このブログのトップへ こんにちは、ゲストさん  - ログイン  - ヘルプ  - このブログを閉じる 
くる天
最近の記事
03/11 14:52 歯ごたえ
03/04 15:03 屯倉・名代など
01/27 15:08 境地とは
01/11 15:11 植線
01/02 18:43 家紋
12/26 15:19 ぐじ
12/16 13:26 認識
12/11 21:53 古代紫
11/20 16:15 蜜柑
11/05 15:23 戦禍をこえて
フリースペース

注:文中の「?」は、疑問符を表す場合と、ローマ数字が反映されていないケース(携帯電話からの送付分)による表れがあります。


* * * * * 



2021.9.12



RSS
プロフィール
ka-on さん
和音
ポップアップリンク
ブログ内検索

牽強附会
 
2020年4月15日 14時6分の記事


醜い(後世の)「付会」を絡ませた
複雑な筋書き

陰謀渦巻く歴史を 如何に(胸を張って)
子どもたちに?
渡せます?

積み重ねられた業
遺伝子に纏わりつく罪悪(感)
その感じは 水平伝播の類のことではなく
修整を悪い方へと維持できてしまう民族性の自覚等について

延々精算されない物事

(病気の治療なども)
簡単ではない… どころのお話しではない
ということが
すんなりと理解できます


「恥ずべき」マニュアル化 でしたね




『藤原氏千年』より 〈不比等の登場〉

 『大鏡』には、「御子の右大臣不比等のおとど、実は天智天皇の御子なり。されど、鎌足のおとどの二郎になりたまへり」と語り、「比び等しから不」という名もその意味でつけられたという。しかし、この天智落胤説は史実とは見なしがたく、後世の付会であろう。

  鎌足の長男の貞慧(定恵、643〜666)は、11歳の時に遣唐使の船で唐に渡り、長安にいた慧日について学び、12年後に帰国したが、その年のうちに若くして他界した。僧籍に入ったこの兄に代わって鎌足の跡を継いだのは、次男の不比等であった。

  一方、鎌足の二人の娘、氷上娘と五百重娘は天武天皇の夫人となっていた。藤原氏と天皇家との姻戚関係はここに始まるのである。なお、新田部親王を生んだ五百重娘は『尊卑分脈』によると、異母兄の不比等と密通して麻呂を生んだことになっている。

  11歳で父の死と直面した不比等は、一時的、他家に養われるといったこともあったが、20歳頃には蘇我倉山田石川麻呂の姪にあたる娼子を妻に迎え、この間に武智麻呂・房前・宇合が生まれている。彼らは、それぞれに南家・北家・式家の祖となり、これに麻呂の京家を加えた、いわゆる藤原四家はここに始まる。

  不比等は、これらの男子とは異腹の娘の宮子(?〜745)を文武天皇(638〜707)の夫人とし、そこに誕生した首皇子(聖武天皇、701〜756)に、後妻の県犬養(橘)三千代を母とする娘の安宿媛(光明子、701〜760)を入れるといった二段構えで天皇家に深く楔を打ち込んだ。重要な点は、藤原氏による外戚の地位獲得の萌芽がここに求められることであり、新興の藤原氏が、阿倍、紀、大伴といった有力氏族にうって出るための大きな賭けであった。

  これより先、朱鳥元年(686)、天武の崩御の直後に大津皇子は自殺に追い込まれた(24歳)。持統の同母姉を母にもつ皇子は、東宮の草壁とは1歳違いの弟で、天武は、自分の豪放な性格を受け継ぐ大津に大きな期待を寄せていた。それだけに持統の警戒心も強く、天武の崩御を機に、「東宮に叛意を抱く」という理由で大津皇子は葬られたのである。
25〜26


〈近衛家と九条家〉
 摂関家の勢力を弱めた大きな要因は院政と武家の登場に求められるが、それと絡んでではあるが摂関家内部での勢力争いも無視できない。少なくとも12世紀初め頃までの摂関については、その地位をめぐって時には熾烈な争いがないわけではなかったが、おしなべて暗黙の了解のようなものがあったように思う。しかし忠通あたりから雲行きが怪しくなるのは、それまで摂関の決定が摂関家内で留まっていたのが、上皇や武家が介入してきたことによるものであろう。

 忠通のあと摂関となった嫡男の基実が24歳で若死した時、その嫡男の基通は7歳と幼少であったため基実の弟の基房が摂関となり、やがて20歳になった基通に引き継いだ。この継承は平清盛のクーデター事件のあおりであった。それは、後白河上皇の平家をないがしろにした行動に対して堪忍袋の緒を切った清盛が、上皇を幽閉し、側近を解官してしまったことにある。これ以前に基房は、清盛の孫と車で生き合った際に乱闘事件を起こしたことなどで平家と対立しており、上皇寄りであった。

 一方、近衛家の祖となった基実・基通父子は、ともに清盛の娘を妻にしていて平家と親しい間柄にあった。基通は、平家の都落ちに際して行動をともにするが、これはポーズであって途中から引き返してしまう。その裏を探れば、なんと基通は後白河上皇の男色の相手であって、二人の間ではあらかじめ話ができていたようだ。

 ちなみに九条家の祖となる藤原兼実は、甥の摂政基通(24歳)が上皇(57歳)の寵愛を受けたことを、これは摂関家としては恥ずべきことで秘事ではあるが子孫に知らしむるために書き留めておく、と日記『玉葉』に記している。さらに兼実は、基通が後鳥羽天皇の摂関となったのも上皇の「御愛物」であったからだ、と踏んでいる。

 なお、名うての男色家といえば藤原頼長であり、彼の『台記』を見ると、その相手を自分だけが判るように名前の1字を取ったり、官職で呼んだりしてぼやかし、行為そのものを「会交」とか「濫吹」などの語をもって記している。

 武家政権を樹立した源頼朝は、後白河上皇が源義経に頼朝追討の院宣を与えた時に賛同した基通を嫌い、文治2年(1186)に兼実を後鳥羽天皇の摂政(のち関白)に起用した。ここに到って、幕府のトップである将軍が摂関の決定を左右している。しかし十年後、源通親の暗躍によって兼実が失脚して基通が返り咲き、6年ほど関白を務めた。

 そののち後鳥羽上皇の意向によって、兼実の後継者の九条良経が摂政となるが5年で死去(38歳)、基通の嫡男の近衛家実が代わった。彼は、承久の乱(1221)の最中の2ヶ月ほど(この間に在位した仲恭天皇の摂政になったのは九条道家)を除く22年間、摂関の地位にあった。この乱は、幕府内部の混乱に乗じ、公家(貴族)勢力の復権をねらって後鳥羽上皇が中心となって起こした討幕計画であったが失敗に終わり、公家は完全に武家の監視化に置かれて急速に勢力を弱めていった。
172〜174
朧谷寿




2020.5.15 11:05 テンプレート変更
Blue Cube → ライブラリ


【PR】占いシステムの開発なら経験と実績があります。



このブログへのチップ   0pts.   [チップとは]

[このブログのチップを見る]
[チップをあげる]

このブログの評価
評価はまだありません。

[このブログの評価を見る]
[この記事を評価する]

◆この記事へのコメント
コメントはありません。
Copyright (c) 2006 KURUTEN All right reserved