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中野区 〈下〉
 
2017年10月1日 7時35分の記事

中野区の歴史』1979/関利雄 鎌田優 著
東京にふる里をつくる会 編

中野区のあゆみ/中世の中野

1 鎌田幕府の興亡

各地に興った武士たちは 大きな武士団を形成
代表となったのが桓武平氏と清和源氏

12世紀はじめごろの顕著な武士団として武蔵七党
ほか 秩父・熊谷・足立の緒家があり

それらの武士団は源平の争乱や諸国の合戦に加わった

 治承四年(1180)八月、源頼朝は伊豆に兵を挙げ、相模石橋山の合戦で平家方に敗れるが、その後、安房に渡って再起した。房総の大軍を率いて武蔵へはいった頼朝のもとへ参陣した武蔵の武士は、江戸太郎重長・豊嶋権守清光・河越太郎重頼・葛西三郎清重・足立左馬允 さすのじょう 遠元・畠山次郎重忠・熊谷次郎直実・平山武者所季重などであった。そうして、建久三年(1192)七月、頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉に武士の政権をたてた。 27

 このころの東京のあたりの有力な武士として知られているのは、江戸氏であった。中野地方も江戸氏の勢力下にあったと思われる。

 これ以後、中野地域に関する記録はみられず、まったく不明である。

 長くつづいた鎌倉幕府も、14世紀にはいると農業や手工業の発達によって商工業が発展し、商人もふえた。名主の中にも商業を営む者が出たり、逆に商人が土地を買って名主になる者が出るようになった。一方、小さな名主は貧しくなり、幕府の基礎を支えた後家人制度がくずれることになった。

 有力な後家人であった足利尊氏、それに新田義貞は、鎌倉幕府への不満から幕府打倒をめざした。まず、元弘三年(1333)5月、新田義貞は上野 こうずけ に兵を挙げ、武蔵にはいり、江戸・豊嶋の一族もこれに同調して活躍した。義貞は鎌倉に攻め入り、元の執権北条高時らを自殺させた。これによって鎌倉幕府は滅亡したのである。

 こうして後醍醐天皇の建武中興はなったが、建武二年(1335)には、天皇親政に不満をいだいた足利尊氏が叛旗をひるがえし、同年12月、箱根竹下 たけのした で天皇方の新田義貞軍を破った。翌建武三年(延元年、1336。以下、カッコ内の年号は南朝)1月、尊氏は京都で義貞らの軍勢に破れ、いったん九州へ落ちのびる。その後、勢力を回復した尊氏は、同年5月、兵庫湊川で楠木正成・新田義貞を一蹴し、大覚寺統(後宇多 ごうだ 天皇の流れをくむ皇統)の後醍醐天皇と対立する持明院統(後深草天皇の皇統の豊仁親王践祚 せんそ (光明天皇)を実力で成就させた。ついで、尊氏により京に幽閉された後醍醐帝は、12月に大和の吉野へ脱出し、ここに南北朝分裂となる。

暦応元年(延元三/1338)八月 尊氏は征夷大将軍に就任

 その後も新田勢と尊氏方の軍との武力衝突は関東各地で絶えなかったが、延文四年(正平十三、1358)10月に、新田義貞の子義興は多摩川の矢口の渡しで不運な最期をとげ、新田氏の主力は滅んでしまった。新田一族は武蔵で強い勢力をもっていたこともあり、中野の旧家にも新田氏の遺臣と伝えるものがある。 29



2 関東の動向

関東は足利氏の根拠地でもあり
室町幕府は 鎌倉に鎌倉府と鎌倉(関東)公方 くぼう を置いて支配させた

鎌倉公方は伊豆・相模・安房・上総・下総・常陸・武蔵・上野・下野・甲斐の10ヵ国を管轄していた

 貞和五年(正平四、1349)9月9日、将軍足利尊氏は世子義詮の弟基氏をはじめて鎌倉公方に任じ鎌倉へ赴かせた。その後は氏満・満兼・持氏が世襲して四代におよんだ。

 また、鎌倉公方基氏の執事として上杉憲顕・高師冬 こうのもろふゆ が付けられた。貞治二年(正平一八、1363)になると、憲顕は関東管領 かんれい に補任 ぶにん され、以後、上杉氏が鎌倉公方の補佐役としてこの職 しき を相伝する。四代鎌倉公方足利持氏は、幕府と対立するような態度をとりつづけ、応永三〇年(1423)には前将軍義持が緒社寺に持氏を呪詛させたり、追討を範政に命じるなどの不穏な空気がただよっていた。

 そして、永享六年(1434)10月、駿河守護今川範忠は将軍義教に使いを出し、持氏の叛意を伝えたことによって、いっそう険悪な情勢となった。翌七年九月、幕府は信濃の小笠原政康に命じ佐竹義憲を援助して持氏を攻めさせた。一方、ことごとく対立していた関東管領上杉憲実を滅ぼそうと持氏が考えているという噂が流れたため、永享九年(1437)6月に、上杉憲実は相模藤沢に退去した。同年八月、持氏は憲実をなだめ、再び関東管領につかせたが、翌一〇年には、持氏の先例を無視した行動を諫めたことで再度衝突し、同年八月、憲実は上野に赴いた。持氏はすぐに憲実討伐に一色直兼を向かわせた。この機を逃がさず、幕府はついに持氏征討の軍を発し、永享の乱が起こるのである。

 同年九月、千葉胤直は持氏に背いて憲実に応じ、10月、三浦時高らも幕府を攻めて焼き討ちにした。憲実は上野を発して武蔵分倍河原(府中市)に到着、鎌倉の武将の多くが持氏討伐に応じ、鎌倉から辛くも逃れた持氏を武蔵入間川で撃ち破り、11月、持氏を捕らえて武蔵金沢称名寺に幽閉した。 30

 かくて永享一一年(1439)2月10日に、持氏は叔父満直と共に鎌倉で自殺させられ、相模報国寺では持氏の長子義久も自殺をとげ、永享の乱はおさまった。以来、鎌倉公方は9年間、置かれなかった。

 この時代の中野地域ではどのようなことが起こっていたのであろうか。まず、中野長者伝説で知られる鈴木九郎が紀伊(和歌山県)からこの地の中野本郷に住んだのが応永年間(1394-1428)といわれる(成願寺縁起)。その後資産をきずき、角筈十二社熊野神社(現、新宿区)を勧請したり、自分の家を提供して成願寺を開基したと伝えられる。

 また、宝仙寺が阿佐ヶ谷から現在の地に移転してきたのは永享元年(1429)、住僧聖永 しょうえい の時であると寺伝に残されている。それより前、新井村が開拓されたのは応永年間であったと『武州多摩郡新井埜草別調 あらいのくさべつしらべ』に記述されている。 31

伝説や伝承であるが 中野長者が熊野神社を勧請したように
その時代の関東では熊野信仰が盛んだった

『熊野那智大社文書』所収の「米良文書」の中に応永二七年 5月9日「武蔵国江戸惣領之流」という記録がある

この中に「あさかや殿」とともに「中野殿」という記述がみられ、このころに、中野殿と称する在地の武士がこの一帯に勢力をもっていたことが知られる。

また 板碑も存在
区内にも村落が形成されていることがわかる 32



3 中野の板碑

鎌倉時代の中期から室町時代にかけて 関東の在地武士・土豪層のあいだで
簡単に信仰することのできる浄土信仰 が もてはやされていた

中野地域にも当然、浄土信仰が普及していたようで、阿弥陀あるいは阿弥陀三蔵をあらわした板碑が現在していることからもうかがうことができる。

もともと板碑は 死者の供養のためにつくられたもの
材質は おもに青緑色の秩父に産する緑泥片岩とよばれる石材

この板碑は材質の産地にみられるように、関東にのみみられる独特の風習でもあった。一般的にその規模は、大は2、3メートルから小は50センチメートル前後のもので、鎌倉期のものは大きいが時代が下るにつれて小型化する傾向にあった。そして板碑にきざまれた銘文も単純になり、地域による変化も乏しくなる。鎌倉時代のものにはしばしば大規模で銘文も複雑な手のこんだすぐれたものが多かった。東村山市徳蔵院の板碑(1333年)や練馬区石神井三宝院の板碑は、美術的にもすぐれたものとして注目されている。

中野区内には 文和三年(1354)五月銘の板碑から宝徳二年(1450)五月の
100年間にわたる20点の板碑が発見されていて
そのうちの何点かは散失 所在不明なものがある

その20点のうち 特に代表的なもの
文和三年五月の福寿院のもの
貞治四年(1365)一一月一八日 法円禅門在銘のもの
文和四年(1355)一〇月日在銘のもの
応永六年(1399)一〇月一五日逆修 心信結衆等敬白在銘の清谷寺 せいこくじ のもの など

なかでも清谷寺の板碑は、一三仏の真言が刻銘されためずらしいもので、おそらくこの種のものとしては日本最古の板碑ではないかと称されている(清谷寺住持・根本聖賢大僧正)。また、この板碑のつくられた理由も伝承されているが、それによると、応永のころの江戸地域の河川は大雨つづきによって洪水となり、作物は大きな被害をうけた。このため多くの人々が飢え死にしたといわれ、この供養のためにつくられた板碑の一つであると伝わる。

(つくられるにあたってはそれぞれいわれがあったのだろう)
永い年月を経過するうちに人々からも忘れ去られてしまったものと思われる
(散失していった板碑も相当数あった) 35

『中野区の歴史』(〜10.4)



『中野区の歴史』 中野区のあゆみ/中世の中野
4 江古田原・沼袋の合戦

  永享の乱に破れて自刃に追い込まれた足利持氏の遺児のうち永寿王は、結城合戦ののちに死罪をまぬがれ京都に送られて成長し、足利成氏(しげうじ)と名のる。

  宝徳元年(1449)正月、成氏は鎌倉公方に任じられて関東へ赴くが、間もなく上杉家との不和が起こり、成氏は鎌倉から追われ古河(こが)に移り「古河公方」と称されるようになり、上杉家との対立は強まった。一方、上杉家も山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)の両家が対立し抗争が絶えなかった。

  扇谷上杉家では江戸・河越・岩槻の三城を築き、山内上杉家では武蔵五十子(いかつこ)に砦を築いて古河公方勢の野田・関宿(せきやど)・菖蒲の諸城に対抗していた。ところが、山内上杉家の家宰長尾景信の死後、家督をめぐって不満をもった長尾景春が、主家に謀叛を起こした。長尾景春は文明八年(1476)六月、武蔵鉢形城に兵を集め、翌九年正月、武蔵五十子砦の上杉顕定(あきさだ)・憲房(のりふさ)・扇谷上杉定正らを襲撃し、上野に敗走させた。これを知った武蔵・相模の武士たちはことごとく景春に従った。豊嶋氏一族もこのときから景春に味方するようになるが、これにより、扇谷上杉家の家宰太田道灌の居城である江戸城は包囲される形となった。

  これに対して太田道灌はすぐに反撃を加え、文明九年三月、相模小沢城(神奈川県厚木市)を攻め、同四月一〇日には武蔵勝原(すぐるはら)(埼玉県坂戸市)で交戦し逆撃した。そして四月一三日、景春方の豊嶋康明(やすあき)の平塚城(北区王子)を攻撃した。『鎌倉大草紙(おおぞうし)』には、

〜同月十三日、道灌江戸より打出豊嶋平右衛門尉(康明)が平塚の城を取巻、場外を放火して帰ける所に、豊嶋が兄の勘解由かげゆ左衛門(康経)を預ける間、石神井、練馬両城より出攻来りければ、太田道灌、上杉刑部少輔(朝昌 ともまさ)、千葉自胤以下、江古田原沼袋と云所に馳向い合戦して、敵は豊嶋平右衛門を初として、板橋、赤塚、以下百五十人討死す。同十四日、石神井の城へ押寄責ければ、降参して、同十八日対面して、要害破却すべきよし申ながら、亦敵対の様子に見えければ、同十八日に責おとす。〜

  このときに『鎌倉大草紙』では江古田原・沼袋の戦いにおいて豊嶋泰明以下板橋・赤塚氏ら150人が討死したことが記されており、激戦であったことが想像される。また「豊嶋家系図」によれば、泰経が討死したのは四月十四日とあり、道灌勢の中には上杉朝昌(ともまさ)・三浦介義同(よしあつ)・千葉自胤(よりたね)らが加わっていたとされている。

四月十三日日から一八日までの六日間、中野・板橋・練馬・石神井にかけて戦闘がくりひろげられたが、なかでも激しかったのが江古田・沼袋の戦いであった。現在、区内江古田公園(江古田一丁目)の一角に、古戦場碑が建てられている。

  なお、この合戦の際、大田道灌が区内の城山(中野一丁目)付近に陣を構えたという伝説が残っている。また、区内の氷川神社(東中野・上高田・弥生町・本町など)の記録や伝承では、道灌が戦勝の祈願をしていったとなっているが、確証はない。 38



5 北条氏の支配

  太田道灌は、豊嶋一族との戦いで勝利をおさめ武名をあげたが、文明一八年(1486)七月二六日、主君上杉定正によって相模糟谷(屋)で殺された。応仁の乱の後、室町幕府の権力がおとろえるにつれ、各地の守護大名に代わって戦国大名が勢力をのばしていった。江戸で大きな勢力をもっていた太田氏も道灌の死後急激におとろえて「いった。

  そのころ、伊勢からきた北条早雲は、伊豆韮山を本拠にしてしだいに勢力をのばし、伊豆・相模を掌中にして戦国大名となった。早雲の死後、北条氏綱は相模小田原を居城として武蔵への進出をめざし、大永四年(1524)正月に江戸城主上杉朝興(ともおき)を攻めて河越えへ敗走させた。これ以後、小田原北条(後北条)氏が関東を掌握し、天正一八年(1590)七月豊臣秀吉に降伏するまでの七〇年間支配した。 38

天正一八年(1590)卯月(四月)の秀吉禁制には『武蔵国多東たとう郡 中野郷五ヶ村」とある
当時は現在の範囲より広い上・下沼袋 阿佐ヶ谷 和田本郷を含む中の五ヶ村だった 40

  天正一八年七月、北条氏は豊臣秀吉に降伏し、北条氏の旧領のうち関東六カ国は、軍功のあった徳川家康に与えられた。徳川家康はこの命令により同年七月二九日、榊原康政に命じて江戸城を修復させ、八月一日には江戸城にはいった。 41

『中野区の歴史』(11.1)



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http://blog.goo.ne.jp/kawawalk/e/4fdcdd6c4a9b226704253037efe674fc
… <新井村>  「なかのの地名とその伝承」(昭和56年 中野区教育委員会)によると、新井村の草創は応永年間(1394〜1427年)、新田開発に伴い新たな共同井戸を掘り、新井村の起こりとなったと、「武州多摩郡新井埜草別調」には記され、一方、元亀元年(1570年)と書かれた文献(「草分年代略記」)もあるようです。…

「大正10年第二回修正」
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