このブログのトップへ こんにちは、ゲストさん  - ログイン  - ヘルプ  - このブログを閉じる 
くる天
最近の記事
04/15 21:13 清戸道にて
03/30 08:38 つまみ簪
03/11 14:52 歯ごたえ
03/04 15:03 屯倉・名代など
01/27 15:08 境地とは
01/11 15:11 植線
01/02 18:43 家紋
12/26 15:19 ぐじ
12/16 13:26 認識
12/11 21:53 古代紫
フリースペース

注:文中の「?」は、疑問符を表す場合と、ローマ数字が反映されていないケース(携帯電話からの送付分)による表れがあります。


* * * * * 



2021.9.12



RSS
プロフィール
ka-on さん
和音
ポップアップリンク
ブログ内検索

中野区 〈上〉
 
2017年11月12日 11時4分の記事

中野区 〈下〉



中野区の歴史』1979/関利雄 鎌田優 著
東京にふる里をつくる会 編

中野区のあゆみ

大昔の中野

1 赤土の中の遺跡

かつて海底であった東京は海岸線の後退によって陸化し
武蔵野台地が形成された

その上に 富士山火山活動による大量の火山灰がジェット気流に乗ってふりそそぎ 厚いところでは十数メートルに達した

その赤土といわれるものが 関東ローム層と呼ばれる
(約三万年前から何回かに分かれて堆積)

関東ローム層の最上部は立川ローム層と呼ばれ
その立川ローム層の赤土の中に人間の生活した形跡がみられるのだ

  多くの場合、丘陵地の端に近い部分で、谷から上がって丘陵の頂(いただき)にたどりついた位置である。そこにはほぼ環状に配置された礫石(れきせき)とその地点で石器が発見されている。学者によっては、この礫石を、熱く焼いて物を調理した跡だとする説もあるが、とにかく、石器にしろ配礫といい人間の手が加えられていることは事実である。武蔵野台地には、このような遺跡が各地で発見されているが、中野区内でも、沼袋駅の近くの丘、国立療養所中野病院付近の丘、東中野小学校付近や弥生町四丁目付近など十数ヵ所ほどこの時期のものらしい遺物のある遺跡が知られている。

  多少の時期的なズレがあったが、当時は中野地域にも人間が暮らしていたことになる。ところが、住居跡というものがまったく発見されていないのである。約一万年前ぐらいのこの時期は、日本全体の気候が非常に寒冷であったから、当然、住居が必要であったと思われる。それも掘立小屋では寒気に適さないので、どうしても竪穴(たてあな)を掘って住むことが最善策であったはずである。今後、旧石器時代の研究がさらに進み、不十分であった部分が一日も早く解明されるよう願うものである。

  前述したように、この時代の気候が寒冷であったことにふれたが、これを推察させるものが中野で発見された。昭和一二年ごろ、江古田の区画整理事業がすすめられていたが、江古田大橋付近の道路の下に、上水鉄管の埋設工事中に直良信夫(なおらのぶお)博士(元早稲田大学教授)が土中から植物の化石を発見した。詳細に調査すると、約二メートルぐらいの厚さで発達した植物化石層で、江古田川と妙正寺川の合流する江古田公園から国立療養所中野病院まで堆積していることがわかった。しかも、この「江古田植物化石層」は、第四紀の洪積世と現世とを区切る地質学上重要なポイントとなる地層でもあった。

  発見された植物の化石は、イチイ・アオモリトドマツ・カラマツ・イラモミ・ブナノキ・バッコヤナギ・コメツガ・チョウセンゴヨウなど20数種にものぼった。この植物の化石は、アメリカのエール大学で鑑定してもらったところ、約1万年前の植物であることがわかった。

  発見されたこれら20数種の植物のいずれもが、現在の東北や北海道などの山岳地帯に分布している亜高山(あこうざん)世の植物であることがわかった。これによって、当時の年平均気温は今日より約10度ぐらい低く、冬長く夏の短い北国の気候相が東京をおおっていたことが推測されたのである。

  このような時期が約2000年ほどつづいたが、大きな地殻変動によって氷河もとけ、海面もあがり、今まで寒かった所も急に暖かくなった。日本は四面が海にかこまれ、土地は南北に長く、森林が深かったために自然の恵みに浴することができた。森林の中には鹿や猪などの動物がすみついていたし、鳥類ではキジがもっとも多く、その他の小鳥類も数多かった。

  また、生い茂ったイヌガヤ・アカマツなどの針葉樹やクルミ・トチノキ・カエデなど温暖性の落葉闊葉樹木のもとには下草がおおい、当時、低地には湧き水や池沼(ちしょう)が各所に存在しており、その付近には水草や湿地性草木類のミクリ・ヤナギモ・カンガレイなどが多かった。

  この時期は新石器時代とも縄文式文化時代とも呼ばれ、7、8000年もしくは1万年ぐらい前から2000年あまり前ぐらいの時期にあたる。この縄文式時代の遺跡は、区内で、69遺跡が知られている(『中野区史』上巻)。急速な宅地化によって現在ではその姿をほとんど確認できない。しかし、発掘記録や出土品が残されているので、往時をしのぶことができる。

  当時の人々は、飲料水を得やすい台地上の端や谷間に面した傾斜地に竪穴式の住居を建てて生活していた。遺跡所在地の多くは、区内の妙正寺川・桃園川・神田川・江古田川などが浸食する沼袋・野方・中野・幡ヶ谷などの台地の末端の部分である。

  この時代の人々の植物は、江古田泥炭層から出土したクルミ・クリ・トチなどの植物果実や鹿・猪・鳥類・貝類であった。中野の場合は貝塚がないので、たぶん台地上の森林にすむ動物や樹木の果実と妙正寺川や神田川などの淡水魚などが常食にされていたと考えられる。

  人々は狩猟や外敵からの自衛目的のために、集団で生活をしていた。住居は数十センチメートルほどの深さの竪穴を掘り、木の柱をたてて草で寄棟式の屋根をかけて、その中で日常生活がいとなまれていた。就寝や手仕事、衣食住の保存などすべてこの住居の中で行われ、煮たきをはじめ室内の照明や暖房は、中につくられた炉によっていたと考えられる。

  このような生活が武蔵野では長い間つづけられたが、西日本から近畿を経て東日本に波及してきた弥生式文化の大きなうねりによって、生活にも大きな変革が生じた。

  これまで自然のものをとって暮らす生活であったものから、みずから作って積極的に前進させてゆく新しい生活へと変化した。ことに水稲耕作が生活の中心であったから、住民も台地上から耕作に都合のよい低湿地帯へ転住しなければならなかった。

  しかし、この期には主として沖積低地の発達している多摩川や荒川流域に移住したものっ思われ、丘陵地帯の多い中野では、縄文式文化期にくらべ遺跡の数は減少している。それでも、妙正寺川や神田川流域には、この時代の遺跡が比較的多い。『東京遺跡地図』によれば、一四遺跡が確認されているが、こうした低地へ移住した人々とともに、一方では丘に残って飲料水のあるところで生活していた人もいる。豊かな森林を開拓し、転々と移住した人々とともに、一方では丘に残って飲料水のあるところで生活していた人もいる。豊かな森林を開拓し、転々と移住する焼畑農業を行なっていた。こうして、武蔵野の大森林はしだいに影をうしない、畑と原野が点在する武蔵野に変わっていったのである。 18 (15うちこみ)


2 中野神明小学校校庭遺跡

  区立中野神明小学校(弥生町4-27)校庭遺跡は、古くから遺跡の存在が知られており、『中野区史』上巻には神明氷川神社遺跡として記されている。昭和50年の春に、旧校舎をとりこわして新校舎を建設することになったが、遺跡に指定されていた地点でもあり、発掘調査を行なうことにした。

  校舎建設予定地に八ヵ所のトレンチ(試掘溝)を試みたが、当初は2、3片の土器破片が掘り出されただけであった。

  ところが、ある地点のトレンチから、表面下約80センチのところで、赤土の面がかたく平らに踏みかためられた箇所がみつかり、しかも表面に光沢さえみられた。そこからは土器の破片も同時に出土したのである。そこで周辺を発掘したところ、一辺が3.6メートルのほぼ正方形の竪穴住居跡が発見されたのである。

  住居跡の中央には炉の跡があり、そこの土は赤く焼けただれており、この竪穴住居が長期間つかわれていたことが証明された。また、東側の壁ぎわには食物を貯蔵する穴も認められた。

  柱の穴がないことから、たぶん屋根を支える材木を、指を組み合わせるように組み、その上をカヤやワラでおおったのであろう。面積からみて3〜4人の家族が住んでいたものと推測される。

  発見された土器はすべて破片であったが、台付きかめや壺・高坏(たかつき)などであった。とくに、酸化鉄の丹(に)で赤く塗られた土器片が割合に多いことが注目された。これらの土器の年代は、弥生式文化時代の終末か、あるいは古墳時代の初期に属するものであった。

  このような調査の成果をふまえ、昭和五二年一〇月、再び木造校舎の撤去が終了した地点での発掘調査が行われたのである。

  当初の発掘作業は、校舎建設の際に土層が著しく攪乱されていたり、校舎のコンクリート基礎の撤去などで困難をきわめた。発掘開始後三日目に、第三トレンチ中央付近で、竪穴住居跡の一部を確認することができた。また、他の地点から江戸時代の墓も発掘され、調査員をおどろかせた。

  発見された竪穴住居跡は、一辺が6.15メートルのほぼ正確な正方形をしており、北側の壁ぎわ中央にカマドが設けられている。屋根を支える柱穴は4本認められ、床面から45センチメートルほどの深さまで堀こまれている。住居跡の床面が全体に軟弱な状態であったことも報告されている。

  カマドと対面するように、貯蔵穴が南壁際のやや中央より東に寄ったところに縦82×横90×深さ45センチメートルのものが造られている。貯蔵穴は一般的にカマドの左右いずれかの位置に設けられているのが通例であり、本住居跡のように、カマドに向かいあっている例は少ないようである。弥生時代末期から古墳時代前期の住居跡の場合は、貯蔵穴は入口の位置の左右いずれかにつくられている。本住居跡は、貯蔵穴の設置されている位置からみて、やや古い形態を継承したものといえる。

  住居跡とともに坏型土器4点が貯蔵穴の周辺および中から出土した。坏型土器がカマドからでなく貯蔵穴から発見されたことに注目されている。このほか、高坏型土器がカマド内の中央に伏せられた状態で出土し、かめ型土器3点など全部で11点の土器が出土した。他の遺物として、住居跡の南西部から炭化した桃とみられる実一点も発見された。

  教員委員会の報告書によると、前述のような内容の遺跡であるが、いずれも弥生時代末期から古墳時代前期のものと推定されている。 21 (18うちこみ)



古代の中野

1 古墳時代のくらし

  弥生式分化はますます発展をつづけ、今から1400年前ごろには土師器や須恵器を利用する文化へと移っていった。

  このころになると、死者を穴に埋めてていねいに葬る風習が行われるようになった。すでに人々の間には、貧富の差や指導する者とされる者との身分がはっきりしてきた。死者を葬るにもその人の身分や社会的な格式などによって形や大小が異なる塚が築かれていた。そのため、この文化期のことを「古墳時代」とも呼ぶ。

  中野区内には、戦前の調査によれば、北部の方にこの時代の中期に属する高塚古墳が江古田川や妙正寺川沿いにみられ、後期に属する横穴古墳が神田川流域にみられたとされているが、今日ではその存在も知られないほどである。

  しかし、当時の人たちが生活していたと思われる住居跡が、戦前に南台一丁目の神田川沿いで発見されたこともある。また妙正寺川流域の中野刑務所の北で製鉄所跡とみられる場所から鉄さい〔金へんに宰〕が発見されている。付近には住居跡もあり、早く土地の固まった低地をえらんで農業を営んで生活していたようである。

  この文化期の人たちは、米を作る農業のほかに麦・カボチャ・マクワウリを栽培し、梅・桃・アンズ・柿などの果樹も植栽していたといわれるが、これらの植物は、いずれも遠く北東アジア大陸から渡ってきたと思われるものであった。

  農業主体の生活になったため、人々の多くは低地に移っていった。いままで、武蔵の森林をきりひらいて焼畑を作っていた方法では能率が悪く、生産力も低いこともあって、大部分が放棄されてしまった。そこは一面のススキや雑草が生い茂り、長い年月ののちには広大な原野にかえってしまった。 23


2 郡郷制の確立

  古墳がさかんにつくられたころには、各地に豪族がいたが、それらが武力の強い者の支配に従うようになり、しだいに小さな国が形成されてきた。これらの小国を征服しながら、統一国家をつくったのが大和朝廷であった。東国の武蔵野の地域に大和朝廷の権力がのびてきたのは、5世紀前後のことであった。やがて、その強大な武力によって武蔵国は支配されるようになった。

  中野の地域も武蔵国に含まれているが、多摩地方に「胸刺国造 むさしのくにのみやつこ」が存在していたといわれ、この支配に属していたものとも考えられる。

  六四五年、大化の改新とともに中央集権的な統一国家の確立をめざし、地方制度や交通機関の整備にも力がそそがれた。このころ、知知夫(ちちふ)・旡邪志(むざし)・胸刺(むさし)の国造による支配から武蔵一国となり、国司が置かれたといわれる。

  そして七〇一年の大宝律令によって、多麻(たま)郡に国府(現在の府中市)が設置されて国司以下の役人が在庁して国務にあたった。国司は中央から派遣されていたが、その下の郡司は、おもに国造である在地の豪族が世襲で任命されていた。中野区の地域は東山道武蔵国多麻郡に属していたことになる。

  武蔵国は多麻・豊島など21郡に分けられていたが、その後、多麻(多磨とも多摩とも書く)は10個の郷に分けられた。10個というのは武蔵国の郡中最多であった。その郷名は、小川(ヲカハ)・川口(カハクチ)・小楊(ヲヤキ)・小野(ヲノ)・新田(ニフタ)・小島(ヲシマ)・海田(アマタ)・石津(イシツ)・狛江(コマエ)・勢多(セタ)となる(『和名類聚抄』)。狛江は現在の狛江市として地名がはっきりしているが、小川や小野を除いた郷名は現在のどこにあたるのか難解なものばかりである。中野区の地域のうち、雑色(ぞうしき)が小島郷に、中野、本郷、新井、上・下沼袋、上・下鷺宮、江古田、片山、上高田は海田郷に属していたといわれる(『日本地理志料』16)。なお、小島郷は近世の小島分村(現、調布市)の遺名といわれている。 24

3 武士の隆盛

  古代末期の武蔵野には、樹木のない広大な荒野に天皇家の牧が諸所に置かれていたし、また中央の貴族や寺院の荘園が成立していた。この荘園は中央から赴任してくる貴族をはじめ、寺院や地方の豪族たちが、貢租(こうそ)や徭役(ようえき)に苦しみ逃亡した農民たちをかくまい、その労働力で山野を開拓し、いろいろな特権をいかして私有地をふやしてつくったものである。

 この荘園には、不輸不入の特権(国家権力を介入させない権利)を得ていた。一方、在地の豪族は、所有地を名目だけ中央の貴族や寺院に寄進し、その保護のもとに実質的な所有権を確保したのである。自分の土地を守るために配下や一族のものたちを武装させて武士団を形成するようになった。

  承平五年(935)二月、平将門は所有地をめぐって平国香・源護(みなもとのまもる)らと常陸で戦いを始め、平国香を討った。これが承平・天慶(てんぎょう)の乱の始まりであるが、最初は同族同士の土地争いに端を発したことであった。しかし、将門は天慶二年(939)一二月、下野の国府を占拠し、大臣以下文武百官を置いて、みずから新皇と称し、公然と朝廷と対立するまでになった。このころ、将門は武蔵・相模へ進出しようとして、武蔵中野の原で藤原秀郷(ひでさと)・平貞盛らと戦ったが敗れ(事実は下総猿島さしま=岩井市で敗死)、弟の平将頼(まさより)が今の中野一丁目で討たれて死んだという伝説が残されでいる。

  この乱は、翌三年に将門が討たれ終結するが、在地武士の力が強大になり、朝廷の力だけではおさえることができなくなったことを物語っていた。その後、朝廷は平氏・源氏の武士をもって御所の警備や治安維持にあたらせるようになる。

  このころの伝説に、源義家(八幡太郎)が陸奥の豪族清原氏一族を平らげた後三年の役(1087年に平定)の帰途、先に義家が建てた大宮八幡宮(杉並区)に詣で、社殿・鳥居などを修造、境内に松を植えその傍らに不動明王を安置した寺を建立したといわれる。それが中野にある宝仙寺のもとになっている。 26



・・・・・・・・・・

ここで一旦保存 (15)
目の前でクスノキの解説がはじまりました

? うちこみのあと 手芸でしたか (何箇所かで)
・・・・・・・・・・


【中野の歴史2-3】そして誰もいなくなった/2016/05/20UP まるっと中野編集部

…中野区の7世紀後半以降の人々は多摩南部地域へと引っ越して行ったのです。 
(中野区立歴史民俗資料館館長 比田井克仁)



江古田遺跡/東京都埋蔵文化センター



石神井川 Wikipediaより
…立川ローム層を鍵層とした江古田層との対比より、石神井川の王子より上流の河谷底に堆積する泥炭層をサブボレアル期(4500-2500年前)のものとし、音無渓谷がこの泥炭層を開析しているように見えることから、渓谷の形成時期をサブボレアル期以後とした。…



北海道大学/露崎史朗 (TSUYUZAKI Shiro, 植物生態学・環境保全学)
…更新世 Pleistocene (≈ 洪積世 Diluvium)
180万(160)万-1万年前 (≈ 北半球氷河時代)
Palaeoloxodon 人類発展[気候帯形成]
氷河更新世 glacial pleistocene: 10万年周期氷期サイクルが顕著に現れ始めた更新世後半90-100万年以降…

…例: 関東江古田: 現在より6-8°C低く、イチイ、アオモリトドマツ、カラマツ、イラモミ、トウヒ、チョウセンマツ、コメツガ、ハンノキ、サワシバ、ブナ、シナノキ、キタヨシ、カキツバタ等が出る…


【PR】電話相談システム開発ならイーステム



このブログへのチップ   0pts.   [チップとは]

[このブログのチップを見る]
[チップをあげる]

このブログの評価
評価はまだありません。

[このブログの評価を見る]
[この記事を評価する]

◆この記事へのコメント
コメントはありません。
Copyright (c) 2006 KURUTEN All right reserved