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「川(の痕跡)」
2019年4月28日 9時49分の記事
こちらさまの画像に‥
https://www.y-history.net/appendix/wh0100-54.html
画像1「インダス川 赤は主要遺跡 Yahoo Mapに加筆」
ガッガル・ハークラー涸河床等他が無いので
‥ラフな(茶)線と(湿原)面を
入れさせていただいきました
画像2「現在のタール砂漠とインダス川」
Io Herodotus
ガッガル・ハークラー川
…河道跡が人工衛星で確認され、『リグ・ヴェーダ』の記述ともよく合致するため、幻の川サラスヴァティーであるとほぼ同定されている…
Wikipedia
(〜30)
🌫
『四大文明[インダス]』より
■幻の川、ガッカル・ハークラー涸河床
45-47
(「インダス文明の遺跡分布図」 58ページ)
モヘンジョ・ダロやハラッパー遺跡はインダス川沿い
ドーラビーラーのあるグジャラート州はインダス川から離れている
グジャラート州には数百を超えるインダス文明の遺跡が確認されている
首都デリーに近い北西インドにも数多くの遺跡がある
45
地図に描かれている点線
インダス川は枝分かれして、いくつもの水流に分かれているが、点線はそれらの支流の南に描かれていた。点線は北西インドでは実線になり、南西方面ではインダス川と並行している。いずれにしても、インダス川とは合流していない。
インダス川から離れた地域に多くの遺跡があること
その謎を解く鍵は点線に含まれていた
46
46-47
点線の意味
「この地域には涸れた川があるんですよ。インドの研究者はサラスバティーと呼びます。『リグ・ヴェーダ』にはいくつもの川が出てくるのですが、その記述からインダス川とガンジス川は特定できます。でも、サラスバティーと呼ばれる川だけは特定できない。それゆえ、伝説の川と呼ばれていたのです。ところが、衛星写真を見たら、涸れた川の形跡がはっきりとわかり、『リグ・ヴェーダ』の記述とも一致した。おそらく、この涸れた川がサラスバティーではないかといわれています。でもパキスタンの研究者はサラスバティーとは呼びません。ハークラーといいます。インドではガッカル川という呼び名もあるので、ガッカル・ハークラー川という名称もあるんです」小磯学
「ただ、途中、点線が途切れている個所があるんです。川(の痕跡)はタール砂漠の途中で砂に埋まり、見えなくなっている。ですから、あくまで点線なんですけどね」
北西インドに集中して存在するインダス文明の遺跡とグジャラート州あるインダスはどちらもガッカル・ハークラー川の流域にある。とくに、ドーラビーラーが位置するカッチ湿原はガッカル・ハークラー川が流れこむ河口にあたる。
また、考古学的に考えられている4500年前の地図は、現在とは大きく違っている。グジャラート州の大部分を占めるサウラーシュトラ半島全体は、かつては大きめ島だったのではないかともいう。
こうして古代の地図を推測することから、ドーラビーラーの性格がもう一つ浮かび上がってきた。海のほとりにあるこの都市は、海の交易で栄えた都市ではなかったかということだ。
■「海の道」と交易
47-49
二進法と十進法にのっとって作られた方形のおもりは インダス文明の各都市から発掘される
度量衡は統一されており
どの都市でも正確な計量が可能だった
数多く発掘される印章もハンコとして使われていた
商品を梱包する用途があったのではないかとされている
47
交易の始まりは都市が成立する以前の非常に古い時期、およそ7000年前までさかのぼれるという。当時の交易ルートは、イラン、アフガニスタンを通る陸路であった。たとえば幾何学模様の印章は、イラン方面からもたらされたのではないかといわれている。
インダス文明の人々の交易品は、木材、小麦、木綿などさまざまだが、私はとくに美しい装飾品に目をみはった。紅玉髄と呼ばれる赤くほんのりと透き通った石でできたネックレスやブレスレットは、インダスの人々の姿をあざやかに蘇らせる。紅玉髄のネックレスは、長いストローの形に切られた石をいくつもつなげて作られている。まるで、風鈴がいくつも鳴っているようないい音がする。涼しい気分を運んできてくれる、心地よい音だ。
インダスの人々はほかにもさまざまな美しい石でビーズを作り、装飾品をこしらえた。石の加工技術も優れており、紅玉髄に白く模様をつけたものがいくつも発掘されている。どうやって白い模様をつけたのか、技術の全貌はいまだに明らかにされていない。髪の毛に通したのではないかと思えるほど小さなマイクロビーズもある。直径1ミリ。どうやって作ったのか。4500年前の高度な技術を、私たちは想像で補うしかない。
こうした貴石類はインダスの交易品として非常に重要だったのだろう。遠い遠い地域から思いがけず発掘される。インダスからおよそ2000キロも離れたメソポタミア文明の地ウルからも、ペルシャ湾岸地域の遺跡からもインダスの遺物が見つかっている。
ガッカル・ハークラー川から海に出て西へ西へと進むと、ペルシャ湾岸地域につきあたる。この湾岸地域には、インダスとの交易を示す多くの証拠が眠っている。現在のUAE(アラブ首長国連邦)とサウジアラビアの隣国、バーレーン(バハレーン)。
49
(「ラホール宣言」
49 52
)
■インダス文明の「異物」
184より
メソポタミアの諸都市で域外産物資が発見されるのと同様に、インダス文明の諸都市においても、様々な遠隔地産物資が出土している。どのような経緯で持ち込んだのかという、興味深い問題が生じることになる。筆者はこういう遺物を「異物」と呼び、その文明の国際的役割を知るために好適な材料と考えている。
座談会
四大文明をめぐる[三]交易
213-233
(近藤英夫/鶴間和幸/吉村作治/松本健/井上隆史/後藤健)
…
鶴間
三星堆の祭祀坑には大量に象牙が投げ込まれていました。
228
…
吉村
僕などはエジプトの場合に、「不純銅」とよんでいるんです(笑)。青銅という言葉をみんな安易に使いすぎると僕は思っているんです。
230
…
鶴間
『周礼』の中に『考工記』というのがありまして、それには錫を17パーセント入れれば楽器や鼎、25から40パーセントなら武器、半々にすると鏡であるとか、きっちり数字が出ているんです。強度や光沢を考えて六段階の含有率に分けているんです。
230
…
吉村
自前ではありません。エジプトは自前で持っているものはほとんどないです。金が少しあるくらいです。
後藤
銅はシナイ半島からくる。
吉村
銅、青銅のたぐいは、西アジアを経由してほかからということですね。輸入品です。ほとんどパピルスとの交易です。
後藤
メソポタミアの場合には錫はどこからくるんですか。
松本
アフガンの北の方です。北のルートを西へ動いたのではないかと思うんです。しかし、メソポタミアの場合は錫ではなく、たぶん砒素だと思いますよ。
吉村
そうですね。砒素はものすごく入っている。
231
…
後藤
四大文明の代表者がそろっているところで、私はそれらの文明の「隙間」をうかがっているのですが、今回の「交易」に関しては、隙間はその中継地であったり、運び手であったりということで、中国を除く三地域の間ではその役割が少しは見えてきました。けれども、中国とほかの三地域との隙間を埋めるのは、なかなか難しいようですね。
次回は「埋葬」についてお話し願いましょう。
233
遺跡ガイド
234-245
「インダス川の管理」より
インダス川が遺跡を洗い流さないためにとられた手段は、まず遺跡地全体を囲む堤と遺跡内をさらに区分して囲む堤を設けること、そして遺跡地からインダス川に向けて突き出したT字形突堤を築くことであった。
築かれた堤を見ると そこには土器片が大量に混じっていて
本来は遺跡地であったところの土地を削り取って堤をつくってしまうこともあった
237
『四大文明[インダス]』近藤英夫
🌫
投稿は17:55
(54前後 「テラス農耕」「溢水」とか)
メモを挟んだのは54ページあたりかしら と
そこら辺を抜き出そうとして‥ 別のところへ
(メモを渡してくれた方が また本を渡してくださった)
🌫
30 別の資料を開きまして
たとえば 腕輪 首飾り(も長めなら頭が入る)
インダス関連物は 輪っか状につくったのではないですかね
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