いんど式こうふく論 | |
2008年6月24日 17時7分の記事 | |
ようこそ わたしの愛読書から紹介します。 あるがままに―ラマナ・マハルシの教え ■質問者 (あるがままにp−31) どういう意味で、 私たちの真の本性が幸福あるいは至福だと言われるのでしょうか? マハルシ:完全な至福がブラフマンなのだ。 完全な平和は真我に由来している。 唯一存在するもの、それが意識なのである。 幸福と呼ばれるもの、それが 真我の唯一の本性である。 真我とは完全な幸福以外の何ものでもない。 幸福と呼ばれるそれだけが存在している。 その事実を知って真我の境地にとどまり、 永遠の至福を享受しなさい。 もし外面的な原因や自分の所有するものが 幸福の原因だと考えるなら、 所有するものが増えれば幸福も大きくなり、 所有するものが減るにしたがって 幸福も少なくなると 結論づけることは理にかなっていると言えるだろう。 そうすると、 もし所有するものが無ければ、 幸福はありえないはずである。 実際の体験ではどうだろう? それはこの考えと一致しているだろうか? 深い眠りのなかで、 人は自分の身体も含めて何も所有していない。 それにもかかわらず、不幸であるどころか、 まったく幸せだ。 誰もがぐっすりと眠ることを望んでいる。 つまり幸福は本来、人に備わったものであり、 外的な原因によるものではないということである。 人に生来、備わった純粋な幸福の扉を開くためには、 真我を実現しなければならない。 *ブラフマン:ヒンドゥー教の非人格的絶対神 *アートマン:真我 (引用 福間 巌訳 「あるがままに」ラマナ・マハルシの教え)
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