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“Tの想い 1992” 2016.3.10

ka-on.hateblo.jp/entry/2016/03/10/095447

2017.3.22

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ka-on さん
水のよう・・
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2018年9月18日 7時42分
開花
 

「タンポポの花は、明るくても開かないし、暗くても開くことがある」
京都/ある高校の生物クラブの観察

「タンポポの花は、光の強弱に反応して、明るくなると開き、暗くなると閉じる」
十数年前まで/多くの高校生物の教科書

  光の当たる昼の間、植物たちは、光合成とよばれる反応を行います。根から吸収した水と空気中から吸った二酸化炭素を材料に、光のエネルギーを使って、ブドウ糖やデンプンをつくり、酸素を発生させます。二酸化炭素や酸素の出入りは、葉っぱにあいている「気孔」という穴から行われます。(152)
『植物は命がけ』田中修
(9.16 15:22頃 メモ)



田中氏は教科書の記述が何に基づいているかを知るため
タンポポの開閉運動を調べた文献を探したそうなのですが

「不思議なことに」
“この花が光の強さに反応して開閉することを示す学術論文は、日本にも外国にも見当たりません。いく人かの教科書執筆者に尋ねましたが、「この本にそのように書いてあるから」と専門書を紹介されるだけでした。”
同書 153頁

“いったい、誰が、いつごろから、タンポポの花は、光の強弱に反応して明るくなると開き、暗くなると閉じることにしてしまったたのだろうか。”(153)
と 実験 研究をはじめることに…

  ‥‥

(4) ひと花咲かせるための工夫 127〜172

“ハゼラン” “三時の天使”
“スリー・オクロック・エンゼル” 128

“アサガオ” “ユウガオ” 129

“ヨルガオ” “ムーンフラワー”
“ツキミソウ” “夜来香(イェーライシャン)”
“ゲッカビジン” “月下美人” 129

“オシロイバナ” “フォー・オクロック”
“四打鐘(スダジョン)” “夕化粧”
“メシタキバナ” 130

  “花時計” 133
  “風まかせ” 136

“つぼみ” 137(〜140くらい)145〜166
“自家不和合性” 142(143)
“144”

  ‥‥

「密閉したガラス容器」ろうそくとネズミと
植物(ハッカ) (餌になりにくい?)
当時イギリスでよく栽培されていたのか?

空気中にどんな性質の気体が含まれるかを
しらべていたプリーストリー
(197『植物は命がけ』田中修)

“プリーストリーの実験” 196〜

 



2018年9月9日 12時5分
つる
 

河野昭一監修/田中肇編集/平成2年『秋の野山を歩く』
「根で繁殖する植物たち」より

ヒガンバナの空白域は急激に拡大しており
環境指標植物としても 注目されている 34

葉が枯れ 夏が終わるまで
半地中〜地表付近で動きを止めているように見えるが
花芽は形成され 次の成長期に備えている

花芽を持つのは年数を経て太った鱗茎のみ
結実しないのは配偶子をつくる減数分裂が異常となる3倍体の宿命

花茎をつけることがきっかけとなり
鱗茎はしばしば2つに割れるが 底部は結合したままのことが多く
その状態が長年続くと巨大なクローンを形成する

秋の人里を彩るヒガンバナ(別名マンジュシャゲ)は,日本人の原風景といってもよいほど懐かしいものである。しかし,そのルーツについては,3倍体(染色体数2n=33)で不稔(種子ができない),分布が農耕地や集落付近であることから,純粋な自生植物ではなく,中国から半作物として導入されたのではないかと考えられている。中国大陸には,やや小型の花を咲かせ,結実する2倍体(2n=22)のヒガンバナが自生する。しかし,大陸でも広く分布するのは3倍体のヒガンバナで,こちらの方が有史以前に人為的に持ち込まれ,日本各地に伝搬したものとみなされている。ヒガンバナのルーツについては,以上の人為的導入説の他に,海流による漂着説やもともと日本に自生していたという説もある。 36
34-37/ヒガンバナ/結実しない徒花/河野昭一/米澤信道


輸出されたクズ

旺盛な繁殖力をクズは持っている
木があればそれも覆ってしまう

クズの茎は太い幹には巻き付けないから垂直に立ち上がるように木の枝にとりついている。林があれば,まるでクズの壁になってしまう。勇気を出して,その壁を突き抜けると,中は意外にがらんどうだ。林床を小さな葉をつけた細い茎がまばらに這っていて,外とはまるで違って元気がない。クズは十分な光が欲しいのだ。ところが,荒れ地緑化のため,1953年ころから日本のクズを導入したアメリカでは,たいへん暗いところにもクズが生えているらしい。どこで性質が変わってしまったのだろう。アメリカは1953年には10トン以上も種子を日本から輸入したという。しかしながら,今では繁茂し過ぎてしまって,邪魔者あつかいされているらしい。
39/クズ/繁殖旺盛なつる植物/伊野良夫


・・・・・・・・・・
9.11までのところ 前倒しでと思っておりまして
午前返却しようかともあれでしたが 少々あれしてからに

 



2018年9月1日 18時12分
ある「デッドセンターの形成」の仕方
移動してきた植物(8.24)は それでは無いのですが

・・・・・・・・・・

  ススキの株は古くなると株の中心部に枯葉や枯茎がつもってくる。そのためか,ここは分けつが立ちにくく,いわゆるデッドセンターが見られる。ススキの根茎は数年で朽ちるから,大きなデッドセンターでは地下部も崩壊して土壌があらわになることもある。株によってはこのデッドセンターが不明瞭なものがある。しかし,デッドセンターの形成は株によってほぼ定まった速さで行われるらしい。古くてもデッドセンターの小さい大型株はその発達が遅いためであろう。

  暖地ススキの古い株は,内部はデッドセンターの発達,周辺は分けつの阻止という両方の障壁によって,実生から10数年にして,遅かれ早かれ崩壊の道をたどる。株としてのススキの寿命は,より長い根茎をもつ近縁種オギなどと比べて短命である。

  ところで,気候の涼しい山地のススキは一度の分けつで生育期間が終了し,その稈はより細身で竹は低い。山地ススキの株は分けつ回数が少ないから,その分株面積の拡大は暖地ススキよりも遅い。しかし,山地では稈が折れ重なるようなことは稀であり,株はわずかづつ広がり,実生から10数年あとの直径は約120cmに達している。冬,寒風が吹く頃地上わずか数cmの新しい稈だけが生きたまま褐色化した葉鞘に抱かれている。

  また,山地ススキではデッドセンターの発達もかなりよく,株の周辺部がくっきりとドーナッツ状に残っているのを見かける。ついには大きい株は崩壊し,小さい株に分解するといわれている。

  以前にススキ株が群がっていた土地を数年あとに訪れてみると,クズの大きな葉ですっかり覆われてしまっていたりすることがある。ところが,秋に訪れてみると,クズの屋根のあい間をぬってススキの花穂が天空にむけて伸びているのを見ることができる。

他の植物との競合でススキが寿命を全うできるのは稀
(種子を飛ばして新しく開拓しているようにみえる)

河野昭一監修/田中肇編集『秋の野山を歩く』P61
秋の花の生活史/ススキ属ススキ
デッドセンターの形成/小林克実

・・・・・・・・・・

センターの行方/水‐はてな

http://ka-on.hateblo.jp/entry/2017/02/22/074744
https://katation.exblog.jp/28438234/

 



2018年7月22日 23時7分
国を棄てたらしい大明神
 
怪異学の技法
賀茂別宮と徳大寺家 家と怪異/佐伯智広

徳大寺家を外戚とする後白河天皇の即位により
賀茂「社」は賀茂「別宮」として新たな段階を迎えた

そこでの賀茂別宮の役割は、血縁関係による王権との関係を具体化し、家産の獲得・維持に活用するというものであった。さらには六条天皇・摂政基美の御祈願所へと、賀茂別宮の持つ性格は、徳大寺家の政治的動向につれて変転を重ねたのである。
174〈二、賀茂社から賀茂別宮へ〉

(175〜)
〈三、もう一つの怪異〉 より
賀茂大明神、日本国を棄て他所に渡る

賀茂別宮に関わると思われる(もう一つの)怪異

  仁安元年(1166)七月、賀茂社の社司等は六条天皇・摂政藤原基美のもとに参上し、「仁和寺辺の女」の見た夢について奏した。それによると、女が六月と七月の二度にわたり見た夢は、天下の政が不法であるために賀茂大明神が日本国を棄てて他所に渡る、というものであった(『百錬抄』)。

  これ自体奇妙な事件であるが、この事件には一つ疑問点がある。「仁和寺の女」の見た夢は、どのような経緯で賀茂社に伝えられたのだろうか。また、賀茂社に関する夢想は、多くの場合賀茂社に参詣した人間や賀茂社の社司が体験するものであるのに、「仁和寺辺の女」という賀茂社と関係をもたない存在が、そもそもどうしてこのような夢想を得たのだろうか。この点について考えるための参考となるのは、同じ事件について記した『古今著聞集』の記事である。
175

(夢告)
(占い)
(夢想)
(想起)
176

徳大寺家と仁和寺との深いかかわり

そもそも
徳大寺家の称の由来となった徳大寺は
仁和寺の子院であり
その位置は現在の竜安寺にあたる

徳大寺では実能が大饗などを行っており、後には実定がその近辺に居住していた(『台記』仁平元年正月廿六日条、『玉葉』文治三年二月八日条等)。そして、何より重要なのは、公能の所有していた「得(徳)大寺の馬場」には、隨身(ずいじん)等の住宅が近接して存在していたように(『山槐記』永暦元年九月廿日条)、徳大寺周辺には徳大寺家の家産機構の関係者らが集住していたと考えられるのである。

(以上の点から)仁和寺辺の女の夢想の内容は
徳大寺家から賀茂別宮神主を通じて賀茂社社司らに伝達され
六条天皇・摂政基美へ奏上されるに至ったとの推測が成り立つ

単なる夢想にとどまらず、これが時の政権担当者に奏上されるとなると、これは立派な政治的行動である。

しかもその夢想の内容は、「天下の政が不法であるために、賀茂大明神が日本国を棄てる」という、極めて厳しい政権批判を含んでいる。
177『怪異学の技法』
東アジア恠怪異学編

 



2018年7月17日 9時1分
出納に関する軋轢
 
9世紀の後半になると
卜部だけではなく
陰陽師の占いにも
「祟り」が登場してくる
『三代実録』元慶二年(878)二月二十七日条

越前国敦賀 気比(けひ)神宮で起きた火災の原因を
「祟り」であると陰陽寮が占ったのである
16

気比神宮側は、火災は失火ではないという。このことを越前国司は中央に言上したが、中央では陰陽寮の占いによって、神社の穢が原因で祟りがあらわれたと認識する。つまり、太政官や神宮司が関与していない。神宮司は代々大中臣氏が世襲しており、神祇官との結びつきが深い。そこで、あえて卜部ではなく、陰陽師に命じて神の「祟り」を認知しているのではないだろうか。つまり、国司と気比神宮司との対立が、陰陽寮に祟りを認識させるきっかけとなったということになる。
17『亀卜』臨川書店
 



2018年7月8日 9時25分
凍土
 
『極北シベリア』より

地下水が融解して消失すると 永久凍土の大地は沈下し
アラスとよばれる凹みができる

アラスは東シベリア各地に形成され 速い速度で変化する

西シベリアにも成因の異なる地下水があり
ハッセリーとよばれている
83



凍土を掘った経験があるだろうか。 17

堅くてスコップでは歯が立たない
ツルハシを思いきり打ち下ろして すこし欠けるていど

砂質の凍土は温度の低下とともに強度が増加し
−50度では コンクリートの強度にひとしく
−10度では すこし風化した花崗岩と同じていど

  凍土のもう一つのすぐれた性質は、水を通さない点である。1900年頃からヨーロッパ諸国で、軟弱な地盤を人工的に凍結させ、地盤の改良に応用する工事がなされるようになった。日本でも1960年頃から土木工事に、人工凍土を利用する試みがなされた。とくに1970年代の高度成長期になると、東京や大阪の過密大都市は、地下鉄工事など高水位で軟弱な地盤での土木工事が多く手がけられ、そこで人工凍土が利用されてきた。

  人工凍土を造成させるのは、つぎのようにする。水を多くふくむ軟弱地盤に、一定間隔で鋼管(凍結管)を埋設する。そこに冷凍機でマイナス20度〜30度に冷却した不凍液(塩化カルシウム溶液、凍結温度マイナス56度)をポンプ循環させる。鋼管の周辺に凍土が形成されるが、適切に配置された鋼管にはさまれた地盤は凍土で連結して、6〜8ヵ月すると厚い凍土ができあがる。凍土の堅さと遮水性(不透水性)から、軟弱地盤は安定な強度を保つ。この凍土層を削岩機など、ふつうの岩盤掘削と同じ土木機材で掘り、トンネルをくりぬく。トンネルを掘削した後に、コンクリートを内側から吹きつける。コンクリートに十分な強度が発生した後、ゆっくりと凍土を融解させる。

  新幹線の上野駅の建設でも、図6のようにアーチ型の凍土を造成した。このトンネルの直径は12.9メートルと最大級だった。凍土は約一年にわたって維持され、地下空間が凍土によって支えられ、また地下水の浸透を防いだ。東京湾縦断トンネル工事でも、この人工地盤凍結工法が多用された。

  東京湾に沿っては、より長期的な永久凍土が造成されている。液化天然ガス(LNG)は、天然ガスをマイナス162度まで冷却して日本に輸入され、不純物をまったくふくまない、クリーンなエネルギー源である。この超低温のLNGを安全に貯蔵するために、巨大な地下式タンク群が東京湾沿い(千葉県袖ヶ浦市、横浜根岸市根岸)に建設された。直径50メートル、深さ60メートルのステンレス製のタンクとその周囲のコンクリートからなる、巨大な円筒型タンクで、一基でLNGを20万キロリットル貯蔵できる。図7は最大級の地下タンクの建設中のようすで、この穴にはあのジャンボ旅客機がおさまるほどである。

  液化ガスの温度がマイナス162度という超低温のため、タンク周辺の地盤はある厚さまで凍結状態となる。つまり永久凍土化する。凍土のコンクリートなみの強度と、水を通さない性質をいかして、タンクをより安全に包みこむ。とくに地震のさいの振動などにたいしては、永久凍土がタンクへの被害を食い止めてくれる。

地下貯蔵式LNGタンクが 東京湾沿いに数十 すでに稼働
つまり 東京湾沿いには永久凍土がぞくぞくと形成されているのだ
〜20


72
…6時間ごとに 一年間伸び縮みの自動記録
気温 地表面温度
10 40 80 深さの地温も記録

一年後に記録を回収
温度変動は異常なく記録されていた

問題は収縮や伸張の記録

一見すると、冬になるとしだいに収縮するような、きれいな変化だった。

しかし、六ヵ所すべての変動が相互に類似している。念のために、地表面の温度変動を重ねると、ぴたりと重なってしまった。変位計を研究室に持ち帰り、なにも接続しないで、ただ温度変動をくわえてみた。なんと変位計は温度計になってしまっていた。伸び縮みを検出する部分には、金属に巻きつけたコイルがあり、その中心にある芯棒の移動を電気信号に変換する原理である。このコイルが温度によって影響を受けやすく、一種の温度センサーに変じていたのだ。

凍土中の詳細な温度変動の記録はとれていた
『極北シベリア』新赤版 1996 福田正己


…………………


沈降 か?


7.3〜手元に
ほか 読書にも いそしむ

※昨夜うちこもうとしたものは 先送りに
数ヶ月前からですが (“月水”「平安」とか系)

メモ

・『月経の名称』2013(鈴木明子)/138
WW 大量出血するから
・「月経」の「経」
xidao.blog.fc2.com/blog-entry-21.html
 



2018年3月24日 14時41分
北斎/冨嶽三十六景/甲州三坂水面
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_fujisan/01fugaku/4th_fujisan_01fugaku36_29.htm 
※御坂峠(山梨県富士河口湖町・笛吹市)
…御坂峠は、甲府盆地と富士山麓との間にある鎌倉往還の峠。本図は峠を下り、河口湖畔から富士を望む。中央左よりの湖上の島が鵜の島。その左側の建物は妙法寺と考えられる。中央の集落は勝山村であり、その右手前には河口湖南岸にある大原七郷の鎮守で中世には富士信仰の拠点の一つとなった冨士御室浅間神社の杜が見える。右端の足和田山の麓の集落は長浜村。




・・・・ ・・あと数冊借りていたりもし・・ ・・・・




(当時の「現住所」が掲載されていて)そのころ虎尾氏は佐倉におられた


その一

『延喜式』虎尾俊哉
平成七年新装版第一刷発行(昭和三十九年第一版第一刷発行)

…開始された戸籍作成作業…足かけ三年…

良・賤を確定する法規の必要があったからであり、この詔が出された結果、持統三年末の戸籍作成開始以前に親から売られていた子供は、この「庚寅年籍」ではすべて賤とされたはずである。と同時に、持統四年以後に親から売られた子供は、勿論この持統五年詔によって賤の身分とはなるが、しかし、「庚寅年籍」はすでに持統三年末現在の資料で作成を開始しているので、その事実は戸籍に折りこまれる余裕がない。従って、戸籍の上では依然としてまだ良とされているはずである。そして、後世、良賤の判定の資料としてこの「庚寅年籍」がよく引合いに出される性質のものであった点から判断して、この「庚寅年籍」の良賤記載はみだりに変更しないという原則が、何時からか生れたらしい。勿論、「庚寅年籍」より前に「庚午年籍」があり、これは他の戸籍と違って永久保存の規定もあって、後世時に良賤の判定では重視され、しばしば引合いに出された戸籍である。このような戸籍があるにもかかわらず、特に「庚寅年籍」を同じように重視するのは不審だといわれる向きもあるかも知れないが、実は持統五年三月に良賤に関する詔の出たこと自体が、これ以前の人身売買の規定をこの時変更したか、または、これまで明確な規定のなかったものをこの時期明確化したか、のいずれかであることを示すのであって、人身売買に起因する良賤の判定に関する限り、「庚午年籍」では役に立たないはずである。(…略…)
174-175 刑部省関係の式

雑式(巻五十) 208〜

澪標 みおつくし 211-212(大阪市市章画像は212頁) 

凡そ商賈しょうこの輩ともがら、銭文せんもん明かならざるに依りて嫌いとひて受けざれば、所司笞に決せよ。

これは要するに撰銭えりぜに禁止令に外ならない。 (…略…) 211

凡そ難波津頭の海中に澪標を立てよ。若し旧ふるき標くし朽ち折るる有らば、捜し求めて抜きされ。 211

難波津は今の大阪港である。その頭というのは人口を指す。澪標は澪すなわち水深の深い部分を示す標識であって、要するに航路標識に外ならない。現在の大阪市の市章はこの澪標をそのまま図案化したものである。これは航路の安全を確保するためのものであるから、常に正確な位置に確実に立てられていなければならなかった。したがって、くさったり折れたりして取り換えた際に、古い標識が一部分でも残されていることは許されない。勿論さがし求めて抜き去る必要があった。なかなか周到な規定というべきであろう。日本の内玄関としての難波津の重要性が遺憾なく現わされている。

凡そ太宰、南嶋に於いては牌はいを樹て、具つぶさに嶋名及び船を泊つる処、水有る処、幷びに去就の国の行程を顕はし著けよ。遙かに嶋名を見、仍りて漂着の船人をして必ず帰向する所あるを知らしめよ。

これも海事に関する興味深い細則である。南嶋というのは、太宰管轄のタネ・ヤク・アマミなどの島々で、遣唐使船の南島路に位置する島々である。これらの島には、太宰府の責任で立て札が建てられた。これには島名・淀泊可能地・飲料水のある場所・隣国への行程が記入された。(…略…) 212

凡そ諸国駅路の辺には、菓樹を植え、往還の人をして休息するを得さしめよ。若し水無きの処は便を量りて井を掘れ。

この規定は要するに官道の両側に食用の菓樹を植え、井戸を掘るなどして、暑熱と飢渇とを避けられるように配慮したものである。駅路の利用者は官使を主体としたから、これは一見庶民には縁のない既定のようにも見えるが、実はこの規定の起りは遠く天平宝字三年(759)六月にあり、その発案者は東大寺の普照法師であった。そして普照の奏状を見ると、「道路に百姓の来去すること絶えず」とあって、この文面から見、また発案者が僧侶である点から見て、この規定が庶民をも対象に含んでのものであったことは疑いない。ことに調庸の運搬者や官使随行した駅子などには、この上もないいこいを提供したに違いない。もっとも、これが果してどの程度に実行されたかという点が気になるところであるが、弘仁十二年(821)の大和の国(奈良県)から太政官あての報告には、この菓樹を近隣の人民が伐損して困るから、厳重に禁止して貰いたい、と述べている。これは一面、この植樹が実際に行なわれて旅人を益したことを示し、一面、これを伐損した現地民のいることも示している。苦しいのは旅人ばかりではなかったからである。しかし、とにかく全くの空文でなかったことだけは知られる。

ところで、陸上交通確保の上での最も重要な施設の一つに橋がある。この橋は勿論木橋であるから、その維持ということには、相当計画的な施策がとられていなければならないはずであるが、果せるかな、これについての規定の一端がやはり雑式に見えている。
(……略……)
213-214『延喜式』 

※太字は区別のため(記入者による) 



・・・・・・・・・・
大阪市章“澪標”

(家紋“結び文”http://www.preshion.net/design.php?id=km&page=152&find=#)
“結び文”(箸置き)の折り方 https://handmade3.jp/28.html
(家紋“丸に鋏”は1993の頃とは違い 今は裏返さなくても対称になったらしい)

・・・・・・・・・・

その二
 
『美の幾何学』伏見康治/安野光雅/中村義作
1993-10版(1979初版)中公新書554(のほうの頁)

(紋帖をくりながら)
逆立ちしてやっても「こんなにシンプルなものはできませんよ」
日本中の都市には 一種の紋章がある
なかなかいいのがない 失礼だけれども(安野)

大阪の「みおつくし」とか 神戸の「扇面二つ」とか
いいのがある(伏見)
54


「裏返し対称」:表面だけ見てると対称じゃないけれど
その物を裏返して考えれば ちゃんと対称になっている(中村)

伏見
たとえばこれね。(と結び文をつくる)これは全く平面の中の図形とみれば対称ではない。だけど、これはあくまで紙で追った物だと考えれば、裏返すと重なってしまうから対称なんです。

中村
鋏などもそうですね。手にとってひっくり返すつもりになれば、元の形に重なってしまう。

安野
あれはぼくは「やられた!」とおもったな。立体感覚がすぐれていて、平面に書かれた図形でもおのずと立体的に見える人じゃないと、あれは気がつかない。53


対称性をかぎとる能力

対象というとまず第一に考えるのは左右対称のことですが、それ以外にもいろいろあるので、対称性を調べるのには、その可能性をしらべてかからないといけないのです。北斎の冨嶽三十六景の中に、実に変な図柄がありますね。富士山があって湖があって、その湖面に富士山が逆さかしまにうつっている。そこまではいいのですが、その富士山の影が本当の富士山の真下になくて左に偏っているのです。よく見てみると、どうやら北斎は湖面の富士山を、本当の富士の「鏡映」として描いたのではなく、画の中心を中心として180度回転したものとして描いたとしか思えないんです。北斎はこの絵以外にも対称性があるんだということを教えようとしたんではないでしょうかね。紋の中に茗荷を左右対称にならべた「抱き茗荷」というのがありますが、これに対して左側のが逆さになっていて、「追いかけ茗荷」というのがありますね。対称性からいえば、これも「鏡映」から「180度回転」または「二つ割回転」に移ったことになります。抱き茗荷が本家の紋で、追いかけ茗荷が分家のものだと思いますが、この対象に思い付いたときには、考案者はずいぶん得意だったろうと思いますね。
伏見/9-10


伏見
三輪車で昔、サイドカーの付いたオートバイなんてあったけれども、あれもおそらく安定性が悪いでしょうな。

安野
サイドカー、よくないですよ。あれはカーブを曲がるときに、右へ曲がる時と左へ曲がる時で勝手が違うみたいですね。ですから乗せてもらってる人間がかなり援助しなきゃいけない。

中村
ヨットと同じような恰好……。

安野
そうなんです。カーブにくるとからだを半分乗り出して変な格好してバランスをとるんです。(笑)ぼく、乗ってみてはじめてわかりましたねえ。

伏見
だからそういう意味で、左右対称性というのは、ぼくはスタティックス(静力学)の世界では理解できないんじゃないかと思う。ダイナミックス(動力学)の世界でないと理解できない。だから幾何学といっても純粋な幾何学の問題ではすまなくて、少なくとも運動学を取り入れないとだめですな。

安野
運動を考えに入れてものを見ると、人間の存在とシンメトリーの関係はもっとおもしろいものに見えてくるでしょうね。
12『美の幾何学』



・・・・・・・・・・家紋 追いかけ茗荷 画像が出ませんか
抱き茗荷
むかしむかし 塗りものに金色の塗料でマーキングしていた方が 近くにいたような
・・・・・・・・・・
先日 日中に窓が開放されたまま。。そのまま あれ というときに
ノグチ2〜3枚が その辺に置かれたままになってた。。。。


そちらの湖面 逆さのほうの画像を そのあたりから
以下に
[続きを読む]
 



2018年2月7日 9時46分
(果たしてきた役割)
 
※その書を再び開くかどうか わかりません※ 2.24



アカデミア・デイ・リンチェイ(Accademia (Nazionale) dei Lincei: オオヤマネコの学会の意味
ローマのコルシーニ宮殿にある科学アカデミー…
…Wikipedia…
ローマ教皇庁科学アカデミー
Pontificia accademia delle scienze
Pontificia Academia Scientiarum
…Wikipedia…
フェデリコ・チェージ
(Federico Angelo Cesi、1585年2月26日 - 1630年8月1日)
・・・・・・・・・・ ////////// ・・・・・・・・・・


『細胞学の歴史−生命科学を拓いた人びと−』1999
アーサー ヒューズ Arthur Hughes (原著)
西村 顕治 (翻訳)

望遠鏡と顕微鏡の双方が最初に用いられたのはローマであった
1601年 フェデリコ・チェジが山猫アカデミーを創設
1609年 ガリレオが参加

顕微鏡を用いて業績が継続的に積まれるようになったのは
英国の王立協会が創設(1662年)され 初代の装置管理者に
ロバート・フック(1635-1703)が任ぜられてから

顕微鏡は彼にとって、多くの興味ある対象の1つにすぎなかったのだが、それでも、1665年に出版されたかの有名な『ミクログラフィア』は、表題紙にあるように「微細なものの生理学的な記載」にもっぱら向けられたものであった。それゆえ、ほかならぬ、ここにこそ、本書の主題が始まる。細胞の構造がはじめて図に描かれて、私たちが用いているのと同じ意味での「細胞」cellという語が使われたのであった。 14

2.11 追加


・・・・・・・・・・

その化学的研究領域の創設者はフレデリック・ミーシャー(1844-1895)
彼の父親はヨハンネス・ミュラーのもとで学んだ
彼自身はバーゼル大学在学中にウィルヘルム・ヒスの授業を受けた

ミーシャーの卒後研究は 1860年代の後半に
当時の指導的生理化学者だったホッペ-ザイラーのもとで始められた


『細胞学の歴史−生命科学を拓いた人びと−』P139〜
 
…ミーシャーの課題選択は、しかし、完全に彼自身で決めたものであった。その頃までには、それが普遍的に存在することから、核が特別に重要な細胞成分であることは明らかとなっていた。しかし、核についてなんらかの化学分析が可能となる前提として、まずまとまった量の核をほかの細胞成分から分離しなければならなかった。これを試みようとミーシャーは決心し、研究材料に、捨てられた外科の包帯から集めた膿の細胞を選ぶという、一見異様な選択をした。確かに膿は、消毒が行われる以前の病院では十分豊富であったが、それでも、彼が言うには、「疵物きずものなしとはいかなかった」。彼は、臭気があまりすごい包帯は取り除く配慮をした。

細胞が懸濁液として得られ、さらに、稀塩酸、ペプシンおよびエーテルであると彼は知った。核はフラスコの底に沈んで、顕微鏡下にはこの沈渣が、「平滑な外囲と均質な内容物に、それぞれはっきりした輪郭をそなえた核小体を持ち、最初の大きさよりやや小さ目なながら完全に純粋な核」であることを観察した(Miescher,1871)。その当時数人の研究者が、似たりよったりの方法でいろいろな組織から核を単離していたが(Brunton,1870;Auerbach,1874)、そういった操作はその後も無視され続け、ようやく1930年代になって、細胞分画法の名称(Claude,1937)で復活した。

ミーシャーは膿細胞の核から注目すべき性質をそなえた物質を調整し、それに「ヌクレイン」nuclein の名称を与えた。それは既知のどんな生体物質よりも強い酸であり、さらに、当時は生物学関連の有機物中ではきわめて希少だとされた元素である燐が高い組成で含まれることで識別された。この研究段階で、ミーシャーが得た結果は当時としてあまりにも驚くべきものであったため、ホッペ-ザイラーはそれらの結論を自身で確認するまで公表を渋り、そのため、ミーシャーの論文が世に出たのは、2年も遅れて1871年であった。

しかし同じ年に、彼はバーゼルに帰郷して、ライン河の冬サケの成熟した精巣もまた、いっそう魅力的なヌクレインの材料に相違ないことを発見した。単利した精子の頭部中に、彼は酸性のヌクレイン、すなわち核酸ばかりでなく、それといっしょに複合体を作っていた塩基性の強い窒素化合物を発見したので、それに彼は「プロタミン」protaminという名称を与えた。この材料からのヌクレイン調整は、精子の頭部を強酸で溶解し、それを水で希釈して、ヌクレインでできた線維を沈殿させるというものであった。これらの調整試料をできるだけ冷却しておく必要があったため、彼は、冬に暖房なしの部屋で働いたのであった。彼は友人の一人に以下のように実験方法について述べている。

核酸を調整しようという時、私は朝5時に研究室に行く……どの溶液も5分以上は放置せず、どの沈殿も1時間以上は無水アルコール中にとどめることができない。しばしばそれが夜遅くまで続いた。唯一この方法だけで、私は一定の燐の組成を持つ産物をついに手に入れたのだ。(Greenstein,1943)

ミーシャーは、ヌクレインの特徴として、ペプシン消化に抵抗性があり、かつアルカリに可溶なことを発見した。高濃度の塩溶液で処理すると、膨潤してゲル化した。1881年にはザカリアスが顕微鏡下で、さまざまな種類の細胞や核に対してこれらの試験を適用した。彼は、ペプシンがカエル赤血球の細胞質を消化し去って、単離した核を残すことを見出した。同じ結果が Vorticella やゾウリムシ Paramoecium などの繊毛虫類で見られたが、その際に、大核は実験後も溶解しないまま残った。これらの小核はアルカリに可溶であった。彼が植物組織について興味深い観察をしたものがあったのだが、それは、分裂中の花母粉細胞の染色体はペプシンに抵抗性を持つが、紡錘糸は消化されたのである。フレミングは翌年、このザカリアスの仕事を念頭に置いて、彼の著書『細胞質、核および細胞分裂』の中で、核の「枠組み」を形成している物質である「染色質」chromatin を定義したのであった。

……その光学的屈折性、それが示す反応、そして何といっても色素に対する親和性から見て、私が染色質と名付けた物質である。たぶん染色質はヌクレインそのものであろうが、もしそうでなかったとしても、ザカリアスの業績から見て、相互に相通じるものである。染色質という言葉は、それの化学的な性質が知られるようになるまでは役に立つことだろうし、それまでの間は、細胞核内の易染性物質を指すのである。


現在、「核酸」nucleic acid という語は物質の1グループを指すことがわかっている。この物質は2種類に分けられ、両方とも核の中に見出される。そのうちの1つは、核の外には存在しない。さらに、生きている状態では核酸が通常結合しているのが、広義でいうところの塩基性タンパク質に属するものであるが、それらの中でも、成熟した魚の精子が持つプロタミンは、極端な事例である。

核酸の化学的研究の進歩は、アルトマン(1852-1900)がたんぱく質を含まない試料調整法を発見してから、加速されることになった。それは1889年に発表された。それから3年以内には、核酸の3成分が識別された。燐酸に加えて、プリンとピリミジンという2つのタイプの有機塩基、および第3には、五炭糖の炭水化物があった。核酸が調整されたおもな材料は、酵母と動物の胸腺であった。これら2つの材料から単離された産物に、ある相違がみられ、それから動物と植物の核酸の間にある基本的な相違であろうという早まった一般化が持ち上がった。しかし、1914年には、この2元論は誤っていることが示されたのである。生化学者のR.フォイルゲン(1914)によって、胸腺タイプの核酸が持つ不安定な炭水化物は、その頃まで考えられていたような六炭糖ではなくて、五炭糖であって、緩和な加水分解でアルデヒドを遊離し、それがこの類の物質検出に用いる通常の試薬である亜硫酸で脱色したフクシン色素によって兼sy通されることが示されたのである。10年後に、この試験が顕微鏡下で組織切片に適用された。そのときフォイルゲンと彼の共同研究者のH.ロッセンベック(2924)は、麦芽の核がこの試験に強く反応するのを発見して非常に驚いた。その結果は、胸腺タイプの核酸が植物の細胞に見出されたことを示していたからである。

現在では、核酸のタイプの区別が動物と植物の細胞内におけるそれらの分布状態と関係していることがわかっている。胸腺タイプの核酸は核の中でのみ見出され、その淡水化物成分はデオキシリボースで、デオキシリボ核酸、つづめてDNAとしても知られる。もう一方のタイプの核酸も、動物と植物ともに細胞質と核の双方に見出され、核では核小体の主成分である。ここでもリボ核酸、RNAの名称は、その炭水化物であるδ-リボースに由来する。さらに、それら2つのタイプの核酸は、同じプリン塩基[アデニンとグアニン]を持つが、ピリミジン塩基ののうちの1つが相違する[DNADEシトシントチミン、RNAでシトシンとウラシル]。

組織化学的方法として応用した場合の
〜P143


1.27 17:21:30 下書き保存分

 



2018年2月3日 19時7分
土質や環境を「生かす」
 

西岡常一(1908〜1995)
『木に学ぶ―法隆寺・薬師寺の美―』1988
『木のいのち木のこころ〈天・地・人〉』2005(聞き書き)


…………………


「堂塔の建立には木を買わず山を買え」
「堂塔の木組みは寸法で組まず、木の癖で組め」
「木の癖組は工人たちの心組み」
宮大工の口伝


木は土質により質が違い
育つ環境により癖がある

同じところで育った木は癖があっても 力は揃っている

伐採されて製材されたものを買うのではなく
自分で山に行って地質を見 環境による木の癖を見抜いて買う

薬師寺金堂の復興に際し 西岡氏は山を買うべく台湾に出向き
樹齢二千年の木が並ぶ山に入り

青々した若葉をつけているものではなく
黄ばんだ渋い葉をつけた枯死寸前と思しきものをえらび
(現地人は驚いた)

(検索すると)
前者は空洞で使いものにならず
後者は心材がしっかりつまっていた

心材が腐って空洞化すると中を養う必要がなくなり
その分 枝葉に養分がゆきわたり
若々しい葉をつけるのだ

木はそれぞれ(右左に)捩れる癖をもち
寸法で組まずに木の癖で組むと左右の捩れがうまく組み合わされ
捩れがなくなり 歪みがこない

法隆寺を検証してみると
飛鳥時代のものとその後の修理のものとで はっきりした違いがあるという創建当時のものは 一本一本の個性に合わせて仕上げられているが
後の時代のものは規格に合わせて同じ寸法で作られているので
見栄えはいいが無理をきたしてしまう


「気に入らんから使わん、というわけにはいかんのです。自分の気にいるものだけで造るんでは、木の癖を見抜いてその癖を生かせという口伝に反しますやろ」
西岡

辞めさせ あるいは 取り除いていたら「いいもんはできんのです」

「素直に、自分の癖を取って、自分で考え、工夫して、努力して初めて身につくんです。苦労して、考え考えしてやっているうちに、ふっと抜けるんですな。そうしてこうやるのかと気がつくんです。こうして覚えたことは決して忘れませんで」
西岡


たとえば
「われわれNGOの運営や活動という現場に引き寄せてみると」

目先の対応や資金調達に追われ
理念やヴィジョンというものが不明確になり

個性を生かすどころか
一人ひとりを疲弊させている現実になっていないか

一人ひとりが本当に造りたいと思わなければできるものではない


開発協力の専門家たちにも、ぜひこのような認識をもっていただきたいと思う。ちなみに、難民キャンプを支援するという場合、予報接種したら乳児の死亡率がどれほど下がるか、とか、どれだけの期間で成果があげられるか、というところばかりに目がいきがちである。もちろん、それは大事なことであるが、では、なぜそういう社会、文化が成り立っているのか、というところまで深く探求する必要がある。
『大法輪』第82巻(平成27年)12号
慈悲のかたち ―仏教ボランティアを通して(その23)
◇塔組は、木の癖組、人の心組み◇/38-43/大菅俊幸


…………………




(個人的) 最近のシーン

組めないこともある
というより・・・・組あがらない

(1.強すぎる依存は 全体の持続を脅かす)

 2.癖の生かし方の 悪用
 3.火をつけるような言動

 4.過度な根回し コントロールしすぎ

(建築途中の)枠組みだけでなく
大切に育ててきた信用 信頼も崩し

台無し



※「悪用」狙いの悪用は論外

 



2018年1月14日 16時19分
ある (設計)図
 

ステロイドホルモンは
細胞の性質を大きく変えるという面でくわしく研究されている

ステロイドは膜のなかに多く見いだされるものだが、ステロイドホルモンは膜を通過して細胞内に進入し、染色体DNAの特定部分に結合しているステロイドホルモンレセプターに相互作用してその性質を変える。レセプターは転写制御因子であり、これによって一群の遺伝子のRNA合成が活性化される。

エクジソンとよばれる昆虫の変態ホルモンはステロイドホルモンの一種であり、幼虫からさなぎに変わる過程での元締め的なマスタースイッチの役割をはたしている。このホルモンが昆虫のリンパ中に出され、各細胞のなかに入ると染色体の特定部分で転写が開始され、さなぎになるまでたくさんの遺伝子があらたに活性化される。昆虫の唾液腺細胞にある巨大染色体を用いて観察すると、パフとよばれる染色体が開いたような発現部位が多数視覚化され、遺伝子の継続的な発現がみごとにしめされる。

発生とか形態形成の観点で見ると、細胞の空間的な位置も遺伝子発現に大きく影響する。多細胞体制をつくるプログラムはDNAに書かれており、形態の形成に必要ないろいろな遺伝子が発見されている。これらの遺伝子の変異体は形態の異常をもたらす。本来発現されるべきタイミングと位置でこれらの遺伝子の転写がおこらないと、形態の異常がおこる。
P104『細胞から生命が見える』岩波新書387/2012年 第7刷(1995年第1刷)/柳田充光



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「染色体」 細胞観察の歴史

織物業が発展した19世紀 染料が多く開発された 
当時の布 「生物がつくる繊維」からなっている = 細胞の集まり

染色体は遺伝子を格納している

細胞学者たちは,ある染料で染めた細胞を顕微鏡でくわしく観察すると,細胞の中ににある「核」だけが強く染色されていることに気がついた。ドイツの解剖学者ウォルター・フレミング(1843〜1905)は,染色されているのは核にある糸状の物質であることを発見し,「染色質」と名づけた。

さらに細胞学者たちは,染色質が別の姿に変化するようすを観察した。二つに分裂しようとしている細胞では,染色質からなる核が,何本もの棒状の物体へと変化していたのである。この,染色質が凝縮してつくる棒状の構造が「染色体」とよばれるものだ。ヒトの場合,1個の細胞に含まれる染色体の数は46本である。

さて,染色体の成分である染色質は,どのような物質でできているのだろうか? それが明らかになったのは,20世紀になってからのことである。染色質をつくっているのは,DNA(デオキシリボ核酸)と,それを巻きつけるしんの役目を果たす「ヒストン」というタンパク質だった。DNAとは,長いはしごのような分子で,はしごの段にあたる部分(塩基)の一つ一つが,いわば文字の役目を果たしている。

この文字によってあらわされる情報こそ,生命の設計図である「遺伝子」だ。おどろくべきことに,46本の染色体に含まれるDNAの全長はなんと約2メートルにもなり,そこには約60億文字の情報が含まれているのである。
P30/Newton/2006.2

…紆余曲折の末に確定した「人の染色体は46本」… P32-33

「X染色体」という呼び名は 
…「正体のわからぬもの(X)」もしくは「eXtra(余分な)」からきているといわれており… P53
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X染色体

ヘルマン・ヘンキングによって1891年に発見された

ヘンキングは、この染色体の特殊性について充分には気づかず「X染色体」と名付けて発表した。その後、1900年代に染色体研究が進展し、X染色体が性決定に関与する染色体であることが判明した。

X染色体という名称はヘンキングの命名によるものであり「正体不明」の意味と伝えられる。X染色体・Y染色体がそれぞれアルファベットのX・Yのような形をしているからそう呼ばれるようになったというのは俗説である。…  Wikipedia


細胞核 Wikipediaより
…核内には、糸状に連なったDNA分子が結合蛋白質と複合体を構成しながら散らばっており、クロマチン(chromatin)あるいは染色質と呼ばれる…



Wikipediaより 馬回虫 Parascaris equorum
(Goeze, 1782) Yorke & Maplestone, 1926

…ウマ、ロバ、ラバ、シマウマ、ウシの小腸、時に盲腸、結腸に寄生する回虫の1種
体長は♂15-28cm、♀18-50cm。感染様式は経口感染…

染色体は2本と非常に少なく、ドイツの動物学者テオドール・ボヴェリにより、1887年に初めての染色体削減(染色質削減)という現象が報告された動物でもある。…



染色体説 Wikipedia

…染色体説提唱の背景には、全ての細胞は細胞から生じるとする細胞説と、当時再発見されたばかりのメンデルの法則がある。20世紀初頭、黎明期の遺伝学と、先行して発展していた細胞学の融合から、遺伝の染色体説が誕生した。

メンデルの法則は1865年に報告されたが、長い間歴史に埋もれ、「再発見」されたのは35年後の1900年である(詳しくはメンデルの項目を参照)。遺伝の連続性が保証される背景には細胞説があり、これに基づく古典的な細胞学は、染色・観察技術の発達とともに19世紀末までには発展を遂げていた。またアウグスト・ヴァイスマン(August Weismann)は遺伝因子は生殖細胞にあるとする生殖質説を提唱しており、移植実験などからは細胞核に遺伝物質があることが予測されていた。1842年に発見された染色体に関しても、続く研究でさまざまな生物種における種類や数、細胞分裂において母細胞から二つの娘細胞へと受け継がれる様子などの知見が蓄積しつつあった(ヴァルター・フレミング (Walther Flemming)の項参照)。

このように19世紀末までには染色体説の下地ができていたが、遺伝の染色体説を主張するためには、配偶子形成における染色体の挙動を示す必要があった。なぜなら、遺伝の一過程である受精では、卵子と精子の融合によって染色体数が倍加するため、あらかじめ染色体数を半減することが必要である。しかし、この過程に関する知見がまだ得られていなかった。

減数分裂における染色体の挙動と染色体説の提唱

サットンの貢献

体細胞分裂と減数分裂における染色体の分配: 簡単のため一組の相同染色体のみ示した。通常の細胞では父系と母系由来の染色体を一組ずつ持つ(左上)。分裂に先立って染色体の倍加が起こる(左中)。体細胞分裂では2倍になった染色体がそれぞれ娘細胞に受け継がれる(右上)。減数分裂では相同染色体が対になる(左下)。第1分裂で倍加したまま分配され(下中央)、続く第2分裂でさらに分離する(右下)。最終的に形成される配偶子では染色体数が半減する。

遺伝の染色体説を明確に提唱したのはウォルター・サットン(Walter Sutton)の1902年の論文が最初である。彼はバッタの一種 Brachystola magna を用いて減数分裂の細胞学的な研究を行い、配偶子形成における染色体の挙動がメンデルの法則に従うことを見いだした。メンデルの法則が再発見されて間もない頃である。

サットンはこの昆虫では染色体が大きくはっきりと観察できる利点を利用し、配偶子形成における染色体の観察を行った。1902年の論文『 Brachystola magna における染色体群の形態について』において、配偶子形成時の細胞分裂では相同な染色体(相同染色体)どうしが対を作っており、これらが配偶子に一つずつ分配され、染色体数の半減、すなわち減数分裂が起こることを示した(右図、および減数分裂の項目参照)(Sutton, 1902) 。配偶子形成における染色体の減数と分配が明らかになったことで、それまで推測の域を出なかった染色体説に対して最初の明示的な証拠が提出された。この論文の最後の段落でサットンは「この現象がメンデルの法則に従っており、これが遺伝の物理的基盤である可能性を示唆し、この主題について場を改めてすぐに紹介したい」と述べている。そして翌年の論文『遺伝における染色体』では、この仮説をより発展させ、それぞれの染色分体がランダムに分配されることから、メンデルの法則を説明した (Sutton, 1903) 。

配偶子がもつ染色体の組み合わせは、体細胞の相同染色体対の累乗であり、次世代における染色体の組み合わせはさらに累乗する。つまり2組の相同染色体をもつ場合、配偶子は 22=4、次世代は 42=16 通り生じる。これはメンデルが交配実験で得た結果と合致する(具体例はメンデルの法則を参照)。さらに、この論文では一つの染色体には多数の遺伝形質が存在することを予言し、またそれらは不分離だろうと述べている(実際には組換えが起こる)。

このようにして、25歳の大学院生だったサットンによって細胞学から遺伝現象へと手が差し伸べられたのである。後に遺伝学的手法により染色体説を実証したモーガンやアルフレッド・スターティヴァント(Alfred Sturtevant)は「サットンの仮説で染色体説は既に完成していた」と著書や講演の中で述べている。…




ヴァルター・フレミング
(Walther Flemming, 1843年4月21日 - 1905年8月4日)ドイツの細胞学者

来歴
ドイツのザクセンベルク(Sachsenberg)生まれ。父親カール・フリードリッヒ・フレミング(Carl Friedrich Flemming)は著名な精神科医。ロストック大学で医学を学び、従軍医として働いた後、プラハ大学に職を得る。1876年より、キール大学の解剖学教授。フリーメイソンの内組織「シュライン(英語版)」に所属していた。

業績
フレミングが描いた染色体の動き Zellsubstanz, Kern und Zelltheilung, 1882
細胞の固定法および染色法の開発と改良に貢献。細胞核内にアニリンで強く染まる構造を見いだし、これをクロマチン(chromatin:染色質)と名付ける。さらに細胞分裂時には、クロマチンが糸状の構造体に変換すること、さらにそれが縦裂することを発見。すなわち、現在の言葉に置き換えれば、染色体凝縮と姉妹染色分体分離の過程を初めて正確に記載したことになる。これらの結果は、1882年、「細胞質、核、細胞分裂 (Zell-substanz, Kern und Zelltheilung)」にまとめられ、その後の有糸分裂研究の基礎となる。有糸分裂 (mitosis) も彼の命名による。mitosisとは、ギリシャ語で糸 (thread) の意。ちなみに染色体(chromosome)という語は、1888年ヴァルデヤー(Heinrich Wilhelm Waldeyer)によって初めて用いられた。

フレミングは、メンデル(1822-1884)の業績を知らなかったといわれ、自らの観察と遺伝の関係について明確に言及することはなかった。しかし、1900年メンデルの法則が“再発見”されるに伴い、フレミングの観察の本質が再評価されることになった。 …Wikipedia



木綿 Wikipedia



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画面デザイン:「世界情勢」→「オレンジストライプ」 (18-1-18)
→ちょうどいいのが無くて「水」に(18-1-21)
 




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