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「新谷の魂」
 
2016年3月1日 14時14分の記事



北海道分領管轄図

北海道における移民文化形成に関する研究−八雲町における士族移民を例に−2007年2月作成

(「※榎本1993より筆者が作図。」とある)

白地図で また手描きかな?と思われましたが
とても情熱的なそれを みつけてしまいました^^


お名前などが不明ですが置かせていただくことに…


検索できるのは この1枚のみ?



(下の)『アイヌ民族抵抗史』171頁に 同様の図があります  





「近代国家は魂までも支配しようとする」
その最後の担い手が「アイヌ学者・研究者」であった P252

「アイヌ学者」が「収奪者だった」という表現


それらは アイヌ文化交流センターで 確認できるのかもしれません

都のパンフレットが手元にあり… その名称がわかったのですが

何故か そこに行こうと思ったことが一度も無く……
行間から 真実が溢れているようにもみえませんので





新谷 行(しんや ぎょう、1932年 - 1979年3月18日)昭和期の詩人、文芸評論家、歴史家。本名は新屋英行(あらや・ひでゆき)で、北海道の騎手・新屋幸吉は兄にあたる。妻は詩人の上杉浩子。

留萌郡小平蘂村(現在の小平町)に 馬喰の五男として生まれる1953年に留萌高等学校を卒業

1973年3月に結節性動脈周囲炎を発症
翌年4月には北海道の実家に引き取られ闘病生活を送りつつ執筆
-Wikipedia



   ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬






アイヌ民族抵抗史 2015 新谷行/河出書房

「著作権者にお心当たりのある方は、編集部までご一報いただけると幸いです」

※『増補 アイヌ民族抵抗史』を底本とする
(1977年7月刊/初版1972年10月刊/三一書房)


新谷行/1932年北海道留萌郡に生まれる
1957年中央大学法学部卒業。出版社勤務を経て、詩人・フリーライターとして活躍、特にアイヌ問題に関心を持ち、自ら先頭に立ち、運動を展開。著者に詩集『水平線』『シララの歌』『シャクシャインの歌』『ノッカマプの丘に火燃えよ』、評論・エッセイに『ユーカラの世界』『アイヌ民族と天皇制国家』『古代天皇制国家と原住民』『松浦武四郎とアイヌ』『コタンに生きる人びと――新谷行遺稿集』などがある。1979年3月歿。






増補版あとがき】    P301〜3

『アイヌ民族抵抗史』が1972年10月に初版発行されてから約5年になる。その間に殆ど全国各地から私のところに手紙が来た。二十何代も家系がつづいているという東北のある人は、これまで東北地方でもやもやしていたものが、この書ではっきりと赤い筋が引かれたような気がすると言ってくれた。かつてアイヌと親しくしたことのある関西のある老人が、書中に出てくるアイヌの人の名をあげ、あの人はまだ生きていたのかとなつかしげな長文の手紙をくれた。また、これも関西の若い人だが匿名でカンパをしてくれたことが何度かあった。そして何よりもうれしかったのは、アイヌの友人が北海道の山奥をまわったとき、あるアイヌの老人が炉端にこの本を置き、何度も読み返したのか、本が真っ黒になっていると聞いたときであった。この本は決してやさしく書かれはいない。古典の引用などむずかしいところがたくさんある。それなのに、この老人は私の本を何度も読み返してくれたのである。

誇張でなく、この本が出版されてからアイヌ問題は大きく変わった。私のめざしたのは、あくまでもアイヌの独立に志向を持った現実的なアイヌの復権ということであった。私の知るかぎりではアイヌの側に立ったアイヌの歴史は本書をのぞいて一冊もない。北方史を書くとなればどうしても和人の侵略の歴史になり、現実のアイヌと和人との立場を是認するかぎり北海道開拓礼賛の歴史にならざるを得ない。その意味でも私は本書を書くにあたってはあらゆる和人的な考えを捨てるよう努力したつもりである。

今、北海道で「復権アイヌ」(自らアイヌであることを名乗り出、復権を願う人)が多く出ているそうである。こうした人たちが現われ、アイヌの復権のために活躍されることはいいことだ。アイヌの復権はこれから更に輪を広げ、益々さかんになるだろう。微力ながらこれからも私はそのためにつくすつもりでいる。

私は本書の初版を書いて数ヶ月後に病に倒れ、一時は失明状態になって何もできなかった。やっと立って歩けるようになったと思ったらシャクシャイン事件での逮捕である。が、現在はどうやら健康もとり戻してぼつぼつ仕事もできるようになった。これからである。

初版が出た1972年から現在まで、アイヌの活躍はめざましいものがある。この増補版では、初版の明らかな誤植を正すと同時に、若干の個所をあらため、1972年からの動きを約60枚新たに書きおこしてつけ加えた。今後もこうした作業はつづけてゆくつもりでいる。読者のご批評を乞う次第である。

なお、増補改訂にあたっては三一書房の野崎雄三氏にお世話いただいた。ここに深謝する次第である。

1977年4月23日  新谷行



三一書房という文字を見たときに即Sakurai版に繋がりました−記入者





原住民の認識

これまでの歴史学者のほとんどは、蝦夷を中央権力に「まつろわぬもの」としてだけ把握してきた。しかし、蝦夷は「まつろわぬもの」であるより先に、日本列島の「原住民族」である。蝦夷を「原住民族」と認識して、はじめて「まつろわぬ」ことの意味が解け、蝦夷の抵抗の必然性が理解されるのである。私は、「蝦夷征服」の事実を、次のように把握する。

3世紀またはそれ以前より朝鮮半島から日本列島各地に渡来した民族のうち、北九州に集団的に勢力を拡充した部分が近畿地方に進出し、大和国家を確立した。豪族連合的な「先プレ国家」から「天皇国家」にいたるプロセスは、各地における原住民族との、また支配者層間の絶えざる争闘の連続であり、それはいいかえれば権力確立のための政治的・軍事的・制度的な強化と「発展」の過程であった。彼らが大陸の中華帝国に奴隷をふくむ貢物をもって頻繁に朝貢し、印璽や称号を欲しがったのは、日本列島内の支配権を帝国直属の「権威」を借りて確定しようとしたあらわれだった。帝国との交通、朝貢は、政治制度、軍事力、緒種の「文化」を輸入する。当然、異族や同族の下層民を支配する狡智にたけた教義や方法も学んだであろう。――こうして畿内に定着し、強大になった征服民族を核とする「文明」国家(中華帝国の亜流)が、東国に向かってその触手を伸ばし、辺境の異族を滅ぼし、「まつろわぬもの」は殺し、版図の外へ追い、従う者は拡大した国家の内部に被支配者として編入する。すなわち、「蝦夷征伐」とは、天皇族による蝦夷侵略にほかならない。私たちたちは「蝦夷征伐」史観に対して、征服者国家に対する原住民族(蝦夷)の自衛のための戦争史観を対置させねばならないのである。
P18、9






解題【新谷行『アイヌ民族抵抗史』を読むために(P304〜9)

日高文芸特別号編集委員会(編)『日高文芸』特別号「鳩沢佐美夫とその時代」(2013年12月20日)所収の盛四義昭氏による「回想『日高文芸』」のなかに 新谷行についての章がある

盛氏は1969年の日高文芸協会の創立メンバーのひとりで
1975年の終刊まで『日高文芸』の発行・編集に携わった

特別号編集委員会の代表 盛氏の回想からの引用

新谷行(本名新屋あらや英行)は、1932年(昭和七)北海道留萌郡小平で馬喰の子として生まれる。近所にアイヌ部落があり、そこは雨が降れば流されてしまう土地だった。差別がつくり出す貧困、その環境から生まれる差別を目の当たりにして育つ。小学校で同級生のアイヌの少女がいじめられていたことがきっかけになってアイヌ問題に関心をもつようになったという。新谷にかぎらず、このようないじめに加担したり、傍観者としてなすすべもなくその場に居合わせた体験を持つ人は多くいるはずだ。彼は、アイヌの問題は自然に対する人間の価値観の問題だという。

(略)

新谷が亡くなったのは1979年(昭和五四年)である。彼にアイヌの血が流れていることを知っている人は数少ない。

(略)

1972年(昭和四七年)11月16日北海タイムス(夕刊)文化欄に
「私の仕事『アイヌ民族抵抗史』をまとめた新谷行氏」という記事があり その中で自らの出自を「私にアイヌの血が多少流れているのは確かですが…」と前置きしてインタビューに応じている

また新谷行夫人で詩人の上杉浩子は「新谷行について」(『北方文芸』1980年6月号)の中で「病を押して、彼はその後もアイヌ関係の著作に専念した。[中略]彼の性格の複雑な一面は、自分の祖母がアイヌである事を少年時代からひた隠しにしながら成長した彼の心の深い痛みのなかにあった。彼はそのことを終生人に語らなかったし、私にも曖昧にしていたのである」と書いている

アイヌは滅びない。アイヌ復権はアイヌ自身の手で行わなければならないと、熱く語った新谷行が亡くなったのは1979年(昭和五四年)3月18日。清貧苛烈の生涯だった。「葬式の費用なく、病院の霊安室で密葬。身内や一部の知人のほか、その死を知る人は少なく、今も若い読者から手紙が届く。」と、死後しばらくして新聞に報道された。

(略)

アイヌ開放同盟代表・結城庄司らの呼びかけで、1979年6月11日に開かれた「新谷行さんを追悼する会の呼びかけ」にも、新谷は、アイヌ民族復権を求めて「アイヌの側から、アイヌ民族史を研究発表した数少ない和人(シャモ)の一人でありました」と紹介されている。出自をめぐる新谷の選択は複雑である。それは抵抗史という姿勢を貫いて記述されている本書について、まったく異なった角度からの読みがあることを私たちに示唆している。〈抵抗史〉という過剰な記述の向うに、さらにもっと重要な何かが横たわっているテキスト、その「何か」がまだよくわかっていないテキストとして。

(…略…)               〜P306

「1972年に新谷の魂は煉獄の火に焼かれていたと思う」 P309

友常 勉 ともつね つとむ/日本思想家    『アイヌ民族抵抗史』




   ▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬▬





…27日午後9時ごろ
 日高管内の新冠町内朝日の軽種馬生産牧場「競優牧場」…


その流れを見る前に 新冠 という文字を読んでおりました
ここでも 繋げておきます





同『アイヌ民族抵抗史』


新冠御科牧場の開放運動

アイヌ協会がアイヌ地返還運動と平行して進めた運動に、新冠御科牧場の開放運動がある。

新冠はシャクシャインの時代に、沙流系のアイヌが住んでいたアツベツ川一帯の広大な土地である。この新冠の地に当時の開拓使長官黒田清隆が新冠種畜牧場を開設したのは1872年(明治五)で、もっぱら馬の品種改良をはかった。1882年(明治一五)に開拓使が廃止されて三県制が布かれると牧場の管轄は農務省に移り、翌年これが宮内庁の所管となり、1888年(明治二一)には天皇家の財産として新冠御科牧場と改称された。日露戦争で日本の軍馬の弱体であることを痛感した陸軍は、馬種改良の強化につとめ、1911年(明治四四)9月には皇太子がわざわざこの地に視察に出かけて来るほどの力の入れようであった。――

『静内町史』は、こういう経過をことこまかに書いているが、この新冠御科牧場の開設にあたって、どれほどのアイヌ同胞ウタリが犠牲になったかについては、全く記述がないので読むことができない。

黒田長官による開設当初もそうであったが、とりわけ新冠御科牧場と改称されて天皇家の財産となってからは、畏れおおいというわけで、この近辺に住んでいたアイヌはすべて立ち退きを命ぜられ、とんでもない山奥に追いやられてしまっている。

私は1972年春、この牧場地から追いやられたアイヌが平取町二風谷の沢の奥に住んでいるということを、二風谷の貝沢正から聞いて、彼と一緒に当時の実情を聞くために上貫気別の奥に出かけてみた。荷負村に住んでいる川上勇治の車で奥へ入ったのだが、二風谷から車でおおよそ1時間、いまでこそ車の通る道がついているが、貝沢の話ではむろん道もなく、川伝いに奥へ入るしか方法がなかったとのことだ。こういう山奥へ、アイヌ同胞ウタリは新冠御科牧場のために追いやられてしまったのである。

アイヌ協会が敗戦直後の新冠御科牧場の開放にあたって、「開放の優先権は第一にアイヌにある」と主張したのは、当然の権利であった。

開放運動の経過を簡単に述べると、小川佐助、文字常太郎、森竹竹市、荒川源次郎、高橋真等の協会指導者が、1946年5月18日、当時の道庁長官増田甲子七と会見、新冠御科牧場の全面的開放に際して四万町歩をアイヌ同胞三千五百戸に与えるように陳情した。

しかし、この牧場は宮省管轄であったため、道庁では話にならず、5月31日、内務省に鈴木主殿頭を訪ねて開放を要求した。この時の鈴木の回答は、「御科地は目下凍結中であり、宮内省としては具体的な回答は与えられない」(『アイヌ新聞』)というもので、一行は農林省にも出かけるが、結果は同じであった。そして、1948年のGHQの命令による農地改革法のアイヌ給与地への適用も重なって、この運動も結局は挫折してしまうのである。
P228〜230『アイヌ民族抵抗史』





新冠町(にいかっぷちょう)
北海道の日高振興局中部にある町。日本有数の軽種馬産地として栄えている。近年はレコードと音楽による街づくりを進めている。町内にある「新冠レ・コード館」には、60万枚を超えるレコードが所蔵されている。

町名の由来は、アイヌ語の「ニカプ」(ニレの木の皮)から。
-Wikipedia






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「結節性動脈周囲炎」

「古典の引用などむずかしいところがたくさん」




…つなげます…   




「認知症は20代から脳内で進行している」:アルツハイマー病の「脳での最初の発生部位 — 青斑核」が初めて特定され、その損傷が数十年の時間と共に病気を形成し続ける可能性
2016/02/18 In Deep







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この流れで 中野ビル近くの店舗で携帯用共通ACアダプタをポイントと交換
月末に 機器本体側の根元あたりに亀裂が入ったため


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