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国を棄てたらしい大明神
 
2018年7月22日 23時7分の記事

怪異学の技法
賀茂別宮と徳大寺家 家と怪異/佐伯智広

徳大寺家を外戚とする後白河天皇の即位により
賀茂「社」は賀茂「別宮」として新たな段階を迎えた

そこでの賀茂別宮の役割は、血縁関係による王権との関係を具体化し、家産の獲得・維持に活用するというものであった。さらには六条天皇・摂政基美の御祈願所へと、賀茂別宮の持つ性格は、徳大寺家の政治的動向につれて変転を重ねたのである。
174〈二、賀茂社から賀茂別宮へ〉

(175〜)
〈三、もう一つの怪異〉 より
賀茂大明神、日本国を棄て他所に渡る

賀茂別宮に関わると思われる(もう一つの)怪異

  仁安元年(1166)七月、賀茂社の社司等は六条天皇・摂政藤原基美のもとに参上し、「仁和寺辺の女」の見た夢について奏した。それによると、女が六月と七月の二度にわたり見た夢は、天下の政が不法であるために賀茂大明神が日本国を棄てて他所に渡る、というものであった(『百錬抄』)。

  これ自体奇妙な事件であるが、この事件には一つ疑問点がある。「仁和寺の女」の見た夢は、どのような経緯で賀茂社に伝えられたのだろうか。また、賀茂社に関する夢想は、多くの場合賀茂社に参詣した人間や賀茂社の社司が体験するものであるのに、「仁和寺辺の女」という賀茂社と関係をもたない存在が、そもそもどうしてこのような夢想を得たのだろうか。この点について考えるための参考となるのは、同じ事件について記した『古今著聞集』の記事である。
175

(夢告)
(占い)
(夢想)
(想起)
176

徳大寺家と仁和寺との深いかかわり

そもそも
徳大寺家の称の由来となった徳大寺は
仁和寺の子院であり
その位置は現在の竜安寺にあたる

徳大寺では実能が大饗などを行っており、後には実定がその近辺に居住していた(『台記』仁平元年正月廿六日条、『玉葉』文治三年二月八日条等)。そして、何より重要なのは、公能の所有していた「得(徳)大寺の馬場」には、隨身(ずいじん)等の住宅が近接して存在していたように(『山槐記』永暦元年九月廿日条)、徳大寺周辺には徳大寺家の家産機構の関係者らが集住していたと考えられるのである。

(以上の点から)仁和寺辺の女の夢想の内容は
徳大寺家から賀茂別宮神主を通じて賀茂社社司らに伝達され
六条天皇・摂政基美へ奏上されるに至ったとの推測が成り立つ

単なる夢想にとどまらず、これが時の政権担当者に奏上されるとなると、これは立派な政治的行動である。

しかもその夢想の内容は、「天下の政が不法であるために、賀茂大明神が日本国を棄てる」という、極めて厳しい政権批判を含んでいる。
177『怪異学の技法』
東アジア恠怪異学編



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