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〈助太刀兵法46〉北斎蛸踊り(8) (無料公開)
11/15 15:30


【時代小説発掘】
〈助太刀兵法46〉北斎蛸踊り(8)
花本龍之介



(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


梗概
 浦賀の渡し場で目役の伊蔵と出会った飛十郎は、酒を呑みに居酒屋へ入っていく。翌朝、網元の家へ行って、北斎にお玉という海女がやっている居酒屋が面白かったと話す。海女と聞いて、たちまち北斎が目を輝かして、さっそく今夜呑みにいこうと身をのり出した。海女の仕事ぶりを絵に描きたいらしい。     
画狂人の名の通り、こうなったら誰も止められない。兆吉に命を狙われている北斎を外へ出すのは危ないが、ねじり鉢巻きで立ち上がった北斎に、渋い顔をしながら飛十郎も後を追って町へむかった。

 
【プロフィール】:
尾道市生まれ。第41回池内祥三文学奨励賞受賞。居合道・教士七段。
現在、熱海に居住している。


これまでの作品:

〔助太刀兵法31〕御家人馬鹿囃子
〔助太刀兵法32〕御家人馬鹿囃子(2)
〔助太刀兵法33〕御家人馬鹿囃子(終章)
〈助太刀兵法34〉夢泡雪狐仇討 ゆめのあわゆききつねのあだうち
〔助太刀兵法35〕夢泡雪狐仇討(2)
〈助太刀兵法36〉夢泡雪狐仇討(3)
〔助太刀兵法37〕夢泡雪狐仇討(4)
〈助太刀兵法38〉夢泡雪狐仇討(終章)
〈助太刀兵法39〉北斎蛸踊り
〈助太刀兵法40〉北斎蛸踊り(2)
〈助太刀兵法41〉北斎蛸踊り(3)
〈助太刀兵法42〉北斎蛸踊り(4)
〈助太刀兵法43〉北斎蛸踊り(5)
〈助太刀兵法44〉 北斎蛸踊り (6)
〈助太刀兵法45〉北斎蛸踊り(7)



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【時代小説発掘】
〈助太刀兵法46〉北斎蛸踊り(8)
花本龍之介



一 鉄砲

 徳川幕府は江戸への入り鉄砲と出女を、特に厳しく取り締まった。謀反のためのお膝元への銃器の持ち込みと、人質として江戸屋敷へ留め置いた外様大名の妻や娘が国元へ脱出するのを極端に嫌った。このため江戸の町人たちは生涯、鉄砲というものを見ずに終る者が多かったといわれている。
「兆吉め、剣ではかなわぬとみて、猟師くずれの鉄砲うちを雇ったか……」
 帆柱の先にとまって盛んに鳴いている白い海鳥に目をやりながら、飛十郎はごしごし顎をこすりはじめた。考えごとをしている時の、この男の癖である。ゆるやかな波に船が揺れるたびに、海鳥も上下している。
「よし、わかった。いや助かったぞ、伊蔵。なにも知らずに、遠くから狙い撃ちされれば、命がなかったところだ。礼をいうぞ」
 袖から手を抜き出すと、飛十郎は伊蔵にむかって頭を下げた。
「よしてくだせえ、礼なんか。あっしたちの仲じゃござんせんか、水くせえ。それにしても、これからどうなさいます」
「どうもこうもない。敵をむかえ討つだけだ」
 言いながら飛十郎は、右手を後に廻して袴板を叩いた。
「なんです? そこに差してあるのは」
「これか。これはな、おれの飛び道具だ」
 飛十郎は、後帯に差していた二本の鉄火箸を抜き取って、伊蔵に振って見せた。
「へえ。そんな物で、鉄砲に太刀打ちできるんですかい。おや、旦那、お連れさんたちがいませんぜ。どこへ行っちまったんだろう」
 飛十郎が振り向いて見ると、新しく着いた渡し舟の乗客たちが、思い思いの方角に散っていくだけで、北斎たちの姿は見えなかった。
「ふ、ふふ。おぬしとおれのひそひそ話が長いので、しびれを切らして先にいったとみえる。なに、行き先はわかっている。伊蔵、今夜はどこに泊まる?」
「へい。この浦賀には、船乗り宿や木賃宿が、この紺屋町にも対岸の新井町にも、たんとございやす。どこぞの宿にもぐり込みますよ」
 伊蔵は浅黒い精悍な顔をほころばせて、白い歯を見せた。
「なら、ちょうどいい。どうだ、そのへんの縄暖簾で一杯やらんか」
「えっ。あっしゃあ、かまいませんが。北斎先生のほうは大丈夫ですかい」
 思いがけない成り行きに、驚いたような顔をした。
「なあに。どうせ網元の家にいけば、繁三郎親子のご対面が待っているだけだ。おれは、ああいった愁嘆場は苦手でな。それより、伊蔵と居酒屋で呑むほうが、気楽でいい」
 ふところ手をすると、飛十郎は先に立って、明るい町の灯にむかって歩きだした。
「けど、早船の旦那がいない間に兆吉のやつらが、網元を襲うようなことはないでしょうかねえ」
 気がかりそうに呼び掛ける伊蔵の声に、飛十郎は振り返ってにやりと笑った。
「そいつは、ないな。いかに兆吉が無謀な男でも、奉行所のあるこの浦賀で、足場もわからんうちに襲撃するようなことはあるまい。それより、酒だ。早くこい、伊蔵」
 伊蔵がくるのを待って、飛十郎は両手を袖の中に入れると肩を並べて歩きはじめた。
「この浦賀の居酒屋にはな、うまい地酒と網からあがったばかりのおいしい魚が待っているぞ」
「町に着いたばかりで、よくお調べになりましたねえ。誰かにお聞きなすったんで」
「は、はは。なに、おれの勘だ。しかしな伊蔵、こと酒にかんしては、まだおれの勘は一度もはずれたことがない。いいから、黙っておれについてこい」
 ついさっき、船乗りたちが入っていった横丁。あの裏町あたりに、居心地の良さそうな呑み屋がありそうだ。飛十郎の鼻が、そう嗅ぎつけていた。


二 浦賀奉行所

 朝靄がただよう浦賀の町を抜けると、飛十郎は奉行所の横にある高札場の前で立ち止まった。あくびを噛み殺すように口に手を当てると、高い土塀に囲まれた厳めしい奉行屋敷のほうに目をやった。門が開いてまだ間がないらしく、門番の小者が一人は水を撒き、もう一人は竹箒で門の前を掃き清めている
「ふむ。なるほど、たいしたものだ」
 何がたいしたものか、わからないが。そう独り言をもらすと、飛十郎は肩を握り拳で叩きながら、ゆっくりと歩き出した。
 御船番所の名にふさわしく、奉行所の前は広い石造りの船着き場が大きく海に築き出し、幾艘もの御用船が舫ってある。不審な船や、異国の船を発見すれば、すぐさま船改めの与力や船同心が、この船に御用の高張り提灯を押し立てて取り締まりに出向くのである。「ほう、あれが船蔵か。聞きしにまさる、立派な建物だな」
 江戸の深川にある幕府の御船蔵には劣るが、それでも奉行所の建物に負けぬほど大きな屋根だ。
 飛十郎は、御船蔵の巨大な観音開きの扉の前を横切ると、むこうに見える地蔵堂にむかった。お堂の横を流れる川に架かった橋を渡れば、北斎たちが逗留している網元の家はすぐだと聞いていた。
――これは、すごい。家というより、屋敷ではないか。人は見掛けによらぬとは、このことだ。繁三郎のやつが、こんな所で育ったとはな……
 江戸の近郷によくある豪農で見かける長屋門をくぐると、飛十郎は内心舌を巻きながら玄関の前に広がる空き地に入っていった。空き地のあちこちには網元らしく漁に使う魚網や、魚を納める木箱や大小さまざまな桶や樽が積み重ねてある。桶の中にぐるぐる巻きになっているのは、魚を釣りあげるための糸と針だろう。
 案内を乞う飛十郎の声に答えて奥から現われたのは、荒い織りの縞木綿の裾短かな仕事着をまとった下働きの小女だった。
「おれは、早船飛十郎。昨夜、江戸からやってきた北斎どのの連れだ」


 
三 おりん

 十六、七歳だろうか、よく陽焼けした顔をほころばせると、小女は白い歯を見せた。笑うと、なんともいえず温かい顔になる。飛十郎は、ひと目で気に入った。
「ようおいでなさった。北斎先生の、助太刀人だね。おらの名は、おりんだ。さあ、遠慮なくお上がりなせえ。親方と若旦那が、首を長くしてお待ちだよ」
「うむ。その親方というのは、繁三郎の父親のことだな」
 ふところ手を胸元から出すと、飛十郎は思案するように無精髭をなぜた。
「あたりめえだ。このあたりの浜を取り仕切っていなさる、大網元の繁吉親方のことだ。きまってるじゃねえか」
 勝気そうな目を見張ると、おりんはわかり切ったことを何故聞くんだ、と怪訝そうに飛十郎を見た。
「わかった。むろん繁吉親方には、きちんと挨拶するつもりだが。その前に、北斎どのに話したいことがある。悪いが、先に部屋に連れていってくれ」
 玄関の中は、広い土間になっている。片隅に餌箱や魚籠(びく)が山積みになっている。土間のむこうは広々とした板敷きになっていて、細長い大きな囲炉裏が三つも切ってあった。冬の寒い時期に、海から帰って来た大勢に漁師たちが、火と酒で暖をとるために群れ集まる場所であろう。
 土間へ足を踏み入れ、奥へむかおうとした飛十郎を、おりんが手で押しとどめた。
「座敷じゃねえ。北斎先生がいるには、離れのほうだ。おらに、ついてきな」
 粗末な布草鞋を突っかけると、おりんはさっさと屋敷の裏手にむかって歩きだした。裏の空地にも、漁具をしまう小屋が幾棟も建っている。雑木林を抜けると、小道はゆるやかな傾斜の登り坂だ。進むにつれて、右手の松の樹のむこうに見え隠れする屋敷町に飛十郎は気づいた。
「おりん。いくつも見える、あの屋敷はなんだ?」
「ああ、あれは御番所に詰めているお侍衆の家だよ。一番上のでっけえのが、お奉行さまのお役屋敷で、その下が与力衆が住む町で、さらに下にあるのが船同心衆の町だ」
「そうか。浦賀の奉行所は、異国船が江戸湾へ侵入してくるのを防ぐのが、まず第一の役目を聞いているが。さすがに、たいした手配りだな」
「そうだよ。おらたちだって、網引きや海草採りをしていても、たえず沖に気をくばって、見なれない大船がいれば、すぐに船番所へ知らせろ、という厳しいお達しだよ。なんでも、最初に注進した者にゃ、途方もねえご褒美が出るということだ」
「そいつは、すごいな。おれでも、くれるかな」
「誰だろうが、一番に船番所へ駆け込んだ者に、くれるっちゅう話だよ」
「ふう、ううむ……。ならば、おれも、せいぜい海を見張るとしょうか」
 あくびまじりの伸びをした飛十郎を見て、おりんはあきれたような顔をした。
「おら、こんな極楽とんびな、お侍さんは初めてだよ。それでも、助太刀人かね。こんなとこで油を売ってねえで、早く北斎先生とこへ行かなきゃ駄目じゃねえか」
 おりんは、飛十郎を睨みつけると、肩を怒らせて歩きはじめた。
――ふ、ふふ。江の島のおとよが十七、八になれば、こんな娘になるのだろうな。鼻っ柱の強いところなどそっくりだ……
 内心にんまりすると、飛十郎はおりんの後を追った。
「む。これは、素晴らしい。なんと見事な海ではないか」
 感嘆の声を上げた飛十郎を尻目に、離れの前まで案内すると、おりんは振り向きもせずに元きた道を引き返して行った。


四 黒お多福

 小高い崖に建つ離れの庭先から見る景色は、まことに絶景であった。一面に広がる大海原は、水平線までさえ切るものはなにもない。雄大な海の姿を前に、立ちつくす飛十郎のほつれた髪を、沖から吹きつける汐風が大きく乱れさせた。
「おう、飛さんか。昨夜は浦賀の町で一杯やったようじゃな。いい店はあったかの」
 硯と墨を手に持って、縁側に出てきた北斎が声をかけた。
「面白い赤提灯がありましたよ。玉藻亭という名でしたが、なかなかうまい地酒と魚料理を出します」
「ほほう。玉藻亭とは、また風流な名じゃのう。〔うつせみの命を惜しみ波にぬれ伊良虞の島の玉藻刈り食(お)す〕と万葉集に出ておるな」
「はあ……。さようですか」
 万葉集なぞ、生まれてから一度も目にしたことのない飛十郎は、海に目をやったまま気のない返事をした。
「さぞ、粋な年増のお女将さんが、色っぽい手付きで酌をしてくれる小料理屋なんじゃろうなあ」
「とんでもない。入口に縄のれんがぶら下がった、ただの小汚い居酒屋です。女将だって、顔や手足が陽に焼けこげた、黒お多福ですよ」
「ふうん、黒お多福なあ……。じゃが、玉藻なんぞという風雅な店の名は、和歌の素養がのうては思い浮かばんぞ」
 墨を摺っていた手を止めて、北斎が小首をかしげた。
「は、ははは。北斎どの、とんだ見当ちがいだ。万葉集など、まるで関係ない。お玉という女将が、この浦賀の海で、海藻や、貝や、蛸を採っている海女だから、この名を付けたといっていた。三人いる手伝い女たちも、すべて海女で、その指のように真っ黒な顔をしていましたよ」
 愉快げに大声で笑う飛十郎を見て、北斎は苦笑いしながら墨で黒く汚れた指で頭をかいた。
「こりゃ、恐れ入った。なるほど、お玉が藻を刈る海女じゃから、玉藻亭か。う、ふふ、どうじゃ飛さん、一度その店にわしを連れていってくれんかな」
 照れた表情で頼む北斎を見て、飛十郎は意外そうな顔をした。
「いつでも、ご一緒するが。北斎どのは、酒をやらんでしょう」
「ああ、酒は呑まんが。その海女たちと話がしたいのじゃよ。絵の参考にな」
「浦賀にきたついでに、海女をお描きになるおつもりか……。いいですぞ。なんなら今夜あたり、ちょいと一杯やりにいきますか」
 うれしそうに指で盃をひっかける真似をしたとき、がらりと障子が開いてお栄が出てきた。
「なんだい、助太刀人が朝帰りかよ。ご立派なこった。どうせ、そのへんの安女郎屋に、しけこんでいたんだろうよ」
「いや、おれにそんな余裕はない。夜中まで呑んだあと、伊蔵と別れていい気分でぶらぶらしていたら、ほれ、あの渡し場に出てな。足元に舫(もや)ってある小舟に、つい乗り込んだのだ。あんまり星空が綺麗でなあ。見とれているうちに、朝まで寝込んでしまった。すまん」
 飛十郎はそう言って、悪びれない顔で頭を下げた。
「ふん、なにが綺麗な星空を見ていただよ。ごまかすんじゃないよ! だいたい助太刀人が、わっちらをほっといて、呑んだくれていたってのが気に入らないよ。兆吉がやってきて孝太郎をさらったら、どうするんだよ。そんなことになったら、腹を切ってもらうよ。いいね!」
 さげた頭を掻いていた飛十郎の手が、困ったように下へいって無精髭をこすりはじめた。  
「なんじゃ、お栄。朝っぱらから、がみがみとうるさいぞ。でたらめを言って、飛さんをおどかすな。母屋より、この離れのほうが安全じゃということは、お前もよく知っておろうが」
 北斎の言葉に飛十郎は顔を上げると、確かめるように周囲を見廻した。
「この離れは三方が崖になって、道はただ一本じゃ。それに、いたるところに屈強な漁師たちが守っておる。わしらが安易にここを動かぬかぎり、兆吉たちがいつ押し寄せようが心配ないぞ」
 飛十郎も気づいたが、道を登って来るあいだ雑木林や松の樹の陰に、十人ほどの逞しい躰をした若い男たちが手に銛(もり)や?(やす)を持って、鋭い目で見張っていた。
「こら、お栄。くだらんことを言ってないで、あれを見ろ」
 北斎が指差した方に、飛十郎も目をやった。
「日の出だ。いま雲を離れたところじゃ」
 水平線に厚くたれ込めていた灰色の雲から姿をあらわした太陽が、赫奕(かくやく)とした黄金の矢を宙に放ちながら、今しもゆっくりと雲の群れから離れ出た瞬間だった。
 北斎は太陽にむかって深々と礼をすると、高らかに二回かしわ手をうった。思わず、飛十郎も手を合わせた。日の出を拝んだのは、子供の頃以来のことだ。
「ありがたいことじゃ。お天道さまがあるから、わしらは今日も米や野菜や魚が食べられる。なにをしている、お栄! 早う顔を洗ってこんか。お天道さまの罰が当たるぞ!」
 ぽかんと突っ立って太陽を眺めている自分の娘を、北斎は大声で怒鳴りつけた。


五 蛸入道

「そうですか、火縄銃をね。そいつは危なかった。鉄砲で狙い撃ちをされたら、こりゃあひとたまりもねえ。早船先生のおかげで、命びろいをしましたぜ」
 網元屋敷の広間で、坊主頭の繁吉が赤銅色の顔を、飛十郎にむけて頷ずいてみせた。
「親方、その先生はやめてくれ。背中がむず痒(かゆ)くなって困るぞ」
 本当に痒くなったか冗談か、顔をしかめた飛十郎は片手を後に廻して背中を掻きだした。
「ですが、先生じゃいけねえとなると、いったいどう呼んだらいいんで」
「なに、早ちゃんでも、早さんでもいい。どうとでも好きに呼んでくれ」
「まさか。そうもいきますまい」
 太い煙管で莨を吸い付けた繁吉は、にが笑いしながら口から、ぷかりと煙りを吐き出した。若い時分に江戸を皮切りに、上総や安房をはじめ紀州や土佐を渡り歩いたという繁吉に、さほど相模言葉の国訛りはない。
「北斎先生、すぐに離れの向こう山に若い衆を伏せさせやしょう。庭にお出になった時に、ずどんと一発やられたら、ひとたまりもありませんぜ」
「頼みますぞ、繁吉親方」
 緊張した北斎の声を聞いて、不安げに孝太郎と繁三郎は顔を見合わせた。出歩いているのか、お栄はいなかった。
「親方。おれは昨日の夜、玉藻亭という居酒屋で呑んだが、お玉という女将がおぬしのことを、蛸入道の繁公と呼んでいたぞ。いやになれなれしかったが、あの女と何かいわくがあるのか」
 にやにやしながら言って、飛十郎は繁吉を見た。
「蛸入道でも海坊主でも、かまいませんがね。先生、いや早船さんも物好きだねえ。あんな小汚ねえ店で呑みなさるとは、とんだ変わり者だ。あのお玉って女将は、たしかに昔おれが世話をしていた女でさあ。別れた時の手切れ金で、あの店を出したんでさあ」
「は、はは、そうだったのか。知らぬとはいえ、おれもとんだ訳ありの店へ飛び込んだもんだな。それにしても、あの女将を妾にしていたとは、おぬしもとんだ物好きだぞ」
「おからかいなすっちゃいけませんよ。若い頃は、あれでも細っそりしたいい女でしたよ。今はあんな、がらっぱちになっちまいましたが。女は変わるから、恐いや。もっとも、人のことは言えませんがね」
 繁吉はそう言って、平手で坊主頭をなぜ廻した。
「この浦賀の港には、お役人が贔屓になすってる、立派な料亭がいくらでもありますよ。今度、ご案内いたしましょう」
「いや、真っ平だ。料亭なぞは、肩がこっていかん。おれは堅苦しいのは大の苦手でなあ。玉藻亭のほうが、よほどありがたい」
 拳で肩を叩きながら、飛十郎は顔をしかめた。


六 海女酒場

「わしもじゃ。そのお玉という女将は、海女をやっているらしいな、親方」
 北斎が身を乗り出すようにして口をはさんだ。
「この浦賀でも、一、二をあらそう腕のいい海女でございますよ」
「そりゃ都合がいい。親方と、そんな因縁があるなら、どうじゃ口をきいてもらえんかな。海女の仕事ぶりを絵に写したいんじゃが」
「おれなんぞが顔を出したら、お玉が嫌がりますよ。かえって藪蛇で。それより、じかに当たったほうが、ようございますよ。あれは、この辺じゃ珍しいほど、気風(きっぷ)のいい女ですから」
 繁吉は煙管の雁首で、ぽんと灰吹きの竹筒を叩くと、また莨を詰めはじめた。
「まちがいない。おれもそう見た。北斎どのが腹を割って頼めば、二つ返事で引き受けてくれそうな女だったぞ」
「そういうことなら、飛さん善はいそげじゃ。今夜さっそく乗り込もう」
 目を輝かせると、北斎はうれしそうに膝を撫ぜた。絵のことになると夢中になって、兆吉に狙われていることなど念頭になくなるらしい。立ち上がると、絵筆を動かす手付きをしながら、そわそわと座敷を歩きはじめた。
「これは……」
 繁吉は初めて目にする北斎の奇行に、絶句したように息をのんだ。孝太郎と繁三郎は、またかという顔で憮然として見ている。飛十郎も、深川の家で何度も目撃しているから気にもしない。
「大丈夫ですかな」
 飛十郎の耳に顔を寄せると、繁吉が心配そうにささやいた。
「気にするな。いつものことだ。ああなったが最後、人の話も耳に入らんらしいぞ」
 何やら呟やきつつ、我を忘れて歩き廻っている北斎を眺めながら、飛十郎は無精髭に手を置いた。
「ちがいますよ。心配なのは北斎先生がお玉の店に行ったとき、悪党たちが仕掛けてこないかってことで」
「心配いらんぞ。飛さんがついておれば、大丈夫だ。この男の居合の腕は天下一品でな。普段は見ての通り、ぼうっとしているが、いざとなれば実に頼りになる助太刀人じゃ。ま、矢でも鉄砲でも持ってこい!というところじゃな」
 そう啖呵を切るなり、北斎は拳で鼻をこすり上げるような仕草をした。ということは、このお栄の得意技は、父親からの遺伝ということになる。


七 三献酒

「そうでございましょうが。どんな剣の達人上手でも、そのあたりの町人にのされてしまいますぜ。現に五年ほど前に江戸からやってきた、めっぽう強いってえ剣術使いが、ぐでんぐでんに酔っぱらって、漁師たちに袋叩きになってますからねえ」
 力士のように逞しく盛り上がった二の腕をさすりながら、じろりと繁吉は飛十郎を見た。よほど腕っぷしに自信があるらしい。
「それも、そうじゃの」
 首をかしげると、北斎は考え込んだ。
「まて。そいつは、人によって違うぞ。おれは酒が入ったほうが、刀の滑りがよくなるんだ。居合の切れも、いちだんと良くなる」
 酒が呑めなければ、何のために玉藻亭へ行くのかわからなくなる。飛十郎は慌てて振り向くと、北斎を見上げた。
「駄目じゃ。飛さん、玉藻亭では、酒をつつしんでもらおう」
「そいつは、ひどい。酒を呑まない北斎どのにはわからんだろうが、居酒屋へいって酒は駄目だとは、呑んべえにとっては、地獄に落とされたと同じことだ。たのむ、ほんの少しでいい、呑ませてくれんか」
 ものに動じない飛十郎もこれには閉口して、拝むような口調で北斎に哀願した。
「地獄とは、たいそうなことを持ち出すものじゃ。酒が呑めぬわしには理解できんが、よろしい、では三献(さんこん)だけゆるそう」
「三杯だと。それでは、舌を湿(しめ)らせる程度ではないか」
 飛十郎は、情け無い声を出した
「なにも知らん男じゃのう。室町幕府の礼式で、一献とは盃三杯のことじゃ。つまり、九杯まではゆるす、という意味だ。どうじゃ、これならよかろう」
 一瞬、宙に目をすえて、飛十郎は思案した。
――盃の大きさのことは言わなかったな。よし、めいっぱい酒が入る、大きなやつを用意していこう……
「いいとも、それでいい。いや、助かった北斎どの。一時は、居酒屋へいって酒が呑めんかと、ひやひやしたぞ」
 ふところから手拭いを引っ張りだすと、飛十郎は額に浮かんだ汗をふいた。
「わは、ははは。早船さんは、よっぽど酒が好きなんだねえ。一升も、やりなさるかね
 平手で胸毛を叩きながら、繁吉が愉快げに笑い声を上げた。
「そんなには呑まん。一升酒は、年に一、二回だ。普段は三、四合しか呑まん。それ以上やると、狂うからな」


 
八 遠眼鏡

 憮然とした顔で、飛十郎は無精髭をこすった。
「狂うとは、酒で人が変わるのかね。酒乱だとは、見掛けによらねえな。呑みすぎると、大暴れでもしなさるかね」
 繁吉は、意外そうな顔で聞いた。
「馬鹿をいうな。居合の技前のことだ。呑みすぎると、剣先が狂うからな」
 そう飛十郎が答えた時、廊下で足音がして襖がさっと開いた。
「旦那さん。そこのお客人に渡してくれって、子供が手紙を置いていったよ」
 おりんが立ったまま、繁吉に手紙を見せた。
「まった。お客人は四人いるぞ、おりん。誰のことだ」
「そのお侍さんだ。持ってきたのは、船着き場でいつも遊んでいる船頭の倅だよ」
「そうか。わざわざ、すまんな」
 礼を言った飛十郎に手紙を渡すと、おりんは、にこりともしないで座敷から出ていった。
「あれだ。おりんはいい娘だが、愛想がねえのが玉に疵でさあ」
「そうだな」
 書状を開いて目を走らせていた飛十郎が、誰ともなく言った。
「伊蔵からだ。兆吉たちは、対岸の新井町の、吉井屋という旅籠へ泊まったらしい」
「そいつは剣呑だ。吉井屋の二階からなら、遠眼鏡を使えば、こっちの動きは手にとるように見えますぜ」
 繁吉の言葉を聞いて、孝太郎がはっとして立ち上がった。
「遠眼鏡なら、兆吉が持ってるよ。一尺(三十三センチ)ほどの筒の両端に、ぎゃまんが嵌められて伸ばせば二尺になる。遠くの人の顔が、すぐ目の前にいるように見えたよ」
 興奮してしゃべる孝太郎を見て、繁吉は唸るような声を出した。
「そいつは身分不相応だ。まだ、おれだって持ってねえ。なんせ南蛮渡りの代物(しろもの)だぜ。どこで手に入れたんだろう」
「蔵前の札差しの家に盗みに入って、もらってきたと言って兆吉のやつ自慢してやがったよ」
「まったく。近頃の若え者は、ろくなことをしねえな」
 じろりと北斎の孫を睨むと、繁吉は腹にすえかねたように、灰吹きに雁首を叩きつけた。
「よし。きまった」
 黙ったまま無精髭を撫ぜ廻していた飛十郎が、書状をふところにねじ込みながら言った。
「なんのことじゃ?」
「北斎どの。たった今、策がついた。まず考えなければならないのは、火縄銃のことだ。遠眼鏡でこちらの行動を察知されて、狙い撃ちされたらひとたまりもない」
「その通りじゃ。一人づつ全員かたずけられてしまうのは、時間の問題じゃからな」


九 ある兵法

「そうならないよう陸地ではなく、海上で戦うことにした」
「ふむ。義経流の兵法じゃな。さしずめ、屋島か壇ノ浦の決戦ということじゃな。これは、面白い」
 北斎は目を輝かせて乗り出した。絵の材料にするつもりに違いない。
「波によって、舟は絶えず揺れている。陸から狙おうが、舟の上から撃とうが、まず標的を射抜くのは無理だ」
 きっぱりと言い切ると、飛十郎は胸を張った。
「道理じゃの。そもそも剣法は別として、兵法は三つある。武略、知略、計略じゃ」
 坊主頭をひと撫ぜすると、繁吉が感心したように言った。
「さすがは北斎先生、博識ですなあ。そんなむずかしげなことを、よくご存知で」
「あたり前じゃ。森羅万象すべてのことを知らずして、いい絵が描けるか。さしずめ飛さんのこの策は、計略じゃな。兵は迅速を尊ぶ。武田信玄の軍旗〔風林火山〕に、疾きこと風の如く、とある。わしは、これから玉藻亭へ乗り込むぞ」
「え! まだ昼前ですよ」
「昼前じゃろうが、朝飯前じゃろうが関係ない。こういったことは、間髪をいれずやらねば、敵に策がもれる。なあ、飛さんや」
「さよう。すぐ動いたほうがいいでしょう。それに、もう一つ、お玉が引き受けたらだが、親方の手の者を使って噂を振りまいてもらいたい」
「そいつは、ようございますが。いったい、どんな噂を」
「うむ。明朝、北斎どの一行が、お玉の海女振りを見に行くという噂だ」
「こうなったら、わしは膝づめ談判をしてでも、お玉さんに海女の作業振りを見せるよう承諾させるぞ」
 懐中から豆絞りの手拭いを取り出して、威勢よく捩(ね)じり鉢巻きをすると、北斎は腕まくりをした。
「べらぼうめ! やい、お栄と孝太郎、いいか座敷から一歩も出るんじゃねえぞ! さあ飛さん、いくぞ」
 昔とった杵柄(きねずか)か、それとも江戸っ子の心意気か、さっと尻からげをした北斎は足取り強く座敷から出ていった。それを見ると飛十郎も立ちあがって、刀を帯に差し込みながら北斎のあとを追って、ゆっくりと歩きだした。


             了 〈助太刀兵法47・北斎蛸踊り−9―へつづく〉









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