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麻布山善福寺あたり など
 
2017年7月30日 12時3分の記事

臣と民の間 −「お目見え」と「江戸図最大の謎」のこと collegio

…「臣民」ということばがある。

「王」以外の存在を、引っ括って言ったものだが、騙されてはいけない。
「臣」と「民」の間には、目も眩む落差、つまり崖がある…





『江戸東京地形の謎』2013 芳賀ひらく

麻布の善福寺 より

全国にいくつもある「善福寺」というお寺
麻布山善福寺は 東京では「浅草寺」に次ぐ古刹
「天長元年(824)の開山」 「空海の開基」と伝えられ
「弘法伝説」のひとつ「柳の井戸」からは 今も少量の湧水がある

「麻布」という地名も古く、永禄二年(1559)の奥書をもつ「小田原衆所領役帳」(北条氏役帳)に「阿佐布」と出てくるので、その起源が戦国時代にさかのぼることは確かです。

(地名としてのアザブは「崩壊地名」の代表のひとつ)


寛永十九年(1642)頃の地図を見ると
木の生えた小山の中に四角く囲って「阿ざぶの門跡善福寺」とあり(その「門跡」とは 寺が相当な格をもつことを示している)
地図を作らせた紀伊徳川家と何らかの関係があったと推測される

善福寺が東に面した通りと町 谷地田を見下ろす台地のくぼみに位置していて 善福寺門前の道には二ヶ所に橋がかけてあり 台地の窪みが湧水の流れでできたことを推測させる

明暦三年(1657)の地図では 寺域部分「坂下町」を越えた先には古川が直角に曲がる部分に架橋された「一ノ橋」が見える 74


(地図32 六本木・元麻布 寛永十九年(1642)頃 P72
(地図33 六本木・元麻布 明暦三年(1657)頃 P73

台地の一本松

地図32の下辺から右手へ大きく曲折して東へ向かうのが渋谷川の古川です。図の下辺では右岸側に、そこから下流では左岸側に広く水田が営まれています。

水田は谷底低地にあたり その地下には泥炭層(腐植土層)が2〜4mの厚さで堆積していて
渋谷や赤坂 馬込などとともに山手の軟弱地盤地帯のひとつとして知られる

(地図32の中央)古川の谷が西に大きく食い込む部分 つまり 一之橋の曲折部に向かう古川の支谷が 北側の飯倉台地と西の麻布台地を二分している

麻布台地の上に位置しているのが麻布山善福寺、そして「麻布百姓地」および「百姓地」、さらに「浅野内匠頭あさのたくみのかみ下屋敷」です。「浅野内匠頭」というと、話は元禄赤穂事件「忠臣蔵」に直結してしまいますが、改易させられた播磨赤穂藩の第三代藩主浅野内匠頭長矩ながのり は寛文七年(1667)生まれで、切腹したのは元禄十四年(1701)ですから、このときは初代の浅野内匠頭長直だったはず。地図33を見るとその間の事情がわかるのも興味深いです。明暦二年(1656)、赤坂にあった盛岡藩南部屋敷と赤穂藩屋敷は敷地を相対交換したのです。地図33の南部屋敷の地は現在、有栖川宮記念公園として知られています。

(地図32の麻布台地で注目したいこと)北に凸の形で突き出した斜面西側の道端に一本の松の木が描かれている
(善福寺の南西側にも2、3本松が描かれている)

道端の松は『江戸砂子』や『江戸名所図会』にも登場
(現在もなおその「子孫」が植え継がれている「麻布一本松」を描いたものにちがいありません)(右側「百姓」の隣の「見○寺」(○部分は判読できず)は 現在の「賢嵩寺」にあたるものでしょう)

一本松は 麻布台地の尾根部を広尾方面から通る古い道が三本に分かれて台地を下るその分岐点に立っていて
往古はいわばそのランドマークの役割を果たしていた

(平成十四(2002)頃の地図では ややはっきりしないものの 中央「元麻布二丁目」の「目」の右上 道が斜交いになっている)

そのまま東の一之橋に下る道を「大黒坂」
北のオーストラリア大使館(「麻布十番二丁目」の「麻」の字のところ)の脇を下って麻布十番商店街へ下る道を「暗闇坂」
西に下る道を「狸坂」と呼び いずれも急坂で…

そして北に三分岐する以前のゆるやかな南西側の尾根道は「一本松坂」とよばれます。しかし実は、とくに狸坂の長さから判断するかぎり、地図32が台地縁にその道を描いているのは誤りです。その一本松のある場所は、台地の中央を通る尾根部なのでした。 78


(地図34 六本木・元麻布 安政六年(1859)頃 P76
(地図35 六本木・元麻布 平成14年(2002)頃 P77


黄金餅の坂 より

落語「黄金餅」(古今亭志ん生 十八番)
「………おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村の木蓮寺へ来た……」という地名言い立て場面がある

(「釜無村」は貧乏集落のたとえで 「絶口」も貧窮の謂い)
「絶江坂」のほうは実在し その近くにある臨済宗妙心寺派 曹渓寺住職 絶江紹堤しょうだいにちなんだ地名(南麻布に「絶江児童遊園」がある)

(地図34の下辺の)古川左岸には逆立ちした「龍徳寺」と「西徳寺」が見える
その間の道が絶江坂

曹渓寺は 二つの寺のすぐ右上にあり(落語の「木蓮寺」は架空の寺)
それらの寺の所在する一帯 松平陸奥(仙台伊達)の下屋敷の南側に 江戸初期に幕府の「薬種園」がおかれていた
(地図32では「御薬種畑 地図33では「御薬畑」)

それ故に地図34の「明称寺」(現存)と「土屋采女」(土浦藩)下屋敷の間の道は薬園坂と言われ
坂上の台地の尾根部と坂下の橋(四之橋)を結ぶ経路は古い道で 一説には古奥州街道にかかるものとされる

麻布の「仙台坂」は(地図34中央)「松平陸奥」の表門が面している通りのこと

この伊達下屋敷跡の一部は明治の元老松方正義別邸を経て、韓国大使館、現在は同領事館となっていて、地図35で言えば「南麻布一丁目」の「南」の上。仙台坂はもちろん古川に架かる二之橋へ、つまり麻布十番の谷へと下っているのです。 78


ヒルズとタウン

(地図35の「善福寺のイチョウ」という文字の「福」と「寺」の間に 輪郭の一部が見えている「池」)「がま池」

昭和の初期にかなりの部分が埋め立てられ、今ではその最後の水面もマンションの庭に取り込まれてしまって一般には見ることができないのですが、それでも現地へ行けばその片鱗は目にすることができます。地図34では中央左、善福寺裏手にある、明治九年(1876)に亡くなった「山崎主税助ちからのすけ」治正の屋敷内がこの場所です。この池の流出口は池の北側にあって、一之橋に向かう古川の支谷につながっていたのです。

もうひとつの古川の支谷 (地図35の上辺左手から南下する 日ヶ窪と呼ばれる谷
そこには南日ヶ窪町と北日ヶ窪町という二つの谷町が存在していた

現在では港区六本木3丁目および5〜6丁目の一部となりましたが、ここも古い歴史をもつ町で、地図32では左手の上寄りに「百姓町」という両側町が見え、地図33では中央寄りに南北の町名が書き込まれているのがおわかりになるでしょう。地図35では上辺左手に「六本木六丁目」という文字の「丁目」がかかるヘルメット状の図形がありますが、そのヘルメットに向かって、右下から長いナイフがのびているように見えるのが旧日ヶ窪町の谷です。

その「ヘルメット」は平成十四年(2002)に竣工したテレビ朝日の本社。その西側の台地上の歪んだ四角形こそが、翌年開業の六本木ヒルズ森タワーでした。地図32で見るまでもなく、その足元は古川支流の谷頭こくとうにあたります。

これら再開発地の大部分は、地図32では左端中央寄りの「毛利甲斐守下屋敷」、地図33では中央寄りの「毛利甲斐」、地図34では上辺寄りの「毛利左京」上屋敷で、これは江戸時代のほとんどを通じて長州毛利家の分家、長門国長府藩の屋敷でした。それでは本家は?というと実はこれがけっこう近くに所在していて、地図32・地図33では左上端それぞれ「松平長門守下屋敷」「毛利大膳」、地図35では左上角の一画、今では東京ミッドタウンと言われる一画が本家の屋敷だったのです。

このように、江戸の屋敷地長くてニ百数十年の時を刻みました。さて「現代」の「場所」がこれほどの「時」を保持できるかというと、それは大いに疑問なのです。 79『江戸東京地形の謎』


(〜31)(少しずつの持続  期限は区切らずに)

・・・・

10ヶ月くらい前に 大石神社のあたりを通りかかり
暗かったので 道などもよく見えず (看板だけ視た形)

当日か翌日 少々調べたということがありました

(結構 公園系は あたったのではないか‥というなか)
善福寺公園 調べたことすら無いような感じで 行くとも行かないとも浮かばず
29日に気づいて 不思議な位置?に置いたような


・・・・

説「杉並の善福寺池は麻布善福寺の奥の院跡で、虎ノ門は山門だった」



善福寺/Wiki
…同じ東京都港区の地名になっている「虎ノ門」は、かつての善福寺の山門に由来する(江戸城の門という異説もある)。
「麻布」(あざぶ)の地名の由来は諸説あるが、「麻布」という字を当てるようになったのは、当寺院の山号を採ったことから来ているという。
東京都杉並区にある善福寺池の名の由来は、元は当寺院の奥の院が善福寺池の一帯にあってそれがそのまま現在の杉並区の地名にもなったという説が有力である。ただし、この杉並の方の名の元になった善福寺は、江戸時代に廃寺になっており、史料も乏しく、当寺院との関係はないという説も多い。… Wiki



(徳川三代将軍将軍家光と善福寺を調べておられたらしい)
【麻布山善福寺と善福寺池】より

「杉並の善福寺池は当時の奥の院跡で当時の寺領の広さがわかります。」麻布山善福寺オフィシャルサイト

…善福寺池を調べてみると、池は現在、杉並区善福寺3丁目にある都立善福寺公園となっており、面積7万8千平米公園敷地の中で上の池、下の池と分かれ、両方で37,000?で公園全体の47%を占める池…善福寺池は井の頭公園の井の頭池、石神井公園の三宝寺池と供に武蔵野三大湧水地といわれたほど湧水量が豊富で、江戸時代、神田上水の補助水源として利用された…

その湧水の一つである遅乃井は1185年、源頼朝が奥州征伐の途上でこの地に宿陣した時に、干ばつのため自らが水を求め、弓筈で土を掘ること七度、「今や遅し」と水の出を待ったことから「遅乃井」と呼ばれるようになったと伝わっています。また池からは「善福寺川」が流れ出し、杉並区の中央を通って中野富士見町辺りで神田川と合流し、やがて隅田川へとそそいでいます。

善福寺池の名称は、昔、この付近にあった寺の名からとったと伝えられますが、現在杉並区善福寺3丁目にある善福寺はそれまで「無量山福寿庵」と呼ばれた庵を昭和17年に寺に昇格した時に改称した寺名であり、麻布山善福寺との関係は無いそうです。

杉並区史によると
…「新偏武蔵風土記稿」には、池に面した丘の上に江戸初期まで善福寺という寺がありましたが大地震によって破壊され、寺の宗旨も伝えてませんが、時宗であったと土地の古老は伝えたと書かれていて…

(…杉並区郷土博物館に電話で話を伺いましたが、残念ながら麻布山と杉並の善福寺を結びつける手がかりは見つける事が出来ませんでした…)

(麻布山善福寺に電話で確認すると…800年前ほど前のことなのでよく解らないが、寺にはそのように伝わっているとの事…)

…麻布山善福寺はこの杉並のほかにも、江戸期の元禄12年(1699年)にそれまでの麻布の寺領が新堀御用地となったので、荏原郡六郷領女塚村(現在の大田区西蒲田あたり)に替地となった寺領があった…
「麻布区史」

…同寺オフィシャルサイトでは、江戸城虎ノ門を、元は麻布山善福寺の山門と記しており…
2013年5月8日水曜日
http://deepazabu.blogspot.jp/2013/05/blog-post_8.html








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