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2019年2月10日 13時26分
特異なマユ
殆どそこで記入
上野/10午前11:04:20 撮影

11 少々足しました
🌫

『天の虫 天の糸』より

(12〜)
【煮た繭を広げる真綿掛け。極上の繭は力も必要。】

 使い込まれた木桶にはたっぷりお湯が張られていて、ふやけた数十個の繭が浮いている。その桶の縁に両手を固定しながらクルクルと繭を広げていく佐藤米子さん。この道50年の大ベテランである。

繭を広げる口はない

  繭の真ん中から親指を入れて、お湯の中でほぐしているうちに蛹が見えてくる。それを裏側から押すようにしてつまみ出し、最初は指で広げ、徐々に手を入れて、両手の甲を使って内側から押し広げるように3回ほど回転させると、あっという間に頭に被れるほどの大きさの袋ができあがる。途中「ギュッギュッ」と繭糸同士がこすれる綿鳴りの音。完全した袋真綿は薄い膜のように手の形をそのまま透かし、水から上げてピンと張ると、その濡れて光る様子はまるでフロストガラスだ。
12

木桶の中の繭
重曹を入れた湯で2時間ほど煮る
蚕が繭をつくるときに接着剤となるニカワ成分=タンパク質/セリシンを取り柔らかくする

昔はそれぞれの真綿掛けのおばちゃんの家で煮ていた
今は真綿問屋が煮て 朝 その人ができる分だけを配って回った

翌日に持ち越すと傷んでしまう
特に夏場は手早く作業をしないと 昼過ぎには悪くなってしまう 12

  今日佐藤さんが掛けているのは、蛹が羽化しないように生きたまま冷蔵保存してあった生繭(なままゆ)と、長期保存できるように熱風で完全に乾燥させてある乾繭(かんけん)が半々に混ざっている、中くらいの真綿である。それに対して生繭100パーセントの「生掛け」は極上クラス。生掛けの真綿からつくる糸はなんといっても強い。結城紬は経糸にも手紡ぎ糸を使い、しかも糸に撚りをかけないので、糸の丈夫さがものを言うのである。丈夫であれば糸を細くできる。一本が細ければ細いほど経糸の本数を多く、密にすることができる。そして、それだけ細かい絣が織れる。糸の強さは反物の価格にそのまま反映されるというわけだ。

繭を冷蔵保存できなかった時代には
生掛けの真綿はとても貴重だった

蚕は繭をつくってから10日ほどで蛾になり出てきてしまう

2006年春 千葉の養蚕農家から保原に届けられた初のプラチナの生繭は すべて佐藤さんの手で生掛けされた

プラチナは繭が薄い

  通常1枚の袋真綿には、繭5個分を広げて重ねるが、プラチナの場合は繭が小さく薄いので6個から7個必要になるという。そうするとその真綿1枚から同じ太さの糸を引いても、通常より1本に含まれる繭糸の本数が多くなるので「強くなる」ということだ。

  でも、生繭は強いのでお湯の中で広げるときに力がいるらしい。乾繭は、乾燥させるときに中の蛹の脂分が繭に付着して添加されるので、繭自体が「なめこく」なって、やんわりとした風合いに仕上がるが、「生は締まっていて引きにくい。だから手が切れちゃう」。佐藤さんは伸ばす時に袋の縁がちょうど当たる小指の付け根の外側をなでさする。

「あれは強いから光沢が出んなぁ、と思ったの。真綿で首を絞められる、って言うけど、柔らかそうだからすぐプツッと切れるかと思っても切れないんだよね。あれ、本当に締まるんだ。」佐藤さんは同じリズムで淡々と袋真綿をつくりながら笑った。
13


【織元としての縞屋。真綿を糸にする糸問屋。】(29〜)

  糸が細いと全体に使われる真綿の分量が少なくなるので、薄く軽い着物ができる。紬というと、やや厚みがあってブツブツと糸の節があるようなイメージを持っていたが、本当に上質の結城紬は羽二重のように薄く滑らかなのだそうだ。

細く平ら(均一)に引ける人が年々少なくなってきた
「それから糸は取る人によって白く上がる人と、若干汚れる人があるんですよ。なるべくツバ(唾液)で引いてくれ、って言うんですけど、年を取るとだんだんツバも出なくなるらしいんです。そうすると横に水を置いておいて、半分くらいは水をつけて引くようになる。水によっては鉄分が多いと黄ばんできたりするんですね」(水野)
32


【少なくても、好きなものを思いを込めてつくりたい。】(73〜)


【固定概念に疑問。化学染料なら、何色だっていいのでは?】74〜

  で、プラチナで何を織るか。実は田畑さんはもう心に決めた色と柄があって、実験的に織り始めていた。和室の縁側に置かれた機にかかるその反物は、なんとわさび色とエンジがかったピンクの格子柄! 縦縞と横縞が交差する四隅に小さな絣がポツポツと光って、女ものにしてもよさそうな、いやワンピースにしてもよさそうな明るいチェックである。

「ほら、貴乃花が宮沢りえとの婚約会見でピンクの着物だったでしょ。あれを見た時、やっぱりこういうのを着たいと思っている人もいるはずだ、と確信したんですよ。羽織の下にピンクっていうのもいいじゃない」

  そう言われてみれば、グレーのスーツに淡いピンクのシャツを合わせるひとがいるんだから、男ものの着物にピンクやオレンジがあってもいい。

  絣の色を泥か白か藍に限る必要はない、と田畑さんが思ったのは、白大島の絣が泥ではなくて化学染料の黒で染められることが多いからだ。泥じゃないなら黒である必然性はない。田畑さんは「ほら、見て」と、奥から白大島用の糸を持って来て見せてくれた。糊張りされた2種類の糸は一つが真っ黒で一つが真っ白。この先染めされた真っ黒い方の糸を括って防染し、括られていない部分を抜染して白泥で白く染めると、括ってあった黒いところが絣模様となるのだという(何度聞いても頭がこんがらがる)。

「ね? この黒は泥でもなんでもないんだから、何色だっていいじゃないか、と思う。絣はなんで十字じゃなくちゃいけないんだ、なんで黒じゃなくちゃいけないんだ、って、誰もそれを疑問に思わないのが不思議」

  大島はこういうもの、という固定概念が、消費者以上に産地の側にあるようだ。泥大島だから売れるのか、黒いから大島紬なのか。
75


【昔の技術に自分ならではの何かを足し、それを次に伝えたい。】(93〜)

例えば「うずらぎ小紋」縞の面白さは 地の光沢をわざと抑えて縞を浮き立たせるところにある
93

絹の光沢を消すのに使われているのは 卵の白身
縞を付けるときはふつうの糊を使い
地を染める時に卵白入りの糊を使うと縞の部分だけが光って凹凸ができる

「陽の光を当てるともっとよくわかる。表を歩くと何ともいえない味が出る」(藍田)
いったい何をきっかけに卵を入れることを思いついたのか というと 「ヒゲをそってて」
「ほら、よく血がシャツにつくとタンパク質が固まって落ちにくくなる、って言うじゃないですか。じゃ。いっぱいタンパク質入れちゃったらどうだろう?って。絹もタンパク質ですからね。それで卵を使ったらどうか、と。黄身を入れると黄色くなっちゃうから、白身だけにしてやってみたらこんな風に艶消しになったんです」

「うずらぎ」の名は ウズラのヒナが成鳥になって羽が生えそろった頃の「恋をする時期の美しさ」から来ている
96

『天の虫 天の糸』繭からの着物づくり
2007 長町美和子
 




2019年1月12日 18時31分
現実味
画像 2-11のほう
水道歴史館を出て すぐに撮影
(2019/01/14 午後4:22:20)


1.22 😔 (一応加筆) (3とか1とか)
ある面 そこはそこでしょう けれども

(その二つの数字(だけ)を持っていかれて)
狭い問題にされても‥どうなんでしょう

あるいは 自分の持ち物(片付けもの)なのに
持っていかないとか
(他人(の物)に) ぶらさがる しがみつく とか

おしつける なすりつける とか もう下品
「ハンド イン キャップ」的にも ねえ


◦◦◦◦◦◦◦◦◦◦◦
2(わたしは)『これですくわれました』
◦◦◦◦◦◦◦◦◦◦◦


《櫻井ジャーナル》
シリアで敗北しつつある米国はイラクにいるイスラ工ルの傀儡と接触 2019.01.12
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901120000/

中東の支配構造が大きく変化する中、混乱するアメリカ支配層 2019.01.11


  ◦◦◦◦◦◦◦◦◦◦
12 19


〜アメリカによるテロの犠牲になった人びとに捧げる〜


『テロ帝国アメリカは21世紀に耐えられない』2005
櫻井春彦

見返し部分の きき紙と遊び紙の間
読者への追伸 (2005年8月) (P1-8)より

【無視されたテロへの警告】5-6
 アメリカで権力抗争が激しさを増していた7月7日、G8サミットが開かれていたイギリスで大きな事件が起こった。ロンドンの地下鉄などが爆破されたのだ。

 事件の直後、APはショッキングなニュースを伝えている。爆破の数分前、ロンドン警視庁はイスラエル大使館の保安担当者に対し、「テロ攻撃」に関する警告を行ったというのだ。

 当時、ロンドンに滞在中だったイスラエルのベンジャミン・ネタニヤフ財務大臣はグレート・イースタン・ホテルで開かれる予定の会議に出席することになっていたという。このホテルは爆破されたリバプール通り駅の近くにあった。警告があったのは爆破の後だと、イスラエルは主張しているが……。

 アメリカでは事件直後、フォックス・ニュースのホストを務めるブライアン・キルミードとビジネス担当のスチュアート・バーニーは「フォックス・アンド・フレンズ」という番組の中で爆破事件を歓迎していると受け取れる発言をしている。地球温暖化やアフリカ支援問題ではなく、テロリズムこそが最優先テーマだということをG8は知るべきだというのだ。思わず本音が出てしまったのであろう。

 その後、ロンドンのモスク関係者は二年前にイスラム過激派の動きを警察に警告していたとする話が報道されたほか、さらにサウジ・アラビア政府からイギリス政府に対して「テロ情報」が今年初めに伝えられていたとも、イギリスの「オブザーバー」紙は伝えている(8月7日付)。「オブザーバー」紙の報道を否定する発言が後に出てくるが、誤報だと決めつけることはできない。

 また、フランスの内務大臣ニコラス・サルコジーは爆破事件の「容疑者」が2004年に逮捕され、その後釈放されていると発言して、イギリス政府を慌てさせた。この話が正確かとうかは不明だが、少なくともフランスの内務大臣は眉につばを付けながらロンドンの事件を眺めていたであろう。

 2001年9月11日の旅客機による体当たり攻撃のケースでも、事前に警告があったとする情報が流れている。米軍特殊部隊の情報部隊(エイブル・デンジャー)が事件の一年前、アル・カイダに所属すると見られるグループ「ブルックリン細胞」を見つけていたとする話もここにきて広がっている。そのグループにはハイジャック犯のひとりとされているモハメッド・アッタも所属していたというのだ。

 この話を最初に指摘したのはアメリカ下院のカート・ウェルドン議員。今年6月のことである。その時は注目されなかったが、8月になって報道されるようになり、この情報の真偽を確認するように要求する声も高まった。

 FBIの「テロ活動」に対する姿勢に疑問を投げかける出来事も起こっている。FBIや空軍に「9.11」との関係が疑われるスパイがいて、翻訳作業が遅らされ、盗聴記録の一部は翻訳されていないと告発したシベル・エドモンズが解雇されてしまったのである。

 エドモンズはFBIで翻訳を担当していたが、告発の直後、彼女は自分のコンピュータを押収されたうえ、ウソ発見機にかけられ、解雇されてしまったのだ。エドモンズとアメリカ政府との戦いは現在も続いている。

【検察官の暗殺】 6-7
 キリスト教原理主義のテレビ宣教師パット・ロバートソンがベネズエラのチャベス大統領を暗殺すべきだとテレビ番組の中で主張したそうだ。アメリカは「テロ国家」だと私は考えているので、この発言に関して特に驚きはしない。本音が出ただけのことであろうと思う。

 ところで、この出来事に関連した興味深い事実を日本のマスコミは報道していない。それは、この事件を調査していたベネズエラの検察官ダニーロ・アンデルソンが昨年11月にカラカスで暗殺されたことである。

 2002年のクーデター未遂事件の背後には、エリオット・エイブラムズ(現在はブッシュ大統領の特別補佐官として中東問題を指揮)をはじめとするネオコンが存在していたと伝えられているが、ダニーロ・アンデルソンは事件に関する詳しい情報を入手、黒幕はCIAとモサドだと考えていたようだ。

 アメリカでは報道によると、アンデルソン暗殺後、ベネズエラ当局はユダヤ教系の学校を家宅捜索したという。その延長線上にロバートソンの発言があったと言えよう。言うまでもなく、アメリカのキリスト教原理主義者はリクードと同盟関係にあり、モサドはリクードときわめて緊密な関係にある。2002年のクーデター未遂事件とベネズエラの検察官暗殺にCIAとモサドが関係している疑いが濃厚なのだ。

【米国のファシズム化】7-8
 こうして見ると、アメリカの情報機関や捜査当局は「テロリスト」に対しては甘いように思えるが、ある種の人びとに対しては情け容赦なく襲いかかる。そうしたターゲットの象徴的な存在がニューヨークの弁護士、リン・スチュワートだろう。今年2月に有罪の評決を受けている。

 1993年にニューヨークで起こった貿易センター爆破事件で逮捕されたオマール・アブドゥル・ラーマンの「国選弁護人」を務めたのがスチュワート。その後ラーマンは終身刑を言い渡されて1996年から服役している。控訴が棄却された後も、彼女は盲目で糖尿病の服役囚の刑期を軽減し、故郷のエジプトへ身柄を移そうと努力していた。

 ところで、スチュワートの「罪状」は、ロイター通信への囚人のメッセージを伝え、囚人が弁護士補助員とアラビア語で話しているときに大声を出して盗聴を妨害したというものだ。アメリカでは現在、SAM(特別行政措置)により、弁護人と依頼者(クライアント)との会話は事実上、無制限に盗聴が許されている。だが、スチュワートの「罪状」としてあげられた「大声を出して盗聴を妨害した」というような行為によって、「テロ行為」が誘発された事実はない。

 アメリカの情報機関や捜査機関は戦後、「テロ対策」の名目で平和運動をはじめ、人権活動家や環境保護団体を監視してきた。今年8月2日には、アメリカ市民の人権や自由を守る活動しているACLU(アメリカ市民自由連合)が、FBIのJTTF(統合テロ特別対策本部)を非難する声明を発表している。平和的に行われてきた市民活動を「国内における潜在的なテロ活動」だと見なし、監視していると抗議したのだ。

 2005年7月18日付の「ニューヨーク・タイムズ」によると、FBIが保有する文書の中には、ACLUに関するファイルが1173ページ、環境保護団体のグリーンピースに関するものが2383ページも含まれているという。

 「自由と民主主義」を標榜する国・アメリカで、憲法で保障されているはずの権利や自由がますます制限され、ファシズム化が進んでいることをはっきりと物語る出来事である。

2005年8月



【あとがき】より

(冒頭)
 アメリカを「自由と民主主義の国」と呼ぶことはできないとあらためて思う。民主的な考え方をする多くのアメリカ人がいることは事実だが、そうした人々の声を封殺するためのシステムが存在していることも否定できない。

 第二次世界大戦が始まる前からアメリカでは親ファシスト勢力がエリートの内部で大きな影響力を持ってきた。反対勢力の追及を乗り切った彼らは1970年代後半、イスラエルの軍事強硬派であるリクードに接近し、アメリカはファシズム化が急速に進んだ。

 ファシズム化を推進している権力グループが1980年代以降、最も力を入れているのが、情報、心理
、思想の戦いである。情報を操作することで国民の意識をコントロールしようというわけだ。 415


(中盤) 
ブッシュ・ジュニアをはじめとする
「キリスト教原理主義者」
「彼らの目にはイスラエルしか映っていない」 415

 この宗派の指導者たちがイスラエルを崇拝しはじめるのは1967年のことだと言われている。泥沼化したベトナム戦争から抜け出さずにもがいていた時、アラブ諸国を六日間で敗北させたイスラエルの魅力に魅了されたのだ。1970年代に入ると宗派全体がイスラエルとの関係を強めている。 416


こうした人々は、武力を行使するために必要な戦費をどうするかを考えていない。 417


(後半部)


  ◦◦◦◦◦◦◦◦◦◦◦
14

「三一文化」

topics
◦pdf 新たなスタートをした三一書房をよろしくお願いいたします
社名由来

1986年-東京本社社屋移転(文京区本郷2-11-3)
2011年6月-三一書房臨時株主総会で出版部門の免責的事業譲渡が決議。出版部門の免責的事業譲渡により、従業員に労働債権と引き換えに三一書房が譲渡された。
(現在 神田神保町三丁目)
Wikipedia


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櫻井春彦『アメリカ帝国はイランで墓穴を掘る』2007 より

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13

勝手に翻訳してくださる機能というのは
ありがたいもの‥  どこかでは 一瞬で‥‥

‥ん? 日本語 → 日本語 というのは何でしょうか

「アメリカ帝国はオランダで墓地を掘る」に変わり‥


二カ国語(以上)まぜこぜページだから とか?


 




2019年1月2日 16時24分
「吉野ヶ里」の絹の特色 など
 
1.5 背景変更
▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️
3〜5

日本茜 貝紫 (tezomeya)
▫️
アカニシで貝紫を染めてみた
貝紫(チリアンパープル)
オウウヨウラクと工ゾチヂミボラでも貝紫を染めてみた (結晶美術館)
▫️▫️
うんげん【繧繝・暈繝】/コトバンク
ぼかしによらず、同系統の色を淡色から濃色に並列して色彩の濃淡の変化をあらわす彩色法。紅・青・緑・紫などの色を多く使う。朝鮮の古墳壁画などに見られ、奈良前期に日本に伝来、建築・工芸・仏画などに用いられた。繧繝彩色うんげんさいしき

▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️▫️

(『倭人の絹』1995)
吉野ヶ里遺跡の織物の特色

1989年5月に調査
吉野ヶ里丘陵地区SJ1002甕棺墓
(墳丘墓の中央甕棺よりやや西側にある)
(弥生中期後半)
(はじめ中期中葉とみられていたが後に訂正された)
出土した把頭(つかがしら)飾付細形有柄(ゆうへい)銅剣(長さ44.5センチ)の柄と剣身の一部に付着する織物30数片

丘陵地区SJ0135甕棺墓
(墳丘墓の南西約200メートルのところにある)
(弥生後期初頭)
イモガイ製腕輪(径7.5センチ)ならびに人骨とともに出た約30片の織物のなかの20片について

SJ0135甕棺墓の場合は極小片のみを対象としての調査であり十分な成果が得られなかったこともあり
同年9月と10月の東京 福岡 奈良県橿原市での展示会終了後
1990年の6月になってからその全部を送ってもらい 再調査を行うことになった
SJ0135甕棺墓の出土品については二度の調査行ったことになり
1989年の調査は予備調査的性格のものとなった 83

両墓出土の織物を分類すると合計13種
SJ1002甕棺墓が絹三種類と麻一種類
SJ0135甕棺墓は絹七種類 麻二種類

調査対象となったのはいずれも遊離状態のもので
大きさは 小さなもので数ミリ
大きなもので数センチ程度
何層かに重なったものが多く
なかには塊状になったものもある

「いずれもきわめて脆く、崩壊しやすい状態であり、麻のごときは、一見生々しくはみえるが、ツイスト・テストを行おうとしてもまったく旋回してくれない。このように脆化度が著しいのは、棺内がかなりの乾燥状態にあったことをあらわしている。」

調査の結果
当遺跡のものが他の弥生遺跡のものに比べて
かなり相違していることがわかった

弥生遺跡では
一つの甕棺から出る絹製品は一種類がほとんど
まれに二種類を出す場合がある
吉野ヶ里遺跡では 一甕棺から多種類を出した 84

 他の弥生遺跡から出る絹に、目の詰まったものと透目(すきめ)のものとがあり、前者は金属器等に付着して出る場合が多いのに、後者はすべて人骨に付着している。それに対して当遺跡の絹は、ほとんどが透目のものである。やや目の詰まったものもあるが、それはわずかにすぎない。しかも、透目絹のなかには、一見して染色されているとみられるものがいくつかある。

 染められていないものは、遺体を覆うか、帷子(かたびら)として着せられていたものである可能性が考えられるが、染色されたものは、被葬者が生前に愛用した衣類である可能性が濃い。 〜86

 前田雨城らの研究グループは、当遺跡の絹の染料について最新の機器による非破壊分析(分光蛍光光度計による測定と解析、とくに三次元蛍光スペクトル測定に重点をおく)を行った。

調査した織物の写真と照合した結果

SJ0135甕棺墓の1989年の調査での織片No.16の絹からは日本茜と貝紫が
同墓の1990年の調査でのNo.20(No.17と同類とみられる)の経糸(織目の長辺にあたる)から日本茜が 緯糸(同短辺にあたる)から貝紫が検出され

SJ1002甕棺墓のNo.3片の経糸(平行に走る長い糸は緯糸とみられ それと直角に走る経糸はわずかに点々とみられる)から日本茜 緯糸から貝紫が検出された

この2色以外の染料は検出されなかった

これらの織物はあまりにも小片であるために
模様の有無についてはまったくわからない

 前田氏は、右のNo.3の織物を錦らしいという。この織物はやや透目ではあるが織糸は比較的太目であるところから、錦を感じとったものであろう。

 ただ通常、錦といえば三色から九色までの色糸が
使われている紋織物と思っていた私には、わずか二種類の色糸しか使われていないものがはたして錦といえるのかどうか、いささか疑問に思われた。と同時に、もしかすると、ニシキということばは、二色(にしき)からきているのではなかろうかとも考えた。 88

錦の定義について調べてみると
『説文解字』は「襄邑じょうゆう織文也」と記し
『釈名』には「錦、金也、作之用功重、其価如金」と

「様々の色糸を駆使して文様を織成した彩帛の総称」
佐々木信三郎

国語辞典類をみると
「金銀糸及び種々の色糸でいろいろな模様を織り出した、美しい厚地の絹織物」(『古語大辞典』小学館1983年)
「数種の色糸で地組織と文様を織り出した織物」(『日本国語大辞典』小学館1975年)
などと記す

その語源について『日本国語大辞典』は
(1)丹繁にしき
(2)丹敷にしき
(3)丹白黄にしき
(4)丹染にしむから転化
(5)丹糸綺にしき
(6)直数金ねすきから転化
(7)虹絹にじきぬの約
(8)二色にしき
(9)丹青土にしきで摺ったもので しきは太敷とも太知とも通ず
と記している 88

 たしかに二色(にしき)説がある。その出所は『和語私臆鈔わごしおくしょう』(本寂ほんじゃく著、寛政元年〔1789〕)である。そこで『和語私臆鈔』をみると、錦は二色にしきであって、赤白の二色をいうが、広くは種々の色がある、という。二色の種類までは規定されていないから、日本茜と貝紫でもよいわけである。ただ『古語大辞典』のほうには厚地の絹織物としており、常識からしてもそのとおりであろうと思われるところから、明らかに透薄なものとみられるNo.16とNo.20ははずさなければならない。しかし、当時の人々が、このように透薄なものをも含めてニシキと称していたかもしれず、ほんとうのところはわからない。

 ここで参考までに付け加えておきたいのは、『周礼しゅらい』「考工記」に「青与赤謂之文、赤与白謂之章、白与黒謂之黼、黒与青謂之黻、五采備謂之繡」とあるように、古代中国では黼黻(ほふつ)文章注一を刺繡する場合に、二色を用いることが多かったということで、錦にあっても二色で構成されることが多かったのではないかと思われ、そうした影響がわが国にも及んだのであろうことは十分に考えられる。

 ニシキは明らかな日本語でありながら、二色にしきの読みは呉音ごおんである(漢字ではジショクになる)。このことは、その命名者が呉系の人であったことを暗示している。あるいは、呉系の渡来者が名付けたものかも知れない。

 福永光司氏によれば、当時の中国では紫色が重んぜられるようになり、宮廷や高級官僚の衣服等にも用いられるようになる。そして、赤は繁茂を意味する色とされたという。氏はこれを道教哲学によるものとみる。吉野ヶ里の絹に日本茜と貝紫が用いられているのも、その源流を中国に求めることができるのかもしれない。 89

 問題は文様である。No.3の文様について前田氏は、雲繝(うんげん)注二ではなかったかと想像するが、私はむしろ三角文(鱗)を想定したい。

 いずれにせよ、これが錦であるとすれば、そこから得られるイメージはいたって素朴なものであって、あたかも日本の錦の原点に遭遇したような気がする。

 なお前田氏は、吉野ヶ里遺跡の麻布からは、何らの色素も検出されなかったという。

「SJ013甕棺墓のなかにあった幾多の透目絹なかには、他の弥生遺跡ではみられなかった繊細優美なものがいくつか含まれている」 90

 当遺跡出土の透目絹のなかには、粗末なものもあれば、繊細で整然と織られている高級品もある。そしてそのほとんどは、折り密度が粗く、繊維断面計測値(完全度と面積)が小さい。これらは、組織・外観等の点から、日本製とみられる。前田氏らによって、それらから日本茜が検出されたことは、それらが日本製であることを雄弁に物語っており、こうした高級品を織れる技能者が吉野ヶ里にいたものと思われる。

 当遺跡の絹は、繊維断面計測値からみて楽浪系蚕品種(三眠蚕)のものと思われる。当時、吉野ヶ里のあたりでは、その種の蚕を飼い絹を織っていたと考えられる。

 したがって、当時、吉野ヶ里の人々と楽浪との間に交流があったものと思われる。しかしまた、透目の絹が多いことは、華中方面の古代絹(馬王堆一号漢墓のものや、京都嵯峨清凉寺の宗絹など)のなかに透目のものが多いことからすると、華中的ともいえる。したがって、華中方面との交流もあったと考えたい。 91

SJ0135甕棺墓出土の透目絹の繊維について
走査型電子顕微鏡検査(撮影は京都工芸繊維大学小西教授による)を行った

繊維の側面に 経年による劣化をあらわすとみられる粒状構造が観察された 91

劣化の程度は比恵ひえ遺跡(福岡市博多区/弥生中期前半)のものほどは進んでいない
このことは保存状態が良かったことをあらわしている 92

 SJ1002、SJ0135の両甕棺墓からは麻布が出土した。材質は大麻である。このことは、従来、弥生遺跡の甕棺内から多くの絹は出たが麻布を出した例がないことからみて、異例のことといわなければならない。

両甕棺墓の大麻布はいずれも織り密度が30×20
細密なものであることから高度の績糸(せきし) 織布技術をもっていたことがうかがえる

「当時の織機としては、本遺跡出土の透目絹のなかにはきわめて整然と織られているものがいくつかあることから、おさをもつ絹機きぬはたのようなものがすでに導入されていた可能性が考えられる。しかし、まだ無機台貫刀抒機むきだいかんとうじょきも多く使用されていたであろう。布の場合は、倭国のほとんどがまだ無機台貫刀抒機の段階であったと思われるが」

吉野ヶ里のあたりでは「すでに古式布機を使用する者もいたのではないかと思われる」 92

注一 美しい色どりの模様。白と黒の斧型を黼、黒と青の両弓あるいは両己の字の相反するを黻、青と赤を文、赤と白の模様を章という(諸橋轍次『大漢和辞典』による)。
注二 雲繝錦をさす。つまり、同系の色を順次ぼかしであらわした彩色を三重以上に重ねた文様をもつ錦の意。



繊細優美な透目絹

 吉野ヶ里遺跡出土の透目絹のなかには、やや粗末とみられるものと、繊細優美なものとがあって、これまでに他の弥生遺跡から遺骨に付着して出た透目絹はすべて前者に属する。後者に類するものは、これまでにみられなかったものである。

繊細優美な薄物のことを記した中国古典(たとえば)
(1)「背の高い美女荘姜そうきょうは、道では錦を着てその上から薄物の綟織もじおりをまとっていた」(『詩経しきょう』衛風えいふう/硯人せきじん)
(2)「錦を衣て絅けいを尚くわう、其の文あやしきを悪にくむ也」(『中庸』)
(3)「曹洪が大酒宴を催し、女芸人に羅や縠こくの薄衣うすぎぬを着せて蹋鼓とうこ(鼓をふみながら踊る一種の舞)をさせたところ、一坐の者が皆面白がって笑った。その時に楊阜ようふが声を激しくして、何で満座の中で裸同然の女が……と、曹洪を叱責した」(『三国志』の『魏書
』「楊阜伝」)
(4)「霧縠を動かして軽やかに歩む」(戦国楚の宋玉「神女賦しんじょふ〔『文選もんぜん』一九〕」)
(5)「繊縠は蛾のようにひらひらと空中を飛び、舞い上がって千切れそうになる」(後漢の傅毅ふきの「舞賦ぶふ」〔『文選』一七〕)
(6)「紗縠の単衣ひとえの衣を着た」(『漢書かんじょ』「江充こうじゅう伝」)
(7)「霧綃むしょうのような軽い裾を曳く」(曹植そうしょくの『洛神賦らくしんふ』〔『文選』一九〕) 93

諸例にみえるなかの
(1)の綟織は紗をさすと思われ
(2)の絅は単衣もしくは薄物の意で織物の種類を規定していない
(3)の縠は縮緬ちりめん
(4)の霧縠は霧のようにみえる薄い縠
(5)の繊縠は繊細な縠
(6)の紗縠は「紗と縠」というよりも「紗のような縠」あるいは「紗と縠を合わせたような透薄な織物」の意をもつ一語として解したい
(7)の霧綃は霧のような縠とみられる

以上の諸文にみられる縠は 厚いものではなく
繊細透薄なものを指している 94
↑3〜5
↓2 (16:24:56保存) (6手入れ)
 透薄な織物を身に纏うことは一種のオシャレとして古今東西を問わず、主として上層人や舞人たちの間に広く行われた。その材料としては、古代エジプなどでは亜麻(あま)が主体であったが、欧州や東洋では絹が主として用いられた。
↓3 (17:44)
 C.J.ソリヌスのPolyhistor(1864年刊)に、「ローマ時代の人々に透き通るような薄絹が愛用された。はじめは女、そしてやがて男までが、絹で肌を覆うというよりは肌を露あらわすようになった。これは淫らな欲望によるもので、風紀を損なうものだ」といっているのは欧州での例であるが、わが国でも「(源氏の君が)うす物の直衣のうし・単衣ひとえを着給へるに、透き給へる肌つき、ましていみじう見ゆるを、年老いたる博士どもなど、遠く見たてまつりて、涙をおとしつつ居たり」と、『源氏物語』「賢木さかき」にみえている。 94
↓6
これらはじかに肌に着けた場合の例

吉野ヶ里のSJ0135甕棺の女性の場合は
おそらく大麻製の衣服の上から
日本茜や貝紫で染めた透薄な紗縠を着用したものと思われる

このように透薄なものは傅毅「舞賦」に表現されているように
軽く舞い上がって千切れそうにみえたであろう
(原文は「繊縠蛾飛、粉ぴょう若絶」)

この種の織物の技術は中国に学んだものとみられる

SJ0135甕棺出土の(図36-Fの)織物は淡い赤色のもの
もとは赤く染められていたとみられ
拡大してみても経糸と緯糸の関係がよくわからず
経・緯の交叉点においてどちらが上でどちらが下なのかはっきりしないところがあるにしても
経糸が二本ずつ並んでいるのは 二つ入りの筬を使って織ったもののようでもある

 しかし、よく観察すると、二本並んだ糸が揃って対向糸を跨いでいる箇所があるところから、併糸(へいし)されているものとみられ、箇所によっては併糸にさらに緩やかな撚りのかかっている様子もみられる。交叉点で捩られているようにみえるところもあるが、実際はそうではないようだ。経糸のあるものは右に緩く撚られていて、かなり顕著な立涌文(たてわくもん)のような弯曲がみられる。これは透目縮緬などによくみられる形態であって、このことと、繊維の経年劣化による繊維表面の崩壊が進んでいることによる経緯交叉点での変形(接触面での融着もしくは相互食込み)とのために、組織の外観がきわめて不鮮明なものになり、比較的単純な組織でありながら複雑にみえてくる。

 この織物は透目の縠の類とみられるが、透目であるがゆえに粟粒(あわつぶ)状のシボは消え去って、その代わりに糸の顕著な弯曲があらわれている。

 馬王堆一号漢墓の素紗禅衣(そしゃたんい)は、経糸が弱撚、緯糸が強撚されていることよりみて、これも紗縠というべきであろう。 95

京都嵯峨清凉寺の釈迦如来立像胎内から出た絹片のなかに、この織物と似たものが一つある。その品も、よくみると、経・緯ともに併糸され、それぞれ右に緩く撚られていて、緯糸に著しい「立涌文」様の弯曲がみられる。この織物も透目の縠といってよいであろう。今日のシフォン(chiffon)と呼ばれる経緯縮緬にいくぶん似ているが、見方によっては紗に似たところもある。

したがって(図36-Fの織機同様に)清凉寺の織物も
紗縠と呼ぶにふさわしいものである

清凉寺の釈迦如来立像は985年に宋国大州(浙江省)において製作されたものであるから、その胎内から出た絹帛(そのほとんどは透目絹)もまた華中の産に相違ない。SJ0135甕棺墓出土の絹がほとんど透目のものばかりで、その中に清凉寺のものと似たものが含まれていることは、吉野ヶ里の絹の織技が華中方面の影響を多分に受けていることを暗示すると同時に、SJ0135甕棺墓の被葬者が女性とみられることは、透薄な絹が、当時のとくに女性に好まれたことが知られる。これらの紗縠を織った人たちは、あるいは華中方面からの渡来人かその子孫であったのかもしれない。同甕棺出土の繊細透薄な絹は、いずれも軽く舞い上がるようなものであるところから、いわゆる羽衣はごろも伝説にあらわれる羽衣(天女がこれを着てはじめて空中を飛翔できたという)は、おそらくこの種の織物を想像してのものであろうと思われる。 96


邪馬台国の絹との違いが意味するもの

『魏志』「倭人伝」にあらわれている邪馬台国の繭糸製品の種類については、倭女王から魏帝への献上品によって、倭錦わきん、異文雑錦いもんざつきん、縑けん、錦、帛はくがあることが知られる。このほかに綿衣わたいれがあるが、これは縑、帛(ただの平絹ひらぎぬ)、錦などを用いて作った袷あわせの衣の間へ綿まわたを入れたものであるから、これによって加わるのは綿だけである。

 一方、吉野ヶ里の場合は、SJ1002、SJ0135両甕棺墓を合わせて、錦、粗い透目絹、繊細優美な紗縠、および少数のやや目の詰まった平絹(帛の類)がすべてで、縑や綿衣は出土していない。 97

 養蚕地には綿がかならず生産されるから、綿については除外しよう。吉野ヶ里の錦(二色)は邪馬台国の倭錦や異文雑錦のなかの一種とみてよい。吉野ヶ里の紗縠を帛の類にみるかどうかの問題もあるが、これは帛とは別扱いにしたほうがよさそうである。とすれば、邪馬台国にあって吉野ヶ里にないものは縑であり、吉野ヶ里にあって邪馬台国にないものは紗縠ということになる。

 浙江省呉興銭山漾ごこうせんざんよう遺址から縑に相当する絹が出ている。しかし、これは前2750年ころのものであるから、考慮の外に置くとして、漢代の縑は、陽高、楽浪など、どちらかといえば北方系の織物といえる(華中の馬王堆一号墓から「土珠璣一縑囊どしゅきいっけんのう」なるものが出ているが、この縑は漢代の縑にしては粗く、併糸の有無についても不明なので、単に絹といったほうがよさそうである)。それに対して、紗縠などの透目絹は南方(ここでは華中を指す)的である。

以上のことから
邪馬台国は楽浪や帯方を通じて魏との交流が主体であったのに対し
吉野ヶ里は楽浪 帯方との交流もあったが 華中方面(魏または呉)との交流もあったらしいことがわかる

有明海に面するという地理的条件によるところが大きかったと思われる

 1994年9月、吉野ヶ里SJ1768(弥生中期初頭)両甕棺墓出土の織物を調べる機会をもった。両墓からは多数の織物片が出土したが、依嘱されたのはそのなかの12点である。しかし、よくみると、それぞれの墓の織物片のなかに同じとみられるものがあることから、調査の対象として、SJ1768墓のうちの2点、SJ1777墓のうちの6点を選んだ。調査の結果は概要次のとおりである。 98

(1)繊維断面からみて、いずれも家蚕の絹である。
(2)いずれも平絹であり、SJ1777墓の一点が透目絹である以外はすべて詰目絹である。その点、SJ1002(弥生中期後半)やSJ0135(弥生後期初頭)の場合と著しく異なる。
(3)織り密度は、透目絹が16×10の粗いものである以外は、両墓の七種類を通じて(31-45)×(18-20)で、いま透目絹を除いた平均値をSJ1002、SJ0135両甕棺墓の場合と比較すると、経糸数では前者、緯糸数では後者が大きい。
 繊維断面計測値をみると、完全度、面積ともに、SJ1768、SJ1777両墓が、SJ1002、SJ0135両墓の場合よりも大きく、ことに面積での差が大きい。

(2)(3)の調査から 蚕品種の点ではSJ1768 SJ1777墓の場合は四眠蚕(華中系)が飼育されていたのに対し
SJ1002 SJ0135墓の場合は三眠蚕(楽浪系)が主体であったとみられる 99

(4)中国漢代での結果と比較してみると、織り密度では吉野ヶ里の前記四墓における値が顕著に小さく、繊維断面計測値の場合は、SJ1002、SJ0135両墓の絹は、完全度・面積ともに漢絹に比べて小さいのに対し、SJ1768、SJ1777両墓の絹は、完全度では大差がないが、面積において漢絹よりも顕著に大きな値である。これらのことには、吉野ヶ里の四墓から出た絹がいずれも日本製であることをあらわしている。
(5)SJ1768、SJ1777両墓の絹は一点の透目絹が焦茶色であったのを除けばすべて白色で、いわゆる黄褐変がほとんどみられない。それは被葬者の屍体から発散する各種ガスが絹の酸化を防いでくれたことによるものである(50ページ参照)。このことから、出土の絹が帷子であった可能性が考えられる。かといって帷子は本来被葬者一人につき一着と考えられるところから、一甕棺墓内に何種類もの絹が存在したことの意義をどのように解したらよいか、問題が残る。
(6)SJ1768墓の絹のなかに縫糸(ぬいいと)をもつものがあり、それは見頃に袖を縫いつけたものであるらしいことが、佐賀県教育委員会により明らかにされた。縫糸をもつ織物は弥生時代の出土例としては最初であり、縫い方の問題を含めて、興味深い。 100

(「黄褐変が進んでいない」48)

絹が黄褐変するのは絹を構成する成分の一つであるチロシンというアミノ酸がメラニンに変化することによるといわれる

 三重大学の木村光雄教授(口頭でのお話)は、甕棺内人骨に付着する絹が黄褐変しにくいのは、生体が分解して生じた水素、一酸化炭素、メタンガス等が絹成分の酸化を防止する働きをしたことによるものであろうという。つまり、それらのガスがチロシンの変化を生じにくくしたものと思われる。

 『魏志』「倭人伝」には「すでに葬れば、家をあげて水中にいたり、澡浴みそぎをする。それは練沐れんもくの如くである」と記す。練沐というのは、練絹ねりぎぬ(精錬した絹)を着て水垢離みずごりをすることで、これが中国でのことをいっているとすれば、倭人が水垢離をするにあたって実際に練り絹を着たかどうかはわからない。 50
『倭人の絹一弥生時代の織物分化一』1995/布目順郎

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6 個人的感覚により投入
本位田菊士/2009『伊勢神宮と古代日本』
1 http://blog.kuruten.jp/ka-on/299793
2 http://blog.kuruten.jp/ka-on/300168
3 http://blog.kuruten.jp/ka-on/300415
4 http://blog.kuruten.jp/ka-on/300622
5 http://blog.kuruten.jp/ka-on/300634

 




2018年12月23日 10時8分
『秦漢帝国へのアプローチ』より
 
  カタドリ リョウサン
  「昔」から ? の ほう


(48〜)
考古学と文献史学のはざま

考古学者との対話

 1995年松山で開かれた秦始皇帝をめぐるシンポジウムで、聴衆からの最後の質問に答えるなかで、秦兵馬俑博物館のある考古学者と日本側の私を含めた二人の歴史学者との意見がみごとなまできれいに分かれたことに驚かされた。質問の内容は考古学の発掘を歴史研究にどのように生かせるのかというもので、参加した三名への回答を順番に求められたのである。考古学者の彼は考古史料と『史記』の記述の一致する点をみて、『史記』の記述の信憑性を確認できるという。

 たとえば始皇帝陵周辺の遺跡を実際に発掘している彼は、始皇帝陵の墓室を水銀が河川のように流れていたという記述と、墳丘表面の水銀濃度の分析の結果が一致している事例をあげ、これで『史記』の記述が信頼できるのだという。すなわち『史記』秦始皇本紀には、始皇帝陵の地下宮殿の様子が描写されており、そのなかに「水銀を以て百川・江・河・大海を為(つく)り、機は相い灌輸し、上には天文を具え下には地理を具う」という部分がある。始皇帝陵の墳丘部が未発掘である現時点では、水銀を機械じかけで河川のように流したという記述の真偽は直接確かめるわけにはいかないが、墳丘の土壌中に含まれる水銀量の分布調査から、司馬遷の記述の信憑性が確かめられたという。

 しかし私たちはむしろ考古史料と『史記』の不一致点をみて、『史記』の史料の限界を確認しなければならないと述べた。たとえば彼が発掘している8000にものぼる兵馬俑の地下軍団のことは『史記』には一言も言及されていないが、*1重要な始皇帝陵園の施設の一部であったことはいまや否定できない。司馬遷は兵馬俑の存在を知っていて書かなかったのか、それともすでに半世紀後にはすでに忘れられてしまったのか。始皇帝陵はすでに始皇帝が前210年9月に埋葬され、翌前209年4月に墳丘造成工事が終了してからわずか三年後の前206年、項羽の軍が咸陽にはいったときにあばかれている。後世の伝えでは、30万人の労働力で30日かけても財宝は運び出せないほどであったという。このとき項羽に兵馬俑の地下軍陣も破壊された可能性もあるが、実際の遺跡の状況は、一部延焼した箇所もあるが、全体は自然倒壊であった。司馬遷の記事は多くの伝聞に頼っており、兵馬俑にかんしては耳にはいらなかったのであろう。*2
*3

 対照的なこの二つの回答は、いろいろ考えさせる内容を持っており、シンポジウムのエンディングにふさわしいものであった。記録される史料というものは、無数にある事実のなかから一定の観点で選択された結果であるといえる。考古学者の彼はたとえば二割を伝える司馬遷の文章の史料のなかに史実を見出し、私は司馬遷が記述しなかった八割の世界にもまた史実を見出したいのである。都市・陵墓・宮殿・道路・長城などの考古学的遺跡や、瓦・煉瓦・陶器・青銅製武器・鉄製農具などの出土文物というものはモノである点でその存在そのものは重いが、竹簡などの文字史料がともなわない場合は、既存の文献史料の助けを借りてはじめて遺跡、文物じしんが歴史を私たちに語りはじめる。遺跡、遺物は二割の世界を語ることもあるし、八割の世界を語ることもある。日中研究者双方の見解の違いが結局同じところに行き着くことには、このシンポジウムを終えてしばらくしてから気がついた。(50)

「私たちがある場所を訪れて一つの都市、建築物のようすを記録したとする。文献の記載は一つの観察の方向から記述されたものであり、部分は全体そのものではない。記録の対象は事件であっても、さらには自らの国家、民族であっても同様である。地域史は中央にたいする地方史を語ることではない。それは中央の権力、王朝の支配理念からはみえなくなっている歴史を掘り起こしていく歴史学の方法であり、歴史学に地域の観点をいれた場合、歴史はさらに多くのことを私たちに語りかけてくれるであろう。」(51)

▫️

 秦兵馬俑の実物大のリアリズムを、漢代のミニチュアのリアリズムと比較してみると、両時代の様相が理解できるようだ。秦の人びとは現実世界をそのままのスケールで死後の世界にもちこんだ。実物の武器を携帯した兵馬俑の軍陣はまさにその象徴だが、一方の漢代の人びとは、人も牛・犬・鶏などの動物も、武器も半両銭という青銅貨幣も、穀物を計量する桝も、また鉄の農耕具も、かまども、あらゆるものを小さくつくった。漢の人びとにとっては、奢侈の風を捨て合理性を追求したのかもしれない。

 漢代の人びとは始皇帝陵のような華美な埋葬を厚葬として、よく政治的に非難した。前漢文帝のときに賈山(かざん)という人物は、秦の事例を引きながら政治の道を説いた。阿房宮などの宮殿、馳道という道路が華美であると非難し、驪山の陵についても、数十万人の労働力と10年の歳月を浪費し、地下宮殿に贅沢をつくしたことを批判した。実は漢代の人びとは、秦を対極において否定することで、自己の存在価値を見出した。そういうフィルターをとおした秦の時代像には気をつけなければならない。秦の実物大のリアリズムの意味を、今考えなければならないのであろう。(45-46)

世界史リブレットΑ愎全祖觜颪悗離▲廛蹇璽繊
鶴間和幸/1996年1版1刷/2004年1版5刷


(手がすべって押してしまったのは 11:03*1)
* そこに(#)6F de (*) 入れときます
*2 そのとき11:30は過ぎていたかしら

*3 18時過ぎから

銀聯
 




2018年12月21日 14時9分
「両者の違い」(P20) 等 他
加工は12.21/16:50頃
  一枚め:2018/11/23午後1:20:16撮影
  二枚め:2018/11/23午後1:15:55撮影

饕餮

誰もが 知っている(筈)

中国(日本)の 繊細 かつ 強靭な (加工)技術
似て(もいない)非なる何かも

ふたつの「国」に限らず  何処にでも




根津美術館で「考古」と分類された物たちには
その括りでの書物があるのだそうで(所望)

収蔵されているわけですから「そのうちには‥」
とのことですが 絶版のよう(2018/12月の時点)

‥ということで それらだけが掲載されている
薄いものを もとめることとなりまして

なにしろ選択肢が無くて


一鋳(一括鋳造)
分鋳(分割鋳造)


(『ふたつの双羊尊』より)


【中国殷時代の動物形青銅器について】より

動物文様を 単なる装飾ではなく
「神を具現化したもの、あるいは神に通じる存在」
と考えたのは
青銅器研究者の林巳奈夫(1925〜2006)

「文様としてあらわされた動物には、渦文様など様々な神をあらわすマークが付された」
「体表を写実的にあらわすのでなく、例えば虎では縞模様を表現表現するかわりに、空想上の怪獣や龍などをあらわし、そこに渦文様を表現する。」

異なる動物の間で文様表現が共通する例もあり
「たとえば、双羊尊で体毛を小さな鱗を無数に並べてあらわしているが、これは同じ時期の鳥の羽毛表現と同じである。このような体毛表現の画一性は、この時期の典型的な特徴といえよう。」

動物形文様は 器の表面に平面的に表現されたが
器そのものを立体的に象った動物形の青銅器も製作され
「とくに現在の湖北省、湖南省といった揚子江中流域で多く確認されている。泉屋博古館所蔵の虎卣(こゆう)も湖南省寧郷で発見されたという伝承をもつ。これらは華北の鄭州や安陽にあった殷都の青銅器にはみられない造形で、いわゆる華中型青銅器(中国では南方型青銅器と称する場合がある)を代表するものといえよう」

その動物形青銅器の表面には
「怪獣の顔面文様や龍形文様などが配され」
それら体表には様々な「渦文様が組み込まれており」
さらに「主文様の隙間に渦巻地文が充填されている」
そのような文様表現は
「黄河流域の青銅器と共通する特徴」
4/廣川守



【大英博物館所蔵 双羊尊の製作】より

古代中国の青銅器は、その起原が黄河流域か、あるいは揚子江流域であるのかに関わらず、いずれも「合わせ型鋳造法」で製作されている。

大映博物館が所蔵する双羊尊は
「合わせ型鋳造法で製作されており」
河南省・安陽の青銅器製作と同じ

器の外型はふたつのパーツからできており、それらは少なくとも2組の部分型を組み合わせて形成されたものである。2組とは、胴体の1組、そして脚部の1組である。胴体は、両端の羊頭部の中央を垂直に走るバリが胸部につながっていることから、ここで二分されていたことがわかる。細部の型を作った可能性もあるが、それらは最終段階でふたつの外型に接合されたのだろう。また4本の脚の型は、脚の中心が一線をなすように、胴体の型に繋ぎ合わされており、接合部分に生じる水平の線痕は、外型に繋ぎ合わせる際に注意深く取り除かれている。

青銅は 錫11.6% 鉛4.8% を含む 銅の合金
配合比は「紀元前1000年代後半の中国青銅器に共通」

「銅に含まれた錫は、熔解温度を下げ、硬度を増し、発色を良くする。鉛は、複雑な鋳型の細部までいきわたるよう、流動性を高める」

大英博物館の双羊尊は、熔湯を流し込む際に発生するガスによってできる鬆(凹みや孔)が饕餮文中の瓶型状の角の上端に1箇所だけあるのを除けば、ほぼ完璧といっていいほどの高い鋳造技術で製作されている。器形は、先に述べたように、頭部を含めた本体が1回の鋳造で作られているが、角の部分だけは別鋳である。X線写真や金属の成分分析は、頭部と胴体の銅合金は同一成分であるが、4本の角は成分が異なっており、この部分が分鋳法で本体に接続されたことを示している。

「羊は口を開けている」
口内の奥には青銅の壁が設けられ、背後の部分との仕切りになっている。器に入れた液体が漏れ出ることを防ぐためであろう。

さらに、X線写真によってわかることは、内型の表面に大量のスペーサーがおかれていることである。このことは、安陽から発見される同時代の青銅器と著しく異なる。この大量なスペーサーの使用は、それが鋳造に必要であったかどうかということよりも、この手法が揚子江流域で製作された青銅器に共通する特徴であることに注目すべきである*2。すなわち双羊尊の鋳造技法に関する研究は、その製作地が、河南省安陽ではなく、おそらく揚子江流域であることを裏づけることになる。
12/チュアンユ・ワン(王全玉)

*2

Su,Rungyu.“Study of Casting Technology of Shang Bronzes from Xin'gan Dayangzhou.”In Selected Essays by Rongyu Su,edited by R.Su,Shanghai:Shanhai People's Publishing House,2012,63-116.



【揚子江をめぐる謎_古代青銅器・儀礼・自然の地_】

中国青銅時代の湖南省は好奇心をそそるテーマであるが、その実態はほとんど解明されていないため、この地から発見されたこれら青銅器は、まさしく中国考古学の謎を秘めた作品である。

湖南省では「偶然に、青銅器が1点、あるいは小さなグループとなってばらばらの場所から発見されることが多い」

「誰がつくったのか?」
「なぜそれらは埋められたのか?」
「製作者に何が起こったのだろうか?」
といった謎は「まだ解明されていない」
16/サーシャ・プリーヴァ(裴嚴華)



【二つの双羊尊_根津美術館所蔵品と大英博物館所蔵品の比較_】

泉屋博古館およびパリのチェルヌスキー美術館の
虎ゆう
根津美術館と大英博物館に所蔵されている
双羊尊
前者の虎ゆう は ほとんど双子の如く類似する
2例の双羊尊は いくつか異なる点が存在している
  いずれも2体の羊が背中合わせになり
  背中に広口の壺を担いだような格好

羊は頭部に大きな角を有し、顔面には殷時代後期(殷墟期)に特有の渦状文様を沈線(凹線)でほどこす。羊の首から胴体さらに足にかけては、小さな鱗状文様で体毛を表現する。背中から伸びる壺には、獣面文様があらわされている。

2点の双羊尊は その獣面文様の表現が大きく異なる

両者の違い
大英博物館所蔵品の獣面が、角と眼以外をすべて細い沈線で表現しているのに対して、根津美術館所蔵品の獣面は、角、眼、口などを強調するために、その隙間に非常に細い渦文を地文様として隙間なく充填している。
20/廣川守


『ふたつの双羊尊__根津美術館と大英博物館の名品__』
根津美術館学芸部/2015

目次
Contents
はじめに
Introduction
関連遺跡地図
Map of Related Sites
中国殷時代の動物形青銅器について/廣川守
Animal-Shaped Shang Dynasty Bronzes
大英博物館所蔵 双羊尊の製作/チュアンユ・ワン(王全玉)
Fabrication of the British Museum's Ram Zun Vessel/Quanyu WANG
揚子江をめぐる謎_古代青銅器・儀礼・自然の地_/サーシャ・プリーヴァ(裴嚴華) 
Mysteries of the Yangtze River:Ancient Bonzes,Ritual,and Natural Places/Sascha PRIEWE  
二つの双羊尊_根津美術館所蔵品と大英博物館所蔵品の比較_/廣川守
Two Double-Ram Zun:A Comparison of the British Museum and the Nezu Museum Vessels/HIROKAWA Mamoru
作品データ
Date on the Two Zun
図版
Plates


(4頁 凡例より 一部)
※ 時代および区分について
「殷」は別に「商」とも呼ばれている。実際の歴史書の中でも例えば司馬遷の『史記』では「殷」を用いているが、戦国期に編纂された『書』では「商」を用いており、現在まで「殷」と「商」とが併用されている。本書では「殷」に統一している。
また殷の年代については、これまで様々な説が出されていて、研究者の考えが一致していない。大まかな流れとして、大型建築(宮殿址など)が発見された遺跡の年代によって、二里岡頭期→二里岡期→殷墟期という年代観があたえられているが、近年、中国では二里頭期を夏王朝の時代、二里岡期と殷墟期を殷王朝の時代とする研究者が多くなっている。日本、ヨーロッパおよび北米では夏王朝を定説として認めるに至っておらず「二里頭文化」と称する場合が多い。本書では殷王朝の年代区分として、殷時代前期(二里岡期、紀元前16世紀〜前14世紀)、後期(殷墟期、紀元前14世紀〜前11世紀)の2時期に区分することにする。
※ wine の表記について
この時代の酒については数種が確認されている。本書の英文テキストおよび挿図キャプションに記した“wine”は、ワインだけでなく、米や粟から作る醸造酒を含めたアルコール飲料の総称として用いる。




私の個人的関連頁
http://blog.kuruten.jp/ecru/419972
(http://ka-on.hateblo.jp/entry/2018/12/21/111627)
(等 他)





ふたつの双羊尊
2015年1月10日(土)〜2月22日(日)

「動物礼賛」
http://www.nezu-muse.or.jp/sp/exhibition/past2015_n01.html
左が 大英博物館のもの



緑青(ろくしょう) とは、銅が酸化することで生成される青緑色の錆である。銅青(どうせい)や銅銹(どうしゅう) ともいう。銅合金の着色に使用されたり、銅板の表面に皮膜を作り内部の腐食を防ぐ効果や抗菌力がある。
Wikipedia



さびる ろう


饕餮
 




2018年10月28日 10時3分
 
あらまあ‥「現在日時設定」せずに投稿
  11.2の21:19 あたりでしたか?
🌫

審神者
…古代の神道の祭祀において神託を受け
神意を解釈して伝える者のことで
後には祭祀の際に琴を弾く者を指すようにもなり

「さにわ」 (「さには」)
元は「清庭」 (さやにわ)の意味だった…
などと Wikipediaには

(最古はどこか)

🌫

先月(11月に記入しておりますので10月のこと)

「仁徳天皇陵」初の共同発掘へ。「本当は誰の墓?」…
https://m.huffingtonpost.jp/2018/10/15/daisen-kofun-who_a_23561241/

世界文化遺産への登録を目指す百舌鳥古墳群を舞台に…
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000122.000013052.html

(世界遺産候補「仁徳天皇陵古墳」の目の前に新交番)とか

目につきましたが

11.3 10:44頃 少々 別面追加
「神話」というのも なかなかあれで‥

何かの「制御」のため「奮闘」らしい ですが?
https://jp.reuters.com/article/northkorea-southkorea-unification-myth-idJPKCN1MZ17D?rpc=122

🌫

  それはそれといたしまして‥

拡く見れば ひろくみえる‥ 
  
  「主義」などの範疇でもない

🌫

お庭のほうへ

(『日本庭園』10.27から手元に)

「江戸」が「東京」と 名を変えた頃
「庭園」は荒廃

庭園文化の中心だった京都でも 活力低下
廃仏毀釈などからも その文化は沈滞

一方で…

欧米からの文化の急激な流入のなか
東京などの新造の公共施設や一部の新興有産階級の邸宅では欧米の庭園のデザインが採用されるようになり

やがて、東京の邸宅などでは、日本庭園の構成やデザインを踏襲しつつ、従来の日本庭園で重きをなした象徴的な手法から脱し、等身大で写実的に景色を再現しようとする動きが現れる。この自然主義風景式庭園の好尚は、山縣有朋によって京都にも持ち込まれ、その別邸の施工を担当した「植治うえじ」こと七代目小川治兵衛によって、近代日本庭園の一つのスタンダードとなるのである。220
『日本庭園』小野健吉
「2009年2月20日第1刷発行」


「庭園」様式
デザインが確立された時期はいつか?

平安時代をイメージする人が多いのではないかと思う。床張りの寝殿造り住宅、仮名文字による文学、日本の風景や風俗を描いた大和絵など、唐風を脱したいわゆる国風文化が確立されたのが平安時代中期頃とされるからである。

しかし、冒頭の問いに対しては、奈良時代と答えるべきであろう。宮殿の庭園が百済や新羅といった朝鮮半島諸国の庭園のデザインや技術によって造られた飛鳥時代、その最末期になって日本は中国・唐からの庭園に関する情報を直接に得る。そして、和銅三年(710)の平城遷都と軌を一にして、庭園デザインについても唐風を目指すことになる。平城遷都自体が唐の首都・長安をモデルとしたものであったことに鑑みれば、しごく当然のことであった。

とはいえ 奈良時代の庭園は
飛鳥時代の庭園 とくに百済からの影響のもとで造られた庭園のような「直輸入型」のものとはならなかった
(ここ40年の発掘調査で次々と明らかになった奈良時代の庭園の実相)
48『日本庭園』


小野妹子が随使・斐世清を伴って帰国したのは608年
同年8月3日に斐世清が推古天皇に謁見したのは小墾田宮

推古天皇二十年(612)
百済から来た異相の男が 追放されそうになり
自らに作庭の才のあることを訴え 在留を認められ
小墾田宮南庭でその技術を示したという

それが史実として認めうるわが国最初の作庭(に関する記述と考えられている)
26『日本庭園』


🌫(以下 10/28 10:3:50記入分)

百済からの 路子工が
小墾田宮(おはりだのみや)の南庭に
須弥山像と呉橋を造った

…然るに其の人の日はく、「若し臣(やつかれ)の斑皮(まだらはだ)を悪みたまはば、白斑なる牛馬をば、国の中に畜(か)ふべからず。亦臣小(いささか)なる才(かど)有り。能く山岳(やまをか)の形を構(つ) く。其れ臣を留て用ゐたまはば、国の為に利(くほさ)有りなむ。何ぞ空しく海の嶋に棄つるや」といふ。是に、其の辞(ことば)を聴きて棄てず。仍りて須弥山(すみのやま)の形(かたち)及び呉橋(くれはし)を南庭(おほば)に構けと令(おほ)す。時の人、其の人を号(なづ)けて、路子工(みちこのたくみ) と日ふ。亦の名は芝耆摩呂(しきまろ) 。

『日本書紀』是歳条
 




2018年10月1日 9時33分
“科学リテラシー”
 
前のページからの続きでもあり
http://blog.kuruten.jp/ka-on/416027
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牧野淳一郎まきのじゅんいちろう
神戸大学大学院理学研究科惑星学専攻

科学/2018年7月号
3.11以後の科学リテラシー no.67/0704-0707

0707 (締めくくりの部分)

まとめます。

・内閣府の総合科学技術・イノベーション会議は「統合イノベーション戦略」なるものをまとめつつある。それでは「国立大学への交付金を決める基準になる評価を成果重視に転換」するようである。
・これは,「日本は研究開発の生産性が低く」,その原因は,「国立大でも成果を評価する仕組みが乏しい」ことである,という主張にもとづいている。
・しかし,実際の数値を見ると,政府支出あたりの論文生産性は,米英には劣るもののドイツとはほぼ同等である。一方,高等教育機関向けの公的支出の規模は,日本はOECDやEUの平均の半分以下である。
(0707)

  (その前の部分)

0707
…大学教員としては博士課程学生,すなわち若手の研究者の供給が減るなら論文生産も減るのはあまりに当然のことと思えます…

これに対して,財務省資料では,博士号取得者については民間への就職が進んでいないことが問題,としていますが,研究成果の大半が大学で生産されている,というのが現状であるのに,大学の若手研究者をふやさないなら論文生産が増えるはずはありません。(0707)

(‥続いて)

0707
  日本の行政組織が,データを隠蔽・歪曲したり捏造したりするのは最近とみに日常茶飯事になってきて感覚がマヒしている方も多いと思います。高度プロフェッショナル制度に関わる調査でのデータ捏造,防衛省や財務省での文書の隠蔽・改ざん,と枚挙にいとまがありません。科学技術に関わる「統合イノベーション戦略」もその例外ではなく,実際のデータにまったくもとづかない政策立案がなされています。
  なお,大学の論文生産性が上がっていない要因の大きな部分は財務省,文科省による大学改革である,というのは多くの大学教員の実感でしょう。確かに,財務省のいうように,「国立大学全体」の予算が減っているわけではありませんが,運営交付金は減り,その分が多くの場合は分野の紐がついた研究費などのさまざまな競争的資金に回っています。それが「大学改革」であるというのが政府の論理ですが,これはここまでみてきたように成果につながるという根拠がまったくない政策です。むしろ,研究費を大型プロジェクトに集中し,それ以外の部分を研究者の人数から縮小する,大型プロジェクトも常勤研究者は増えない,という現在の方針では,研究費あたりの生産性はますます下がることになるでしょう。全体として研究者が減ってしまうからです。Lotka の古典的な研究に始まって,過去の科学計量学のあらゆる研究は,生産性の高い研究者だけを増やすことはできない,ということを示してきています。財務省・文科省の「政策」は,根拠なく不可能を可能といっているものにみえます。
(0707)

0707 右下より
岩波科学ライブラリー 236
『被曝評価と科学的方法』牧野淳一郎
“電子書籍版もあります”

KAGAKU/Jul.2018 Vol.88 No.7/0704-0707

(https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b265984.html)


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http://ka-on.hateblo.jp/entry/2018/09/30/163835
このページとも繋がっている
 




2018年9月30日 18時46分
評価
 
定義されない「廃炉」
賠償和解案を拒否しつつ「やり遂げる決意」とは
木野龍逸きの りゅういち/ジャーナリスト

コラム 東京電力原発事後の情報公開 No.40
科学/2018年7月号より

「事故の当事者としての責任を放棄していると評価するほかない」(福島県弁護士会・会長声明)
センターには東電に毅然とした姿勢で臨むよう求め
国に対してはセンターの和解仲介案の受諾を義務化する立法措置を要求

  では国は,このことをどのように認識しているのだろうか。
  筆者が2月6日に経済産業大臣の閣議後会見でこのことを聞くと,世耕弘成大臣は「ADRセンターから提示された和解案を尊重して,真摯に誠実に対応することは,東電の当然の責務だと考えている」とし,「今後とも東京電力に対しては,ADRセンターにおける和解仲介手続きについて,丁寧な対応を求めていきたい。また被害者の方々の個々の状況をよく伺って,公平かつ適切な賠償を行うよう,引き続き指導してまいりたい」と答えた。
  これを受けて筆者は,経産省に,大臣が会見で述べた「指導」の内容がわかる文書の開示請求を行ってみた。その結果,出てきたのは15年6月と16年12月に政府が閣議決定した福島復興加速化指針だけで,実際に指導をしたことを示す文書はなかった。これでは何もしていないのと変わりがない。
  その後,4月4日に開かれた参議院,東日本大震災復興特別委員会では,和解仲介案を拒否する事例が相次いでいることについて山本太郎議員から質問を受けた吉野正芳復興大臣,林芳正文科大臣,平木大作経産政務官は,東電に指導をしていくと答弁した。
  しかし東電の姿勢に変化は見られない。委員会の翌日,4月5日にセンターは,浪江町の住民約1万5000人による集団申し立てについて,東電が和解仲介案を拒否し続けたため手続きの継続は困難として打ち切りを決定。
  さらに5月28日にセンターは,飯舘村の住民約300人による集団申し立ての手続きを打ち切った。これまで東電が4回,和解仲介案の受諾を拒否した末のことだった。
  東電の受諾拒否を受けて浪江町の馬場有町長は「東京電力には,原発事故の原因者,加害者としての意識がひとかけらもないと談じたい」というコメントを発表。飯舘村の案件で記者会見を行なった弁護団事務局次長秋山直人弁護士は「新たな立法措置がないと被害者は泣き寝入りになる」という見方を示した。
  また,秋山弁護士によれば,過去には経産省に東電に厳しく対応するよう要望したことがあるという。しかし結果は「なしのつぶてだった」。
  東電が蔑ろにしている「新々総特」は,経産大臣が許可したものだ。また東電の株式の50.1%は国が保有している。それでも経産省は,東電に対して厳しい指導をした形跡がない。過去,汚染水問題などでは社長を呼び出して注意することもあったが,センターの和解仲介案拒否については何もしていない。
  これでは経産省は,現状を容認していると疑われても仕方がないのではないか。
  そしてまた,このような状況を生み出している東電が,「賠償をやり遂げる」という言葉を保安規定に入れることに,どのような意味があるのだろうか。
  福島第一原発事故への対応が,柏崎刈羽原発の再稼働問題に関連する度合いが飛躍的に高まっている。原発事故は収束に向かうどころか,問題が複雑化,深刻化しているように見える。(0676)
0674-0676/KAGAKU/Jul.2018 Vol.88 No.7


🌫🌫🌫🌫🌫🌫🌫🌫🌫🌫
  紙が出まして
  お名前などの部分を知りたくて館へ
  (借りて 他もいろいろと)
🌫🌫🌫🌫🌫🌫🌫🌫🌫🌫


激しい炎症については 同誌0679/小澤祥司
「腸内細菌はメタボリック症候群を引き起こすか」

「酸化LDL」「アテローム性動脈硬化症」
「心筋梗塞」(脳梗塞)を「もたらすこともある」
流れにつながる

🌫

養生 って 何度も記入して 最近も‥
(そう思うたびに環境はどんどん悪くなり)

(「父」)(「年齢」)(ただし差異多し)
追体験でもあるような‥ 「人生」
とりわけ この1〜2カ月の酷すぎる自覚症状

http://ka-on.hateblo.jp/entry/2018/09/30/163835
個人的には
「縄文」「弥生」などという言葉の説明などにも
積極的に活かしたい

amorphous/4月1日
http://blog.kuruten.jp/ecru/379147
 




2018年9月18日 7時42分
開花
 

「タンポポの花は、明るくても開かないし、暗くても開くことがある」
京都/ある高校の生物クラブの観察

「タンポポの花は、光の強弱に反応して、明るくなると開き、暗くなると閉じる」
十数年前まで/多くの高校生物の教科書

  光の当たる昼の間、植物たちは、光合成とよばれる反応を行います。根から吸収した水と空気中から吸った二酸化炭素を材料に、光のエネルギーを使って、ブドウ糖やデンプンをつくり、酸素を発生させます。二酸化炭素や酸素の出入りは、葉っぱにあいている「気孔」という穴から行われます。(152)
『植物は命がけ』田中修
(9.16 15:22頃 メモ)



田中氏は教科書の記述が何に基づいているかを知るため
タンポポの開閉運動を調べた文献を探したそうなのですが

「不思議なことに」
“この花が光の強さに反応して開閉することを示す学術論文は、日本にも外国にも見当たりません。いく人かの教科書執筆者に尋ねましたが、「この本にそのように書いてあるから」と専門書を紹介されるだけでした。”
同書 153頁

“いったい、誰が、いつごろから、タンポポの花は、光の強弱に反応して明るくなると開き、暗くなると閉じることにしてしまったたのだろうか。”(153)
と 実験 研究をはじめることに…

  ‥‥

(4) ひと花咲かせるための工夫 127〜172

“ハゼラン” “三時の天使”
“スリー・オクロック・エンゼル” 128

“アサガオ” “ユウガオ” 129

“ヨルガオ” “ムーンフラワー”
“ツキミソウ” “夜来香(イェーライシャン)”
“ゲッカビジン” “月下美人” 129

“オシロイバナ” “フォー・オクロック”
“四打鐘(スダジョン)” “夕化粧”
“メシタキバナ” 130

  “花時計” 133
  “風まかせ” 136

“つぼみ” 137(〜140くらい)145〜166
“自家不和合性” 142(143)
“144”

  ‥‥

「密閉したガラス容器」ろうそくとネズミと
植物(ハッカ) (餌になりにくい?)
当時イギリスでよく栽培されていたのか?

空気中にどんな性質の気体が含まれるかを
しらべていたプリーストリー
(197『植物は命がけ』田中修)

“プリーストリーの実験” 196〜

 




2018年9月9日 12時5分
つる
 

河野昭一監修/田中肇編集/平成2年『秋の野山を歩く』
「根で繁殖する植物たち」より

ヒガンバナの空白域は急激に拡大しており
環境指標植物としても 注目されている 34

葉が枯れ 夏が終わるまで
半地中〜地表付近で動きを止めているように見えるが
花芽は形成され 次の成長期に備えている

花芽を持つのは年数を経て太った鱗茎のみ
結実しないのは配偶子をつくる減数分裂が異常となる3倍体の宿命

花茎をつけることがきっかけとなり
鱗茎はしばしば2つに割れるが 底部は結合したままのことが多く
その状態が長年続くと巨大なクローンを形成する

秋の人里を彩るヒガンバナ(別名マンジュシャゲ)は,日本人の原風景といってもよいほど懐かしいものである。しかし,そのルーツについては,3倍体(染色体数2n=33)で不稔(種子ができない),分布が農耕地や集落付近であることから,純粋な自生植物ではなく,中国から半作物として導入されたのではないかと考えられている。中国大陸には,やや小型の花を咲かせ,結実する2倍体(2n=22)のヒガンバナが自生する。しかし,大陸でも広く分布するのは3倍体のヒガンバナで,こちらの方が有史以前に人為的に持ち込まれ,日本各地に伝搬したものとみなされている。ヒガンバナのルーツについては,以上の人為的導入説の他に,海流による漂着説やもともと日本に自生していたという説もある。 36
34-37/ヒガンバナ/結実しない徒花/河野昭一/米澤信道


輸出されたクズ

旺盛な繁殖力をクズは持っている
木があればそれも覆ってしまう

クズの茎は太い幹には巻き付けないから垂直に立ち上がるように木の枝にとりついている。林があれば,まるでクズの壁になってしまう。勇気を出して,その壁を突き抜けると,中は意外にがらんどうだ。林床を小さな葉をつけた細い茎がまばらに這っていて,外とはまるで違って元気がない。クズは十分な光が欲しいのだ。ところが,荒れ地緑化のため,1953年ころから日本のクズを導入したアメリカでは,たいへん暗いところにもクズが生えているらしい。どこで性質が変わってしまったのだろう。アメリカは1953年には10トン以上も種子を日本から輸入したという。しかしながら,今では繁茂し過ぎてしまって,邪魔者あつかいされているらしい。
39/クズ/繁殖旺盛なつる植物/伊野良夫


・・・・・・・・・・
9.11までのところ 前倒しでと思っておりまして
午前返却しようかともあれでしたが 少々あれしてからに

 





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