ヒトはなぜ何度も生まれ変わってくるのか? | |
2013年9月4日 2時11分の記事 | |
人はなぜ何度も生まれ変わってくるのでしょうか。 自我が仮の姿だということに気づかないからでしょうか。 もちろん、それもあるかもしれません。 しかし、より根本的な問題は、人は自分自身を知るために、自分を他人の中に投影して、他人との距離感を図りながら、何度も生を経験している気がしてなりません。 自分と他人という位置関係に身を置くことによって、他人の中に自分自身を投影し、それとの言葉のやり取りから、自分とは何者なのかを常に知ろうととしている側面があります。 例えば、アカの他人に言われたことが何とも思わなくても、自分にとって近しい存在に言われるとカチンとくることがあったりします。 それはなぜかというと、アカの他人よりも、近しい存在のほうが、自分自身をより理解してくれているために、自分自身の内側にあるものがそのまま反映されやすくなるためだと思われます。 つまり、カチンとくるから未熟なのではなく、カチンとくるように出来ているのです。
他人との間で生じた、自分自身の反応によってのみ、人は自分自身の「内側に」ある想念を垣間見ることができます。 つまり、他人を通して自分自身を知るわけです。 こういう仕組みになっているので、進化していようがいまいが、人は何度も生まれ変わります。 たとえそれが聖人と言われる人であったとしてもです。 最近、様々な人をリーディングするようになって、転生回数というものを前以上に意識するようになりました。 転生回数が例えば一桁しかないという人には、まだ現実世界では出会ったことがありません。 しかし、二ケタはあります。 ただ、二ケタに「見えた」場合であっても、よくよく調べてみると、二ケタ台の転生回数を1クールとして何クールか転生を重ねているケースがあります。 つまり、どんな人でも、数百回は転生しています。 例えば、イエスキリストの転生回数を調べてみると、普通の人より少し少ない程度ですが、ごく標準的な転生回数でした。 要は何が言いたいかというと、転生というのは人間の霊的成長にとって、もっというと自分自身を知るためには必須だということです。 自我があって劣っているからではないんですね。 自我は未熟なものだから、葛藤を手放して霊性を高め、悟りの境地に到達して自我を滅却すべきではないのか? 私は、それも一つの道であることは認めますが、それは他にもある、ありとあらゆる道の中での一つに過ぎないと考えています。 つまり、いたずらに悟りを追い求める必要はないのだということです。 言い方を変えれば、進化・成長が足りてないから生まれ変わってくるのではなく、進化・成長するために生まれ変わってくるともいえます。 むしろ、普通に生きながらすでに悟っている別側面の自分がいることに気づくことが大切だろうと思います。 進化成長とは、自分にはないものを追い求めることではなく、すでにある自分自身の叡智に気づくことであり、自分らしさを追求していくことではないかと思います。 だから、我々は、現象世界に埋没し、何度も何度も他人の中に自分自身を見ようとします。 そうやって、相手との距離感をはかりながら、自分自身の性質を、相手とともに学んでいるからです。 Some rights reserved by VMFoliaki 最終編集日時:2014年7月31日 18時17分 | |
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