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土人形(無料公開)
[【時代小説発掘】]
2011年1月23日 16時3分の記事


【時代小説発掘】
土人形
篠原 景 


【梗概】: 
土人形のお告げ。己の運命を直視した遊女たちの物語。

【プロフィール】:
篠原 景。2000年より大学で史学に没頭、時代小説の道へ。敬愛するのは東西のロックの神様。日本文芸学院客員講師。


これまでの篠原 景の作品:
「かまきりと遊女」
「遊女の絵筆」 
「廓の子供 」
「花魁のねずみ」
「春の床]


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【時代小説発掘】
土人形
篠原 景 



(一) 守(しゅ)

 遠くで鳥の細い鳴き声が、身を投げるように長く伸びて、落ちて消えた。部屋に射し込む初夏の陽射しが、畳を白くする。
「浮橋(うきはし)さん、わっちは今までずうっと思い込んでたんだ。わっちはこの先、ここで女郎勤めを続けた末に、病んで苦しんで死ぬか、売れなくなって、河岸女郎に落とされて、やっぱり病んで苦しんで死ぬか、そのどっちかだってね」
 鈴音(すずね)が形の良い目を細めて、遠くを見るように言った。
 昼見世前の自由時間、鈴音の部屋に来た浮橋が、鈴音の細い腕に出来た赤い痣、昨日、遣手に突き飛ばされたときに出来た痣を見て、思わず痣の周囲をさすってやったときのことだった。
「鈴音ちゃん、あんまり先の話をしちゃア、いけないよ」
 浮橋はわざと明るい声を出した。鈴音の言ったことは、吉原の遊女たちが等しく抱えている不安であり、実際その通りの最後を迎える者があまりに多過ぎた。
「先の話なんぞしたって、いいことなんかありゃしない」
「だから、思い込んでたんだよ」
 江戸紫の袖を下ろし、鈴音は浮橋に向き直った。その表情は明るい。
「この世にはね、決まったことなんかありゃしないんだよ。誰だっていつかは死ぬ。それ以外のことで必ずはないんだ。あのね……」
 鈴音が抽斗から、鬱金(うこん)色の袱紗を取り出した。開いて中から出てきたのは、掌にのせるのに丁度いい、猫のような狐のような、顔だけはどこか人のような土人形である。白色で、すましたように座った姿の大きくそらした胸のあたりには、緑の葉が二枚ついた緋牡丹が描かれている。尻尾はない。
「これ、神様なんだよ。この世に決まったことなんかありゃしない、もうすぐ分かるって。ほら……あの……異国の船は長崎にしか来ないはずなのに、おととしと去年と、黒船とか言うのが、江戸のすぐそばまで来たんだろう? それがいい証だって。おとついの晩、わっちにお告げをくれたんだ」
「ちょっと、鈴音ちゃん……」
 浮橋は顔を曇らせた。
 今年十九の鈴音は、半籬(はんまがき)と呼ばれる格を持つ浜田屋に四十人ばかりいる遊女たちのなかでも、抜きん出た美貌を持っている。まるで絵のように整った顔立ちに加え、ほっそりとした首筋や立ち姿には、男ばかりではなく、妓楼というものがおおよそ分かり始めた幼い禿(かむろ)たちまでもが、憧れの吐息を洩らしている。
 しかし、鈴音には、容姿以上に人と違ったところがあった。
 感覚が鋭過ぎるのである。
 かすかな物音を聞きとめ不審がる、夜見世に来た客が昼に食った物を僅かなにおいで密かに言い当てる、などというのはしょっちゅうで、口の悪い朋輩のなかには「鈴音さんは耶蘇(やそ)の秘術を遣っているのさ」とまで言う者もいる。
 「客のことがあれこれ分かっていいじゃないか」と言われることもないわけではないが、鈴音のような女が遊女でいることはすべてにおいて地獄だった。日々神経を擦り減らしてもなお、うまくいかないことが多い。
 抜きん出た美貌ゆえに新しい客は絶えないが、いずれもあまり長続きしないのも、そのあたりが原因であった。
 昨日、遣手に突き飛ばされたのも、階段口で体臭のきつい客とすれ違ったとき、思わず噎せてしまったためだ。
 鈴音より三つ年上の浮橋は、そんな鈴音が気にかかってならなかった。
 そして今、口許に笑みを浮かべ、手にした土人形をうっとりと眺める鈴音の様子は、とても尋常とは言い難い。不幸に押しつぶされた鈴音が、今まさに壊れかけているのだと思った。
 浮橋は思わず鈴音の両肩を掴んだ。
「ねえ、鈴音ちゃん。しっかりおしよ。これはただの人形だろう?」
「ただの人形だなんて言わないでおくれよう。わっちは確かにお告げを聞いたんだ」
 鈴音が土人形を浮橋の方に向けた。土人形の、黒と赤で描かれた吊り目が、まっすぐに浮橋を見る。土人形の向こうには、鈴音のとろりとした笑顔がある。
「……その人形……どうしたんだい? 買ったのかい?」
「前に辰さんがくれたの。どこかの神社の縁日のおみやげだって」
「辰さんが……?」
「そう。だからその神社の神様の、お遣いなのかもねえ。今度きちんと訊いておかなくっちゃ」
 辰さん、辰之助は、鈴音が夢中になって、訪れを心待ちにしている客だった。
 年は二十七、八といったところだろうか。ありふれた言葉で言えば役者のような、実に見た目の良い男で、鈴音と並べばこれ以上ないほど似合いの二人であった。
 しかし得体の知れない男でもあった。どこそこの大店の次男坊で、などと言っており、金離れも悪くないのだが、金持ちの家に生まれた者特有の鷹揚さは全くなく、無口で、ひどく冷たい目つきをしている。
 初めて辰之助の姿を目にしたとき、浮橋は鈴音に、
「あの男には気をつけなくっちゃいけないよ」
と耳打ちした。
 しかし鈴音はたちまち辰之助に夢中になった。鈴音に言わせれば、「あんな人、他にいやしない」らしい。
 そもそもきちんと金を払って遊んでいる客である。こうなってしまえば、周りに言えることなど何もない。
「……辰さんとは、うまくいっているのかい?」
「勿論さ。今日か明日あたりには、また来るはずさ。でもそんなこと気にかけてくれるの、浮橋さんくらいだよ。嬉しいよ」
「そうかい……」
 抑えた溜息をつきながら、鈴音の小さな手のなかの土人形に目をやった浮橋は、ふと、人形の顔つきがどこか辰之助に似ていると気づいた。口には出さなかった。

 その日、夜見世が開いてすぐやって来たのは、浮橋がもっとも心待ちにしている客、菱屋甚左衛門であった。
「甚さま。お待ちしておりましたえ」
 足早に歩み寄る浮橋の声も自然と高くなる。
「この頃、お顔が見れなくって、ほんに淋しい思いをしておりんした。ああ、もう、来てくださって嬉しいやら、悔しいやら」
「そりゃあ、すまなかった」
 日本橋にある糸問屋の主人である甚左衛門は、五十を前にした白髪混じりの頭の、落ち着いた物腰の男である。だが、商いの方はかなりふるっており、しかも子供が出来たのが遅かったことから、まだまだ隠居になる予定もない。
 浮橋は、これまで客の確保に頭の痛い紋日や、何かでまとまった金が入り用になると、たびたびこの甚左衛門の世話になっている。
 甚左衛門は遊びに深入りする男ではないので、身請け話など出ようはずもないが、金離れはかなりいい。また、酒の席や床で、見苦しい振る舞いをすることもない。
 間違いなく、遊女にとって理想の男だと、浮橋には思えた。
「ねえ、甚さま。今日は泊まっていってくださいましよ」
「ああ、そうしよう」
「嬉し」
 浮橋は首をかしげて微笑みながら、男の茶色い着物の胸を、いとおしげに撫でた。
 甚左衛門が来てすぐに、僧侶の客も一人来て、宴席をこなし、僧侶の方を適当に片付けた後、浮橋はようやく甚左衛門と二人きりになった。
「そうそう浮橋。とても腕のいい職人がいると聞いたものでね、お前に、思いきり意匠の凝った蒔絵の煙草盆を作らせようと思うのだが、どうだろう。一緒に煙管(きせる)や火入れを誂えてもいい」
 浮橋が傍らに座り酌をするや否や、甚左衛門が急に切り出した。
「本当でござんすか? なんと待ち遠しい。楽しみにしておりんす」
「待っているだけじゃあ駄目だよ。お前が意匠を考えるんだ」
「……わっちが?」
「そう、お前がだ。金は惜しまないから、とびきり工夫をこらした意匠を考えて、周りに自慢してやれ」
「あれ、まあ……」
 銚子を置いて、浮橋は甚左衛門に体を投げかけた。
 客から身の回りの物を与えられるのは、遊女の暮らしの一部である。しかし今回のような申し出は初めてだった。
 二人で笑いあいながら床へと移り、間もなく浮橋は、甚左衛門の為すがままになった。
 甚左衛門はしきりに浮橋の胸や腹、臀部をまさぐっているが、浮橋に体の悦びはない。この稼業のはじめから全くなかったというわけではないのだが、次第にどうでもよくなったという方が正しい。
 ただ、悦びに似たものはあって、それは、好ましい男を体でしっかりとつなぎとめているという満足感であった。
 しかも今、浮橋の頭の中は、早くも煙草盆の意匠でいっぱいになっている。
 苦界と呼ばれる吉原暮らしは、先を思えば暗澹とするが、それでも心静かに暮らそうとすれば、時々このような楽しみにも恵まれるのである。このことが、浮橋を、いや、多くの女たちを支えている。
 (だから、先のことなんざ、考えるもんじゃないんだよ……)甚左衛門の、張りのない体の下、声に出さずそう呟いた浮橋は、少しばかり間を置いてから、自分は今、鈴音に向かって呟いたのだと気づいた。また、昼間の鈴音が思い浮かぶ。
 甚左衛門が果てた後、浮橋は何でもないことのように切り出してみた。自分でもどうしてなのかはよく分からない。
「ねえ甚さま。この世には、いつか死ぬってこと以外、決まったことなんかありゃしないっていうのは、どのくらい本当なんでありんしょうか」
「どうしたい、急に」
「……いえね。見世のなかに、そんなことを言う者がおりましてね。わっちには分かるような分からないような……。甚さまは学問がお好きでいらして、難しいことをたんと知っておいでだから、訊いてみようかと」
「ふうむ、諸行無常ということだろう。古くは鴨長明殿も言っている」
「かものちょうめい……?」
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。方丈記という書の冒頭だ。私も気に入って買い求め、手許に置いている。世のなかは水の流れのようなもので、何一つ定まりない、それこそが世の理、ということだ」
「ああ、水の流れ……。やっぱり甚さまだ。わっちにも少し分かったような気がする」
 そう言って微笑んでみせた浮橋だったが、何かが違うような気がした。
 その後、甚左衛門が軽い寝息をたて始めたので、一旦部屋を出た浮橋は、廊下で鈴音を見かけた。
 薄暗い廊下を照らす八間(はちけん)の、ちょうど真下にいた鈴音の隣には、鈴音の想い人、辰之助と思しき男の姿があった。
 よくは見えないが、それでもはっきり似合いと分かる二人で、しかも実に仲睦まじい。あれほどまでに屈託のない鈴音の様子は珍しいのだ。
 (つまるところ……)と、足早に部屋へと戻りながら、浮橋は心の内で呟いた。
 ——鈴音ちゃんの楽しみ、いや、幸せは、辰之助以外にないんだ……。
 他のものでは、もはや鈴音の心には届かないのだ。そして、一人の男を想えば想うほど、先への絶望は深い。
 (この世に決まったことなんかありゃしない、か……)昼間、鈴音が言った言葉の裏には、哀しみ、いや、哀しい願いがあるのだと思い至り、浮橋は、急に胸のつかえが取れたような気がした。同時に、いとおしげに土人形を撫でていた鈴音の姿を再び思い出し、胸につまるものがあった。
 立ち止まった浮橋は、小さく首を振り、新しい煙草盆の意匠に無理矢理頭を切り替えた。


(二) 破(は)

「ねえ、鈴音さんのお客、あの若くって随分と姿のいい、辰なんとかって男、捕まったんだってよっ」
 浮橋の部屋に来て、そう切り出したのは、朋輩の菊袖であった。客の少ない昼見世が、もう終わろうかという頃である。
「一体何をしたんだい?」
「ここ最近、江戸を騒がせていた押し込みの一味を捕えてみたら、その頭があの男だったって」
「何てこと……」
「今ね、お役人が下に来ているんだよ」
「鈴音ちゃんかい?」
「そうさ。内所(ないしょ)の方じゃかなり渋い顔をしている。あの男がこの見世でじゃんじゃか遣った金の出所(でどこ)が押し込みとなりゃ、一番いい思いをしたのは手前(てめえ)らだろうに。一度懐に入った金を、左様な訳がございますれば……なんて言って、返すことにはならないんだ。だがあの様子じゃあ、鈴音さんを厄介者呼ばわりしかねない」
 菊袖は、心底憂鬱そうに溜息をついた。
 吉原で働く女たちは、貧しい農村出身の者が多いのだが、菊袖は江戸生まれの江戸育ちであり、気性がさっぱりとしていて義侠心が強い。浜田屋に来たのも、岡場所で働いていた際、警動(けいどう)と呼ばれる取り締まりにあって、懲罰として唯一の公許の遊郭である吉原勤めを命じられたからであり、少々他の女たちとは違うところがあった。
 浮橋は、そんな菊袖と日頃から親しく、鈴音のことを案ずる気持ちを、菊袖だけには打ち明けることが出来ていた。
「でも菊袖さん、上の機嫌も気にかかるが、それよりも心配なのは……」
「ああ、分かってるよ……」
 二人でしばし黙り込んだ。
「まったく……とんだ色悪(いろあく)だっ」
 菊袖が吐き捨てるように呟いた。
 その後、何事もなく始まった夜見世に鈴音はいつものように並んで、周りの女たちの密かな目配せに取り囲まれていた。
 鈴音には客はあったが泊まりの客はなかったので、浮橋は、自分の泊まりの客が寝たのを見計らって、鈴音の部屋に足を向けた。
「鈴音ちゃん……鈴音ちゃん……起きてるかい?」
「浮橋さん?」
「そう……ちょっといいかい」
「入ってちょうだい」
 浮橋が入ると、鈴音は寛いだ身なりで文机に向かっていた。文机の上には、何もない。
「あのね、野次馬根性だとは思わないでおくれよ。……どうにも鈴音ちゃんのことが気になってさ」
「分かってるよ、浮橋さん。ありがとう。嬉しい」
 鈴音はそう言って、小さく歯を見せて微笑んだ。
「でもね、大丈夫なの。心配しないで。私には、ほら……」
 懐から取り出したのは、前にも見せられた鬱金色の袱紗で、無論、包まれているのはあの土人形である。
 取り出した土人形を、鈴音は以前もそうしたように、とろりとした笑顔のままで見つめている。
「この世に決まったことなんかありゃしない」
「……その人形は、辰さんの……今回のことをお告げで教えていてくれたっていうのかい?」
「さあ……どうかしら……。違うような気もするし。……辰さんは打首となりんしょう。辰さんがこの世からいなくなりいすのは淋しいけれど、わっちは何かもう、先のことが怖くなくなってしまったんだよ。だから浮橋さん、わっちはもう、大丈夫」
 何が大丈夫なものか、と浮橋は心の中で憤った。そして同時に、せめて自分にくらいは弱音を吐いて欲しいのに、という淋しさもあった。
 だが、人の顔色を読むことを商売としている身であるのに、浮橋には、鈴音の顔に一切の弱気が読み取れないのも事実であった。
 行灯の炎が揺れ、鈴音の手の土人形の顔に、表情が見えた、気がした。
 浮橋は思わず肩の上から羽織った着物の下で、密かな身震いをした。
「……わっちにも出来ることがあれば、何でも言っておくれよ」
「うん、ありがとう、浮橋さん」
 鈴音の部屋を出た後、遊女のならいの素足がいつもより冷たいと感じながら、夜も更けていく廊下に、つっかけた上草履の音を響かせた。

 観念したらしい辰之助の調べは早々と進み、裁きの結果は打首、獄門となった。
 辰之助の刑が執行され、首が小塚原に晒されたとの報せは浜田屋にも入り、その日から浜田屋では、権八・小紫の名がさかんに囁かれた。
 権八こと平井権八は、延宝の頃、吉原の妓楼三浦屋の太夫、小紫の許へ通うために、金目当ての辻斬りを重ねた男だった。しかしそんなことがいつまでも続くはずもなく、奉行所に追われる身となり自首、磔の刑に処されることとなった。
 その後、世間を驚かせたのは、小紫が権八の埋葬された場所を訪ね、密かに自害して果てたことであった。小紫も権八に惚れていたのだ。
 太夫であった小紫はもちろん、権八も、実に優れた容姿の持ち主であったと伝えられる。
 二人の恋の顛末は、平井権八の名を白井権八と変えて芝居などになり、今に至るまで語り継がれている。
 まるで役者のような見た目で、金離れの良かった辰之助の金の出所(でどこ)が度重なる押し込みとなると、確かに辰之助と鈴音の組み合わせは、権八と小紫の二人を思い起こさせる。そして、権八・小紫を思い起こした浜田屋の面々が次に思い浮かべるのは、小紫の末路であった。
「ねえ、浮橋さん。あたしはもう、気がかりでならないよ」
 朝風呂を浴びた浮橋が、襟足に残る湿り気を拭いながら、雨がちな空と秋枯れの風情の中庭を眺めていたとき、いつのまにか隣に来ていたのは、菊袖であった。菊袖も風呂上がりの姿で、ほつれた髪の毛が首に張りついている。
「鈴音さんがまた内所に呼ばれたよ」
「また……」
 このところ、鈴音が短慮を起こすのではないかとさかんに囁かれているため、鈴音はたびたび内所に呼ばれ、きつく叱りつけられている。してもいないことで叱られるのはおかしな話だが、鈴音の側に原因がないわけでもなかった。
「……浮橋さん。鈴音さんは、おかしくなっちまったのだろうか。誰彼構わず〈決まったことなんかありゃしない〉とか変な話ばかりして……。それだけあの男に惚れていたのかね。だとしたらやっぱり……」
「……うん」
 菊袖の声には、他の女たちのように今回の一件をどこか面白がる様子が全くなく、浮橋は何かを打ち明けたいような気持ちになったが、うまく言葉にはならなかった。
「……鈴音ちゃん、少し痩せたようだねえ……」
「ああ、まだ客の相手に障りが出ていないからいいものの、これ以上、内所の機嫌を損ねたら、住み替えだよ」
 住み替えとは別の見世に売られることで、多くの場合、格下の見世にやられることを意味する、
「……菊袖さん、うっかり湯冷めしちまった。部屋に戻ろうよ」
「ああ、そうしよう」
 その夜、夜見世が開く前に、浮橋は鈴音の部屋を訪れた。
 支度を終えたばかりの鈴音は、臙脂(えんじ)の仕掛けもよく映えて、浮橋ですら一瞬動きを止める美しさであった。
「ねえ、鈴音ちゃん……」
 自分も松葉色の仕掛けを引きずって、鈴音のすぐ近くに座った浮橋は、大きく息を吸ってから切り出した。
「お節介だと思って、でも聞いとくれね。鈴音ちゃんの、その……人形のお告げを皆に言うの、止めに出来ないかねえ……」
「どうしてだい?」
「だって……だって、鈴音ちゃんのためにゃアなりやしないもの……」
「だから、わっちは怖くない」
 真顔で言い切った鈴音のとりつくしまのない様子に、浮橋は、鈴音はもう遠いところに行ってしまったのだと感じた。
 しかし、諦め半分に視線を鈴音の手許に落としたとき、浮橋の目は大きく見開かれた。
 鈴音の手が、小さく震えているのである。
 浮橋は反射的に身を屈め、鈴音の手を自らの手で包み込むようにした後、ゆっくりと鈴音を見上げた。
「鈴音ちゃん……鈴音ちゃん……。出来るだけ、ちっちゃなことを考えようよ。おっきなことを考えたら、辛いことばかりだけれど、ちっちゃなことなら、そりゃ嫌なこともあるけど、楽しいことだっていっぱいあるよ。ねえ、そうだろう? たとえばさ、昨日貰った浅草餅、あれは結構、旨かったじゃないか。そうそう、わっちは今度、とびきり豪奢な煙草盆を拵えるんだよ。わっちが意匠を考えるのさ……」
 早口でまくしたてながら、何故か涙が出てきた。鈴音を哀れに思う一心であったはずが、いつしか気持ちが己にも向いていた。
「浮橋さん、泣くこたアないよ。もう」
 鈴音の指が浮橋の目の下を柔らかく拭う。
「浮橋さんは、本当にいろいろと案じてくれるんだねえ。でも何度だって言うよ。わっちは大丈夫さ。小紫じゃアないからね。自分で死んだりするものか」
「鈴音ちゃん……」
「さアさ、見世が始まっちまうよ。今日はちゃアんと、見世に出ていなくっちゃ」
 鈴音に急かされた浮橋は、今日は、という言葉に引っかかりを覚えたが、一体どっちが慰められたのか分からない気恥ずかしさから、何も訊けなかった。
 先に部屋を出るとき、視界の端に、鈴音があの袱紗包を懐に入れるのが見えた。袱紗にくるまれているのは、あの土人形に違いなかった。


(三) 離(り)

 何が起こったのか、分からなかった。
 馴染みの客が帰るのを見送りに階段を下りたとき、客が来たのを迎えたばかりの鈴音の横を通り過ぎた。鈴音の様子がいつも通りなのを横目で見た。
 人の出入りでごった返している入り口を出たとき、雨は止んでいるものの、重く湿った冷たい空気が肺に入ってきて、何となく空を振り仰いだ。
 そのとき、全身に、叩きつけられるような衝撃が走った。地面が跳ね上がるかのようで、凄まじい音がした次の瞬間、浮橋は気を失った。
「——浮橋さんっ、浮橋さんっ、浮橋さんったらっ」
 揺さぶられて気がつくと、すぐ前に菊袖の汚れた顔があった。
「気づいたかい? さあ立って。どこか痛むかい?」
「……頭の……後ろ……」
「木切れか何かにぶつけたんだろう。ひどく痛むかい? 立てないかい?」
「……ううん、立てるよ」
 よろけつつも体を起こしながら、浮橋はようやく周囲を見渡した。暗さもあり、はじめは訳が分からなかった。
「すごい地震だよ。どこの見世も、みんな潰れちまった……」
 浮橋が息をのんで振り返ると、すぐ後ろに浜田屋と思しき建物があり、通りに面したあたりが完全に崩れ落ちていた。張見世の格子も割れて、尖った角材の一つ一つが虚空を刺している。
 そして、そのような惨状をはっきりと確認出来るのは、既にあちらこちらで火が出始めているからであった。
「……鈴音ちゃん……皆……そこにいた……」
「奥の方は分からないが、入口ンとこにいた奴アもう駄目だ。完全に潰れちまってる。あたしらは、見世の前にいたから助かったんだ……。さあ、こうしちゃいられないよ。浜田屋(うち)でも助かった奴ア、這い出してきた順に逃げてる。あたしらも、火がまわる前に行こう」
「ああ……うん……」
 裾の乱れも構わず立ち上がった浮橋は、混乱のあまり、まだ少しぼうっとする頭の片隅で、かねてから教えられている道筋を思い描いた。
 吉原の妓楼では、災害の折の遊女たちの避難先を予め用意してあり、そこに至る道筋を女たちに教え込んでいる。女たちの多くが地方出身で江戸の町をろくに知らぬためだ。
 浜田屋の避難先は、古くから付き合いのあるという浅草の大店の持ち家で、十年前、吉原が全焼したときに一度だけ、子供だった浮橋は、姉女郎に手を引かれてその道を走っている。
 だが、急に浮橋の袖を引き、顔を寄せてきた菊袖が囁いたのは、予想外の言葉であった。
「こんな地震じゃ、町の方もひどい有り様だろうが、あたしにゃアテなんざいくらだってある。浮橋さん、逃げよう」
 (……逃げる……わっちが……廓を……出る……わっちが……?)
 確かに今なら逃げられるかもしれない。だが、たとえ廓を出たとしても、言葉遣いから立ち振る舞い、生活上の知識まで、すべてが素人女とあまりにかけ離れた吉原の女が逃げおおせるというのは、並大抵のことではなかった。
 ぎこちない動きで菊袖の顔を見ると、菊袖は力強く頷いた。つられて浮橋も頷いた。
 菊袖に手を引かれ走り出した浮橋は、つっかけた下駄が片方脱げているのに気づき、躊躇なくもう片方も脱ぎ捨てた。
 闇と炎の色と、悲鳴が入り混じる眼前に、十年前、一度見たきりで記憶も朧なはずの江戸の町が、不思議とはっきり見える気がした。
 不意に鈴音が繰り返していた言葉が思い出される。喉から嗚咽のように、
「鈴音ちゃん……鈴音ちゃん……」
と声が漏れた。
 それを聞きとめ、純粋に鈴音を悼む声と誤解した菊袖が、
「鈴音ちゃんの分もしっかりするんだよっ。浮橋さん」
と、自身も涙まじりの声をかけてくれたが、浮橋は聞いてはいなかった。
 いつしか浮橋の耳の底では、浜田屋が崩れ落ちる瞬間、聞こえたはずもない音が繰り返し鳴り響いていた。あの土人形が鈴音の懐で、牡丹柄の胸を大きくそらしたまま、粉々に砕け散る音だ。
「鈴音ちゃん……鈴音ちゃん……」
 力強く足を動かし続けながらも、浮橋の呟きは止まらなかった。

                          了

参考
若水俊『安政吉原繁盛記 大地震と遊郭』(角川学芸出版、2010年)




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10/26 08:49 「本日のマーケット」(FX編)・・・今週は日米の金融政策イベントに注意。
10/26 08:40 「本日のマーケット」(株式編)・・・ 続伸後に日経平均株価が1万9000円台を回復。
10/21 08:39 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円ちょうどの壁を意識。
10/21 08:25 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、方向感の出づらい展開。
10/19 08:33 「本日のマーケット」(FX編)・・・午前11時に発表される中国の一連の経済指標に注目
10/19 08:23 「本日のマーケット」(株式編)・・・午前11時、中国経済の指標しだい。
10/14 08:48 「本日のマーケット」(FX編)・・・昨日に続き中国の経済指標。米9月小売売上高。
10/14 08:31 「本日のマーケット」(株式編)・・・前日の動きが継続し軟調な展開。
10/13 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円大台を中心に方向感に欠ける動きが当面続きそう
10/13 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・5日線(前週末9日時点で1万8218円)が下値を支え
10/05 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京タイムではドル円やクロス円は押し目買いが優勢
10/05 08:34 「本日のマーケット」(株式編)・・・続伸後、日経平均株価が1万8000円に迫る。
10/04 12:07 江戸浅草物語13「天海僧正の結界が破られる時、魔界の者たちの進撃が始まるのか」 (無料公開)
10/02 08:44 「本日のマーケット」(FX編)・・・米雇用統計を控えた様子見姿勢
10/02 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・週末要因や米雇用統計を前にポジション調整
10/01 08:47 「本日のマーケット」(FX編)・・・9月日銀短観、9月中国製造業購買担当者景気指数(PMI)などが材料。
10/01 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・欧米株式の上昇を受けて買いが先行後、もみ合い。
09/30 08:52 「本日のマーケット」(FX編)・・・日中は119円後半のもみあい
09/30 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・反発後、上値が重い展開。
09/29 08:55 「本日のマーケット」(FX編)・・・株安・円高パターンの継続はドル高圧力を後退
09/29 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落後に落ち着きどころを探る展開。
09/28 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京時間のドル/円は120円半ばを中心にもみあい。
09/28 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、もみ合い。
09/25 08:53 「本日のマーケット」(FX編)・・・・朝方、イエレン米連邦準備理事会(FRB)議長が年内利上げが適切との見方を
09/25 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・引き続き弱含みで推移。直近の安値1万7415円61銭を意識。
09/24 08:37 「本日のマーケット」(FX編)・・・・連休明けの東京時間のドル/円は120円前半を中心にもみ合う展開。
09/24 08:26 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落スタート。連休中にNYダウが軟調に推移。
09/20 10:55 〈助太刀兵法45〉北斎蛸踊り(7)(無料公開)
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