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宮城県石巻市で、複数のタクシードライバーが幽霊に遭遇したという事例は、調査者が社会学を学ぶ大学生だということでも話題になった。(1)
[森羅万象]
2019年10月3日 15時25分の記事


『死者の民主主義』
人ならざるものたちの声を聴け。私たちは「見えない世界」とどのようにつながってきたのか。
畑中章宏  トランスビュー  2019/7/20



<人ならざるものたちの声を聴け>
<われわれの行為は、ことごとく、われわれの内部にある死者の行為なのではあるまいか。>
<いまこの国には「死者のための民主主義」が必要である>
<「死者を会議に招かねばならない」>
・そこで筆者が思い浮かべるのは、20世紀の初めのほぼ同じ時期に、イギリスの作家と日本の民俗学者が主張した、「死者のための民主主義」というべき思想である。イギリスの作家とは、探偵小説『ブラウン神父』シリーズで知られ、批評家、詩人、随筆家としても名声を博したギルバート・キース・チェスタトン(1874〜1936)である。日本の民俗学者とは、農商務省の官僚から民間伝承研究者に転じ、『遠野物語』『一目小僧その他』『先祖の話』などの著作をものにした柳田国男(1875〜1962)である。

・チェスタトンはその主著とされる『正統とは何か』(1908年)で、民主主義が伝統と対立するという考えがどうしても理解できないと述べる。その伝統とは、「民主主義を時間の軸にそって昔に押し広げたものにほかなら」ず、孤立した記録や偶然に選ばれた記録よりも、過去の平凡な人間共通の輿論を信用するもののはずであるという。伝統とは、言ってみれば「あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ」。

・チェスタトンがいう「死者の民主主義」が、かなり過激な思想であることは、次のような主張からもみてとれる。「今の人間」が投票権を独占することは、たまたまいま生きて動いているというだけのことで、生者の傲慢な寡頭政治以外のなにものでもないというのだ。「いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならない」とチェスタトンは訴える。
「われわれは死者を会議に招かねばならない」というこのイギリス人の考えは、愚にもつかない妄想や、神秘主義の類だとして、現在の私たちが一蹴してもよいものだろうか。

<祖霊の政治参加を促す>
・柳田国男は、東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、農商務省農務局農政課に勤務し、官僚として全国の農山村を歩きまわるとともに、いくつかの大学で農政にかんする講義を受けもった。1902年から翌年にかけて、中央大学では「農業政策学」講義をおこない、そこでは次のような国家観を語っている。
 国家の政策をある側の注文に合わせ、一方の注文に背く場合が少なからずある。こうした場合に、多数者の利益になることが国の利益だと考えてよいというものがいるけれど、それがはたして、国民の多数の希望に合うかどうかを知ることは難しい。また、少数者の利益を無視するいわれもない。

・「国家は、現在生活する国民のみを以て構成すとはいいがたし。死し去りたる我々の祖先も国民なり。その希望も容れざるべからず。また国家は永遠のものなれば、将来生まれ出ずべき、我々の子孫も国民なり。その利益も保護せざるべからず」。

・柳田国男は民俗学者になる以前に、「今の人間」だけが社会を構成し、社会の参加者として意見するだけではなく、死者の希望や、これから生まれてくる人間の利益を考慮すべきだと語っていたのである。
 この講義から8年後、チェスタトンの『正統とは何か』刊行から2年後の1910年に刊行された『時代ト農政』にも、死者の政治参加にかんする記述がある。
 国民の2分の1プラス1人の説は多数の説だけれども、私たちは他の2分の1マイナス1人の利益を顧みないわけにはいかない。しかも、万人が同じ希望をもってはいても、国家の生命は永遠であるから、まだ生まれてきていないものたちの利益も考慮しなければならない。

・「いわんや我々はすでに、土に帰したる数千億万の同胞を持っておりまして、その精霊もまた、国運発展の事業の上に、無限の利害の感を抱いているのであります」。
 ここで柳田がいう「精霊」は、「祖霊」と言いかえてもよいだろう。それにしても、死者たちの霊が国の行く末にたいして利害の感覚を抱いているという柳田の考えは、チェスタトンに劣らず過激なものである。

<妖怪や精霊にも選挙権を>
・『21世紀の民俗学』(2017年)で私は、日本列島に棲息してきた「妖怪」たちは、災害や戦争などにより不慮の死を遂げた人びとの集合霊であり、彼らにも選挙権を与えるべきだと主張した。現実的には、河童やザシキワラシに投票所に足を運んでもらうことはもちろん困難である。ただし、集合霊たる妖怪が、どのような公約を掲げる候補者なら納得するかを想像してみることは、決して現実離れしたことではないだろう。さらに言えば、精霊や妖怪、小さな神々を素朴に信じる人びと、信じてきた人びとこそが民主主義の担い手であると私は考えるのだ。

<「死者の立憲主義」>
・たとえば「立憲主義」は、過去のさまざまな失敗を繰り返さないよう、そこで得られた経験知や教訓をルール化し、憲法によって国家権力を制約するものである。この立憲主義が対象とする「国民」は現在の国民だけではなく、死者たちも含まれる。過去に蓄積してきた苦難の歴史の産物が憲法であり、死者の経験の総体が、現在の権力を縛っていると中島は言うのだった。

<南方熊楠の戦い>
・ここで改めて強調しておきたいことがある。それは日本の民俗学が、近代化のなかで蔑ろにされようとしているものたちに目を向けさせるための、戦いでもあったということだ。柳田国男の民俗学はなによりも、山人や妖怪、あるいは神社神道から漏れおちた小さな神々に光をあてようとするものだった。こうした観点からは、南方熊楠の神社合祀反対運動も強調すべき民俗学の戦いだったのである。

・熊楠は地元の『牟婁(むろ)新報』をはじめ、大阪や東京の新聞社にも反対意見の原稿を送り、また中央の学者に応援を求めた。また植物学者で東京大学教授の松村仁三に、神社合祀を批判する手紙を送った。この手紙を、当時内閣法制局参事官だった柳田が印刷し、『南方二書』と題して関係者に配布し、熊楠の運動を助けたのである。

<「平凡人は人生を内側から見ている」>
・チェスタトンによると、民主主義の信条は「結婚」「子どもの養育」「国家の法律」といった最も重要な物事を、平凡人自身に任せることだという。そのうえでこのイギリス人は、「伝説」のほうが「歴史書」より尊敬されねばならないと述べる。なぜならそれは、「伝説」は村の正気の大衆によって作られるのにたいし、「書物」は村のたった一人の狂人が書くものだからというのである。自身の信条としても、「日々の仕事に精を出す大衆を信じることであり、たまたま末席を汚している文書という特殊社会の、気むずかしい先生がたを信じる気にはどうもなれない」というのだ。
 非凡人の明晰明快な論証より、平凡人の空想や偏見のほうがより好ましく、「平凡人は人生を内側から見ているからだ」というチェスタトンの辛辣な言葉から、現在の知識人が政治に果たしている役割のおぼつかなさを、私は想起するのだった。

<「私は死んだのですか?」>
<大震災をめぐる「幽霊」と「妖怪」>
<私たちは数多くの「死霊」と出会ってきた>
・これから私は「幽霊」の話をするつもりである。震災後に出会ってきたおびただしい数の死者の霊についてだ。残念ながらしかし、私が「幽霊」をこの目で見たり、会話を交わしたという話ではない。
 亡くなった近親者や仲間の霊に被災者が出会った、あるいは身も知らぬものの霊と被災地を訪ねた人がコミュニケーションしたなどという「霊体験」を記録した出版物が刊行されつづけている。そうした読書をとおして、私も数多くの霊と出会ってきたというのである。被災地における霊体験の記録者は、宗教家、宗教学者、社会学者、ノンフィクション作家、フリージャーナリスト、新聞・通信社の記者と幅広い。にもかかわらず、出版が相次ぐのは読者の需要があるからだろう。

<さまざまな霊魂譚>
・宮城県石巻市で、複数のタクシードライバーが幽霊に遭遇したという事例は、調査者が社会学を学ぶ大学生だということでも話題になった。
 石巻駅で乗せた30代の女性は、初夏にもかかわらず、ファーのついたコートを着ていた。目的地をたずねると、大津波で更地になった集落だった。「コートは暑くないか?」と聞くと「私は死んだのですか」と答えるので、ミラーを見ると後部座席にはだれも坐っていなかった。

<あの世からの伝言>
・『龍の子太郎』や『ふたりのイーダ』などの童話を書いたことでも知られる民話採集者の松谷みよ子は、『あの世からのことづて――私の遠野物語』に、現代の幽霊譚や怪異譚を数多く収録している。

・こうした霊体験は決して珍しいことではない。親しい人が突然この世からいなくなったとき、人びとは霊と再会し、死んだものもまたこの世に現れるのだ。霊との遭遇は身近な人にだけ起こるともかぎらない。大震災の被災地を離れても、交通事故現場に立つ幽霊を見ることは不自然なことではないし、死んだはずのものがタクシーに手を上げ、ドライバーが乗せてしまうこともあるだろう。個別的な霊体験はこの瞬間にも各地で起こっている。不謹慎に聞こえるかもしれないけれど、東日本大震災では、その数が圧倒的に多かったという違いだけなのだ。

<新たな妖怪伝承は生まれるのか>
・被災地における霊魂譚のなかには、個人の霊と遭遇したというのとは違う、特殊な体験も記録されている。体験者である男性は津波被災地の近くに住み、震災から10日ほど経ってから現場を訪ね、死霊にとり憑かれてしまったようなのである。
 男性はアイスクリームを食べながら、クルマに「災害援助」という嘘の貼り紙をし、被災地を歩いた。そうするとその夜にうなされて、家族に向かい「死ね、死ね、みんな死んで消えてしまえ」、「みんな死んだんだよ。だから死ね!」と叫び、何日も暴れまわった。男性の苦悩を聞いた宗教家は、死者にたいする畏敬の念をもたず、興味本位で被災地を訪ねたためだろうと彼に告げた。

<妖怪と公共>
<柳田国男の妖怪体験>
・『遠野物語』(1910年)を世に出す前から、柳田国男にとって妖怪が「目前の出来事」であり、「現在の事実」であったのはよく知られるところである。

・柳田は『遠野物語』を嚆矢に、河童にまつわる伝承を次々と蒐集していった。その目的は、「この話などは類型全国に充満せり。いやしくも川童のおるという国には必ずこの話あり。何のゆえにか」という疑問を、自分で考えるだけではなく、後進にもその手がかりを与えるためだった。しかし、その発端となった『遠野物語』収録の五篇の「川童」譚は、たいそう気味の悪いものである。河童と人間のあいだにできた子どもは手に水掻きがあり、また別の子どもは「身内真赤にして口大きく、まことにいやな子」だった。
 一つ目小僧については1934年に『一目小僧その他』を公刊して、年末の課題の解決を試みた。一つ目小僧は多くの「おばけ」と同様に、「本拠を離れ系統を失った昔の小さい神である」。実際に見た人が少なくなり、文字どおり目を一つ目に絵に描くようになってしまったが、ほんらいは片方の目を潰された神だった。

<さまよう妖怪>
・柳田は『妖怪談義』(1956年)で、妖怪は「零落した神」であると定義した。

・柳田はまた、「盆過ぎメドチ談」で、「ばけ物」にたいする人の態度で三段階を示し、その思想の進化過程を論じている。第一段階は、ばけ物の出現を恐れ、敬して遠ざける。第二段階は、ばけ物の存在を疑うが、内心では気味悪く思う。第三段階にいたると、ほとんどの人がばけ物を信じることがなく、人の知力でばけ物の正体をあばいて退散させるようになる。

<妖怪の発展と発見>
・共同体が伝承してきた妖怪にたいし、夢枕に立つ幽霊は、その経験を他人に話さなければ、あくまでも個人に属する。しかし複数の人に経験が共有されたり、あるいは幽霊が辻に立つようになると共同性を帯びる。こうしたことが繰りかえされて『伝説』になっていく。『遠野物語』の第99話は、2011年の大津波以降、明治三陸津波をめぐる怪異譚としてよく知られるようになった。この話も、ある特定の個人が経験した怪異現象だが、その経験に共鳴する人びとが少なからずいたのである。

・霧のしきたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近寄るを見れば、女は正しく亡くなりしわが妻なり。思わずその跡をつけて、はるばると船越村の方へ行く崎の洞ある所まで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑いたり。男はと見れば、これも同じ里の者にて海嘯(かいしょう・(注)潮津波)の難に死せし者なり。

 二人を追いかけた男は、自分が見たのは死者だと気づき、夜明けまで道中で考え、朝になって帰った。そして「その後久しく煩いたりといえり」。

・東北の大学生が幽霊をと思しきものを車に乗せたというタクシー運転手の証言を集めて話題になった。運転手が幽霊を恐れず、丁重に遇したことがこの霊魂譚を美談にし、腑に落ちる話にしてしまった。そもそもタクシーの運転手が幽霊を乗せて走るのは、決して珍しいことではないのだが。
 
・民話研究家・民話採集者の松谷みよ子は『現代民話考』で、現在の事実としての怪異譚を数多く集めた。そのなかには河童や天狗にまつわる話のほか、死者と遭遇した話がいくつも収められ、なかには運転手が体験したものもある。
 ある雨の降る夜、トラックの運転手が山形県と宮城県の境の峠にさしかかると、子連れの女が傘もささずに立ちすくんでいた。運転手は車を止め、「仙台までだが、よかったら乗んな」と声をかけた。作並温泉まで来て「仙台はもう少しだぜ」と言って、後ろを見たがだれもいない。女の座っていたあとは、ぐっしょり濡れていた。ほかにも多くの運転手がここで同じような経験をしている。この峠では数年前に、仙台のある一家が車ごと谷に転落し、全員が死亡した事故があった。そこで彼らの霊にちがいないと、供養塔を建てて弔うことにした。塔を建ててから、幽霊は出てこなくなったという。

<日本の祭はどこにあるのか>
<祭は更新される>
・青森県三戸郡新郷村には「キリストの墓」と呼ばれる場所があり、毎年6月の第1日曜日にはキリストの里公園で「キリスト祭」がおこなわれる。1964年(昭和39)から開催されているこの祭では、獅子舞と盆踊りが奉納される。
 キリスト祭の盆踊りで踊られる「ナニャドラヤ」は、青森県南部から岩手県北部にかけてと秋田県鹿角地方の旧南部藩領内に伝わり、柳田国男の紀行文「清光館哀史」「浜の月夜」でも取りあげられている。柳田は、岩手県九戸郡の小山内(おこない)(現在の洋野町小子内)の浜辺で耳にした盆踊りの歌詞を、「なにヤとやーれ なにヤとなされのう」と書きとめ、「何なるともせよかし、どうなりとなさるがよい」と、女性が男性に向かって呼びかける意味だと推測した。また岩手県一戸町出身の神学博士川守田英二は「キリストの墓」の伝説にからめて、ナニャドヤラの歌詞は、ヘブライ語で民族の進軍歌を意味すると主張した。

<ITと怪異現象>
<21世紀の妖怪を探して>
・妖怪の歴史を、人間社会の時代区分にあてはめて論じることはできないものの、妖怪たちのほとんどの種族は近代以前に誕生していた。彼らが民族のなかを生き延び、「目前の出来事」「現在の事実」として人びとの前に姿を現したのが、1910年(明治43)に刊行された柳田国男の『遠野物語』にほかならない。ここに出てくる河童や天狗やザシキワラシの行状は、20世紀初めにおける彼らのふるまいだった。

<噂を広める、情報系妖怪「件」>
・そんななかで19世紀前半に生まれ、20世紀半ばまで活動した妖怪に「件(くだん)」がいる。件は文字どおり半人半牛の姿で、流行病や農作物の豊凶、災害や戦争を予言することが特徴だとされている。幕末には、「今年から大豊作になるが、秋以降には悪疫が流行する」と予言し、件を描いた護符がもてはやされた。また19世紀末には、「日本はロシアと戦争をする」と予言したこともあったといわれる。

<目に見えない凶暴な感情が広まり、共有されていく>
・21世紀に入ってから、新しい妖怪が生まれたという噂を聞かない。そのいっぽうで幽霊の目撃情報は、東日本大震災の被災地では少なくなかった。それでも幽霊がこれまでとは異なる立ち居ふるまいをしたわけではなく、生前に親しかった人の夢枕や、街の辻に立つという行状には変化がない。

<人と人をつなぐ、目に見えない綱「キズナ」>
・私などはキズナアイという名前から、信州をはじめとする東日本に伝承される「飯綱」を思いおこす。「管狐」とも呼ばれるこの妖獣は、竹筒のなかに入ってしまうほどの大きさだといわれる。飯綱使いはイズナを使って占いをしたり、依頼に応えてイズナを飛ばし、人に憑いたり、病気にしたりすると信じられている。

<江戸時代から続く「日本人のVR羨望」>
<ツイッターから話題になった江戸の奇談>
・江戸時代後期に書かれた『仙境異聞』(1822年・文政五年)という本が話題になっている。しかもそのきっかけは、「『江戸時代に天狗に攫われて帰ってきた子供のしゃべったことをまとめた記録』がめちゃ面白い」というツイッター上のつぶやきだったのだ。

<超常世界と超能力への関心>
・江戸時代の文政年間、「仙童寅吉」あるいは「天狗小僧寅吉」と呼ばれる15歳の少年が、江戸の町を騒がせた。天狗(山人・仙人)にさらわれて、この世と異なる世界(仙界)で暮らした寅吉は、超能力を身につけて帰ってきたからである。
「仙童寅吉」をめぐる事件は、二つの側面から読み解くことができるだろう。ひとつは、寅吉が超能力によって訪れた異界のようすであり、もうひとつは寅吉に示した知識人たちの関心のありようだ。寅吉が見てきた世界は、この世とは異質で超常的な世界であり、寅吉が体得した超能力は、現実を超えでる技術や感覚だった。

<異界を体験し、超能力を身につけた少年>
・寅吉が7歳のとき、上野池之端の神社の境内で遊んでいたところ、薬売りの老人が小さな壺に薬を入れ、自分自身もそこに入りどこかへ飛び去った。仰天した寅吉が、また別の日に神社に出向くと、老人から「一緒にこの壺に入らないか」と誘われた。寅吉は老人とともに壺に入ると、常陸国(現在の茨城県)の南台丈(なんたいだけ)という山に連れていかれた。寅吉は老人と一緒に各地を飛びまわり、常陸の岩間山(愛宕山)で修行しながら、祈祷術や占術、薬の製造法といった異能を伝授されていく。寅吉は岩間山にずっといたわけではなく、江戸とのあいだを往復していたのだが、世間では天狗に仙界へさらわれたとみなされていたのである。

・この世とは異なる世界から帰還した少年に、江戸の町は沸き立つ。寅吉は、山崎美茂が珍談・奇談の会を開いていた薬商の長崎屋で暮らすようになる。そこに集った当代の知識人たちは、寅吉が異界で体験してきたことと、身につけてきた超能力について質問を放っていくのである。

・寅吉の不思議な体験と特殊な能力に、最も関心を寄せたのは、『仙境異聞』をまとめた平田篤胤だった。篤胤は本居宣長に師事し、最初の著書『新鬼神論』では、神、鬼神の普遍的存在を証明しようとした。また『霊能真柱』では、「霊」が死後に「幽冥」へ行くことを証明するため、古伝説によって宇宙の生成を説いている。寅吉にたいする篤胤の質問の目的は、「こちらの世界」(顕界)とともに世界を構成する「あちらの世界」(幽界)の実在を証明することだった。

<宇宙体験の真実>
・彼らの関心に応えた寅吉の体験のなかでは、天体にかんする見聞がとくに興味深い。寅吉は空高く飛翔し、大気圏外の宇宙で、地球、星、月、太陽を観てきたからである。
 たとえば「星のあるところまで行ったなら、月のようすも見たのか?」という質問にたいして、寅吉は次のように答えている。
「月は近くに寄るほどどんどん大きくなり、身を刺すように寒さが厳しく、無理して200メートルぐらいまで近寄ってみると、思った以上に暖かだった。(地上から)光って見えるところは、国土(地球)の海のようで、泥交じりのように見える。俗に『兎が餅を搗いている』と言われるところには、二つ三つ、穴が開いている。しかし離れたところから見たため、正体はわからない」。

<テクノロジーの開発と感覚の拡張>
・『仙境異聞』に登場する知識人たちは、西洋科学の最新知識も豊富だった。しかし、彼らの質問にこたえた寅吉の体験談はあまりにもリアルで、虚言や捏造だと言うべきではないだろう。彼の感覚器をとおした「ヴァーチャル」な世界なのだから。
 人間は科学技術を進展させ、やがては宇宙に飛び出て天体を観測してきた。新たな現実を生みだす技術と感覚を追求したのは、ヴァーチャル・リアリティの研究者だけではない。江戸時代の人びとも、そんな世界と技術に夢中になっていたのである。

<日本人と信仰>
<手帳のなかの庚申塔>
<宮沢賢治と災害フォークロア>
<賢治と地震と津波>
・宮沢賢治が大地震と大津波の年に生まれ、大地震と大津波の年に亡くなったことはよく知られている。
 賢治は1896年(明治29)8月27日に生まれたが、その年の6月25日に、「明治三陸地震」と「明治三陸大津波」がおこった。岩手県上閉伊郡釜石町(現在の釜石市)の東方沖約200キロメートルを震源とするマグニチュード8.2から8.5という巨大地震により、地震発生から約30分後には、最大で海抜38.2メートルにおよぶ溯上高の津波が三陸沿岸を襲った。死者・行方不明者は2万1959人に達したこの地震と津波をきっかけに、「三陸海岸」という名称が広く使用されるようになったといわれる。
 賢治の誕生直後の8月31日にも「陸羽地震」が発生している。

・賢治が亡くなったのは1933年(明治8)9月21日だったが、同じ年の3月3日には、明治三陸地震と同じく上閉伊郡釜石町の東方沖を震源とする「昭和三陸地震」が発生した。この地震のときにも三陸沿岸を大津波が襲い、死者1522人、行方不明者1542人におよぶ大災害となった。

・岩手県の遠野地方には、「不地震地」という地震の際にも揺れることがなく、そこに逃げこむと安全だとされる伝承地がある。柳田国男の『遠野物語』にも、そのなかのひとつ、土淵村和野の不地震地が登場する。

<ザシキワラシと白髭水>
・柳田国男に『遠野物語』のもとになる民譚を話しきかせた佐々木喜善は、『ザシキワラシの話』の中で、「カッパとザシキワラシは同じものだ」という証言を列挙している。遠野とその近郊では、ザシキワラシを飢饉により没落した旧家に宿っていた霊として、あるいは池や沼に棲む精霊として捉えている例が少なくないのだ。

・宮沢賢治が災害のフォークロアと最も近づいたのは、「白髭水」という怪異伝承においてであろう。「白髭水」あるいは「白髪水」と呼ばれる災害伝承は、大津波に先立ち、白髪や白髭の老人が現れて水害を予告した、あるいは洪水や山津波の波頭に、白髪白髭の翁が乗っていたというものである。
 柳田国男は『遠野物語』でも「白髪水」についてふれている。第28話の注に「北上川の中古の大洪水に白髪水というがあり、白髪の姥を欺き餅に似たる焼石を食わせし祟りなりという」と記される。

<七庚申と五庚申>
・農業を中心に思想を組み立て、農民の救済を願った宮沢賢治が最も恐れていた災害は、冷害による飢饉であった。『グスコーヴドリの伝記』でも、主人公の飢饉体験、冷害の予防が物語の中核を占める。

・ここで賢治が採りあげているのは、1年に7度、あるいは5度、「庚申」がある年には、「稔らぬ秋」を恐れて、庚申塚を盛るという民間信仰である。

・庚申は干支のひとつで、60年ごと、また60日に一度訪れる。庚申の日には、人間の体内にいる三尸虫(さんしちゅう)が、人が寝ているうちに天帝に悪事を報告しにいくとされ、それを防ぐため、夜通し眠らずに「庚申講」を開くのである。

・「七庚申」あるいは「五庚申」と刻んだ庚申塔は、東北地方の庚申信仰の特色で、なかでも花巻の周辺に最も集中しているのだという。



『21世紀の民俗学』
畑中章宏    角川書店   2017/7/28



<UFO学のメランコリー>
<人は地球外に魅せられる>
・2016年は、「宇宙」にまつわる展覧会、映画等を目にする機会が多かったような気がする。

・「Soleil Noir」店の紹介映像でグラッソは、「パラドックス(反語的)」な表現が自らの作品のキーワードであり、それはタイトルにも反映されていると述べる。「未来の記憶」や「未来の考古学」、さらには現代の神話・伝説を意味する「ancient alien(古い異邦人)」という言葉を口にし、そのうえで、「UFO学」という魅力的な概念を提示するのである。

・美術館にある過去の作品の中に、UFOや奇妙な現象、あるいは異星人といったモチーフをだれかが読み取ったり、妄想を膨らませていたかもしれない。いわば、“UFO学”とでもいうべき可能性を考えてみたかったのです……。

<200年前に漂着したUFO>
・ローラン・グロッソには、1803年(享和3年)に現在の茨城県の太平洋岸に出現した「うつろ舟」を素材にした作品がある。タイトルは「1803、虚舟、常陸国で発見された未確認物体」で、「1803」の文字が光るネオンサイン、舟の形をしたテレコッタ、浜辺に漂着した謎の舟と謎の女と取り囲む人々を描いた油彩画からなる。「宇宙と芸術展」では、この作品を制作した際、グラッソが参照したであろう、江戸時代の奇譚集や瓦版の挿絵も展示され、その不可思議が耳目を引きつける。
 当時の記事や図譜から素描すると、うつろ舟は鉄製で、蓋付きの浅い丼鉢のようなかたちをし、小さな窓があり、箱を持った女性が乗っていた。また船内には、解読不能の文字らしきものが書かれていた。海から漂着した謎の舟を人々は恐れて、再び海に流してしまったという。
 うつろ舟の正体については、未確認飛行物体(UFO)説、潜水物体説、ヨーロッパからの来訪説、謎の神説、噂や伝聞、創作説などがある。民俗学では「かがみの舟」とも呼ばれ、柳田国男は、荒ぶる常世浪をかきわけて本土に到着したと伝わっていることから、「潜水艇」のようなものだったのではないかと想像している。

・茨城県の北部地域で開催された「茨城県北芸術祭」(9月17日〜11月20日)でも、インドネシアのアーティスト、ヴェンザ・クリストが、日立市川尻町の小貝ヶ浜に「虚舟ミニミュージアム」を開館していた。クリストの展示は、開催地周辺に伝承されるうつろ舟の資料を分析するとともに、茨城県在住でUFOを目撃したという人々へのインタビューなどから構成される。

・このミニミュージアムが建つ小貝ヶ浜緑地の南端の高台には、「蚕養神社」が鎮座する。社号が示すとおり、豊蚕祈願に信仰されてきた神社で、「小貝ヶ浜」は「蚕養ヶ浜」でもあったことがわかる。この神社は「日本三大蚕神社」のひとつで、ほかの二つはつくば市の「蚕影山神社」と神栖市の「蚕霊神社」で、三社とも茨城県にあり、しかも「金色姫」の物語が伝承されている。
 その昔、常陸国の豊浦に、繭のかたちを丸木舟が流れ着いた。この舟に乗っていた金色姫は天竺国の王女で、継母のいじめから逃れて、日本にやって来た。地元の夫婦が大切に育てたが、ある日、別れを告げるとともに、養蚕の技術を授けて天に昇った……。まさにうつろ舟伝説を思わせる話である。しかしそもそも、うつろ舟が動力をもち、また「空を飛んできた」と証言する資料は存在していない。

<河童の妙薬>
・日本列島の各地には、「河童の妙薬」といって、骨接ぎ、打ち身、熱傷に効く、河童が人間に伝えた薬がある。日本人には、西洋医学や反西洋医学のお世話にならなくても、山伏や坊主、河童がよく効く薬を与えてくれたのだ。
 柳田国男の少年時代の愛読書だった赤松宗旦の『利根川図志』(1858年)には、河童が貧しい百姓に温湿布のつくり方を教えたという伝承が記されている。利根川河口に貧しい百姓の親子が住んでいた。あるとき、父親が足をくじいてしまうが、貧しい親子には薬を買うお金がなかった。利根川の河童の女親分である禰々子(ねねこ)は、彼らに薬草を渡し、湿布薬のつくり方を教えた。禰々子(ねねこ)に言われたとおり、親子が湿布を十三枚貼り替えると足は完治した。その百姓の村は「十三枚」と呼ばれるようになったという。
 また新潟市の猫山宮尾病院に伝わる「河童の妙薬」もよく知られる。昔々、京ヶ瀬村の「猫山」というところに悪戯好きの河童が住んでいた。河童は馬をいじめたり、作物を盗んでは喜んでいた。それを見かねた宮尾家の先祖が、河童の腕を切り落とし、証拠として持ちかえった。それから7日目の晩、河童は「家伝の薬で腕が元に戻るが、7日を過ぎると薬が効かなくなる。もう悪戯をしないので、腕を返してほしい」と懇願した。河童が腕に塗り体にあてるとみるみる腕がくっついていった。河童はたいへん喜び、お礼に家伝の薬を教え、川へと戻っていった。
 深緑色の粉末を水で溶き、耳たぶくらいの硬さになるまで練ってから和紙にのばして患部に張る湿布薬「猫山アイス」は、1989年(平成元年)に製造中止になるまで、打ち身やくじきの良薬として用いられてきた。

・ワイオミング州ジャクソンホールにある民族医療研究所のエグゼクティヴディレクターを務めるポール・アラン・コックスが、ポリネシアの薬草医は土地固有の病気についての膨大な用語をもつと同時に、ヨーロッパ人から伝えられたものについてはまた別の異なる用語をもっていることをサモアで発見し、論文にしているという。
 また絶滅危惧言語においては、植物相と動物相に関して、西洋科学で知られているより何百種類も多い分類がされていることがよくあり、フィリピンのミンドロ島に住む焼畑農業をするハヌノオ族は、土の種類について40の表現をもつ。東南アジアの森にすむヒーラーは650種類もの薬効成分を特定しているという。コックスらによれば、キニーネ、アスピリンなどは、先住民族に案内され、情報提供された民族植物学者のおかげで一般的な治療薬となったというのだ。
 日本の修験山伏や浄土真宗の門徒も、もしかすると河童も、偉大な科学者だったといえるだろう。宗教や民間信仰は、決して非合理なものではなく、植物学的な知識に基づき病に対処する知性と野性を併せもっていたのである。

<河童に選挙権を!>
<異形の「正義」>
・わたしのかねてからの主張に、「妖怪は実在する」、あるいは「妖怪は実在した」というものがある。そもそも柳田国男の『遠野物語』に登場する河童や天狗、ザシキワラシ、雪女、山男や山女はその目撃談、経験談から、実在したものであることは疑いえない。
 しかし、列島上の妖怪の代表格とみなされる、「河童」と「天狗」とでは、その実在のありようが大きく異なる。

・天狗にかんしては、先住民族や山林生活者とおぼしき「異人」「山人」を常民の尺度からみた生命体であり、また山岳宗教者である修験山伏の性格や能力を反映した存在であるという解釈が唱えられてきた。そうした従来の天狗イメージに対して、天狗の実在を疑う人にわたしがよく話して聞かせるのは、柳田国男の『幽冥談』(1905年)のなかの挿話である。
 池原香雅という歌人があるとき、播州にある宇野の野道を歩いていると、ひとりの旅の僧と出会った。道連れになり、いろいろ話をしながら歩いていたが、「あなたはどこへお出でになるのですか」と聞いたところ、「私はあすこの穢れた村を焼きに行くのだ」と言う。

・それがために今までは普通の旅僧と思って話をしておったが、非常に驚いて物も言えなくなってしまった。かの旅僧は、あれを御覧なさい。あすこに燈火が二つ点いている、右の方の光りは非常に清らかだが、左の方の光りは穢れていると言うから見たけれども分らない。それであの村を焼いてしまわなければならぬというて、ちょいと指したところがたちまち村は焼けた。

・柳田は驚くべきこの天狗の仕業に対し、「これらは事実であろうと思う」とコメントする。さらに池原香雅は、1877年まで生きていたので、天狗と出会ったのもその4、50年前だから、そんなに古い時代の出来事ではないと言う。そうして柳田は、「その時分にもそういう不思議なことを、我々が目撃することがあったのである」と納得している。
 池原が出会った天狗の行動は、山人・異人や修験山伏よりもかなり強烈で衝動的だ。

<「忘れようとしても思い出せない」>
・6年前の3月11日。午後2時46分ごろ、わたしは東京都文京区のファミレスで、これまで体験したことのない強い揺れを、2回感じた。関西出身で地震に免疫がないうえ、阪神・淡路大地震を経験していないわたしは、2度目の揺れで、テーブルの下に潜り込んだ。しかし、周りの客は意外と冷静で、スマホを見て震源や被害を調べているし、店員も「このビルは安全ですから」と触れ回っていた。
 それからしばらくして、靖国通りに出ると、サラリーマンやOLが、ビルから溢れ出ていた。しかしほとんどの電車が止まっているらしく、大勢の人が大通りを歩き出していた。神保町のスポーツ用品店では、店頭でスニーカーの安売りを始めていた。隅田川べりの部屋にたどり着くと部屋中に本が散らばり、その間に猫が怯えたようにうずくまっていた。そうして3日後の月曜日には、まだ余震があるにもかかわらず、ほとんどのOLがハイヒールを履いていた。

・わたしたちはいったい、あの日に何を失い、何を得たのだろうか。非・当事者であるわたしは、何を心に刻みこんできたのだろうか。記憶の風化がとりざたされ、「忘れてはいけない」「思い出すべきである」と、人々は口ぐちに言う。またいっぽうで、「震災のことは早くに忘れて、前に進め」と促す人々もいる。6年前の記憶が薄らいだだけではない。あれから、広島市で土砂災害があり、御嶽山が噴火し、鬼怒川が氾濫し、熊本では地震が起こった。



『幻解!超常ファイル ダークサイド・ミステリー』
NHKエンタープライズ   NHK出版    2014/5/30



<江戸時代に現れた謎の円盤と美女>
・江戸時代後半、天下泰平のさなか、鹿島灘(茨城県南部)に円盤型の乗り物が漂着。出てきたのは、日本人とは思えない謎の女性。宇宙からの使者なのか?

<常陸国に「うつろ舟の蛮女」現る>
・アメリカで「空飛ぶ円盤」が最初に話題になったのは、第2次世界大戦終結直後の1947年。日本では、それより120年も前に、円盤型の乗り物と、そこから現れた女性についての記録が残されていた。「うつろ舟の蛮女」と題する記録である。時は享和3年(1803)、江戸時代後期の天下泰平のさなか、江戸からおよそ100キロメートル離れた鹿島灘、現在の茨城県南部の海岸に、空飛ぶ円盤のような乗り物が流れ着いた。

<円盤状の乗り物、船内には解読不能の文字>
・この円盤状の乗り物には、上部にガラス製の窓があった。下部は鉄でできていた。そして、船内には解読不能の謎の文字が書かれていたという。
 乗っていたのは美しい女性で、日本のものとは思えない衣装をまとっていた。髪は赤毛で、腰まで伸びる白いつけ髪をしている。手には大事そうに箱を抱え、誰にも触らせようとはしなかった。

<最新資料を再検証すると………>
・平成24年(2012年)4月には茨城県で、円盤状の乗り物と女性が描かれた江戸時代の絵図が発見された。そのほかにも、実際に起きた事件として報じた当時の瓦版。東北の武士が江戸での噂をもとに記した日記。愛知県では、馬琴のものとはまったく異なる色使いで描かれた風聞集が見つかっている。京都でもメモ書きのように記された資料が発見された。

<古くからの伝承がもとになっている>
・事件から約120年後の大正時代、これらの共通点から謎を解き明かそうとしたのが、民俗学の大家、柳田國男だった。彼は大正15年(1926)に発表した論文「うつぼ舟の話」で、古来日本には、海を越えて漂着し、人々に何かをもたらした神々の伝承が多く、そしてその神が乗る空洞の乗り物を“うつぼ舟”と呼んだと言っている。
 古来からの伝承がもとになっていると推測する一方、絵図については真っ向から切り捨てている。
 舟の中に書いてあったという4つの“異形文字”が、今ではもっとも明白に、この話の“駄法螺なること”を証明する。世界のどこにもない文字だというのだ。
 この乗り物が外国から来たのであれば、実在する文字に似ているはずだと、柳田は考えたのである。

<UFO&宇宙人説が戦後浮上>
・戦後になると、柳田國男の時代には存在しなかった、空飛ぶ円盤の世界的なブームが到来する。そして、乗り物の中に書かれていた文字が地球上にない文字だとしたら、宇宙から来たと考えるべきだ、という新説が登場した。うつろ舟は空飛ぶ円盤であり、乗っていた美女は宇宙人というわけである。
 突飛な話に思えるが、そもそも日本には、1000年以上も前から、空に怪しい物体が飛んでいたという話もある。舞台は、聖徳太子の時代、奈良・飛鳥の里である。飛鳥寺の竣工式が行われているときに異変は起きた。一筋の紫雲がたなびき、蓮の花のような形をしたものが仏堂を覆った。そして、五色の光を放ち、西方に飛び去ったというのである。
 謎の円盤は、昔から日本に現れていたのだろうか。

<1枚の瓦版が出処だった?>
・岐阜大学の田中嘉津夫名誉教授は、史料を整理・分析し、「うつろ舟の蛮女」の真相を探ろうとしている。

・田中名誉教授は、瓦版がかなり初期の資料だとにらんでいる。さらに、瓦版の絵をもとに、謎を解く手がかりとなる資料を見つけだした。瓦版に描かれた女性と、よく似た雰囲気の女性が描かれたお札があるのだ。実は、このお札の女性も、鹿島灘に流れ着いたと伝えられている。その名は金色姫。日本に養蚕をもたらしたと伝えられている女神である。金色姫と円盤漂着事件には、どのような関わりがあるのだろうか。

<円盤漂着事件の裏舞台>
・鹿島灘からほど近い星福寺は、かつて金色姫を本尊としていた寺で、今も本堂の裏に大切に祀られている。その金色姫の像は箱を手にしていて、中には蚕が入っているのだという。
 箱を持つ女神像は、日本ではきわめて珍しい。円盤漂着事件は、この金色姫の話がもとになって作られたものと考えるのが妥当だろう。

<金色姫のお札に馬琴の別名が記されていた>
・さらに田中名誉教授は、金色姫のお札に、もうひとつ謎を解く重要な鍵を見出した。お札に書かれた文章の作者が、「曲亭陳人」となっていたのだ。これは、曲亭馬琴の別名である。
 整理してみよう。1825年、馬琴が人から聞いた噂話として「うつろ舟の蛮女」を書く。話の出処と考えられるのは瓦版だ。そこに描かれる女性のモデルと考えられるのが金色姫。そして、その金色姫のお札にも馬琴の名が書かれている。

・田中名誉教授は、瓦版も馬琴が書いたのではないかと考えている。確かにその可能性が高いのかもしれない。もし、そうだとしたら、すべてが馬琴がしくんだことなのだろうか……。
 馬琴が生きた江戸時代後期、妖怪の話や絵図が出回るなど、人々は日常とかけ離れた異界の存在に、強い関心を抱いていた。鎖国が200年近く続くなかで、人々は海の向こうからやってくる見知らぬものに、想像と憧れを膨らませていたのだ。
 海の向こうから流れ着いた不思議な乗り物に乗った美女――。人々がこのミステリアスな話に熱中し、噂が広まることによって、数多くの記録が残ることになったのかもしれない。
 しかし、当時の人々は、一体どこから、このような奇抜な形の乗り物を発想したのだろうか。



『UFOに乗った! 宇宙人とも付き合った!』
僕のコンタクティとしての半生の記録  
津島恒夫    ヒカルランド   2014/12/17



<「空船(うつろぶね)の事から現在の漂着地名を固定>
・享和3年3月24日、常陸国「原舎浜」というところに、異船が漂着した。その船の形は中が空のお釜のようであり、真ん中あたりに釜の刃のようなものがあった。そこから上は黒塗で、四方に窓があり、障子はすべて樹脂で固められていた。下のほうは筋鉄が施されており、どうやら南蛮鉄の最上品のようであった。

・船全体の高さは1丈2尺(約3.6メートル)、横の直径は1丈8尺(約5.4メートル)。この中に年齢20歳くらいの女性が1人いた。身長5尺(約152センチ)、雪のように白い肌で、長い黒髪が背中に垂れ、とても美しい顔立ちであった。

・これまでは「はらやどり浜」「原舎浜」などの地名の特定ができず、折口信夫や柳田國男の考察では“伝承”とされてきました。しかし、2010年末に茨城県水戸市内の書画収集家が京都で入手した新史料が発見され、そこに「常陸原舎り濱」とあることから、江戸時代の常陸国鹿鳴郡に実在し、伊能忠敬が作製した『伊能図』(1800年調査)掲載の地名で、現在の神栖市波崎舎利浜にあたることがわかりました。

・またその後、田中教授は長野県の古書収集家が所有していた別の史料を発見。絵に関してこれまでの史料と共通点が多く見られるが、事件現場の地名については従来の史料にある「常陸の国」でなく「房州の湊」と書いてあると言います。                                                                                                                                                                                                                                            

・こうして事象が事実となってくれば、あとはそれをどう解釈するかです。そして、私はシャクティと名乗る琴座人から、驚愕のテレパシック・コンタクトを受けました。なんと、彼によれば茨城県から千葉県にまたがった海岸沿いにかつて巨大な秘密基地が建造されていたというのです。そしてここにはたくさんの宇宙人が住んでいたが、1800年から縮小されていき、基地内のほとんどが故郷の惑星に帰りその後、少数の利用があるだけとなったとのことです。


<●●インターネット情報から●●>

『茨城新聞』 2014/5/26

<UFO「うつろ舟」漂流地名浮上「伝説」から「歴史」へ一歩>
1803年(享和3年)、常陸国の海岸にUFO(未確認飛行物体)のような奇妙な物体と1人の女性が漂着したという江戸時代の伝説「うつろ舟奇談」に関する新史料に、漂着地の実在地名が記されていた。地名は「常陸原舎り濱」(現在の神栖市波崎舎利浜)。これまで特定されずにいた漂着地が浮かび上がったことで具体性が増し、「伝説」は「歴史」に一歩近づいたと言えよう。事件の真相解明へ、連鎖的な史料発掘の可能性や検証機運が高まることは間違いない。(鹿嶋支社・三次豪)

■研究のハイライト
「今までの研究の中でもハイライト。まさか実在の地名が出てくるとは」と驚くのは、「うつろ舟奇談」研究で第一線を走る岐阜大の田中嘉津夫名誉教授。三重大特任教授の川上仁一さん(甲賀流伴党21代目宗家)が甲賀流忍術を伝える伴家の古文書とともに保管していた文書について、「うつろ舟奇談」に関わる史料であることを田中氏が発見した。

文学者の渋沢龍彦(1928〜87年)も同伝説をモチーフにした短編小説で「銚子から平潟にいたる今日の茨城県の長い海岸線のどのあたりに位置する村なのか、一向にはっきりしない」と記すなど、これまで漂着地の特定が困難とされてきただけに、今回の発見は研究者らが待ち望んでいた“大きな一歩”と言えるだろう。

■定住者いない浜
それでは、今回漂着地として浮かび上がった舎利浜とは、当時どういった地だったのだろうか。「波崎町史」(1991年)によると「舎利浜は鹿島灘で地曳網漁が発展する明治五年に初めて定住者が現れたというから、江戸期には地字としては分かれていても、定住する者はなかったのであろう」とある。

現在の舎利浜も砂浜続きで人気は少ないが、風力発電の巨大風車が並ぶ風景を望むことができる。近くに、大タブの木、木造釈迦涅槃像のある神善寺(神栖市舎利)がある。また、神栖市内には、天竺から金色姫が流れ着き養蚕を伝えたという伝説の残る蚕霊神社と星福寺(ともに同市日川)もある。

田中氏が、2010年に水戸市内で見つかった「うつろ舟奇談」の史料の中の女性の衣服が、蚕霊尊(金色姫)の衣服と酷似することを発見し、2つの伝説の関連性を指摘していたことも、神栖と「うつろ舟奇談」との結びつきの意味で興味深い。

■当時の大きな話題
事件があった1803年は開国前で、日本近海では外国船がしきりに現れ、常陸国の浜でも小船に乗った外国人が上陸する事件などがあった時代。異国船打ち払い令が出されたのもこの頃で、こうした社会情勢も伝説と関連付けて考えることができる。

田中氏によると、これまで全国で見つかった「うつろ舟奇談」の史料は11編。

田中氏は「これほどあちこちから多くの文書が見つかるということは、当時大きな話題を集めた出来事だったのではないか。舎利浜の発見で、ますます魅力的になった」とし、「米国の『Roswell』(「UFOが墜落し回収されたとして有名な地)のように、『Sharihama』はいずれ世界的に知られるようになるのでは。神栖市、茨城県、日本が世界に誇る民俗資産」と強調する。

★うつろ舟奇談に関わる史料
「南総里見八犬伝」で名高い読本作者、曲亭馬琴の「兎園小説」(1825年)や長橋亦次郎の「梅の塵」(同年)などで、絵入りで伝説が記されている。民俗学の巨人、柳田国男も論文「うつぼ舟の話」(1925年)を書いている。

<●●インターネット情報から●●>

<蚕霊神社>
千葉県小見川町から小見川大橋で利根川を渡り、息栖大橋で常陸利根川を渡って茨城県神栖町に入るとすぐに、県道260号線に向かって右折します。県道260号線をしばらく走り、バス停「萩原公民館」を過ぎると左手奥の方に、こんもりとした森がみえます。それが、蚕霊神社です。
 鳥居の下にある「蚕霊神社由来」によると、“孝霊天皇の5年(紀元前286)の春3月。豊浦浜(日川)の漁夫権太夫は、沖に漂う丸木舟を引き上げてみると、世にも稀な美少女が倒れていた。少女は天竺(インド)霖夷国霖光の一女金色姫。……”とその由来が書かれています。神栖町歴史民俗資料館の資料によると、“神栖町の日川(にっかわ)地区は、欽明天皇の時代(6世紀中頃)に金色姫がインドより養蚕を伝えた養蚕発祥の地と言い伝えられています。この地区にある蚕霊山千手院星福寺と蚕霊神社はもともとは一体のもので、養蚕の神として人々の信仰をあつめていました。『南総里見八犬伝』などで有名な滝沢馬琴も星福寺発行のお札を見て、衣襲明神(きぬがさみょうじん)の錦絵の文章を書いています”とあります。



『大統領に会った宇宙人』  (ペンタゴンの宇宙人極秘報告)
(フランク・E・ストレンジズ) (たま出版)  1996/12



<地表付近に存在する103機のビクター・クラス宇宙船の直径は約90メートル>
<『ビクター・クラス防衛区域』>
・ビクター・クラス宇宙船の直径は約90メートル、ふちの部分の高さは7メートルだが、次第に高くなり中心部では約30メートルになる。常時乗船している乗組員はおよそ2百人。およそ103機のビクター・クラスが地球の地表付近に存在し、約287ヶ所の地点を行き来している。

・最初のビクター・クラス宇宙船が地球を訪れたのは、6千年近く前のことだ。ビクター・クラス宇宙船は、いずれもはるか大型のスター・シップ内で慎重に建造された。他に小型機も多くの種類がある。

・バルと副司令官たちが、イエス・キリストによって直接任命されたことを乗組員たちは知っている。この人間型の金星人は、かってアイゼンハワー大統領と会見したといわれている。



『光のアカシャ・フィールド』 超スピリチュアル次元の探究
よしもと ばなな × ゲリー・ボーネル 徳間書店  2009/7/23



<エイリアンは我々にテクノロジーを与えてくれます>
・−今、よしもとさんが言った話は、異次元から来る異次元人みたいな感じでしょうか。その人のイメージ体系に合わせて出現するみたいな、別の星からではなくて、地球の次元の違う所にいろんな人がいて、それが知の起源というか、文明の起源だという研究が民俗学の方ではあるんです。日本では「異人(まれびと)」といっていた。これは折口信夫が研究していました。そういう違う次元から来る異人(まれびと)と星に起源を持っている宇宙人とは違う気がするんですが、ゲリーさんはそういう区別をつけているんですか。

よしもと;たくさんのテクノロジーをユミットが教えてくれてるのね。

―そう、惑星ウンモ(地球から約14.5光年離れた恒星イウンマの周りを公転)から来た地球外生命体ユミット(=ウンモ星人)のことです。書いた人は、フランス国立科学研究所(CNRS)で主任研究員を務めていたジャン=ビエール・プチさんという優秀な科学者ですけれども、彼は、ウンモ星人からもらった手紙をもとに、いろんな研究を発表して、正統な科学界でも評価されたサイエンティストなんです。その方が、論文のニュースソースはウンモ星人だとはっきり書いている。プラズマ推進の装置やUFOの飛行原理とか、いろんなテクノロジーを宇宙人からの手紙で受け取った。実際にそういう人がたくさんいて、プチさん自身も受け取っています。

よしもと;情報源を明かす勇気ある人もいるわけですね。

―それらの手紙は、45年間6000通にも及ぶと言われています。手紙に書かれていたものすべて難解な情報を分析したその本は、フランスでベストセラーとなり、大論争になりました。

―アメリカ政府もそれもかなり知っている中で、伏せているという話です。プチさんは、手紙から得た情報をもとに磁気流体力学(MHD)という推進原理を論文に発表していますが、アメリカはそれを技術応用して、UFOのような軍事用飛行機を開発済みであることも指摘しています。

ボーネル;エリア51というのは、ご存じですね。そこにはもう「パルセーション・ウェーブ・ジェネレーター」というものがすでに存在しています。イオンを使ったものです。

―航空機よりも上。先ほど少しふれたプチさんの磁気流体力学を応用した飛行体のことです。衝撃波を解消して宇宙空間でも到達できる航空機型の宇宙船なんです。

ボーネル;ふだんから幽霊は見えますし、精霊たちも見えるし天使も見えるんだけど。宇宙船というのはエーテル状のものだと信じていたので、地球物理学というものは応用できないだろうと思いこんでいました。地球物理学に従わないならば、宇宙船というのはエーテル状のものであろうと思っていたんです。でも、はっきりした固形物だったので、まるで幽霊に遭ったような気がしました。

ボーネル;僕は一回だけUFOを見ました。もし一緒に車に乗っていた人がいなかったら、多分、僕はUFOを見たとは思わなかったと思います。非常に伝統的なものでして、音もなく、空中に浮いていてヒュッといなくなりました。


<●●インターネット情報から●●>

一般社団法人潜在科学研究所 The Potential Science Institute
ウンモ星人事件

the Ummo Affairs 
《UFO》

【本文】
 1960年代に始まったもので、「ウンモ星人」を名乗る何者かが主としてヨーロッパのUFO研究家、神秘主義者たちに書簡や文書による通信を行っている事件。
 「ウンモ星人」を自称する者がこうした研究家等に送った文書によれば、ウンモ星は乙女座の方向に約14.4光年にあるイウンマ(Iumma)、地球の天文表でいうWolf424の惑星で、重力は11.9グラム(地球は9.8)、最大直径7251.608キロで回転軸は黄道から19度ほど傾斜しており、1日は32時間である。現在の地球の天文学ではWolf424は温度が低すぎるので、その惑星に生命が生じることはないと考えられているが、「ウンモ星人」によると、恒星周辺の宇宙塵のため観測値に誤りがあるという。
 この恒星系の「ウンモ星人」は、外見上北欧系の白人に似て金髪であるが、身体の一部に色が変わりやすい部分がある、脳は灰白質が白質より17%多い、身体の一部に色が変わりやすい場所がある、16歳になるとたいていの場合咽喉が退化して声がほとんど出なくなるため人口声帯を埋め込む、などの特徴を持っており、嗅覚は地球人よりはるかに鋭敏で、手の皮膚は掌で光を感じるほど敏感だが、その反面指や手首に強い衝撃が加わると感覚器官に深刻な衝撃が生じるという。

 「ウンモ星人」は、1934年にノルウェー国籍の船舶が発したモールス信号を1949年になって受信し、1950年4月に、フランス・アルプスのラ・ジャヴィ近くに着陸したという。その後マルセイユに短期滞在した後、スペインや西ドイツ、オーストラリアなど各地に分散したという。
 この「ウンモ星人」なる者からの文書を最初に受け取ったのは、スペインのコンタクティー、フェルナンド・セスマと確認されており、その後、アントニオ・リベラ、ラファエル・ファリオロス、ホセ・ルイス・ホルダン・ペーニャといった、主にスペインのUFO研究家、神秘主義者にウンモ星人から文書が送られるようになり、その後はフランスのジャン=ピエール・プチやジャック・ヴァレも文書を受け取っている。
 「ウンモ星人」の文書には、漢字の王を縦にしたような独特の紋章が記されており、科学や政治、社会など様々な問題を扱っている。また1967年6月1日には、スペインのサン・ホセ・ド・ヴァルディラスで、「ウンモ星人」の紋章を付けたUFOの写真が撮影されている。

 他方、ジャック・ヴァレやエメ・ミシェルは、「ウンモ星人」が身を潜めていた洞窟があるというラ・ジャヴィを訪れたが、そこには洞窟はなく、またサン・ホセ・ド・ヴァルディラスのUFO写真についても、模型を糸で吊るしたものと判明している。
 こうした状況を考えると、ウンモ星人事件というものは、ある程度の規模の人数が関与したいたずらと考える方が自然であろう。ただし、「ウンモ星人」の書簡自体は現在も届けられており、事件の詳細は完全には明らかではない。

【評価】
 基本的に、ウンモ文書を巡る一連の事件は、地球人グループによる捏造と思われる。ただしその首謀者やネットワークの全容は明らかになっていない。 当然ながら、最初に通信を受けたフェルナンド・セスマ、ホセ・ルイス・ホルダン・ペーニャ、さらにはエンリケ・ヴィラグラサ、ラファエル・ファリオルスといった、初期に通信を受けたスペイン人関係者の関与が強く疑われており、実際ペーニャは1993年に自分が主犯であると認めたとも言われる。
 他方、ウンモ星人の文書は、時にはサウジアラビアなど通常の入国が困難な場所から発信されていたり、1954年にスペインのアルバセーテで起きた猟奇事件の真相などにも言及しており、それなりに手の込んだ内容となっている。
 当初事件を作り上げた者たちとは別に、世界各地に模倣犯が生まれている可能性もある。

【参考】

・ジャン=ピエール・プチ『宇宙人ユミットからの手紙』徳間書店

・マルチーヌ・カステロ、イザベル・ブラン、フィリップ・シャンボン『宇宙人ユミットの謎』徳間書店

・ジャック・ヴァレー『人はなぜエイリアン神話を求めるのか』徳間書店

・ 『NEXUS』,Vol11,No.2



『渋澤龍彦綺讀集2』 
 (日本文芸社)   1991/11

(うつろ舟)

女は、年のころ二十ほどに見えて、色白きこと雪のごとく、まなこ青く、燃えるような金髪あざやかに長く後ろに垂れ、その顔のふくよかに美麗なることは、譬えんばかりもなかった。唐人のきるような軽羅と袴を身につけているが、これが西洋婦人であることは、疑うべくもないといっても、常州の漁民に一度として、西洋婦人を見たためしとてはなかったから、海の彼方から忽然として現れた金髪碧眼の若い女に彼らは、ひとしく肝をつぶした。むろん、言葉が通じるわけでもないので、いずこの国のものかと女に問うすべもない。ただ遠巻きにして、こわごわと、ガラス障子の中の女をながめているよりほかはなかった。



『江戸『うつろ船』ミステリー』 
  加門正一   楽工社   2008/12



・今からおよそ200年前の江戸時代、享和3年(1803年)に起きた不思議な事件を伝える古文書が残っている。その古文書に記された事件は、常陸国(ひたちのくに)(現・茨城県)の海岸にUFOそっくりの形をした「うつろ舟」が漂着し、船の中には見知らぬ文字が書かれていて、美しい女性が一人乗っていた、というものだ。しかも、同じ事件を伝える文書はひとつだけではなく、現在までに複数のものが見つかっている。

・「なぜ江戸時代の古文書にUFOそっくりの乗り物が載っているのか?」という謎の最終的な解答は、いまだ得られていないのである。



『日本SF精神史』
長山靖生 河出書房新社  2018/3/20



<UFO研究と戦後的空想力>
・戦後世界の宇宙への関心は、一方ではミサイルや人工衛星の開発競争によって掻き立てられたが、大衆レベルでは「空飛ぶ円盤」ブームの影響が、何といっても大きかった。
 1947年6月24日、アメリカのワシントン州で、ケネス・アーノルドが未確認飛行物体(UFO)を目撃し、それを「フライング・ソーサー」と形容したことから空飛ぶ円盤=UFOのブームがはじまった(いわゆるアーノルド事件)。その後、アメリカ空軍のトーマス・マンテル大尉がUFO追跡中に墜落したと伝えられ、米ソ両国が密かにUFOの研究をしているといった風説も広まった。
 世界的なUFOブームが起こり、日本でも55年7月1日には日本空飛ぶ円盤研究会(JFSA)が発足した。会長の荒井欣一は、戦時中は学徒出陣で陸軍航空隊将校となり、戦闘機搭載レーダー整備任務に従事した経験があるという人物で、戦後は大蔵省印刷局に勤務していた。JFSAは北村小松・糸川英夫・石黒啓七・徳川夢声・穂積善太郎らを顧問に、荒正人・新田次郎・畑中武夫らを特別会員に迎え、機関誌「宇宙機」を発行していた。一般会員にも三島由紀夫、黛敏郎、石原慎太郎、黒沼健、平野威馬雄、星新一らがおり、その例会は先端科学からスピリチュアリズムまで、さまざまな話題が飛び交じっていたという。

・荒井は必ずしもUFOを信じてはいなかったが、おおらかな性格で、JFSAにはその実在を信ずる者(コンタクト派)、否定する者(アンチ・コンタクト派)、奇想を楽しむ者など、さまざまな立場の人々が混在していた。

・一方、1956年頃には松村雄亮も独自に空飛ぶ円盤研究グループを立ち上げ、同年11月にはJFSAメンバーの高梨純一が近代宇宙旅行協会(MSFA)を結成した。57年にはほかにも京都大学空飛ぶ円盤研究会や日本UFOクラブなどが誕生しており、JFSAが呼びかけてUFO研究グループの横の連絡会として、全日本空飛ぶ円盤研究連合(全円連)が57年7月に組織された。大映「宇宙人東京に現わる」が公開されたのは、ブーム最中の1956年だった。ちなみにヒトデ型の宇宙人“パイラ人”をデザインしたのは岡本太郎である。

・しかし、この頃から円盤をめぐって、コンタクト派とアンチ・コンタクト派の対立が激化する。前者の筆頭は松村であり、後者の代表は高梨だった。同年8月、松村は久保田八郎らと宇宙友好協会(CBA)を結成した。これは宇宙人との交信を目的とする団体であり、58年になると松村は宇宙人とのコンタクトに成功し、幾度かのコンタクトの後、巨大宇宙船に招かれ、「宇宙連合」という地球の国連のような組織の長老に面会して地球の大変動に関する機密を伝えられたと称するようになる。その機密とは、地球滅亡の危機についてであり、松村は宇宙人から地球救済の任務を託されたという。やがてこの「機密情報」は、CBAにも参加していた平野威馬雄によって外部に漏れてちょっとした騒ぎになる。その後も松村は「宇宙人とのコンタクト」を重ねたといわれ、CBAでは心霊主義者や新宗教関係者との権力闘争を経て、松村独裁体制が整い、独自の「宇宙観」を深めてゆく。彼らは次第に外部に自分たちの考えを公表することを避けるようになり、どことなく後のオウム真理教に通じるような秘儀性を感じさせる秘密結社的団体になっていった。

・これに対して柴野拓美は、「子供の科学」(63年7月)に円盤信仰批判を書き、「科学的空想に基づく空想科学小説の創作」は「妄想科学」と袂を分かつことになる。しかし、自ら信じることはないものの、奇抜な着想に対する興味というスタンスでの「円盤趣味」「妄想科学愛好」はSFファン内部に持続し続け、それが後の『空想科学読本』などにつながってゆくし、疑似科学を笑いにする『トンデモ本』にもつながっている。ようするに50年代の時点では、「空飛ぶ円盤」をめぐって、と学会的な観察者と、「トンデモ本」を書くような人が席を同じくして楽しんでいたわけである。

<空想科学からSFへ>
<人工衛星と未来的社会像>
・UFO騒ぎがまだ続いていた時期である1957年10月4日、ソ連が世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功した。さらに61年4月12日、やはりソ連によって人類史上初の有人宇宙船ウォストーク1号が打ち上げられた。宇宙飛行士ガガーリンが発した「地球は青かった」という言葉は流行語にもなった。
 スプートニク打ち上げは、思想的な意味でも事件だった。安部公房は人工衛星をめぐる一連の出来事を、大衆にとってもルポルタージュと想像力を接合する好機と捉えた。

・植谷雄高は<(人工衛星が地球の外に出た直後、ソ連が革命40周年で何かの新しい発表をするというので)遂に人類というひとつの概念に達した。そういう一種の人類の宣言が人工衛星の上に立ってなされるんじゃないか、と考え、またしてほしいと希望をもったのです。その時にももちろん、これまでの科学的な苦心談を入れて、今後の成り行き、月世界旅行、火星旅行はこうなるだろう、階級社会は地球の3分の2に残っているけれども、ついに止揚をされる段階にある。そういうことをのべると同時に技術の公開と軍事目的からの絶縁を宣言する。ところが、それはぼく一人の考えになってしまった。それどころか、人工衛星の意味を受け取るほうでもソヴィエト側でも軍事的な面を強調している>との夢想と失望を語っている。

・一方、安部公房は<ぼくなんか、もともと空想科学小説なんかが好きなほうでまた技術の問題としても、いつかはかならずありうることだし、常にそういう前提で現実を考えなきゃならない><もう少したてば、人工衛星なんか、すこしも不思議ではないというときが必ずくる>と語り、ソ連がアメリカに先んじて人工衛星打ち上げに成功した背景については<(人工衛星の開発費が)40兆億ですか、そういう巨大な金をかければ、ソヴィエトないしは共産圏の諸矛盾を内部だけで解決しようとすれば解決しえたはずである。それを内部矛盾として耐えなければならないような国際矛盾があっから、急速に人工衛星を具体的に飛ばすという結果に行き着いた>と分析しているのが興味深い。つまりソ連は国民経済を犠牲にし、国家威信のために人工衛星開発を進めたと述べているのである。安部はこの時点で既に社会主義体制の矛盾に明確に気づいていた。それに対して他の発言者は、当時の進歩的文化人らしく、ソ連の「正しさ」を前提としており、それが今読むとかえってSF的空想に見えてしまうのも皮肉だ。

・人工衛星ブームは“宇宙バカ”と呼ばれるほどの宇宙マニアたちを生んだ。文壇では荒正人、中島健蔵が“宇宙バカ”の代表として揶揄された。彼らの関心は天文学や純粋に宇宙開発に関わる航空工学にあるわけではなく、もっぱら宇宙空間開発競争、あるいは宇宙空間をめぐる米ソ対立へ向けられていた。そうした人々の関心のあり方が、1956年代後半の日本におけるSF定着を後押しする一方、日本SFが本格的にはじまる以前から、偏見のまなざしが注がれるという弊害をも生んでしまった。文壇には、「科学」を文学の対立概念と信じて疑わないような勢力がある一方、「社会科学」という名のイデオロギーの信奉者のなかには、唯物論以外の「科学」を分派工作と見做しかねないかたくなな者もいた。

<科学創作クラブとおめがクラブ>
・1950年代後半になると、いよいよ日本にもSF同人誌を作ろうという気運が盛り上がってきた。しかも二つの異なるベクトルのなかから、同時進行的に発生している。そのひとつはUFOに関心を持つ人々のあいだで起きた運動であり、もうひとつは変格(注;本格の誤植か?)探偵小説のプロ志望者たちの集まりからだった。

・55年に日本空飛ぶ円盤研究会(JFSA)が発足したことは前章で述べたとおりだが、その例会に集まってくる仲間のあいだでは、アメリカの科学小説もよく話題になった。当時のUFO情報の供給源はアメリカの雑誌だったが、そうしたSF小説もよく載っていた。海外のSF専門誌を読んでいる者も何人かいて回し読みされた。

・「科学小説の雑誌をはじめませんか」と言い出したのは柴野拓美だった。逸早く参加を申し出たのは星新一。たちまち同好の士が集まった。機は熟していたのである。JFSAは機関紙「宇宙機」を出しており多少は同人誌発行のノウハウがあった。また「日本宇宙旅行協会」も、このSFファングループ結成に力を貸した。

・日本宇宙旅行協会は、戦前に「科学画報」などを発行し、海野十三と小酒井不木をつないでも日本版「アメージング・ストーリーズ」を創刊しようとしたこともある原田三夫が遊び心をもって組織していたものだった。同協会の事務所は、銀座尾張町ビルにあった巴里会(戦前に巴里留学した知識人・芸術家の集まり)事務所に間借りしていた。その発足時、巴里会メンバーの徳川無声が「宇宙人、銀座に現わる」とのデマを飛ばして宣伝し、明るいニュースに飢えていた新聞社も喜んで宣伝してくれた。同協会は火星の土地の権利書などを発行するというシャレも行った。ちなみに早川雪洲、石黒敬七、藤原義江、東郷清児、猪熊弦一郎らは巴里会の常連で、彼らも日本宇宙旅行協会のイベントに顔を出したり、JFSAに関わったりした。


<●●インターネット情報から●●>
『月刊ムー公式ウェブ ムーPLUS』より引用。
<地球の歴史に多種の異星人がかかわっている!「パルサー・プロジェクト」の真実>
<カナダの要人が公言したUFOの存在>
「異星人はすでに地球を訪れている!」「われわれの頭上を飛び交う飛行機と同様、UFOもまた平然と空を飛んでいる!」

2005年9月25日、カナダのトロントで開催された「地球外生命体シンポジウム」に出席したポール・ヘリヤーが、UFOと異星人の実在を公言した!
ヘリヤーといえば1963〜1967年当時、G7(主要7か国首脳会議)参加国であるカナダの国防相であった。その彼が、輝かしい経歴をかなぐりすててまでした発言だけに、世界中が注目したことはいうまでもない。これを契機に、ヘリヤーのUFOと異星人問題に関する“暴露”が始まる。

ヘリヤーは2013年4月、アメリカのワシントンDCで開催されたUFOや宇宙人情報の“公表=暴露”を目的とする公聴会にも参加した。そして、

「この宇宙には数え切れないほどの生命体が存在している」
と演説したのである。それは、人類以上に高度な技術を有する異星人の存在を明らかにする発言にほかならなかった。
さらには彼は、
「国防相時代、UFOの目撃報告を受けていた」
とも語り、1960年代には当時の「欧州連合軍最高司令部」の最高司令官を震え上がらせるほどのUFO艦隊が、ヨーロッパに押し寄せるという事件が起きたことを暴露した。ちなみに、UFO艦隊はその後、方角を変えて飛び去ったため事なきを得たという。とはいえ、時は東西の冷戦下。旧ソ連の特殊部隊による作戦ではないかと懸念した西側関連諸国は、このUFO艦隊についてすぐさま調査を開始した。だが結局、そうした事実は見つからなかったという。

また、ヘリヤーは1947年にアメリカ、ニューメキシコ州ロズウェルで起きたUFO墜落事件についても、
「アメリカ政府は情報をすべて隠蔽している」
と強く批判しており、その背後にあって情報開示を阻む謎の組織『影の政府』の存在を明らかにした。彼によれば、政府高官すら知る者の少ない『影の政府』とは、“影”でありながら、アメリカのみならず世界中の権力を握る組織なのだ。そして、その目的は「世界征服」にあり、異星人のテクノロジーを独占して自国を強化し、圧倒的な権威を得ようとしているのだという。

4種の異星人が地球にいる!
ヘリヤーはまた、さまざまなメディアに対し、
「すでにゼータ・レティクル、プレアデス、オリオン、アンドロメダ、アルタイル(わし座の1等星)の4種の異星人が地球を訪れており、われわれの歴史にかかわっている。背が高く白人に似た、通称“トールホワイト”と呼ばれる種族にいたっては、アメリカ、ネバダ州にある空軍基地で働いているのだ」とまで断言している。トールホワイトはアメリカ空軍に軍事協力しながら基地内で生活しており、ネバダ州インディアンスプリングにある砲射撃場で、その姿を航空兵にたびたび目撃されているという。

だが、異星人実在発言を繰り返し、さらには、そうした異星人が主要国家の政策に深くかかわっている、というヘリヤーの発言が社会を賑わすことはあっても、アメリカ・カナダ両国政府が公式に対応することはなかった。それどころか、史上最年少で閣僚となった彼は、最終的に副首相にまで上り詰めながら、たびたびの暴露発言により、その社会的地位を一瞬で失ったのである。しかし、

「UFOや異星人の存在を信じている」という彼の発言は、ヘリヤーにとっては決して失言などではなかった。彼は自らの意志で、彼の知る真実を告発しようとしたのだ。それにしても、90歳を超えた今でも、「82種以上の異星人が確認されている!」と自信に満ちた口調で異星人実在発言を繰り返すヘリヤ――。彼のその主張の根拠とはいったい何か? 何が彼を突き動かしているというのだろうか?

その根拠は、驚愕すべき記述で満たされた某文書に書かれているという。そう、ヘリヤーは単に世迷言を繰り返しているだけではない。実は彼の発言を裏づけ、UFOと異星人の存在を暴く“秘密文書”があるのだ。
文書の名は「パルサー・プロジェクト」。そして、それが明らかにするのは、異星人の生態と活動について、かつてないほど詳細に記録された政府の秘密プログラムなのだ。

「ムー」2017年11月号の総力特集にて、その謎に満ちた『パルサー・プロジェクト』の内容を紐解いていこう。
(ムー2017年11月号総力特集「衝撃のUFO極秘文書『パルサー・プロジェクト』」より抜粋)文=並木伸一郎



『UFOと地底人』 ついに明かされた異星人と空洞地球の真実
  中丸 薫 GAKKEN   2009/1



<作家とテレパシー>
・SF作家のアイザック・アシモフはニューヨークの私の家で話している時に、突然、こんなことを言い出した。「あなたみたいな神が信じられて永遠の生命が信じられるなんてうらやましいですね」

・「あら、でもディケンズさんは、夢の中で小人が出てきて、不思議な物語を話してくれたので、起きてすぐにそれを書き留めたらーそれがあの名作『クリスマス・キャロル』になったそうですよ」
そういうと彼は驚いたような顔をしてこういった。
「そうなんですか。でも僕の場合は夢じゃなくて、現実に出てくるんですよ」「え?」その言葉に私は、思わず耳を疑った。詳しく聞いてみると、アシモフがタイプライターの前に座ると、実際に5〜6人の小人が出てくるのだ。そして周囲でいろいろなことを話してくれるというのだ。
「僕はそれをタイプライターに打っているだけ、書くだけなんです」
私は、「まさに、それこそが心の世界なんですよ」と言った。
「アシモフさん、どうやってそれをあなたのお好きな科学で説明できるんですか。説明できないからこそ、それを心の世界というのですよ。現にあなたは、そうやって366冊ものSF小説を書いたわけでしょう?」



『古代の洞窟』  チベット少年僧の不思議な物語
T.ロブサン・ランパ  中央アート出版社  2008/7



<『第三の眼』の著者>
・本書は、かつて世界的なベストセラーとなった『第三の眼』の著者、チューズディ・ロブサン・ランパの続いての著作である。『第三の眼』は1956年に英国で初版が発行され、当時全く知られなかったチベットの国情、その奇異な習慣、そして神秘的なチベット仏教のあらましが著者の僧院での修業時代の物語を通じて明らかにされ、一躍世界の耳目を集めた画期的な作品であった。
 一方、本書は、その5年後に、当時ロブサンが滞在していた米国において刊行されたもので、これまた少年時代のロブサンの厳しい修業時代の一部始終を更に詳しく自伝風に書き綴ったものである。彼一流の諧謔を交えながら、自らの課せられた使命を達成するため、権威あるチベット高僧の適切な指導の下に、その生来もっていた類い稀な特異能力に磨きを掛けてゆく過程が、様々なエピソードを通じて細かに描写されていて興味深い。と同時に、その幽明を通じての優れた人生観が行間至るところに読み取れ、大いに啓発されるものがある。

<古代の洞窟>
・私は高僧たちが旅行して発見した古代の洞窟について密かに興味を持っていたが、それは地球が若いある時代からの文化的遺物と知識の伝説的な蓄積の話であった。師も私も知っていたことではあるが、彼の準備が出来るまではその物語を話すことは望めないこと、そして未だそのときが来ていないことを私は感じ取っていた。

・「全世界は振動から出来ている。すべての生物も無生物も振動から出来ているのだ。あの大きなヒマラヤも、互いに接触することのない浮遊する粒から出来上がっている。世界も宇宙も他の物質の粒の周りを回っている小さな粒から出来上がっており、それはちょうど我々の太陽が、自分の周りに地球を回転させるとき、常に距離を置いて互いに接触することがないように、回転する世界を構成するあらゆるものが存在しているのだ」。

・彼は始めた。「これは私が見たり聞いたりしたもので、おまえが見聞するのも遠い先ではない。数千年以上も昔に、この世界には高い文明があったのだ。人々は重力に挑戦して機械に乗って空高く飛ぶことができ、また自分の考えを絵のように表わして、他人の心に印象づける機械を作ることが出来たのだ。更に彼らは核分裂の手段を持ち、世界を破滅させる爆弾を爆発させて大陸を海中に沈下させ、逆に海を隆起させ、これによって世界は死滅してしまった。それで現在、この地上の我々は、いろいろな地方で洪水の物語を持っているのだ」。私はこの最後の部分には納得がいかなかった。「先生、アカシックレコードの中で、そのような絵を見ることが出来ます。我々がこの場で、もっと簡単に経験できるものを、どうして危険を冒して山に登るのですか」と私は叫んだ。

・「ロブサン、我々はみんな幽界やアカシックレコードを見ることが出来る。特に後者は起きた事、すべての事実の再現である。しかし我々は見ることは出来るが、触ることは出来ないのだ。幽界の旅で我々は、あちこち行ったり来たり出来るが、その世界の何物にも触ることは出来ない。我々は着替えの衣や一輪の花をすら手に取ることが出来ない。同様に、アカシックレコードによって、我々はすべてを見ることは出来ても、この山の中の大きな部屋のなかに置かれた奇妙な機械を、近づいて詳しく試すことは出来ないのだ。だから、その山に行って機械を試すのだ」
「本当に奇妙ですね、そのような機械は世界中にあるはずなのに、我が国だけで見つかったのは」と私は言った。「ああ、しかしおまえは間違っている。同様な部屋がエジプトでも見つかり、そしてもう一つの同じ部屋が、南アフリカと呼ばれる地域にも存在している。私は見たことがあって、どこにあるのかも知っている。これらの秘密の部屋は、時期が来れば後世の人々によって、その中の人工のものが発見されるように、古代人によって隠されていたのだ。しかし、この突然の岩石の落下によってチベットの隠された部屋は思い掛けなく顕わになり、その内部のものから我々は他の部屋の知識も得たのだ。しかし日は瞬く間に過ぎ去り、今度はおまえを入れた7人が出発して、再び古代洞窟に向かうことになるのだよ」

・ラマ・ミンギャール・ドンダップが話をしてくれてから約2週間後には、我々はほとんど、谷と石ころ道を通る長い長い登山の準備を完了した。共産主義者は現在チベットにもおり、したがって、洞窟は本当に存在し、その機械類を所有することは、共産主義者に世界征服をさせる機械を与えることになるという理由から、古代洞窟の位置は慎重に隠されたのだ。ここに書いていることは、洞窟への道以外は、すべて真実である。洞窟の秘密の場所や正確な面積は、時が来れば自由の軍がその場所を発見できるように、注釈と略図を使って完全にしてあるのだ。

<タイムカプセル>
・我々は、自分たちが彼らの言葉を理解できることに気がついたが、そのとき、我々はテレパシーで話を受けていたのだ、という説明が現れた。このような部屋、すなわち、タイムカプセルは、エジプトの砂の下や南アメリカのピラミッドの下、そしてシベリアのある地点に隠されており、その各々の場所には、その時代のシンボル、例えばスフィンクスなどによって印が付けられていた。我々はエジプトに起源を持たない巨大なスフィンクスの像を見、その姿の説明を受けた。
 人間と動物は遥か昔には一緒に話し合って仕事をしていたのだ。猫はその最も完全な動物で、力と知性を持っていた。人間自身も一種の動物で、古代人は大きな猫の身体の像を力と忍耐を示すために作り上げ、その身体の上に一人の女性と胸と頭を乗せた。頭は人間の知性を示し、胸は人間と動物が、お互いのために霊的、精神的な養分を取り合うことを示し、このシンボルは今日の仏像やダビデの星や十字架と同様に普遍的なものであった。
 我々は陸地から陸地へ移動する巨大な浮遊都市のある海を見、また空には音もたてずに動いている同様に巨大な船が浮かんでいたが、これらは一点に止まっていると見るや、ほとんど一瞬のうちに、とんでもない高速で通り過ぎていった。地上では乗り物が地面の数センチ上を、我々が考え及ばない方法で空気に支えられて動いていた。道路が橋のような細い索を伴って都市を貫いて伸びていたが、我々が見ている間に、空に生き生きとした閃光が走り、最大の橋が壊れて一固まりの桁と索になってしまった。そしてもう一度、閃光が閃いて都市の大部分が消え失せて、光り輝くガスとなってしまい、廃墟の上には、数キロメートルの高さの茸状の奇妙な悪魔のような赤い雲が立ち昇っていた。
 絵は次第に褪せていき、そして我々は再びタイムカプセルを企画した人々の一団を見たが、彼らは今や、それらを閉じ込める時と考えていた。我々は儀式を見、また保存される記録が機械に掛けられるのを見、そして別れの演説を聞いたが、それは我々に向かって言った。「もしそれが存在するのなら、未来の人々へ(人類は自ら滅びる可能性があるという意味で)、この丸天井の中には、それを発見し理解できるだけの知性を持った未来の民族への恩恵となる、我々の完成と愚行の作品を保存する」

・徐々に我々は地球上での感覚をなくしていき、時代の海の中に浮かんでいる状態になった。過去に起きたことのすべてが、意識的に幽界に行って知識を得て帰ってくる才能を持った人々によって見られたのだ。歴史上のいかなる光景も、そしてそれがいかに遠い昔の出来事であったとしても、あたかもその場に居合わせたかのように見ることができた。

・次に我々は、巨大なピラミッドの石段に立っている高僧が、聴衆を戦争に駆り立てている姿を見た。回転する時間の巻き物に印象づけられている絵は更に変化して、我々は反対側の陣営を見た。指導者ががなり立て、取りとめのないことを言い、そして時代は流れていった。我々は空の青さの中に数条の白い湯気が立ち、それから空が赤くなるのを見た。全世界は振動し、見ているうちに目眩を感じた。夜の闇が世界中から垂れ込め、激しい炎によって立ち昇った黒雲は、全地球の周りに渦巻き、都市は焼き尽くされて消滅してしまった。
 陸上には怒り狂った海から津波が押し寄せてきて、その前にあるすべてのものを一掃し、その高さは地上の最高の建物よりも高く、その頂上は亡くなった市民の漂流物を持ち上げていた。土地は振動して苦悶におののき、大きな割れ目が巨人の胃袋の収縮のように現われては閉じた。山は嵐の中の柳の小枝のように波打ちながら海底に沈み、陸地の固まりが水の中から立ち上がって山となり、世界の全表面は変化と連続的な運動の状態になっていった。数百万人の中で、僅かに方々に生き残っていた人々は、悲鳴を挙げながら新たに隆起した山に向かって逃げて行った。また他の生き残りの人々は船で漂流していたが、高地に到着するや、発見できた隠れ家に逸早く逃げ込んだ。一方、そのとき地球自身は回転を停止して静かに立っていたが、それから次第に逆方向に回転し始め、森は一瞬のうちに木々の生えた状態から散らばった灰に変わった。地球の表面は荒れ果てて真っ黒焦げになってしまい、洞窟や死火山の溶岩のトンネルの中には、ごく僅かの人々が大災害で気が狂ったように恐怖に縮こまって訳の分からないことをしゃべり、黒い空からは生命を維持する甘くて白い物質が降っていた。

・数世紀経つうちに地球は再び変貌した。今度は海が陸地に、今まで陸地だった所が海になった。また低く横たわっていた平原が亀裂した岩山になり、水が押し寄せてきて現在の地中海となった。その近くの、もう一つの海は一つの透き間から海底に沈み、水が去って底が乾くとサハラ砂漠が形づくられた。地球の表面には野蛮な民族が彷徨し、キャンプファイヤーの影で、昔の伝説や、洪水やレムリアやアトランティスの話をしていたが、彼らの話のなかには、太陽が静止した日のことも含まれていた。

・古代洞窟は半ば沈みかかった世界の裂け目に埋められ、侵入者から守られて陸地の表面から非常に深いところに埋められた。そして時が経つにつれて、急流がその割れ目や破片を洗い流し、もう一度岩を日の光の中に直接させ、ついには太陽によって熱せられ、急激な水のシャワーによって冷やされて、岩の表面が轟音と共にはじけて、我々が入ることが出来るようになったのである。
 
・我々は勇気を出して痙攣した手足を伸ばし、やっと立ち上がった。この経験は衝撃的なものであったが、今や我々は食事を取り、眠らねばならなかった。明日、我々はめいめい、周りを見て、更に少しでも何かを学びたいと思っていた。そして、それが済めば我々は指示どおり出入り口をふさぐのだ。洞窟は改めて善意の高い知識人が来るまで、再び平和に眠るだろう。私は洞窟の出入り口に向かって歩き始めた。そして、もし古代人の人が墓から出てきて私の傍らに立つことが出来るならば、その人は何を考えるだろうかと思った。
 私はこのとき、そのコントラストに驚いたが、それは一人のラマが火打石と火口で火をつけ、我々が持ってきた乾いたヤクの糞を燃やしていた。すなわち、我々の周囲には、過ぎ去った時代の高性能の機械類があり、そして我々現代人は、自分たちが会得できないこのような機械類に取り囲まれて、糞を燃やした火の上でお湯を沸かしていたのだ。私は溜め息をついて、自分の考えを、茶とツァンバを混ぜることに転換させた。

<著者について>
・1937年に日本軍の上海侵攻が開始されると、中国空軍の軍医大尉に任命され、翌年に日本軍により撃墜され捕虜となった。3か月後に脱走してチベットに戻ったが、ふたたび中国空軍に復帰し、またもや日本軍に捕えられる。拷問と脱走を繰り返すうち、1944年には日本の広島に近いキャンプに収容された。広島の原爆投下の大混乱の中を脱走し、漁船を盗んで朝鮮の海岸に上陸。ウラジオストックからシベリア鉄道でモスクワへ辿り着いたが、スパイ容疑で逮捕された後に国外追放となり、ポーランドで釈放された。その後、ポーランドからドイツを経て、フランスのシェルブールから船に乗り込み、アメリカに渡った。ニューヨークで幾つかの職を得て働いたが、1951年にイギリスに向かい、そこで自叙伝を書くことを勧められ『第3の眼』を執筆する。

・以上が、ロブサン・ランパ自身による略歴の紹介であるが、1956年、ロンドンのマルチン・セッカー・アンド・ワーバーグ社から刊行された同書は世界的な大ベストセラーとなって、あまりの多額の印税収入のほか、マスコミ・ジャーナリズムもこの謎の男の正体を暴こうと躍起になり、ついには詐欺師、ペテン師のレッテルを貼りつけた。ロブサン本人は、マスコミの追及に嫌気がさし、出版社の忠告を受け入れてカナダに移住したが、1959年以降もロンドンの出版社からは、『金星への訪問』ほか十数冊が彼の名で出版されている。



『仙境往来』 (神界と聖地)
(田中文雄)(春秋社)    2002/12



<「洞天内の建物と住人」 >
・さて、この洞天のなかで暮らすことができるのは、どんなひとであろうか。住人は、かって道徳的に優れたことをした人々である。

・地下主者とは、「地下主者に三等(階級)がある。みなこの世で功徳があった者である」と区分がある。
一等地下主者は、もっとも下の者で、百四十年して一進して、はじめて仙階(仙人の世界)に進むことができる。
二等地下主者は、中間の位で、ただちに仙人階級になれる人で、百四十年して進んで官禁の位(世間の役人のようなもの)に補任される。
三等地下主者は、一番上の者で、仙人の住まいに出入りでき、神の世界にも遊ぶことができる。

・地下主者は、完全な神仙撰になる前の修業中の人といえる。仙人の仮免許を持った人といってもよいかもしれない。

・この易遷宮と童初府には、東海青童君という神が、不定期にやってきて、諸宮の人々を見まわる。これらの宮にいる仙人は、みな少しずつ昇進して、この宮に入ることができたのである。

・地下主者の高位者になるまで、百四十年が一単位として進むという。どの地下主者に振り分けられるかは、現世においてどれだけ功徳を積んだかによる。

・普通、仙人を階級的に分ける場合、『抱朴子』論仙篇にあるように、最上は白日昇仙(衆人環視の中で仙界に昇る)する「天仙」、次に名山に遊ぶ「地仙」、最も低いのは死んで後に行方をくらます「尸解仙」と三つに分けるのが普通である。しかし、上述の文献からは、さらにその下に地下主者がいることになる。

<洞天内は、まるで現実世界と異ならない様相をしている。>
・また「句曲の洞宮に五門あり」と記され、この洞天への入り口が五つあったことがわかる。ただし、この洞門は外人(俗人)のためのもので、真人や仙人はここから出入りはしないという。たぶん、真人や仙人は、神界から門を通ることなく、直接にこの地にくると考えられていたのだろう。この門は、人間が入ることができる神界とこの世の接点なのである。

・洞天内には、虚空の中にみな石の階段があり、曲がりくねって門へとつながり、上下に往来することができる。そのため、人がそこへ入っても、まったくここが洞天内とはわからず、外の道路だとしか思えない。日月の光も、草や木、水や沢も、まるで外界と変わらない。また、鳥が飛び、風雪もあるので、{異界であることを}疑いもしない。洞天内は、まるで現実世界と異ならない様相をしている。
 この洞天は、地下道によって、他の洞天と結ばれる。つまり、東は林屋へ通じ、北は岱宗(泰山)に通じ、西は峨嵋に通じ、南は羅浮に通じる。その通路は、みな大きな道である。その間に小さな路が入り交じって通っている。前述の林屋山洞(第九大洞天、江蘇省・太湖)、東岳太(泰)山洞(第二小洞天、山東省)、峨嵋山洞(第七小洞天、四川省)、羅浮山洞(第七大洞天、広東省)と地下道で通じているとするのである。

・『真誥』の勾曲山洞についての記述は、著者の陶弘景がこの山を活動拠点にしたこともあってか、地下通路のセンターのように描かれる。地上世界と、それを取り巻く天体を、そのまま縮小したような小宇宙を形成している。それが地下にあるため、他の洞天との通路も地下道となる。

<「洞窟の内部」 >
・現在の南京の周辺にあたる金陵という場所、豊かで奥深い地下の聖地を蔵していた。また、大地の肺臓のような世界、つまり空洞が広がっているとする。「肺」とういうのであるから、鍾乳洞の中のような様子を想像していたのであろう。ただ、そこを訪れる人は、その内実を知らないというのである。

・また、この山の洞虚の内部を見れば、内側に霊府(神々の役所)があり、洞庭(大きな空洞の庭)は四方に開けて、巌穴は長く連なっている。

・多くの洞は、お互いに通じ合っていて、それらの路を行くと、いくつかの路に分れる。四方に交わっていて、そこには真仙たちの洞館(すまい)があるとされる。さながら、地下王国の観がある。

・もう少し、具体的に洞天内の様子をみてみたい。洞虚は四郭(角)で上下はみな石である。上の平らのところは土の下にあり、ちょうど(その上の)十三、四里で地表面に出る。
東西は四十五里、南北は三十五里の真っ平らな方形で、その中の虚空の場所は、一百七十丈、下処は一百丈。下の土台は岡やうねなどがあるが、上の蓋は平らであるとある。つまり、洞天は、地中にあり、周囲一百六十里(約七十キロ)にも及ぶ巨大な石室である。下方は普通の土地のように起伏があるが、上方はまったく平らであった。
 この地中世界には、地上世界と同じように太陽と月がある。つまり、洞天内には「陰暉夜光」と「日精の根」があり、この内部を照らしており、明るさは日月と同じである。



『宇宙と人間の謎—―人類に危機が迫っている』 
(深野一幸)(成星出版) 1998/2



<5次元以上にも生命体は存在するか?>
・5次元以上にも生命体は存在する。以下はマゴッチの伝える情報である。
◆5次元の生命体
●4次元の宇宙人(人間)が進化して、肉体に宿ることを卒業した霊的生命体、自分の意志で肉体を持った人間になることもできる。
●宇宙の階級では、第5階級で、密度でいえば第5密度の生命体。
●コズミック・トラベラー(宇宙の旅人)とも呼ばれ、6次元のガーディアン評議会の命令で、遅れた星の宇宙進化の促進などを行う。

◆6次元の生命体
●5次元の生命体が進化した霊的生命体。ガーディアン(守護神)とも呼ばれる。昔、肉体を持った人間であったが、霊的に進化して霊的な存在となった生命体で、人間世界を指導している。
●50人のガーディアンでガーディアン評議会を構成されている。
●宇宙の階級からいえば、第6階級で、密度でいえば、第6密度である。

◆7次元の生命体
●6次元の生命体が進化した高級な霊的生命体。
●アセンディド・マスター(高級教師)とも呼ばれ、7人存在する。
●宇宙の階級からいえば、7等級という。密度で言えば、第7密度である。

◆創造主(偉大な潜在界)
●究極の次元には、金白色のとてつもなく大きな光で、全てを包含する存在がある。
●これは、宇宙を創造し、宇宙全体を統御しており、神、宇宙意識などとも呼ばれる。

<4次元の肉体を持った人間の特徴>
・4次元の肉体を持った人間の宇宙人は、次のような特徴を持つ。
◇振動数が高く地球人の目には見えない。振動数を下げると見える。
◇極めて高度な科学技術を発達させている。
反重力で飛行する宇宙船(UFO)を開発している。
◇精神性の高い人間である。
人間の輪廻転生や宇宙のしくみを知り、創造主を敬う精神性の高い生き方をしている。
◇超能力人間である。
肉体の振動数を変える能力、テレパシー能力、マインドコントロール能力、予知能力、オーラを見る能力、ヒーリング(病気を癒す)、テレポーテーション(瞬間移動)、物体浮揚、物質化、透視などの超能力を持つ。
◇寿命が非常に長い。
地球時間で、200〜800歳である。
◇お金(貨幣経済)のない社会を実現している。
欲しいものは無料で手に入る。

<異次元からの宇宙人がいる!?>
Q.: 異次元からの宇宙人が来ているというのは本当か?
A.: 容易に信じられないが、真実のようである。宇宙は多次元構造でできており、我々の住む物質世界は三次元世界である。地球に進化した宇宙人がやって来ているが、彼らは、三次元世界からのみやってきているのではない。四次元世界にも、肉体を持った人間の宇宙人が存在し、地球にやって来ているようである。

<4次元も物質世界>
・オスカー・マゴッチが行った星は4次元の「アルゴナ」という惑星である。ただし、地球の次元と4次元は同じ空間にあるが、波動が異なるため、お互いに見えない。マゴッチのいう4次元や5次元は幽界や霊界ではない。れっきとした物質世界である。3次元から4次元への移動は、UFOに乗りUFOの波動数を上げることにより行う。波動数を上げると3次元世界が徐々に消え、4次元の物質世界から3次元の物質世界への移動は、UFOの波動数を下げることにより行う。すると、4次元世界が徐々に消え、3次元世界が現れる。



『最近UFO学』  
(東京大学UFO研究会)(勁文社) 1991/7



<エリア51 S−4地区の秘密>
・エリア51(ネバタ州ラスベガスの北東部地域)内にあるS−4と呼ばれる地区はUFO研究が行われていると噂されている場所である。この地域は砂漠の真ん中にあり、四方を山に囲まれているため周りから内部の様子を見ることがまったくできない。

・この秘密施設の中でUFOの推進エネルギーの研究を行っていたという証言者が現れ、一躍UFO研究家の注目を浴びた。この証言を行ったのは、ロバート・ラザー氏という物理学者で、彼はエリア51内にある研究施設で現物のUFOの推進エネルギーの研究をしたというのである。ラザー氏は、EG&Gという会社に勤める契約をしたところ、会社ではなく、エリア51の中にある研究施設に連れて行かれ、驚いたことに宇宙人に関する資料を見せられた。その資料には、宇宙人の解剖写真まで載っていたという。さらに閉ざされた格納庫に連れていかれ、その中にあるUFOを見せられた。そこには3機のUFOがあり、そのうちの一機の推進エネルギーを研究するように命ぜられたという。
そこには閉ざされたままの格納庫もあり、数から考えれば、全部で9機のUFOがあったはずだと証言しているが、実際に見たのは3機である。またUFOは実際に宇宙人から提供されたものだということだった。



『 UFOと陰の政府—―世界支配への宇宙的陰謀』
 (コンノケンイチ)(たま出版)1990/5



<ペガサス座のNGC7078(メシエ15)にある拠点>
・ネットワークの移動範囲には、ペガサス座のNGC7078(メシエ15)にある拠点を含むが、彼らの本拠地はレチクル座にある。レチクル人たちは天体研究と生命の分析に完全に焦点を合わせた文明を持っている。

・このため彼らの天体天文学の技術は進歩し、その結果、レチクル人たちは探査及び交易ルートを張り巡らし相互接触を図り、星間拠点や宇宙社会を築くことができた。

・ネットワークに所属する多数の宇宙船がこれまで、地球の上空で大気圏飛行を行ってきた。

・レチクル座Z1とレチクル座Z2は二重の発進基地で、地球から37光年離れている。宇宙船が分析指令宇宙船と絶えず連絡を取り、突き詰めた討論を行う能力は休みなく発揮されている。

・証言によると、すでに米政府では宇宙人の種類を4種類も確認しているということです。鼻が大きい「ラージノーズグレイ」、それに使われているクローン生物らしい小人タイプの「グレイ」、人間に似た美しいタイプの「ノルディック」、髪が赤い「オレンジ」というタイプで、中でも「ラージノーズグレイ」という宇宙人とは協定まで結んでいたというから驚きますね。この「ラージノーズグレイ」は、悪いタイプの宇宙人らしく、人間や牛をさらって切り刻んだり殺したりするし、それを米当局は黙認していたというから、いったいどうなっているのでしょうか。

・アメリカでは多いときには年間1万頭の牛が「グレイ」に殺されて彼らの栄養源になっているといいます。そんな大それたことを国民に秘密にしておくのは危険だといって公表しようとしたケネディは、そのため暗殺されたというから驚いたものです。



『月に別世界の宇宙船がいた!』
(宇宙飛行士ジム・アーウィンの証言)
(根岸邦明)(朋興社) 1995/4



<アポロ15号 宇宙飛行士ジム・アーウィンの証言>
・アポロ15号(1971年)ジム・アーウィンほど、誠実で勇気ある宇宙飛行士はいないと思う。残念ながらアーウィンは、1991年にこの世を去ってしまったが、帰還後彼は、キリスト教の伝道者として、アメリカはもとより世界各地で数多くの講演活動を行い、多くの人々に感動を与えている。

・厳しいかん口令のせいかほとんどの宇宙飛行士はUFOについて堅く口を閉ざしている。しかしアーウィンは、1984年、日本のテレビ取材班の独占インタビューではっきりとUFOというよりも壮大なスケールの別世界のスペースクラフトが飛行していたのを月面で見たと驚くべき発言をしていたのである。

<月世界を統治する者>
・そしてツィオルコフスキーの予見したようにアーウィンらは現実に月の世界で、別世界のスペースクラフトに遭遇したのである。それはけた外れにスケールの大きな、遥かに優れた機能を持つ、美しく輝く宇宙船であった。

・しかも、アーウィンは月面でテレパシー的スーパーな能力を発揮したり、天使や神の臨在を強く感じたといっている。このことは、月は高度に進化した知性ある者に統治されていて、その環境、場が非常に高いレベルに維持されていることを意味していないだろうか・・・。

<月面の飛行物体>
・また1982年アマチュア天文家の水島夫氏が東京自宅の望遠鏡に設置したビデオの映像にキャッチされてテレビで放映されセンセーションを呼んだ、月面上でUFOの数々の飛行活動もアーウィンの報告・証言はリアルに裏付けている。

・まことUFOはそこにいて、今でも活動しているのである。そこは彼らの活動圏なのだから・・・。



『 UFO原理と宇宙文明—―21世紀科学への展望』
 (太田竜)(日経企画出版社)1991/6



<クーパー氏の情報は大きな影響を与えた>
・クーパーによれば、米政府の極秘文書は4種類の異星人を挙げているという。一つは、米政府、MJ―12が協定を結んだ相手であるラージノーズグレイ(大きな鼻の灰色人)、二つは、ラージノーズグレイのために働いているグレイ(灰色人)、三つは、ノルディックと呼ばれる金髪で人間に似たタイプ。四つ目はオレンジと呼ばれる赤毛で人間に似たタイプ。異星人の故郷はオリオン座のある星、バーナード星、そしてゼータ2。「ノルディック」、「オレンジ」については立ち入った情報は伝えられていない。

・クーパー氏のよって明らかにされた米国政府の一連の秘密文書、及びその他のUFO情報によれば、ラージノーズグレイ異星人及びグレイ異星人は、米政府との秘密協定により、米国内に秘密基地を有し、ここでは各種の人体実験、動物実験が行われており、また人間を誘拐して、脳内、体内に極微の装置を植え込むプロジェクトを実行しているという。

・UFOによる誘拐事件を調査しているニューヨークの著名な画家、ホプキンス氏の推測によると、すでに人類の1%が異星人によってさらわれて、なにものかを植え込む生体実験を受けている。人類の1%というのは多すぎる感じだが、米国人の1%(250万人)という数字はあり得るようだ。この植え込みが事実であるとしても、その目的が何なのかそれは未だ分からない。



『UFO、ETの存在証明—―エリア51フィルムの謎』
 (竹本良+小川譲治)(KKベストセラーズ) 1998/7



<4タイプの宇宙人>
・1つのタイプは、完全な人間でした。人間そっくりなので、道ですれちがっても判別する方法はありません。他に3つのグループがあります。1つは灰色で比較的小柄で、3.5−4フィート、4.5フィートの人もいます。彼らを宇宙人と気づかずに道ですれ違っていることもありえます。次のグループは、爬虫類的な性質を持っています。軍や警官に間近に見られたグループは皮膚が爬虫類のようで、目の瞳には縦の切り口がありました。2本の腕と足、2つの目という点は人間そっくりですが、レストランや飛行機の隣に座ってショックを受けないことはありません。彼らは、人間ではないのですから。最後のグループは非常に背の高い白人で体毛はなく身長8、9フィートあります。巨体ですから道を歩いていると振り向いてしまいます。

<ETの多様性>
・私の30年間にわたる総合的な研究で、少なくとも12のグループと接しているかもしれないことを発見しました。1964年の時点で分っていた4グループだけではなく、数百グループの宇宙人と接しているかもしれないのです。我々は、他の惑星だけでなく、他の恒星や銀河系の人々の訪問をうけていると知りました。そして、我々の技術者および科学者は他次元からの先進的宇宙人と接していると知りました。この現実と可能性を受け入れることで、ニュートンやアインシュタインの物理学概念はくつがえされました。



『エイリアン・リポート』 
(ティモシー・グッド)(扶桑社)1996/1



<緑色のヒューマノイド>
・1980年4月、テキサス州ワェーコ付近で、ある牧場主が、出産を控えながら行方不明となっていた牛を探していると100メートルほど離れたメスキートの木々の間の開拓地で、背丈が1.2メートルほどの二人の“生物”と遭遇した。「彼らは、春のメスキートの葉のような緑色をした、体にぴったりの衣服を着ていた」その牧場主は、リンダ・ハウに言った。「両足もそれに覆われていた。手は卵形で、先が尖り、地面に垂れていた。二人は牛の両脇にいて、牛を連れて行こうとしていた。彼らは、そろって腕を前後に振っていたよ。両手も体と同じような緑色だった。全身緑一色だったよ」

・小人のような生物は太っても痩せてもおらず、ややたくましい体つきをしていたと牧場主は語った。鼻や髪の毛はなかった。突然、彼らが、同時にこちらを振り返ったので目尻が細くつり上がった目が見えた。「つり目」で「大きな黒いアーモンドのような目だった」という。「私は、彼らに見られているのが恐ろしかった。彼らに誘拐されたという話を新聞などで、読んだことがあったから、空飛ぶ円盤か何かに連れて行かれては大変だと思ったんだ!私は、大急ぎで丘を駆け下った・・・・」

<レティクル座ゼータ星>
・報告書は、“ザ・キッズ”のことを取り上げていた。これはおそらくエリア51のS―4にある宇宙船の少なくとも一機に乗っていた小人たちを指すのだろう。彼らの星はレティクル座ゼータ?の第4惑星、レティキュラム4だといわれている。(1988年のドキュメンタリー番組で、ファルコンもやはり、どの惑星から来たかについて言及していたが、彼は連星系の第三惑星だと述べていた)。レティクル座ゼータ星系を構成する二つの星は太陽(G2タイプ)に似ており、太陽系からおよそ37光年離れている。二つの星の間の距離は約5500億キロあり、共通する重心の中心点の周囲を回るのに10万年以上を要する。ゼータ1とザータ2は、地球以外にいる生命体を探す際の有力な候補地にあがっている。ともに地球に似た惑星系を持っているらしい。概況説明書には、人類はエイリアンによる定期的な遺伝子の“修正”の産物であると書かれていた。



『チベット第3の目の謎』 
(中岡俊哉)(二見書房)1994/4



<古代インドに伝わるもう一つの「死者の書」>
・「具舎論」と呼ばれる書物がそれである。本来は哲学として釈迦の教えをまとめあげたものだ。その中に「死者の書」と非常に似た「死後の世界」の描写があった。
内容は次のようになっている。
1、死と共に人間は肉体と肉体でないものに分れる。肉体と分かれた死者は人の眼には見えない身体を持つ。
2、見えない身体は“細身”と呼ばれ非常に細かいものからなる。そのために物質を通り抜けることができる。
3、五感の機能は保たれ、見たり、聞いたり思ったりすることができる。匂いをかぐことによって食事の代わりをすることも可能だ。
4、空を自由に移動でき遠い場所でも一瞬にして行くことができる。
5、やがて次の生を得て、この世に再び生まれる。生まれ変わるまでの期間は人によって異なり、生前の生き方が好ましくない者は長く死後の世界に留まる。
 このように具舎論には「チベットの死者の書」に相通じる死の面が記されていた。



『ユングは知っていた』
(コンノケンイチ)(徳間書店) 1998/10
(UFO・宇宙人・シンクロニシテイの実相!)



<「グレイ」は人間の無意識の中に入ってくる>
・人間誘拐を行って各種の実験をしている宇宙種族は、通称「グレイ」と呼ばれる宇宙人で、発進母星は、レチクル座ゼーター星系の惑星である。ひと口に「グレイ」と称しても「純正種」、「変性種」、「混血種」の三種類いる。

・宇宙船への人間の転送は、肉体の分子波動エネルギーに返還する方法がとられ、当人が存在する空間ごと、そっくり宇宙船に転送する。移動の際に体が壁や扉を通り抜ける感覚を経験するのはそのためである。野原のような広い場所で行うときは、無重力状態を空間に作り出す。そうすると糸のついた風船を引き寄せるように簡単に体を宇宙船へ導くことができる。宇宙船に運ばれた後は物質としての肉体に戻されるが、自分自身を傷つけない程度に体を麻痺状態にしておく。

<琴座こそ、銀河ファミリーにおける人間型生命体の発祥地>
・地球人のDNAの流れの基は琴座にあるが、琴座系グループはヒューマノイド(人間型生命)の創造を地球で行った最初の宇宙人である。琴座こそ、銀河ファミリーにおける人間型生命体の発祥地であり、人類の歴史にも琴座に関する神話が数多く残されている。

・現在のシリウス星人、オリオン星人、プレアデス星人、ベガ星人、ゼーター・レチクル星人を含む様々な宇宙人は琴座で発生した種族の子孫であり、銀河系ファミリーの中ではヒューマノイド型の肉体を有するようになった最初の知的生命体である。

・かって地球人の遺伝的ルーツである琴座文明と、真っ向から対立する文明へと発展したのが、ベガ星系の文明だった。この二つの文明では長い間にわたって紛争が続いた。ちなみに地球への最初の訪問者は、琴座星人とプレアデス星人だった。



『聖別された肉体』
(オカルト人種論とナチズム)
(横山茂雄)(風の薔薇)1990/10



<金髪白晢碧眼のアーリア=ゲルマン人種>
・『20世紀の神話』において、アーリア人種が世界史の舞台でこれまでいかに大きな役割を果たしてきたかを彼らが常に支配人種であったことを、ローゼンベルクは力説する。そして、金髪白晢碧眼のアーリア=ゲルマン人種とその北方的文化の絶対的優位性を証明するために彼が導入したのは、アトランティス北方説及びアトランティス本地説に他ならない。

・ローゼンベルクによればこれらアトランティス=アーリア人たちは「白鳥の船及び龍頭の船に乗って」地中海からアフリカへと渡り、また陸路を通って中央アジアを経て、中国へ、また南北アメリカへと大移動を行った。彼はまたヨーロッパから北アジア、アイルランドへといった移動経路も想定している。それらの移動の「証拠」として、ローゼンベルクはたとえば、古代エジプトの支配階級の風貌には、アーリア=アトランティス的要素(つまり金髪白晢碧眼)が見出せると主張し、一方、その被支配階級ハム人種は「アトランティス人と異人類の原始民族の混合的変種であると断定する。さらに楔形文字やその他の地球上の文字の起源が「アトランティスの(祭祀的)象徴に遡る」可能性までが暗示される。

・『人類の最盛期』(1930年)において、頂点に達するゴルスレーベンの奇怪な神秘主義の中核を成すのは、リストから引き継ぐルーン・オカルティズムであった。彼はルーン文字を手掛かりに太古の栄えあるアーリア文明を再構築しようと欲し、ルーンとは「神の息子たち、アーリア人種」の人種=人間霊と世界霊との本当の関係から生じたものであり、これらの文字は真の探求者をその宇宙的故郷へと連れ戻し、神との神秘的合一を授けてくれる、と主張した。したがって彼は、紋章からピラミッドにいたるありとあらゆる場所にルーンの痕跡を「発見」することになった。

・白色人種はアトランティスから発生したものであり、アトランティスとは、神人の住んでいた理想郷、「ドイツの伝説のアサ族の地に他ならない」と記して、アトランティス伝説を自分の妄想体系の一部に組み込んでいる。

・アトランティスと並んだゲルマン民族の始源を示すものとランツが考えたのは、ブラヴァツキーが第二根源人種ハイパーボーリア人の名前にも選んだギリシア神話で北国の彼方の極地の地に住む神聖な民とされるヒュペルボレオスである。かれは、ヒュペルボレオスとはゲルマン民族のことを意味するのだと断定した。



『オカルティズム事典』 
(アンドレ・ナタフ)(三交社)1998/7



<アガルタ、世界の中心=ナチとトゥーレ>
・<世界の中心>という考え方はギリシア文化、ヘブライ文化の中に見出される。それは、オカルティズムの中にも存在する。

・この「アガルタ」というチベット語は、「地球の中心にあり、<世界の王>が君臨する地中王国」という意味である。「地球の中心」は明らかに象徴的な場である。ギリシア人は大地の中心である「デルポイ」をいわばへそ(オンパロス)と呼んだ。大きな都市国家はすべて周辺空間を神聖化した。また、そうした都市国家をつくること自体、宗教的意味合いを持っていたから、それは「世界の中心」といわれたのである。中心がいくつか同時に存在したため問題を生じたが、これは政治的に解決された。

・<中心>という観念には興味をそそるものがある。というのも、その観念はミクロコスモスとマクロコスモスの照応を連想させるからだ。また哲学的にいうと、<普遍>と<個>との一致をも想起させる。<地球の中心>の観念はジュール・ヴェルヌが『地底旅行』で利用した神話とも暗に呼応している。しかし、中には、この神話をめぐって放埓な空想をほしいままにした者もいる。神秘主義者サン=ティーブ・ダルヴェードルは<アガルタ>という語をリバァイバァルさせた張本人だが、彼はそれに「霊的な親近性」を認めることで、自分のシナーキー運動を正当化させようとしたのである。探検家F・オッセンドフスキーの『獣、人間、神話』によれば、1922年、モンゴルで、アガルタに身を潜める<世界の王>の密使に出会ったという。『世界の王』という著作をものにした神秘主義者ルネ・ゲノンにいたって、ようやく放縦な空想からの誘惑に屈しなくなる。
 トゥーレのような<北方楽土>をめぐるシンボリスム(トゥーレはナチの御用学者ローゼンベルグ『二十世紀の神話』の中でゆがめられ、骨抜きにされている)が存在するが、それらはいずれもアガルタになぞらえることの可能な形象である。



『世界醜聞劇場』
コリン・ウィルソン ドナルド・シーマン
青土社   1993/7



<『霊能力の源泉「第三の目」のいんちき   L・ランパ』>
・1955年の某日、一人の男がロンドンのグレートラッセル街の出版社フレッド・ウォーバーグに面会を申し出た。剃髪姿の男はドクター・T・ロブサング・ランパと名乗り、自伝を書いたのでウォ−バーグ社から出版していただきたいと来意を述べた。自分は医師と言い、重慶大学(中国)が出したという英文の紹介状を差し出した。ウォーバーグは原稿を見ることに同意した。それは次のような魅力あふれる内容だった。裕福な両親の息子ランパは、7歳の時に占星学者に認められて僧籍に入り、僧院で修行した。

・ウォーバーグはいささか疑いを抱いた。原稿の内容は本物らしい。しかし、文章は英語で、しかも極めてくだけた調子だ。「凧をあげるなど考えてもいなかったぜ。馬鹿げた考えと思った。あぶない、これからの前途をこんなことでパーにするなんてやばい。そこでお祈りと薬草の道へ戻ったというわけ………」。これがチベット人が書いた英語?数人の専門家の意見を徴したが、結論はさまざま。ランパは自分はチベット人と言い張った。

そこでウォ−バーグはテストした。チベット語の単語をいくつか示し、分かるかと尋ねた。ランパは分からないと認めたが、それには立派な理由があると説明した。第2次世界大戦中、日本軍の捕虜になった。日本軍はチベットの情報を探るため、彼を拷問にかけた。ランパは霊能力を用い、チベットの記憶を自分の頭からすべて消去した。

・ウォーバーグは疑問をぐっと飲み込み、本の出版に踏み切った。結果は、彼の商売のセンスを充分に裏づけるものだった。本はベストセラーになり、ほかの国でも翻訳された。ランパは大金持ちになった。

・ここで「チベット学者」の一団が疑問を抱いた。クリフォード・バージェンスという私立探偵を雇い、ロブサング・ランパのことを調べさせた。その結果こんなことが判明した。「ランパは、現実にはシリル・ヘンリー・ホプキンズというデヴォン出身の男で、現在テムズ・ディットンに住んでいる。ホプキンズは1911年にプリマス近くのプリンプトンで生まれ、父親の水道工事の仕事に入った。彼は心霊現象に大いに興味をそそられたらしい。子供の時中国にいたと主張している。中国や中国の事物に異常な幻想を抱いているらしい。ウェーブリッジでの会社員時代を知っている夫婦者から『神霊通信』の編集者ジョン・ピットが聞いた話によると、ホプキンズは中国空軍の教官をしていた時、パラシュートが開かない事故を起こした。後にホプキンズは名をカール・クオン・スオと改め、クオン博士と自称し、チベットで生まれたと主張し始めた」

・しかし、以上のいかがわしい成り行きにもめげす、ランパは次の本『ラサの賢者』を書き、1959年にスーヴェニア社から出版した。「前著『第三の目』は社会に大きな反響をまき起こしたが、著者ランパ氏の説明では、頭部に打撃を受け軽度の脳震盪を起こして以来、氏はチベットのラマ僧ランパに『乗り移られ』、このラマ僧ランパが著者を通じて本書を執筆したとのことである」。

・『ラサの賢者』は、ランパの言うことならなんでも信じる読者が確実に存在することを示した。3冊目の本『ランパ物語』も自伝で前著の続きだった。ランパは日本軍の捕虜になるが、処刑の運命からロシア領内へなんとか脱走し、モスクワのルビアンカ刑務所に収容される。さらにここからも脱走し、ヨーロッパを経由してアメリカへ渡る。しかし、この本の絶対のハイライトは第7章である。ランパは肉体を離脱して星気圏へ上昇した。そこには旧師のラマ僧ミンギアル・ドンダップが待っていて、彼にこう告げた。「お前の現在の肉体はあまりに傷みがひどい。やがて死ぬだろう。我等はイングランドの地と接触を保っている。この人は肉体を離脱したがっている。我等はこの人を星気圏へ招き、状況についてよく話し合った。この人がはなはだ肉体を離脱したがっていること、それに我等が求めることならなんでもすると確約した……」。後にイングランドの地でランパはこのイングランド人の履歴をアーカーシャ記録で知ることができた。アーカーシャ記録とは、かつて起きたことすべての「心霊精気体」に刻された記録である。その上でランパはこのイングランド人のベッドルームへ星気体で赴き、この人の星気体と会話を交わし、肉体交換で両者に合意が成立した。

・肉体交換についてのランパの説明に、かなり多くの読者が納得したらしい。彼はその後も本を出し続ける。『古代人の洞窟』、『ラマと共に住みて』、『人は永遠』、『古代人の智恵』など。次の『金星訪問』では、空飛ぶ円盤で金星に着陸し、そこに暫時滞在し摩天楼の都市の中でアトランティスやレムリアの歴史を研究する。(後の宇宙探査船の調査により、金星は暑すぎていかなる形の生物も生存できないことが判明している)。

・ホプキンズは、寓話という逃げ道を用意することで、いかなる懐疑家も否定できない物語をでっち上げたらしい。

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)

(ロブサン・ランパ)
ロブサン・ランパ(Tuesday Lobsang Rampa、1910年4月8日 – 1981年1月25日)は、偽書『第三の眼』(The Third Eye)の著者として知られる人物。本名はシリル・ヘンリー・ホプキンズ(Cyril Henry Hoskin)で、後述する様に生粋のイギリス人である。

(判明した正体)
しかし『第三の眼』の刊行直後から専門的なチベット研究家から記述内容に疑問が呈された上に彼の経歴についても疑いが生じ、私立探偵クリフォード・バージェスによってランパの来歴が調査された。その結果は、ランパ自身が語っていたのとは著しくかけ離れたものであった。

ランパことホプキンズは、プリマス近郊に水道工事業者の息子に生まれ家業を継いでいた。心霊現象やオカルト特にチベットや中国の神秘思想に深い関心を抱いていたが、中国やチベットを訪問していないばかりかイギリスを出国したことすらなかった。だが、ホプキンスはカール・クアン・スオ博士を自称して心霊現象の著作や小説を書き、彼方此方の出版社に売り込んでいた。

この事実が暴露されると、ランパ=ホプキンスは「脳震盪を起こした際にラマ僧のロブサン・ランパが自分に乗り移って書いたものだ」と弁解、続編として『ラサの賢者』『ランパ物語』などを上梓するものの、あごひげを生やして剃髪したラマ僧姿の写真を公開したところ専門の研究者から「ラマ僧がひげを生やすことはありえない」などの厳しい指摘を受け、薮蛇となった。ただ、超心理学的現象のなかには、憑依現象がいくつも見うけられ、ロブサン・ランパにチベットの僧が乗り移ったのではないかという説もある。実際楽屋裏が公開されてからも支持はそれほど失ってはいない。その後アイルランドからカナダへ移住し、1973年にカナダへ帰化。同地で没した。



『チベット上空の円盤』
(ロブサン・ランパ)(宇宙友好協会)1959



<50万年前の神々の故郷>
・私達が、見た広い平野はさしわたしおそらく5マイルもあるだろう。その光景はあまりにも不思議なので、これを書いている現在さえも、ともすると信じられなくなりそうな気がして、書くのを躊躇するくらいである。

・その平野はさしわたし約5マイルあり、遠くの端には上方に伸びた巨大な氷の壁があったが、それはちょうど天に届きそうなガラスの薄板に似ていた。しかし、もっと不思議な物が他にもあった。平野の中には荒廃した都市があり、しかも完全な建物もあるのだ。なかにはほとんど新しく見える建物も残っていた。近くの広い庭には金属製の巨大な建造物があったが、それを見ると私達の都市で使用する皿を二枚積み重ねた状態が思い浮かんできた。明らかに一種の乗り物だった。

・ここは50万年前に神々の故郷だったのだ。かって、ここに住んでいた人々は少なくとも身長が20フィートもあったにちがいないということだった。あらゆるものが大きなスケールのもとに作られているのだ。私は以前にポタラの秘密の地下室で見た大きな人体を思い出さずにはいられなかった。



『プレアデス / プレヤール人とのコンタクト記録』 
ビリーE・A・マイヤー    水瓶座時代出版  2010/10/1



<セムヤーセとカルタグの上空で>
・あ、あそこに都市が見えます。このモニターでご覧なさい。

・上空から一発の爆弾が落下してきます。あれがまもなく都市を破壊します。

・でも都市の住人にとっては、それほど危険なことではありません。というのは、彼らは全員すでに地中深い安全都市に避難しているからです。

・カルタグは地球から80億光年離れており、その世界に住む人間は互いに戦争をしている。

・彼らは、原子力利用の時代の末期に生きており、今まさに核戦争をしているのだ。

・非常に地球に似ていて、地球人とほぼ同等の発達を遂げた人間の生命体が生息する世界も存在する。

・そのような世界はアラトム銀河系のネブ系に見られ、その世界はカルタグと呼ばれている。

<世界制覇を狙うギゼーの知的生命体が非常に邪悪な犯罪を準備している。>
・つまり希望すれば、地球外の知的生命体によって宇宙船に乗せられ、より良く美しい別の惑星に運ばれ、そこで、自由な快適な生活を送ることになると言うのです。

・この集会に興味を持って集まった人々は、いわゆる宇宙飛行の準備のためのキャンプにすぐにでも参加できると言われたのです。宇宙飛行の困難を克服するための準備のみならず、言葉巧みに信じ込ませた別のより良い惑星での新しい生活に必要な知識を身に付け、また新しい生活に適応できるようにするため、というのがその名目でした。

・この移住計画に参加する条件は、地球上の全所有財産を売却するか、もしくは何らかの方法で譲渡すること、そして子供は一緒に連れて行けないということだけです。

・遺憾ながら、この邪悪な企てには予想以上の希望者が現れました。

・関心を抱いた多数の人々が勧誘者の呼び声にいそいそと従い、キャンプでそれから起こると称するものを心待ちにしているのです。

・巧みに考え抜かれた、この犯罪的な企ての結末は、私たちは、火を見るよりも明らかです。惑わされた者を待ち受ける将来の見通しとしては、次の通りいろいろに考えられます。

1、 この企み全体が宗教、つまり新しい教派主義の体裁で偽装されているため、すべての希望者は本当の正体を見極めることなく、騙されて邪道に導かれる。

2、 弱者や無能者は、次第に選別されて殺される。

3、 能力があるとみなされた人々の一部は、地球上で「作業ロボット」としてギゼー知的生命体の利益のために奴隷のように働くことを強制される。ギゼー知的生命体は地球の事物をいろいろ必要としているが、自分たちが働いて手に入れようとはしない。

4、 能力があると見なされた人々の別の一部は拉致され、地球外で奴隷として奉仕することになる。

5、 また別の一部の人々は新しい教派組織を設立し、地球上で宗教の形を借りてギゼー知的生命体の計画のために働く。

以上の五点をギゼー知的生命体は策謀し、実行しようとするのです。

・でもこの企てを実在している地球人は、この事実を知りません。なぜなら、彼らは、自分の内部に植え付けられた狂気のうちに生きているからです。

・しかし、いまギゼー知的生命体は私たちが、この件に乗り出したのを知ったため、自分たちの企てが挫折しないように新しい道を探しています。

・それでも、惑わされた者が全員殺される危険はあります。なぜなら、世界制覇を目論む者たちにとって、地球人の生命など全く意味がないからです。

・私たちは、ギゼー自身を相手にして、その企てを妨害します。

<ワルドポートの1975年の10月の事件>
・アメリカのオレゴン州の漁村ワルドポートからわずか数日のうちに20人が跡形もなく消えた。彼ら全員が「宇宙から来た」夫婦の呼びかけに応じたものだという。その夫婦は彼らに「別の惑星でのより良い生活」を約束したのだ。FBI(米連邦捜査局)は集団詐欺と大量殺人の嫌疑を抱いている。



『宇宙人についてのマジメな話』
(平野威馬雄)(平安書店)   1974年



<母船内部の円盤発着場から降り立ち、廊下へ出ると、再び地上に降りたのではないかと錯覚するほどであった。それは渋谷か新宿の大通りの観を呈していた>
<CBA(宇宙友好協会)>
・CBAの元祖、松村雄亮という人の世にもフシギな足取り。

<直接コンタクトが始まる(1958年)>
・そこで、二人は野毛の「ヨテアモ」という喫茶店で相対して会った。北欧系のある種の神秘をたたえた美しい顔からは、終始、微笑が絶えなかったー年の頃は、21、2歳であろうかーワンピースの上は首からさげた直径5センチほどの装飾品が絶えず7色に光り輝いていた。

・ここで、彼女は、自分は最近日本へ配属された宇宙人であること、現在横浜に3人、東京に4人の宇宙人が来ていること、キャップは東京にいることなど打ち明け、あなたは東京のキャップに会うようになるだろうといった。

・左肩をポンと叩かれた。振り返ってみると品のよい外国の紳士が立っていたという。一目見ただけで、ああこの人は宇宙人だ・・・と分かった。これは私にとっては新しい経験だった。見ず知らずの一人の人間を一目で宇宙人とわかる・・・これもやはりテレパシーの一種だったらしい。
さて、宇宙人は松村を近くの喫茶店に連れて行った・・・17日に桜木町である美しい女性に言われたことが早くも実現したのだ。この人が、日本における宇宙人のキャップだった。

・直径30メートル位の円盤の乗員は12名で、一人だけが日本語を上手に話した。他は、皆英語しか話せなかった。

・母船内部の円盤発着場から降り立ち、廊下へ出ると、再び地上に降りたのではないかと錯覚するほどであった。それは渋谷か新宿の大通りの観を呈していた。ただ歩いているのが外人ばかりで、すれちがっても誰も振り返ろうともしない。

・三々五々、散歩するごとく、また用事ありげに通行しているのである。この大通りは母船の中央を貫き、長さ2000メートルはあると思われる。

・これで、日本におけるただ二人だけしかいない、コンタクティーの素描を終える。ダニエル・フライやベサラムやアダムスキーやその他の多くの外国のコンタクティーの話を信じない人は、この日本の二人の話も信じないだろう。信じる信じないは、どうでもいい、ただこういう体験をしたと、物語った二人が日本で今、健在だということだけを記せばいい。



『宇宙の彼方より』 (金星人ダイアンの言葉)
(ダナ・ハワード)(宇宙友好協会)1960



<テレポーテイション(遠隔移動)>
・地球の子よ、このテレポーテイション(遠隔移動)は遠隔移動によって、私達が遊星から遊星へと旅することができるからです。長い世紀の間、私達金星人はテレポーテイションの能力を手に入れたのです。テレポーテイションの意味は、一つの点から発して他の点へ、想念のスピードで再び現れる能力のことです。精神と物体との間に完全に平衡がとれた交換があるところでは、固体をテレポーテイションすることは可能です。宇宙の中心、実相に触った完全論者だけが、テレポーテイションができますし又されます。何世紀もの間、少数の地球人は、この天国の機械学の技を教えられました。神秘的な出現や消失の多くの例、痕跡も残さないで全文明さえ消失した例が記録されています。



『 UFO革命』
(横尾忠則)(晶文社)1979/3



<「母船で連れて行かれた太陽系外惑星」>
・(横尾) その母船はどれくらいの大きさですか?

(安井) これはものすごく大きく、何メートルなんてものじゃなく、葉巻型になっていて、長い方が50マイルぐらいだとチュェレイは言っていました。ということは、岡山県の幅ぐらいはあるのでしょうね。とにかく想像を絶する巨大な母船なんですね。

(横尾) アダムスキーもそういうことを書いていますね。その中のデザインはどうなっているんですか?

(安井) 母船の中を小型円盤がピューピュー飛んでいて、全体が街のようになっているんです。

・(安井) どこから灯りが出ているのかさっぱりわからないんですが、とにかく昼間の太陽光線と同じなんです。

・(安井) この母船の中で、時々、地球の各国の人が招待されていろいろな話をすることがありますが、その内容については、詳しいことは公表できないことになっているんです。ただ彼らは、原則として地球には干渉してはいけないことになっているのです。



『聖杯の守護者』  復活した古代ケルトの聖石
 (グラハム・フィリップ&マーティン・キーツマン)
(中央アート出版社) 2006/10/10



<超自然の知性>
<続く3年間、ジョン・エーヴィスとスージーは不思議な夢を見始める>
・催眠下でジョン・エーヴィスは不思議な異星人の乗物に乗せられ、継ぎ目のない銀色のスーツを着る、長身の乗組員に医学検査を受けたと主張した。スージーは、催眠にかからずして、自発的に同じ経験を思い出した。

アンディーは事例を調査しているうちに、UFOアブダクションと超常現象とのつながりを確信するようになった。一家の超常体験には鮮烈な夢と未来予知が含まれていた。これから起こる霊戦で重要な役割を果たす一団がまもなく集められるという。

・1976年の夏、当時9歳だった娘のゲイナーが、農道で自転車を乗り回していたときに、決して忘れられないものを目撃したという。彼女は、左方の原野に銀色の物体が光るのを見た。自転車を降り、茂み越しに覗くと巨大な楕円形の物体が静かに原野に止まっていた。謎めいた乗物は直径約10メートル、陽光の下で銀色に光っていた。一枚織の銀色の服とヘルメットに自らを固めるヒューマノイド(男女)が、物体の陰から現れ、原野から土壌を採取した。

・女が空を見上げた瞬間にゲイナーは逃げた。自転車をつかみ、急いで帰宅する途中、一機のUFOが空に舞い上がり空に一つだけ浮かぶ雲に消えるのを見た。
マーチンはこの不思議なUFO目撃を調べていた。遭遇以前からゲイナーには霊能力があった。人のオーラを見、テレパシー能力もあった。だがもっと不可思議なのは、1976年にUFOを体験してから乗員との接触を保っているとの主張だ。このような経緯から、母のマリオン・サンダーランドもUFOに関心を深めるようになった。
ゲイナーの目撃に続く歳月に、5人の子供全員が超常現象を目撃したと言いだした。





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