バチカンは私の見るところ、「ゲイ」が支配する組織である。(1) | |
[森羅万象] | |
2020年6月9日 5時10分の記事 | |
『ソドム』 バチカン教皇庁最大の秘密 フレデリック・マルテル 河出書房新社 2020/4/22 <バチカンは私の見るところ、「ゲイ」が支配する組織である。> ・教会は構造的に同性愛化する性質がある。性的虐待を個人的、制度的に隠蔽するシステムになっている……。本書を公にするのは教会のためだとかたく信じている。 私以前にこの重大なテーマを扱った者はいなかった。この半世紀で最も重大な秘密のひとつを明らかにすることは、これまで一度も試みられたことはなかった。 ・本書が50か国以上でかつてない反響を呼んだことは、本書の出版が時宜にかなっていたことを示している。『ソドム』はすでに、およそ20の言語で翻訳され、無数の記事や論争、コメントで取り上げられている。 ・いつのまにか、ソドムといえば「男色」ということにされてしまった。いずれにせよ、バチカンはソドムのようなところだというのだから、本書を読んだ世界数十か国の人々はびっくり仰天した。そうではないかと薄々気づいていた人はかなりの事情通だが、まさかここまでとは思っていなかったようだ。本書が世界に与えた衝撃は大きかった。 <スイス軍の法規> ・私が話をきいた弁護士たちによれば、結婚を禁じるだけでもスイスでは差別になるだけでなく、結婚を奨励し、それ以外の性的関係を禁じている教会の原則にも反している。 こうした法的な問題点について、この弁護士を通してスイス衛兵の責任者たちにドイツ語で質問してみたが、彼らの答えは意味深長である。彼らは差別であるとする考えを否定する。軍事的な理由から、いくつかのルールを課さざるをえないからである(しかしながら、新兵の年齢や身体的条件に関して、軍の特殊性を考慮して定められたスイス軍の法規にも違反している)同性愛については、彼らは書面で以下のように伝えてきた。「ゲイであることは募集においては問題とはならない。ただし、あまりに『オープンなゲイ』であったり、目立ちすぎたり、女性的すぎる場合は別である」。さらに、研修中に口頭で伝えられるルールや行動規範にも、差別や労働法に関して違反があるし、ハラスメントを受けても黙っていなければならないのは大きな問題である。 スイスやイタリアの法律、さらにEUの法律の観点からいって、法的に問題があるだけでなく、道徳的にも問題がある。バチカンというきわめて特殊な国家が勝手に特権を行使していることを、それは雄弁に物語っている。 <ゲイに対する十字軍> ・ヨハネ・パウロ2世がマルシアル・マシエルを守り、彼の側近の一部がスイス衛兵をナンパして色欲にふけっていたちょうど同じ時期に、バチカンは同性愛者に対する大きな戦いを開始した。 こうした戦いは新しいものでも何でもない、熱狂的な反ソドミーは中世から存在した。それでも、特別な性癖をもつと疑われる教皇は何十人もいる。ピオ12世とヨハネ23世もそのなかに含まれる――外では厳しく批判しながら内ではきわめて寛容というのがお定まりであった。教会は常に、聖職者の行動よりもその言葉においてホモフォビアであった。 ・しかしながら、同性愛をめぐるカトリシズムの公的な言説は、1970年代末に一段と厳しさを増した。教会は風俗革命に不意をつかれたが、自ら先手を打つこともなければ、それを理解しようともしなかった。パウロ6世は、この問題に理解がなく、1975年にはもう、有名な声明「ペルソナ・フマナ」で反撃し、それはダイナミックな回勅「フマナ・ヴィテ」に踏襲された。聖職者の独身制が確認され、貞潔に高い価値が与えられ、婚前交渉は禁じられ、同性愛はきっぱりと否定された。 ・ヨハネ・パウロ2世の在位期間(1978-2005)は、教義の点で、この一連の動きにおおむね沿ったものである。だが、しだいにホモフォビアの色を濃くする言説によってそれを悪化させるとともに、彼の取り巻きたちはゲイに対する新たな十字軍に乗り出した。 選出されたその年から、教皇は論争を硬直化させた。1979年10月5日、シカゴにおいて全米の司教向けにスピーチを行い、いわゆる「自然に反する」行為を罪とするよう促したのである。「憐れみに満ちた牧者として、あなたがこう言ったのは正しかった。『同性愛の行為は、同性愛の傾向とは異なり、道徳的によくないことです』と。この明らかなる道理により、あなたがたは、キリストの真の慈悲とはいかなるものかを示しました。同性愛ゆえに、耐えがたい道徳的問題に直面している人々を、あなたがたは裏切りませんでした。もし、思いやりと憐れみの名において、あるいはまったく別の理由から、あなたがたの兄弟や姉妹に誤った希望を与えていたら、あなたがたは彼らを裏切ることになったでしょう」 ヨハネ・パウロ2世はなぜ、これほど早い時期に、教会史上最もホモフォビアな教皇のひとりになる道を選んだのだろうか?ローマ在住の米国人バチカニスタ、ロバート・カール・ミケンズによると、そこにはおもにふたつの要因がある。 「彼は民主主義を経験したことのない教皇だった。だから、ひとりで決定を下した。彼の天才的な直感によって、また、同性愛に関するものも含め、ポーランドのカトリックがもっていた古くさい偏見によって。第二に、彼のモドゥス・オペランディ(仕事の流儀)、在位期間を通じての方針は、教会の統一だった。分裂した教会は弱い教会であると、彼は考えていた。教会の統一を守るために、徹底した厳格さを課した。そして、教皇不謬性の理論が最後の仕上げをした」 ・ヨハネ・パウロ2世が民主主義の文化に馴染みがなかったことは、クラクフでもローマでも、彼をよく知る人々によってたびたび指摘されている。彼が女嫌いのホモフォビアであったことも。しかしながら、側近に同性愛者がたくさんいるということには、非常に寛容だった。大臣やアシスタントのなかにも、実践的な同性愛者がたくさんいたから、教皇が彼らの生活様式や「傾向」を知らないはずがない。 ・私がクシシュトフ・ハラムサの話を初めてきいたのは、eメール、つまり彼自身を通してだった。彼が私と接触したのは、まだ教理省で働いていたときだった。ポーランド人司祭は私の本『グローバル・ゲイ』が好きだと書いており、カミングアウトしようとしており、秘密を守るという条件で私に話したのである。そのときはまだ、彼が主張するような有力な高位聖職者なのか、それともペテン師なのかわからなかったので、彼の経歴を確認するため、イタリア人の友人で『ラ・レプブリカ』の記者であるパスクアーレ・クアランタにきいてみた。 証言の正しさが確認されたことから、私はMgrハラムサと何度かe メールをやりとりし、数人のジャーナリストを推薦した。そして2015年10月、家庭に関する世界代表司教会議が始まる直前に、彼のカミングアウトがメディアに流れて紙面を賑わせるとともに、世界をかけめぐった。 それから数か月後、バルセロナでクシシュトフ・ハラムサと会った。バチカンを免職になって以来、彼はバルセロナで亡命生活を送っていた。 <ハラムサはバチカンのホモフォビアの戦う組織の中枢にいた> ・教理省は長いあいだ「検邪聖省」と呼ばれていた。嘆かわしい事例の数々で有名になった異端審問や、検閲本や発禁本のリストである禁書目録を担当していたが、この「検邪聖省」である。バチカンの「検邪聖省」は現在も、その名が示すように、教義を定め、善いことと悪いことを定義しつづけている。ヨハネ・パウロ2世のもとで国務省につぐ地位にあったこの戦略的司法機関は、ヨーゼフ・ラツィンガー枢機卿に率いられていた。同性愛に対する文書の大半を考えては公布し、教会における性的虐待の書類の大半を調べたのは、彼である。 クシシュトフ・ハラムサはその教理省で、国際神学委員会の顧問兼副書記として働いていた。 ・一般に、「異端審問の訴訟」(こんにちなら「教義の論点」と言うだろう)はそれぞれ、職員によって検証され、つぎに専門家や顧問たちによって議論され、さらにさらに枢機卿会議にかけられて承認を得る。 ・それは偽善に好都合な土壌でもある。現在、教理省の組織のなかにいる20人の枢機卿のうち、12人ほどがホモフィルないしは実践的同性愛者であると思われる。少なくともボーイフレンドと暮らし、3人はたびたび男娼を利用している。 従って教理省は、興味深い臨床例であり、バチカンの偽善の中心である。ハラムサの話をきいてみよう。「大半が同性愛の聖職者たちが、同性愛嫌悪を課している。それはつまり自己嫌悪であり、絶望したマゾヒストの行動と言ってよい」 クシシュトフ・ハラムサらの内部の証言によれば、同性愛の問題はラツィンガー長官のもとで、まさに病的な強迫観念となった。そこでは、旧約聖書のソドムのくだりが何度も読み直された。ダビデとヨナタンの関係がたえず解釈し直された。「肉にささった棘」をもつ苦しみを告白した新約聖書のパウロの文章も同様だった(パウロはそうして自らが同性愛であることをほのめかしているのかもしれない)。そして突然、この完全なる精神的孤独に恐怖をおぼえ、カトリシズムはそのような希望の光すらない存在を見放したのだと悟る。そのとき彼らは心のなかで泣き出しただろうか? ・教理省のゲイフォビアの有識者たちは、SWAG――Secretely We Are Gay【私たちは隠れゲイ】――という独自の暗号をもっている。彼らのあいだで、「イエスの愛した弟子」ヨハネ、「誰よりも愛されたヨハネ」、「イエスは彼を見て愛した」などと、夢のように美しい隠語を使いながら使徒ヨハネについて語るとき、自分たちが何を言おうとしているのかよく知っている。そして、百人隊長に「重んじられていた」若い部下をイエスが治癒した場面について語るとき、ルカによる福音書がほのめかすところに従えば、それが何を意味するか、彼らには一目瞭然であった。彼らは自分たちが呪われた種族――そして選ばれた種族――に属していることを知っている。 ・バチカンは、同性愛者が排除されることを正当化した(それによって聖職者のなり手が減少するとは思いもせずに)、軍隊から同性愛者が排除されることを正当化した(アメリカ合衆国が「質問するな、口外するな」の規則を停止する決定を下した)。同性愛者が仕事で差別を受ける可能性のあることを、神学的に正当化しようとした。当然ながら、同性間のパートナーシップや結婚は罪だった。 2000年7月8日にローマでワールド・ゲイ・プライドが行われた翌日、ヨハネ・パウロ2世はいつもの正午の祈りの最中に発言し、「よくご存じのデモ」を強く非難するとともに、「2000年の大聖年が侮辱されたことは痛恨の極み」であると述べた。だが、ローマの通りを行進した20万人のゲイ・フレンドリーな人々に比べて、その週末にバチカンを訪れた信者の数は少なかった。 ・カミングアウトで騒ぎを起こした、あるいはカミングアウトが遅すぎたとして、クシシュトフ・ハラムサはこんにち、教皇庁とイタリアのゲイ団体の双方から攻撃されている。内面化されたホモフォビアからドラマクイーンへと一足飛びに変身した高位聖職者は、人々を混乱させている。そのため教理省では、彼が辞任したのは思ったほど出世できなかったからだとささやかれている。彼が同性愛であることはとっくにわかっていたと、ある公式な情報源は指摘する。彼は何年も前からボーイフレンドと一緒に暮らしていたからである。 ・ここでわれわれは、バチカンの近年の歴史で最も暗い1ページに入っていく。たっぷり時間をとって語らなければならないが、これはそれほど驚愕すべき事例なのである。 アルフォンソ・ロペス・トルヒーリョとはどんな人物なのだろうか? この恥知らずな男は1935年、コロンビアのトリマ県にあるビヤエルモサに生まれた。25歳のときにボコタで司祭の叙階を受け、10年後に同じくボコタの代理司教となり、その後メデジンに赴任して、43歳でメデジン大司教に昇格した。良家に生まれ、金に不自由したことのない聖職者としては、よくあるコースである。 ・「当時、司教の大多数は保守派でした。しかしロペス・トルヒーリョはただの保守ではなく、極右でした。あからさまに、大資本と貧者を搾取する側に立っていました。教会の教義よりも資本主義を擁護したのです。彼には冷笑的な傾向がありました。プエブラのCELAM(ラテンアメリカ司教会議)総会で、ある枢機卿に平手打ちをくらわすことまでしたのです」 ・アルフォンソ・ロペス・トルヒーリョはたいそう献身的かつ熱意をもって、メデジン、ボコタ、そしてまもなくラテンアメリカ全域で、解放の神学の潮流を根こそぎにする仕事に取りかかった。『エコノミスト』誌の記者は、枢機卿の小さな赤い帽子はチェ・ゲバラのベレー帽の裏返しであると、皮肉を込めて書いている。 ・教皇のほうでも、1980年代から90年代にかけて、ラテンアメリカに右派と極右の司教を大量に任命する。 ・10年足らずのうちに、CELAMの司教の大半が右に寝返った。1990年代には、解放の神学の潮流は下火となり、アルゼンチンのホルン・ベルゴリオに体現される穏健な新しい潮流が姿を現すには、2007年にブラジルのアパレシーダで開かれる第5回CELAM総会まで待たなければならなかった。それはすなわち反ロペス・トルヒーリョ路線である。 ・「私は当時、メデジンで、ロペス・トルヒーリョ大司教と一緒に働いていた。彼は豪勢な暮らしをしており、外出するときは王というより、まさに『女王』のようだった。司教訪問のさいには、高級車で乗りつけ、赤絨毯を敷くように要求する。車から降りるときは、最初は片方の踝しか見せない。おもむろに片足を出してから、まるで英国女王でもあるかのように、絨毯を踏みしめるのだ。すべての者が彼の指輪に口づけせねばならず、彼の行くところどこでも、あたりに香をまかなければならなかった。こうした贅沢、ショー、香、絨毯に、私たちはただただ驚くばかりだった」 ・1980年代に、メデジンはまさしく世界的な犯罪都市となった。麻薬密売業者たち、とりわけ有名なパブロ・エスコバルのメデジン・カルテル――当時、米国向けのコカイン市場の80%を握っていたと見られている――が、町を支配していた。激しい暴力――麻薬戦争、ゲリラの勢力拡大、ライバルのカルテル同士の抗争が同時に起こっていた――に対して、コロンビア政府は非常事態を宣言した。だが、政府が無力なのは明らかであり、1991年だけで6千件以上の殺人がメデジンで発生している。 ・ロペス・トルヒーリョの人生はこうした時代背景のなかで考えなければならない。メデジン大司教について調べたジャーナリストたち――とりわけエルナンド・サラサール・パラシオが著書『ロペス・トルヒーリョ枢機卿の戦争』、グスタボ・サラサール・ピネダが『マフィアの腹心の告白』において――、そして、エマヌエル・ネイサが私のために同国で行った調査によると、この高位聖職者は麻薬密売業者に近いいくつかの民兵組織とつながっていた。そうしたグループから――おそらく熱心なカトリック信徒を自称するパブロ・エスコバルから直接――資金援助を受け、メデジンの教会における左派急進主義者の行動に関する情報を得ていたと見られる。 ・こんにち、ロペス・トルヒーリョは直接的であれ、間接的であれ、進歩派と共謀したとして排除された司教や数十人の司祭の死に責任があるとみなされている。 ・メデジン大司教の新たな生活がローマで始まった。コロンビアの極右に肩入れして成果をあげたのち、彼はいまや、風俗と家庭に対するヨハネ・パウロ2世の保守的な強硬路線に具体的な形を与えようとしていた。 ・家庭「省」のトップとなり、そこを「作戦本部室」としたロペス・トルヒーリョは、かつてないエネルギーを傾注して、堕落に有罪を宣告し、結婚を擁護し、同性愛を糾弾した。すべての証人によれば、極度の女嫌いであった彼は、ジャンダー・セオリーと戦おうとした。複数の情報源によれば「ワーカホリック」であり、世界中の数え切れないほどの論壇で発言しては、婚前交渉やゲイの権利を強く非難した。こうしたフォーラムで、「妊娠を妨害する」科学者たちは目盛りのついた試験管で犯罪を行っている、白衣を着たおぞましい医者たちは婚前の禁欲を説く代わりに避妊具の使用を勧めていると口を極めてののしったため、彼の名がしだいに知られるようになった。 そのころから世界中で猛威を振るうようになったエイズは、ロペス・トルヒーリョの新たな強迫観念となり、彼の頑迷さがそこで遺憾なく発揮された。「コンドームは解決策ではない」と彼は枢機卿の権威を振りかざしながら、アフリカで繰り返し述べている。それは「性的な雑居常態」を助長することにしかならず、貞潔と結婚こそが、エイズの大流行に対する真の解決策なのである。 アフリカやアジア、そしてもちろんラテン・アメリカと、彼は行く先々で、現地の政府や国連機関に、「嘘」に身を委ねないよう説いて回り、人々にコンドームを使わせないにようにした。 ・歴史はアルフォンソ・ロペス・トルヒーリョに厳しい判断を下すだろう。だがコンドームと戦った英雄はローマで、ヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世によって模範とされ、国務長官のアンジェロ・ソダーノ枢機卿とタルチジオ・ベルート枢機卿によって滑稽なほど称えられた。 ・「ロペス・トルヒーリョはマルクス主義と解放の神学に反対だった。そのことが彼を突き動かしていたのです」。 ・この物語は「ハッピーエンド」なくして完結しない。物語を本当のフィナーレへ導くために、もう一度メデジン、正確に言えばメデジン大司教館のある地区に話を戻そう。ロペス・トルヒーリョの元儀典長アルバロ・レオンは、私と調査員のエマヌエル・ネイサを、大聖堂を取り囲む露地へと案内した。メデジン中心部の新市街と呼ばれる地区である。 それにしても奇妙な地区である。ボリバル公園と50番街にはさまれた、55、56、57番街と呼ばれる通りに、カトリックの品々や僧服を売る数十軒の宗教関係の店と、派手な化粧をしてヒールの高い靴をはいたトランスセクシュアルが店先にたむろするゲイ・バーが、文字どおり対になって並んでいる。天上と異教のふたつの世界、まがいもののキリスト十字架像と安価なサウナ、聖職者と男娼が、コロンビアに特有のやや祝祭的な、なごやかな雰囲気のなかで同居している。フェルナンド・ボテロの彫刻に似たふくよかなトランスセクシュアルが、ひどくなれなれしい様子で寄ってくる。 彼女の周囲にいる男娼や女装家は、もっと弱々しく、もっとやせ細っている。フォークロアのイメージとはほど遠く、フェリー風で芸術的である。 それは貧困と搾取のシンボルである。 ・私たちはすぐ近くにある、聖職者と神学生が中心になって設立されたLGBTセンター、「メデジン・ディベルサ・コモ・ボス(あなたのように多様なメデジン)」を訪ねた。責任者のひとり、グロリア・ロンドーニョが私たちを出迎えた。 「ここは戦略的な場所です。メデジンのゲイ・ライフはすべて、大聖堂の周辺で営まれているからです。男娼、トランスセクシュアル、女装家は、非常に弱い人々です。彼らの権利について知らせることで、彼らを助けているのです。コンドームも配っています」。ロンドーニョは説明した。 センターをあとにした私たちは、57番通りで、ボーイフレンドを連れた司祭とすれ違った。彼らと顔見知りのアルバロ・レオンがそっと私に合図した。私たちはカトリック・ゲイ地区の探訪を続けた。55番街とも呼ばれるボリビア通りの美しい建物の前に来たところで、突然、足が止まった。アルバロ・レオンが2階のアパートを指さした。 「あそこですべてが起こった。ロペス・トルヒーリョはあそこに秘密の部屋をもっていて、神学生や若い男や男娼を連れ込んでいたのだ」 アルフォンソ・ロペス・トルヒーリョ枢機卿が同性愛であることは公然の秘密であり、数十人の証人がそのことを私に話ししていたし、何人かの枢機卿もそれを認めている。彼の辞書の見出し語を再び借りれば、彼の「汎セクシュアリズム」はメデジン、ボコダ、マドリードそしてローマでも有名だった。 ・ベネズエラ人の大学教授ラファエル・ルシアーニによると、アルフォンソ・ロペス・トルヒーリョの病的な同性愛は「ラテンアメリカ司教会上層部とCELAMの一部の責任者に知られていた」。さらに、何人かの司祭の連名で、ロペス・トルヒーリョの二重生活と性暴力に関する本が出版されようとしている。ロペス・トルヒーリョのアシスタントのひとりだった神学生のモルガンも、彼の勧誘員と愛人の名をいくつか教えてくれた。彼らの多くは、仕事ができなくなるのを恐れて、大司教の欲望を満たさざるをえなかったのである。 ・というのも、この「いかがわしい人物」の逸脱行為は、もちろん、コロンビアの国境でとまらなかったからだ。このシステムはローマでも存続し、ほどなくして世界各地に広まり、反ゲイの説教師にして金回りのいい客という輝かしいキャリアを築くことになった。 教皇庁のために、反コンドームの宣伝部長として絶えず旅をしながら、 ロペス・トルヒーリョは聖座の名による出張を利用して、少年を探した(少なくともふたりの教皇大使の証言による)。枢機卿は百か国以上訪れたが、お気に入りの旅行先はアジアだった。とりわけバンコクとマニラの性的魅力を発見してからは、たびたびアジアを訪れた。コロンビアやローマほど顔が知られていない世界の反対側へ何度も旅するあいだ、通りをうろつくのが好きな枢機卿はセミナーやミサをたびたび抜け出しては、「タクシー・ボーイ」や「マネー・ボーイ」探しにいそしんだ。 開かれた都市ローマがどうして出てこないのかと思うだろう。改めて言うが、ナルシシスティックな倒錯者たちは偽装生活をしており、ローマでは聖人に見せかけているのである。怪物マルシアル・マシエルと同様に、 ロペス・トルヒーリョも、信じられないほど巧妙に自分の生活を偽装していた――そのことは、バチカンではすべての者、あるいはほとんどすべての者が知っていた。 ・この物語を終えるにあたり、最後にもうひとつ、私がまだ答えることができずにいる問題、多くの人々の心にひっかかっているであろう問題がある。何でも金で買える、暴力行為もサドマゾ行為も金で買えると考えていたロペス・トルヒーリョは、コンドームなしの挿入を買ったのだろうか? 「公式にはロペス・トルヒーリョは糖尿病で死んだとされているが、エイズで死んだという根強い噂が繰り返し流れている」。ラテンアメリカのカトリック教会をよく知る第一線の専門家のひとりは言う。 ・ロペス・トルヒーリョがエイズで死んだかどうかはともかくとして、カトリックの聖職者がこの病気で死亡することは、決して珍しいことではない。バチカンとイタリア司教協議会で入手した10件ほどの証言によると、1980年代から90年代にかけて聖座とイタリア司教団ではエイズが猛威をふるっていた。これは長いあいだ伏せられていた秘密だ。 ・カトリック上層部でエイズにかかる人の割合が高いことは、カトリック司祭の死亡証明書をもとにアメリカで行われた統計調査によって裏づけられている。エイズウイルスによる死亡率は一般人の少なくとも4倍にのぼると、その研究は結論づけている。1990年代初頭に行われたローマの神学生65人の匿名検査にもとづく別の研究では、その38%がエイズ抗体陽性であることが判明した。 ・ヨハネ・パウロ2世は1978年から2005年まで教皇だった。エイズは1981年、彼の在位期間の初期に現れ、以後数十年にわたり、3500万人以上の人々を死に至らしめた。世界中で3700万人の人々が、HIVに感染しながらも生存している。 ・フレデリック・マルテルは、フランス在住の作家、ジャーナリスト、社会学者で、「オープンなゲイ」である。アメリカに長期間滞在した経験があり、アメリカ文化やLGBTに関する著書がある。 <そもそも日本では、欧米に比べてバチカンに関する情報が少ない> <同性愛という現象は人類の歴史でそれほど珍しいものではない> ・同性愛という現象は人類の歴史でそれほど珍しいものではない。とくに男性においては、年長者と年少者、師と弟子、保護する者と保護される者とのあいだで、同性愛的な関係が結ばれることがある。古代ギリシャと古代ローマの少年愛は有名だし、日本でも武士や僧侶の世界で同じような現象が見られた。多くの社会で、同性愛はおおっぴらとまではいかなくても、少なくともある程度は黙認されていた。しかしキリスト教ではいつのころからか、同性愛を「罪」とみなすようになった。教義と自らの性向のあいだでなんとか折り合いをつけようとした結果が、「ホモフィリア」という性行為にとらわれない関係、別の言葉で言えば禁欲的な同性愛なのである。 禁欲できない人はどうしたらよいのだろうか? その場合、同性愛は念入りに隠されていることになる。表向きは厳格な教義を説きながら、プライベートでは同性愛を実践している。これがいわゆる「二重生活」であり、それを支えているのが教会の「秘密を守る文化」なのだ。未成年者への性的虐待が長年隠されてきた背景にも、こうした秘密主義がある。異性愛も含めてすべてがオープンになれば、つまり聖職者の独身制を廃止し、同性愛者の存在が認められるようになれば、偽善的な「二重生活」を送る必要もないし、性犯罪が隠蔽されることもなくなるはずだ、と著者は主張する。 ・ヨーロッパ以外から初めて選ばれた教皇としてフランシスコがさっそうと登場したのは、2013年のことである。それまでに、バチカンの評判はさんざんなものになっていた。未成年者に対する性的虐待、金融スキャンダル、教義をめぐるかたくなな姿勢(妊娠中絶やコンドームの禁止など)、歯止めのきかないカトリック離れ………。信者でなくてもバチカンとカトリック教会はどうなってしまうのかと心配になるが、日本人にとってはしょせん対岸の火事である。キリスト教と縁のない日本では、フランシスコの改革もそれほど話題にならない。2019年秋に来日したとき私たちが最も注目したのは、核兵器の廃絶に向けて教皇がどんなメッセージを発するかであった。 『口語訳 遠野物語』 柳田国男 河出書房新社 2013/2/15 <4 笹原の山女(やまおんな)> ・山口村の吉兵衛という家の主人が、根子立という山へ笹刈りに行ったときのことです。刈り取った笹を束にして、「どっこいしょ」と立ち上がろうとしたところ、笹原が波だち妙に冷たい風が吹き渡ってきました。 男は、なにげなく風の吹いてくる林の奥のほうを見ておどろきました。赤児をおんぶした若い女が、笹原の上を素足のままこちらへやってきます。見れば、このうえなくあでやかな女で、笹原にとどくほどの長い黒髪をなびかせています。 ところが、赤児を結びつけている背中のひもは、どうも藤のつるのようです。身につけている着物は、よくある縞物ですが、すそのあたりはぼろぼろに破れ、そこへいろいろな木の葉をむぞうさにあてて縫いつけたものでした。 それにしても女の足は地面についているのでしょうか。笹原の上をまるですべるようにやってきます。吉兵衛は、これが現実のこととはとても思えません。ただ体をかたくし、ぼんやり見つめていました。女は、そんな男を別に気にするふうもなく、どんどん近づいてきました。が、あっという間にその前を通りすぎ、どこへとなく去ってしまいました。吉兵衛は(これが山女だ)と、はっきり思いました。 <山男や山女の容姿> ・『遠野物語』に出てくる山男や山女の容姿は、どちらも体はとても大きく、男は赤ら顔、女は色白の美人で長い黒髪であるとされています。35話にもあるように「中空を走るように」移動する特異な力を持っていると描かれています。 <寒戸の婆> ・黄昏どきになっても、家の外に出ている女や子どもが、神隠しにあって、どこかへ行ってしまう話は、よその郷と同じように遠野でもよくありました。 ある時、松崎村寒戸という所の民家で、若い娘が梨の木の下に草履をきちんと脱ぎ置いたまま、ふいっと行方知れずになったことがありました。 ところが、それから30年あまりたったある日、すっかり年を取り、よぼよぼになったその女が、梨の木のあるあの家をたずねて来ました。その家ではなにか寄合があって、親類や近所の人たちがおおぜい集まっていました。が、だれも、その老女を知りません。 「おめえさん、どこのだれだべ」と、一人がたずねると、 「おれ、こごの娘だ」と言うのです。 「今までどござ行ってらった……。どのようにして、帰って来た……」 と、みんなが、たたみかけると、白髪の女は言いました。 「なんとしても、家の人たちに会いたかったがらよ。でもよかった、みんなの顔見たがら。それでは、また、おれ行くから」 と、言ったかと思うと、老女はまた跡形もなくふっと消え去ってしまいました。 (神隠し) ・ある日突然、なんらかの理由で人が生活をしていた世界から消え去ってしまうことをいい、日本全国に時代を問わず存在する現象をさしています。異界へと失踪するというよりも、神によって異界に誘い込まれ、異界の住人になってしまうという話として流布されています。神隠しにあいやすい時間は、多くの場合、夕暮れ時で、「夕方、隠れんぼ鬼をして遊ぶと神隠しににあう」という俗信が伝承されるほどです。 (寒戸の婆) ・佐々木喜善の『東奥異聞』では、松崎村字登戸の茂助という家の話とされており、最近では、サダという娘の名前まで明らかになっています。山姥のようになった娘は、毎年やってきて、そのたびに暴風雨に見舞われ大きな被害を受けたということです。山からおりてくる道筋の家では、夜泣きしている子に向かって実際に、「いつでもうるさくしているど、モンスケ婆さま(茂助婆)くるぞ」と言っていたそうです。 <31 人さらい> ・遠野の里に住む人々の子女で、異人にさらわれていく人は、毎年多くありました。ことに女の人に多かったということです。 (人さらい) 異人にさらわれるという話は、『遠野物語拾遺』にも数多くあります。神隠し譚との関連や、他の地方の同じような話との共通性がいく度となく論じられています。 <34 離森の山女> ・白望(しらみ)の山続きに、離森(はなれもり)という所があります。その小字に長者屋敷という所がありますが、そこはまったくの無人の境です。 ところが、こんな人気のない、さびしい所へ行って炭を焼く人もいます。ある夜、その炭小屋の垂れこもをあげて、中をのぞきこんでいる者を見つけました。髪を長く二つに分けて、後ろへ垂らした女でした。 このあたりでは、深夜に女の叫び声を聞くことは、珍しくないということです。 <35 白望の山女> ・佐々木氏の祖父の弟が、白望山にきのこ採りに入って、泊まった夜のことです。深い谷をへだてた向こうの、大きな森林の前を、すうっと横切ったものがいました。長い黒髪をふり乱した女です。女はまるで、中空を飛んでいるように見えました。あっという間に、その女の姿は消えてしまいました。が、二声ばかり。 「待てじゃあ、待てじゃあ」と、耳の底に残りました。 <36 御犬の経立(ふつたち)> ・猿の経立(ふつたち)、御犬の経立はとてもおそろしいものです。御犬というのは狼のことです。 山口の村里に近い二ツ石山は岩山です。ある雨の日、小学校から帰る途中の子どもが、ふと、この山を見上げますと、ところどころの岩の上に、御犬がうずくまっていました。 子どもが小走りに去りかけますと、御犬は、首を下から押し上げるようにして、代わる代わる吠え始めました。 御犬は正面から見ますと、生まれたての馬の子ほどに大きく見えます。しかし、後ろから見ますと、意外に小さいそうです。 いずれ、御犬のうなる声ほどものすごく、おそろしいものはありません。 <44 猿の経立(ふつたち)(笛を好む)> ・六角牛山の棟続きに橋野という村があり、その上の山に金坑があります。この鉱山に使う木炭を焼いて、生計を立てている人たちの中に、笛のとても上手な人がおりました。ある日この人は、昼の間、小屋で休むことになりました。さっそく、あおむけに寝ころんだまま、大好きな笛を吹いていました。が、妙な気配がします。だれかが、小屋の入口にかけていた垂れこもをめくったようです。 おどろいて見ると、それは猿の経立でした。この人が、思わず起き上がり、坐りなおしますと、猿の経立は、ゆっくりと垂れこもを下ろし、向きを変えると小走りに立ち去って行きました。 <45 猿の経立(ふつたち))(女を好む)> ・猿の経立は人によく似て、女性を好み、里の女性を盗んで、さらって行くことがあります。経立は、松脂を毛にぬり、砂をその上につけているため、毛皮は鎧のようになっていて、鉄砲の弾もとおりません。 <46 鹿笛と猿の経立(ふつたち)> ・栃内村の林崎に、何某という50歳に近い男が住んでいます。 10年ほど前のことです。その男がひとりで、六角牛山へ鹿撃ちに行きました。用意してきたオキ(鹿笛)を吹きはじめたところ、なんと猿の経立がでてきました。鹿笛をほんとうの鹿だと思ったのでしょうか。すきまなく生えている地竹を、太い手で簡単に分けながら、大きな口をあけ、峰のほうから「ザザザ、ザザー」と、すごい勢いで下って来ました。 男は肝をつぶして、すぐに笛を止めました。経立も気づいたのでしょう。たちまち道をかえ、深い谷のほうへと走って行きました。 <47 六角牛の経立(ふつたち)> ・遠野では、子どもをおどすのに、「そんなに泣ぐど、六角牛の猴の経立くるぞ」ということばをよく使います。それほど、この山々には猿が多いのです。 六角牛山の麓、緒挊(おがせ)の滝を見に行きますと、崖の木の梢のあたりに、猿がたくさんいます。なかには、人の姿を見ると、逃げながら木の実などを投げつけて行くのがいます。 『男色の日本史』 なぜ世界有数の同性愛文化が栄えたのか ゲイリー・P・リューブ 作品社 2014/8/29 <このテーマについて世界で最も引用率の高い基本文献となっている> ・かつて日本には、古代ギリシャと並ぶ“男色文化"が栄えていた。平安の宮廷人たちが、密かにくり広げた夜伽。寺院での僧侶たちによる稚児との愛欲の生活。戦国武将たちに連れ添った、森蘭丸などの小姓たち。そして江戸時代に入ると、役者・若衆・女形たちによる売色が隆盛し、陰間茶屋では女性も交えた3人以上の男女が入り乱れて欲望のかぎりを尽くしていた。 本書は、初めて日本男色文化を“通史"としてまとめた「男色の日本史」あり、さらに世界の同性愛文化と比較しながら、なぜ日本には世界有数の同性愛文化が栄えたのかを分析した、世界初の「日本男色論」である。本書によって、日本の華麗なる男色文化が世界に知らしめられた。 <日本には、古代ギリシャと肩を並べる華麗なる同性愛文化が存在した> ・「かつて我が国日本の男性のほとんどが、同性との性的快楽を、当然のごとく欲していた。今では驚くべきその事実を、さまざまな史料を駆使して論証してみせたのが、本書である。〔……〕日本の男性同性愛史に関する、世界で初めての本格的にして包括的な研究書として、各界から高い評価を受けている。この著作によって、日本には、古代ギリシャと肩を並べる華麗なる同性愛文化が存在したことが、世界中に明らかにされたのだと言っても過言ではないだろう……」。 <なぜ日本には、古代ギリシャとならぶ同性愛文化が花開いたのか> <ほぼすべての男性が、同性愛の快楽に陶酔していた江戸社会> ・徳川時代(1603〜1868年)の日本社会を研究する者にとって、この二世紀半に渡って全盛期を迎えた、男性同性愛が、少なくとも都市においては非常にありふれた行為だったことは周知の事実である。男性間のセックスは、知識階層に広く容認されていただけでなく、大衆美術や文学では積極的に褒め称えられていた。同性愛行為は、武家屋敷・寺院・歌舞伎小屋とつながりのある男色小屋などで組織的に行われていた。実際、この行為は、文化の主流をなす特徴となっていたのである。 ・近代日本語においては、男性間のセックスに関連する語彙が非常に豊かなことを見れば、この行為に対して、社会がどれほど寛容だったかがわかる。豊富な一次史料、二次資料を読めば、いたるところで「男性間のエロス(男色)」をほぼめかす言葉に出会う――「若衆道」(多くは縮めて「若道」、あるいは「衆道」、「男道」、「美道」、「秘道」。これらはすべて、特定の慣習に従った男性間のセックスを婉曲に表現した言葉である。 こうした言葉が出てくるのは、あって当然と思われるような文献(性生活史、風俗史、売春の歴史、性愛版画集など)の中だけではない。地方史、美術史、大衆演劇研究、伝記、日記、法令、個人の遺書、医学論文、大衆文学、紀行文、滑稽文、川柳など、じつにさまざまな文献に登場する。この事実は、徳川時代の日本では、男性同性愛が例外的なものではなかったということを確証している。むしろこれは、社会生活の制度に組み込まれた、非常にはっきりとした中心的な要素だったのである。 ・古代ギリシャを研究する際に、同性愛の性質について議論せずには、その美学、エロス、詩、道徳、政治でさえも理解できないのと同じように、徳川時代を研究する際に、その時代における男性側の性関係の特殊な成り立ちを理解しなければ、社会と文化の多くの側面を把握することはできない。それにもかかわらず、また、日本におけるジェンダーとセクシュアリティの問題に取り組む研究者が増えているにもかかわらず、同性愛の伝統を本格的に研究した人は、これまでほとんどいなかった。 研究の対象として、ためらいがあるのは理解できる。近年になって「同性愛研究」という分野ができてはいるが、同性愛という主題は、日本においても、西洋においても、いまだに議論を呼ぶ問題であることに変わりはない。同性愛者ではない研究者も、同性愛の研究者とレッテルを貼られたくない研究者も、このテーマを避けるだろう。このテーマを持ち出しただけで、いまだに同性愛嫌悪の雰囲気のある学問の世界で、自分のセクシュアリティを疑われかねないと恐れるからである。その問題を別にしても、日本の題材は難しいことが多い。 <なぜこのテーマに取り組んだのか> ・私としても、この地雷原に足を踏み入れるのに、ためらいがなかったわけではない。私は徳川時代の日本を専門とする社会史の研究者として研究を続けてきたので、徳川時代の文献にあたることも、当時の性行動の特徴について何らかの結論を引き出すことも可能だった。とはいっても、これまでの研究では、別の時代、別の社会の歴史学者が出版した、膨大な量の同性愛についての文献を読まなくてはならないこともなかったし、心理学、人類学、社会学や文学の文献については言うまでもない。徳川時代の男性同性愛についての、世界で初めての徹底的な調査をするにあたって、私もこうした文献を読むようになった。しかしながら、私はまず第一に歴史家として日本史の研究者に向けて本書を著わしたのであって、性の歴史の権威として書いているのではない。 ・この研究を思い立ったのは、江戸の町における使用人、商店の奉公人、日雇い労働者といったテーマの博士論文の調査をしているときである。そのときには、性行動についてよりも、初期の資本主義の方に関心を持っていた。しかし、階級間の関係、中でも江戸の町特有の雇用主と使用人の関係を研究していると、とくに武家屋敷などで雇用主と使用人間の性的関係に関する記述に何度も遭遇し、さまざまな情報を目にして強い印象を受けることになった。たとえば、18世紀中頃の江戸には、男色茶屋が並ぶ町が少なくとも14あり、その時代の男性同性愛に関係する文献は600近くもあることがわかった。さらに、15人の徳川将軍のうち、少なくとも7人は男性同性愛の関係があり、それが詳しく記述されていることも分かった。 ・読み進むにつれ、男性同性愛行動は、江戸の社会でありふれていただけではなく、標準的なことだったと確信するようになった。文献の中では、少なくとも都市の男性は、たいてい他の男性との性的関係に向かう傾向があり、そのような関係は広く受け入れられていたと表現されている。とくに文学では、少年や女形役者に対する男性の情熱を率直に認めている。江戸社会のほとんどの男性に、女性に対する性的興味がなかったと言うつもりはない。むしろ、結婚も含めた異性愛関係は男性間の性行動と両立できるもので、補完するものだとさえ見なされていたらしい。中には、もっぱら男性だけという関係も見うけられるが、江戸社会では両性傾向が普通の状態だったようだ。 ・このような仮説は、まったく新しいものではなかったが、研究題材として取り上げるだけの価値はある。その結果、執筆されたのが本書である。私の議論は、ほとんど男性同性愛に限られている。それでもこのテーマ自体を、性の社会構造という幅広いテーマから切り離すことはできないし、だからこそ全般的な女性の性的経験からも切り離すことはできない。そういうわけで、徳川時代の女性同性愛にも触れることになるが、この主題はまた別の研究テーマとなるにふさわしいと考えている。 ・第1章では、日本の考え方や慣行に影響を与えた古代中国の男性同性愛の最も古い記述を考察し、古代および中世の仏教寺院と武士の男性同性愛慣行の出現について述べる。このような慣行は、僧侶と武士の社会に女性がいなかったという理由が主として挙げられる。 第2章では、徳川幕府の確立と共に起こった大きな社会変化が、男色茶屋や歌舞伎小屋を中心とする町人独特の新しい男性同性愛文化の出現に、いかに寄与したかを論じる。男性同性愛の大衆化は、徳川時代初期の江戸に女性が少なかったことも一因だが、都市の性別人口の均衡がとれるようになってからも根強く残っていた。 第3章では、男性同性愛慣行の特徴を挙げ、男性同性愛だけだった男性たちが存在した形跡もあるにはあるが、両性愛者の方が一般的だったことを述べる。また、男性同士の関係における階級や身分、年齢などの役割について考察する。 第4章では、社会全体が寛容なのに、なぜ男性同性愛に対して相反する感情が存在したのかに注目しながら、それに対する一般的な態度を検証する。ここで、法律や幕府の公文書に映し出された支配階級の考え方も考察する。 男性同性愛の慣行、女性の地位、両性具有に魅了される徳川時代、そして異性間の恋愛、これらの関係については、第5章で検証する。そこでは、日本と他国での男性同性愛慣行の比較も行なう。 終章では、私の主張を手短に述べ、日本近代の開国に伴う男性同性愛の衰退について考察する。 <同性愛嫌悪の雰囲気> ・数年前に、あるアイヴィー・リーグの大学で開かれたパーティで、徳川時代の男色についての本を書いていると何気なく口にしたことがある。すると1週間もたたないうちにある同僚から電話がかかってきて「破廉恥」呼ばわりされた、その同僚は、パーティに出席していた有名な日本の学者から私の発言を聞いたとたんに、「でも、彼は結婚しているのに!」と叫んだそうだ。80年代半ば頃には、私が「徳川時代の同性愛に関する本を書くべきだ」と言ったときに、別の同僚が「そんなことをしたらキャリアはおしまいだ」と答えたことがある。 <男色と日本の社会・文化構造> ・このような本を書いていると、性行動の歴史を論じるには、伝統的な英語の語彙では不十分だと絶えず思い知らされる。かろうじて1世紀ほど存在する「同性愛」という言葉自体も、そもそもは、最初は自分と同じ性別の人間に性的欲望を示すようになるという心理的状態を表わす言葉だった。しかし歴史的にさまざまな状況で、異性愛性交を好んだり喜んだりする男性も、他の男性とのセックスに興味を向けていた。それは儀式のため(古代オリエントの宗教的な男性売春)であったり、女性がいないため(17世紀のカリブの海賊たちの間で行なわれた)であったり、(これといった同性愛嫌悪の文化がない中で)ただ単に男性間のセックスが肉体的に可能で、ひょっとすると快楽的だったからでもある。同じ動機が今日にも存在する。 ・このような状況での「同性愛」の根底にあるのは、必ずしも一つではない性的欲望の形である。一部の社会では、オーラルセックスやアナルセックスのような特別な行為をしたいという望みや、特別な年齢や民族、体つきの相手とセックスしたいという男性の望みは、相手の性別と同じくらいに重要かもしれない。だからこそ歴史学者は、男性同性愛を歴史と無関係な心理的状態としてではなく、行動、すなわち異なる文脈にあればまったく違う性的欲望を意味するかもしれない一連の行為としてとらえなくてはならない。 ジークムント・フロイトは、「性衝動」や本能を、性的対象とは無関係の力だと考えた。近代の男性同性愛(性対象倒錯)の形を、文化的に固有の言葉(男性の母親に対する幼少期の固着に続いて起きる母親との自己同一化と自己愛)で説明しようとした。それでも彼は、「すべての男性は同性愛的な対象を選ぶ可能性がある」と記してもいる。男性間のセックスは、古代(ヨーロッパ)文化の中では、「重要な役割を果たす慣行だった」と述べこのテーマを歴史的な文脈において研究すれば、「病理学的特質」は、「人類学的特質とは切り離される」だろうと示唆した。つまり、ある文化で病気や異常とされるものは、他の文化の中ではそのような異常ではなく、それどころか支配的な文化によって生みだされ、奨励されてきたものかもしれないと示唆しているのである。そうはいっても、現代の「性対象倒錯」に対して、古代文化の中で同性愛が病気とは見なされていなかったことを引き合いに出して価値中立的な「人類学的」アプローチをしたわけではなく、フロイトとその弟子たちは、性対象倒錯は、治療されるべき心理的状態だと主張していた。 ・同性愛の欲望を病理学的なものと見なさなかったジャック・ラカンのような新フロイト派でさえ、エディプス・コンプレックスに言及することによって、同性愛を個人の成長における普遍的な段階だと考えた。しかし、フランスの反精神医学運動の理論家ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、エディプス・コンプレックス自体が、近代資本主義社会に特有なもので、その根底には家父長制度があると強調している。フロイトの時代以来、私たちは過去と現在の社会における同性愛行動について多くのことを学んできた。また、性的衝動は、社会やルールの変化に応じて変化するということをさらにはっきり理解するようにもなった。モーリス・ゴドリエが書いたように、「性意識が社会を悩ますのではなく、身体の性意識を悩ましているのが社会なのだ」。 ・もう一つ付け加えると、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによれば、「意識によって人生が決定されるのではなく、人生によって意識が決定される」のである。人間の「真の人生の過程」を研究すれば、「その人生の過程がその人の観念にどのように反映されていくかを実証することができる」。家族や階級、身分といった社会構造は性的感情を形作り、あらゆる階級社会で、性的感情と行動について、どんな態度と分析が表現され、奨励されるべきかを決定するのは支配階級である。だから、どんな時代の男性間セックスの研究でも、階級に縛られた社会構造、そして支配階級のイデオロギーが、どのように特別な形の性的欲求を奨励し、どのように性的行動に影響を与えたのかを調査しなくてはならない。対象となる過去の社会での同性愛行動の特殊な構造が持つ意味を説明し、デイヴィッド・ハルプリンが心理についての歴史的社会学と呼んだものの出現に貢献する必要がある。 <明治以後の日本社会と男色> <日本で古代ギリシャとならぶ男色文化が栄えた理由> ・日本における男色を研究するに当たっては、並外れて豊富な文献を参照することができた。古代ギリシャ・ローマの社会を除いては、男性同性愛 がこれほど詳しく記録されている社会はほとんどない。江戸の町人文化には、遊女を名士扱いしたり、廓と文化的洗練を結びつけたり、世界一精妙な性愛芸術を生み出すほど開放的な性愛観があった。第一次資料の豊富さは、単にそれを反映していただけではないかという議論もあるかもしれない。しかし、伝記に表われる情報や大衆文学の中で男色と女色を比較する際の論調は、徳川時代の日本では他の社会よりもずっと当然のように男性同性愛行動について語られてきたばかりではなく、その事実がずっとありふれていたことを強く示唆している。 ・どうしてこのようになったのだろう。さまざまな要素が結びついて男色の伝統を生み出し、その独特の慣習やタブーを作り上げた。このテーマを検討するために、中国との関係、宗教と哲学の動向、伝承、女性の地位、僧侶の禁欲生活、封建制度、主従関係、都市の人口動態といったばらばらの要素を考慮しなくてはならなかった。明らかに、男性同性愛行為の広がりと独特の役割構造を支え育てる日本特有の要素の混じり方があったのである。しかし、徳川時代の日本に男色が栄えた理由を思い切ってまとめるとすれば以下の三点を指摘しなくてはならない。 1. 支配階級(僧侶と武士)にあった男性間性行為の伝統は、江戸幕府の支配体制ができるはるか以前に確立されていた。 2. こうした初期の伝統は、僧院や戦陣に女性がいなかったことを反映する「状況に応じた」ものだったとは言え、徳川時代の慣習は、女性が(少ないこともあったが)存在した都市環境で発達したものである。 3. それまでの、支配階級の男性同性愛伝統は、町人が異性間の関係を保ちながらも男性同士のセックスを容認し、欲望し、体験する気持ちを助長した。 ・手短に言えば、男色は主に伴侶となる女性の欠乏を補うために生まれたが、ある時点でその文化が男性の欲望構造に大きな影響を持つようになり、その結果、必ずしも女性の欠乏がなくても存続し続けることになった。実際、それは徳川時代の各都市で、女性の遊郭が栄えるのと同じほどの繁栄をし続けたのである。徳川時代の男色は、概して、女色とのどちらかを選ぶというようなものではなく、両立可能だった。徳川時代には、ほとんどの男性の性意識は“両性愛”だったのである。 こうした性意識は、儒教思想と封建社会に特有の序列を反映する形で構築された。 ・これまで見てきたように、学者によっては、年齢に応じた役割を持つ同性愛を成人が少年に精液を与える古代の成人儀式に、ジェンダーの役割を模倣する同性愛を異性装のシャーマンの伝統に結びつけることもあった。最も古い日本の文献は男性間セックスについて何も語っていないが、上記の二つの慣習が先史時代の日本で融合し、仏教の禁欲生活が導入される以前の日本に残っていたということは考えられる。 日本語と古代文化は、東南アジアと北東アジアの要素の融合を示している。メラネシアから中国南部に至る東南アジアでは、年齢に応じた役割を持つ男性間関係が一般的だった。北東アジアでは、異性装のシャーマンの慣習が広がっていた。年齢の問題と異性装あるいは両性具有の役者に惹きつけられることとを同時に反映している点で、日本の男色はこうした古代の同性愛原型を融合させているように思える。 <本質主義と社会構築主義の論争> ・同性愛を歴史的な文脈で読み解こうとする学者の間で起きた論争の中で、最も中心的で実り多かった対立は、「本質主義者」対立「社会構築主義者」のものだった。本質主義者は同性愛者は常に存在したと主張し、他方は現代の同性愛文化は特定の社会変化の結果として現われたものだと主張している。この二つの見方はまったく両立しないものではない。最近の医学的・生物学的研究は、本質主義者の支持する仮説、つまり遺伝的あるいは生物学的要素が性的欲望の性質に影響を与える可能性にある程度の裏づけを与えている。それでも、たとえ究極的には生物学的原因が違いを生み出し、2パーセント、あるいは5パーセント、10パーセントの人が同性愛の携行を持って生まれてくるとしても、そうした人々がその欲望に基づいて行動する意欲と能力、またその表われ方は社会によってまったく異なる概念によって条件付けられるという圧倒的な証拠に直面するのである。さらにはまた、残りの90〜98パーセントの人間が、さまざまな社会において、視床下部神経の大きさやX染色体が運ぶ情報によっては説明のつかない理由で性欲を感じたり性行動をとったりするという事実も考慮する必要があるだろう。 ・こうした現実を理解するには、社会経済的要素を探らなくてはならない。最近多数の研究によって、デイヴィッド・ハルブリンが言ったように、「性的欲望は(社会的に)構築され、大量生産され、生きている人間の集団のさまざまな構成員の間に配分される」ことが証明されている。こうした欲望が時代につれて、なぜ、どのように変化するかを理解するには、「セクシュアリティ」(すべての人間に共通していて、生まれつき持っているが、文明によってさまざまに抑圧されてきたものとしての性)の歴史を作るのではなく、「心理についてのまったく新しい歴史的社会学を定義し洗練させなければならない」のである。 ・本書は、その歴史社会学に寄与するものである。私は工業化以前の日本における同性愛慣行のいくつか、とりわけ徳川期の町人による男色慣行を生み出した「社会関係の根本構造における大きな変化」を突き止めようと試みた。仏教の禁欲主義の広がり、とくに9世紀初めの天台宗と真言宗の広がり、封建主義と理想化された主従関係の高まり、そして、活気ある町人社会が、封建権力に服従して支配層の風俗を受け入れ、徳川時代の初めの頃から享楽主義を助長した。 いつの時代にも、理由はどうあれ男色の欲望を感じそれに基づいて行動する男たちがいた可能性を認めなくてはならない。文献に出てくる「女嫌い」への言及は、町人社会にもそういう人たちがいたことを明らかにしているし、女性を欲しようとしてもそれができない人がいたことも示している。だが、それよりはるかに多い男性が、快楽があり、都合よく、禁止されてもいないし不道徳と見なされてもいないうえ、当時の権力関係の性質から影響を受けていたからこそ男色を営んでいたのである。 <遺伝的あるいは生物学的要素が> ・同性愛男性19人、異性愛男性16人、異性愛女性6人の脳の解剖に基づいて、サイモン・ルヴェイは、性行動を始めとする本能的行動をつかさどる視床下部にあるニューロンのいくつかが、異性愛の男性のものは同性愛の男性の2倍の大きさがあることを突き止めた。ディーン・H・ハマーは44組の同性愛兄弟を研究し、そのうち33組の兄弟がX染色体の先端に同じ遺伝子を持っていることを発見した。少なくとも一部の同性愛男性では、遺伝子の影響による視床下部の縮小があるのではないかとハマーは示唆している。また、生育環境の異なる叔父/伯父やいとこも含めて、親戚に同性愛者がいる確率は同性愛の男性の方が異性愛の男性よりも3倍も大きいこともわかった。一方、リチャード・ビラードの研究では、同性愛の男性が同性愛の兄弟を持っている確率は異性愛の男性の5倍になることや、一卵性双生児は離れ離れに育てられても、よく似た性的指向を持つことが発見されている。 <明治以後における男色文化の変化と形象> ・現代日本は、ほとんどの西洋社会より同性愛恐怖が少ないと言ってもいいだろう。マンガから小説に至る現代大衆文学は、役割分担のある同性愛行為が男性にとってありふれた経験であるという前提を反映している。たとえば、大江健三郎の1964年の小説、『個人的な体験』では、ある男の女性の恋人は、「あなたは、弟の年齢の連中から好意をもたれるタイプだと思うんだけど、そういう男の子と一緒に寝たことはないの」とさりげなく尋ねる、彼女がこの問題を持ち出したのは、恋人の性格や行動に特異なものを感じたからではなく、アナルセックスをしたいので、以前にやったことがあるかどうかを知りたかったからに過ぎない。恋人の過去の同性愛体験の可能性を当然視した寛容な態度は、現代日本でさほど珍しいことではない。 しかし現代日本は、徳川時代の都市生活者のような両性愛の社会ではない。現代では、西鶴の登場人物である源五兵衛の言葉「男色、女色のへだてはなきもの」と同じことを言う日本人はほとんどいないだろう。日本で一般的な見方は、同性愛行為はノーマルではなく、そういう性向のある人は少なくとも親族や同僚にはたくみに自分の性向を隠すべきだというものである。ゲイを明らかにしている人々は決まって差別にあう。たとえば、あるゲイ・レズビアン団体のメンバーは東京都青少年センターの宿泊を拒否された。 男性間セックスへの態度は、過去百余年間でこのように劇的に変化した。その変化の原因は、主に日本が1859年以来世界システムの仲間入りをしたことにある。日本の支配層に、西洋国家の敬意を勝ち取り、不平等条約を覆すために、西洋の知識を吸収しなくてはならないという合意ができあがった。 ・そうした「知識」の中には、それまで知られていなかった「不合理さ」もあった。たとえば、陽物信仰の男根は恥ずべきもので破壊すべきであるとか、同性愛恐怖といった概念である。18世紀半ばに安藤昌益(1703〜1762年)は、同性愛への不寛容を含めてオランダの性習俗を好意的に迎える発言をした。蘭学者の森島中良(1756〜1809年)は、1787年に、オランダでは「人倫に背くをもって」男色が厳しく禁止され、「犯せし人」は火あぶり、「犯される少年」は海に沈められたと書いた。19世紀後半には、日本の支配層は同性愛(すでに男色という言葉ではない)は「自然に反する」という見解を持つようになり、中にはこれを犯罪とすべきだと主張する人もいた。進歩的な新聞、『萬朝方報』の編集者は、東京の学生に同性愛が蔓延していることを暴露し、1899年には英字週刊誌の『eastern World』が、「未来の法律家、役人、教師」たちが「獣のような」「自然に反する」「恥ずべき」「不潔な」慣行に染まることに反対する記事を載せた。その記事は、男性間の性行為は「文明化された国々では犯罪として罰せられる」と論じた。そして、日本の刑法に、男性同性愛行為に最長10年の重懲役刑を科すドイツ刑法175条のような条項を加えるべきだと主張した。 このように、日本の男色が衰退した大きな原因は西洋文化の影響だったのである。しかし、この衰退は同時に、男性同性愛を発達させた封建制度の崩壊を反映しているのも確かだ。ここまで見てきたように、日本では同性愛関係にある二人のどちらの役割も、さげすまれることがなかった。 ・確かに、徳川時代を思わせる「兄弟の契り」や指切りや暴力的な争いを伴い、役割構造を持つ同性愛という意味での男色は、明治時代の学校や軍隊で生き延び、栄えさえした。その時代には、「稚児」や「少年」という言葉は年長の学生の関心を惹きつける男子学生を指して使われていた。1901年に出版された東京の学校案内は、学習の助けと引き換えに男色関係をせまられることがあると警告し、作家の森鴎外は、1909年の小説『ヰタ・セクスアリス』で上級生から強姦されそうになった経験を書いている。 しかし、男色の世界はもはや、調査報道記者や道徳改革家によって、ときたま光を当てられるだけのひそかな地下世界になっていた。新渡戸稲造のような教育者は「同性的欲情」を原始的で暴力的な衝動だと見なし、精神を教化することによって根絶すべきものだとした。 ・男色は、急速に大衆文化の中央舞台から追われた。同性愛の欲望はもはや、文学や演劇、美術によって褒め称えられることはなくなった。むしろ、過去の「悪習」であり近代西洋の前では国家の恥であるとして反対された。「男色好き」は、奇妙な心理的障害を持つ「男性同性愛者」というドイツの概念に取って代わられた。徳川時代のように男性間の性的欲望を生み出しやすい環境ではなくなったのである。男性がこうした欲望を体験し、それに基づいて行動することがしづらくなった。ここに見られる性に関する態度と行動の変化は、同性愛は特定の社会的変化の結果として現われたものだとする社会構築仮説を、このうえなく説明している。 <あるゲイ・レズビアン団体の宿泊拒否> ・動くゲイとレズビアンレズビアンの会(アカー)は1991年にこの宿泊拒否に関連して東京都を訴えた。これは、センターに宿泊していたサッカーチームのメンバーによるゲイの若者への嫌がらせに端を発している。嫌がらせにあった被害者がセンター職員に苦情を申し立てると、センター側は団体の性的指向を問題にしてその後の使用を拒否した。 <世界初の日本男性同性愛史についての包括的な研究書 (松原國師)> ・著者のゲイリー・P・リュープは、ハワイ大学で文学修士、ミシガン大学で博士号を取得し、現在はマサチューセッツ州のタフツ大学で日本史の教授をつとめるアメリカ人の研究者である。専攻は、徳川時代における性(ジャンダー)、身分・階層、労働者の研究であり、ほかに仏教の世界史ならびに近代以前の西洋と仏教との文化交流の分野にも携わっている。 『職場のLGBT読本』 柳澤正和、村木直紀、後藤純一 実務教育出版 2015/7/22 <LGBTを知っていますか?> ・LGBTは、Lesbian(レズビアン)、 Gay(ゲイ)、Bisexual (バイセクシュアル)、transgender(トランスジェンダー)の頭文字をとった、性的マイノリティ(少数者)を表す総称です。 ・欧米ではアーティストからスポーツ選手、企業経営者や政治家に至るまでさまざまな職業の方が、カミングアウト(LGBTであることを公にする行為)をする例が増えています。みなさんもオリンピックで水泳の金メダルをとったイアン・ソープ選手や、アップルCEOのティム・クック、そして2015年にグラミー賞を獲得したサム・スミスなどのカミングアウトのニュースをご覧になられたかもしれません。 <日本でのLGBT事情は?> ・調査によると人口の5%〜7%強(電通総研2012年、2015年)はLGBTだといわれます。13人〜20人に1人です。日本の苗字で多い「佐藤」「鈴木」「高橋」「田中」さんは、合計600万人いるといわれますが、LGBTの推定人口はその数に匹敵する規模というわけです。 ・本書が、おそらく日本で初めての、「ビジネス書・人事」の欄に置かれるLGBTの本になると思います。 <LGBT人口はどれくらい?> ・性的少数者(性的マイノリティ)と言うぐらいですから、ストレートに比べたら少ないのでしょうが、実際にはどれくらいいるのでしょうか。人口の3%〜10%というデータを目にしたことがあるのかもしれませんが、これほどの幅が生まれるのはなぜなのでしょう。それは、LGBT人口の統計というのは、さまざまな意味で正確な数値を出すことが困難になっているからです。 ・アメリカではその後、何度も同性愛人口についての調査が行われてきました。最近の2003年の調査があり、性的に活発なアメリカ国民男性の4.9%が18歳以降に同性との性的行為を持ったことがあると回答しました。 ・イギリスでは、財務省などがシビル・ユニオン制定の影響を調べるため、2005年に行った調査によると、イギリスにいるレズビアン、ゲイの数は360万人で、国民の約6%が同性愛でした。 <古代ギリシアからルネサンス期> ・自然界にももともとたくさんあるように、人間界にも古来から同性愛はありました。よく知られているのは古代ギリシアです。プラトンは『饗宴』のなかで少年愛を美と結びつけて賛美しています。ポリス(都市)では、年長者が庇護者として少年を愛することが称揚され、それは少年を立派な市民に育て上げるという教育的な意味ももっていました。 ・しかし、キリスト教が誕生し、同性愛を退廃とみなす中世の暗黒時代へと入っていきます。聖書の「ソドムの市」の記述から同性愛は「ソドミー」と呼ばれ、火あぶりなどの刑が科せられることもありました。 ・『ホモセクシャルの世界史』を著した海野弘氏は同書で「キリスト教がホモフォビアを作ったのではなく、キリスト教が生んだ抗争がホモフォビアを助長したのかもしれない」と述べています。 ・ルネサンス期はネオプラトニズムの影響で同性愛に寛容なムードが広まる一方で、取り締まりも行われました。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロといった芸術家たちの同性愛は広く知られるところです。 イギリスでは、エリザベス朝時代のクリストファー・マーロウやシェイクスピア、17世紀のフィリップ1世(オルレアン公)、ジェームズ1世、ウィリアム3世の同性愛が有名です。18世紀には産業革命を背景に、今日のゲイバーの原型である「モリー・ハウス」が誕生し、庶民も同性愛や異性装を謳歌するようになったことが知られています。 <近代から現代> ・近代になると、家父長制と資本主義、ナショナリズムが結びつき、一夫一婦制が定着し、ジャーナリズムの発展とともに国家と大衆が同性愛者を非難・弾圧するようになり、ホモフォビア(同性愛嫌悪)が蔓延します。 ・19世紀末、オスカー・ワイルドが同性愛のかどで逮捕・投獄され、フランスではヴェルレーヌがランボーとの恋の終幕に拳銃を発砲し、逮捕されました。20世紀初頭には、ドイツで皇帝ヴィルヘルム2世の閣僚や側近が同性愛者として糾弾される一大スキャンダル、「オイレンブルク事件」が起こりました。第1次世界大戦の遠因ともなる、国家を揺るがすような事件でした。イギリスでは、経済学者のケインズ、作家のヴァージニア・ウルフやE・M・フォスターらの同性愛者・両性愛者が中心となったブルームズベリー・グループが活動し、パリではディアギレフやニジンスキー(ともに同性愛者)のバレエ団バレエ・リュスがセンセーションを巻き起こしました。 女性に目を向けると、「ロマンチックな友情」と呼ばれて称賛された女性同士の友愛が19世紀に頂点を迎え、経済的自立を果たした中産階級の女性たちは共に暮らしはじめます(アメリカ東海岸では「ボストンマリッジ」と呼ばれます)。1920年代にはニューヨークなどにレズビアンコミュニティが誕生します。 ・しかし、精神科医による同性愛者や異性装者というカテゴライズは、のちにそうした人々が異常だとか病気であると見なされることにもつながりました。そしてナチスは性科学研究所を破壊し、何万人もの同性愛者を収容所で虐殺……歴史上類を見ない悲劇が起こったのです。 ・第2次世界大戦が終わり、男女平等や公民権運動が進んでもなお、依然として同性愛は違法であり、第2次世界大戦の英雄であったアラン・チューリングが同性愛のかどで逮捕され、ホルモン治療を強制され、自殺に追い込まれるという悲劇も起こりました <LGBTの日本史> ・日本は欧米に比べ、LGBTに寛容な国だといわれてきましたが、おそらくその理由には、日本人が異性装、ことに女装が大好きだからということもあるでしょう。三橋順子氏は著書『女装と日本人』(講談社刊、2008年)において、ヤマトタケルの女装を端緒に、古代日本の女装した巫人(シャーマン)、王朝時代の稚児、中世の持者、江戸時代の陰間………と現代まで連綿と続く女装の系譜を検証しながら、日本文化の基層に「性を重ねた双性的な特性が、一般の男性や女性とは異なる特異なパワーの源泉になるという考え方=双性原理」があると述べています。 <「男色」大国だった日本> ・そのことも深く関係しますが、かつて日本は世界に冠たる「男色」大国でした。有史以来、日本の歩みは男色とともにあり、日本の歴史は男色文化に左右されながら、時にはそれが原動力となって動いてきました。 古代の豪族からはじまり、空海が唐から男色文化を持ち帰って以来、稚児を愛するライフスタイルが爆発的な広がりを見せ(稚児は「観世音菩薩の生まれかわり」として崇拝され、僧侶の間では男色は神聖な儀式でした)、僧侶から公家、貴族、そして武士にも伝播しました。室町時代には喝食(かつしき)と呼ばれる美少年がもてはやされ(足利義満と世阿弥が有名)、戦国時代には武将が小姓を寵愛し(織田信長と森蘭丸をはじめ、ほとんどの武将が小姓を抱えていました)、やがて「衆道」へと至ります。「衆道」は念者と若衆の愛と忠節によって成立する崇高な男の契りであり、ちょうど古代ギリシアのように、少年を庇護し、立派な武士に育て上げる(軍の団結を強化する)意味合いももっていました。 ・日本の男色は、政治をも大きく動かし、独自の文化を花咲かせ、日本的美意識とあいまって「宗道」と呼ばれる武士の人生哲学となり、江戸時代には若衆歌舞伎という一大娯楽産業(そして色子、陰間という売色のシステム)も誕生しました。この時代、色道の極みは男色と女色の二道を知ることだと言われ、陰間茶屋が栄えました。陰間の中には女形を目指して女装した者もいました。稚児などもそうですが、美少年はしばしば女装もしており、男色は現代とは異なり、疑似異性愛的なものでした。日本の男色史は女装史と不可分なものだったのです。 <明治以降〜現代> ・明治維新以後も「衆道」の名残りが薩摩藩などを中心に見られ、大正時代まで続きました。しかし、明治政府は、江戸以前の男色の文化を封建的な江戸の奇習、西南日本の悪習(それに影響された学生の悪習)、「文明」に対する「野蛮」として周縁化しました。富国強兵・殖産興業の国策の下、どんどん同性愛者は生きづらくなり、戦時中は「非国民」と呼ばれ、弾圧されました。 ・戦後、待ってましたとばかりに同性愛者や女装者が活動をはじめますが、三島由紀夫の「禁色」に描かれているように、まだアンダーグラウンドなものであり続け(歴史の教科書も男色を隠蔽し続け)、ほとんどの同性愛者は偽装結婚を余儀なくされました。それでも、女装したママのゲイバーやブルーボーイのショークラブ、二丁目のゲイバー街ができ、丸山明宏(美輪明宏)のようなタレントが登場し、ニューハーフやミスターレディがメディアを賑わせるようになり、というかたちで次第に世間に浸透していきました。(その後もカルーセル麻紀、おすぎとピーコ、ピーターらをはじめ、現在のマツコ・デラックスに至るまで、数多くのオネエタレントが活躍してきました)。 <同性愛の世界地図> ・西欧や北米、中南米、オセアニアでは同性婚または同性パートナー法が認められている国もありますが、中東やアフリカ、東欧では、まだ同性愛者を弾圧する国がたくさんあります。近年、この二極化が進みつつある一方で、日本をはじめとする東アジア・東南アジアでは、ひどい差別もないが保護する制度もない、という状況が続いています。 ・同性愛が違法となっている国(国外追放や終身刑、死刑などの極刑に処せられる可能性がある) イラン、サウジアラビア、イエメン、スーダン、ナイジェリア、モーリタニア、ソマリア。 <日本アイ・ビー・エム株式会社> ・1950年代には米国企業としてもいち早く、個人の尊重、機会の均等をコーポレートポリシーとして宣言し、すでに80年代にはLGBTにも注目し、差別禁止規定のなかに「性的指向」「性自認」という文言を入れています。ダイバーシティ施策の一環でLGBTへの特化ではなく、人種の違いや障がい、女性と同様に尊重するものでした。 マイノリティの従業員の定着、意識向上を考え、ロールモデルをいかに輩出していくか、平等な福利厚生、継続性、LGBT市場の開拓やブランディング、賛同してくれる仲間の企業をつくる、といったことに取り組んでいます。客観的な調査機関のサーベイ(調査)にも積極的に応じて、差別のない職場環境の整備と維持を心がけています。 <さまざまな企業の取り組みを知ろう> ・そこに風穴を開け、いち早くLGBTへの働きかけを行ったのが、今はなきリーマン・ブラザーズ証券でした。2004年に入社したヘイデン・マヤヤスさんが、社内でLBGLN(リーマン・ブラザーズ・ゲイ・アンド・レズビアン・ネットワーク)という当事者ネットワークを立ち上げ、LGBTの従業員同士で親交を深め、同性カップルの結婚を祝福したり、識者を招いて講演会を催したりしていました。そして「多様な人材を抱えることができれば顧客提案の幅も広がる」との考えから、2006年3月には早稲田大学など7大学のLGBTサークルに声をかけ、社内のLGBT支援システムをアピールし、優秀な人材の確保に乗り出しました(2008年以降、リーマン・ブラザーズ証券の取り組みは、野村證券へと受け継がれていきます)。 <ゴールドマン・サックス証券株式会社> ・ゴールドマン・サックスは、多くのLGBTが活躍している世界有数の金融機関です。イギリスでは「LGBTが働きやすい会社トップ100」の6位に選ばれています。 ・日本法人では2005年に社内LGBTネットワークが設立されました。 <野村証券株式会社> ・2008年9月にリーマン・ブラザーズ証券が破綻したあと、野村證券がリーマン・ブラザーズの欧州とアジア拠点の部門を継承した際に、ダイバーシティ&インクルージョンのコンセプトとともにLGBTネットワークが野村證券に引き継がれることになりました。 『世界を見る目が変わる50の事実』 ジェシカ・ウィリアムズ 草思社 2005/4/28 <70カ国以上で同性愛は違法、9カ国で死刑になる> ・同性愛が死刑の対象になる国が9カ国ある。モーリタニア、スーダン、アフガニスタン、パキスタン、チェチェン共和国、イラン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE),そしてイエメンである。 ・1979年のイランにおけるイスラム革命以来、4000人以上の同性愛者が処刑されたと推計されている。 ・世界で70カ国以上がレズビアン、ゲイ、同性愛者、あるいは性倒錯者を差別する法律を有している。 ・社会においては同性愛は「病気」として扱われ、ゲイやレズビアンは精神医療による「治療」を強いられてきた。 ・しかし、多くの国々で事態は変わりつつある。2003年6月、米最高裁判所は、同性カップルの性的行為を禁じるテキサス州法に違憲判決を下した。この判決は、テキサスだけでなく、他の13州における類似の法律を一挙に無効にすることになった。 ・さらに同性愛のカップルも異性愛のカップルと同じように子供を育て、家族の絆を持ち、結婚に関する判断を下すことができるとした。これらは米国憲法に保障された権利と確認したのである。 ・米国市民自由連合はこの判決を「LGBT(レズビアン、ゲイ、両性愛者、性倒錯者)にとって、これまでで最も有意義な判例」と呼んだ。 ・国際人権団体も同性愛を公言する人々の保護を求める働きかけで注目を集めており、おそらくはそれがまた保護手段になっているだろう。 『妖怪の理 妖怪の檻』 京極夏彦 角川書店 2007/9 <柳田國男の妖怪談義を巡って> ・現在、“妖怪”を語る時には必ずといっていい程引き合いに出されてしまう柳田國男も、最初から「妖怪」という言葉を使用していたわけではありません。 例えば、有名な『妖怪談義』(1956/修道社)に収録されている論文の中で一番古い「天狗の話」が書かれたのは明治42年(1909)のことなのですが(それは井上圓了が活躍していた時代です)、その中に「妖怪」の2文字を見出すことはできません。のみならず初期、中期の論文において柳田は、天狗は天狗と記し、大太法師は大太法師と記すだけです。柳田國男がそうしたモノの総称として「妖怪」という言葉を頻繁に使い始めるのは、大正も半ばを過ぎてからのことなのです。 ただ、柳田國男はその学問の創成期から民俗の諸層に立ち現れる“怪しいモノゴト”に深い興味を示してはいました。 柳田はまた、それを怪しいと感じる人間の心の在りようを研究することに学問的意義を見出してもいたようです。加えて、柳田が比較的早い時期に「妖怪」という言葉を“述語”として採用しようとしていたこともまた、事実ではあります。 ・そして柳田以外の民俗学者達が「妖怪」という言葉を術語として頻繁に使い出すのは柳田が昭和11年(1936)雑誌『日本評論』(日本評論社)に論文「妖怪談義」を発表して後のことと思われるのです。 ・また当時流行し始めていた心霊研究、さらには海外のスピリチュアリズムなども、柳田の視野には収まっていたはずです。 ならば、日本民俗学を学問として確固たるものにするために、そうしたある意味いかがわしさを含んだ学問と一線を画する必要が、柳田には確実にあったはずなのです。民俗の中の“怪しいモノゴト”を扱うにあたって、さらにはそれを“妖怪”と名づけるにあたって――「妖怪」という言葉を術語として使うために、柳田國男は、井上、江馬、藤澤、そして心霊科学、そのどれとも異なった道を模索せざるを得なかったのでしょう。 <『古今妖魅考』は平田篤胤が記した書物で、天狗に関する多くの記述がある> ・柳田が“妖怪”と“幽霊”を明確に区別したがったのは、過去(文献)だけを研究対象とした江馬のスタイルと決別するという主張の現れだったのではないでしょうか。それはまた、民俗学を近代的な学問――科学とするための一種の方便として捉えることも可能です。 <黎明期の民俗学を巡って> ・柳田は全国各地の習俗や言語など“民俗”に関わる事象をくまなく調査し(必ずしも自らが全国を巡ったわけではないのですが)、蒐集・蓄積した膨大なデータを様々な形で纏め、世に問うています。しかし、纏められた資料や論考を俯瞰した時、“性”と“差別”に関わる記述が驚く程に少ないということに気づくはずです。まったく触れられていないというわけではないのですが、それにしても扱われている情報は僅かで、扱い方も常に淡泊です。 これは、それらの情報が蒐集の網から漏れた故に生じた“不備”ではありません。 それはむしろ、意図的に“取捨選択”がなされた結果であるものと思われます。“性”や“差別”に関わる情報は、なにがしかの基準によって選り分けられ、隠蔽されてしまったようなのです。 但し、その選別作業がどの段階で行われたのかは定かではありません。 ・柳田の許に届く前、例えば蒐集の段階で捨てられてしまったという可能性も、もちろんあるでしょう。しかし、たとえそうであったのだとしても、何らかの基準なり指針を示したのが柳田であったことは想像に難くありません。 柳田は“夜這い”などの性に関する習俗や、取り上げること自体があからさまな差別の誘因となり得る事象などに対しては極力言及しない――という方針を持っていたようです。これは柳田個人の(そうしたものを好まない)性質・信条に因るものだという見方もあるようですが、それを踏まえた上での、一種の“戦略”であったと捉えられることも多いようです。 立ち上げ間もない民俗学を守るための――学問の一分野として成立させるための――それは学問的“戦略”だというのです。つまり民俗学が卑俗なものとして受け取られることを虞れたあまり、誤解を受けそうなテーマを緊急避難的に遠ざけた――ということになるのでしょうか。 ・ただ、柳田國男が意図的に「妖怪」なる言葉を民俗学用語として採用し、ある程度積極的に使用したことは明らかな事実ですし、その結果として現在私たちが知る“妖怪”という概念が形成されたことも事実でしょう。 ・性的習俗・差別的文化の取り扱い方が、柳田の学問的“戦略”であったのだとしても、また、単に柳田の個人的な嗜好の発露であったのだとしても、柳田がなにがしかの基準を以て蒐集した情報を取捨選択していた(あるいはさせていた)という事実に変わりはありません。 そうした事実がある以上、ここでまず問題にしなければいけないのは、その“基準”そのものでしょう。 それでは、その基準と果たしてどのようなものだったのかを考えてみましょう。 ・筆者はその基準を、取り敢えず“通俗性の有無”と要約することができるだろうと考えています。 通俗とは、“下品”であり“幼稚”であり“下劣”である――学問的でない――と言い換えることもできるでしょう。柳田國男は高名な学者であり、官僚でもあり、インテリゲンチャのホワイトカラーであり、現在でも、およそ通俗とはかけ離れた印象を以て受け入れられている人物です。柳田が通俗を厭うたというもの言いは、いかにももっともらしく聞こえることでしょう。しかし、それはあくまで“印象”に過ぎません。 ・風俗史学が“下品”で“幼稚”だなどと述べているわけではありません。前述のとおり、風俗史学は(民俗学とは以て非なるものではありますが)きちんとした理念や体系を持つ、れっきとした学問です。 ただ、明治期から昭和初期にかけて、風俗研究の名を借りた通俗的な言説が一種のブームとなっていたこともまた、紛れもない事実なのです。 ・もちろん、性であれ差別であれ、研究者は決して下世話な興味本位でそれらを俎上に並べたわけではありません。風俗史学の内部では、それらはいずれも学問的な研究対象として、真面目に取り扱われています。しかし、研究者がどれだけ真摯な姿勢でそれらと向き合っていようとも、そうした対象を扱うという行為自体が、好奇=通俗の視線に晒される要因となるのだとしたら――通俗化を回避することは難しいといわざるを得ません。 戦後のカストリ誌などで好んで扱われたネタの多く(猟奇趣味、犯罪心理、性愛記事、秘境探検記事など――)は、そうした“風俗研究ネタ”の直接的な焼き直しです。 ・風俗史学が「過去のモノゴトを現代に紹介する」学問だとするなら、民俗学は「過去を知ることで現代を知る」学問です。風俗史学が「特定の場所や時代を研究する」ことに終始するのに対し、民俗学は「古層を探ることで現在を理解する」ためになされる学問なのです。 実際、柳田以降もその二つは時に混同され、集合離散を繰り返すこととなります。 ・柳田が“性”や“差別”を禁じ手としたのは、そうした手本があったからなのでしょう。それが柳田の個人的な嗜好であったのだとしても、学問の卑俗化を防ぐための戦略であったのだとしても――柳田の視野に風俗研究が収められていたことは疑いのないことのように思えます。 ・柳田國男は、どういうわけか「妖怪」という言葉だけは捨て去ることをしませんでした。それどころか、柳田は晩年に至って「妖怪」という言葉に拘泥し始めるのです。先に挙げた基準が正しいものであるならば、「妖怪」は真っ先に捨てられていて然るべき言葉であったのでしょう。 <明治の雑誌をなどを巡って> ・明治30年代に入ると、圓了の著作以外の場でも「妖怪」という言葉が使用されるようになります。 ・明治政府は圓了以上に迷信や旧弊を弾圧しました。明治期には、まじないや因習を禁止した政府令がいくつも出されています。反体制という場所に立って眺めるならば、圓了も明治政府も同じことをしているように見えたはずです。 ・合理を前面に打ち出した圓了の場合、現象の背後には何もありません。「起こり得るか/起こり得ないか」の二者択一で、非合理なものは「起こらない」「ない」というのが圓了の立場です。 平井の場合は多少違っています。神霊(心霊とは微妙に違う概念です)の有効性を信じる者にとっては、すべての事象はなにがしかの「意志の結果」なのです。「起こり得ないこと」であっても「起こるべきこと」は「起こる」ということになるでしょう。 ・二人の違いとは、現象の背後にある“モノ”を想定しているかいないか、ということです。 平井の文中にそうした“超越者”に対する記述はいっさいありません。しかし、先に述べたように、平井が後に心霊研究の方面に手を伸ばす人物であることは事実です。平井金三にとって大切だったのは、「何が起きているか」「それは起こり得ることなのか」ではなく、「何故起きたのか」、あるいは「何が起こしたのか」だったのではないでしょうか。 健全な“妖怪”=“神仏”が「在る」のであれば、不健全な“妖怪”もまた「在る」ということになります。 ・天狗の話も河童の話も、フォークロアや寓話としてではなく「本当にあったこと」として語られているわけです。 現代に置き換えるなら「私は宇宙人に遭った」「自殺者の霊がトンネルに現れた」というのと同じ文脈で天狗や河童が語られているわけです。天狗も河童も実在するモノゴトとして、要するに“オカルト全般”として扱われているということ――即ち井上圓了の引いた枠組みの中で語られているということ――になるでしょう。 ・圓了の仕事によって、“妖怪”の名の下にそれまで乖離していたいくつかの事象が統合・整理されたことは間違いないでしょう。それは、後にオカルトなる便利な言葉が一般化したために、超能力やUFO、心霊現象やUMAなど、本来無関係であるはずのものごとがひと括りにされ、新たな体系が編まれた事情と酷似してもいます。 <郷土研究の社告を巡って> ・その当時「妖怪」という言葉は、通俗の場においてこそ“化け物”というニュアンスを帯びつつあったものの、学問の場において、また枠組みとしては(結果的に)圓了の独壇場だったといえるでしょう。しかし柳田は(たぶん敢えて)この枠組みから外れた使い方をしてみせます。 ・民俗学は(というよりも柳田國男は)もちろん近代的学問を目指しはしたのでしょうが、決して前近代を否定する立場をとっていたわけではありません。民俗学にとって前近代は否定するものでも肯定するものでもなく、近代を知るための“研究材料”だったのです。 ・たしかに圓了といえば迷信否定――今でいうならオカルト否定派の急先鋒です。心霊研究とはおよそ馴染まないように思えます。しかし、繰り返し述べている通り、圓了が厳しく糾弾したのは“前近代”なのです。 心霊科学という言葉からも判る通り、心霊研究は、“科学的”な発想をその根底に持っています。 <再び柳田と民俗学を巡って> ・明治末から柳田が抱えていた「山人」という大きな研究テーマ――『後狩詞記』(1909/自費出版)や『遠野物語』(1910/聚精堂)などを生み出す原動力ともなり、南方熊楠との、いわゆる「山人問答」を通じて明確化したテーマ――に、柳田はここで終止符を打ちます。そして研究対象を平地人=常民へと移して行くのです。 そうした様々な変遷の中、柳田は「妖怪」という言葉とは距離を置き続けます。と――いうよりも、柳田は、「妖怪」という言葉をまったくといっていい程使っていないのです。 ・昭和9年(1934)、柳田は現在もなお“妖怪”研究の基本文献のひとつとされる『一目小僧その他』(小山書店)を上梓します。 一つ目小僧、目一つ五郎、隠れ里、橋姫、ダイダラボッチと――論文中で扱われているのはいずれも(現在の感覚では)紛う方なき“妖怪”ばかりですが、やはり「妖怪」という言葉は一切使用されません。 ・金城は、最初に挙げた「マジムン」を「妖怪変化の総称」としています。続く「ユーリー」は、マジムンと同義であるとしながらも(那覇では)「人間の死霊」に限定する呼称であると述べています。 <様々なコトバを巡った後に> ・柳田は、“妖怪”に対する自らの指針を正当化するために、まず“幽霊”を“お化け”のカテゴリから切り離さなければならなかったのではないか――。 そのような観点から柳田の仕事を見直した時、“妖怪”と“幽霊”に関する柳田の定義も、かなり脆弱な論拠の上に成立している限定的な言説として捉え直されてしまいます。 柳田の定義は概ね次のように要約されて、広く人口に膾炙されてしま います。 ? 幽霊は人に憑くが妖怪は場所に出る。 ? 幽霊は深夜に出るが妖怪は薄暮に現れる。 この二点は“妖怪”と“幽霊”の決定的な差異として様々な場面で引用されています。 ・人に取り憑くモノは“幽霊”ばかりではありません。狸も狐も、鬼も天狗も河童も、わけの判らないモノだって人に憑きます。“憑き物”を外しても、個人につきまとう“幽霊”以外のモノはいます。一方で同じ場所に出続ける“幽霊”もたくさんいます。そうした“幽霊”は不特定多数に祟ることもあります。昨今の言葉でいうなら“地縛霊”ということになるでしょうか。柳田の定義を押し通すなら、“地縛霊”は“幽霊”ではなくなってしまいます。 また、出現時間に関しても同じことがいえるでしょう。深夜に訪れる恐ろしいモノが、すべて“幽霊”かといえば、そんなことはありません。夕暮れに目撃される“幽霊”も多くあるでしょう。それは今にかぎらず、過去にも多くあったのです。 定義から漏れるものは認めない、という態度もあるのでしょうが、そうするとかなり無理をして分類し直さなければならなくなります。 ・ただ、生涯を「妖怪学」に捧げた井上圓了と違い、柳田國男の“妖怪”研究は、その膨大な仕事のうちの、ほんの一部にしか過ぎません。しかし、割合としては少ないまでも、柳田にとって“妖怪”が一種「特別な」研究対象であったことは疑いようがありません。 『遠野物語拾遺 retold』 柳田國男 × 京極夏彦 角川学芸出版 2014/6/10 (171) この鍛冶屋の権蔵は川狩り巧者であった。夏になると本職の鍛冶仕事にはまるで身が入らなくなる。魚釣りに夢中になってしまうのである。 ある時。 権蔵は山の方の川に岩魚釣りに行った。編籠に一杯釣ったので切り上げ、権蔵は村に向かって山路を戻って来た。 村の入り口を示す塚のある辺りまで来ると、草叢の中に小坊主が立っている。はて誰だろうと思って見ると、小坊主はするすると大きくなって、雲を突く程に背の高い入道になった。権蔵は腰を抜かして家に逃げ帰ったという。 (87) 綾織村砂子沢の多左衛門どんの家には座敷童衆がいる。この座敷童衆は元お姫様である。これがいなくなったら家が貧乏になった。 (136) 遠野の豪家である村兵家の先祖は、貧しい人であった。ある時。その人が愛宕山下の鍋ヶ坂という処を通り掛かると、藪の中から、「背負って行け、背負って行け」と、叫ぶ声がする。 いったい何があるのかと立ち寄って見てみると、仏像が一体あるのであった。その人は言われる通りそれを背負って持ち帰り、愛宕山の上に祀った。それからその人は富貴を手に入れ、家はめきめきと栄えて、後裔は豪家となったのである。 (88) その遠野町の村兵の家には、御蔵ボッコというものがいた。籾殻などを散らしておくと、翌朝。そちこちに小さな児の足跡が残されているのを見ることが出来たという。後に、それはいなくなった。それから家運が少しずつ傾くようになったそうである。 (89) 砂子沢の沢田という家にも、御蔵ボッコがいたという。人の目に見えるものではなかったようだが、ある時姿を見ることがあった。赤塗りの手桶などを提げていたという。見えるようになったら、竈が左前になったそうである。 (90) 同じ綾織村の、字大久保にある沢某の家にも蔵ボッコがいた。時々、糸車を回す音などがしたという。 (91) 附馬牛村のいずれかの集落にある某の家のこととして伝わる話である。先代の当主の頃、その家に一人の六十六部がやって来て泊まった。 しかし、来たところは見ているが、出て行く姿を見た者がいない。 そういう噂である。それ以来その家が栄えたとかいう話は聞いていない。ただ、貧しかったということもないようである。 近頃になって、この家に幼い女児が顕れた。十になるかならぬかくらいの齢で、紅い振袖を着て、紅い扇子を持っていたという。女児は踊りを踊り乍らその家から出て来て、下窪という家に入った。 これも噂である。しかしそれ以降、このニ家はケェッチャになったと村の者は謂う。ケェッチャとはあべこべ、裏表というような意味であるから、貧富の差が逆転したというような意味なのだろう。 その下窪の家に近所の娘が急な用で行った折、神棚の下に座敷童衆が蹲っているのを見て吃驚し、逃げ戻って来たという話もある。 そういう話があるのだから、下窪の家は裕福になったということなのだろう。 (93) 遠野一日市にある作平という家は裕福である。しかし、元々暮らし向きが豊かだった訳ではない。この家には栄え始めた契機があると謂う。 ある時、土蔵に仕舞ってあった大釜が突然鳴り出した。家の者は勿論、近所の者も皆驚いて見に行ったそうである。音は止むどころか段々に強くなり、小一時間も鳴り続けたと謂う。 その日から家運が上昇した。作平の家では山名という面工を頼み、釜が鳴っているところの絵を描いて貰い、これを釜鳴神と称して祀ることにしたそうである。今から二十年くらい前のことである。 (94) 土淵村山口にある内川口某という家は、今から十年程前に瓦解した。家屋も一時空き家になっていた。寄り付く者もいないから、当然人気も全くない。しかし誰も住んでいない筈のその家の奥座敷に、夜になると幽かな火が燈る。そして、誰の声かはわからないが、低い声で経を誦むのが聞こえる。往来のすぐ近くの家であったので、耳にする者も多かった。近所の若い者などが聞き付け、またかと思って立ち寄ってみると、読経も止み、燈火も消えている。同じようなことは栃内和野の菊池家でも起こった。 菊池家も絶え、その後に空き家から経が聞こえたりしたそうである。 (92) 遠野新町にある大久保某の家の二階の床の間の前で、夜な夜な女が現れ髪を梳いているという評判が立った。 近所の両川某という人がそれを疑い、そんなことがあるものかと言って大久保家に乗り込み、夜を待った。 夜になると、噂通りに見知らぬ女が髪を梳いている。女はじろりと両川氏を見た。その顔が何とも言えず物凄かったのだと両川氏は語った。 明治になってからの話である。 (162) 佐々木喜善君の友人に田尻正一郎という人がいる。その田尻氏が、7,8歳くらいの頃。村の薬師神社の夜籠りの日だったそうである。 夜遅くに田尻少年は父親と一緒に畑中の細い道を通り、家路を急いでいた。すると、向こうから一人の男が歩いて来るのに出会した。シゲ草がすっかり取れていて、骨ばかりになった向笠を被った男であった。 一本道である。擦れ違うために田尻少年は足を止め、道を開けようとした。すると男は、少年が道を避けるより先に畑の中に片脚を踏み入れ、体を斜めにして道を譲ってくれた。 通り過ぎてから田尻少年は父に、今の人は誰だろうと尋いた。父は妙な顔をして誰も通った者はないと答えた。そして、「俺はお前が急に立ち止まるから、どうしたのかと思っていたところだが」と言ったという。 (163) 先年、土淵村の村内で葬式があった。その夜。権蔵という男が、村の者4,5人と連れ立って歩いていた。不幸のあった家まで念仏を唱えに行く途中のことである。突然、権蔵があっと叫んで道端を流れていた小川を飛び越えた。他の者は驚いて、いったいどうしたんだと尋ねた。 権蔵は、「今、俺は黒いものに突き飛ばされたんだ。俺を突き飛ばしたアレは、いったい誰なんだ」と答えた。他の者の眼には何も見えていなかったのである。 (137) つい、近頃の話だと謂う。ある夜。遠野町の某という男が、寺ばかりが連なっている町を歩いていた。墓地を通り抜けようとすると、向こうから不思議な女が歩いて来るのに出逢った。男が何故不思議と感じたのかはわからない。しかし近付いて能く見ると、それはつい先日死んだ、同じ町の者であった。 男は驚いて立ち止まった。死んだ女はつかつかと男に近づき、「これを持って行け」と言って汚い小袋を一つ、男に手渡した。恐る恐る受け取って見ると、何か小重たいものである。しかし、怖さは増すばかりであったから、男は袋を持ったまま一目散に家に逃げ帰った。 家に戻り、人心地付いてから袋を開けてみると、中には銀貨銅貨取り混ぜた多量の銭が入っていた。その金は幾ら使っても減らない。 貧乏人だった男が急に裕福になったのはそのお蔭だと噂されている。 これは、俗に幽霊金と謂い、昔からままあるものである。 一文でもいいから袋の中に銭を残しておくと、一夜のうちに元通りいっぱいになっているのである。 『遠野のザシキワラシとオシラサマ』 (佐々木喜善) (宝文館出版) 1988/4 <奥州のザシキワラシの話> <子供の時の記憶> ・私達は、幼少の時分、よく祖父母から炉辺話に、ザシキワラシの事を聞かせられたものである。そのザシキワラシとはどんなものかと言えば、赤顔垂髪(さげがみ)の、およそ5、6歳の子供で、土地の豪家や由緒のある旧家の奥座敷などに出るものだということであった。そのものがおるうちは家の富貴繁昌が続き、もしおらなくなると家運の傾く前兆だとも言われていたという。私達は、初めはその話を只の恐怖を持って聞いていたものであるけれども、齢がやや長けてくると、一般にこの種のものに対していだくような、いわゆる妖怪変化という心持ではなく、何かしらそのものの本来が私達の一生の運不運と関係があるので、畏敬の念さえ払うようになったのである。世間でもまたこの通りとか、何処の何某の家にそのものがおるといえば、他では羨望に表した、多少の畏服を感じ、また本元でも吉端として、ひそかに保護待遇に意を用い、決して他の妖異におけるがごとく、駆除の祈祷や退散の禁呪などは求めぬのである。 <●●インターネット情報から●●> <ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)から> 夜這い(よばい)とは、夜中に性交を目的に他人の寝ている場所を訪れる日本の風習。 語源は、男性が女性に呼びかけ、求婚すること(呼ばう)であると言われる。 古くは、759年に成立した『万葉集』巻12に「他国に よばひに行きて 大刀が緒も いまだ解かねば さ夜そ明けにける」と歌われており、大正時代まで農漁村中心に各地で行われていた習俗。戦後、高度成長期直前まで、各地の農漁村に残っているところがあった。明治維新の近代化や農漁村への電灯の普及などにより明治以降は衰退する傾向にあった。このため、明治、大正の頃まで盛んだったのは、山深い山間部の村落中心であった。 多くの場合男性が女性のもとへ通うものだが、女性が通う風習を持つ地域もあった。 婚、嫁、結婚などの字を古くは「よばふ」「よばひ」と呼んだ。これは「呼ぶ」の再活用形で「つまどい」「つままぎ」などの語と共に求婚のために男が女のもとに通うことを意味した。昔の婚姻は結婚後も男が女のもとに通うのが普通であり、このことも「よばい」と言われた[要出典]。 古代日本の夫婦関係は妻問い婚であり、男女はそれぞれに住んでいて妻の元へ夫が通ってゆく形態であった。結婚というのは、家族に隠れてこっそりと夜這いを行うのではなく、堂々と通えるようになることを意味した。そもそも各地の共同体(ムラ)においては一夫一婦制と言う概念も希薄で、重婚、夜這いは当たり前であった。 かつての農村では、「村の娘と後家は若衆のもの」という村落内の娘の共有意識を示す言葉が聞かれることがあった。近代化以前の農村には若者組があり、村落内における婚姻の規制や承認を行い、夜這いに関しても一定のルールを設けていた。ルールには未通女や人妻の取り扱いなどがあり、この辺りの細かい点は地域によって差がみられた。下川耿史によれば、夜這いが盛んになったのは南北朝時代から鎌倉時代にかけての中世であり、村落共同体の若者組は、風流と呼ばれる華やかな祭りのリーダーだったという。 江戸など都市部では、村落と違う形に発達していった。これが、夜這いの衰退に繋がったと考えられるとする見方がある。1876年(明治9年)、現在の新潟県(相川県)で、夜這いを禁止する法律ができた。1938年(昭和13年)に起きた津山事件について、大阪毎日新聞が「山奥にいまなお残されている非常にルーズな男女関係の因習」と報じ、サンデー毎日が「娯楽に恵まれない山村特有の『男女関係』」と報じるなど、夜這いは否定的に見られるようになっていった。 津山事件(つやまじけん)または津山三十人殺し(つやまさんじゅうにんごろし)は、1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件。犯人の姓名を取って都井睦雄事件ともいう。津山市など近隣地域では「加茂の三十人殺し」と呼ばれている(または死者の数に尾ひれがつき水増しされ「三十二人殺し」「三十三人殺し」また「三十六人殺し」とも呼ばれる事がある) 2時間足らずで28名が即死し、5名が重軽傷を負う(そのうち12時間後までに2名が死亡)という、犠牲者数がオウム真理教事件(27名)をも上回る日本の犯罪史上前代未聞の殺戮事件である。 事件は犯人の逮捕にはいたらず、現場から逃走した犯人の自殺で幕を閉じた。 津山事件は、そのセンセーショナルな事件の内容から、小説・ドラマ・ゲームなど多くの作品で扱われたり、題材・モデルとされている。 <『八つ墓村』 横溝正史、角川文庫、1971年 > ・冒頭部で語られる村人32人殺し事件は、本事件がモデルとなっている(小説は事件の後日談の形を取っており、本事件そのものが全体のモデルになっているわけではない。また、犯人の境遇はまったく違う設定である)。 <『丑三つの村』 西村望、毎日新聞社、1981年(徳間文庫、1984年 ISBN 4195675936)> 本事件を題材にしたノンフィクション小説。 1983年に監督・田中登、主演・古尾谷雅人で映画化された。封切り前に映倫が「全編が残虐で非道的」と判断、18歳未満の観覧を禁止する成人映画に指定された。 <「負の暗示」『神かくし』所収山岸凉子、秋田文庫、1998年 ISBN 4253172466 >本事件を漫画化した作品。 『八つ墓村』(やつはかむら)は、横溝正史の長編推理小説。「金田一耕助シリーズ」の一つ。 本作を原作とした映画が3本、テレビドラマが6作品、漫画が5作品、舞台が1作品ある(2014年3月現在)。9度の映像化は横溝作品の中で最多である(次いで『犬神家の一族』が映画3本、ドラマ5本)。 1977年の映画化の際、キャッチコピーとしてテレビCMなどで頻繁に流された「祟りじゃ〜っ! 八つ墓の祟りじゃ〜っ!」という登場人物のセリフは流行語にもなった。 花街(花町とも書く)(かがい、はなまち)とは、芸妓屋、遊女屋が集まっている区域を指す名称である。花柳(かりゅう)という別称もある。売春防止法(1957年施行)までは多くの花街に芸妓と娼妓の両方がいたが、今日花街と呼ばれている地域は芸妓遊びのできる店を中心に形成される区域である。なお、料理屋・待合茶屋・芸者屋(置屋)がまとめて「三業」と称されるため、花街のことを「三業地」ともいい、地域により茶屋と置屋で「二業地」と呼ぶ。 『文藝春秋』 平成27年3月特別号 『戦後70年の疲労 今こそ「第4の矢」が必要だ』 牛尾治朗 茂木友三郎 佐々木毅 <財界、官界、学界、労働界の有志が緊急提言> ・「日本アカデメイア」の92人が3年間討議を重ねた日本の未来。その議論が3人の提言となって結実した。 ・この国は、戦後の日本社会に対する必要以上の幻想、つまり「余剰幻想」から抜け出せずにいるように思えるのです。 少子化による人口減少、膨大な財政赤字、持続可能性が憂慮される社会保障制度――いずれも、ここまで事態が深刻化したのは、新しい時代にふさわしい思考に切り替えられなかった日本人の「余剰幻想」の産物にほかなりません。 ・少子高齢化によって、高度成長時代にデザインされた社会を大幅に見直さなければ、社会保障全体の維持が覚束ないことは、ずいぶん昔から明らかでした。すでに、社会保障給付額は14年には115兆円にまで膨らみ、25年には149兆円になるとされています。 <「人を説得する政治」へ> ・この政治不信の根底には、「大事なことを本音で語る政治家は少ない」という有権者の悲痛な叫びがある。 ・このままでは日本は壊れてしまう。そのことに国民は気付いています。従って一刻も早く民主制を作り変えなければなりません。「人を説得する政治」を実現して、シルバーデモクラシーからヤングデモクラシーへというように日本の新しい長期ビジョンを打ち立てなくてはならないのです。 <制度疲労を乗り越える「三つの提言」> <この難局を乗り切るため、2030年の日本の自画像を描く> <提言1 戦後の生き方・働き方はもう古い> ・日本の会社員は戦後70年もの間、一斉採用、終身雇用、そして定年制という、いわば20世紀型の仕組みのなかにあり続けて来ました。この画一的な働き方が制度疲労を起こし、日本人の幸福を奪っていると考え、これまで当たり前だと思ってきた「定年」という固定観念の見直しを提言します。 ・年金生活という言葉を死語にし、若い時代から最低70歳、75歳くらいまでは健康でいきいきと働く。そして、社会に対して死ぬまで価値を生み出し続けていく。私たちの提案は、働き方にとどまらず、日本人の生き方の幅を広げる提案でもあります。 <若者、女性が社会の主役に> ・人口減少の抜本的な対策は、直ちに各界が始めねばなりませんが、簡単に解決できる問題ではありません。 <提言2 情報革命で本気の歳出削減を> ・税と社会保障、そしてその先にある財政再建をどうやって成し遂げるかは喫緊の課題です。毎年、社会保障給付額が2兆円から3兆円増えるといわれる現状では、今のシステムは早晩、行き詰まることが目に見えています。今の水準を維持し続けることはもはやできません。 ・私たちは、その点を改善する前提として、税と社会保障の透明性を高めること、そのためにIT技術をフル活用することを提言します。日本の徴税システムはまだ抜け穴だらけといわれています。 ・実は、そのために有効な制度が動き出そうとしています。国民全員に税と社会保障の共通番号を割り当てるマイナンバー制度が16年1月から本格導入されるのです。 <ビッグデータ活用で生活者本位の医療を> ・さまざまなデータを電子化して蓄積すれば、ビッグデータの活用によって、さらなる歳出削減の可能性が広がります。 <提言3 政治の時間軸を立て直す> ・政党のガバナンスも根本から見直すべき時期に来ています。例えば、バラバラに規定された今の政党の姿を統一的な政党法制に置き換えることや、現在の政党助成制度の見直しも検討すべきです。 <霞ヶ関の整理を> ・その結果、総理大臣、官房長官とその周辺が内閣官房と内閣府の仕事に忙殺される事態となっています。内閣官房と内閣府には、ありとあらゆる業務が乱立しています。 ・内閣官房・内閣府の肥大化の問題に限らず、省庁の制度疲労は多くの官僚の指摘するところでもありました。機能不全に陥っている省庁については再々編も検討されてしかるべきです。 <「見えないもの」の価値を見直す> ・いま日本社会の「品位ある」存続可能性が問われています。国民の中に眠っている潜在力を最大限引き出す時期にきているのです。その意味で、国民の本当の意識の転換なしには、成し遂げられるものではありません。「パンとサーカス」にたとえられる民主政の根源的問題と向き合い、1人ひとりが受け身的な統治客体意識と決別しなければなりません。 <日本アカデメイア「長期ビジョン研究会 報告書」主な提言> <日本力> ・(目標)次世代の生き抜く力を高め、選択の自由を最大にする社会を。文化の特質を軸に総合力としての「日本力」を構想。 ? 70、75歳までいきいきと働ける多様な労働の場を拡大。年金受給開始年齢引き上げ。 ? 社会保障・税の抜本改革を行う。負担と給付のバランスを見直し、持続性を高める。 ? 基礎科学分野の人材育成を強化。産官学で科学技術力を結集して生産性を高める。 ? 農業を6次産業化・知識集約化し、食文化、食産業をグローバル展開。 ? 伝統的観光資源と先端的文化表現などの革新的観光資源を開拓し、海外に発信。 <国際問題> ・(目標)東アジア地域に「安定を提供する日本」。米国と協力、豪・印・アセアンと連携し、中国に呼びかけ、普遍的価値を共有する開かれた「多次元的国際秩序」をめざす。 ? 日本独自の柔軟な価値観外交を展開。価値観を押し付けるのではなく、民主主義や人権、法の支配等の普遍的価値を辛抱強く説く「ファシリテイター」を担う。 ? 国内外の歴史的資料のアーカイブを創設。中高等教育で近現代史の歴史教育を充実。 ? 課題先進国として医療・福祉・介護問題を解決したモデル国として貢献。 ? 対外発信を強化。政府に知的情報発信戦略の中心となる機関を設置。 ? IT技術を活用し日本語遠隔教育を無料提供。日本の放送コンテンツを世界に発信。 <価値創造経済モデルの構築> ・(目標)日本の経済社会に日常的なイノベーションを喚起・誘発する価値創造経済をつくる。その中核は個別企業の価値創造。 ? 資源や労働力などの制約、高齢化など社会的課題のある分野のイノベーションに挑む。 ? ロボット産業の国際競争力強化。サービス産業等広範な分野で活用し生産性向上。 ? 国際競争に打ち勝つ産官学の体制を整備。国際的に整合した知的財産権制度を確立。 ? 過当競争防止のため、競争に敗れた企業は退場し、経営資源を解放。 ? 誰でもイノベーションを起こす「ユビキタス・イノベーション社会」に企業風土を転換。 <社会構造> ・(目標)重層的な信頼社会の構築をめざす。各分野で担い手となる中核人材を育成。戦後の生き方・働き方を見直し、人口減少に立ち向かう。 ? 小中高の各段階で過疎地等で合宿型の長期共同生活学習を実現。 ? 大学は理系、文系などの2分法から脱却。意欲あるすべての大学生が外国に留学。 ? 生涯にわたって複数の学位取得が可能な社会人向け大学・大学院教育を充実。 ? 年間有給休暇100%取得、50%時間外割増賃金率など労働条件をグローバル化。 ? 地方で「準市民」を創設。一定の施策で「ふるさと投票制度」を検討。 <統治構造> ・(目標)政党政治の危機克服に向けて、合理的決定と主権者意識の確立を両立させるデモクラシーの構築をめざす。 ? 各庁設置法を廃止。閣外大臣制の導入。国会審議を計画化し党首討論を定期開催。 ? 衆議院選挙における惜敗率を廃止。定数是正自動化制を導入。 ? 参議院は憲法改正を視野に半数改選制廃止や法案採決儀要件の緩和等を検討。 ? 政党法制を検討。政党交付金の配分を得票比率中心に改め、政権交代基盤を安定化。 ? 18歳選挙権を早期実現。主権者としての政治教育を促進。立候補支援制充実。 『江戸の怪奇譚』 氏家幹人 講談社 2005/12 <神隠し> <美少年はさらわれやすい> ・もちろん江戸時代に子どもが拉致誘拐されたのは、飫肥藩のようなケースだけではありません。上野寛永寺で楽人を務める東儀右兵衛の六歳になる倅(せがれ)が突然姿を消したのは、文化11年(1814)の初午の日でした。とても賢い子で寵愛していただけに両親の心配はひとかたならず、鉦や太鼓を叩いて方々を捜し回りましたが、見つかりません。そんな折、八王子の「呼出し山」で祈願すれば神隠しになった者はきっと帰ってくると教えてくれる人があり、藁をもつかむ気持ちで右兵衛は「呼出し山」へ出かけ、わが子の名を呼びました。 ・倅は直ちにあらわれなかったものの、夜の夢に老翁があらわれ、何月何日に汝の家の近くで老僧か山伏に出会うだろうから、その者に尋ねてみよと告げられたとか、指定の日に老僧に会った右兵衛は、「ずいぶん別条なし」(心配ご無用)数日後の何日に戻ってくると言われ、はたしてその日、倅は無事に帰宅したということです。右は根岸鎮衛『耳嚢』(みみぶくろ)収録の一話。 ・大正15年(1926)に刊行された柳田國男『山の人生』に「八王子の近くにも呼ばはり山といふ山があって、時々迷子の親などが、登って呼び叫ぶ声を聴くといふ話もあった」と見える「呼ばはり山」と同じでしょうか。「呼出し」にしろ「呼ばはり」にしろ、注目すべきは、神隠しや迷い子を捜す”聖地”が成立していたという事実です。行方不明者捜索の聖地を必要するほど、神隠しの犠牲者が多かったのでしょう。 ・日常的な出来事だった子どもの神隠し。それは江戸時代にかぎらず明治以降も続きました。再び柳田國男の著述を引用すると。大正四年(1915)に『郷土研究』に掲載された「山男の家庭」という文章で、柳田は「加賀の金沢の按摩」が次のように話したと記しています。 「この土地も大きに開けました。十年ほど前迄は冬の夜更に町を歩いて、迷子の 〈 誰それと呼ぶ声と、これに伴なふ寂しい鉦の声を聞かぬ晩はありませなんだ」 明治の末、20世紀に入っても、金沢では冬の晩には必ずと言っていいほど迷子捜しの悲しげな声が聞こえたというのです。眼が不自由なぶん、聴覚が研ぎ澄まされた「按摩」の話だけに、なおさら信憑性に富んでいるではありませんか。 ・『山の人生』にはまた、「関東では一般に、まひ子の く 何松やいと繰返すのが普通であったが上方辺では「かやせ、もどせ」と、稍(やや)ゆるりとした悲しい声で唱へてあるいた」とか、鉦太古の叩き方はどこもほぼ同じで「コンコンチキチコンチキチの囃子」だったとも書かれています。迷子捜しは、関東と上方で呼び声が異なり、鉦や太鼓の囃子は全国ほぼ共通という意味でしょうか。迷子捜しの作法が固定化するほど、神隠しは日本人の生活に深く根ざしていました。そして「神隠しの被害は普通に人一代の記憶のうちに、3回か5回かは必ず聴く所」とも。それは民俗慣行のひとつと言えるほど身近な出来事でした。 <血を抜き、油を取る> ・日本全国ですくなくとも明治の末まで頻繁に起きていた神隠し、犯人は誰だ。再び『山の人生』をひもとくと、次のようなくだりに眼が止まりました。 「東京のやうな繁華の町中でも、夜分だけは隠れんぼはせぬことにして居る。夜かくれんぼをすると鬼に連れて行かれる。又は隠し婆さんに連れて行かれると謂って、小児を戒める親がまだ多い。村をあるいて居て夏の夕方などに、児を喚ぶ女の金切声をよく聴くのは、夕飯以外に一つには此畏怖もあったのだ」 ・繁華な東京でも、子どもたちは常に神隠しの危険にさらされていて、犯人は「鬼」や「隠し婆さん」と言われているというのです。もちろん狐や狸の仕業ではないかと疑われ、地方によっては「隠し神さん」「隠れ座頭」等の名も挙がっていたとか。 「隠し婆さん」は古くは「子取尼」と呼ばれ、「小児を盗んで殺すのを職業にして居た」女性だと柳田は言う。 <空飛ぶ天狗> ・神隠しの犯人はほかにもいました。『視聴草』には、天明元年(1781)の夏ごろから翌年にかけて、奥州会津から象潟(現・秋田県)までの広い地域で、15歳以下の少年少女を多数連れ去った「怪獣」の肖像が載っています。会津の塔の沢温泉で小児病の湯治に来ていた大勢の子どもが失踪したのも」この怪獣の仕業。会津磐梯山に潜んでいたところを松前三平という猟師に大筒で撃ちとめられたそうですが、その姿はご覧の通り。さて、一体何者だったのでしょう。 (ブログ注;「長髪長尾のミニ怪獣(はたして児童集団拉致の犯人か)」の図絵とは、グレイの異類混血のようなイメージです)。 狐狸、隠し婆さん、鬼、怪獣・・・。でも神隠しと言えば、主役はなんといっても天狗でした。 ・文化三年(1806)には、美濃国郡上郡のある村で、14、5歳の重五郎という少年が風呂に入っている最中に天狗にさらわれましたし、平戸藩老公(前藩主)松浦静山の本所の屋敷に奉公していた下男にも、天狗に拉致された経験者がいました。文政八年(1825)に53歳になっていた源左衛門という名のこの下男、7歳の祝いに故郷上総国の氏神に詣でた際に山伏(天狗)に連れ去られたというのです。8年後に家に帰ってきましたが、不思議や、7歳のときの着物に微塵も損傷がなかったとか。 ・18歳になると、再び以前の山伏があらわれて、「迎に来れり。伴ひ行べし」(迎えに来た。さあ一緒に行こう)。帯のようなもので山伏の背に結いつけられ、風のような音を聞くうちに越中立山へ。その後、貴船、鞍馬ほか諸国の霊山を廻って天狗たちに剣術や兵法を学ぶなど不思議な体験を積んだ源左衛門は、19歳の年すなわち寛政三年(1791)に、天狗の世界を去る証状(証明書)と兵法の巻物や脇差を授けられて、人界に戻されたのでした。 ・嘘のような話。さすがに静山公も当初は半信半疑でしたが、やがて信じる気持ちに傾き、結局のところ、「何かにも天地間、この傾き妖魔の一界あると覚ゆ」と天狗の世界の存在を認めています。天狗の神隠しの事例は、虚と自信を持って否定するにはあまりに多く、ポピュラーだったからでしょう。 ・江戸大塚町の石崎平右衛門は、若いころ筑波山の天狗に数年仕えたのち、日光山の天狗に十露盤(そろばん)占いの法を伝授されましたし、池之端の正慶寺に奉公していた14歳の童子は、文化11年(1814)に天狗に伴われ、なんと「万里の長城」を上空から眺めるという稀有な体験をしています。神田鍛冶町の天狗庄五郎が「天狗」の異名を取ったのも、若い頃天狗に誘われて2、3年姿を消していたからにほかなりません。 ・ほかに天狗甚右衛門の異名で呼ばれていた者もいました。彼もまた数年間の神隠しを経て戻ってきたのだとか。 ・ところで静山は、讃岐国高松藩の世子が幼いころ矢の倉(現・中央区)の屋敷の庭で凧揚げをしていたとき目撃した不思議な光景についても記していました。はるか上空を頭を下にした女性が泣き叫びながら飛んで行くのを見たというのです。同じ光景は家来たちにも目撃されており、幼児の幻覚や思い込みではなかったようですが・・・・のちに世子は、あれは天狗が女をさらって空を飛んでいたのだと思うと幕府の坊主衆に語っています。 ・はたして主な犯人は”空飛ぶ天狗”だったのでしょうか。もちろん、柳田も天狗による神隠しの例をいくつも挙げていますが、天狗説は「冤罪」と退けています。ならば誰が?柳田の推測では、古くから神隠しを頻繁に起こしてきた元区は、大和朝廷に排斥され山中に隠れ住んでいた人々の末裔。「神武東征」以前に日本に住んでいた先住民の子孫が、江戸はもちろん明治以降も山中に住み、「生殖の願」や孤独生活のさびしさから黄昏に人里にやって来て「美しい少年少女」を拉致したというのです。 <天狗の情郎> ・天狗か、先住民の末裔か、それとも悪質な修験者の犯行か。犯人の詮索はともかく、注目すべきは、柳田が神隠しの原因のひとつとして性的欲求を挙げた点でしょう。同様の指摘は江戸時代の随筆にも見え、『黒甜瑣語』(1795年序)には、当時神隠しになった少年や男たちが「天狗の情郎」と呼ばれていたと書かれています。「情郎」は通常「陰間」(かげま)と書いて、男色をひさぐ少年の意。江戸時代の人々は、神隠しの犠牲者はすなわち邪な性的欲求の犠牲者であると暗黙のうちに了解していたのです。 <はては宇宙から眺めた「国土」(地球)の姿まで、多彩な内容を克明かつ饒舌に披瀝した寅吉少年> ・性犯罪としての天狗の神隠し。とはいえそこには、現代のケースのように天狗=性犯罪者、少年=犠牲者と単純に割り切れない面もありました。 ・介護や師弟関係が性愛と不可分だった時代、天狗の神隠しにも、われわれの常識では計り知れない面があったに違いありません。 『天国の真実』 マシューブック1 マシューが教えてくれる天国の生活 スザン・ワード ナチュラル・スピリット 2006/10/10 <パートナーシップ> (スザン)同性愛のパートナーは、両者が望めばニルヴァーナ(涅槃・天国)でもそのつながりを継続できるの? (マシュー)そうだよ。同性愛というのは地球ではよく理解されていない。言ってみれば、同性愛は体や物理的側面というよりも、霊の進化の一段階であって、他の身体的あるいは霊的発達段階と比べてとがめられるものでも崇められるものではない。 ・それに僕たちは一回きりの人格でなく、類魂だということを忘れてはならない。どの類魂もおそらく肉体、あるいは肉体なしで男性、女性、そして、両性具有の存在として何千回も転生している。 ・もし直前の過去世の地球の人生で同性愛者だったら、ここにも同じ状態でやってくる。ここでは体が性的行為をする造りにはなっていないから、同性愛の精神的な側面だけがついてくる。 ・地球で猛烈に同性愛を糾弾している人たちというのは、直前の過去世で同性愛者の人格を経験した魂たちなんだ。 (スザン)同性愛は今、地球の歴史上、かってないほど増えているのかしら? (マシュー)いや、でも有史以来、今はずいぶん人口が増えているから、割合は同じでも数にすれば、増えていることになるね。歴史上、様々な分野で尊敬されている著名なマスターたちは多くが同性愛者だ。 <ニルヴァーナ評議会> (マシュー) ・たいていの場合、評議員たちは地球に何度も転生しているが、必ずしも地球での経験だけに留まるわけではない。 ・評議員は男女、そして、両性具有の魂たちの代表だ。それには素晴らしい知恵や知識を持って新たに加わるものもいるし、また霊的進化からいえば、ニルヴァーナを数段超えているのに、あえてこの領域に留まることを選んだマスターたち、また必要に応じて請願されるグレート・マスターたちがいる。グレート・マスターは住人でもなければ体も持たない。彼らの強力なエネルギーは、この太陽系一帯からリラ、シリウス、プレアデスといった地球文明の発展に緊密に関連する星系に瞬間的に移動できるんだ。 『現代オカルトの根源』 霊性進化論の光と闇 大田俊寛 筑摩書房 2013/7/10 <レプティリアンによる人類家畜化> ・『大いなる秘密』によれば、現在の地球を支配しているのは爬虫類型異星人=レプティリアンであり、彼らの故郷は「竜座」にある。彼らは地球に到来する以前、火星をも侵略しており、そこに生息していた金髪・碧眼の白色人種たちと交配を行った。レプティリアンと火星人の混血によって生み出された人間は、「レプタイル・アーリアン」と呼ばれる。 ・その後、火星の気候が急激に低温化し、居住には適さなくなったため、レプティリアンとレプタイル・アーリアンは、ともに地球へ移住した。彼らは、自分たちに奉仕させる奴隷種族を作り出すため、自らの遺伝子と、当時地上に存在していたさまざまな動物たちの遺伝子のあいだの交配実験を繰り返した。その結果、約20万年前、ホモ・エレクトゥス(直立原人)に遺伝子操作を施し、ホモ・サピエンスへと人工進化させることに成功した。こうして誕生した人類は、自分より遥かに進んだ知恵を有するレプティリアンを神として崇め、彼らに従属することになったという。 レプティリアンは人類に厳しい労働を課し、ムーやアトランティスの地に高度な文明を築いていった。しかしそれらの文明は、1万3000年前に発生した大洪水によって壊滅してしまった。 ・同様に、聖書の『創成期』第6章に見られる、神の子が人間の女を妻とすることによって「ネフィリム」が生まれたという記述は、レプティリアンがしばしば人間と直接的に性交を行ったことを示しているという。その他にもアイクは、エジプト、インド、ギリシャ、アメリカ、中国、日本等の世界各地に「竜神」の伝説が存在していることを列挙し、それらはレプティリアンが太古から世界を支配していた証拠であると主張する。 ・また『大いなる秘密』によれば、レプティリアンたちの主な住処は、「低層4次元」(=アストラル界)という非物理的領域に位置している。彼らは、物理的世界に現れる際には爬虫類の姿を取るが、その他の形態にも自由に変身することができる。地球を支配するレプティリアンたちは、大別して三種に分類される。その一つは、3次元の世界に自己を投影し、その姿を自在に出現・消滅させたり、変形させたりすることができる種類。二つ目は、自ら人間の肉体を纏っている種類。そして三つ目は、レプティリアンとの混血種である人間に憑依している種類である。 <神人としてのアーリア人種――アリオゾフィ> <アーリアン学説と神智学> ・これまで何度か触れたように、神智学系の諸理論においては、「アーリア人」という存在に特別な位置が与えられている。すなわち地球上の霊性進化の過程において、現在の人類は「第5根幹人種」の段階に達しており、その人種はアーリア人種とされるのである。 ・ミュラーは、インドに進入にしたサンスクリット語を話す人々に対し、彼らが自らを「高貴さ」を意味する「アーリア」と称していたという理由から、その存在を「アーリア人」と呼ぶべきであると主張した。ミュラーによればアーリア人は、インドから北西に向かって移住してゆき、その過程でさまざまな言語や文明や宗教を作り上げたのである。 ミュラーは晩年、自身の説が根拠に乏しいことを認めたが、「諸文明の祖」としてのアーリア人という幻想的なイメージは、多くの研究者や思想家によって拡大されていった。 ・しかしながら、オーストリアやドイツの思想風土においては、神智学とアーリア=ゲルマン至上主義がそれぞれ広く受容されるにつれて、両者が緊密に統合されるという動きが現れた。その思想は「アリオゾフィ(アーリアの叡智)」と呼ばれる。そこでは、アーリア人種至上主義が、神智学のオカルト的宇宙論・宗教論をもとに再解釈され、アーリア人こそが「神人」に他ならないと主張されるのである。 <リストのゲルマン崇拝> ・リストが主に手掛けたのは、「アーリア人の原言語」の探求であった。リストによれば、それを話していたのは古代ゲルマン人であり、サンスクリット語・ギリシャ語・ラテン語といった諸言語は、そこから派生したものである。また、アーリアの原言語は、ゲルマンの古文字である「ルーン文字」によって表記された。 ・アーリア人種のなかでも最も高貴な存在は、ゲルマン民族である。リストによれば、古代においてゲルマン民族の社会組織は、生産階級・戦士階級・学者階級の3身分から構成されていた。そのなかで最上位に位置するのは、「アルマネン」と呼ばれる学者階級であり、彼らが保持していた秘密の教えが、先述の「アルマニスムス」である。アルマネンは、その教えが当時の一般の人々には理解されないことを察知し、それをルーン文字や、スワスティカ等の紋章の背後に隠したと言われる。 ・その際に必要とされるのは、アーリア人種の純粋性を回復し、「高貴な人種」を育成することである。アーリア人種の血統は、これまでの歴史の過程で、多くの劣等人種との混血によって汚されてしまった。これ以上の人種混合を阻止し、「神々の後裔」となるエリートを育てること、また、高等人種と劣等人種を明確に区別し、それぞれの性質にふさわしい階級や職業を与えるべきことを、リストは主張したのである。 <ランツの神聖動物学> ・ランツは1874年、教師の子息としてウィーンに生まれた。宗教に対する関心が強かったランツは、家族の反対を押し切り、19歳でカトリック・シトー会の聖十字修道院に入会している。 その1年後に彼は、院内で偶然発見された墓石の彫刻から、決定的な霊感を受ける。その彫刻は、1人の貴人が一匹の野獣を指さしながら踏みつけているという図柄であり、ランツはそこから、善の原理である貴人=高等人種と、悪の原理である獣人=劣等人種の闘争こそが、人類史の隠された真相であると直感するに至った。彼はそれを契機に修道院を去り、その後、特異な神学的人種論を展開するようになる。 ・1905年にランツは、『神聖動物学――ソドムの猿と神々の電子についての学問』という論考を発表した。このなかでランツは、聖書を始め、タルムード、エッダ、ギルガメッシュ叙事詩の文献を渉猟することにより、古代社会においては、人間と動物のあいだで頻繁に性交が行われていたことを論証しようとする。 なかでもランツが大きく影響されたのは、紀元前9世紀のものとされるアッシリアの彫刻であった。そこには、人間の顔をした奇怪な動物たちを連れて歩く人々の姿が描かれている。碑文によればそれらの生物は、他国からアッシリア王へ贈られた献上品であり、王はその獣人たちを国内で繁殖させたという。ランツはこれを、古代において人間と獣人の混血が生じた証拠であると解釈する。 ・他方でランツによれば、人間は本来、神に等しい超自然的能力を備えていた。それは、電子を介して自在に交信する能力であり、人間はそれによって霊的存在を知覚することができたのである。脳内の松果体は、そうした高次の感覚器官の名残であり、かつては「第3の眼」と呼ばれていたとされる。 ・人間は原初において、純粋交配によって神の力を維持しなければならないという掟を課されていたが、人間のなかにはその掟を破り、動物との性交に及ぶ者たちがいた。聖書に記された、エデンの園における人間の原罪、天使の堕落、ソドムの罪といった物語はすべて、獣姦を犯すことによって人間が神的能力を毀損させたことを表しているという。 ・獣姦が繰り返されることによって、神人=高等人種が堕落した一方、獣人=劣等人種は高みに引き上げられ、彼らは今日の有色人種となった。すなわちランツによれば、白色人種とは「堕落した神人」であり、有色人種とは「引き上げられた獣人」なのである。 ・白色人種のなかでも、神的要素をもっとも多く留めているのはゲルマン民族であり、金髪・碧眼・長身といった身体的特徴は、神に近い存在の証であるとされる。ゆえにゲルマン民族は、劣等人種との雑婚を拒絶して血統の純粋性を回復し、神への進化の道を再び歩まなければならない。ランツは、キリスト教を始め、さまざまな宗教の伝統のなかには、人間に内在する神性を回復させるための鍵が隠されていると考えた。後に彼はそれを「アーリアの叡知」=アリオゾフィと称するようになる。 <「神智学」とアッシリアの獣人> ・1907年に発表された論考『神智学とアッシリアの獣人』においてランツは、先述の神人と獣人に関する自説を、ブラヴァツキーの『シークレット・ドクトリン』を参照しながら再論している。この文書によれば、原初においてアーリア人は、グリーンランド、アイスランド、スカンディナヴィアといった北方の島嶼部に居住していた。彼らはその地で純粋交配を行い、安定した進化の道を歩んでいたのである。 ところが、アーリア人が北方の聖地を離れ、他の地域にまで広まっていった際に、動物との交接という忌むべき事態が発生した。ランツはそれを、『シークレット・ドクトリン』におけるレムリア大陸の記述を援用しつつ論じている。高等人種であるアーリア人はその行為によって、神聖なる「第3の眼」を失ってしまった。またランツによれば、今日存在する有色人種・類人猿・奇形等は、かつての獣姦による所産であり、彼らの正体は「退化した人間」であるという。そればかりか、ルシファーを始めとする悪魔たちも、その正体は「堕落した人間」に他ならない。 人類の、とりわけアーリア=ゲルマン人の神聖性は、これらの劣等種族によって汚され、その本質を覆い隠されている。ランツはこの論考の末尾で、諸宗教における秘密の伝統を探求することにより、人間本来の神的な姿を取り戻すべきであると論じる。 <新テンプル騎士団> ・ランツが発行した機関誌『オスタラ—―金髪と男権論者のための雑誌』においては、アーリア人種の純粋性を高め、その数を増加させるための方策が積極的に論じられた。すなわち、金髪同士の夫婦に対して給付される報奨金制度や、高等人種の女性を僧院に囲い込んで「種母」とし、多くの子供たちを出産・育成するためのコロニーを創設するといった計画である。他方、劣等人種への対策としては、避妊の徹底、断種、去勢に加え、強制労働や戦争への動員によってその数を減少させることが提案された。このようにランツの思索は、次第に具体的かつ大規模な人種政策へと及ぶようになった。そして「新テンプル騎士団」という組織は、アーリア=ゲルマン人が神への進化の道に復帰するための雛型として位置づけられたのである。 <ゲルマン主義結社からナチスへ> ・リストやランツによって創始されたアリオゾフィの宗教結社は、数々の後継団体を介して発展した。なかでもナチスと直接的な影響関係を持ったのは、ルフォルフ・フォン・ゼボッテンドルフ(1875〜1945)によって創設された「トゥーレ協会」である。 ・その後、ドイツに戻ったゼボッテンドルフは、リストによるルーン文字の研究から触発を受け、イスラム神秘主義とルーン文字はともにアーリア的起源を有するのではないかと考えるようになる。彼は1916年、アーリア至上主義の団体「ゲルマン教団」に加入し、その2年後には、同教団の分派を改組してトゥーレ協会を創設した。トゥーレとは、極北に存在すると言われる伝説の島の名であり、同協会はその地を、アーリア人の原郷と見なした。 ・トゥーレ協会は、第1次世界大戦の敗北によって懊悩と不満を抱えたドイツの若者たちの心を捉え、急速に発展した。司会は18年に『ミュンヒナー・ベオバハター』という新聞を買収、翌年には紙名を『フェルキッシャー・ベオバハター(民族の観察者)』に変更し、ゲルマン民族礼賛と反ユダヤ主義の論説を盛んに掲載した。また19年には、トゥーレ協会のシンパであった青年が、ユダヤ人の政治家でバイエルン革命政府首相であったクルト・アイスナーを暗殺するという事件を起こしている。 <『20世紀の神話』> ・『20世紀の神話』によれば、アーリア人は、北方に存在した伝説の地アトランティスに原種を有し、そこから南下して、エジプト、インド、ペルシャ、ギリシャ、ローマの地に我々の文明を創造した。しかし彼らが築いた文明は、アジア人、アフリカ人、ユダヤ人といった劣等人種との雑婚によってアーリアの高貴な血が汚されることで、やがて頽廃へと追い込まれることになった。 ・なかでも今日、ユダヤ人の影響力は甚大である。イエス・キリストは、ユダヤ人ではなくアーリア人であり、それにふさわしい偉大な人格の持ち主であったが、その教えは彼の死後間もなく、パリサイ的形式主義によってユダヤ化された。イグナチウス・ロヨラによって創始されたイエズス会も、2代目総長にユダヤ人が就任して以降、ユダヤ的組織に変質した。ユダヤ人によって考案された金融学という擬制的かつ詐欺的な手法は、今や世界を席巻している。フリーメイソンが掲げた「自由・平等・博愛」の理念は、民族の絆を弛緩させ、ユダヤ人や有色人種に不当な権利を与えることになった。資本主義の打倒を標榜するマルクス主義もまた、唯物論によって世界を染め上げるためのユダヤの策謀に他ならない――。人類を雑種化させ、その精神を退嬰化させるユダヤの力に抗して、アーリア=ゲルマンの本来的純血と精神的高貴さを取り戻すことこそが、現在のドイツ人に求められているのである。 ・こうしてアリオゾフィの世界観は、ローゼンベルクの『20世紀の神話』という書物を介して、ナチズムの教義のなかに吸収されていった。他方、アリオゾフィに見られた結社の形態を踏襲したのは、ハインリヒ・ヒムラーによって率いられた「親衛隊」である。 ・かつてランツが「新テンプル騎士団」を結成し、ヴェルフェンシュタイン城に金髪・碧眼の隊員たちを集めたように、ヒムラーもまた、親衛隊の施設としてヴェーヴェルスブルク城という古城を入手し、金髪・碧眼の選り抜きの隊員たちを集め、ゲルマン部族の血統の永遠性を象徴する宗教儀礼を執行した。親衛隊のなかには、「祖先の遺産(アーネンエルベ)」という名称の研究機関が設けられ、そこでは、北欧神話やルーン文字を始めとして、アーリア人種の歴史的足跡の探求が行われた。 また彼は、死者の再生を信じており、自身を1000年前のザクセン王・ハインリヒ1世の生まれ変わりであると考えた。そしてヒトラーに対しては、カルマによってその出現が運命づけられた救世主的人物と見なしていたと言われる。 <神々と獣たち> ・ヒトラー自身は、ローゼンベルクやヒムラーに比べれば遥かにリアリスティックな人物であり、彼らの夢想家振りをしばしば揶揄していたことが伝えられているが、高等人種と劣等人種の相克という二元論的世界観や、前者を純化して後者を駆逐することが人類にとっての「種の変化」につながるという発想を、少なくとも彼らと共有していたように思われる。ヒトラーの謦咳に直接触れた人間の一人であるヘルマン・ラウシュニングは、ヒトラーの次のような発言を記録している。 人間は、生物学的に見るならば、明らかに岐路に立っている。新しい種類の人類はいまその輪郭を示し始めてる。完全に自然科学的な意味における突然変異によってである。これまでの古い人類は、これによって、必然的に、生物学的に衰退の段階に入っている。古い人間は、衰退形態においてのみ、その生を生きながらえるのである。創造力は、すべて新しい種類の人間に集中することになろう。この2種類の人間は、急速に、相互に逆の方向へ発展している。一方は、人類の限界の下へ没落していき、他方は、今日の人間のはるか上まで上昇する。両者を神人および獣的大衆と呼ぶことにしたい。(中略)人間とは生成途上の神である。人間は、自己の限界を乗り越えるべく、永遠に努力しなければならない。立ちどまり閉じこもれば、衰退して、人間の限界下に落ちてしまう。半獣となる。神々と獣たち。世界の前途は今日、そのようなものとしてわれわれの行く手にあるのだ。こう考えれば、すべては、なんと根源的で単純になることか。(『永遠なるヒトラー』) ・しかしヒトラーは『わが闘争』において、人類の文化における芸術・科学・技術の成果に対し、そのほとんどがアーリア人種の「神的なひらめき」から生み出されたと論じており、それのみならず、「アーリア人種だけがそもそもより高度の人間性の創始者であり、それゆえ、われわれが「人間」という言葉で理解しているものの原型をつくり出した」と述べている。すなわち、ヒトラーにとってアーリア人種とは、人間性そのものを作り出したそれ以上の何か、だったわけである。 他方でヒトラーは『シオン賢者の議定書』に由来するユダヤ陰謀論から多大な影響を受け、『わが闘争』のなかでユダヤ人を、人体の見えない部位に潜んでそれを密かに蝕む「寄生虫」に喩えている。神的な創造力を有するアーリア人を純化・育成し、人間以上の存在に到達するか、あるいはユダヤ人に蝕まれて人間以下の存在に堕ちてゆくか――。ヒトラーにとって現在の人類は、そのような岐路に立つものと映ったのである。 ・第2次世界大戦の状況が刻々と悪化するなか、ナチスが最後まで固執し続けたのは、一方でゲルマン民族にとっての「生存権」の確保であり、他方でユダヤ民族の駆逐と殲滅であった。ユダヤ人が推し進める国際化の波に抗して、ゲルマン民族が単独で生存しうるための十分な領土を獲得しなければならないという「生存圏」の理論によって、ドイツの対外侵出は正当化された。また、ドイツ国内の他、ポーランドやノルウェー等の占領地には、親衛隊の主導によって「生命の泉」という養護施設が作られ、金髪・碧眼の子供たちを養育するための政策が実行された。親衛隊の長官であったヒムラーはその目的を、「指導者階級としての、すなわち世界を治める全能の貴族としての北方種を復活させることである」と表現している(『ナチスドイツ支配民族創出計画』)。 ・その一方、周知のように、600万人以上にも及ぶユダヤ人が強制収容所に送致され、「チクロンB」という殺虫剤の使用により、人間以下の生物として粛清を受けることになった。ナチズムにおける民族的運動が、通常の近代的ナショナリズムの範疇を遥かに超える暴挙に結びついた原因の一つとして、霊性進化論に基づく特異な世界観からの隠然たる影響があったということを、われわれは決して見逃してはならないだろう。 <日本の新宗教> <9次元霊エル・カンターレの降臨――幸福の科学> <高橋信次の霊体験> ・スピリチュアリズムと神智学を結合させることによって、新たな宗教団体を作り上げたのは、「GLA」の開祖である高橋信次という人物であった。 ・その一方で彼は、幼少期の霊現象や戦争体験の影響から、死後の世界や宗教に関する探究を続けていた。ある時期には、浅野和三郎と交流の深かった小田秀人という人物が主宰する心霊主義の団体「菊花会」に出入りしていたと言われる。高橋はそのような人脈を通して、世界のスピリチュアリズムの動向について学んだと思われる。 高橋が本格的に宗教の領域に足を踏み入れる切っ掛けとなったのは、68年7月、彼の義弟に「ワン・ツー・スリー」と名乗る霊が降りてきたことである。その霊は高橋に対し、生活上のさまざまな助言を与えるとともに、自分が高橋の指導霊であること、また高橋の守護霊として、「フォワイ・シン・ワォワイ・シンフォー」という霊が存在していることを教えた(後にこれらの霊は、モーゼとイエスの霊であることが明らかになる)。 <GLAの世界観> ・GLAの教義における基本的な考え方は、人間の心や魂が「光のエネルギー」から作られているということである。現代の人間は、物質的想念によって心が曇らされているため、自らの魂が光り輝くエネルギー体であること、それが輪廻を繰り返しながら永遠に存在し続けていることを感知しえない。しかし、仏教が教える「八正道」に従って心の動きを内省し、その曇りを取り除くとき、人は霊の世界の実在を認識しうるようになる。GLAはそれを「霊道を開く」と称した。霊道を開いた人間は、自らの過去世を見通し、高位の霊格たちと交信することが可能となる。 <立宗までの経歴> ・その頃大川隆法は、GLAの高橋信次や高橋佳子の著作を愛読していたが、信次の著作『心の発見――神理篇』を初めて読んだとき、自分は昔これを学んだことがあるという強烈な思いに捉えられたという。 その後、誰かが自分に話しかけようとしているという気持ちが湧き上がり、自動書記によって、日蓮の弟子の日興から、「イイシラセ、イイシラセ」というメッセージを受け取る。それを契機に、日蓮やイエス・キリスト、高橋信次の霊と交信することが可能となった。そして高橋の霊は、81年6月、大川に対して、人類のために「救世の法」を説くように促したとされる。やがて大川は、天上界のあらゆる霊と交信することができるようになり、それをもとに85年以降、父親の善川三朗とともに、『日蓮聖人の霊言』『キリストの霊言』『天照大神の霊言』等の霊言集を公刊していった。 <エル・カンターレ崇拝の確立> ・それを明示するために行われたのが、大川の「エル・カンターレ宣言」である。先に見たように「カンターレ」という霊格は、GLAの教義においては、人類の祖である「エル・ランティー」の分霊と一つとされていたが、幸福の科学はそれを、地球霊団の最高大霊と称した。そして大川は、91年に東京ドームで開催された「御生誕祭」において、自身をエル・カンターレの本体意識が降臨したものと位置づけたのである。 ・95年の地下鉄サリン事件を契機として、当時の宗教ブームは下火に向かったが、それ以降も幸福の科学は、1000冊を超える霊言集や教典類の刊行、映画製作等を手掛け、教団の目標であるユートピア社会の実現に向けて活動を続けている。2006年には、聖なる使命を果たすエリートを育成するための「幸福の科学学園構想」を発表し、高校や大学の経営に着手した。09年には「幸福実現党」を結成、政治への進出を目指している。しかし13年3月の現在まで、選挙で議席を獲得するには至っていない。 <『太陽の法』の宇宙論> ・しかしながら、9次元霊の1人であるエンリルという霊格は、「祟り神」としての性格を備えていた。そのため、エンリルの部下の1人であったルシフェルは、1億2000年前にサタンという名前で地上に生まれたとき、堕落して反逆を起こし、4次元幽界のなかに地獄界を作り上げてしまう。こうして、地球における人間の霊魂は、エル・カンターレを筆頭とする光の指導霊たちに導かれ、意識レベルを進化させてユートピア社会を築こうとする傾向と、悪魔や悪霊たちに誘われ、欲望に溺れて地獄界に堕してしまう傾向に引き裂かれることになったのである。 『ムー 2015年10月号』No.419 「異星人との謀略「モントーク・プロジェクト」の真相」 <プロジェクト体験者からの緊急提言> ・「私が強調したいのはただひとつ。日本の人々に、ポジティブでありつづけることを絶対にわすれないでほしい……」 ・彼の名前はスチュワート・アウワードロウ、“検体”のひとりとして、あのモントーク・プロジェクト」に13年も関わった経験をもつ。 <カイパーベルト・エイリアンと世界政府> ・「カイパーベルト」をご存じだろうか。太陽系外縁部に広がる、天体が密集する一帯のことだ。 1950年代、オランダ生まれのアメリカ人天文学者ジェラルド・ピーター・カイパーが、海王星と冥王星の軌道の外側に小さな天体が集まった帯状の領域があるという説を発表した。 実は10年にわたりそのカイパーベルト内で、惑星級サイズの「物体」が相次いで発見されている。しかも奇妙なことに、物理法則に逆らう動きを見せている。 スワードロウ氏がいうには、この「物体」はすべて宇宙船で、他の銀河の星、あるいはパラレル・ユニバースに点在する超先進文明を誇るエイリアンたちによって操られているものらしい。 ・1990年代にすでに70種類以上の異なる種族のエイリアンが地球を訪れていると告げた。しかもこれらは地球人種と敵対する性質のエイリアンばかりで、2002年から2003年にかけての最終報告では、その種類も217に跳ねあがっている。 ・「インセクトイド(昆虫型エイリアン)」「ライオンピープル」「シリアン(シリウスA)」「キーロット」といったグループに分けることができる多様なエイリアンが、カイパーベルトに集結しはじめているというのだ。これをスワードロウ氏は「カイパーベルト・エイリアン」と呼ぶ。 ・しかもカイパーベルト・エイリアンは、南極の地下に拠点を置くナチス第4帝国ともつながっている可能性が高いらしい。 「1938〜1944年にかけ、ナチスは南極大陸の地下に巨大基地を造って、研究プロジェクトを展開していた。一帯はベース211、あるいはニューベルリンと呼ばれていた。 この基地で、時間旅行や次元間移動の研究が行われていた。ナチスが共同作業のパートナーとして選んだのが、カイパーベルト・エイリアンなのだ」 <実行に移される、やらせ侵略計画(ステージド・インヴェイジョン)> ・「第4帝国と提携関係にあるカイパーベルト・エイリアンに対しては、イルミナティの目的は、世界統一にほかならない。世界をひとつの政府――世界政府――にまとめてしまえば、人民の管理がしやすくなるからだ。 きわめて近い将来、カイパーベルト・エイリアンと第4帝国、イルミナティがひとつになって、全地球規模の管理システムの構築が試みられることは間違いない」 <大衆を自在に操る悪魔のテクニック> ・しかし、多数の人間を同時に騙すには、想像を絶するレベルの仕掛けが必要になる。そのための決定的かつ効果的なテクニックが、ブルービーム・プロジェクトおよびHAARPプロジェクトである。 ・2015年3月20日、NASAは火星と木星の間にある小惑星帯最大の天体セレスの地表で何かが光っている画像を公開した。 ・「計画は周到に進められてきた。銀河系だけで地球にそっくりな惑星は4億個あるという話も、今では半ば事実化している。全宇宙という規模で考えれば、地球のような惑星が何十億個も存在するというマインドセットもできあがっている」 <異星人も同じ兄弟だと語った教皇> ・「宗教がマインドコントロールの手段として使われやすいことは否定できない。現時点で、世界政府樹立への準備は着々と進んでいる。世界宗教もしかりだ。不幸なことに、メディアも完全にコントロールされているので、自由なニュースメディアなどこの世に存在しない。メディアに洗脳された大衆は、伝えられた情報を鵜呑みにし、何の疑いもなく現実として受け容れてしまう。誤解を恐れずにいえば、悲しいかな、大衆は愚かなのだ」 <被験者が語るモントーク・プロジェクト> <秘密裏に行われていた非人道的な実験> ・「私は数多く存在する検体のひとりにすぎなかったので、プロジェクト全体にどのくらいの数の人間が関わっていたのかはわからない。施設内には軍服を着た人もいれば、民間人も白衣を着た研究者風の人もいた。私のような検体に関していえば、20万〜30万人くらいはいたと思う。ただ、大多数は生き残れなかった。生存率は1パーセントもなかったはずだ。 ・「モントーク・プロジェクトの基盤部分はマインドコントロールの研究だ。世界中の人々をひとつにまとめ、ひとつの方向に導いて行くテクニックを開発するためのものだった。電磁波を使った装置も開発されていたが、これはエイリアン・テクノロジーが移植されたものだった。これらは時間旅行、電磁波兵器、遺伝子操作など広い範囲を総合的に研究するためのプロジェクトで、1983年に集結したときには、実に多くのジャンルをカバーしていた」 <完成していたテレポーテーション技術> ・「リモートビューイングは、いわゆる超能力ではないのだ。DNAのポテンシャルを97パーセントまで活性化し、脳を90パーセントまで働かせればだれにでもできる」 「フィラデルフィア実験を通じて開発が続いていたテレポーテーション技術も、すでに実用化されている」 <協力しあうレプタリアンとイルミナティ> ・「モントーク・プロジェクトにより、全地球規模でマインドコントロール装置の設営が完了した。人工衛星はいうにおよばず、携帯電話の中継アンテナからも特殊電波が特定の人たちに向けて発信されている。全地球規模のグリッドを構築し、どんな場所へでも思いのままの効果をもたす電波を送ることができる」 スワードロウ氏は、こうした大規模かつ時間がかかるプロジェクトの裏側にあって、すべてを取り仕切っているのがイルミナティであると語る。 ・レプタリアンは「マスターレイス(支配種族)」と形容されることも多く、ニューメキシコ州ダルシーの地下基地に関する話にもしばしば登場する。 ・スワードロウ氏が語るには、ヨーロッパにおけるイルミナティの起源は、それまで敵対していたハザール人とメロヴィング家の結婚によって和平協定が結ばれたことだった。イルミナティの源泉はメロヴィング家に辿ることができる。その後、イルミナティは13支族に分かれることになるが、13は神の全体性を意味するシンボリックな数字だ。 ・レプタリアンは創造主が喜ぶであろうことを計画し、それを実行するのが自分たちの義務であると考えている。 ・地球人類のほとんどが10〜15パーセントのレプタリアンDNAを宿しているのだ。 <日本内部にも協力者は存在する!> ・「ヨーロッパのイルミナティは、日本を潰したがっている。ハドロン加速器の建設は日本制圧計画の一環と考えて間違いない。日本政府も騙されている。だから、これから日本に起きようとしていることが世界政府の一部であることはいうまでもない」 日本政府内部にも、イルミナティ・レプタリアン連合の意向通り行動するグループが存在するというのだ。 ・主体がイルミナティであれ、第4帝国であれ、レプタリアンであれ、そしてこれらすべての共同体であれ、彼らの究極の目的は、地球規模のロボット社会の構築であるはずだ。 ・「私が強調したいのはただひとつ。日本の人々に、ポジティブでありつづけることを絶対に忘れないでほしいということだけだ」 『地球を支配するブルーブラッド爬虫類人DNAの系譜』 スチュワート・A・スワードロー 徳間書店 2010/6/30 <リゲル人と爬虫類人の交配人種が築いた国が現在の日本と中国であり、これは西洋の親類とは無関係に発展した。> <宗教は爬虫類人のマインド・コントロールの道具> <最初の宗教はレムリア大陸の爬虫類人のカースト制信仰体系> ・狡猾にも、爬虫類人は、男と女、男神と女神というコントロールの仕組みに基づいた宗教を編み出したのである。男神はニムロデ、女神はセミラミスと名付けられた。この二神は、半分爬虫類人で半分人間であるように描かれた。その容姿は人間を怖がらせて服従させるようにデザインされた。 ・ニムロデとセミラミスは、やがてエジプトのオシリスとイシスとなり、ギリシャのアポロとアテナとなり、他のさまざまな神々となっていった。いずれも男女、男神女神のテーマは共通していた。もともと両性的であった爬虫類人を人間の原型として男女(アダムとイブ)に分離したことの表現に他ならないからである。 <シリウスA星系の中心的な世界クーム> ・シリウスAの周りを回る軌道を持つ惑星でキルロチという世界がある。そこで、シリウス人は、高度な知性を持つ猫のような生物を創作した。この猫のような存在は、ライオン人間と呼ばれた。 ・高次アストラル界には、エーテル体のライオン種がおり、金色で翼を持ち、紫の目をしている。その種の名前をアリという。アリは、古代ヘブライ語でもライオンを意味する。シリウスA星系を統治するオハル評議会で作ったのがアリである。 <爬虫類人・ハザール・バビロニア・シュメール派はこぞってユダヤ教に> ・バビロニア文明では、シュメール文明が中央アジアに拡大してハザールとなる過程で発展したものである。実際に何千年もの歴史を通じて発展してきたものである。ブルーブラッドの数々の組織は「バビロニアの盟友」(ブラザーフッド)と自称している。このバビロニアン・ブラザーフッドが、ヨーロッパのアトランティス系エジプト秘教組織と合体して、フリーメーソンとなった。この人々の一部がバウアーを名乗るようになり、現在ロスチャイルドとして知られている。この一族は、ヨーロッパの金融と商業の基盤を速やかに支配下におさめた。 <欧米イルミナティは、日本のイルミナティは竜座人階層の下等な種の末裔であると主張している> 『地球を支配するブルーブラッド爬虫類人DNAの系譜』 スチュワート・A・スワードロー 徳間書店 2010/6/30 <50億年前、天の川銀河に入って来た天使的存在(半霊半物質のこと座人(リーライアン))> <半霊半物質のこと座人が物質次元に囚われて人間的存在に> ・彼らは、直線的な時間で40億年の間、この銀河に存在し、こと座と呼ばれる星団を占拠するようになった。この場所こそが、この銀河系の全ての人間たる存在の生まれた故郷であると考えてよい。この時点ではまだ、こと座人は、完全に肉体としての生命を経験していなかった。普段はエネルギー体であり、物質的な感覚を経験するためにどうしても必要なときだけ物質的な姿をとった。 <琴座避難民の火星とマルデック星> ・火星人は、爬虫類人からの攻撃だけでなく、近隣や親類になる人間的存在の攻撃からも惑星を守るため、惑星クーム出身のシリウスA星人に火星を保護する技術を依頼した。 ・シリウス人はオリオン人と交戦していた。この敵対関係は今でも続いている。奇妙なことに、オリオン人はかっては琴座からの移民である人間らしい存在だったが、その後レプティリアンに征服されてしまった。しかし、シリウス人と爬虫類人は互いに取引しており、シリウスAの生命体はドラコに武器を売っている。本当に複雑な政治状況だ。 <地表奪回の交配計画が変身可能な爬虫類人にさせられたシュメール人(出自は火星人)> ・爬虫類人は、この交配の技術を保有していたシリウス人に協力を求めた。シリウス人は、遺伝子改変や思考プログラミングに広範な知識を持っており、それを惜しみなく爬虫類人に与えた。 ・変身能力を持った爬虫類人ブルーブラッドは、日常的に人間の姿を維持する技術を得るため、シリウス星人に助けを依頼した。シリウス星人は、改変した動物の形態を通じて、ブルーブラッドに人間のホルモンと血を食べさせることができれば、それが人々に気付かれることもなく、一番簡単に人間の姿を維持する方法だと発見した。 <爬虫類人交配人種はあらゆるエリアに増殖、青い血の血統へ支配を固める> ・ブルーブラッド指導者たちは、聖書のカナン人類、マラカイト人、キッタイト人など中東の人々にも浸透していた。 同時にエジプトでは、シリウス人がアトランティス人の子孫を作り直していた。これがフェニキア人になる。フェニキア人は金髪で青い目をしており、一部だけ赤毛で緑の目が混じっていた。 ・シリウス人は、古代ヘブライ人も遺伝子組み換えを作り出していた。ユダヤ人とは、実際には、こうした遺伝子操作されたヘブライ人とシュメール人の混合物である。 <古代ヘブライ人とシリウス人DNA> <古代ヘブライ人は、こと座人(リーライアン)を使ったシリウス人の遺伝子工作物> ・古代ヘブライ人は、現代ユダヤ人と何の関係もない。前の章で述べたようにヘブライ人は、シリウス人が自らとこと座人(リーライアン)の遺伝子を組み合わせてエジプトで作り出した人種である。ヘブライ人は、身長が高くて力は強く、古代ヘブライ語に相当するシリウス語を話していた。学者たちも、ヘブライ語が唐突に出現したことを認めている。 <本来ヘブライ語は高位聖職者やエジプトの秘密結社だけで排他的に使用されていた言語である> ・ヘブライ人は、血の儀式と人間の生贄を習慣としていたシュメール人交配人種の子孫である現地の民族と混合した。こうした習慣が全て古代のエジプト人・アトランティス人・シリウス人の信仰を基盤とする宗教の集合体へ組み込まれていった。これがユダヤ教誕生の経緯である。 <「アメリカ」はL(こと座(リーラ))・アトランティス)、S(シリウス)、D(りゅう座・レムリア)の合体> ・「アメリカ」を象徴的に解読すると、レムリアとアトランティスの結合、こと座人間とりゅう座系爬虫類人の混合という意味になる。恐らくイルミナティが作った薬物LSDのアナグラム(綴り換え)にも隠された意味があるに違いない。 ・L(こと座)、S(シリウス)、D(りゅう座)だ!この三つの文明を結合させれば、前代未聞の最強・最先端技術の帝国ができるに違いない。 <爬虫類人(レプティリアン)支援のシリウスB星人が作った仏教思想> ・こうした宗教の蔓延は、地下の爬虫類人たち(主にチベットの地下に集まっている)が、意図的にコントロールしていた。 ・この爬虫類人を支援していたのが、仏教思想を開発したシリウスB星人であり、その他に爬虫類人支配下でこと座(リーラ)文明を再生させようと企むこと座人(リーライアン)の裏切り者集団もいた。奇妙な相棒だ。 ・エジプトは、爬虫類人の神々は、オシリスとイシスとして知られていた。エジプトの万能薬的な効力を持つ神々には、極めて多様な合成物(半人半獣)が含まれていた。 ・これはアトランティスの交配実験を懐古する気持ちがエジプトの文化になって表われたといえるが、爬虫類人の乗っ取りに向けてエジプトの文化を準備していたシリウス星人普及させたものである。 ・アトランティス人は、昔からのこと座の信仰体系に揺るぎない愛着があったため、爬虫類人が文化的な拠点を築くまでに数千年の時間が必要だった。 <「透明人」とシリウスA星人が創造し、りゅう座(ドラコ)に配置した爬虫類人> ・その生物(透明人)は、私の思考に直接働きかけ、完全にテレパシーで交信してきた。もはや人間が存在しなくなった遠い未来から来たこと、そして、その生物種は、この現実界に由来するものではないことを伝えた。さらに、その生物種は、遠い過去に旅をして戻り、ある品種を作り(これは爬虫類人のことだ)、人間をテストするために敵対させたと伝えた。 ・また、シリウスA星のシリウス人の協力を得て爬虫類人を作り、りゅう座(ドラコ)に配置したとも語った。シリウス人は、別の非物質的存在の集団であるオハル評議会の創造物である。シリウスの二連星システムは、決してこと座文明に吸収されたことも、こと座の植民地にもなったこともない。 『知っておきたい伝説の魔族・妖族・神族』 健部伸明 監修 西東社 2008/12 <分類のテーマは“種族”です> ・そんな風にいくつかの種族を比べながら読んでみると、少しの相違点よりも、驚くほど似ている部分が多いことに気づかされます。たとえばドイツのコボルト、ブリテンのブラウニーやパック、ロシアのドモヴォーイ、そして日本の座敷童は、その性質も姿も(あるいは名前の意味も)酷似していて、ほぼ同一の存在と言っていいでしょう。これがユングの提唱する、全人類共通の“集合無意識”のせいなのか、それとも他に理由があるのかは、ここで結論を述べるような無粋なマネはいたしません。 <ヴァン神族 愛と豊穣の神族 光の神々 (北欧神話) > <停戦の証としてアースガルズに> ・北欧神話にアース神族とともに登場する別種の神族がヴァン神族(複数形はヴァニール)だ。北欧神話に登場する主要なヴァン神族はニョルズと、その息子フレイと、フレイの双子の妹フレイヤの三柱である。 エッダ詩の『巫女の予言』によると、ヴァン神族のグッルヴェイグという女がオーディンの館に侵入した。魔法を使うグッルヴェイグに対して、アース神族は槍で突き、火で焼く。しかし何度殺そうとしてもグッルヴェイグは生き返ってしまう。この事件をきっかけにヴァンとアースは争いを始める。侵入したグッルヴェイグの正体はフレイヤであるという説が一般的だ。アースとヴァンの戦争は激しいもので、勝ち負けを繰り返し決着はつかなかった。互いの損害が大きくなったため、和平を結ぶことになった。その条件として人質が交換されることになり、ヴァン神族の中で最も優れた神であった豊穣の神ニョルズとフレイが、アース神族の土地アースガルズに送られる。 <愛と豊穣を司る> ・アースガルズにおいてニョルズたちは祭祀の長に任じられ、平和に共存していた。もっとも習慣の違いがあった。ヴァン神族は性的に奔放であったせいか血族間の結婚は合法だった。ニョルズも実の妹と結婚し、フレイとフレイヤを生んでいる。一方アース神族では近親結婚は禁止されていた。 ・こうしたヴァン神族の性格を最も体現しているのはフレイヤかもしれない。例えばロキはフレイヤを「この館に集まっているアース神族や妖精は、すべておまえの愛人だったではないか」とからかう。実際フレイヤは非常に美しく、愛の神として有名だった。オーズという夫がいたにも関わらず、首飾りブリーシンガメンを得るために、その造り手であった小人族ドヴェルグと体の関係を結んだという話も残されているし、フレイやオーディンとも性的な関係があったといわれる。恋に勤しんだのは兄であるフレイも同様で、巨人の娘ゲルズとの大恋愛の話が残されている。 ・愛の神は同時に豊穣の神でもあった。ニョルズは『ギュルブィの惑わし』によると、とても裕福で領地にも恵まれていたため、求める者すべてに土地や金を思うままに与えることができた。フレイの別名であるフロージは、北欧では平和と豊穣をもたらした王への称号とされている。 ・そんなヴァン神族だが、残されている資料は少ない。ラグナロクの時に、フレイはアース神族とともに戦い、炎の巨人スルトに切り殺されてしまう。ニョルズは戦いに参加せずヴァン神族のもとに帰ったと伝えられている。フレイヤがどうなったのか、その他のヴァン神族はどこにいったのかということは定かでない。 <アース神族 北欧神話を代表する神族 光の神々(北欧神話)> <アース神族の起源> ・アース神族は北欧神話に登場する代表的な神々の集団で、複数形はエーシルとよばれる。北欧だけでなく、他の地域のゲルマン民族からも広く崇拝されていた。 北欧神話を伝える詩『エッダ』によれば、太古、世界には大地も海もなく真中にギンヌンガガプという巨大な空隙があるのみだった。ギンヌンガガブで北からの寒気と、南からの熱気が衝突し、寒気の中の霜が溶け、しずくが落ちた。そこから生まれたのが、最初の「霜の巨人」ユミルと、牝牛アウズフムラである。 ・アウズフムラが氷の塊の中の塩を含んだ岩を舐めていた時に、その中からブーリという神が生まれた。最初の神ブーリと巨人との間で生まれた種族がアース神族で、ブーリの孫であるオーディンを王とし、アースガルズという国に住んでいる。 <代表的な神々> ・アース神族の王オーディンは様々な姿を持つ複雑な神だ。自らの片目を代償として、知恵の泉の水を飲んだことで多くの知識を手にいれた。また世界樹ユグドラシルに9日間首を吊ることで、ルーン文字をつかみとった。さらに戦闘を司る神として、ヴァルキュリャを使い、勇敢な戦士の魂エインヘリャルを集めさせた。オーディン自身も、投げると誰もかわすことができない魔法の槍グングニルを持っている。 ・オーディンの息子トールも有名だ。神々の中で最強の巨漢の一人に数えられ、歩くだけで大地が震えたという。雷を神格化した存在であり、結婚と豊作の守護神でもある。万能のハンマー、ミョルニルを武器にしたトールは、対立する巨人族にとって恐怖の対象であった。 トールの友人にしてトリックスターのロキも忘れてはならない。ロキはしばしば邪悪ないたずらをし、オーディンの息子で光の神バルドルもそれが原因で命を落とす。ただ同時に役立つ存在でもある。変身したロキが生んだのがオーディンの愛馬で八本脚のスレイプニルであるし、グングニルやミョルニルなどを小人を使って作ったのもロキである。 ・以上の三柱の神からもアース神族の戦を好む性格が見えてくる。北欧神話はその戦闘物語に最大の特徴がある。バイキングに代表される古代ゲルマン民族の「不名誉な生より戦場での死を望む」という荒々しい感性、それがアース神族の性格にも表れているのだ。 <終末の日ラグナロク> ・北欧神話のクライマックスは、神々の世界の終末の日であるラグナロクだ。ロキによるバルドルの殺害がきっかけとなり、ラグナロクは起きる。日の光がかげり、寒波が世界を覆う冬の時代が到来。この世の悪を束縛していた鎖もちぎれ、魔狼フェンリルなどの怪物が跋扈し始め、アース神族に恨みを持つ霜の巨人達も続々とアースガルズに押し寄せる。 ・アース神族側も応戦するも、オーディンがフェンリルに飲み込まれてしまったり、トールが海の大蛇ヨルムンガンドと相打ちになるなど、戦況は劣勢。そんな中、炎の巨人スルトが剣をアースガルズのある世界樹ユグドラシルに投げつける。灼熱の炎は世界樹を燃やし、世界は燃えあがり海に沈んでしまった。こうしてアース神族は滅びの時を迎える。ただ破滅の後には再生がある。ラグナロクの後には、以前よりも美しい楽園のような世界が表れ、そこで一度死んだバルドルが復活したという。 <ディーヴァ神族 ヴェーダ神話の主役 光の神々(インド神話)> <ディーヴァ神族の変遷> ・一口にインド神話といっても時代により変遷がある。神話の一部は紀元前25世紀のインダス文明まで遡り、その後インド・ヨーロッパ語族のアーリア人の侵入を経て、バラモン教のヴェーダ神話の時代を迎え、さらに『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』で知られるヒンドゥー神話が主流となる。そこに仏教や、イスラム教等も複雑に交わり、神々の地位や名前等も次々と変化する。その中でもディーヴァ神族が最大の活躍を見せるのは、ヴェーダ神話においてである。 バラモン教の聖典『リグ・ヴェーダ』が成立したのは紀元前10世紀頃。それによると、神々は天・空・地の三界に配置され、輝く者ディーヴァと呼ばれた。語源はインド・ヨーロッパ語の「Dyeus」という、多神教における最高神を表す言葉であり、ギリシア語のゼウスにも対応している。 ・ディーヴァ神族は、不死身で人間を助ける大いなる力を持つ存在とされており、インドラ(雷神)、ディヤウス(天界)、ルドラ(暴風神)、アグニ(火の神)など自然を司る神が多い。しかし、時代を下ったヒンドゥー神話においては、ディーヴァ神族は人間より次元の高い世界に住むものの、ブィシュヌやシヴァといった大神の下に位置する下級神で、死を免れない存在とされた。仏教においては「天」と訳され、天界に住む神的存在であるが、やはり死と再生の果てしない循環から免れないとされてしまう。 <ディーヴァ神族の王インドラ> ・『リグ・ヴェーダ』の約4分の1がディーヴァ神族の王とされるインドラへの賛歌で占められている。体も髪も茶褐色、手には強力な武器ヴァジュラを持った姿で描かれ、雨と雷を思いのままに操るディーヴァ神族最強の戦士でもある。 ・『リグ・ヴェーダ』で語られるのが、敵対していたアスラ神族の、悪龍ヴリトラ退治の逸話だ。インドラが生まれた時、人々は神々に向かって「干ばつを引き起こすヴリトラを退治してほしい」と祈っていた。これを聞き届けたインドラは人間が捧げたソーマ酒を飲みほし、強力な力を得る。さらに父である神プリティヴィーから雷の力を取り上げ、ヴリトラ退治に乗り出す。 嵐をヴリトラの99の城に叩きつけ、ヴリトラ自身との対決に持ち込んだインドラが、雷で腹を引き裂きヴリトラを破ると、人々が求めた大雨が地上に降り注いだ。これによりインドラは、ディーヴァ神族のリーダーとしての地位を築いたのだ。 <仏教におけるインドラ> ・ヴェーダ神話では神々の王として君臨するインドラだが、仏教では「仏陀の優位を認めて仏教に改宗する」とされている。改宗後の名が日本でもお馴染の帝釈天だ。須弥山の頂上に住み、仏法護法十二天の主神として東方を護る。仏教の帝釈天もまた、アスラ神族が転じた阿修羅と戦う運命にある。ディーヴァ神族とアスラ神族の争いは、永遠に続くのだろうか。 <アスラ神族 善神か悪神か 光の神々(インド神話)> <アスラ神族の由来> ・アーリア人が信仰していたディーヴァ神族とアスラ神族の両方の神のうち、アスラ神族は炎と光明を司る神だった。ところがいつのまにかインドにおいてディーヴァ神族は善神であり、アスラ神族は敵対する悪神とされることが多くなってしまった。本来「asu」が生命で「ra」が与えるという意味であったのが、「sura」が神で「a」がそれを否定する接頭語とされ、「神にあらざるもの」と解釈されるようになってしまったのだ。 ・一方別のアーリア人国家であるペルシアにおいては、アスラ神族はゾロアスター教の主神アフラ・マズダーとしての善の最高神とされ、ディーヴァ神族に対応するダエーワは悪神とみなされた。地域により扱いが逆になったのだ。また北欧のアース神族やアッシリアのアッシュールも、アスラと語源を同じくする可能性がある。実際ヴェーダ神話の初期においてアスラ神族は必ずしも悪い意味では使われてはおらず、単にディーヴァ神族とは異なる神族を指していた。アスラに含まれる代表的な神として、ヴァルナ、パーリー、ジャランダラ、ラーフなどがいるとされるが、これも時代により変化する。 <ヴェーダ神話ならヒンドゥー神話の中で> ・アスラ神族とされることが多い、ヴァルナの変遷を見ていこう。初期のヴェーダ神話において、ヴァルナは宇宙の法の守護者であり、君主とみなされていた。マーヤー(幻力)という不思議な力を使って、太陽を道具に天と地、その間の空を創った創造主だった。ところが時代が下がると最高神の地位をブラフマーに奪われ、単なる海や河の神とみなされるようになる。ここにもアスラ神族の没落の姿を垣間見ることができる。 ・後代のヒンドゥー教の文献では、「悪」としての姿が強調されるようになる。ディーヴァ神族が真実を追求するのに対し、アスラ神族は虚偽の道を選んだ。ディーヴァ神族とアスラ神族の争いは延々と続くが、どちらかが完全な勝利を収めるということもないのだ。描かれる姿も神から離れてくる。複数の頭に、千の目、数百本の腕があることもあれば、強大な蛇の姿で描かれることもある。またアスラ神族は不死ではないとされる。ヒンドゥー教の最高神ヴィシュヌが不老不死の霊薬アムリタを生みだした時、ディーヴァ神族はアムリタを飲むことを許されたが、アスラ神族は許されなかった。そんな中、アスラ神族のラーフが一滴盗みだしたが、不死を奪われたくなかったヴィシュヌは、ラーフの首を切断したのだ。 <アスラの変遷> ・アスラ神族は仏教にも取り入れられ、阿修羅とされた。最初は仏教に反対する悪神とされたが、後に仏教護法者となる。日本仏教でも八部衆の一人であり、戦いの神として三面六臂の姿で描かれることが多い。密教の大日如来もまた、アスラの王だった。 『世界の神話伝説図鑑』 フィリップ・ウィルキンソン 原書房 2013/3 <北ヨーロッパ> <デンマーク、ノルウェー、スウェーデンのヴァイキングの侵略者> ・彼ら古代スカンジナヴィア人は、ルーン文字と呼ばれる角ばった記号を使う筆記システムを発展させたものの、当初は文書の形にした価値ある文学は作り上げなかった。しかし、彼らには豊かな口承の伝統があり、それが世界でもまれにみる魅力的な物語を作り上げた。 <北方の神々と英雄たち> ・偉大なる北欧神話は壮大なテーマを扱っている。宇宙の創造と神々の戦いと愛、そして世界の終焉だ。彼らは巨人からドワーフまで、さまざまな神話的存在を想像した。われわれの世界と並立する異世界、ミズカルズで暮らす者たちだ。神々の文化は好戦的かつ壮大で、主神オーディンの館ヴァルハラで現実世界と神話世界は交わり、死せる英雄の魂が天界での褒美をここで受け取る。 <大きな影響> ・北欧の神話と文化は何世紀もの間、その影響力の大きさを証明した。5世紀にヨーロッパ本土からイングランドに定住したアングロ=サクソン人は北欧に由来する物語を伝え、そのなかには舞台まで北欧という物語もあった。もっとも有名な例は、デネ族とゲーアト族の間に繰り広げられる英雄と怪物退治の空想的な物語である。ゲーアト族はおそらくスウェーデン人のことだ。中世になると北欧神話は南のドイツにまで広まり、北欧の英雄シグルドを下敷きにしたジークフリートのような英雄物語が、非常に多くの詩人や劇作家に影響を与えた。 <北欧の起源> <創造神たち> ・北欧神話の創造神オーディン、ヴイリ、ヴェーは、最初のアース神族、つまり空の神々だった。彼らは宇宙のもっとも高い場所にあった。彼らは一丸となって、大地の神々もしくは豊穣の神々であるヴァン神族と長い戦いを続けた。彼らは海神ニョルズとそのふたりの子供フレイとフレイヤに率いられていた。戦いは膠着状態に陥り、両陣営は人質の交換で停戦に同意した。アース神族はふたりの神々、頭の鈍いヘーニルと賢いミーミルを人質として送った。不幸なことに、この交換でヴァン神族はミーミルの首を切り落とし、彼の首をアース神族に送り返した。常に知恵を追及するオーディンが首を保存して呪文をかけたところ、それ以後ミーミルの首は彼に助言を与えてくれるようになった。 <オーディンは誰よりも賢かった。他の者たちは皆、彼から学んだ。> <アスクとエムブラ> ・ほとんどの創世神話は、人類の祖先となる最初の男女の起源について語っている。北欧神話によれば、オーディン、ヴイリ、ヴェーが海岸を歩いていると、2本の木に行き当たった。彼らはトネリコの木からアスクを、ニレの木からエムブラを作った。神々はそれぞれ彼らに贈り物をした。オーディンが命を吹き込み、ヴイリが思考力と感情を与え、ヴェーが視力と聴力を与えた。ふたりは全人類の祖先となった。彼らはミズカルズ(中央の大地)で暮らし、神々が彼らのために作った家は、ユミルの眉毛から作った砦に守られていた。 <最終戦争> ・北欧神話のなかで最終戦争の物語が特別なのは、それがまだ起こっていないできごとの予言だからである。ラグナロク、あるいは神々の黄昏とよばれるこの戦いは大規模で、すべてが破棄され、世界は終焉を迎える。ラグナロクが終わると、生き残ったわずかな生物が新世界を興し、創造のサイクルが再び始まる。 <伝説> ・最終戦争のもともとの原因は、ロキの悪意だった。彼はバルデルを死なせたあと、拘束された。蛇がロキの顔に毒を滴らせるので、とうとう彼を気の毒に思った妻のシギュンが蛇の口の下に皿を置き、毒液を受け止めた。一方、地上では何もかもが邪悪に変わり始めていた。世界の善と美の大いなる源であったバルデルが死んでしまったからだ。これが週末の始まりであり、ラグナロクの前触れであった。 <世界の破滅> ・ある日、ロキはとうとう鎖から抜け出す。他の多くの執念深い者たちとともに、彼は神々に挑戦し、戦う。ロキの怪物の子供たち、つまり狼のフェンリル、世界蛇のヨルムンガンド、冥界の女神ヘルらが彼の味方につく。ヘルは冥界から怪物の軍を率い、霜の巨人と炎の巨人も攻撃に加わる。まもなく巨人、ドワーフ、神々、人間、怪物と、事実上すべての生物が戦いに巻き込まれる。 ・残忍な戦いが繰り広げられるが勝者はいない。善も悪も破壊される。最終的に全世界には累々たる死体の山が築かれる。どうにか生き残れるのは、炎の巨人スルトと、世界樹ユグドラシルの枝の間になんとか隠れたひと組の人間と数頭の動物だけである。スルトは死者の体で大きなかがり火を焚き、死者の間にほかに生き残ったものがないことを確かめ、宇宙から永久に怪物や悪魔や妖精を取り除く。破壊の炎は何年にもわたって燃え続け、大地は海に没する。 <新たな始まり> ・最終的に大地は再び姿を現し、もう一度緑豊かになる。リーヴ(ライフ)という男とリーフズラシルという女の人間のカップルが、ユグドラシルの枝の間から歩み出す。ふたりは新たな家族となり、大地に再び人々を増やす仕事に着手する。冥界で衰弱していた美の神バルデルは、盲目の兄弟ヘズとともに復活する。バルデルは新たな宇宙の支配者となる。生命は悪に汚染されることなく新たに始まる。 <ヴァルハラ> ・死者の館という意味のヴァルハラは、オーディンの宮殿である。オーディンは地上で戦死した北欧の戦士をここに集め、彼らに豪華な宝石や武器の褒美を与えた。甲冑が並ぶこの広間で、英雄たちは猪肉をふるまわれ、ヴァルキューリに給仕される蜂蜜酒を飲んだ。戦士たちはここで訓練を行い、ラグナロクに備えた。 <ラグナロクと黙示録> ・初期のアイスランドの作家たちは、ラグナロクを宇宙の終焉をもたらす戦いとして描いた。学者たちは、キリスト教の作家たちが描いた黙示録とラグナロクとの間に多くの類似点を見出している。ラグナロクの前には冬が3年続き、人は親類を殺し、狼は月を呑み込み、森は倒され、大嵐が猛威をふるい、創世記に存在したカオスが戻ってくる。ラグナロクのあとに生命が再び始まる。このようなテーマは聖書にしたものであり、それが北欧の作家たちに影響を与えたのかもしれない。 <黙示録の騎士> ・キリスト教の黙示録では善と悪が宇宙規模の戦いを繰り広げる。戦いに参じる四騎士は、疫病、戦争、飢饉、死の象徴だと信じられている。 『図解 北欧神話』 池上良太 新紀元社 2007/7/3 <北欧神話の宇宙観> ・北欧神話の宇宙は、それぞれの種族の住む九つの世界によって構成されていた。 <神々や巨人たちの住まう世界> 1、(ニヴルヘイム)―世界のうち最も北方に位置するのが極寒の世界。 2、(ニヴルヘル(ヘル))―ニブルヘイムの地下には死者の女王ヘルが支配する。 3、(ムスペッルスヘイム)―南方に位置しているのが灼熱の国。最終戦争ラグナロクの際に神々と争うムスペッルたちが住んでいる。 4、(アースガルズ)−アース神族の住む世界で、その外側にある人間の世界ミズガルズと虹の橋ビクレストで結ばれていた。 5、(ヨトウンヘイム)ー囲いの外の北側、もしくは東側の海岸線に巨人が住む世界。 6、(ヴァナヘイム)−ヴァン神族の住む世界。もはやどのような世界であったかを類推することすら難しい。最終戦争ラグナロクの影響を受けない位置にある。 7、(アールヴヘイム)―リョースアールブ(白妖精)の住む世界。 8、(スヴアルトアールヴヘイム)―デックアールヴ(黒妖精)が住む。 9、(ミズガルズ)―人間が住む場所に区分された土地。 <1世紀前後にゲルマン文化圏で信仰された神々> ・メルクリウス(オーディン)、マルス(デュール)、ヘルクレス(トール) ・イシス(ネルトウス?)。上記3神とは別系統 『地球を支配するブルーブラッド 爬虫類人DNAの系譜』 スチュアート・A・スワードロー 徳間書店 2010/6/18 <エイリアン集団紳士録> <アルデバラン ゲルマン人とバイキングを創作・管理> ・典型的なアーリアン型で金髪で青い目を持つ。薄い茶色か中ぐらいの茶色の髪で、目がヘーゼル(はしばみ)色の人もいる。この集団は、ゲルマンの諸民族とスカンジナビア人、特にバイキングの創作と管理を担当した。強い関心を持って、こと座文明の再創造を支援している。よくノルディック人と混同されることがあるが、ノルディック人は、もっと背が高く傲慢である。 <アルクトゥルス ローマ帝国建設を手伝った精神性の高い種> ・非常に精神性の高い種である。原始的な形態の宇宙旅行技術(地球より発達しているが、シリウス人ほどハイテクではない)を保有している。白いローブを着た聖職者層が支配している。 <りゅう座人(ドラコ) このレプティリアン型生物の交雑種がイルミナティ> ・地球の月は、永劫の昔、レムリア大陸への入植の時代に、軌道上に設置されたりゅう座人の宇宙船である。分断して征服することを画策する彼らは、リゲルとともに海を沸騰させたり、大地を焼き焦がしたりしたように、暴虐さで有名である。 ・りゅう座人は、地球に巨大な地下基地、金星にコロニーを持っている。地球には二番目の月が配置されている。1997年にヘール・ボップ彗星に隠れて到達した。そこにいるのは、純血爬虫類人である。交配人種であるイルミナティは地球の支配を行っている。 <プレアデス こと座からの避難民、長身金髪のノルディック> ・ノルディック、背の高い金髪とも言われる。元々は、こと座(リ−ラ)文明からの避難民であるが、7つの恒星と15の入植済みの惑星からなるプレアデス星系の存在である。 ・1959年に米国政府がリゲル人に騙されたことに気付いた後、技術格差を埋めるためにプレアデス人が招聘された。だが、過去、彼らは、ヒトラーの人類浄化政策を画策し、仏教を堕落させた。チベットに広大な地下基地を持っている。 ・プレアデス人は、ローブを着た白い姿で現れる非物質的存在が率いる最高評議会の指揮下にある。プレアデス人の一集団(アトランと言われる)が、アトランティスに入植した。小柄で青い肌をした集団がプレアデス人と一緒に行動している。 『地球を支配するブルーブラッド 爬虫類人DNAの系譜』 スチュアート・A・スワードロー 徳間書店 2010/6/18 <爬虫類人(レプティリアン)の物理的遺伝子は金髪青眼(紅毛碧眼)のこと座(リーライアン)から調達> ・爬虫類人(レプティリアン)が物質世界で活動するためには、物理的な遺伝子が必要だった。透明人たちは、その頃すでに物質的になっていた、こと座人(リーライアン)から遺伝子を取り出した。 ・こと座人は、金髪または赤毛で青色または緑色の目を持っていた。こと座人の遺伝子が、透明人の集合エネルギーと混ぜ合わされて、爬虫類人(レプティリアン)として、物質肉体化して出現した。このため、今日の爬虫類人(レプティリアン)も、物質次元で生き延びるためには「アーリア型」の人間からエネルギーを摂取しなければならない。 ・アストラル次元で爬虫類人が創造されると。その使命を果たすための活動拠点を物質次元に築く必要が生じた。そのために爬虫類人たちは、さまざまな物質界に進出し、自らが支配的な種となることのできる場所を求めていた。 <レムリアからの爬虫類人生存者が巨大地下文明を築く> ・爬虫類人の生存者は、インド北部、地球内部空洞、金星、中南米の一部へと移動した。レムリア大陸から生き残った爬虫類人の大半にとって、地球内部が「祖国」になった。そこで爬虫類人は、巨大な地下文明を築いた。これが、地獄の業火の中で生きる悪魔たちの伝承の由来である。 ・地下鉄のような乗り物が高速で移動する通行管のようなものを建設し、地球上のどこにでも数時間で移動できるシステムを作った。今日でも探検家が追い求めているアルカディア、アガルタ、ハイパーポリア、シャンバラといった有名な地下都市を築いた。これらの都市は、地球の内部空洞を覆う地殻内部の内壁に沿って建設されている。地球が空洞であることは単なる説ではなく、科学的事実であることを忘れないでいただきたい。恒星(太陽)から飛び出した惑星が、回転しながら冷却することで、形成されたのである。 『地球を支配するブルーブラッド 爬虫類人DNAの系譜』 スチュワート・A・スワードロー 徳間書店 2010/6/18 <リゲル 米政府と協定を結んだオリオン連盟リーダー> ・この集団は1954年に米国政府と協定を結び、彼らの技術と科学情報を米国に与えるのと引き換えに、米国民を誘拐する(ただし傷つけない)許可を米国政府から得ている。 ・こと座の内戦とそれに続くこと座星系へのりゅう座人の侵略を通じ、彼らの惑星は戦争で痛ましい損害をうけたため、肉体的にも遺伝子的にも弱々しい存在になっている。 ・彼らは、りゅう座人のために働いている。りゅう座人が攻略の前準備をできるように侵略予定ルートを偵察する仕事である。 ・軍隊型の厳格な階層制の文化を持っている。特にゼータ・レティクリ1と2のグレイが絡む場合はそうである。また肉体から肉体へと魂を移す能力を持っている。 <シリウスA イスラエル政府と契約の宇宙の商人> ・背の高い細身のシリウスA人は、青と白の長いローブを着ている。両腕を横にまっすぐ広げると、身体全体でアンク(エジプト十字架)の形になる。これが彼らのシンボルである。宇宙の商人であり、技術と情報を売買して、排他的な取り引きルートと特別な優遇を得ている。彼ら自身に向けて使用される恐れのある技術は絶対に提供しない。彼らは、オハル星人に創作されたが、本来の目的を見失っている。 <シリウスB 老子、孔子、釈迦に叡智を与えた銀河の「哲学者」> ・ジャングルか湿地のような惑星の洞窟状空洞や地下で隠遁生活を送っていることが多い。寿命は極めて長い。大半は、家族形態とは無縁である。 <くじら座タウ> <グレイ種を目の敵にし、ソ連と協定を結んだ> ・この人間のような生物は、グレイ種を目の敵にしている。宇宙のどこであろうとグレイを発見したら叩きのめすと誓っている。遥か昔にリゲル人がくじら座タウ星系の侵略準備を整えようとしていた。タウ人の遺伝子を使ってグレイを作るために、主に子供を標的にして誘拐し、殺して細胞とホルモンを取り出した。タウ人は自らの種が滅ぼされる前に、グレイたちを追い出した。地球までグレイを追って来た彼らは、1950年代にソ連と協定を結び、基地と自由に領空を飛行する権利を得た。彼らの目的は、ソ連が世界支配の座を占めるのを手伝い、(スラブ人にはタウの遺伝子がある)、グレイを滅ぼし、侵略勢力と取引することだった。 ・最近になってロシア人はタウ人との協定を破棄し、同じ協定をりゅう座人の前衛部隊と交わしてタウ人を追い払ったと考えられている。くじら座タウ人は、イプシロンのエラダナス星系で大きなコロニーを保持している。祖国の大気と重力の関係で、密度の高い身体を持っている。身長は、およそ170センチである。 <ビーガン シリウスA人の遺伝子から作られたグレイ> ・このグレイ種は、シリウスA人の遺伝子から作られている。シリウス人の船の標準的な乗組員である。主人のために労役、実験、雑用を行う。ゼータ・レティクリ1と2のグレイは、前向きにビーガンの指揮に従い、人間の誘拐や鉱物のサンプル収集などの特定の任務を行う。 <ゼータ・レティクリ1 地球人監視のためリゲル人が作ったグレイ> ・このグレイのエイリアンは、リゲル人が地球の人間を監視するために作った。人間とリゲル人の混合物である。人間の胎児と同じように四本の指と割れたひづめを持つ。ホルモン液と遺伝子実験のために人間を誘拐することで有名である。 ・遺伝子的・ホルモン的な欠乏症のため、彼らは、急激に死滅している。他者を誘拐することで、自らの種を救う交配種の原型を作ろうとしている。 <ゼータ・レティクリ2 遺伝子操作で作られたグレイ。爬虫類人に奉仕> ・このグレイは、遺伝子操作で作られた爬虫類人への奉仕階級のメンバーである。完全にマインド・コントロールされており、中央情報(コンピュータ)に接続されている。集団精神で一体となって動く。彼らは、無心になってゼータ・レティクリ1を手伝う。誘拐現場でよく目撃されるが、子供のように純真に行動する。 <アンタレス トルコ人、ギリシャ人、スペイン人のDNAに> ・極めて知識が高く攻撃的である。 ・彼らの社会の最深部まで入り込むことができた者は、ほとんどいない。 ・女がいるところが観測されたことはなく、彼らは、同性愛者で、生殖目的でのみ女を使用すると考えられている。ただ、実は、ある母系集団が彼らの背後で権力を握っているとも考えられている。 『[UFO宇宙人アセンション]真実への完全ガイド』 ぺトル・ホボット × 浅川嘉富 ヒカルランド 2010/7/21 <これが宇宙人基地「シャンバラ」だ!> ◉「シャンバラ」とは「違うセキュリティーアへのゲート」という意味で、UFOの基地 ◉チベットの地下にある「シャンバラ」も同じようなもの ◉その基地には複数の星の連盟から宇宙人が来ていた ◉それぞれの文明の代表者たちは美しい人間の姿をしていた ◉疑似物質で作られた基地は、マインドによって自在に変化する ◉目的は土地の浄化や高波動化、人間の意識にポジティブな考えを投射 ◉半物質の宇宙人のまわりには光が放射され、かげろうのよう ◉絶滅にそなえて地上の生物をほかの惑星に保存 ・レプティリアンの多くの種族は、おおむね友好的です。怖いどころか、波動の高い知性的な存在です。また地球において固定された姿で現れる生命体は、宇宙からではなく、パラレル・ワールドから来ているのです。パラレル・ワールドは遠い世界ではなく、こちらの世界との行き来は難しいものではありません。 <UFOは波動を変更するテクノロジーで自在に姿を変えている!> <UFOはパワースポットを利用して物質化し、われわれの前に出現する。> ・UFOに乗る宇宙人たちは私たちよりもかなり進んだ存在であり、人のエネルギーフィールドを介して、遠隔的にこちらの考えを知ることができます。 <アルクトゥルス星から来る宇宙人がミステリーサークルを作っている!> ・私の経験では、人間の姿であれ、ほかの姿であれ、その姿が固定されている場合には、その生命体はパラレルワールドから来ています。パラレルワールドは遠い世界ではないので、こちらの世界との行き来はそれほど難しくありません。一方、別の星から来ている生命体の場合、その本当の姿は形を超えた存在です。 <ホボット氏が訪れた3.5次元に存在する宇宙人の基地> ・私はUFOの基地へ行ったこともあります。 先ほど触れた通り、私がサンクトペテルブルク大学でリモートヴューイングのプログラムに参加したとき、アフガニスタンとの国境に近いタジキスタンの寒村にUFOにコンタクトをとるために行ったことがあります。そのときはコンタクトに成功し、数週間後にUFO基地から招かれました。 ・最初にUFOとコンタクトした後、その近くにいるスーフィー(イスラム教神秘主義者)のグループに招かれ、そこにしばらく滞在していました。そこで私は彼らから、いつどこへ行けば基地へ行けるのかを聞き出したのです。彼らはそこをパワースポットと見なしており、力のあるスーフィーはそこにいる生命体とコンタクトをとることができました。 そして、3週間ほどした後、私は基地へ招かれたのです。それはUFOにコンタクトした地点から80キロほど離れた場所であり、ある山脈の谷のところにありました。基地の近くまではあるスーフィーに連れていってもらい、基地の内部には私1人で入りました。 ・基地のあるエリアの中に入ると、ある程度まで拡張した意識状態に入ります。それはちょうど夢のような状態です。私のUFO関係の経験から、その体験は物質と精神の間の領域で起きているものだと考えられますが、現実的な体験であることは間違いありません。 <その宇宙人基地は神秘主義者スーフィーたちから「シャンバラ」と呼ばれていた!> ・一部が地上で一部が岩山の中でした。それは標高4000メートルのとても行きにくいところにあります。また、周辺の人々には神聖な土地と見なされているため、誰もそこへは行きません。ただし、その地方にいるスーフィーたちは、そこを「シャンバラ」と呼んでいました。彼らはそこを神聖な場所としてそう呼んでいたのです。 シャンバラとは「違う世界へのゲート」という意味ですが、実はそれはUFOの基地でした。ちなみに、スーフィーは(一般にイスラム教神秘主義者とされているが)実際にはイスラム教徒ではありません。 ・とても進んだ文明から来ており、それは1つの星ではなく、複数の星による連盟から来ているようです。その基地には少なくとも7つの文明からの7人の代表者がいました。その中の1つがアルクトゥルスです。あと、ネット(網)と呼ばれる文明の代表者もいました。 (浅川)私たちの知っている星はほかにありましたか? (ホボット)シリウスBです。アルクトゥルスやシリウスBの人々とはそのときだけでなく、これまでに何度か会っています。 『エノクの鍵』 宇宙の仕組みを解明し、本来の人間へと進化させるための光の書 J・J・ハータック ナチュラルスピリット 2010/9/25 <アルクトゥルスという中間ステーション> ・そして、アルクトゥルスから移動して、異なる光の密度に属すると思われる基盤目状のモザイク模様が連なる場所に案内されました。 ・メタトロンは私を聖なる父のところへ連れて行きました。私は、純粋エネルギーの放射領域に私を連れて入ることのできる存在はメタトロンをおいて他にはいませんでした。そこで私は、たなびくような白髪をたたえ、愛と歓びにあふれた表情をうかべた古代よりの無限なる意識の姿を間近に見たのです。いかなる言葉をもってしても、永遠なる父、ならびにその父によって教えられたことの神聖さを言い表すことはできません。私たちの意識の時間帯の辺縁には、「神の右手」を讃えるために置かれた、星の真珠をつらねたロザリオがあります。その真珠のひとつであるこの惑星地球に奉仕するために、私が職服を脱ぎ捨てて脆くはかない束の間の肉体をまとった理由を知らせるために父は私を呼び寄せてくれたのです。そこで、私は、光である神の存在を前に、神をこう褒めたたえました。「おお主よ、栄光と名誉と力を受くるに値うYHWHよ。万物をつくり、歓びに応えて永劫の時がつくられた方よ」。 ・すると、神の光の王座に臨席し、そのそばをぐるりと囲んでいた24人の光の長老たちが、「コドイシュ、コドイシュ、コドイシュ、アドナイ、ツェバヨト(聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、主なる神よ)」と神を讃えて歌う姿が見えたため、私は、頭を垂れました。私には父の右手にか、子なるイエス・キリストの姿も見えました。そして、メタトロンは、こうした光の主たちが父のそばにすわるに、ふさわしい存在で、あることを教えてくれました。なぜなら彼らは、定期的に父のもとを離れて外に向かい、エロヒムの世界として知られる別の光の世界をつくる職務をあえて選んでいるからです。 ・私は、父の玉座の前でエノクの一部として楽園の子たちの宇宙に奉仕するという自分の務めを教えられました。楽園の子たちは、光の評議会を交替で組織し、新しい宇宙を創造するための光の戒律や炎の投影によって記される法令を、評議会において24人の光の長老たちから受け取っています。それから、私は、教導者であるエノクとメタトロンから、地上にいるときには、偽りの権力の差し出す食べ物を口にしないこと、自分の子孫を霊的に堕落した種子たちと結婚させないこと、堕落した思考とエネルギーに仕える者たちによる偽りの礼拝に加わらないことなどの注意を受けました。 ・しかし、私の存在理由は、すべての人々が跪き、父の位階ある聖師団が出現する時が差し迫っていることを認められるようになるまで、父の地上における地位を高めるということです。そして、その結果、神の世界が天国に在るのと同様に地上にもたらされることになるのです。 ・私は、それ以外にも幾多の領域へ連れて行かれ、父のあまたの館が、新しい天の領域と与えられて地上世界の誕生に向けて、どのように開かれつつあるのかについての教示を授かりました。 『宇宙人はなぜ地球に来たのか』 韮澤潤一郎 たま出版 2011/2 <宇宙人の大半は人間型> ・米陸軍の一等下士官によると「私が1989年に退役した時に、すでに57種類の異星人が軍の目録に記載されていた。その大半は人間型で街を歩いていても誰も区別がつかないということです。これは生物学者を悩ませるでしょう。明らかに宇宙には二足歩行のヒューマノイド(人間型宇宙人)が多いということです。グレイタイプは三種類あり、私たちより背の高いのもあります」 <史上最大の事件が起きる> ・空軍基地でのケネディと宇宙人の会見を半年前にアレンジしたのがアダムスキーだった。そして、ケネディが乗り込んだ葉巻型UFOにはアダムスキーも同行していた。 大統領は着陸していた船内で数時間の会談を終えて地上に出たが、アダムスキーはそのまま離陸し、土星に向かった。このときの宇宙旅行については、いわゆる『土星旅行記』として残されたが、その中には、ケネディの名はなく、「アメリカ政府の一高官」とだけ記されている。旅行記によれば、9時間で土星に到着し、それから4日間にわたって各惑星の代表者が出席した太陽系会議などが開かれたとなっている。 <なぜ宇宙人たちは協力しているのか> ・エリザベス女王の遠縁で、イギリス軍の最高司令長官だったマウントバッテン卿の私邸の庭に1950年代にUFOが着陸してコンタクトを試みたことがあった。 UFOが着陸した時、私邸の侍従が外にいて、金髪で体にぴったりとした青いウェツトスーツのようなものを着た人間型宇宙人に会っている。しかも円盤型UFOの中に招かれた。しばらく離陸して飛行したという。 ・しかし、このことを侍従から詳しく聞いていて、当時からUFO問題に精通していたマウントバッテン卿自身は特にUFOに関する政治的側面に関与し、マリリン・モンローやケネディ大統領の死に影響を与えたといわれ、1979年にアイルランドにあった自分の別邸近くで殺されている。 『2012年にパワーをもらう生き方』 セドナUFOコネクション リチャード・ダネリー 徳間書店 2009/9/17 <導く者=アルクトゥルス星人との接触> <本書を書くインスピレーションとなったのはアルクトゥルス星人である> ・1992年の夏、私は、セドナのドライ・クリーク周辺でよくキャンプをするようになった。私のガイドが近くにいるときに感じるのとよく似たエネルギーを、よくその辺りで感じたのだ。何日もそこで過ごすうちに、その辺りをしばしば訪れている数人の人たちが、アルクトゥルス星人の一団が乗った高次元の光の船(宇宙船)がその谷の上空に浮かんでおり、彼らのことを知りたい人なら誰でも、テレパシーによる交信ができるような態勢を整えている、と主張するのを聞いたときも私は、少しも驚かなかった。 『アルクトゥルス・プローブ』 (銀河連盟と現在進行中の調査、及びその物語) (ホゼ・アグエイアス著)(たま出版) 1996/5 <天王星の謎> ・「『アルクトゥルス統制』として私達に知られる時代のあいだ、私の心の中の純粋さを通して、アルクトゥルス・プローブはいくつかの影響力を維持することができた。牛飼い座の変則者と定則者に対して、私はちょうど鍵穴のようなものだった。その鍵穴を通して、さまざまな実験、知のパターン、肉体化が、受容的でそれを望む3次元体に与えられた。テレパシー的な信号という手段を使っていた天王星人もまた、天上の砦である天王星そのものを『シャンバラ』、『ユートピア』、『新しいエルサレム』といった名前で呼んで、私の存在を通してそれら天王星の回想を生き生きと保ち続けた」。 『秘密結社の1ドル札』 アメリカ国璽に封印された数秘術 デイヴィッド・オーヴァソン Gakken 2009/9 <$記号に隠された意味とアメリカ建国を導いた秘密結社の謎> ・「ドル」という名称自体はドイツの通貨単位である「ターレル」に由来している。 ・以上の概略の中に、アメリカ合衆国の建国において特に重要な役割を果たした3人の名が登場した。トマス・ジェファーソン、ベンジャミン・フランクリン、そしてジョージ・ワシントンである。いずれもここで改めて紹介するまでもない、よく知られた偉人であるが、彼ら3人には、一般にあまり声高に語られることのない、ひとつの共通点があった。と言うのも、彼らはいずれも、いわゆる「秘密結社」フリーメイソンリーの指導的な結社員だったのである。否、彼ら3人だけではない。一説によれば、アメリカ独立宣言書に署名した56人の内、実に53人までがこの結社に属していたという。 ・では、フリーメイソンリーとは何か。 本書を手に取られるほどの方なら、これまでにどこかでその名を耳にされたことがあるだろう。フリーメイソンリーとは現在、全世界に数百万の結社員を擁すると言われる「秘密結社」である。 ・実際にはフリーメイソンリーはその存在どころか、集会所であるロッジの場所に至るまで、何ひとつ隠し立てはしていない。つまり、彼らはいわゆる「秘密結社」ではない。「自由、平等、博愛」という、誰もがよく知る近代社会のスローガンを掲げる友愛団である。なお、「フリーメイソンリー」または「メイソンリー」がこの結社の名称であり、「フリーメイソン/メイソン」はその結社員を指す言葉であるので、ご注意いただきたい。 ・われわれの知るメイソンリーは「近代フリーメイソンリー」と呼ばれるもので、1717年にロンドンで発足し、その後30年ほどの間にヨーロッパへ、アメリカへと急速に拡大していった。その過程で、たとえばドイツでは文豪ゲーテや哲学者フィヒテ、啓蒙君主フリードリヒ2世から音楽家モーツァルトなど、錚々たる人々がこの結社に参入した。 一方フランスでは、啓蒙思想家ディドロやダランベール、ヴォルテールなど、これまた錚々たるメイソンの面々が積極的に政治に参加し、後のフランス革命の原動力となっていく。そしてあのベンジャミン・フランクリンもまた、フランス滞在中にパリのロッジに参加していた。 ・13州の各地を飛び回って各州の宥和を説き、統合への下地作りをしたのが、メイソンであるフランクリン。ワシントンがそのフランクリンと友誼を結んだのも、同じメイソン同士だったからである。そしてイギリスと13州の間に決定的な亀裂をもたらしたボストン茶会事件は、メイソンリーの手で惹き起こされたことが明らかとなっている。この事件の結果、険悪化したイギリスとの間に勃発した独立戦争は、天才軍略家ワシントンによって勝利に導かれ、1776年にはメイソンである先の3名らによる独立宣言が発せられるに至った。以上の経緯を見るに、アメリカ合衆国はまさにメイソンリーの戦略によって建国された国であると言えるだろう。 そして彼らはその後、合衆国の国璽に、そして1ドル札に、自らの理念を刻みつけることになる。では、その概念とは一体どのようなものなのか、その謎を探ることこそ、本書の主要な目的である。 <合衆国国璽と1ドル札にある13個の星は、特定の星座を表すと言われてきた> ・1853年、アメリカの歴史家スカイラー・ハミルトンは合衆国国璽の記述に用いられた「星座」というフレーズは特定の星座を表すと唱えた。彼によれば、この星座とは鷲に掴まれた天の竪琴、琴座である。 ・ハミルトンによれば、アメリカは琴座の一等星、ヴェガと同一視されるという。これは全天でも最も明るい星の一つである。 図の竪琴の上には星座が描かれている。中でも最も明るいもの(鷲の頭と左翼の間)は八芒星で、これがヴェガであることを示している。ハミルトンは、この一等星――すなわち琴座を「率いる星」――こそ、全世界を率いるアメリカであると見なした。 <眼は万物を見通す全能なる神のシンボルである> ・メイソンリーもまた眼の図像を神のシンボルとして採用した。ゆえに1ドル札の眼は、メイソンリー的象徴であると同時に、また神を表す普遍的な象徴であるとも言える。国璽裏面の図像が、一度見れば二度と忘れられないほど強烈な印象を残すのも、その普遍性のゆえであろう。 ・フリーメイソンリーの図像学に多大な影響を与えたと紹介されているヤーコブ・ベーメはドイツの神秘家で、靴職人として生計を立てるかたわら瞑想に打ち込み、数々の神秘体験によって啓明を得た。彼はまったくの無学でありながら、啓示によって数々の著述を成した。彼は言う、神秘体験の「その15分の間に、私は長年大学に通うよりも多くのことを見、かつ知った」。 すなわちある意味で、彼の著作に収録された難解なシンボルの数々は、直接神に由来するものである。メイソンリーがとりわけそれを好み、自らの象徴体系の中に取り込んだとしても不思議はない。 <魔力を秘めた国名とその由来の謎> ・ヴェガは古代世界において殊更に重視された星であるという。それはひとつには、この星が全天で5番目に明るい星であるという理由もあろうが、もうひとつ、今から1万年以上前の天界においては、この星が北極星であったという事実とも関係しているだろう。著者によれば、かつての国務長官ジョン・クインシー・アダムズはこの星をアメリカと同一視しており、自らパスポートの図案に採用したという。これはおそらく、ヴェガがかつて「急降下する鷲」と呼ばれた星であったことと無関係ではない。鷲はアメリカの象徴であると同時に、その鋭い視力から、「眼」を司る鳥でもあった。このことは、先の「すべてを見通す眼」とも繋がってくるかもしれない。ちなみにヴェガは、遠い将来――およそ1万2000年後――に、再び北極星となる。すなわちアダムズの願いどおり、全天を従えて回転する宇宙の中心となるのである。 ・そして著者オーヴァソンによれば、このヴェガと同一視されるアメリカは、その国名自体に魔力が封印されているという。詳細は本文に譲るが、<AMERICA>の最初と最後の文字であるAはすべてのアルファベットの中でも最も強力な魔力を持つ文字であるというのだ。Aは、{始まり、数字1、未完成の作業、神の眼、三位一体}等の観念を表すシンボルである。<AMERICA>はその文字で始まり、その文字で終わる。のみならず、この国名自体が、ある意味ではその文字Aそのものであるのだ。そして1ドル札においては、そのAの意味をさらに強化するために、文字Aが図案上の絶妙な位置に配置されているという。 <鷲は霊力を表す古代のシンボルである> ・太古の昔から、鷲は霊力を表すシンボルであった。古代ローマ人にとって鷲は主神ユピテルの鳥だった。 天文学の黎明期から、鷲座は天なる鳥とされ、海豚座の西側で天の川を飛び駆けるとされた。この星座はユピテル自身を表すとされたり、古い星図では「ユピテルの鳥」と呼ばれた。 <魔術的シンボリズムにおいては、鷲は最高神のアトリビュート(持物)である> <1ドル札の最高の秘密は、ピラミッドの円窓にある> ・すでに見たように、切頭ピラミッドの最も合理的な解釈は、アメリカの建国はいまだ進行中であるという観念だ。そこで、このピラミッドを「補完」しているかのような、輝く三角形の意味を探ることが急務となる。 ピラミッドの建設は、キリスト教の聖書と結びついている。新約聖書では、キリストは自らを「石」に喩える。彼は「家を建てる者の捨てた石」であり、「隅の親石」である。 <ピラミッドの頂上に関する魔術> ・先に検討した聖書解釈のレベルを念頭に、未完成のピラミッドの背後にある意図を再検討してみよう。この図像の表現はまったく異教徒的であるが(大ピラミッドは現存する最大の異教建築のひとつである)、ここではキリスト教的な目的のために採用されている。だからこそ、ある教皇は、未完成のピラミッドを自らの表象としたのであり、またピラミッドはメイソンリーにおいてかくも重要なシンボルとして用いられたのだ。 ・エジプトのヒエログリフでは、この三角形はソティスもしきはセプトの星の聖名の始まりを示す。 ソティスは、ギリシアでは「セイリオス」と呼ばれた。これは「輝く」「煌めく」の意味である。これは現在、シリウスと呼ばれる連星で、大犬座にある。この星こそ、メイソンリーのシンボリズムにある五芒星、「輝く星」の起源であることは間違いない。これは、あたかも燃える炎のように煌めく星である。英国の詩人テニソン曰く……… そして炎の如きシリウスがその色を変える、 赤に、エメラルドに。 彼らのモーリオンは輝き、 朝露に濡れた……… こしこの輝くソティスが三角形で表されるなら、それこそ1ドル札の切頭ピラミッドを完成させる輝く3角形なのではないか? 不完全なピラミッドの上の三角形、その背後の激しい輝きは、通常考えられているような太陽ではなく、この輝くシリウスではないか? <聖化される時代の到来を言祝ぐ最高の秘儀> ・著者ディヴィッド・オーヴァソンは、かつての著書『風水都市ワシントンDC』(飛鳥新社)において、驚くべき真実を明らかにしてみせた――アメリカ合衆国の首都であり、特別行政区であるワシントンDCには、かつてこの都市を建立したフリーメイソンリーの手によって、さまざまな魔術的仕掛けが施されている、というのである。それは要所要所に安置された魔術的彫像や十二宮図に始まって、重要な建築物の配置と定礎における占星術の活用、さらには神聖幾何学と地霊学に基づく都市設計にまで及んでいる。 ・かつてロバート・ボーヴァルは、世界的なベストセラーとなった著書『オリオン・ミステリー』において、ギザの3大ピラミッドの配置がオリオン座の三つ星に正確に対応しているという衝撃的な仮説を発表した。同書によれば、ギザの3大ピラミッドとナイル河の位置関係は、そのままオリオン座の三つ星と「天なるナイル」である天の川の関係の写し絵になっているという。そしてその目的は、ギザの地を天界の鏡像とし、天界を地上に照応させることで、地上を聖化することにあったというのである。 ・オーヴァソンによれば、この古代エジプト人と同じことを、ワシントンDCを築いた人々は行ったのである。 一方、本書でオーヴァソンが明らかにしてきたのは、首都設計の場合と同様の魔術的仕掛けが、都市を流れる経済の血液である通貨にも施されているということだ。この一枚の紙には、本書で検討してきた数多の魔術的シンボルが、文字どおり凝縮されているのである。 ・そしてオーヴァソンによれば、1ドル札に秘められた最高の秘儀とはいえ、<光>にある。それは国璽の鷲の頭上に輝く13の星座の光であり、切頭ピラミッドの上に浮かぶ三角形の放つ光輝である。 この三角形は三位一体の象徴であり、その中の眼はかつてのホルスの眼、現在では<摂理の眼>と「呼ばれる全能の神の象徴である。この三角形は、切頭ピラミッドを補完する。すなわちこの至高者の援助によって、アメリカ建国という<企て>はようやく完全なものとなるのである。 そしてこの三角形の放つ光輝は、「天界における最も明るい星、古代世界で最も重視された星」――すなわちシリウスであると著者は言う。とある秘教伝承によれば、シリウスは宇宙の中心太陽であるという。つまりこの三角形こそ、万人の精神領域の中枢にある光であるということだ。 ・誰もが手にすることのできる1ドル札に、あたかもそれを指し示すかのような図像が置かれたことの意味は、万人がそれぞれの霊的陶冶によって天界の写し絵となり、聖化される時代の到来の予言なのだろうか。 『悪魔の人類総背番号制666』 (鬼塚五十一) (学研) 2003/12 <秘密結社フリーメイスンは堕天使ルシファーを神として崇めている> <ジョージ・ワシントン・メソニック・ナショナル・メモリアル> ・ジョージ・ワシントン・メソニック・ナショナル・メモリアルの4階には、ソロモンの神殿のミニチュアがある。これは将来反キリストがエルサレムの聖地に建てることになる神の座である。 ・中央に6段の階段があり、その上にソロモンの椅子がある。そこはいずれ世界を支配する支配者が座ることを暗示している。 つまり、獣が、自分こそが神であると宣言する世界の王の椅子だ。 ・驚くべきことに、そのソロモンの椅子の背もたれに輝いているのは黄金の子牛アモンである。アモンとは古代エジプトの神と崇められた動物で、エジプト語で「隠れている者」という意味だ。 ・メーソンの主張はキリスト、ブッダ、マホメットは神の遣いであり、そのすべての宗教の上に彼らのいうところの神がいる。ただし、メーソンの神は、三位一体の神ヤーヴェではない。堕天使ルシファーである。 ・そして1ドル、5ドル、10ドル、20ドル、50ドル、100ドルの紙幣が誇らしげに並び、1ドルのワシントンから100ドルのベンジャミン・フランクリンまでドル紙幣に印刷された人物は全員がメーソンだったことを証明している。 『秘密結社』 綾部恒雄 講談社 2015/12/25 <全世界に600万人の会員を持つフリーメーソン> <フリーメーソンとの「出会」> ・1967年の夏、筆者は家族とともにフィラデルフィアの約100キロ西北にある町に住み込んだ。ペンシルベニア・ダッチ(オランダではない)と呼ばれるドイツ系移民の子孫たちの調査をしていた。 ・この人口4000人ほどの田舎町に住み込んで、ほどなく、筆者は、町の中心部に「アウルズ・ホール」(梟の家)という奇妙な名の付いている 瀟洒な白塗りの三階建ての建物があるのに気が付いた。 ・彼によると「アウルズ・ホール」は秘密結社のクラブで、その会員のみが食事もできるし、日曜日も酒が飲める所だという。 ・筆者は、すぐにフリーメーソンのロッジ(集会所)があるという通りへ行ってみた。町のメ―ン・ストリートでは一番大きい、赤煉瓦のどっしりした4階建てのビルがそれだった。 ・これだけのロッジを構えていることは、フリーメーソンがこの町でそれなりの力を持っていることだと筆者は考えた。 ・アメリカ社会でこれだけ有名なフリーメーソンの存在が、日本ではあまりにも知られていないということに、二重の驚きを禁じえなかった。日本のアメリカ研究者が、アメリカ社会の実際を自ら調査せず、アメリカ人研究者の書いたものの紹介に終始している限り、こうした知米上の知識の欠落はなくなることがないだろう。 ・この日から筆者は、この町でそれまでに結成されたあらゆるクラブや秘密結社を聞き込みと文献調査によって洗い出していった。6ヶ月後、筆者の手元には180種を超える結社の資料が集まった。そして、このうち秘密結社と考えられるものが21種あることが判明した。 ・その結果はっきりしてきたことは、欧米社会の諸種の秘密結社の中におけるフリーメーソンのずば抜けた地位と、その広く厚い影響力であった。 ・ファーグソンは、1930年代中頃のアメリカのロッジやクラブの会員数を約5000万人と踏んでいる。ウォーナーは、1万8000人の人口を持つヤンキー・シティには800余りの任意団体があり、これは人口割にすると20人に一つという計算になると述べている。 ・アメリカの地方都市では、今なおメーソン会員でなければ名士になれないところが少なくない。 ・アメリカの1ドル紙幣の裏には、フリーメーソンの象徴でもある「神の眼」(ヤーウェの眼)が刷られているのは面白い。
| |
  |
このブログへのチップ 0pts. [チップとは] [このブログのチップを見る] [チップをあげる] |
このブログの評価 評価はまだありません。 [このブログの評価を見る] [この記事を評価する] |
◆この記事へのコメント | |
コメントはありません。 | |
◆この記事へのトラックバック | |
トラックバックはありません。 トラックバックURL https://kuruten.jp/blog/tb/karasusan1122/445615 |