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「人間の住む島」 四
 
2016年3月24日 9時57分の記事


宝亀11年(780年)、新たな城柵・覚鱉城(かくべつじょう)の建設を紀広純が建議し、その際に伊治城を訪れた機会を捉えた呰麻呂は、3月22日(780年5月1日)、俘囚の軍(俘軍)を動かして反乱を起こし、まず大盾を殺し、次に広純を多勢で囲んで殺害した。陸奥介の大伴真綱(おおとものまつな)だけは囲みを開いて多賀城に護送されたが、城下の住民が多賀城の中に入って城を守ろうとしたのに対し、真綱は陸奥掾の石川浄足(いしかわのきよたり)とともに後門から隠れて逃げたため、住民もやむなく散り散りになって逃れた。数日後、俘囚軍は城に入って略奪行為を働き、焼き払って去ったという。当時、多賀城の倉庫には「兵器粮蓄 勝げて計うるべからず」(『続日本紀』)とある。

しかし、正史の記録は以後の経過を記さない。多賀城の略奪についても、その指揮官は不明であり、征東大使・藤原継縄の投入後も戦闘は拡大したと見られている。-Wikipedia/宝亀の乱




     ++++++++++



『アイヌ民族抵抗史』より


歩騎数万の遠征軍     

乱が起こってから六日後の三月二十八日、中央では中納言藤原継縄を征東大使、大伴宿禰益立と紀朝臣古佐美を副使に任命し、翌二十九日には大伴宿禰真綱に陸奥鎮守副将軍、安倍家麻呂に出羽鎮狄将軍を発令している。東北と平城京の距離を考えると異例のスピードである。俘囚反乱が次にどういう局面をもたらすか、天皇国家は衝撃に即応態勢をとった。


大伴益立を事実上の識者とする軍団が 四月四日
アザマロを討つために平城京を発って陸奥国に向かう

その後の経過は 『続日本紀』によると
一カ月後の五月八日 大伴益立は朝廷に対して

「且は兵粮を備え、且は賊機を伺い、まさに今月下旬を以て進んで国府多賀城に入り、然して後、機を候うかがい変に乗じて、恭んで天誅を行わん」

と報告したきり 以後なんらの連絡もしない

たまりかねた朝廷では六月二十八日 益立に対して勅を下している

「五月八日に将軍から報告があっただけで、その後なんの沙汰もないのはどうしたことか。国の大事である。もし文章で意をつくせないのなら、弁の立つ将兵を一人派遣せよ。」

が その後も依然として戦いの行われた報告はなく 益立からはただ武器・兵粮を送れという催促が来るだけだった


やむをえず中央では、坂東諸国に対して九月五日までに多賀城に兵を送れと命じている。

これは裏をかえせば、数万におよぶ天皇国家の軍隊を迎え撃つ原住民側の抵抗を物語っている。おそらく森林原野のいたるところから現れては襲い、風のように消える原住民のゲリラ戦術に対して、天皇派遣軍は手も足も出ず、戦闘らしい戦闘を中央に報告できないまま、少しずつ消耗していったのであろう。


一方 秋田城方面

官衙は兵二千を以て秋田南部から山形北部にかけての鷲座・楯座・石沢・大萱・柳沢の五郡を襲撃し 大室塞の要害も攻めるが 原住民の猛烈な抵抗にあって撃退されてしまう


この附近は地形が険しく、山野を自在に駈けめぐる原住民にとっては防衛の要地だった。出羽方面軍はここでもさんざんに痛めつけられ、このため鎮狄将軍の安倍家麻呂は一時秋田城を放棄しようとしたほどだった。

こういう戦況の中、藤原継縄が解任され、藤原朝臣小黒麻呂が九月二十三日に新たに持節征東大使に任命される。これはおそらく、先に坂東諸国に命じていた兵が多賀城に集まったためと思われ、小黒麻呂麾下の軍隊は「歩騎数万」といわれている。しかし、陸奥に入った小黒麻呂からも捷報は届かない。

十月二十九日の天皇の勅
「兵騎数万余を集めていながら、まだ敵地に入ることもできず、夏は草茂しといい、冬は襖うわぎ乏しなどと縦横に言を巧にし、なすところなく稽留けいりゅうし、将たるの任も忘れて未だ城中の粮も儲たくわえないのは何んたる怠慢であることか。今月中に賊地に入ることができないときは、多賀城、玉造城(宮城県玉造郡)の守りを固め、その上で戦術を練るべし。」

この勅でみると、天皇派遣軍の根拠地である多賀城そのものも旗色が悪くなっている。この時の戦況については『続日本紀』にほとんど記録がない。目につくのは兵や武器を送れ、食糧を送れといったものばかりである。もっとも、ただ一回、『続日本紀』の十二月二十七日の頃に、陸奥鎮守副将百済王俊哲が蝦夷軍の中へ攻め入ったことが記されているが、これとてもたちまち包囲され、兵は疲れ、矢尽きて、命からがら逃げ帰っているのである。P36〜8



桓武帝の即位

そうしたなか 781年(天応元) 最も強硬な蝦夷征服の主唱者である桓武天皇が即位し 蝦夷制圧体制はさらに強化されるが 現地の派遣軍はすでにほとんど戦意を失い 藤原小黒麻呂は撤退を願い出るような状態であった

しかし 桓武は許さない

「今将軍等未だ一級も斬らず、事已に行い訖おわりて之を如何ともすることなし。賊衆四千余人ある中で、斬る所の首僅か七十余人なれば則ち遺衆猶多し、何ぞ須すべからく先ず凱旋を献じて早く京に向うことを請うべけんや。たとえ旧例ありとも、朕取らず。」(『続日本紀』天応元年六月一日)

これは いわば桓武天皇の蝦夷殲滅宣言である

事実 この桓武の出現によって 以後の蝦夷侵略は徹底した軍事行動にエスカレートしていく

桓武は渡来人のながれをくむもので、桓武の母高野新笠たかのにいかさの祖は百済王武寧王(501〜522在位)の子純陁夫子といわれている。「本朝始出」の黄金九百両を献上して従三位の位階を得たのは陸奥国守百済敬福であったが、のちに百済王文鏡は出羽守に任じられている。先に述べた鎮守副将百済王俊哲といい、またこれ以後に登場してくる坂上田村麻呂といい、蝦夷征服の関係記事に渡来系民族の活動が目立つのは、この時期の天皇国家の権力体系、その政治的・軍事的構造を表現する一例にすぎない。

だが、主戦派の督戦にもかかわらず、彼の即位後四ヵ月の八月二十五日、藤原小黒麻呂は「征夷軍」を解体して平城京に戻り、アザマロの乱には一応終止符がうたれる。天皇派遣軍の「戦果」といえば、桓武が不興もあらわに「勅」として語ったように、斬首わずか七十余人だけだった。アザマロが討たれたとは『続日本紀』に一行も書かれていない。
P38、9



原住民軍の指導者 

歩騎数万といわれた天皇軍団を相手に一歩も退かず
撤退を余儀なくさせた原住民族軍の実態とはどういうものか

私たちは残念なことに、それをうかがい知る材料を征服者の側の限られた史料の断片からしか得られないが、桓武天皇の「勅」に「賊衆四千余」とあるのをみれば、10:1の劣勢をはね返し、神出鬼没のゲリラ戦術で天皇の軍団を消耗させ、戦意を喪失させたその優秀な精鋭ぶりに注目せずにはおれない。

胆沢を中心とする地方の原住民は自然村コタンを中心に生活していたが、このコタンは、すこしあとの記録で「十四村、宅八百許烟」(『続日本紀』塩暦八年六月三日)とあるから、平均すると一聚落約六十戸ほどになる。これをたとえば江戸中期の蝦夷地(北海道)アイヌの「蝦夷地の一村落、家僅か五戸か七戸なり、稀に十戸余りのものあれば大村」(最上徳内『蝦夷草紙』)というのに較べると、かなりの規模の聚落である。これらの聚落である。これらの聚落が胆沢地方だけではなく、さらに北に点在したのであり、おそらくこのコタンを単位に原住民族の抵抗が組織されたのである。


とはいえ これらの聚落がそれぞればらばらに戦ったのでは勝ち目のないことはいうまでもない


そこに各聚落を結び統率する組織と、その指導者が存在したであろうことは、容易に想像がつく。反乱後のアザマロが征服者側の史書の記録から姿を消した理由を、私は先に推測しておいたが、アザマロをも一支隊のリーダーとして、その上に立って指導する統率者がいたはずである。――それは原住民のなかでも武勇にすぐれ、経験に富み、同族の信頼を集めうる、強大な天皇国家の軍隊の重囲下にある原住民族の危地を救う英雄でなければならない。


こうして登場するのがアテルイだった

アザマロは いわばアテルイ登場のための幕引きの役割をはたしたのである
P40、1



アイヌ民族抵抗史』2015 新谷行/河出書房

「著作権者にお心当たりのある方は、編集部までご一報いただけると幸いです」

※『増補 アイヌ民族抵抗史』を底本とする
(1977年7月刊/初版1972年10月刊/三一書房)

新谷行/1932年北海道留萌郡に生まれる
1957年中央大学法学部卒業。出版社勤務を経て、詩人・フリーライターとして活躍、特にアイヌ問題に関心を持ち、自ら先頭に立ち、運動を展開。著者に詩集『水平線』『シララの歌』『シャクシャインの歌』『ノッカマプの丘に火燃えよ』、評論・エッセイに『ユーカラの世界』『アイヌ民族と天皇制国家』『古代天皇制国家と原住民』『松浦武四郎とアイヌ』『コタンに生きる人びと――新谷行遺稿集』などがある。1979年3月歿。




     +++++++++++++++



「桓武は渡来人のながれをくむもので、桓武の母高野新笠たかのにいかさの祖は百済王武寧王(501〜522在位)の子純陁夫子といわれている」


Wikipedia 桓武天皇  和氏


武寧王 より

『日本書紀』の記述

武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、「百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君昆伎王を倭国に人質として献上する際、一婦人を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王である」としている。

また、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には「百済の末多王(牟太,東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王とした」としている。

継体天皇6年(513年)に、任那の上哆唎(オコシタリ、現在の全羅北道鎮安郡及び完州郡)・下哆唎(アロシタリ、忠清北道錦山郡及び論山市)・娑陀(サダ、全羅南道求礼郡)・牟婁(ムロ、全羅北道鎮安郡竜潭面)の四県、7年(514年)に己汶(コモム、全羅北道南原市)・滞沙(タサ、慶尚南道河東郡)の地をそれぞれ、倭国から百済に譲渡した。これに応えて百済は517年に、日本に送っていた博士段楊爾に代えて五経博士漢高安茂を貢上した。


武寧王の子孫

523年の武寧王没後、百済王を継承したのは聖王(余明)であるが、『日本書紀』は514年に百済太子淳陀が倭国で死去したと伝える。武寧王の本来の太子は淳陀であるが、倭国で死去したために余明が代わって太子となったという解釈も可能である。この淳陀太子がいつ倭国に来たのか記載はないが、武寧王は41歳に至るまで倭国で生活していたとして、淳陀は倭国で生まれ、そのまま倭国に留まっていたと主張する説がある。

桓武天皇の生母である高野新笠は、武寧王を遠祖とする渡来人系の和氏の出身という記述が『続日本紀』にあるものの、実際に武寧王の子孫であったかどうかは朝鮮側の資料から見ても不明瞭であるため、疑問視する学説もある(詳細は高野新笠の項目を参照)。新笠は皇后ではなかったが(皇后は井上内親王)、桓武天皇の生母として皇太夫人とされ、死後に皇太后と追贈された。  Wikipedia



加曽利貝塚という施設もあるそうな



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「反乱後のアザマロが征服者側の史書の記録から姿を消した理由」



。。。。。「私は先に推測」 して   いた のかもしれない


敵味方 というのではなく 何かがドサッと起きてきたときに
視野も狭くなり 余裕がまったくない というようなときでも

周囲の動きや ちょっと醸しのちがう台詞 行い などは
違和感がつきまといながら 思い出されるような  ことが…


あるいは


三内丸山遺跡 と 三星堆遺跡 (徐朝龍)

そんなキーや 類似点などのエッセンスも
あれです か





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