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(心柱下部)「空洞」の見え方
2017年2月22日 19時23分の記事
『法隆寺のものさし』より (2004/川端俊一郎)
「長安から伝来した漢音では 仏教をフッケイと読む」
「仏教は呉音で伝来した」「釈迦も仏陀も呉音」「須弥山の山をセンというのも呉音」
「尺もまた呉音」であり 唐尺が導入されてからも 唐の漢音でセキとは言わず
そうであれば 「法隆寺に南朝の尺が使われていたのはきわめて当然のこと」といえる
法隆寺に伝わる『法華義疏』は南朝の高僧 法雲法師(没529年)の教えを解説したもの
法隆寺は仏像も南朝様式
建築様式もまた南朝のものだった
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法隆寺五重塔を貫いて立つ、高さ32mもある中心柱(心柱)の真下には、なぜかその柱がすっぽりと3mも落ち込んでしまうほどの大きな空洞があった。心柱の太さよりも空洞のほうが広いのである。空洞の上部、即ち心柱の下端は塔の基壇面の高さで、そこには中央が三角形に開いた、大小56個の平たい切石の寄せ集めがあった。心柱はその三角穴を塞ぐように立つていたが、下から来る湿気で腐れ上がり、三角形の入り口が露出した。心柱はその切石からも浮いていた。大正一五年(1926年)一月、心柱を取り囲む須弥壇の下に潜り込んで塔礎石を調査した岸熊吉が、この空洞を発見した。
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(略)いまの法隆寺は、どこか別のところで創建された「X寺」を、奈良遷都(710年)に合わせて移築したものということになった。中心柱下にあった空洞は、その移築のとき計画的に造られたものかどうか再検討するのがここでの課題である。その空洞は、昭和の解体修理の際に小砂利で埋められてしまって、今は無い。
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心柱の下部は外側からはまったく見えない。心柱の周りを取り囲んだ塑像と須弥山ですっかり隠れている。
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(断面図:「心柱と空洞入り口」「法隆寺五重塔・仏舎利上の空間」 102、3)
移築の時に空洞は計画的に設けられ、底には二尺の厚さの粘土層と、仏舎利に届く円穴が作られた。初めから空洞の中に心柱は無く、空洞はわざわざ設けられたのである。むしろ空洞が設けられたことの意味を検討すべきであっただろう。ところが工事を担当した竹島卓一は、空洞は心柱が腐って出来たと考えていたので、解体修理の復元工事が進み心柱を立てる段になって、その計画的に造られた空洞を埋めてしまった。埋めたのは「清浄な小砂利」ではあったが、その空間を埋め尽くすことに、少しのためらいもなかったのであろう。
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