アジサイを観に(PART2) | |
[神社・旅] | |
2013年6月11日 22時17分の記事 | |
丸い球状のアジサイというのは、もともとは日本になかったらしく、セイヨウアジサイと言って、日本原産のガクアジサイとは区別されているみたいですね。
アジサイに見とれていたんですが、境内の奥のほうに蓮の花が咲いているのに出くわしました。 蓮の花のすごいところは、その存在感です。 静寂な中にひっそりとたたずんでいます。 ですが、静寂とは何もないことではなくて、何かがある状態なんだと思います。 その何かが、ただそこにあるという「存在感」です。 今はまた新緑の季節ですから、どこを見ても生き生きとしています。 下の写真は、アジサイを裏側から撮ったんですが、光って見えるのは太陽光が葉を通して写っているものです。 光と影の微妙なバランスがよくて、無駄なものは何もないと思いました。 下の写真は、寺の境内にある門?のようなところです。 古風といいますか、門にしては面白い形をしています。 昔風の屋根で、なんとなく風格を感じました。 花というのは、癒してくれる存在ですが、たぶん癒そうと思っているわけではないんですよね。 そこがすごいなと思います。 最終編集日時:2014年7月31日 23時31分 | |
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◆この記事へのコメント(投稿順) | |
1. はるぱぱ 2013年6月12日 8時15分 [返信する] おはようございます。 花の写真の掲載いつも楽しみにしているんですよ. 私も趣味で写真をとるのですが,なかなか思ったように撮れません(笑) 「”きれいに撮ってやろう”」なんていう”我”が入って、それが絵から伝わってきます. 「”あ〜いいなぁ”」っていう気持ちそのままで撮るとそれなりにいいのですが… いずれにしても自己満足ですけどね(笑) ところで、花を見ているとimimiさんが仰るところの我々は多次元的存在であるということが直接的に感じられるように思います. その感覚はちょうどセスの「個人的実現の本質」にある ”存在(感情)のトーン”を感じるというのに似ているかもしれません. 目で見るのではなくて、ハートで観る、あるいは愛でるというのに近いかもしれません. 2. imimi 2013年6月12日 13時58分 [返信する] 素晴らしい感覚ですね。私もそう思います。そして、花は我々が普段忘れている感覚を思い出させてくれます。我々の日々の生活に潤いを与えてくれます。そして私自身、そうありたいと願っています。
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