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(果たしてきた役割)
 
2018年2月7日 9時46分の記事

※その書を再び開くかどうか わかりません※ 2.24



アカデミア・デイ・リンチェイ(Accademia (Nazionale) dei Lincei: オオヤマネコの学会の意味
ローマのコルシーニ宮殿にある科学アカデミー…
…Wikipedia…
ローマ教皇庁科学アカデミー
Pontificia accademia delle scienze
Pontificia Academia Scientiarum
…Wikipedia…
フェデリコ・チェージ
(Federico Angelo Cesi、1585年2月26日 - 1630年8月1日)
・・・・・・・・・・ ////////// ・・・・・・・・・・


『細胞学の歴史−生命科学を拓いた人びと−』1999
アーサー ヒューズ Arthur Hughes (原著)
西村 顕治 (翻訳)

望遠鏡と顕微鏡の双方が最初に用いられたのはローマであった
1601年 フェデリコ・チェジが山猫アカデミーを創設
1609年 ガリレオが参加

顕微鏡を用いて業績が継続的に積まれるようになったのは
英国の王立協会が創設(1662年)され 初代の装置管理者に
ロバート・フック(1635-1703)が任ぜられてから

顕微鏡は彼にとって、多くの興味ある対象の1つにすぎなかったのだが、それでも、1665年に出版されたかの有名な『ミクログラフィア』は、表題紙にあるように「微細なものの生理学的な記載」にもっぱら向けられたものであった。それゆえ、ほかならぬ、ここにこそ、本書の主題が始まる。細胞の構造がはじめて図に描かれて、私たちが用いているのと同じ意味での「細胞」cellという語が使われたのであった。 14

2.11 追加


・・・・・・・・・・

その化学的研究領域の創設者はフレデリック・ミーシャー(1844-1895)
彼の父親はヨハンネス・ミュラーのもとで学んだ
彼自身はバーゼル大学在学中にウィルヘルム・ヒスの授業を受けた

ミーシャーの卒後研究は 1860年代の後半に
当時の指導的生理化学者だったホッペ-ザイラーのもとで始められた


『細胞学の歴史−生命科学を拓いた人びと−』P139〜
 
…ミーシャーの課題選択は、しかし、完全に彼自身で決めたものであった。その頃までには、それが普遍的に存在することから、核が特別に重要な細胞成分であることは明らかとなっていた。しかし、核についてなんらかの化学分析が可能となる前提として、まずまとまった量の核をほかの細胞成分から分離しなければならなかった。これを試みようとミーシャーは決心し、研究材料に、捨てられた外科の包帯から集めた膿の細胞を選ぶという、一見異様な選択をした。確かに膿は、消毒が行われる以前の病院では十分豊富であったが、それでも、彼が言うには、「疵物きずものなしとはいかなかった」。彼は、臭気があまりすごい包帯は取り除く配慮をした。

細胞が懸濁液として得られ、さらに、稀塩酸、ペプシンおよびエーテルであると彼は知った。核はフラスコの底に沈んで、顕微鏡下にはこの沈渣が、「平滑な外囲と均質な内容物に、それぞれはっきりした輪郭をそなえた核小体を持ち、最初の大きさよりやや小さ目なながら完全に純粋な核」であることを観察した(Miescher,1871)。その当時数人の研究者が、似たりよったりの方法でいろいろな組織から核を単離していたが(Brunton,1870;Auerbach,1874)、そういった操作はその後も無視され続け、ようやく1930年代になって、細胞分画法の名称(Claude,1937)で復活した。

ミーシャーは膿細胞の核から注目すべき性質をそなえた物質を調整し、それに「ヌクレイン」nuclein の名称を与えた。それは既知のどんな生体物質よりも強い酸であり、さらに、当時は生物学関連の有機物中ではきわめて希少だとされた元素である燐が高い組成で含まれることで識別された。この研究段階で、ミーシャーが得た結果は当時としてあまりにも驚くべきものであったため、ホッペ-ザイラーはそれらの結論を自身で確認するまで公表を渋り、そのため、ミーシャーの論文が世に出たのは、2年も遅れて1871年であった。

しかし同じ年に、彼はバーゼルに帰郷して、ライン河の冬サケの成熟した精巣もまた、いっそう魅力的なヌクレインの材料に相違ないことを発見した。単利した精子の頭部中に、彼は酸性のヌクレイン、すなわち核酸ばかりでなく、それといっしょに複合体を作っていた塩基性の強い窒素化合物を発見したので、それに彼は「プロタミン」protaminという名称を与えた。この材料からのヌクレイン調整は、精子の頭部を強酸で溶解し、それを水で希釈して、ヌクレインでできた線維を沈殿させるというものであった。これらの調整試料をできるだけ冷却しておく必要があったため、彼は、冬に暖房なしの部屋で働いたのであった。彼は友人の一人に以下のように実験方法について述べている。

核酸を調整しようという時、私は朝5時に研究室に行く……どの溶液も5分以上は放置せず、どの沈殿も1時間以上は無水アルコール中にとどめることができない。しばしばそれが夜遅くまで続いた。唯一この方法だけで、私は一定の燐の組成を持つ産物をついに手に入れたのだ。(Greenstein,1943)

ミーシャーは、ヌクレインの特徴として、ペプシン消化に抵抗性があり、かつアルカリに可溶なことを発見した。高濃度の塩溶液で処理すると、膨潤してゲル化した。1881年にはザカリアスが顕微鏡下で、さまざまな種類の細胞や核に対してこれらの試験を適用した。彼は、ペプシンがカエル赤血球の細胞質を消化し去って、単離した核を残すことを見出した。同じ結果が Vorticella やゾウリムシ Paramoecium などの繊毛虫類で見られたが、その際に、大核は実験後も溶解しないまま残った。これらの小核はアルカリに可溶であった。彼が植物組織について興味深い観察をしたものがあったのだが、それは、分裂中の花母粉細胞の染色体はペプシンに抵抗性を持つが、紡錘糸は消化されたのである。フレミングは翌年、このザカリアスの仕事を念頭に置いて、彼の著書『細胞質、核および細胞分裂』の中で、核の「枠組み」を形成している物質である「染色質」chromatin を定義したのであった。

……その光学的屈折性、それが示す反応、そして何といっても色素に対する親和性から見て、私が染色質と名付けた物質である。たぶん染色質はヌクレインそのものであろうが、もしそうでなかったとしても、ザカリアスの業績から見て、相互に相通じるものである。染色質という言葉は、それの化学的な性質が知られるようになるまでは役に立つことだろうし、それまでの間は、細胞核内の易染性物質を指すのである。


現在、「核酸」nucleic acid という語は物質の1グループを指すことがわかっている。この物質は2種類に分けられ、両方とも核の中に見出される。そのうちの1つは、核の外には存在しない。さらに、生きている状態では核酸が通常結合しているのが、広義でいうところの塩基性タンパク質に属するものであるが、それらの中でも、成熟した魚の精子が持つプロタミンは、極端な事例である。

核酸の化学的研究の進歩は、アルトマン(1852-1900)がたんぱく質を含まない試料調整法を発見してから、加速されることになった。それは1889年に発表された。それから3年以内には、核酸の3成分が識別された。燐酸に加えて、プリンとピリミジンという2つのタイプの有機塩基、および第3には、五炭糖の炭水化物があった。核酸が調整されたおもな材料は、酵母と動物の胸腺であった。これら2つの材料から単離された産物に、ある相違がみられ、それから動物と植物の核酸の間にある基本的な相違であろうという早まった一般化が持ち上がった。しかし、1914年には、この2元論は誤っていることが示されたのである。生化学者のR.フォイルゲン(1914)によって、胸腺タイプの核酸が持つ不安定な炭水化物は、その頃まで考えられていたような六炭糖ではなくて、五炭糖であって、緩和な加水分解でアルデヒドを遊離し、それがこの類の物質検出に用いる通常の試薬である亜硫酸で脱色したフクシン色素によって兼sy通されることが示されたのである。10年後に、この試験が顕微鏡下で組織切片に適用された。そのときフォイルゲンと彼の共同研究者のH.ロッセンベック(2924)は、麦芽の核がこの試験に強く反応するのを発見して非常に驚いた。その結果は、胸腺タイプの核酸が植物の細胞に見出されたことを示していたからである。

現在では、核酸のタイプの区別が動物と植物の細胞内におけるそれらの分布状態と関係していることがわかっている。胸腺タイプの核酸は核の中でのみ見出され、その淡水化物成分はデオキシリボースで、デオキシリボ核酸、つづめてDNAとしても知られる。もう一方のタイプの核酸も、動物と植物ともに細胞質と核の双方に見出され、核では核小体の主成分である。ここでもリボ核酸、RNAの名称は、その炭水化物であるδ-リボースに由来する。さらに、それら2つのタイプの核酸は、同じプリン塩基[アデニンとグアニン]を持つが、ピリミジン塩基ののうちの1つが相違する[DNADEシトシントチミン、RNAでシトシンとウラシル]。

組織化学的方法として応用した場合の
〜P143


1.27 17:21:30 下書き保存分



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