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『秦漢帝国へのアプローチ』より
 
2018年12月23日 10時8分の記事

  カタドリ リョウサン
  「昔」から ? の ほう


(48〜)
考古学と文献史学のはざま

考古学者との対話

 1995年松山で開かれた秦始皇帝をめぐるシンポジウムで、聴衆からの最後の質問に答えるなかで、秦兵馬俑博物館のある考古学者と日本側の私を含めた二人の歴史学者との意見がみごとなまできれいに分かれたことに驚かされた。質問の内容は考古学の発掘を歴史研究にどのように生かせるのかというもので、参加した三名への回答を順番に求められたのである。考古学者の彼は考古史料と『史記』の記述の一致する点をみて、『史記』の記述の信憑性を確認できるという。

 たとえば始皇帝陵周辺の遺跡を実際に発掘している彼は、始皇帝陵の墓室を水銀が河川のように流れていたという記述と、墳丘表面の水銀濃度の分析の結果が一致している事例をあげ、これで『史記』の記述が信頼できるのだという。すなわち『史記』秦始皇本紀には、始皇帝陵の地下宮殿の様子が描写されており、そのなかに「水銀を以て百川・江・河・大海を為(つく)り、機は相い灌輸し、上には天文を具え下には地理を具う」という部分がある。始皇帝陵の墳丘部が未発掘である現時点では、水銀を機械じかけで河川のように流したという記述の真偽は直接確かめるわけにはいかないが、墳丘の土壌中に含まれる水銀量の分布調査から、司馬遷の記述の信憑性が確かめられたという。

 しかし私たちはむしろ考古史料と『史記』の不一致点をみて、『史記』の史料の限界を確認しなければならないと述べた。たとえば彼が発掘している8000にものぼる兵馬俑の地下軍団のことは『史記』には一言も言及されていないが、*1重要な始皇帝陵園の施設の一部であったことはいまや否定できない。司馬遷は兵馬俑の存在を知っていて書かなかったのか、それともすでに半世紀後にはすでに忘れられてしまったのか。始皇帝陵はすでに始皇帝が前210年9月に埋葬され、翌前209年4月に墳丘造成工事が終了してからわずか三年後の前206年、項羽の軍が咸陽にはいったときにあばかれている。後世の伝えでは、30万人の労働力で30日かけても財宝は運び出せないほどであったという。このとき項羽に兵馬俑の地下軍陣も破壊された可能性もあるが、実際の遺跡の状況は、一部延焼した箇所もあるが、全体は自然倒壊であった。司馬遷の記事は多くの伝聞に頼っており、兵馬俑にかんしては耳にはいらなかったのであろう。*2
*3

 対照的なこの二つの回答は、いろいろ考えさせる内容を持っており、シンポジウムのエンディングにふさわしいものであった。記録される史料というものは、無数にある事実のなかから一定の観点で選択された結果であるといえる。考古学者の彼はたとえば二割を伝える司馬遷の文章の史料のなかに史実を見出し、私は司馬遷が記述しなかった八割の世界にもまた史実を見出したいのである。都市・陵墓・宮殿・道路・長城などの考古学的遺跡や、瓦・煉瓦・陶器・青銅製武器・鉄製農具などの出土文物というものはモノである点でその存在そのものは重いが、竹簡などの文字史料がともなわない場合は、既存の文献史料の助けを借りてはじめて遺跡、文物じしんが歴史を私たちに語りはじめる。遺跡、遺物は二割の世界を語ることもあるし、八割の世界を語ることもある。日中研究者双方の見解の違いが結局同じところに行き着くことには、このシンポジウムを終えてしばらくしてから気がついた。(50)

「私たちがある場所を訪れて一つの都市、建築物のようすを記録したとする。文献の記載は一つの観察の方向から記述されたものであり、部分は全体そのものではない。記録の対象は事件であっても、さらには自らの国家、民族であっても同様である。地域史は中央にたいする地方史を語ることではない。それは中央の権力、王朝の支配理念からはみえなくなっている歴史を掘り起こしていく歴史学の方法であり、歴史学に地域の観点をいれた場合、歴史はさらに多くのことを私たちに語りかけてくれるであろう。」(51)

▫️

 秦兵馬俑の実物大のリアリズムを、漢代のミニチュアのリアリズムと比較してみると、両時代の様相が理解できるようだ。秦の人びとは現実世界をそのままのスケールで死後の世界にもちこんだ。実物の武器を携帯した兵馬俑の軍陣はまさにその象徴だが、一方の漢代の人びとは、人も牛・犬・鶏などの動物も、武器も半両銭という青銅貨幣も、穀物を計量する桝も、また鉄の農耕具も、かまども、あらゆるものを小さくつくった。漢の人びとにとっては、奢侈の風を捨て合理性を追求したのかもしれない。

 漢代の人びとは始皇帝陵のような華美な埋葬を厚葬として、よく政治的に非難した。前漢文帝のときに賈山(かざん)という人物は、秦の事例を引きながら政治の道を説いた。阿房宮などの宮殿、馳道という道路が華美であると非難し、驪山の陵についても、数十万人の労働力と10年の歳月を浪費し、地下宮殿に贅沢をつくしたことを批判した。実は漢代の人びとは、秦を対極において否定することで、自己の存在価値を見出した。そういうフィルターをとおした秦の時代像には気をつけなければならない。秦の実物大のリアリズムの意味を、今考えなければならないのであろう。(45-46)

世界史リブレット?『秦漢帝国へのアプローチ』
鶴間和幸/1996年1版1刷/2004年1版5刷


(手がすべって押してしまったのは 11:03*1)
* そこに(#)6F de (*) 入れときます
*2 そのとき11:30は過ぎていたかしら

*3 18時過ぎから

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