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女忍び無情(無料公開) 
[【時代小説発掘】]
2011年7月10日 10時44分の記事


【時代小説発掘】
女忍び無情
鮨廾賚


(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


【梗概】: 
三好長慶の死の真相を探っていた女忍びあや女は、上泉信綱を破った無月冬四郎の噂を聞く。その強さに惚れ込んだあや女だったが、冬四郎が上泉信綱の弟子になりたいと言い出して・・・・。


【プロフィール】:
鮨廾賚此 昭和33年(1958)生まれ。大阪在住。平成22年(2010)第40回池内祥三文学奨励賞受賞。現在、新鷹会会員、歴史研究会会員、大衆文学研究会会員。



鮨廾賚困里海譴泙任虜酩福

秘太刀「一心の剣」
風烈廻り昼夜廻り同心朽木重四郎 
雲、流るる
猿御前
信綱敗れる 
中条流平法 
沼田法師 

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【時代小説発掘】
女忍び無情
鮨廾賚



 

 ――上泉信綱が敗れたらしい。
 と、いう噂を聞いたのは、下京の大きな酒屋の中だった。
 あや女(め)は、京の噂を拾おうと、その酒屋に居続けている。焼き味噌を舐めながら、ちびちびと飲んでいた。ゆうに一刻(二時間)は越しているだろう。
 茶筅に髷を結って、長羽織を着た男装束だが、色の白さと涼やかな目鼻立ちは、逆に男心をそそるのだろう。男色を口説きにくる不心得者がいる。
「去(い)ね」
 きっぱりと断って、三好家の家紋である〈三階菱釘抜〉の手札をこっそりと見せると、あっさりと側を離れていく。
 女に戻って着飾れば、その若さと美しさは、さらに際だつのかも知れない。
 畿内の実力者三好長慶が亡くなったのは、二月前のことだった。その後は養嗣子の義継が継いだが、幼少のため一族の三好三人衆や家宰の松永弾正が補佐する形をとっている。あや女の主人三好日向守長逸(ながやす)は、そんな三好三人衆の筆頭格で、京洛に留まらず畿内近国にその名がとどろいていた。
 このところあや女は、日向守の命を受けて、亡くなった三好長慶についての噂話を集めている。
 ――長慶どのの死は、家宰松永弾正どのの毒殺ではないか。
 という噂が、京雀の間でまことしやかに囁かれているという。
 その真偽を探るのが、あや女の本来の務めだった。だが、ともすれば同じ頃に起きていた上泉伊勢守信綱と無月冬四郎の仕合のことに耳がそばだってしまう。いまがまさにそうだった。
「ほう。して誰に敗れたのか?」
 酒を飲みながら、大声で話しているは、旅の兵法者らしき髭面の男二人である。やや訛はあるが、それほどきついものではない。
「それがのう。無月冬四郎という若者らしい」
 余所でも幾度か耳にした噂話だったが、気持ちがついそちらの方にいってしまうのは、己よりも強い者に憧れる女忍びとしての性(さが)だろうか。あや女は、気を集中してしっかりと聞き耳をたてた。
「聞いたことのない名だのう。わぬし、担がれたのではないか」
「まさか。見届け人を努めた兵法者の話では、確かに上泉どのが、負けを認めたというぞ」
「ということは、死ななかったということか」
「わぬし知らぬのか。上泉どのの新陰流は、刀や木太刀で仕合うことはないわい。袋巻きにした竹の刀を使うのよ」
 男の声には優越感が込められていた。
「何じゃ、竹の刀だと。バカバカしい。そりゃ仕合ではのうて稽古ではないのか」
 もう一人の男が、呆れたように言った。優越感に対する反発の気持ちもあるのだろう。「確かにのう。公方様に剣技を披露した上泉どののことじゃ。訳あって勝ちを譲ったのであろうのう」
 上泉信綱が、己の創始した新陰流を将軍義輝へ上覧に供したのは、この年三月のことだった。
 足利十四代将軍義輝は、兵法への造詣なみなみならぬものがあり、新当流塚原卜伝の高弟でもある。
「上覧に供した後、仕合の申込みが引きも切らぬと聞いたぞ」
「おお、そうじゃろう。それにのう。聞けば上泉どのが仕合うことは無いと聞く。まずは弟子の疋田文五郎が立ち会い、全て退けるということじゃからのう」
「いかにも。いかにも。わぬし、担がれたのよ」
 男のしたり声が、妙に癇に障る。
「うむ。検分役の兵法者も胡乱(うろん)な男らしくてのう。評判がすこぶる悪い」
「ほう」
「派手な装束に『兵法扶桑第一人者』という旗指物を負っていたという」
「近頃は奇をてらう者が多くなったのう」
「つまらん。この話はやめにしよう」
 やがて、男たちの話題は、三条柳町の遊君のことに移っていった。
 あや女は気を戻した。やはりそうか、と思う。いずれの噂話も落ちは決まっていた。
 ――上泉信綱どのが敗れるはずがない。
 と、いうものである。
(果たしてそうだろうか?)
 兵法者同士の話を聞く度に、あや女の胸に疑問が沸き上がってくる。
 上泉信綱と無月冬四郎が仕合ったときの検分役にも直接質してみたが、
「わしには相打ちに見えた。だがのう、当の上泉どのが手ずから負けを認めたのよ」
 ゆえに上泉どのの負けよ、と見届け人は屈託なく言った。
 そのときあや女は、なぜこのような男を立会人に立てたのか不思議に思ったものだった。
 その思いは、今は怒りに変わっている。何に対する怒りかというと、あや女自身にもはっきりとは分からない。
(やはり無月冬四郎に会うべきだ)
 あや女はそう胸のうちで決して腰をあげた。


 

 洛西、嵐山の辺りを無月冬四郎は彷徨っていた。
 今はやんでいるが、昨日まで秋の長雨が続いた桂川は、水嵩が増し、茶色く濁って流れも速い。
 それはあたかも、冬四郎の胸の内を象徴するかのようであった。
 冬四郎は今でも上泉信綱に勝ったことが信じられなかった。
 二月ほど前のことである。
 西福寺の裏手にあるすすきが原で、冬四郎は上泉信綱と見(まみ)えた。このとき信綱は五十七歳。髪は白く、痩せて、静かに老いの陰が忍び寄っていたが、なお眼光は鋭く、長年の風雪に耐えた風貌には、人を威圧してやまない凛とした威厳が備わっていた。自ら新陰流を創始し、その名は剣門江湖(けんもんこうこ)、刀派武林(とうはぶりん)に知らぬ者とてない。
 だが、冬四郎とて長年の苦行に耐えて、自ら取得した一剣には、無敗の気が込められていた。信綱何する者ぞ、との気力が溢れていたのである。
 このとき信綱は、弟子の疋田文五郎、神後伊豆の他に検分役として一人の兵法者を伴っていた。その男は年齢の頃は三十過ぎくらいであろうか、初秋とはいえ紅梅色の小袖に鹿革の袴を着し、猩猩緋の陣羽織の背に「兵法扶桑第一人者」という旗指物を負っていた。弛緩した丸顔と合わせて、とても旅の兵法者とは思えぬものであった。
 なぜこのような胡乱な者を立会人に選んだのか、冬四郎は信綱の真意を図りかねながらも、
「真剣で」
 と、申し入れたが、
「当方はこれにて十分」
 信綱はあくまでも袋竹刀を取っての立ち会いを譲らなかった。
「臆したか!」
 無月冬四郎の挑発にも、
「新陰流の流儀なり」
 信綱は泰然として自若であった。
「むむ」
「嫌なら、それがしがお相手つまかつろうか」
 ためらっている冬四郎に、疋田文五郎が挑発するような言葉を投げた。
 文五郎は冬四郎と同じ二十七歳。すでに新陰流を極めたといわれている。常に師信綱の傍らに侍して、まずは文五郎と立ち会うのが、新陰流の通例だった。
 そのため冬四郎は、兵法指南に名を借りて、直接信綱との立ち会いを求めたのである。 もくろみはうまくいったが、名目はあくまでも兵法指南である。相手が真剣を取らぬうえは、おのれが真剣というわけにはいかなかった。
「分かった」
 やむなく冬四郎は、文五郎の差し出した袋竹刀を受け取った。
 二人は五間ほどの距離を置いて対峙した。
 互いに中断に構えている。
「むっ・・・・」
 冬四郎の剣先がぴくりと動いてすぐに止まった。思わず顔をしかめる。真剣とは明らかに違う感触である。長さは同じ位だが、重さは木太刀に近い。反りが無く、真っ直ぐである。今までに使ったことのない武器に冬四郎は、内心やや戸惑っていた。
 信綱の表情は全く変わらない。黙したまま石像になったように微動だにしない。
 冬四郎も覚悟を決めて、手に持つ袋竹刀に気を集中した。
 二人が対峙したまま、およそ一刻ほどが過ぎた頃、やっ、という気合いが信綱から発せられた。
(来る)
 冬四郎の全身の気が袋竹刀に満ちた。
 踏み込むと同時に、中段から上段にゆっくりと引き上げられた信綱の袋竹刀は、一瞬にして冬四郎の左肩に振り下ろされた。その速さは冬四郎の予想を超えるものだった。
(しまった!)
 と思ったとき、冬四郎の身体は、信綱の動きに反応していた。自身の身を沈めると、袋竹刀を中段から右下に鋭く回転させ、信綱の左胴をとらえていた。
 それは冬四郎の意識しない自然な流れであった。身体が無意識のうちに反応した、といったら良いだろうか。
 ぴしりという音の後に、冬四郎の左肩に鋭い痛みが走った。
 冬四郎の竹刀は、信綱の胴を確かに捉えている。
 そのまま、両名ともぴくりとも動かない。いや、動けなかった、といった方が正確だろうか。
「む、むむ・・・・。いずれが・・・・」
 検分役は、信綱の左肩が先か冬四郎の胴が先か見極められないようだ。両者互角のように見えたのであろう。
 ややあって信綱は、
「お見事。それがしの負けでござる」
 からりと言って袋竹刀を納めた。
(馬鹿な。相討ちではないか)
 斬るか斬られるかの真剣勝負ではない。斬っても身に傷の負わない袋竹刀ゆえの相討ちではないか、と冬四郎には思われた。
「いや、この勝負は相打ちでござる。是非、今一度真剣にてご教示願いたい」
 冬四郎は思わず不満の言葉を口にした。内心では勝ったという満足感は全くない。それよりも勝ちを譲られた、という屈辱感の方が強くなっている。
「信綱どの、再度真剣にて・・・・」
 左肩の痛みを堪えながら、冬四郎はすがるような声になっていた。
「竹刀なればこそ、今の勝負は相打ちのようにも見えよう。だが、貴殿の竹刀は、それがしの胴を一寸のところで止めている。それに対し、それがしの竹刀は、貴殿の左肩を激しく打ってしまった。それゆえ貴殿が、それがしの胴を一寸のところで止める呼吸が、後手を引いたように感じられたに過ぎぬ。おそらく、日頃の修練や仕合いで身体が覚えていた止めが、このときに知らず出たものであろう。真剣であれば、その止めがかからぬゆえに必ずやそれがしの胴が、先に斬られていた」
 信綱は言い置いて、文五郎、伊豆を促すとさっさと寺へ帰ってしまった。
(こんなことがあるのか・・・・)
 呆然として冬四郎は、しばらくその場に立ちつくしたままだった。
 冬四郎は、いまだにあのとき信綱に勝ったことが信じられない。剣の修行を積んだ者同士の勝負は、確かに一瞬の差であろう。とはいえ、真剣を左肩に受けて、果たして自分の剣は、信綱の胴を捉えられただろうか。
 今でもあのときの勝負を夢に見ることがある。なぜか信綱の太刀筋がくっきりと見える。しまった、と覚悟したとき、身体に緊張が走り、頬がひきつる。あれは確かに袋竹刀だった。だが、夢の中では互いに真剣なのであった。左肩に信綱の剣を受けたところで、決まって目が覚める。そのとき冬四郎は、汗をびっしょりとかいているのだった。
 立ち会いの後、再度の真剣勝負を口にし、信綱がそれに取り合わずに去ったとき、内心をかすめた小さな、それでいて奇妙な安堵感は、いったい何だったのだろうか。
(おれは本当に勝ったのか。信綱どのが負けを認めたということは勝ったのだ。いや、果たしてそうか・・・・)
 自問しては自答し、さらに自問する。
 底なしの泥田に足がずぶずぶと沈んでいくような失望感に苛まれ、何に対する失望かと問い、己に対する絶望と知る。にも係わらず、生きて流離い、求められれば刃を合わせて勝つ。冬四郎は、そんな自分にさらに愕然とするのだった。
 ふと目前に茶筅髷の若侍が、一人立っているのに気づいた。年齢の頃は十七、八か。色の白い細面の美しい若者だった。どこかの大名の稚児小姓であろうか。
「無月冬四郎どのでござるか」
 若者らしい澄んだ高声であった。
 いかにも、と返事をすると、
「一手御指南」
 叫ぶが早いか、腰の一刀をすらりと抜きはなった若侍は、一気に冬四郎に迫ってきた。 若侍は思いも寄らぬ速さで間合いを詰めると、上段から一息に冬四郎の左肩に振り下ろされた。
(む。これは・・・・)
 冬四郎は、信綱との勝負と同じく、抜刀した刀をそのまま若侍の右胴に当てた。
 だが、信綱と若侍の剣の速さには雲泥の差があったというべきであろう。冬四郎も若侍も双方の衣装のところでぴたりと剣が止まっていたのである。
 明らかに若侍は、冬四郎と信綱の立ち会いの一部始終を知っている。冬四郎が若侍を見ると、にっと笑って剣を収めた。
(小癪な奴め!)
 そのとき冬四郎は、若侍に対する怒りが猛然と湧き上がってきた。
 冬四郎は剣を若侍の胸元にあてた。激しい殺気が漲っている。それが若侍にも伝わったのだろう、逃げようとしたが叶わず、目に怯えの色が出た。そうなると彼我の力量の差は歴然としている。
 あっという間に若侍は、冬四郎に組み敷かれた。
「人を愚弄しおって。死ね」
 冬四郎には信綱との勝負以来、胸の内に鬱々として蟠っているものがある。それが何なのか、自分でももどかしいほどに形容しがたいものである。あえて例えれば、大きな火山の爆発の際に、一散に飛び散る溜まりに溜まった溶岩のようなものであるのかも知れない。
 冬四郎のそれは、いま若侍に対する怒気となって迸った。
「むっ!」
 首を絞めようと馬乗りになった冬四郎は、若侍の柔らかなものに触れた。それが胸であることを知り愕然とした。
「そなた、女か!」
 冬四郎が力を緩めようとしたとき、女と見破られた若侍の目が、挑むように鋭く冬四郎の目を見返した。
 そのとき冬四郎は、下半身に熱く伸びていくものを感じていた。怒気は邪気に変わっていた。
 冬四郎は女の胸を左右に押し広げた。白く張りのある形の良い乳房が、開放されたようにぷりっと現れ出た。
 女は観念したように目をつぶった。身体から力が引いていくのが分かった。冬四郎はゆっくりと唇を乳房に近づけて、真上にある桜桃をやさしく吸った。女が、うっとうめいて、ぴくりと反応するのが心地よかった。
 

 

 若侍の姿をしていたのは、あや女だった。
 あや女は、冬四郎とそうなることを予感していた。信綱と冬四郎が立ち会った、という噂を聞いてから。
 いや、そうなりたいと願い、事実、そうなったことに満足していた。噂を聞いてあや女が、想像し思い描いていた通りの男だった。無月冬四郎という兵法者は。
 あや女は冬四郎に全てを捧げた。主人の三好日向守の元には帰らなかった。冬四郎のために金を稼ぎ、身の回りの世話をし、食事を作った。そして冬四郎の望むままに抱かれた。その暮らしは、あや女にとって至福のときだったかもしれない。
 二人は洛北衣笠山の奥に隠れ住んで、冬四郎はひたすら剣に精進した。
 翌年になって将軍足利義輝が、
 ――三好三人衆と松永弾正に暗殺された。
 という噂が、流れてきた。
 あや女は冬四郎を説いて、衣笠山から伊賀国香落渓(かおちけい)へと逃れた。あや女は日向守の命令を果たしていない。義輝を殺し、京を得た三好日向守の追っ手を警戒したのである。
 だが、その頃から冬四郎は、酒に溺れるようになった。むろん修行と称して滝に打たれ、荒行に身体を苛めるのだが、それはまるで自ら疲労を求めているようでもあった。と同時に、何かに憑かれたようにあや女の身体を求めた。
 四年の歳月が、あっという間に過ぎた。
 冬四郎は面変わりし、虚無の陰を引きずるようになった。あや女にはそんな冬四郎が、孤高を誇る兵法の達人にようにも見えた。内心は嬉しいのだが、ときに手負いの獣のような凄愴さを見せるときがあって、思わず身震いすることがあるのも事実だった。
 厳しい修行に励んでいるのは知っている。この四年間、狂ったようにあや女を求め、あや女もそれに答えた。近頃はさらに激しくなって、まるであや女の肉体なしには、修行もできないのではないかと、思われるときがある。
(あたしの身体は、男を夢中にさせるだけのものがある)
 と、あや女は思っている。
 それは自惚れでだけではない。すらりと伸びた肢態、優美な流線を持つ姿態には、余分な肉は全くない。それでいて柔らかく、肝斑(しみ)一つ無い肉体は、男の身体をぴったりと吸い付ける。
(三条柳町の遊君にも、わたしに敵う女はいないだろう)
 というのが、あや女の女としての密かな自負である。
 事実あや女が遊君になれば、たちまちにして傾国の美女と騒がれたかもしれない。
 だが、そんなあや女もときどき思うことがある。もしかしたら、冬四郎は自分の肉体に溺れてしまったのではないかと。自分の肉体への煩悩を断ち切るために、あんな激しい修行に耐えているのではないかと。男は女への肉欲を断ち切るために、激しく己の肉体を痛めつけるのだ、と昔忍びの術を学んだ里で古老から聞いたことがある。
(そうだ。それに違いない)
 と、あや女は思った。
「ではどうするか」
 とは、このときあや女は考えなかった。
 このまま求め合い、子供が授かれば良いのだ。そうすれば男は自然に女から離れて修行に没頭するに違いない。それがあや女の結論だった。
 だから、ある日の夕暮れ冬四郎から、
「このままでは、俺の剣は駄目になる。思い切って上泉信綱どのの弟子になりたいと思うのだ」
 と言われたときは、正直ただびっくりしただけだった。
「なぜ?」
 という、素朴な問いさえも浮かばなかった。単に、別れたいのだ、という冬四郎の気持ちを直感しただけだった。
「いや。別れるのは嫌」
 あや女の言葉は悲鳴にも近いものだった。
「剣の修行は長くて遠い。そのうえ奥が深い。このまま一人で修行しても先が見えないのだ。信綱どのに弟子入りして、改めて剣の道を究めてみたいのだ。分かってくれ、あや女」
 最後は冬四郎らしくない哀願になっていたが、
「嫌。そんな話、聞きたくない」
 あや女は頑なに拒んで家を飛び出した。
 外はすでに夕暮れだった。日は山並みに隠れてすでに見えなくなっている。濃い紺色と藍色がせめぎあうような景色の中で、
「別れたくない」
 あや女は、大きな声でそう叫ぶと、だっと駆けだして行った。
 やがて、小さな河原にでた。川の近くの岩に腰をおろした。あや女の呼吸は、全く乱れていない。 
 藍色の闇が少ずつ濃くなっていく。ちょろちょろと流れていく川の水をぼんやりと見やりながら、己の身体が、このまま夕闇の中に溶け込んでいくような気がした。
 ふと寂しさがこみあげてきた。だがあや女は、いつかはこの日が来ることを覚悟していたような気もしていたのだった。
 そのとき、ホウホウ、という梟とも木菟(みみづく)ともつかない、季節外れの鳴き声とおぼしき音がした。
 はっとして顔を上げたあや女の目前に、一人の初老の男が現れた。
「何を泣いておる」
「お頭・・・・!」
「久しいのう」
 お頭と呼ばれた男は、ゆっくりとあや女に近づいた。黒の法衣に錫丈と網代笠、旅の法師という出で立ちである。
 その男は、あや女たちを統べる〈忍び〉の頭領(かしら)だったのである。忍びといっても、伊賀者や甲賀者のように高度な忍術を身につけているわけではない。いわゆる乱波、素波の類で、野伏りに毛の生えたような一族である。
 だが、体術や刀術を修め、物見や諜報、謀殺などを専らとするあや女の一族は、紛うことなく〈忍び〉といってよい。頭領のもとに堅く結束しているのも当然のことだった。
「命令じゃ。上泉信綱を殺せ」
「えっ!」
「驚くことはなかろう。我らは忍び。主の命を果たせばよいのだ」
「なにゆえに上泉どのを」
「信綱は足利義輝に剣を教えた兵法者。後を継いだ義昭が招こうとしておるのだ」
「義昭・・・・?」
「ふむ。やむを得ぬか」
 訝るあや女に頭領は、京の支配者の移り変わりを話し出した。
「三好三人衆と松永弾正が、互いに協力して、将軍義輝を殺めたことは知っておろう」
 あや女はこくりと肯いた。それゆえに衣笠山の奥からここへ逃げてきたのだった。
「名実ともに、三人衆が京の支配者になろうとしたのよ。だがのう・・・・」
 やがて、三好三人衆と松永弾正は、利害が対立し干戈(かんか)を交えた。
「そなたが、長慶どのの死の真相をちゃんと探らなんだためよ」
「長慶どのは病死と・・・・」
 探った結果、病死に間違いなかったはずだ、と言おうとするを頭領は遮って、
「まあ、よい・・・・」
 ふふ、と笑って話の先を続けた。あや女が冬四郎と衣笠山に隠棲し、さらにここに来たことは知られていたようだ。
「愚かな内輪もめであったわい。あげく、義輝の弟の義昭を擁した織田信長に漁夫の利を得さしめてしもうた」
 永禄十一年のことである。十月に義昭は、第十五代の征夷大将軍に任命された。
 翌年一月、京を追われた三人衆は、密かに足利義昭の邸を襲ったのだが、急を聞いて駆けつけた信長軍に撃退されてしまう。
「そのことに懲りた日向守さまは、我らに義昭暗殺の命を下されたのよ」
「信綱に関わりあいは無いはず・・・・?」
「いや。そうでもない」
 三人衆に襲われた義昭は、諸国の名のある兵法者を配下にしようと考えた。再度の襲撃や暗殺に備えてのことは言うまでもない。そのため、まず上泉信綱を招こうとしているのだという。
「信綱が参じれば、諸国の新陰流の手練者(てだれ)が集まる。さすれば我らの暗殺は容易なことではない」
 それゆえ、あや女に信綱を暗殺しろということらしい。
「否、とは言わせぬぞ。いままで冬四郎と乳繰り合うのを見て見ぬふりをしてきたのだ」 頭領は恩着せがましく言った。
「信綱は強い。わたしの剣では・・・・」
「ふん、泣き言か。確かに剣では勝てぬだろうて。じゃが、そなたにはそなたの得手(えて)な術があろうが・・・・」
 決めつけるように言うと、頭領は、
「命令じゃ。違えることは許さぬ」
 と、冷酷に告げた。
 忍びにとって頭領の命令は絶対である。それを拒否することは仲間を抜けること、すなわち己の死を意味する。あや女に選択の余地はなかった。
 さらに頭領は、にっと笑ってからかうように言った。
「信綱はいま柳生の里にいる。だが、二十一日から翌日にかけて、おそらく伊賀から伊勢に向かうであろう。そなたが殺らねば、冬四郎は信綱に弟子入りしてしまおうぞ」
 はっ、としてあや女は、頭領を睨んだ。
「冬四郎に信綱のことを話したのはお頭か」
「さて・・・・」
 頭領のとぼけた声を聞いて、あや女はぱっと跳躍してその場を離れた。
「忘れるなよ」
 そう告げた頭領の声をあや女は聞いていなかった。
「まさか冬四郎は・・・・」
 二十一日といえば明後日ではないか。冬四郎が信綱に弟子入りしたいと言い出したのは、おそらく頭領からそのことを聞いたからではないのか。
 胸騒ぎを感じてあや女は住処(すみか)へと急いだ。
 すでに日は完全に落ちていた。だが星の光は十分で、そのうえあや女は忍びである。道に迷うことはなかった。
「冬四郎!」
 あや女が住処に戻ったとき、冬四郎の姿はなかった。いつも刀を置いてあった場所(ところ)の大小も消えている。
「とうしろうぉ〜」
 あや女は外に出て、無駄と知りつつ大声で冬四郎の名を呼んだ。


 

「冬四郎は、必ずや伊勢に向かう信綱のもとに現れる」
 その夜からあや女は信綱のことを探った。冬四郎を捜すよりも手っ取り早いと思ったのだ。
 頭領の告げた通り信綱は、大和国柳生庄に滞在していた。領主は柳生但馬守宗厳といい、後に徳川家康に仕えることとなる柳生宗矩の父である。
 柳生宗厳は信綱の高弟の一人で、永禄九年に新陰流目録を与えられている。新陰流の道統二代目を継承したのは、この宗厳であって、旅の供をした疋田文五郎でも神後伊豆でもなかった。
 実はこの頃信綱は、新将軍足利義昭から再三の招きを受けていて、柳生の里で月見を楽しんだ後に京都へ向かうはずであった。
 ところがである。まさに柳生の地を立とうとした八月二十日に、
 ――美濃の織田信長が、伊勢国に出陣。
 と、いう報が舞い込んできた。
 信長の軍勢は、八万騎とも噂され、その日のうちに桑名に到着する勢いだという。
 伊勢国司北畠具教とその一族を討とうという意図は明らかであった。それに対して具教は、大河内の城に籠もって迎え討つ覚悟だという。
 周知のように具教は、国司という高貴の身でありながらも自ら剣を学び、塚原卜伝より新当流〈一の太刀〉の印可を受けたほどの手練者であった。 
 信綱と具教は旧知の間柄で、柳生宗厳を紹介したのも具教である。
「敵は大軍。いかに大河内城が堅忍とはいえ、信長軍の猛攻には耐えられますまい」
「我らも北畠どのに助勢したいのはやまやまなれど・・・・」
 宗厳の歯切れが悪いのには理由がある。このとき宗厳は、大和国信貴山城の松永弾正に属していた。その松永弾正は、信長に降っていたのである。
「柳生どのはお動きあるな。それがしが大河内の城に赴こうほどに。信長どのと戦うことの不利を説き、和を結ぶように働きかけようぞ」
「おお。師自ら行かれまするか」
「信長は昇竜の如き勢い。今は当たらざるほうが賢明であろう」
「いかにも」
「信長の用兵は迅速を尊ぶとか。急いだ方が良い」
 再び肯く宗厳への挨拶もそこそこに、信綱は弟子の疋田文五郎、神後伊豆に、
「伊勢へ向かう」
 と、一言命ずると、直ちに柳生の里を旅立った。
 大河内城は、南北に細長い伊勢国の真ん中やや伊勢神宮寄りにある。そのため信綱一行は、柳生から月ヶ瀬を経て、まず伊賀国に入った。
 伊賀国は、上野盆地を中心に、周りを山で囲まれたヘソのような地形である。そのため他国から伊賀国へ入るにも出るにも峠を越えなければならない。
 伊賀国へ入った信綱一行は、阿保から霧生を経て伊勢国へ向かっていた。この道は多気道と呼ばれ、北畠氏と奈良、京都を結ぶ重要な道路である。
「冬四郎は峠で待つはず」
 と、見当をつけたあや女は、峠に先回りした。
 伊賀国も伊勢国も、段々に並んだ小さな田に頭を垂れた稲穂が見渡せる。すでに稲刈りが終わったのだろう、切り株が横一列に並んでいる田もあった。
「来た!」
 突然、侍が一人降って湧いたように現れて、峠の頂上から伊賀国側の街道の傍らに腰をおろした。
 編み笠を深く被って顔を隠しているが、無月冬四郎に間違いない。
 冬四郎はあや女に気付いているはずである。わざと無視していると思われた。
 むっとしたあや女が、声をかけようとすると、
「しばらく休んでいかれますか」
 と、いう疋田文五郎の声が聞こえてきた。
 信綱一行の足は、あや女が思うよりも早かったようだ。あや女は慌てて、近くに目を走らせると、大きな松の木の後ろに身を隠した。
「いや。先を急ごう」
 歩を進めながら信綱が応えたとき、
「お待ちくだされ。信綱どの」
 といって、傍らに腰をおろしていた冬四郎が、突然大きな声で呼び止めた。
 あや女は、松の木の後ろから声のした方をそっと覗いた。そこからは信綱一行の動きがよく見えた。
 不意に声をかけられて、文五郎たちが立ち止まった。
 冬四郎が、ゆっくりと立ち上がり、一行の前に立つと被りものをとった。あや女からは背中が見える形である。
「お! 貴殿は・・・・」
 叫んだのは、文五郎である。
「無月冬四郎どのと申されたな」
 神後伊豆が続けた。
 そんな二人を無視して、無月冬四郎は、
「過ぐる永禄7年の立会い、それがしには、合点がいきませぬ」
 信綱へ向かって挑むように言った。
「御師匠。それがしが・・・・」
「待て」
 早くも腰の物に手を掛けて、飛び出していきそうな文五郎を信綱が制した。
「無月冬四郎とやら。何用じゃ。すでにそなたとの勝負はついていよう」
 問いながら信綱は、おっ、と軽い驚きの声を発した。
 冬四郎の変わりようが信じられないのだろう。無理もない。今の冬四郎は、頬がこけて痩せ細り、着ているものも粗末で、以前よりも荒んだ感じは否めないだろう。そのような姿にさせてしまった因(もと)は、自分にあるのかもしれない。あや女は思わず目を落とした。針で刺されたように、ちくりと胸の内が痛んだ。
 あや女が目を戻したとき、偶然にも信綱と目があった。はっ、として再び目線を下に向けたとき、冬四郎の声が聞こえてきた。あや女はゆっくりともとに戻した。
「剣とは優劣、勝つか負けるかでござる。勝った者のみが名声や地位を約束される」
「・・・・」
 信綱は黙したまま冬四郎を見つめている。
「それがしは不満でござる。天下の上泉信綱どのに勝ちを得ながら、負けた信綱どのは生きている。生きて天下に名声を博し続けている。しかしながら、それがしは勝ちを得ながらいまだに一介の素牢人。名声も上がらず、招いてくれる大名もござらぬ・・・・」
「それは御師匠とは関係なきことがら」
 冬四郎の言葉を遮るように、文五郎が口を出した。
「そのようなことをとやかく言うつもりはござらぬ」
 いらいらとした声で、冬四郎は文五郎を睨んだ。
 関係のない者がでしゃばるな、そう言っているようにも聞こえた。
 むっとしたように文五郎の右手が、刀の柄にかかったとき、
「立ち会いを望んでいるのではない」
 冬四郎は焦れたように首を振ると、不意にがばと地面に両手をついた。
「それがしは、信綱どのの弟子になりたいのです。お願いでござります。それがしを弟子にしてくだされ」
「なんと・・・・!」
 文五郎からその先の言葉はでなかった。
 あや女は、土下座をする冬四郎から目をそらした。
(それだけはして欲しくなかった)
 閉じた両目に思わず力が入った。
(仮にも己が一度は勝った相手ではないか。いかに弟子入りのためとはいえ・・・・)
 あや女の心は微妙に揺れている。
(もしかしたら自分の存在が、冬四郎をそこまで腑抜けにしてしまったのだろうか)
 出会ってからの冬四郎の行動を、あや女は思い出そうと努めていた。
「竹刀なればこそそれがしが勝ったのかもしれませぬ。なれど真剣なれば、果たして勝ちを得たでしょうか。真剣が相手の身体一寸のところで止まるなど、負けると同じこと。負けはすなわち死あるのみ」
 冬四郎の声には必死さが漂っていた。
「先(せん)を制したはわしなれど、そなたの竹刀は、わしの竹刀の動きに連れて極めて自然に流れていた。そこまでになるには、並々ならぬ修行を積んだことであろう。真剣であれば、身体一寸のところで止まるということはあり得ぬことじゃ」
「さりながら、信綱どのの先の太刀は、竹刀なればこそでござろう。おそらく真剣なれば、それがしは受け切れておりませぬ。あれ以来それがしは、ずっとそのことを考えておりまする」
「そなた迷っておるな」
「道をお示しくだされ」
「む・・・・」
「お願いでござる」
「そなたの迷いは、己で解かねばならぬもの。誰の教えで解くものでもない」
「なにとぞ、それがしを弟子にお加えくだされ」
 もはや冬四郎は、哀願の体だった。
「ならぬ。だが、その迷いから抜け出たとき、そなたの強さは真のものとなろう」
 信綱はきっぱりと言うと、二人を促して歩き出した。
 冬四郎はその場に跪いたまま、じっと地面を見つめていた。
(冬四郎。そなた・・・・)
 あや女は、悔しいような、悲しいような複雑な気持ちだった。
 頭領の命令は、信綱の暗殺だったが、恋しい男はその信綱の弟子になりたがっている。 冬四郎は兵法者としての誇りを捨て、自らが勝った相手に土下座をしてまで弟子入りを請うたが許されなかった。そのときの信綱の気持ちは分からない。だがあや女は、冬四郎がいまの迷いから脱するかどうかは、信綱の返事次第だと思った。
 あや女は意を決したように、信綱一行を冬四郎に気取られることなく追った。


 

 あや女は、信綱一行に着かず離れず、一定の距離を保っていた。三人共に剣の遣い手である。気取られることのないように細心の注意を払った。
 その夜信綱一行は、興津近くの山に入った。先に立つ文五郎が、
「ありましたぞ」
 と、叫んで手を振った。
 そこは草むらになっていて、先人が残したであろう竈(かまど)の跡がまだ新しかった。野宿をするつもりなのだろう、文五郎は慣れたもので、手際よく火を熾した。
 やがて、藍色から濃い紺色へ、暮色がいっそう深まってきた。めらめらと燃える火が、三人の姿を浮き立たせている。
 峠を隔てて、彼方の山脈が淡く浮き上がっている。まだ月は出ていないが、雲はなくきれいな星空だった。
「中秋の名月からすでに六日になりまする」
「早いものですな」
 文五郎がぽつりと呟いて、神後伊豆が同調した。
 信綱は無言のままであった。
 あや女の脳裏に、昼間のことがよみがえる。
 信綱は冬四郎を見て驚いていた。その変わり様は、山に籠もっての激しい修行のためかもしれないが、あや女とともに過ごした歳月のゆえでもある。いや、それが大きな因だとあや女は思っていた。毎夜のように冬四郎はあや女を求め、あや女もそれに応えた。それは何よりもあや女が冬四郎を愛していたからである。ずっと冬四郎といっしょに過ごすことしか頭になかった。
 だが、冬四郎は変わってしまった。頬がこけて痩せ細り、酒を呑み荒んでしまったように見える。それはあや女と過ごした生活のゆえかもしれない。冬四郎は、そんな生活に倦んでしまったのだ。もしかしたら、そろそろ世に出たいのではないか。
(でも、信綱の弟子になることが、どうして世に出ることになるのだろう)
 あや女がそこまで考えたとき、
「上泉信綱を殺せ」
 という、頭領の命令が、再び聞こえたように思えた。
 忍びにとって頭領の命令は絶対である。あや女は、意を決してその場を離れると、近くの地形を調べ始めた。
 同じ頃、信綱一行は、水で戻した干飯と味噌で夕餉を終えたところだった。
 文五郎がくべているのだろう粗朶(そだ)が火にはぜる音がした。
 闇が静かに深くなっていく。離れていても信綱一行の声は、あや女の耳にはっきりと聞こえた。
「文五郎!」
 信綱に呼ばれたようだ。
「はっ。ここに」
「そなた。死を畏れたのはいつのことであったな」
「は? 死ぬのは今でも怖うございます」
 突然の師の問いに文五郎は、やや戸惑っているように思われた。
 そんな文五郎に怒る様子もなく、信綱はやんわりともう一度同じことを訊ねた。
 あや女にも信綱の問いの真意は理解できない。文五郎も同じようだ。
「人生において〈死〉を意識し、一度は死ぬ命なり、と覚悟したのは、何歳のどのような時かという問いでござろうか」
 文五郎が確認をしている。
「それは・・・・」
 信綱が肯いたのだろう。ややあって、
「おおそうだ。初陣のときでござりまする。確か北条との戦でござりました。敵と渡り合い、生きて帰ることがかなうであろうかと・・・・」
 文五郎の初陣は何歳のことだったのだろう。戦場でも猪武者だったのではないか、と思ってあや女はくすりと笑った。
 かつて上泉信綱は、箕輪城主長野業正を盟主と仰ぎ、上州の地を縦横に駆け巡っていたと聞いている。
 おそらく文五郎も武者の血が、かつかつとたぎっていたことだろう。
「伊豆はどうじゃな?」
 信綱は神後伊豆にも同じ問いを発していた。
 伊豆も同じく戦場とのことだった。
「さもあろう。わしも死を覚悟したのは戦のときであった。それゆえ、無様な死に様は見せるまい、と思うたものであった」
 そこで信綱はいったん言葉をきった。薄い闇がしっとりと三人を包んでいる。
 ぱちぱちと火のはぜる音がやけに大きく聞こえるな、とあや女が思ったとき、
(いけない。信綱一行に捕らわれすぎた)
 はっ、としてあや女は、もう一度近くを念入りに探り始めた。
 近くに細く小さな滝を見つけて、よし、とほくそ笑んだ。
 信綱たちの話はまだ続いている。
「あの若者は、死の畏れに取り付かれておる」
「え・・・・?」
「兵法とは元来戦で使うもの。戦を離れて兵法は成り立たぬものよ」
 あや女の耳に話し声としては聞こえているが、すでにその内容については興味が失せていた。
「仮に優れた師に弟子入りしたとしても、弟子は一足飛びに成長できるものではない。人は己の身丈に合って成長していくものじゃ。いかんともしがたい」
 あや女は、帯を解いて、ゆっくりと着ている小袖を脱いだ。自分の身体に傷がないか確かめると、あや女は小さな陶器の入れ物に入っていた液体を、肩や胸の谷間に注いだ。水滴がついて、あたかも滝を浴びたような感じである。
(よし。用意ができた)
 あや女が風の方向を認めたとき、
「無月冬四郎のことでござりまするな」
「うむ・・・・」
 冬四郎の名が出て、思わずどきりとしたが、
「信綱さま」
 と、風に乗せるように名を呼んで、静かに身を進ませた。一糸まとわぬ裸身である。
「何者?」
 文五郎が気づいて誰何した。
「お! こなたは・・・・」
 三人ともに絶句している。若い女の裸身を前にして、この夜中に狐狸の類かと疑っているのだろう。
「信綱さま」
 あや女は哀願するようにもう一度言った。
「魑魅魍魎の化身か?」
 文五郎が呟いたとき、信綱が立ち上がった。
「御師匠!」
「ここで待っておれ」
 文五郎が止めるのを振り切って、信綱はあや女の方へ歩いてきた。二人の間はおよそ十間の距離がある。
「話があろう」
 信綱とは昼間目が合っている。そのことは覚えているはずだ。
 あや女は、あい、と肯いて、信綱を導くように、雑木林の中に入って行った。
 星明かりはなくとも、信綱は夜目は利くだろう、と思われた。
 あや女は、わざといったん信綱の視界から消えて、用心している信綱に、
「こちらでござりまする」
 と、呼びかけた。
 あや女は細い滝を背にして立っと、脱いであった小袖を前にかざした。
「やはり!」
 信綱が一人合点するような声が小さく聞こえた。
 細いとはいいながら、滝の水音で常人には聞き取れないところだろう。あや女が忍びであることを見破ったのだろうか。そんなはずはない、と思いながら、
「信綱さまにお願いがござりまする」
 信綱の姿を認めて、あや女はそう言うと、前にかざしていた小袖をさっと放った。再び一糸まとわぬあや女の裸形が現れた。
「む!」
「わたくしをお抱きくださりませ」
 あや女はゆっくりと信綱に近づいた。その裸体には、水滴のようなものが浮いている。 しっとりと闇に浮かび上がる裸形は、男にとって最も美しいものだ、という自信があや女にはあった。冬四郎とともに過ごした快楽の日々は、花に例えれば堅い蕾から、虫を誘う色鮮やかな盛りへの成熟の日々であったかもしれない。計算されつくしたあや女の演出であった。
「願いとは?」
 信綱は裸形のあや女にじっと目を注いだまま問うてきた。女の裸体を見ても動じる様子は微塵もない。
「無月冬四郎さまを弟子にしていただきとうござりまする」
「何故にそなたが頼み入るのだ」
「わたくしのために冬四郎さまは、腑抜けになり果てました」
「はて?」
 信綱は首をひねった。
「こなたの言うことがよく分からぬ」
「冬四郎さまは、わたくしなくては生きていけぬお人になり果てたのです」
 信綱の冷静な物言いにやや戸惑いながらも、あや女はここぞと力を込めた。
「ほう・・・・?」
「このままでは、冬四郎さまは生きる屍。今まで修行した剣も死に果てまする」
「こなたの色香に捕らわれていると申すか?」
 卑俗な形容だがその言い方に、我が術に落ちた、とあや女は確信した。
「あい。お願いでござりまする。この身と引き替えに、なにとぞお弟子に」
 哀願するように言うと、あや女はそのまま信綱へ抱きつこうとした。
 次の瞬間、うっ、と小さな声をあげてくず折れたのはあや女の方だった。
 腹のところをまっすぐ横一線に斬られていた。
「な、何故に?」
 あや女はうずくまって訊ねた。そんな馬鹿な、という思いがある。
 信綱は眉一つ動いていない。
「こなた、身体に毒を塗っておるな」
 あや女の目が大きく見開かれた。と同時に、腹を押さえていた手から血が滴った。
「滝の飛沫か水浴みに似せてごまかそうとしたつもりであろうが、鳥肌が立たねば時節に合うまい」
 水には濡れていない、ということであろう。
 身体に注いだのは、南の島に住むという蛇の毒である。その毒は血管から入らなければ害がない。あや女は毒を本来の目的とともに、己の裸形を引き立たせるために使ったのだった。
 毒はあや女の得意とする術である。だが、信綱がどう受け取ろうが、毒と見破られれば意味がない。失敗したことは明らかだった。
「む。口惜しや」
「まだ手当をすれば助かる。何者に頼まれたか言うがよい。それと毒消しはどこじゃ」
 信綱が近づこうとしたが、寄るな、とあや女は止めた。
「すでに無きものと定めた我が命」
 刀傷は手当てできても、身体に塗った毒が刀傷から入っている。毒消しがなくては消しようがない。
 あや女は信綱に抱かれ、小さな傷を作ってそこから己の身体に塗った毒を入れようと考えたのだ。冬四郎の弟子入りが叶えば毒消しを渡し、叶わなければ、そのまま刺客として信綱の命を奪うつもりだったのだ。
「依頼の主の名は明かせませぬ。ですが、最後の頼み。嘘偽りのない頼み。何とぞ、冬四郎さまを弟子に加えてくだされ」
「無月冬四郎のために、何故にそこまで?」
 信綱の問いにあや女は答えなかった。
「浅はかなことを」
 信綱に斬られたあや女の腹からは、血が流れ続けている。切り口も色が変わりはじめているところがある。
「わたくしは因果な女でござります」
「冬四郎はこなたの色香に迷うて、こなたの言う腑抜けになったわけではない。むしろ、己を捕らえている迷いから逃れるために、そのことを忘れるために、こなたの色香に溺れたのだ」
「えっ・・・・!」 
「いや。溺れようと努めたのであろう」
「なんと仰せられまする」
「こなたの思い違いであると言うたのじゃ」
「では、何に・・・・」
 迷っていたのか、と問おうとしたときにあや女の意識が急速に遠ざかっていった。
「哀れな」
 信綱が呟いたとき、
(哀れとな。わたしと冬四郎とのあの日々が哀れだというのか)
 あや女に激しい怒りに似た感情がせり上がってきたとき、突然、それは全く突然のように意識が途絶えた。

 信綱は、女の死骸に、脱ぎ捨ててあった小袖をそっと被せて手を合わせた。

(了)





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