込み、羽田空港に向かった。 田中角栄は北京で早速、第一回首脳会談に臨んだ。そのときの印象を,翌二十六日に記者団の前で,次のような七言絶句の即興詩に託して披露した。 国交途絶幾星霜 修交再開秋将到 隣人眼暖吾人迎 北京空晴秋気深 交渉は、比較的順調に進み同月二十九日、田中角栄は、日中共同声明に調印し、日中国交が樹立された。これに伴い、外務大臣・大平正芳は、 「日本と台湾との条約は失効した」 と発表した。田中角栄は、北京で、毛沢東や周恩来らの要人と歴史的な握手をした。田中内閣の組閣後、わずか三か月にして、日中国交正常化を実現したのであった。 帰国後、田中角栄は日ソ外交を手がけようと決意した。日ソ復交に政治生命を賭けた総理大臣・鳩山一郎が、国交正常化を果たしてから十数年を経ていた。歴代内閣は,ソ連を避けて通ってきていたのである。田中角栄は, 「だれかがやらなければならない」 と国民的悲願を背負い、リスクを覚悟で出かけることにした。一九七三年十月九日から十一日にかけて、田中角栄は、モスクワ入りを果たした。 北方領土の返還への糸口をつかみたい日本と、シベリアの資源開発・アジア集団安全保障構想に取り組みたいソ連との対決だった。ソ連は、 「すでに解決している」 と強い姿勢を示した。これに対して、タフネゴシェーターでも知られていた田中角栄は得意の交渉力を発揮した。交渉ごとは、土建会社を経営して営業で鍛えてきた自信があった。ブレジネフ書記長を相手に、強気で対応したのである。そして、ついに、 「未解決,継続交渉」 と認めさせた。それだけでもソ連訪問は大成功だった。 とくに大国相手との交渉では、強気な対応で臨むタフネゴシェーターとして、グイク攻め立てる剛毅さが必要である。恐れず、怯まず、堂々と立ち向かえば、相手に尊敬され、交渉をうまく進めることができる。 |
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