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2018年7月17日 9時1分
出納に関する軋轢
 
9世紀の後半になると
卜部だけではなく
陰陽師の占いにも
「祟り」が登場してくる
『三代実録』元慶二年(878)二月二十七日条

越前国敦賀 気比(けひ)神宮で起きた火災の原因を
「祟り」であると陰陽寮が占ったのである
16

気比神宮側は、火災は失火ではないという。このことを越前国司は中央に言上したが、中央では陰陽寮の占いによって、神社の穢が原因で祟りがあらわれたと認識する。つまり、太政官や神宮司が関与していない。神宮司は代々大中臣氏が世襲しており、神祇官との結びつきが深い。そこで、あえて卜部ではなく、陰陽師に命じて神の「祟り」を認知しているのではないだろうか。つまり、国司と気比神宮司との対立が、陰陽寮に祟りを認識させるきっかけとなったということになる。
17『亀卜』臨川書店
 




2018年7月8日 9時25分
凍土
 
『極北シベリア』より

地下水が融解して消失すると 永久凍土の大地は沈下し
アラスとよばれる凹みができる

アラスは東シベリア各地に形成され 速い速度で変化する

西シベリアにも成因の異なる地下水があり
ハッセリーとよばれている
83



凍土を掘った経験があるだろうか。 17

堅くてスコップでは歯が立たない
ツルハシを思いきり打ち下ろして すこし欠けるていど

砂質の凍土は温度の低下とともに強度が増加し
−50度では コンクリートの強度にひとしく
−10度では すこし風化した花崗岩と同じていど

  凍土のもう一つのすぐれた性質は、水を通さない点である。1900年頃からヨーロッパ諸国で、軟弱な地盤を人工的に凍結させ、地盤の改良に応用する工事がなされるようになった。日本でも1960年頃から土木工事に、人工凍土を利用する試みがなされた。とくに1970年代の高度成長期になると、東京や大阪の過密大都市は、地下鉄工事など高水位で軟弱な地盤での土木工事が多く手がけられ、そこで人工凍土が利用されてきた。

  人工凍土を造成させるのは、つぎのようにする。水を多くふくむ軟弱地盤に、一定間隔で鋼管(凍結管)を埋設する。そこに冷凍機でマイナス20度〜30度に冷却した不凍液(塩化カルシウム溶液、凍結温度マイナス56度)をポンプ循環させる。鋼管の周辺に凍土が形成されるが、適切に配置された鋼管にはさまれた地盤は凍土で連結して、6〜8ヵ月すると厚い凍土ができあがる。凍土の堅さと遮水性(不透水性)から、軟弱地盤は安定な強度を保つ。この凍土層を削岩機など、ふつうの岩盤掘削と同じ土木機材で掘り、トンネルをくりぬく。トンネルを掘削した後に、コンクリートを内側から吹きつける。コンクリートに十分な強度が発生した後、ゆっくりと凍土を融解させる。

  新幹線の上野駅の建設でも、図6のようにアーチ型の凍土を造成した。このトンネルの直径は12.9メートルと最大級だった。凍土は約一年にわたって維持され、地下空間が凍土によって支えられ、また地下水の浸透を防いだ。東京湾縦断トンネル工事でも、この人工地盤凍結工法が多用された。

  東京湾に沿っては、より長期的な永久凍土が造成されている。液化天然ガス(LNG)は、天然ガスをマイナス162度まで冷却して日本に輸入され、不純物をまったくふくまない、クリーンなエネルギー源である。この超低温のLNGを安全に貯蔵するために、巨大な地下式タンク群が東京湾沿い(千葉県袖ヶ浦市、横浜根岸市根岸)に建設された。直径50メートル、深さ60メートルのステンレス製のタンクとその周囲のコンクリートからなる、巨大な円筒型タンクで、一基でLNGを20万キロリットル貯蔵できる。図7は最大級の地下タンクの建設中のようすで、この穴にはあのジャンボ旅客機がおさまるほどである。

  液化ガスの温度がマイナス162度という超低温のため、タンク周辺の地盤はある厚さまで凍結状態となる。つまり永久凍土化する。凍土のコンクリートなみの強度と、水を通さない性質をいかして、タンクをより安全に包みこむ。とくに地震のさいの振動などにたいしては、永久凍土がタンクへの被害を食い止めてくれる。

地下貯蔵式LNGタンクが 東京湾沿いに数十 すでに稼働
つまり 東京湾沿いには永久凍土がぞくぞくと形成されているのだ
〜20


72
…6時間ごとに 一年間伸び縮みの自動記録
気温 地表面温度
10 40 80 深さの地温も記録

一年後に記録を回収
温度変動は異常なく記録されていた

問題は収縮や伸張の記録

一見すると、冬になるとしだいに収縮するような、きれいな変化だった。

しかし、六ヵ所すべての変動が相互に類似している。念のために、地表面の温度変動を重ねると、ぴたりと重なってしまった。変位計を研究室に持ち帰り、なにも接続しないで、ただ温度変動をくわえてみた。なんと変位計は温度計になってしまっていた。伸び縮みを検出する部分には、金属に巻きつけたコイルがあり、その中心にある芯棒の移動を電気信号に変換する原理である。このコイルが温度によって影響を受けやすく、一種の温度センサーに変じていたのだ。

凍土中の詳細な温度変動の記録はとれていた
『極北シベリア』新赤版 1996 福田正己


…………………


沈降 か?


7.3〜手元に
ほか 読書にも いそしむ

※昨夜うちこもうとしたものは 先送りに
数ヶ月前からですが (“月水”「平安」とか系)

メモ

・『月経の名称』2013(鈴木明子)/138
WW 大量出血するから
・「月経」の「経」
xidao.blog.fc2.com/blog-entry-21.html
 




2018年3月24日 14時41分
北斎/冨嶽三十六景/甲州三坂水面
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_fujisan/01fugaku/4th_fujisan_01fugaku36_29.htm 
※御坂峠(山梨県富士河口湖町・笛吹市)
…御坂峠は、甲府盆地と富士山麓との間にある鎌倉往還の峠。本図は峠を下り、河口湖畔から富士を望む。中央左よりの湖上の島が鵜の島。その左側の建物は妙法寺と考えられる。中央の集落は勝山村であり、その右手前には河口湖南岸にある大原七郷の鎮守で中世には富士信仰の拠点の一つとなった冨士御室浅間神社の杜が見える。右端の足和田山の麓の集落は長浜村。




・・・・ ・・あと数冊借りていたりもし・・ ・・・・




(当時の「現住所」が掲載されていて)そのころ虎尾氏は佐倉におられた


その一

『延喜式』虎尾俊哉
平成七年新装版第一刷発行(昭和三十九年第一版第一刷発行)

…開始された戸籍作成作業…足かけ三年…

良・賤を確定する法規の必要があったからであり、この詔が出された結果、持統三年末の戸籍作成開始以前に親から売られていた子供は、この「庚寅年籍」ではすべて賤とされたはずである。と同時に、持統四年以後に親から売られた子供は、勿論この持統五年詔によって賤の身分とはなるが、しかし、「庚寅年籍」はすでに持統三年末現在の資料で作成を開始しているので、その事実は戸籍に折りこまれる余裕がない。従って、戸籍の上では依然としてまだ良とされているはずである。そして、後世、良賤の判定の資料としてこの「庚寅年籍」がよく引合いに出される性質のものであった点から判断して、この「庚寅年籍」の良賤記載はみだりに変更しないという原則が、何時からか生れたらしい。勿論、「庚寅年籍」より前に「庚午年籍」があり、これは他の戸籍と違って永久保存の規定もあって、後世時に良賤の判定では重視され、しばしば引合いに出された戸籍である。このような戸籍があるにもかかわらず、特に「庚寅年籍」を同じように重視するのは不審だといわれる向きもあるかも知れないが、実は持統五年三月に良賤に関する詔の出たこと自体が、これ以前の人身売買の規定をこの時変更したか、または、これまで明確な規定のなかったものをこの時期明確化したか、のいずれかであることを示すのであって、人身売買に起因する良賤の判定に関する限り、「庚午年籍」では役に立たないはずである。(…略…)
174-175 刑部省関係の式

雑式(巻五十) 208〜

澪標 みおつくし 211-212(大阪市市章画像は212頁) 

凡そ商賈しょうこの輩ともがら、銭文せんもん明かならざるに依りて嫌いとひて受けざれば、所司笞に決せよ。

これは要するに撰銭えりぜに禁止令に外ならない。 (…略…) 211

凡そ難波津頭の海中に澪標を立てよ。若し旧ふるき標くし朽ち折るる有らば、捜し求めて抜きされ。 211

難波津は今の大阪港である。その頭というのは人口を指す。澪標は澪すなわち水深の深い部分を示す標識であって、要するに航路標識に外ならない。現在の大阪市の市章はこの澪標をそのまま図案化したものである。これは航路の安全を確保するためのものであるから、常に正確な位置に確実に立てられていなければならなかった。したがって、くさったり折れたりして取り換えた際に、古い標識が一部分でも残されていることは許されない。勿論さがし求めて抜き去る必要があった。なかなか周到な規定というべきであろう。日本の内玄関としての難波津の重要性が遺憾なく現わされている。

凡そ太宰、南嶋に於いては牌はいを樹て、具つぶさに嶋名及び船を泊つる処、水有る処、幷びに去就の国の行程を顕はし著けよ。遙かに嶋名を見、仍りて漂着の船人をして必ず帰向する所あるを知らしめよ。

これも海事に関する興味深い細則である。南嶋というのは、太宰管轄のタネ・ヤク・アマミなどの島々で、遣唐使船の南島路に位置する島々である。これらの島には、太宰府の責任で立て札が建てられた。これには島名・淀泊可能地・飲料水のある場所・隣国への行程が記入された。(…略…) 212

凡そ諸国駅路の辺には、菓樹を植え、往還の人をして休息するを得さしめよ。若し水無きの処は便を量りて井を掘れ。

この規定は要するに官道の両側に食用の菓樹を植え、井戸を掘るなどして、暑熱と飢渇とを避けられるように配慮したものである。駅路の利用者は官使を主体としたから、これは一見庶民には縁のない既定のようにも見えるが、実はこの規定の起りは遠く天平宝字三年(759)六月にあり、その発案者は東大寺の普照法師であった。そして普照の奏状を見ると、「道路に百姓の来去すること絶えず」とあって、この文面から見、また発案者が僧侶である点から見て、この規定が庶民をも対象に含んでのものであったことは疑いない。ことに調庸の運搬者や官使随行した駅子などには、この上もないいこいを提供したに違いない。もっとも、これが果してどの程度に実行されたかという点が気になるところであるが、弘仁十二年(821)の大和の国(奈良県)から太政官あての報告には、この菓樹を近隣の人民が伐損して困るから、厳重に禁止して貰いたい、と述べている。これは一面、この植樹が実際に行なわれて旅人を益したことを示し、一面、これを伐損した現地民のいることも示している。苦しいのは旅人ばかりではなかったからである。しかし、とにかく全くの空文でなかったことだけは知られる。

ところで、陸上交通確保の上での最も重要な施設の一つに橋がある。この橋は勿論木橋であるから、その維持ということには、相当計画的な施策がとられていなければならないはずであるが、果せるかな、これについての規定の一端がやはり雑式に見えている。
(……略……)
213-214『延喜式』 

※太字は区別のため(記入者による) 



・・・・・・・・・・
大阪市章“澪標”

(家紋“結び文”http://www.preshion.net/design.php?id=km&page=152&find=#)
“結び文”(箸置き)の折り方 https://handmade3.jp/28.html
(家紋“丸に鋏”は1993の頃とは違い 今は裏返さなくても対称になったらしい)

・・・・・・・・・・

その二
 
『美の幾何学』伏見康治/安野光雅/中村義作
1993-10版(1979初版)中公新書554(のほうの頁)

(紋帖をくりながら)
逆立ちしてやっても「こんなにシンプルなものはできませんよ」
日本中の都市には 一種の紋章がある
なかなかいいのがない 失礼だけれども(安野)

大阪の「みおつくし」とか 神戸の「扇面二つ」とか
いいのがある(伏見)
54


「裏返し対称」:表面だけ見てると対称じゃないけれど
その物を裏返して考えれば ちゃんと対称になっている(中村)

伏見
たとえばこれね。(と結び文をつくる)これは全く平面の中の図形とみれば対称ではない。だけど、これはあくまで紙で追った物だと考えれば、裏返すと重なってしまうから対称なんです。

中村
鋏などもそうですね。手にとってひっくり返すつもりになれば、元の形に重なってしまう。

安野
あれはぼくは「やられた!」とおもったな。立体感覚がすぐれていて、平面に書かれた図形でもおのずと立体的に見える人じゃないと、あれは気がつかない。53


対称性をかぎとる能力

対象というとまず第一に考えるのは左右対称のことですが、それ以外にもいろいろあるので、対称性を調べるのには、その可能性をしらべてかからないといけないのです。北斎の冨嶽三十六景の中に、実に変な図柄がありますね。富士山があって湖があって、その湖面に富士山が逆さかしまにうつっている。そこまではいいのですが、その富士山の影が本当の富士山の真下になくて左に偏っているのです。よく見てみると、どうやら北斎は湖面の富士山を、本当の富士の「鏡映」として描いたのではなく、画の中心を中心として180度回転したものとして描いたとしか思えないんです。北斎はこの絵以外にも対称性があるんだということを教えようとしたんではないでしょうかね。紋の中に茗荷を左右対称にならべた「抱き茗荷」というのがありますが、これに対して左側のが逆さになっていて、「追いかけ茗荷」というのがありますね。対称性からいえば、これも「鏡映」から「180度回転」または「二つ割回転」に移ったことになります。抱き茗荷が本家の紋で、追いかけ茗荷が分家のものだと思いますが、この対象に思い付いたときには、考案者はずいぶん得意だったろうと思いますね。
伏見/9-10


伏見
三輪車で昔、サイドカーの付いたオートバイなんてあったけれども、あれもおそらく安定性が悪いでしょうな。

安野
サイドカー、よくないですよ。あれはカーブを曲がるときに、右へ曲がる時と左へ曲がる時で勝手が違うみたいですね。ですから乗せてもらってる人間がかなり援助しなきゃいけない。

中村
ヨットと同じような恰好……。

安野
そうなんです。カーブにくるとからだを半分乗り出して変な格好してバランスをとるんです。(笑)ぼく、乗ってみてはじめてわかりましたねえ。

伏見
だからそういう意味で、左右対称性というのは、ぼくはスタティックス(静力学)の世界では理解できないんじゃないかと思う。ダイナミックス(動力学)の世界でないと理解できない。だから幾何学といっても純粋な幾何学の問題ではすまなくて、少なくとも運動学を取り入れないとだめですな。

安野
運動を考えに入れてものを見ると、人間の存在とシンメトリーの関係はもっとおもしろいものに見えてくるでしょうね。
12『美の幾何学』



・・・・・・・・・・家紋 追いかけ茗荷 画像が出ませんか
抱き茗荷
むかしむかし 塗りものに金色の塗料でマーキングしていた方が 近くにいたような
・・・・・・・・・・
先日 日中に窓が開放されたまま。。そのまま あれ というときに
ノグチ2〜3枚が その辺に置かれたままになってた。。。。


そちらの湖面 逆さのほうの画像を そのあたりから
以下に
[続きを読む]
 




2018年2月7日 9時46分
(果たしてきた役割)
 
※その書を再び開くかどうか わかりません※ 2.24



アカデミア・デイ・リンチェイ(Accademia (Nazionale) dei Lincei: オオヤマネコの学会の意味
ローマのコルシーニ宮殿にある科学アカデミー…
…Wikipedia…
ローマ教皇庁科学アカデミー
Pontificia accademia delle scienze
Pontificia Academia Scientiarum
…Wikipedia…
フェデリコ・チェージ
(Federico Angelo Cesi、1585年2月26日 - 1630年8月1日)
・・・・・・・・・・ ////////// ・・・・・・・・・・


『細胞学の歴史−生命科学を拓いた人びと−』1999
アーサー ヒューズ Arthur Hughes (原著)
西村 顕治 (翻訳)

望遠鏡と顕微鏡の双方が最初に用いられたのはローマであった
1601年 フェデリコ・チェジが山猫アカデミーを創設
1609年 ガリレオが参加

顕微鏡を用いて業績が継続的に積まれるようになったのは
英国の王立協会が創設(1662年)され 初代の装置管理者に
ロバート・フック(1635-1703)が任ぜられてから

顕微鏡は彼にとって、多くの興味ある対象の1つにすぎなかったのだが、それでも、1665年に出版されたかの有名な『ミクログラフィア』は、表題紙にあるように「微細なものの生理学的な記載」にもっぱら向けられたものであった。それゆえ、ほかならぬ、ここにこそ、本書の主題が始まる。細胞の構造がはじめて図に描かれて、私たちが用いているのと同じ意味での「細胞」cellという語が使われたのであった。 14

2.11 追加


・・・・・・・・・・

その化学的研究領域の創設者はフレデリック・ミーシャー(1844-1895)
彼の父親はヨハンネス・ミュラーのもとで学んだ
彼自身はバーゼル大学在学中にウィルヘルム・ヒスの授業を受けた

ミーシャーの卒後研究は 1860年代の後半に
当時の指導的生理化学者だったホッペ-ザイラーのもとで始められた


『細胞学の歴史−生命科学を拓いた人びと−』P139〜
 
…ミーシャーの課題選択は、しかし、完全に彼自身で決めたものであった。その頃までには、それが普遍的に存在することから、核が特別に重要な細胞成分であることは明らかとなっていた。しかし、核についてなんらかの化学分析が可能となる前提として、まずまとまった量の核をほかの細胞成分から分離しなければならなかった。これを試みようとミーシャーは決心し、研究材料に、捨てられた外科の包帯から集めた膿の細胞を選ぶという、一見異様な選択をした。確かに膿は、消毒が行われる以前の病院では十分豊富であったが、それでも、彼が言うには、「疵物きずものなしとはいかなかった」。彼は、臭気があまりすごい包帯は取り除く配慮をした。

細胞が懸濁液として得られ、さらに、稀塩酸、ペプシンおよびエーテルであると彼は知った。核はフラスコの底に沈んで、顕微鏡下にはこの沈渣が、「平滑な外囲と均質な内容物に、それぞれはっきりした輪郭をそなえた核小体を持ち、最初の大きさよりやや小さ目なながら完全に純粋な核」であることを観察した(Miescher,1871)。その当時数人の研究者が、似たりよったりの方法でいろいろな組織から核を単離していたが(Brunton,1870;Auerbach,1874)、そういった操作はその後も無視され続け、ようやく1930年代になって、細胞分画法の名称(Claude,1937)で復活した。

ミーシャーは膿細胞の核から注目すべき性質をそなえた物質を調整し、それに「ヌクレイン」nuclein の名称を与えた。それは既知のどんな生体物質よりも強い酸であり、さらに、当時は生物学関連の有機物中ではきわめて希少だとされた元素である燐が高い組成で含まれることで識別された。この研究段階で、ミーシャーが得た結果は当時としてあまりにも驚くべきものであったため、ホッペ-ザイラーはそれらの結論を自身で確認するまで公表を渋り、そのため、ミーシャーの論文が世に出たのは、2年も遅れて1871年であった。

しかし同じ年に、彼はバーゼルに帰郷して、ライン河の冬サケの成熟した精巣もまた、いっそう魅力的なヌクレインの材料に相違ないことを発見した。単利した精子の頭部中に、彼は酸性のヌクレイン、すなわち核酸ばかりでなく、それといっしょに複合体を作っていた塩基性の強い窒素化合物を発見したので、それに彼は「プロタミン」protaminという名称を与えた。この材料からのヌクレイン調整は、精子の頭部を強酸で溶解し、それを水で希釈して、ヌクレインでできた線維を沈殿させるというものであった。これらの調整試料をできるだけ冷却しておく必要があったため、彼は、冬に暖房なしの部屋で働いたのであった。彼は友人の一人に以下のように実験方法について述べている。

核酸を調整しようという時、私は朝5時に研究室に行く……どの溶液も5分以上は放置せず、どの沈殿も1時間以上は無水アルコール中にとどめることができない。しばしばそれが夜遅くまで続いた。唯一この方法だけで、私は一定の燐の組成を持つ産物をついに手に入れたのだ。(Greenstein,1943)

ミーシャーは、ヌクレインの特徴として、ペプシン消化に抵抗性があり、かつアルカリに可溶なことを発見した。高濃度の塩溶液で処理すると、膨潤してゲル化した。1881年にはザカリアスが顕微鏡下で、さまざまな種類の細胞や核に対してこれらの試験を適用した。彼は、ペプシンがカエル赤血球の細胞質を消化し去って、単離した核を残すことを見出した。同じ結果が Vorticella やゾウリムシ Paramoecium などの繊毛虫類で見られたが、その際に、大核は実験後も溶解しないまま残った。これらの小核はアルカリに可溶であった。彼が植物組織について興味深い観察をしたものがあったのだが、それは、分裂中の花母粉細胞の染色体はペプシンに抵抗性を持つが、紡錘糸は消化されたのである。フレミングは翌年、このザカリアスの仕事を念頭に置いて、彼の著書『細胞質、核および細胞分裂』の中で、核の「枠組み」を形成している物質である「染色質」chromatin を定義したのであった。

……その光学的屈折性、それが示す反応、そして何といっても色素に対する親和性から見て、私が染色質と名付けた物質である。たぶん染色質はヌクレインそのものであろうが、もしそうでなかったとしても、ザカリアスの業績から見て、相互に相通じるものである。染色質という言葉は、それの化学的な性質が知られるようになるまでは役に立つことだろうし、それまでの間は、細胞核内の易染性物質を指すのである。


現在、「核酸」nucleic acid という語は物質の1グループを指すことがわかっている。この物質は2種類に分けられ、両方とも核の中に見出される。そのうちの1つは、核の外には存在しない。さらに、生きている状態では核酸が通常結合しているのが、広義でいうところの塩基性タンパク質に属するものであるが、それらの中でも、成熟した魚の精子が持つプロタミンは、極端な事例である。

核酸の化学的研究の進歩は、アルトマン(1852-1900)がたんぱく質を含まない試料調整法を発見してから、加速されることになった。それは1889年に発表された。それから3年以内には、核酸の3成分が識別された。燐酸に加えて、プリンとピリミジンという2つのタイプの有機塩基、および第3には、五炭糖の炭水化物があった。核酸が調整されたおもな材料は、酵母と動物の胸腺であった。これら2つの材料から単離された産物に、ある相違がみられ、それから動物と植物の核酸の間にある基本的な相違であろうという早まった一般化が持ち上がった。しかし、1914年には、この2元論は誤っていることが示されたのである。生化学者のR.フォイルゲン(1914)によって、胸腺タイプの核酸が持つ不安定な炭水化物は、その頃まで考えられていたような六炭糖ではなくて、五炭糖であって、緩和な加水分解でアルデヒドを遊離し、それがこの類の物質検出に用いる通常の試薬である亜硫酸で脱色したフクシン色素によって兼sy通されることが示されたのである。10年後に、この試験が顕微鏡下で組織切片に適用された。そのときフォイルゲンと彼の共同研究者のH.ロッセンベック(2924)は、麦芽の核がこの試験に強く反応するのを発見して非常に驚いた。その結果は、胸腺タイプの核酸が植物の細胞に見出されたことを示していたからである。

現在では、核酸のタイプの区別が動物と植物の細胞内におけるそれらの分布状態と関係していることがわかっている。胸腺タイプの核酸は核の中でのみ見出され、その淡水化物成分はデオキシリボースで、デオキシリボ核酸、つづめてDNAとしても知られる。もう一方のタイプの核酸も、動物と植物ともに細胞質と核の双方に見出され、核では核小体の主成分である。ここでもリボ核酸、RNAの名称は、その炭水化物であるδ-リボースに由来する。さらに、それら2つのタイプの核酸は、同じプリン塩基[アデニンとグアニン]を持つが、ピリミジン塩基ののうちの1つが相違する[DNADEシトシントチミン、RNAでシトシンとウラシル]。

組織化学的方法として応用した場合の
〜P143


1.27 17:21:30 下書き保存分

 




2018年2月3日 19時7分
土質や環境を「生かす」
 

西岡常一(1908〜1995)
『木に学ぶ―法隆寺・薬師寺の美―』1988
『木のいのち木のこころ〈天・地・人〉』2005(聞き書き)


…………………


「堂塔の建立には木を買わず山を買え」
「堂塔の木組みは寸法で組まず、木の癖で組め」
「木の癖組は工人たちの心組み」
宮大工の口伝


木は土質により質が違い
育つ環境により癖がある

同じところで育った木は癖があっても 力は揃っている

伐採されて製材されたものを買うのではなく
自分で山に行って地質を見 環境による木の癖を見抜いて買う

薬師寺金堂の復興に際し 西岡氏は山を買うべく台湾に出向き
樹齢二千年の木が並ぶ山に入り

青々した若葉をつけているものではなく
黄ばんだ渋い葉をつけた枯死寸前と思しきものをえらび
(現地人は驚いた)

(検索すると)
前者は空洞で使いものにならず
後者は心材がしっかりつまっていた

心材が腐って空洞化すると中を養う必要がなくなり
その分 枝葉に養分がゆきわたり
若々しい葉をつけるのだ

木はそれぞれ(右左に)捩れる癖をもち
寸法で組まずに木の癖で組むと左右の捩れがうまく組み合わされ
捩れがなくなり 歪みがこない

法隆寺を検証してみると
飛鳥時代のものとその後の修理のものとで はっきりした違いがあるという創建当時のものは 一本一本の個性に合わせて仕上げられているが
後の時代のものは規格に合わせて同じ寸法で作られているので
見栄えはいいが無理をきたしてしまう


「気に入らんから使わん、というわけにはいかんのです。自分の気にいるものだけで造るんでは、木の癖を見抜いてその癖を生かせという口伝に反しますやろ」
西岡

辞めさせ あるいは 取り除いていたら「いいもんはできんのです」

「素直に、自分の癖を取って、自分で考え、工夫して、努力して初めて身につくんです。苦労して、考え考えしてやっているうちに、ふっと抜けるんですな。そうしてこうやるのかと気がつくんです。こうして覚えたことは決して忘れませんで」
西岡


たとえば
「われわれNGOの運営や活動という現場に引き寄せてみると」

目先の対応や資金調達に追われ
理念やヴィジョンというものが不明確になり

個性を生かすどころか
一人ひとりを疲弊させている現実になっていないか

一人ひとりが本当に造りたいと思わなければできるものではない


開発協力の専門家たちにも、ぜひこのような認識をもっていただきたいと思う。ちなみに、難民キャンプを支援するという場合、予報接種したら乳児の死亡率がどれほど下がるか、とか、どれだけの期間で成果があげられるか、というところばかりに目がいきがちである。もちろん、それは大事なことであるが、では、なぜそういう社会、文化が成り立っているのか、というところまで深く探求する必要がある。
『大法輪』第82巻(平成27年)12号
慈悲のかたち ―仏教ボランティアを通して(その23)
◇塔組は、木の癖組、人の心組み◇/38-43/大菅俊幸


…………………




(個人的) 最近のシーン

組めないこともある
というより・・・・組あがらない

(1.強すぎる依存は 全体の持続を脅かす)

 2.癖の生かし方の 悪用
 3.火をつけるような言動

 4.過度な根回し コントロールしすぎ

(建築途中の)枠組みだけでなく
大切に育ててきた信用 信頼も崩し

台無し



※「悪用」狙いの悪用は論外

 




2018年1月14日 16時19分
ある (設計)図
 

ステロイドホルモンは
細胞の性質を大きく変えるという面でくわしく研究されている

ステロイドは膜のなかに多く見いだされるものだが、ステロイドホルモンは膜を通過して細胞内に進入し、染色体DNAの特定部分に結合しているステロイドホルモンレセプターに相互作用してその性質を変える。レセプターは転写制御因子であり、これによって一群の遺伝子のRNA合成が活性化される。

エクジソンとよばれる昆虫の変態ホルモンはステロイドホルモンの一種であり、幼虫からさなぎに変わる過程での元締め的なマスタースイッチの役割をはたしている。このホルモンが昆虫のリンパ中に出され、各細胞のなかに入ると染色体の特定部分で転写が開始され、さなぎになるまでたくさんの遺伝子があらたに活性化される。昆虫の唾液腺細胞にある巨大染色体を用いて観察すると、パフとよばれる染色体が開いたような発現部位が多数視覚化され、遺伝子の継続的な発現がみごとにしめされる。

発生とか形態形成の観点で見ると、細胞の空間的な位置も遺伝子発現に大きく影響する。多細胞体制をつくるプログラムはDNAに書かれており、形態の形成に必要ないろいろな遺伝子が発見されている。これらの遺伝子の変異体は形態の異常をもたらす。本来発現されるべきタイミングと位置でこれらの遺伝子の転写がおこらないと、形態の異常がおこる。
P104『細胞から生命が見える』岩波新書387/2012年 第7刷(1995年第1刷)/柳田充光



・・・・・・・・・・
「染色体」 細胞観察の歴史

織物業が発展した19世紀 染料が多く開発された 
当時の布 「生物がつくる繊維」からなっている = 細胞の集まり

染色体は遺伝子を格納している

細胞学者たちは,ある染料で染めた細胞を顕微鏡でくわしく観察すると,細胞の中ににある「核」だけが強く染色されていることに気がついた。ドイツの解剖学者ウォルター・フレミング(1843〜1905)は,染色されているのは核にある糸状の物質であることを発見し,「染色質」と名づけた。

さらに細胞学者たちは,染色質が別の姿に変化するようすを観察した。二つに分裂しようとしている細胞では,染色質からなる核が,何本もの棒状の物体へと変化していたのである。この,染色質が凝縮してつくる棒状の構造が「染色体」とよばれるものだ。ヒトの場合,1個の細胞に含まれる染色体の数は46本である。

さて,染色体の成分である染色質は,どのような物質でできているのだろうか? それが明らかになったのは,20世紀になってからのことである。染色質をつくっているのは,DNA(デオキシリボ核酸)と,それを巻きつけるしんの役目を果たす「ヒストン」というタンパク質だった。DNAとは,長いはしごのような分子で,はしごの段にあたる部分(塩基)の一つ一つが,いわば文字の役目を果たしている。

この文字によってあらわされる情報こそ,生命の設計図である「遺伝子」だ。おどろくべきことに,46本の染色体に含まれるDNAの全長はなんと約2メートルにもなり,そこには約60億文字の情報が含まれているのである。
P30/Newton/2006.2

…紆余曲折の末に確定した「人の染色体は46本」… P32-33

「X染色体」という呼び名は 
…「正体のわからぬもの(X)」もしくは「eXtra(余分な)」からきているといわれており… P53
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X染色体

ヘルマン・ヘンキングによって1891年に発見された

ヘンキングは、この染色体の特殊性について充分には気づかず「X染色体」と名付けて発表した。その後、1900年代に染色体研究が進展し、X染色体が性決定に関与する染色体であることが判明した。

X染色体という名称はヘンキングの命名によるものであり「正体不明」の意味と伝えられる。X染色体・Y染色体がそれぞれアルファベットのX・Yのような形をしているからそう呼ばれるようになったというのは俗説である。…  Wikipedia


細胞核 Wikipediaより
…核内には、糸状に連なったDNA分子が結合蛋白質と複合体を構成しながら散らばっており、クロマチン(chromatin)あるいは染色質と呼ばれる…



Wikipediaより 馬回虫 Parascaris equorum
(Goeze, 1782) Yorke & Maplestone, 1926

…ウマ、ロバ、ラバ、シマウマ、ウシの小腸、時に盲腸、結腸に寄生する回虫の1種
体長は♂15-28cm、♀18-50cm。感染様式は経口感染…

染色体は2本と非常に少なく、ドイツの動物学者テオドール・ボヴェリにより、1887年に初めての染色体削減(染色質削減)という現象が報告された動物でもある。…



染色体説 Wikipedia

…染色体説提唱の背景には、全ての細胞は細胞から生じるとする細胞説と、当時再発見されたばかりのメンデルの法則がある。20世紀初頭、黎明期の遺伝学と、先行して発展していた細胞学の融合から、遺伝の染色体説が誕生した。

メンデルの法則は1865年に報告されたが、長い間歴史に埋もれ、「再発見」されたのは35年後の1900年である(詳しくはメンデルの項目を参照)。遺伝の連続性が保証される背景には細胞説があり、これに基づく古典的な細胞学は、染色・観察技術の発達とともに19世紀末までには発展を遂げていた。またアウグスト・ヴァイスマン(August Weismann)は遺伝因子は生殖細胞にあるとする生殖質説を提唱しており、移植実験などからは細胞核に遺伝物質があることが予測されていた。1842年に発見された染色体に関しても、続く研究でさまざまな生物種における種類や数、細胞分裂において母細胞から二つの娘細胞へと受け継がれる様子などの知見が蓄積しつつあった(ヴァルター・フレミング (Walther Flemming)の項参照)。

このように19世紀末までには染色体説の下地ができていたが、遺伝の染色体説を主張するためには、配偶子形成における染色体の挙動を示す必要があった。なぜなら、遺伝の一過程である受精では、卵子と精子の融合によって染色体数が倍加するため、あらかじめ染色体数を半減することが必要である。しかし、この過程に関する知見がまだ得られていなかった。

減数分裂における染色体の挙動と染色体説の提唱

サットンの貢献

体細胞分裂と減数分裂における染色体の分配: 簡単のため一組の相同染色体のみ示した。通常の細胞では父系と母系由来の染色体を一組ずつ持つ(左上)。分裂に先立って染色体の倍加が起こる(左中)。体細胞分裂では2倍になった染色体がそれぞれ娘細胞に受け継がれる(右上)。減数分裂では相同染色体が対になる(左下)。第1分裂で倍加したまま分配され(下中央)、続く第2分裂でさらに分離する(右下)。最終的に形成される配偶子では染色体数が半減する。

遺伝の染色体説を明確に提唱したのはウォルター・サットン(Walter Sutton)の1902年の論文が最初である。彼はバッタの一種 Brachystola magna を用いて減数分裂の細胞学的な研究を行い、配偶子形成における染色体の挙動がメンデルの法則に従うことを見いだした。メンデルの法則が再発見されて間もない頃である。

サットンはこの昆虫では染色体が大きくはっきりと観察できる利点を利用し、配偶子形成における染色体の観察を行った。1902年の論文『 Brachystola magna における染色体群の形態について』において、配偶子形成時の細胞分裂では相同な染色体(相同染色体)どうしが対を作っており、これらが配偶子に一つずつ分配され、染色体数の半減、すなわち減数分裂が起こることを示した(右図、および減数分裂の項目参照)(Sutton, 1902) 。配偶子形成における染色体の減数と分配が明らかになったことで、それまで推測の域を出なかった染色体説に対して最初の明示的な証拠が提出された。この論文の最後の段落でサットンは「この現象がメンデルの法則に従っており、これが遺伝の物理的基盤である可能性を示唆し、この主題について場を改めてすぐに紹介したい」と述べている。そして翌年の論文『遺伝における染色体』では、この仮説をより発展させ、それぞれの染色分体がランダムに分配されることから、メンデルの法則を説明した (Sutton, 1903) 。

配偶子がもつ染色体の組み合わせは、体細胞の相同染色体対の累乗であり、次世代における染色体の組み合わせはさらに累乗する。つまり2組の相同染色体をもつ場合、配偶子は 22=4、次世代は 42=16 通り生じる。これはメンデルが交配実験で得た結果と合致する(具体例はメンデルの法則を参照)。さらに、この論文では一つの染色体には多数の遺伝形質が存在することを予言し、またそれらは不分離だろうと述べている(実際には組換えが起こる)。

このようにして、25歳の大学院生だったサットンによって細胞学から遺伝現象へと手が差し伸べられたのである。後に遺伝学的手法により染色体説を実証したモーガンやアルフレッド・スターティヴァント(Alfred Sturtevant)は「サットンの仮説で染色体説は既に完成していた」と著書や講演の中で述べている。…




ヴァルター・フレミング
(Walther Flemming, 1843年4月21日 - 1905年8月4日)ドイツの細胞学者

来歴
ドイツのザクセンベルク(Sachsenberg)生まれ。父親カール・フリードリッヒ・フレミング(Carl Friedrich Flemming)は著名な精神科医。ロストック大学で医学を学び、従軍医として働いた後、プラハ大学に職を得る。1876年より、キール大学の解剖学教授。フリーメイソンの内組織「シュライン(英語版)」に所属していた。

業績
フレミングが描いた染色体の動き Zellsubstanz, Kern und Zelltheilung, 1882
細胞の固定法および染色法の開発と改良に貢献。細胞核内にアニリンで強く染まる構造を見いだし、これをクロマチン(chromatin:染色質)と名付ける。さらに細胞分裂時には、クロマチンが糸状の構造体に変換すること、さらにそれが縦裂することを発見。すなわち、現在の言葉に置き換えれば、染色体凝縮と姉妹染色分体分離の過程を初めて正確に記載したことになる。これらの結果は、1882年、「細胞質、核、細胞分裂 (Zell-substanz, Kern und Zelltheilung)」にまとめられ、その後の有糸分裂研究の基礎となる。有糸分裂 (mitosis) も彼の命名による。mitosisとは、ギリシャ語で糸 (thread) の意。ちなみに染色体(chromosome)という語は、1888年ヴァルデヤー(Heinrich Wilhelm Waldeyer)によって初めて用いられた。

フレミングは、メンデル(1822-1884)の業績を知らなかったといわれ、自らの観察と遺伝の関係について明確に言及することはなかった。しかし、1900年メンデルの法則が“再発見”されるに伴い、フレミングの観察の本質が再評価されることになった。 …Wikipedia



木綿 Wikipedia



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画面デザイン:「世界情勢」→「オレンジストライプ」 (18-1-18)
→ちょうどいいのが無くて「水」に(18-1-21)
 




2017年12月31日 18時55分
発光
写真1.八丈島のヤコウタケ 提供:大場裕一氏
写真2.実際のヤコウタケの発光と、試験管内でヒスピジンを光らせたものを並べた写真 提供:大場裕一氏
https://scienceportal.jst.go.jp/news/newsflash_review/newsflash/2015/06/20150624_02.html


画像3枚目
http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/anie.201501779/abstract
http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/anie.201505051/epdf (26メモ)



光を見る
光を知る

あるいは・・


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化学発光と蛍光は,まったく異なる現象である.化学発光は,化学反応(酵素反応を含む)により光が放出される現象.蛍光は,物質に紫外線などを照射したときに光が放出される現象である.紫外線などの照射エネルギーで励起された分子が基底状態に戻っているだけなので,このとき化学反応は起こっていない.また蛍光による発光は紫外線などを照射している間だけ観察される.57

現代化学2015年 11月号 No.536/56-59
光るキノコの発光基質を追って 
大場裕一

反応様式は酵素−基質反応であり 基質(ルシフェリン)前駆体は「ヒスピジン」という光らないキノコにその存在が知られていた既知物質だった

物質の単離と構造決定は ロシア産の非発光キノコ Pholiota squarrosa(日本のナメコと同属)の子実体をを用いて行われた

発光キノコの酵素抽出物を使った発光アッセイを指標に活性画分を分離し,最終的な構造はNMRにより決定された.つづいて,決定された物質が微量ながら発光キノコにも含まれていることを確認し,それが発光活性の主成分であったことから,発光基質として特定した.決定された物質は,もともとInonotus hispidus(漢方に使われる日本のカバノアナタケと同属)という発光しないキノコの色素として単離されていた「ヒスピジン」という既知物質であった.ヒスピジンは,いろいろな漢方キノコの薬効成分として抗酸化活性,免疫刺激効果,抗インフルエンザ活性,抗がん活性などが報告されており,プロテインキナーゼCβの特異的阻害剤としても使われている.58


発光キノコのルシフェリンが長い間見つからなかった大きな理由として
ヒスピジンが発光キノコにはごく少量しか含まれていないという事実があげられる

しかし,発光キノコの発光にかかわる物質がなぜそれ自体にはごくわずかしか含まれず,光らないキノコの一部に大量に見つかるのだろう.その点について,私は次のように考えている.


発光生物は普通,刺激を受けたときなどにのみ発光し,常に光りっぱなしということはない.一方,発光キノコは例外的に持続的に発光する.もしかすると,発光キノコはルシフェリン前駆体であるヒスピジンを少量ずつ生合成し続けることで,持続的な発光を可能にしているのではないだろうか.発光しないキノコの一部がヒスピジンを大量にもっているのは,色素もしくは生体防御など何か特別な理由であろう.その理由が何であるかはともかく,別な用途に使われていたヒスピジンという化合物が,進化の過程で発光反応の前駆体として流用されたことが想像できる. 59


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午前中にメモしたアドレスなど


https://scienceportal.jst.go.jp/news/newsflash_review/newsflash/2015/06/20150624_02.html
光るキノコの発光物質を特定 掲載日:2015年6月24日

光る生物の発光の仕組みは、いまだにその多くが謎のままだ。そんな中、キノコが緑色に発光するための原因物質を、大場裕一(おおば ゆういち) 名古屋大学大学院助教らのチームが、ロシア科学アカデミーのヨーゼフ・ギテルソン教授、イリヤ・ヤンポルスキー博士らのチームと共同で特定した。多くのキノコに含まれる「ヒスピジン」という物質と、光るキノコだけが持つ酵素が反応することで発光するという。

光るキノコは日本に10種類以上見つかっており、そのうちの8種類以上が、発光生物の宝庫として知られる八丈島で確認されている。名古屋大を拠点とする大場氏らのチームは2005年から八丈島に通い続け研究を進めてきた。そしてこの島に生息する「ヤコウタケ」を大学でも栽培し、すりつぶしてさまざまなキノコから採取した物質を混ぜる実験を3~4年繰り返し行い、ヒスピジンとヤコウタケの酵素が反応して光ることを突き止めた。今回の成果は、これに先行してロシアのチームがベトナムから採取した発光キノコの一種から得ていた同一物質による研究結果を、日本のチームが証明した形で結実した。

非発光のキノコにも含まれるヒスピジンは、がん細胞を殺すことでも知られるが、これまで発光との関係については見過ごされてきた。また、発光生物の多くは、主に深海に生息し、刺激を与えたときにだけ発光するものが多い。今回、常時発光するキノコの発光物質が特定されたことで、新たな応用技術の開発につながるかもしれない。

大場氏は、「長らく謎だった発光キノコの発光物質が決定できたことは、発光キノコの発光メカニズム全貌の解明のための重要な一歩だと思う。現在、慶應義塾大学の榊原康文(さかきばら やすぶみ)教授らとヤコウタケの全ゲノム解読を進めている。ロシアと慶應大と名古屋大の共同で、酵素遺伝子の特定や反応メカニズムの詳細を解決したい」と語っている。  


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故 中村英士教授遺児育英基金募金趣意書
名古屋大学大学院生命農学研究科元教授の中村英士先生は、昨年11月9日沖縄県阿嘉島近海で、 海洋天然物化学の研究材料採集中に水難事故に遭われ死去されました。
享年48才
http://www.chem.tsukuba.ac.jp/kigoshi/danwa/kikin.html  



KAKEN — 研究者をさがす | 中村 英士 (90217878)
https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000090217878/

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生物発光の進化
ルシフェリンの由来・ルシフェラーゼの起源
大場 裕一, 井上 敏
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kagakutoseibutsu1962/45/10/45_10_681/_article/-char/ja



https://sayfox.wordpress.com/2010/07/25/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E6%8B%A0%E7%82%B9%E3%81%B8-%E4%B8%8B%E6%9D%91%E8%84%A9-25/
玉しき都の泡沫
The beautiful city may be illusion.

下村脩(25)新しい拠点へ  2010/07/25

関心の赴くまま研究
発光キノコはライフワーク

1979年に緑色蛍光たんぱく質GFPの研究に区切りをつけた。2年前の77年には、ホタルの発光の仕組みをめぐる米研究者との6年あまりの論争にもようやく決着がついていた。プリンストン大学に私を迎え、長年苦楽をともにしてきたフランク・ジョンソン教授は、同じ77年に同大学を退職した。

私はその後、それまで17年間、最初の滞在を含めれば20年いたプリンストン大学を離れ、82年にマサチューセッツ州南部にあるウッズホール海洋生物学研究所に上席研究員として移ることになった。

同研究所は、米国の海洋生物学研究の中心ともいえる存在である。75年には昭和天皇が訪問された。普段は150人くらいの研究者がいるが、夏には世界各地から生物学者が訪問してきて、千人くらいの大研究所に変貌(へんぼう)する。私は2001年に退職するまでのやはり20年近く、ここを拠点に研究をすることになる。

オワンクラゲ発光の研究が終わった後は、関心の赴くままに、様々な発光生物を相手に研究を進めた。

カリフォルニア州のロサンゼルスとサンフランシスコの中間付近、シエラネバダ山脈の標高1500メートルあたりに、ヒカリヤスデと呼ばれる面白い生物がたくさんいる。そこにはレッドウッドという巨木が多く、雪が解ける5月になると、その根元あたりにヤスデがぞろぞろとはい出してくる。2回採集に行き、約1年かけて発光物質の研究をした。

それからウロコムシ。どこの海にでもいる体長2〜3センチメートルの小動物で、敵から攻撃されると、ウロコを2枚か3枚はがして逃げる。そのウロコが光るので、敵はそれに欺かれるというわけだ。ウミホタルの場合は、敵から攻撃されると、光る液体を出して自分が逃げるのだが、それとよく似ている。

海岸にいるクモヒトデも研究した。ヒトデの近縁で、豆粒のような形をした頭に、長さ5センチメートルくらいの細長い脚が5本ついていて、クモを連想させる。全身が光る。

発光キノコの研究は、80年くらいから始めた。ウッズホール海洋生物学研究所にやってきて、自宅を建てたとき、木を切って土を掘り返して造成した敷地一面に、色々な種類のキノコが生えてきた。

その中に発光キノコがあり、周囲の山を調べると、同じ種類の発光キノコが繁殖していることがわかり、夢中になって採集した。以来、発光キノコの研究は新たなライフワークになっている。

米国に来た当初にスウェーデンまで出かけて始めたオキアミの研究も、この時期に成果がまとまった。オキアミの発光物質であるルシフェリンは、精製方法が見つかるまで難航し3年ほどかかったが、その後の構造決定が後回しになっていた。

87〜88年に、名古屋大学の平田義正教授の紹介で、ハーバード大学の岸義人教授の研究室にいた中村英士氏とオキアミ・ルシフェリンの構造を研究した。中村氏とは同じ時期に、鞭(べん)毛虫類のルシフェリンの構造も研究した。

新天地でさまざまな発光生物を追い求めて10年あまり。その間に、オワンクラゲから得た蛍光たんぱく質GFPは、私が当初想像もしていなかったような発展を始めていた。


・・・・


カウンターイルミネーション
腹部を発光 上から降り注ぐ光量と同レベルに 調節する能力
それによりシルエットが消え
 




2017年12月24日 10時31分
「脱DNA宣言」
 
「知られている」という物事は どれくらいか・・
たくさん(ほとんど?)・・・・どうもなんだかあれですね 

(なにかの文章を拝読し) なにを思うのか とか   
まあ いろいろ


『わかる実験医学シリーズ/DNA複製・修復がわかる』
そんなものもあるようですが 


そんなこともあって そのすじは あれです



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脱DNA宣言―新しい生命観へ向けて― /新潮新書 232

第二章/それは膿から始まった/膿から発見されたDNA

人間は 日々様々な物質を体の外へ排泄する 19

怪我をしたときに出る膿

大きな擦り傷や切り傷などの場合 炎症を起こし
粘調性に富む液がにじみ出て「化膿」する場合がある

「膿」には 白血球が非常に多く含まれることが知られている

  現在DNAと呼ばれている物質は19世紀、なんとこの「膿」から発見されたのである。

  スイスの著名な生化学者エルンスト・フェリックス・ホッペ=ザイラー(1825〜1895)の下で研究を行っていた若き生化学者ヨハン・フリードリッヒ・ミーシャー(1844〜1895)は、ある時、近くの病院からもらい受けてきた使用済み包帯に付着した膿に含まれる白血球の核から、全く新しい物質を単離した。

  強い酸性を示すこの物質は、核(nucleus)に大量に含まれるという意味で、「ヌクレイン nuclein」と名づけられた。1869年のことである。

  ヌクレインには、これまで生物の体を作る元素としては見つかっていなかった「リン(P)」が大量に含まれていることがわかった。ところが、彼はこれをたんぱく質の一種であるとみなし、リンの貯蔵庫であると考えていたらしい(柳田充弘『DNA学のすすめ』講談社ブルーバックスより)。

  「たんぱく質」というのは、肉や卵、牛乳などに含まれる栄養素物質であることは確かだが、正確には「アミノ酸」がたくさんつながってできる比較的大きな有機化合物の総称で、私たちの細胞が活動する上で重要な物質である。様々な種類のたんぱく質が、細胞の内外で様々なはたらきをしてくれるおかげで、私たちはこうして生きていられるのだ。

  たんぱく質は、すでに19世紀前半から漠然としたものであったにせよ、確かに存在し細胞の重要な成分であることが知られていた。ミーシャーが、新しく発見したヌクレインをたんぱく質の一種であると考えたのは無理からぬことだ。

  正確に言うと、このとき「DNA」が発見されたのではなく、DNAを主成分とする今でいう「核酸」が発見されたというのが正しい発見なのだが、世界で最初にDNAを発見したのは誰かと問われれば、やはりそれはミーシャーであるといっていいだろう。

  当時は、何気ない排泄物にもいろいろな可能性があった。そして、そこから大発見が生まれたのである。
19−22


第一章/総理大臣のDNA/安倍晋造三のDNA より

…たとえば 2006年9月に誕生した安倍内閣に関連した「DNA」について
「立花隆のメディアソシオ‐ポリティクス」論説第85回目/日経BPネット サイトで連載
(小泉純一郎自民党総裁の任期満了に伴う総選挙で圧倒的優位が伝えられていた2006年8月末に原稿が書かれた)
「新総理、安倍晋三が受け継ぐ“妖怪”岸信介の危険なDNA」と題したもの

立花氏はその中で「DNA」という言葉を何回も用いている

  たとえば、安倍氏の憲法改正への強い意欲について、「これほど強い憲法改正への執念は、親子3代のDNAしからしめるところといったらいいだろうか」と述べているし、また「安倍氏は血脈において岸信介と安倍晋太郎のDNAを受け継ぐ者だが、血脈としてのDNA以上に、政治的DNAも受け継いでいるといってよい」とも述べている。

  そして最後に、「岸信介のDNA vs. 南原繁のDNA」という小見出しをつけて、両者の思想を受け継ぐ者同士が「本格的に対決しなければならない時代を迎えつつあるような気がする」と述べている。
13

武村政春/著



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最先端生物学で「常識」が大逆転! 「DNAがすべて決めている」なんて大ウソです――養老孟司氏。



脱DNA宣言―新しい生命観へ向けて―
武村政春/著

734円(税込)
発売日:2007/09/18

いまやDNAの天下である。個人の外見や体質はもちろん、性格や運命までもがDNAに支配されているかのような言説が幅を利かせている。しかし、実は最新の科学では、DNAの絶対的地位は揺らぎつつあるのだ。気鋭の生物学者がわかりやすくユーモラスに遺伝子の基礎知識からRNA研究の最前線までを解説。そろそろDNA至上主義から解放されようではないか。その先には新しくて自由な生命観が待っているのだから。

(・・・略・・・)


新潮社/脱DNA宣言―新しい生命観へ向けて―/武村政春 著
http://www.shinchosha.co.jp/book/610232/
 




2017年12月12日 23時33分
「光学顕微鏡的に観察できる八つの段階を経て進行する」減数分裂
 

1992
ヒトの遺伝学/エドリン
Gordn Edlin/清水信義 監訳

減数分裂

有糸分裂と異なる四点
1) 減数分裂は生殖細胞で行なわれ 体細胞では行われない
2) 減数分裂は配偶子に含まれる染色体の本数を二倍体の本数(2N)から一倍体の本数(N)に減少させる
3)相同染色体(遺伝子の直線的な並び方がまったく同じであるような染色体)が減数分裂の最中にぴったりと寸分違わずに並び対になるが有糸分裂ではならない
4)減数分裂の際に 対になった相同染色体同士は 遺伝情報の新しい組み合わせをつくるために組換えを行なう

 減数分裂の役割は,配偶子に含まれる染色体数を一倍体の本数(N)に減少させることと,植物または動物の二倍体の染色体数(2N)を世代から世代にわたって維持することである.もし,減数分裂がないとすると,生物のそれぞれの世代は前の世代がもっているおのおのの染色体数のちょうど2倍のコピー数をもつことになるだろうからすぐに手に負えない状態になるのは明らかである.むろん,染色体の数は種によって非常に異なっているが,植物でも動物でもほとんどの種は二倍体である.減数分裂に際して,どきどき間違いが起こる.そうなると特定の染色体が欠失していたり,あるいは重複していたりする卵子や精子ができてくる.そのような不完全な配偶子に由来する胚はしばしば重い欠陥をもっている.

  減数分裂は新しい個体を生み出すために,受精時に一緒にされる染色体の二つの組の一方だけを保持する以上のことをしている.減数分裂では,染色体は組換えによって,父親の染色体の組あるいは母親の染色体の組がもっている遺伝子の組合わせとは異なる染色体の一組を生じさせる.

  減数分裂は,光学顕微鏡的に観察できる八つの段階を経て進行する.初期の段階,すなわち第一分裂前期では,複製の終わった相同染色体の対同士は接近して並び対合(synapsis)として知られるプロセスを経て四分染色体を形成するために結合する.対合のすぐ後で,染色体の遺伝情報は組換えというプロセスを経て相同染色体間で交換される.組換えは乗換えともよばれる.(この術語を,遺伝的組成の異なる2個体間の交配をさす遺伝的交雑と混同してはならない.)この時期に,対になった相同染色体のDNA断片は物理的に交換され,最後には配偶子におさまることになる染色体の中に新しい遺伝子の組合わせをつくる.… 34-37

 




2017年11月26日 15時27分
「脾臓の過去」
 

生命とリズム/三木成夫
2013年/河出書房新社(元本/1996年 築地書館)

不可思議な斜陽臓器

 ひところ“斜陽”という言葉のはやったことがある。脾臓がペニシリンのおかげで、しだいにこの斜陽の臓器となりかかったのが、あたかもその頃のことと思われるが、今日ではもはやこの臓器の話はあまり耳にしない。つまり医学の世界でも、がぜん脚光をあびる問題と、そうでない問題が目まぐるしく変わってゆくものであるが、しかしこのような時の流れとは、やはり無関係に、脾の正体はいぜんとして謎であると思われる。

  ローマのむかし、ガレノスはこの脾臓のことを“神秘に満ちあふれた”といったが、今もってこの臓器の生いたち、すなわちその過去を知っている人は、誰ひとりとしていないのではなかろうか……。

  さて話が数年もまえに遡って恐縮だが、筆者が秋の講義の予習で、この謎の臓器について調べていた時、脾静脈が肝へ流入するようすにひどくひかれたことがある。とっさに、脾はむかし消化管の一要素としてできたものではないかと考え、さらにこれは、例えばパイエル氏板(腸扁桃)のようなものが胃壁からくびれ出してできた――“胃扁桃”みたいなものではないかと想像し、ひとりで興奮したものであった。

  そしてその翌年の春であったと思う、談たまたまこれに触れるや、恩師小川鼎三教授(当時東大解剖)がおもむろに両膝をのり出され、この私をまっすぐに指さされ、これまた興奮の反応を示されたものであった。ヒマラヤ雪男の足跡の、あの写真をご覧になられた時のことが想像されてくる。


脾と腸循環との仲

  私の研究はこのようにして始められたが、手はじめに原始脊椎動物の古い型の脾臓を調べているうちに――

(1)宗族発生的に、なるほど脾は腸壁からとび出してできる。
(2)脾が血管系に挿入された臓器であることは、一般の一致した見解である。
(3)しからば、脾は胃腸の壁の血管と深い仲をもって発生したものでなければならない。

  というわけで、この臓器の生いたちを調べるためには、どうしても胃腸の血管発生の経過を知る必要に迫られてきたのである。そしてこの時はじめて、どのハンドブックにも教科書にも、こちらの知りたい血管発生の説明は、ただの一行すらなされていない厳粛なる事実を知ったのである。つまり脾の由来を筆者のような観点から調べようとしても、それは現状ではできない相談であることがわかってきた。

  さて浦良教授の名前は『実習人体解剖図譜』を通して、おそらく50歳未満の方であれば、たいていご存じのことと思う。しかし同教授が、この血管発生に関してなしとげた歴史的な業績を知る人は少ない。それは今世紀初頭、哺乳動物の米粒のような胎児の血管に、欧米の学者たちがこぞって色素の注入を試み、すべて、さんたんたる失敗に終わったことがあったが、同教授は半世紀ののち、大戦のさなかから今日まで、両生類・魚類はおろか、ヤツメウナギのけし粒のような幼生の血管にまでその注入を成功させ、しかもそれらを系統的にピンセットで「解剖」して血管形成のルールを徹底的に追究したのである。それは神経学におけるカハール以上の成果と思われる。

  さて話がもどるが、その年の夏の学会のひととき、筆者の考えを即座にのみこまれた浦教授は「自分は脾との関係をあまり追跡しなかったが、しかし有尾両棲類で調べると君の考えはたちどころに証明されるだろう」と予言され、オオサンショウウオ(中国山地蒜山 ひるぜん 原産)の注入標本をまことに惜し気もなくくださったのである。 241

(腸管二次静脈を産み落とす 241-242)

(古生代の夢の再現 242-244)

(造血の古都 244-245)




・・

といった あれだそうで (記入未定)


11.26?昼 入園時に受付のあれな対応に 冷や水一滴(一喝)

オオアマナについて質問をした方・・気になっておりましたが
延延のようでしたら どこかがまた枯れてしまいますので

・・考えねばなりません   本当に疲れます

その後 うちこみ でした



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胎盤が「老化する」「古くなる」って本当?

mamatenna 2017年12月6日 05時58分 (2017年12月6日 07時15分 更新)
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“Tの想い 1992” 2016.3.10

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