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「拘置所のお膝元」/「煉瓦工場を振り返る」(二度め)
 
2017年11月25日 14時9分の記事





1枚め:小石川植物園/西端 11.25 14:20
イチョウの多い場の足元に散乱する煉瓦のひとつにはサクラがみてとれ
2枚め:東池袋(旧)造幣局跡地のあたり 11.19 05:44



・・・・・・・・・・


こちらは以前に・・どうでしょう? (25夜うちこみ)
池内氏の著書 訳書には「ゲーテ」「ファウスト」という語がみられ


「拘置所のお膝元にひろがる目に見えぬ“水界”。
池内紀 いけうち おさむ/ドイツ文学者/エッセイスト

「首都圏の治安を支える我が国最大の拘置所」
カラーパンフレット/東京拘置所発行

トウキョウ・デテンション・ハウス(Tokyo Detention House)
動詞 Detain「勾留する、留置する、(人を)引きとめる」の意味
名詞 デテンションは「勾留、拘置」さらに「居残り」といった意味も

 パンフレットによると、明治三(1870)年に「監倉事務取扱所」の名で設置されたのが始まりだった。以後監倉署、警視庁監獄第一支署、鍛冶橋監獄署、東京監獄、市ヶ谷に移転して市ヶ谷刑務所と、名称がめまぐるしくかわり、昭和十二(1937)年、ようやく東京拘置所に落ち着いた。場所も転々として、戦後はしばらく巣鴨刑務所に併設されていた。「スガモ・プリズン」の名で覚えている人もいるだろう。小菅に移転したのは昭和四十六(1971)年のこと。平成八(1996)年改築工事に着手。十数年がかりで現在みるとおり、ヘリポートを頭にして大きく左右に羽根をひろげたような建物が完成した。

(…略…)

  キャラメルをなめながら、ボンヤリと地上12階、地下2階、高さ50メートルの中央管理棟をながめていた。南北の収容棟に収容定員約三千名。拘置所の性格上、受刑者よりも未決の人が多い。両者の一日がパンフレットに図解してあるが、受刑者の場合は起床・点検・朝食のあと、作業・休憩・作業・昼食・作業・休憩・作業・夕食といったスケジュールである。いっぽう「未決監禁者」は、起床・点検・朝食・昼食・夕食・点検・仮就寝・就寝。

  「仮就寝」というのがわかりにくいが、そえられた時刻から推察すると、夕食16時20分、点検が16時40分。まだ夕方の4時台であって、夜9時の就寝まで、名づけようがないので「仮」をはさんだのではなかろうか。

  法のもとに逮捕され、法のもとに拘置所に送られると、人はフシギな状況に直面する。ただ食べて寝るだけ。三食つきで仕事をしない。ふつう人間は成長ののち、職につき仕事をする。主婦には家事がある。無職でもなんらかの身すぎ世しぎをして、社会のための何かをしている。人間が社会的動物といわれるゆえんである。

  ところが拘置所にくると「社会的」が消え、食べて寝るだけの「動物」になる。誰のために何をするのでもない。強いていえば自分を守るために検事と闘い、裁判にそなえる。そのための時間だが、しかし当の自分は、あまさず他人の手に委ねられている。システム上から、いっさい他人の手に委ねられたなかで食べて寝るだけの日常に投げこまれる。冤罪事件が解決をみるたびに取り調べ中の自白のことがいわれるが、その理由の一つには、拘置所にいる間の「動物」としての自分に堪えられなくなるためということがあるのではなかろうか。

「近代から昭和にいたる小菅の変遷」

  小菅の地名は日本の各地にある。一面に菅(かや)や蘆(あし)のしげる原をいったのだろう。『万葉集』巻十四東歌のくだりに「小菅ろの浦吹く風の何(あ)ど為為(すす)か愛(かな)しけ児ろを思ひ過さむ」と歌われている。小菅万葉公園はそれにちなむようだが、古代のこの辺りはまだ一面の水域であって、べつのところを歌ったものとされている。

  当地が歴史に顔を出すのは、ようやく近世になってからのこと。三代将軍家光のときに関東郡代伊奈氏がが小菅に広大な土地を賜り、下屋敷とした。伊奈氏は三代にわたり利根川の大工事をやってのけたので、その功によったのだろう。

  のちに下屋敷のなかに将軍のための休息所がつくられ、「小菅御殿」の名がついた。伊奈氏失脚後の天保三(1832)年、洪水や飢饉に備えるための粉倉32棟がつくられた。安政六(1859)年には貨幣吹替(改鋳)のまえの銭座、明治二(1869)年の小菅県の設置にともない県庁、二年後の県庁廃止後は煉瓦工場、そののちが小菅監獄――。

  江戸・東京の東の辺境が、どうして御殿に米倉に県庁にニューモードの建築材生産といった華やぎのある歴史の舞台になったのだろう?

  首をひねりながら南に向かった。拘置所の新正面口の向かいの路地の入口に古ぼけた石が二つ地面に突き出している。堀割が埋め立てられて欄干だけが残ったようだ。よく見ると、一方には「ぜんざばし」、もう一方には「銭座橋」と刻まれている。消え失せた歴史がチラリと顔をのぞかせたぐあいで、江戸末期の造幣局の跡である。財政が底をつくと、幕府官僚は急場しのぎに吹替をした。当今の国債発行と似たやり方で。大量の悪貨をつくる。幕藩体制崩壊の寸前にも、こりずに奥の手を使ったとみえる。

(銭座跡は現在は小学校)

(映画では「ジジババの店」として登場した駄菓子屋/高橋商店)

(旧水戸街道/綾瀬川にかかる水戸橋)

(幕末/天狗党といった憂国の面々が往き来)

(ひところ綾瀬川近辺に潜伏していたという新撰組)

(銭座を狙っていたのかもしれない)

荒川放水路などはなかったから、千住宿を出ると日光街道と水戸街道の二つに分かれる。ワケありなタイプは将軍家御成り道の日光街道を避け、水辺のコースをとったのではあるまいか。

(…略…)

  小菅神社から足立区との区境にくると、古隅田川遊歩道になる。急に「古隅田川」といわれてもピンとこないが、荒川放水路が開削される前は、だだっぴろいところを隅田川の分流が蛇行し、一帯は武蔵国と下総国の国境でもあるところから「古隅田川」などと総称されたのではなかろうか。

  小菅の隣町は綾瀬と堀切であって、菅のしげる低地に瀬や堀が縦横にめぐる広大な水域が浮かんでくる。葛飾区には、明治期の煉瓦工場をはじめとして、セルロイド産業、製紙業、化学工場、染色、アルミ、インキ、油脂の工場が進出してきた。ここは日本の近代化にあって生産部門の先端をになっていた。広大な工場団地ができたからだ。水運による流通にも便利だった。

(…略…)

東京拘置所新管理棟のエントランスホールには、天空をかたどった壁面オブジェがあって、太陽系の惑星の動きを中心に、地球から眺めることのできる自然現象をモチーフにしたそうだ。風、雲、雨、雪を「凝縮して表現」したというが、期せずして水界のシンボルをあらわしている。

小菅神社/明治2年、小菅県が設置された際に伊勢の皇大神宮を勧進し、守護神としたのがはじまり。その後、小菅村の鎮守であった田中稲荷神社の境内に移され、明治42年に小菅神社となった。

葛飾区を楽しむ本/東京人より


・・・・・・・・・・

以下は二度入れです。。数行記入したような記憶はございましたが。

こんなにも

「堆積した粘土や砂」や「指南」など 2016年12月17日 16時46分に

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文明開化を支えた、二つの煉瓦工場/立石三郎


小菅煉瓦工場

「お雇い外国人」が指南した、赤煉瓦造り。

日本で国産の建築用の赤煉瓦がはじめて焼かれたのは
安政四(1857)年の長崎溶鉄所(長崎県長崎市)の建設に伴うもの
『日本煉瓦史の研究』水野信太郎

慶応二(1866)年 横須賀製鉄所構内で赤煉瓦製造

それらはオランダやフランスの技師が指導したものだったが
明治になり イギリスの影響を受けた煉瓦造りが広まる

その流れにより小菅 金町に煉瓦工場が築かれ
葛飾で製造された煉瓦は 赤煉瓦建物や近代産業の工場の資材などとして供給された


監獄で極められた技術

  明治二(1869)年、明治政府が最初に手掛けた洋式工場群とされる大阪造幣局寮の赤煉瓦製造を指導したイギリス人ウォートルス(ウォータース)は、明治五年に大火で消失した銀座の街を、火災に強い煉瓦街にするための建設指導にあたる。この銀座の煉瓦街建設に伴い東京でも多量の赤煉瓦が必要となり、ウォートルスの指導により小菅御殿跡地(葛飾区小菅)の一角に日本初のホフマン窯三基を備えた民営の盛練社という煉瓦工場が建設された。

  明治十一(1878)年、同地に小菅監獄(集治監)が設置されることとなり、盛練社の敷地や諸施設は内務省警視庁監獄局に買い上げられ官営となる。明治十九年にはホフマン窯三基、宇都宮式窯一基、登窯一基が設けられ、月産百十万個の生産を行っていたという。さらに明治二十年には、商務省のお雇い外国人ドイツのワグネルにより楕円形の輪窯も増設されている。

  明治三十八年からは民間業者の組合である「小菅煉瓦匿名組合」が製造を請け負うこととなった。この組合によって、大正十二年の関東大震災による被害で煉瓦生産を止めるまで、製造が続けられた。

  買い上げられた煉瓦工場では、集治監に収監された人が煉瓦製造に従事するだけでなく、獄舎や外壁などの諸施設が直営工事として行なわれた。その結果、優秀な製造・建築技術者が育成された。鉄道建設や東海地方や北海道などに赤煉瓦製造や建築技術を伝えた鈴木左兵衛、小倉常祐、高木忠五郎は、小菅で習熟した技術だった。

  また、小菅で誕生した監獄の赤煉瓦技術も各地の監獄へ伝えられた。各地の拘置所や刑務所のイメージが近代化されるなかで、昔の監獄特有の“赤煉瓦”というモチーフが形成されることになる。


(・金町煉瓦会社 上記の頁にあります)

葛飾区を楽しむ本/東京人より


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最近片付けているときに出てきた紙
いつ頃か‥当時 丁寧に綴じた‥薄いそれら

・・

数日前に 十日くらい前の赤レンガ倉庫の様子を耳にしたり

数日前に 以前 鋳造工場(アトリエ?)((ちゃら の)実家)で 作業を行なって‥他 聞いたり
「メダル」とも



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