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第二話 筑波ならひ −風烈廻り昼夜廻り同心朽木重四郎− (無料公開)
[【時代小説発掘】]
2011年12月11日 11時19分の記事


【時代小説発掘】
第二話 筑波ならひ −風烈廻り昼夜廻り同心朽木重四郎−
鮨廾賚



(時代小説発掘というコーナーができた経緯)



【梗概】: 
 お待たせしました。連作短編です。およそ一年ぶりになりますが、第二話をお届けします。

〈第二話 筑波ならひ〉 
 剣の腕は確かだが、生一本で純情、青臭くて単純な若者、北町奉行所風烈廻り昼夜廻り同心朽木重四郎の捕物帳らしからぬ物語。

 父の死により北町奉行所の定町廻り同心(見習い)を継いだ朽木重四郎だったが、先輩同心が袖の下を受け取るところを目撃して、生来の一本気な気質が目覚めてしまい・・・・。(今回は重四郎が、風烈廻り昼夜廻りに役替えとなったお話です。)


【プロフィール】:
鮨廾賚此 昭和33年(1958)生まれ。大阪在住。平成22年(2010)第40回池内祥三文学奨励賞受賞。現在、新鷹会会員、歴史研究会会員、大衆文学研究会会員。



鮨廾賚困里海譴泙任虜酩福

秘太刀「一心の剣」
第一話 はるいち−風烈廻り昼夜廻り同心朽木重四郎−  
雲、流るる
猿御前
信綱敗れる
あかね空
中条流平法 
沼田法師 
女忍び無情
ぼろぼろ系図 
帰心の風 
「払暁の風」第一章 黒田の合戦


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【時代小説発掘】
第二話 筑波ならひ −風烈廻り昼夜廻り同心朽木重四郎−
鮨廾賚



一 初出仕

「今日は、もう帰って良いぞ」
 高田伝之丞の乾いた言葉を受けて、朽木重四郎が北町奉行所を出たのは、六ツ(午後六時)をかなり過ぎた頃だった。
 すでに辺りは、烏色(ういろ)の帳(とばり)が下りていた。
気持ちの張りを解いた重四郎が、呉服橋御門を出ると、お堀を隔てて左右に町屋の灯りが広がっていた。ほっと一息つくと、北風が一筋さっと通り抜けた。
「うっ。さむっ」
 朝と同じく冷たい風に、思わず襟をかき合わせて、
「〈筑波ならひ〉と言ったっけ」
 重四郎は、弥吉の言葉を思いだしながら呉服橋を渡った。
肩をすぼめて八丁堀に向かって歩いていると、ふと海賊橋の袂で声を掛けられた。
「若・・・・」
「おう!」
 目前にその弥吉が立っていた。
 弥吉は、父重馬から手札をもらっていた腕のいい岡っ引きである。神田明神下に住まいを構えていることから、明神下の弥吉と呼ばれていた。
「ずいぶん遅うございますね。お一人ですかい?」
 重四郎は、うん、と肯いた。
 小者の佐次平が供をしなければならないのだが、遅くなるから、と言付けて、重四郎が先に帰したのである。
「初めてのご出仕、お疲れ様でござんした」
 重四郎の父重馬が亡くなったのは、寛政元年冬十月のことだった。享年四十九歳だった。
 重馬が身罷ったとき、重四郎は神田猿楽町の〈撃剣館〉で剣術の稽古の真っ最中であった。知らせを聞いて八丁堀の組屋敷に帰ってきたときには、すでに父は白布を被せられていた。
 葬儀を終え、家督を継いで、重四郎が奉行所への出仕を認められたのは、師走に入ってすぐのことである。
 その間、葬儀に、家督相続に、親戚筋の挨拶に、と重四郎にとっては目まぐるしいほどの毎日だった。
 町奉行所の同心は世襲ではない。一代抱えといって、その人物限りの雇用なのである。とはいえ現実には、江戸の町の防犯、防火、犯罪の捜査、犯人の逮捕には熟練を要した人材が必要不可欠で、実際は世襲と同じことだった。
 中陰が満ちて、重四郎が朽木の家を継ぎ、北町奉行所に出仕することについて、反対する者は誰もいなかった。
 今日はその初出仕の日だったのである。
「挨拶ばかりで肩がこった。あんな堅苦しいお役目は、俺には向いておらぬかもしれんな」
「なあに。直に慣れますよ」
 慰めるように言うと、
「どうです。そこいらで一杯」
 初出仕を祝ってくれようというのだろう。どうやら弥吉は、そのために寒い中を待ってくれていたようだ。
 そんな弥吉に心の内で感謝しつつ重四郎は、
「嬉しいが、里久(りく)から今日は真っ直ぐ帰って来るように言われているのでな」
 すまん、と右手で片手拝みをした。
「さいですかい。里久さまのおっしゃりようじゃ、あっしの方は遠慮しやしょう。ですが・・・・」
 弥吉は最後の言葉を濁した。
「どうした?」
「いや。明日にしやしょう。明日は大丈夫ですかい」
「御用のことか?」
 弥吉の話しぶりから、重四郎が付き合うかどうしようか迷っていると、
「ちょっとお耳に入れたい話がありましてね。なあに、明日で大事ないでしょう。朝、お屋敷に伺いやすよ。このまま若を引っ張っていくと、里久さまにあっしが叱られまさあ」「そうか。では、明日の朝、待っているぞ」
 弥吉の言葉をそのまま受けて別れたのだが・・・・。

「いかがでありましたか? お奉行所は」
 八丁堀の組屋敷に戻った重四郎は、早速、妹の里久から感想を求められた。
 長い一日だった、と重四郎は思った。
「さあ、できあがりましたよ」
 里久が前に回って、下から見上げるようにそう言ったのは朝のことである。
 互いの目と目が合った。
「おいおい。饅頭ができたように言うなよ」
 重四郎は照れを隠すように、
「本当にこれで良いのか。組屋敷の与力、同心方に挨拶廻りをしたときと同じ服装ではないか」
 同心だから着流しに羽織姿ではないのか、という意味なのだが、
「良いのですよ、兄上。今日は初番でございますから、礼装でなければならないのです」 里久がたしなめるように言う。
 同心の礼装とは、羽織袴姿である。着流しに巻羽織は、仕事用の普段着ということになろうか。
「これは父上も使っていた物です」
 里久は、重四郎のはいている小倉の袴の裾をぴっと引っ張って、目を細めるようにして言った。
 細面に高い鼻梁、きっと唇を引き結んで、すっくと立った重四郎は、五尺七寸(約百七十センチ)の上背がきいて、父譲りのなかなかの美丈夫である。
「重馬さまのお若い頃にそっくりでさあ」
 障子を開けて出てきた重四郎を見て、明神下の弥吉が涙ぐんだ。同じく庭で控えていた小者の佐次平もこころなしか目が潤んでいる。弥吉は重馬から手札をもらい、佐次平も父の代から朽木家に仕えていた。
「どうした。おらあ、湿っぽいのが嫌いなんでえ。ほら、さっさと行くぞ」
 またも、重四郎は照れを隠すように、わざと伝法に言って枝折り戸を開けた。
「うっ、さむ!」
 冬空は澄んで北東からの風が冷たかった。重四郎は思わず手を袖に引っ込めた。普段結ったことのない小銀杏のせいだろうか、こころなし頭もひんやりする感じだ。
「〈筑波ならひ〉でさあ。今日は滅法きついですぜ」
 そう言って弥吉も胴震いした。
「お亡くなりになった重馬様が、心配していなさるんですかねえ」
「よせやい」
 しょうもないことを、と弥吉へ返して、重四郎は組屋敷のある八丁堀を出たのだった。


二 拐(かどわ)かしの噂

 北町奉行所に着いたのは、石町の五ツ(午前八時)の時の鐘が鳴るかなり前であった。初めての出仕なので、早めに着くように指示されていたのである。
 黒渋塗りの下板張り長屋門はすでに開いていた。この門が開いているということは、今月は北町奉行所が当番ということになる。
 重四郎は門の前に立って、改めて同心になったことを強く意識した。胸の内が踊っている。堂々と表門を入ろうとして、
「おっとっと。重四郎さま・・・・」
 弥吉と佐次平から止められた。表門を出入りできるのは、公式な行事か捕物出役のときのみなのである。平生は、門番に姓名を名乗って横の潜り戸から入る。
「じゃ。あっしらはこれで」
 弥吉は岡っ引きなので、奉行所へは入れない。そのまま江戸の町に帰っていった。佐次平は、潜り戸を入って右側の小者部屋に向かった。
 重四郎は古参同心の大河内源吾を年寄同心詰所へ訪ねた。源吾はすでに来て待っていた。五十を越した重厚な人物で、北町奉行所の同心の中では最も人望がある。父の重馬とも長い付き合いがあり、重四郎の後見も快く引き受けてくれた。〈年番方〉といって奉行所全般の取り締まり、人事、金銭出納を預かる要職にある。今日で言えば、総務課長と経理課長を合わせたような職務であろうか。
 挨拶をして、源吾より遅れた詫びを述べたが、源吾は気にしていないようであった。それよりも、
「亡き重馬どのに生き写しだな」
 改めて、源吾が感心したように言う。それは、親戚筋の挨拶のときに散々聞いた言葉だった。
(ちェ、親父の息子だから当たり前だろう)
 重四郎がすねたような心持ちになっていると、それが顔に現れたのか、
「良いか。そなたは重馬どのの急死によって後を継いだのだ。全てが不慣れであろう。先輩諸氏の言うことを良く聞いて、しっかりと勤めるのだぞ」
 源吾が厳かに言った。
 慌てて、はっ、と平伏すると、源吾はにっこり笑って、
「よし。では、ついてこい」
 と命じて、先に立ち上がった。
「まずは、御奉行さまにご挨拶をいたそう」
 今月が月番である北町奉行初鹿野河内守は、四ツ(午前十時)前には江戸城に登らねばならない。
 登城した奉行は、重追放以上のものを老中に伺いを立てて指示を仰ぐ。その事前準備のため、河内守は朝五ツに奉行所に顔を出すのである。老中への伺いに万全を期す人物で、準備に入ってしまうと、数人の与力以外は部屋に入れなくなる。その前に目通りして挨拶を済ませなければならないのだという。
 重四郎は源吾に連れられて、奉行の御用部屋に入った。初鹿野河内守は、しきりに書き付けを見ているところだった。内与力であろう、三十くらいの生真面目そうな人物に、時折質問をしている。
「朽木重四郎をお連れいたしました」
 その人物を通じて、源吾は奉行の前に畏まった。
 続いて入った重四郎は、さすがに奉行の前に出ると緊張した。身体が硬くなっているのが、自分でも分かったが、こんな気持ちになったのは、剣の師戸ヶ崎熊太郎に入門挨拶をして以来のことだった。
 初鹿野河内守は、五十前の痩せた神経質な人物のように見えた。血色もよろしくなさそうである。
 改めて姓名を述べて、挨拶をする重四郎に対して、
「おお、朽木重馬の子か。父に劣らず励めよ」
 奉行の言葉は、いたって短いものだった。さして興味もなさそうである。無理もない。北町奉行所だけで与力二十五人(二十五騎)、同心百二十人が勤めているのである。駆け出しの同心など、余程のことが無い限りいちいち覚える必要は無いのかも知れない。
 奉行の下城は、昼八ツ(午後二時)である。奉行所へ戻って、老中の指示を伝え、その日の訴訟の吟味と決裁を行う。また、遠島以下の軽い刑罰は、奉行自ら白州に出て申し渡しをしなければならない。
 江戸町奉行職は激務なのである。寸暇が惜しいのか、河内守はすぐに手元の書き付けに目を落とすと、再び熱心に読みふけっていた。これから登城して老中に伺いを立てる案件を反芻しているのだろう。だが、奉行に直接言葉をかけられて、初めて、重四郎は北町奉行所同心になったことを強く意識した。
 退出した後は、源吾から諸々の心得を聞かされた。その後は出仕した与力と同心に挨拶をし、
「まずは見習い同心として始めることになる」
 と、定町廻り同心高田伝之丞につくように命じられた。
 高田伝之丞は三十六歳。ひょろりと背が高い。長い顔は青白く、まるで病人を思わせるほどに痩せていた。
「よろしく頼み入ります」
 重四郎が元気よくあいさつしても、うむ、と小さく頷いただけだった。

「いやはや、挨拶ばかりで疲れた。気ままに道場で暮らしてきた俺には、ちと荷が重いかも知れぬな」
「何を情けないことを。まだ始まったばかりでございますよ」
 里久は励ますように言って、
「さあさあ、夕餉の支度が調っておりまする」
 着替えをすませた重四郎を居間に追い立てた。
「お! 豪勢な」
 夕餉にはお頭付きの鯛と赤飯が用意してあった。
 母を早くになくした朽木家は、妹の里久が台所に立つ。重四郎は二十六歳である。里久とは七つの年齢差があるが、しっかり者で、重四郎もたじたじとなることが間々ある。
 細面のすっきりとした顔立ちで、二人はよく似ている。里久は間違いなく美人の内にはいるだろう。
「そう言えば、帰り道で弥吉と会ったが・・・・」
 食事を終えて、茶を喫しながら重四郎が何気なく言うと、
「弥吉でございますか。御用のことでしょうか?」
「そのように感じたが・・・・」
「近頃、江戸の町で立て続けに起きた、誘拐(かどわかし)のことでしょうか?」
 先月からこっち、上野広小路の麻木屋、木場の上総屋の娘が掠(さら)われる事件が、相次いで起きているという。麻木屋の娘は五つ、上総屋の娘は七つだという。いずれも娘が女中と外出したときを狙ってのことらしい。掠われたと思しき時刻に、店の方に文が届いて、
 ――娘は預かった。無事に返して欲しければ千両用意しろ。奉行所に届け出ると娘を殺す。
 と、まずは脅しをかけておいて、すぐさまその夜、金の受け渡し場所を指定する投げ文があるという。
 店が金を用意して、指定した場所に届けると、翌朝、娘が店に帰されるというのである。
 賊が巧妙なのは、まずその素早さである。掠った時刻に脅迫状を届けている。届いた方は、女中と外出していると知っているから、いたずらかと思う。だが、すぐに帰ってきた女中から娘がいなくなった、と聞かされて事実と知る。そうなると騒ぎ立てることはできない。
 そして、掠った夜には金を届けるように命じてくる。役人に相談しようかどうしようか迷う余裕すらないだろう。
 さらには、身代金の額である。千両は確かに大金には違いないが、小間物問屋の麻木屋、材木問屋の上総屋ともに江戸では名の通った大店である。すぐに用意できない金額ではないし、払うことによってすぐに店の屋台骨が揺らぐというようなこともない。それに、指定された場所に持っていけば、必ず娘は無事に帰された。
 そのため、麻木屋も上総屋も奉行所には訴えて出ず、堅く口を閉ざしている。事件が裏に隠れてしまい、噂で聞くだけだという。奉行所にとってはなんとも情けない話だった。もしかしたら、麻木屋、上総屋以外にも事件に遭った商家があるのかもしれないが、奉行所としても訴えがない以上如何ともしがたいだろう。
「ほう。そのような事件が起きているのか?」
 里久の疑問に、重四郎は暢気に答えたが、なぜ里久がそのようなことを知っているのか、ということにまでは頭が回らなかった。それよりも、用件だけでもしっかり聞いておけば良かったか、と後悔していると、
「いえ。ただの噂でございましょう」
 里久は軽くいなすように言って、
「わたしに遠慮はよろしゅうございますよ。父上様も御用第一にお勤めをしておりましたから」
 続けてきっぱりと言った。何か重四郎を突き放すような感じだった。
「そうはいかぬ」
 そのために父の居ない寂しい夕餉だったではないか。せっかく里久が夕餉を用意してくれたのだ。自分はそんなことはしたくない、と重四郎もきっぱりと言った。とはいいながらも、
(この寒い中、真っ直ぐ家に帰ったろうか)
 弥吉のことも気になる重四郎だった。
(筑波ならひか・・・・)
 外には肌を切るような冷たい風が吹いていることだろう。


三 袖の下

 八丁堀の同心は、日剃り日髪が原則である。
 翌日、やや遅めに目を覚ました重四郎だったが、髪結いの吉十は支度をして待っていた。父重馬も毎日結ってもらっていた男である。
 重四郎がいいつけたわけではない。吉十が気を利かしたのか、里久があらかじめ手配したのか分からなかったが、朝から髪を結うのは気持ちが良かった。
 今日は父と同じ黄八丈の着流しである。黒紋付きの綿入れの羽織を巻羽織にして、どう見ても粋な定町廻りの同心だった。小銀杏に結った髷もりりしい。
「弥吉は来なかったか?」
「いいえ」
 昨日と違って、きっかり五ツに出仕すればよい。だが、ぎりぎりまで待ったが弥吉は現れなかった。
「仕方がない。これ以上待っては、遅れてしまう」
 やむなく重四郎は、屋敷を出た。
 今日が出仕二日目である。弥吉のことは気になるが、どうしても同心としての気が逸るのは押さえようがなかった。
(剣にはいささかの腕がある。足腰にも自信がある。捕り物の腕は未熟だが、弥吉が補ってくれよう。よし、父上のように江戸の治安を守るためにも頑張るぞ)
 師走の冷気に包まれて、寒いというより、身が引き締まるのを感じていた。歩く度にさくさくと霜柱を踏みしだく音が心地よい。
(そのためにも早くお役目を覚えなければ・・・・)
 重四郎の役職は、父の重馬と同じである。だが、いきなり定町廻り同心として勤まるわけではない。三十日間は見習い同心として日勤することになる。そのため重四郎は、定町廻りの先輩同心高田伝之丞のもとで仕事のいろはを覚えていくのである。
 刻限きっかりに同心詰所に入ったが、
「遅いぞ」
 すでに出仕していた伝之丞から、厳しい叱責の声が飛んできた。
「すみません」
 遅刻はしていないのだが、そう言われては返す言葉がない。素直に詫びると、
「これから見廻りに出るぞ。ついてこい」
 伝之丞も余計なことは言わなかった。
「はい」
 元気よく返事をして、伝之丞に従って北町奉行所の門を出た。紺染袢纏に梵天帯の中間が一人従っていた。定町廻り同心とはいえ、単独で見廻りに出ることはまずない。必ず中間を伴うことになっている。重四郎は見習いのためつかないようだ。
 昨日、伝之丞に付いたときは、北町奉行所内の同心、与力に挨拶し、午後から南町奉行所に行って、同じく同心、与力に挨拶した。いよいよ今日は見廻りか、と思うと心躍るものがある。
「師走に入って江戸の町は慌ただしい。だが、商家の掛け取りを狙って掏摸やらかっぱらいやらが、活発に動き出すのもこの時期だ。心せよ」
 伝之丞の訓示に、はい、と重四郎は大きな声で応えた。気がつくと後ろで中間がくすくす笑っている。
「何が可笑しい」
「すいやせん、旦那。お見廻りは初めてでござんすね。そう固くなることもありませんぜ」
 伝之丞に似て痩せて背の高い中間が、ちょっと小馬鹿にしたように、薄ら笑いを浮かべていた。重四郎がむっとしていると、
「うるさいぞ、卯七。黙って歩け」
 伝之丞から小言が飛んできた。中間は卯七という名前らしい。
「へい」
 卯七の顔から薄ら笑いが消えた。
 三人は一石橋を渡った。
 重四郎はすぐに見廻りかと思ったのだが、
「町年寄に顔見せがてら見廻るか」
 と、お堀を左手に見て、まずは奈良屋を訪ねた。
 江戸の町年寄りは、奈良屋、樽屋、喜多村の三家で、町奉行の支配である。お江戸開府以来の旧家で、代々世襲である。江戸八百八町の町名主を支配することから、顔を覚えておけ、ということだろうと思われた。また挨拶か、と重四郎はうんざりしたが、すでに伝之丞は奈良屋の前に立っていた。
 奈良屋ではけっこうなもてなしを受けた。少し早いが中食まで用意してくれた。伝之丞は大いに機嫌が良く、どうだ俺の顔は、といわんばかりの態度だったが、重四郎にとってはあまり面白くなかった。
 九ツ(午後十二時)を過ぎた頃に奈良屋を出て、本町一丁目の通りに出た。ここからずっと両国広小路までは、ほぼ真っ直ぐの通りだが、道幅も広く、江戸の町でも賑やかな通りの一つである。
 左右に商家が立ち並んでいるが、いずれも大店で、そのうえ老舗が多い。本町通りといい、師走の往来はひときわ人の出が多く、動きが激しかった。伝之丞は先頭に立って、まるで肩で風を切るように胸をそびやかして歩いている。
 八丁堀の同心だとすぐに分かるのだろう。向かい側から歩いてくる町人が、それと気づいて、小腰を屈めたり、軽く挨拶をして行き過ぎる。
 伝之丞の後ろに従いながら、何だが自分が偉くなったように感じて、爽快な気分を重四郎は味わっていた。知らず、自分も伝之丞を真似て胸を張っていた。道行く若い娘の熱い視線を感じて、重四郎はしきりに照れを隠すのに苦労した。
 そのうち、伝之丞は玉置屋という大店の暖簾をかき分けた。玉置屋は越後屋、白木屋と並ぶ呉服問屋である。
 続けて重四郎と卯七が店に入ると、客の何人かが振り向いた。怪訝そうな視線が痛かった。
「これはこれは、お役目ご苦労様にございます」
 目ざとく伝之丞を見つけて、店の番頭と思しき四十からみの実直そうな男が寄ってきた。
 男は挨拶をすると、そっと伝之丞の右の袂に小さな紙の包みを落とし込んだ。手慣れた感じで、重四郎も男の所作を注視していなければ気づかないほどの手早さだった。
「うむ。商売繁盛で何よりだの」
 伝之丞は何気なく言って、袖をさっと一振りすると右手を懐に入れる仕草をした。それはいま袂に入った紙包みを握って、大きさを図っているようにも思われた。
「今日は久しぶりに主の顔でも見たいものじゃ」
 伝之丞は懐手のままそう言って、店の上がり框に腰を据えた。店の者と客が成り行きを見守っているように思えて、重四郎は居心地の悪さを感じていた。
「では、主を呼んでまいりましょう」
 番頭は無表情に言って奥に引っ込んだ。やがて、
「あいすみません。主は忙しいようでございます」
 戻ってきた番頭はそう言って、再び伝之丞の袂に紙の包みをそっと入れた。
(無礼な!)
 主が八丁堀に挨拶もできぬのか、むっとした重四郎が、咎めようとすると、
「そうか。忙しいか。それは残念。またにしよう」
 伝之丞はそんな重四郎を押しとどめるようにして、店を出た。
「高田さま。挨拶もせぬとは無礼な主。商人風情が驕っているのではありませぬか」
「良いのだ。主も忙しい身だ。それに挨拶が目的ではない。次、行くぞ」
 そう言ったときには、伝之丞は隣の店の暖簾をかき分けていた。
 そこでも同じようなことが起きた。
 やがて、重四郎は伝之丞の意図に気づいて不快な気分になった。それは、三軒目の店に入った後だった。
「ううむ。近頃は火盗の評判が良いからのう。ちと、締めておかんとな」
 この頃の火付盗賊改役は、長谷川平蔵という旗本である。昨年四月、関八州を荒らしまわっていた神道徳次郎という大盗一味をお縄にしてから、一気に名声が高まった。人情味溢れる裁きで〈今大岡〉と江戸庶民にも人気が高い。
「大岡様は御町奉行ゆえな」
 こちらが正統よ、と言わんばかりである。どうやら伝之丞は、袖の下をもらっているのではないか、と重四郎には思われた。
 四軒目の店に入ったときである。番頭が小さな包みを二人に差し出した。そのようなものは受け取れぬ、と重四郎が押し返そうとしたとき、
「まだ見習いでな。次からで良いぞ」
 と言って、伝之丞が横から奪い取るように、さっと自分の袂に入れてしまった。それはあっという間の出来事だった。
 重四郎は腹が立った。
「高田どの。それがしはこのような見廻りは御免被ります」
 四軒目の店を出たとき、重四郎の声は尖っていた。伝之丞に対する嫌悪感で胸がむかむかしている。
「これが八丁堀定廻りのやり方だ。文句があるなら帰れ。そのかわり、お主には何も教えぬぞ」
「袖の下のもらい方など、こちらから願い下げです」
「何だと!」
「旦那。往来ですぜ」
 気色ばむ二人の間に立って卯七がおろおろしていた。
「それがしは帰ります。今日のことは年番方の大河内さまにすべてご報告いたしまする」 重四郎はすたすたと先に立って歩き出した。
「勝手にしろ。お主のことは知らんぞ」
 重四郎の背に伝之丞の捨て科白が飛んできた。
(ふん。商人からあからさまに袖の下をもらう同心にお役目を習うなぞ、こちらから願い下げだ)
 重四郎の胸の内は治まらなかった。怒りで胸の内がむかむかしている。そのまま奉行所に帰るのも嫌な気がして、猿楽町の〈撃剣館〉に顔を出した。重四郎はそこで思う存分に汗を流したが、気持ちが稽古に表れたのだろう、
「どうした重四郎。やけに荒れておるな。それでは怪我人がでるぞ」
 と、道場主岡田十松から注意されたほどだった。


四 同心不正心得

 翌日、朝一番で出仕した重四郎は、直ちに年寄同心詰所へ大河内源吾を訪ねた。
 源吾はすでに出仕していて、一昨日と同じところに端座していた。
「どうした。朝早くから」
 源吾の声は柔らかい。
「お耳に入れておきたいことがござります」
「何だ?」
 重四郎の堅い表情に驚いたのか、源吾の声が改まった。
 昨日の高田伝之丞の行状を、重四郎が伝えると、
「ううむ」
 と唸るように言って、源吾は腕を組んだまましばらく黙っていた。
 ややあって、
「まずは伝之丞に委細を聞いてみよう。話はそれからだな」
 組んだ両手をほどいて、
「そなたは詰所で暫時待っておれ」
 と言って、部屋を出ると、通りかかった者に、伝之丞にすぐ来るように、と指図した。「高田どのは出仕しておるのですか?」
 そういえば昨日も重四郎よりも先に来ていたな、と思いだしながら訊くと、
「夕べから居るぞ」
「えっ!」
 重四郎は吃驚してしまった。
「そう言えば、そなた夕べはどこに居た?」
 逆に源吾から問われて、ふて腐れて〈撃剣館〉で剣の稽古をしていたとも言えずに黙っていると、
「まあ、良い。呼ぶまで詰所で待っておれ」
 源吾の言葉に救われたような思いで、はっと辞儀をすると、部屋を出た。
 ちょうど高田伝之丞が来たところで、二人は顔を合わす形になった。重四郎と目が合うと、伝之丞の顔にやや赤みがさした。目が怒りで燃えているように見えた。負けずに睨み返すと、ふんと鼻を鳴らすようにして、
「高田伝之丞参りました」
 と告げて、年寄同心詰所へ入っていった。
 詰所へ戻ると部屋の中がざわついている。黙って聞き耳を立てていると、どうやら夕べ捕り物があったらしい。
 ふと目を転じると、重四郎と同じくつくねんと座っている年配の同心が目に入った。確か名は草加惣兵衛といったはずだ。
「率爾ながら」
 重四郎は近づいて、今話題になっていることを訪ねると、
「近頃江戸を騒がしておった拐かしの一味を夕べお縄にしたのです」
 本当は惣兵衛も話の輪に加わりたかったのかもしれない。よくぞ聞いてくれた、といわんばかりに詳しく話してくれた。
 どうやら、一昨日の初出仕の夜、里久の話していたことは、事実だったようだ。
「此度は玉置屋の娘が掠われましてな」
「玉置屋!」
 重四郎は思わず叫んでいた。
「どうなされた?」
 惣兵衛が吃驚したように逆に問い返してきた。
「いや。何でもありません。続きをお聞かせください」
 まさか昨日の高田伝之丞の行動と関係あるのではないか。という気がしたが、いや偶然であろう。と思い直して続きを促した。
 惣兵衛の話によると、玉置屋の娘は〈さと〉といって十二歳になるらしい。琴を習っていて、三味線堀の師匠のもとに習いに行った帰りに拐かされたという。十二歳といえば分別もある。なぜに、と思わぬではなかったが、逆にいろんなことに興味を持ち始める歳頃でもある。
 帰り道、新内流しの唄う声が響いてきた。三味線の音色にのって、粋な良いのどだったらしい。
「あれ。お嬢様」
 従っていた下女が気付いたときには遅かった。さとはその新内流しを追って、一人でどんどん歩いていったのだという。
 時刻は暮れ六ツ刻に近い頃合いで、すでに辺りは暗くなっている。下女は慌てて後を追ったが、人混みに紛れて見失ってしまった。その場では、仕方がない、道の分からぬ童ではなし、一人でも帰り着くだろう、と思って先に店まで帰ってきたという。
 と、まるで下女が帰り着くのを待っていたかのように、賊から文が届けられたらしい。下女が主人から大目玉をくったのは当然だが、事が事なだけに、そのことに気付いた店の者はほんの数人だったらしい。
 重四郎は一昨日から昨日のことを思い出していた。
 一昨日といえば、重四郎の初出仕の日である。暮れ六ツ近くといえば、奉行所を出る前だ。もしかしたら弥吉はそのことを知らせるために待っていたのだろうか。だとすれば、定町廻り同心として、とんだ失態をしでかしたことになる。
(いや。いかに弥吉とはいえ、わずかな時刻で拐かしを知ることは無理だろう。それに縄張りが違う)
 重四郎は思い直した。
 昨日の朝には、賊から金の受け渡しの文が届いていたという。ということは、伝之丞といっしょに見廻りに出たときは、すでに文は届いていたことになる。伝之丞の袂に番頭が入れたものは、そのことを書き付けた物だったのだろうか。
(いやいや。高田どのが何かを受け取ったのは、玉置屋だけではない)
 重四郎は四軒目でのことを思い出し、やはりあれは袖の下と思って間違いない、と確信していた。
 そのとき、大河内源吾からの呼び出しがあった。
 重四郎はすぐさま年寄同心詰所へ向かった。
 大河内源吾は朝と同じところに難しい顔をして座っていた。その顔を見て、思わず緊張が走った。
 重四郎が、参りました、と告げると、源吾は中に入って座るように促し、
「そなた、奉行所同心の不正心得を存じておるな」
 静かに問うてきた。
「は?」
 始め重四郎は、その突然の問いの意味がよく分からなかった。
「不正心得じゃ。諳(そら)んじておろう。述べてみよ」
「はっ!」
 突然の問いに戸惑いながらも、朝の申し立てに関わりのあることだろう、と思って、重四郎は語り出した。
「奉行所同心不正心得の条」
「うむ」
「一つ。諸家より扶持方を受くるなり」
 いわゆる〈陰扶持〉を受けるな、ということである。同心の身分は御家人である。幕府からの扶持を受けている。当然のことながら、他の大名などから扶持を受けるということは許されないことである。
「二つ。岡っ引き目明かしを遣い、捕亡探索之事を命じ、御定を犯すものなり。袖の下を受くる事あり」
 岡っ引き目明かしを遣うことは、正式には禁止だが、それによって法を犯したり、賄賂を受け取ったりしなければ、黙認されていた。
「三つ。遊郭にて遣い高多き若者どもを捕え、自身番屋に連れ来たり、金の出道を糺すなり。その者不正はなけれども、親懸り又は主人持なれば甚だ恐縮して、様々に袖の下を送り、放免を請うなり。然る時これを放免するなり」
 要するに、遊郭で遊ぶには金がかかる。若者がそんな大金を持っているわけがない。叩けば誇りがでるだろう。仮にでなくても親や主人に知らせれば、外聞が悪いので内密にしてくれ、と頼んでくる。そのとき袖の下をもらって解き放つことである。
「四つ。役威を以て、人々の内事に干渉して周旋料をとること」
 内事とは、家庭内のもめ事やごたごたである。
「五つ。市中にて侍・小者など酒犯の上にて立騒ぎたるものを取押さえ、自身番屋へ預け置き、酔醒の後は恐入内分の処置を乞うものを許し謝礼を受けることなり」
 これも酔っぱらいの弱みにつけこんでのことである。
「良い。同心としては当たり前のことだ」
 いかに見習い三日目とはいえ、諳んじていて当然だということであろう。
「ところで、高田伝之丞は、いまの五箇条のどこに違背しておる」
「えっ!」
 重四郎は思わず我が耳を疑ってしまった。
「袖の下を受けることは、同心として許されぬことだと思われまするが」
 老中松平越中守定信も厳に禁じていることである。おそるそおる重四郎が申し出ると、「確かにその通りである。だが、茶菓の接待は受けるであろう。仮に過小の金子を渡されたからといって、それが直ちに袖の下として咎めになるものでもあるまい。そのことによって便宜を図らねば、単なる儀礼として受け取っても良いのではないか」
 今日でもそうだが、心付けと賄賂の境界は明確ではない。
「さりながら・・・・」
 とはいえ、仮にも北町奉行所の同心ともあろうものが、堂々と受け取って良いはずはない、と思う。
 仮に便宜を図らねば、儀礼としてもらって良い、ということになると、無尽蔵に受け取って良いのか、いくらまでなら受け取って良いのか、などの多寡が問題となるであろう。その線引きは誰がするのだろうか。まさか一定廻り同心が決めてよかろうはずがないではないか。重四郎の頭は混乱している。
「ご時世というものがある」
「は?」
 重四郎は源吾の真意を測りかねた。
「伝之丞のやり方は、そなたの父重馬から学んだことだ」
「ええっ!」


五 役替え

 ――父重馬が袖の下をもらっていた。
 重四郎にとって、源吾の言葉はにわかには信じられないものだった。
「重馬は北町奉行所きっての切れ者であった。そのことはそなたも知っておろう。伝之丞は見習いのとき重馬に付き、そのやりかたの一部始終を学んだのだ。重馬亡きいま、伝之丞は北町きっての出来物といってもよい」
「そんな・・・・」
 昨日のやり方は、父重馬から学んだことだという。それを伝之丞は、子である自分に伝えようとしたのだろうか。
 重四郎の頭は混乱し、事の是非がよく分からなくなってきた。
「伝之丞は、確かに袖の下をもらっていたようだ。とはいえ、袖の下が合図でもあったのだ」
「えっ! 合図?」
 源吾が伝之丞から聴取したところによると、包みの厚さが主人との暗号になっていたという。包みの中身はいくらかは分からないが、常より多い場合、主人の意向の確認を取ることになっているらしい。その場合、さらに次の包みの厚さとその商家に起きている事件の内容によって、すぐにその場で会ったり、時刻を改めたり、という仕組みだという。玉置屋は改めてこっそり裏口から訪ねてきてほしい、という合図をおくり、伝之丞はその後の持ち回り商家には異常の無いことを確認して、後でこっそり玉置屋を訪ねたという。そこで拐かしのことを知り、手立てを相談したのだという。それにより夕べの捕り物で、拐かしの一味をお縄にしたというのだ。
 その仕組みを含めて、一切を重馬から引き継いだ手法だというのである。
「そのようなやり方は、ことによっては内事に首を突っ込むこともあり得る。その線引きが最も難しい、と伝之丞は言うておった。むろん、商家にとって好まぬところもあろうが、無理強いはしておらぬようだ」
「では・・・・」
 重四郎は己の早とちりを悔やんでいた。
「いかにも。伝之丞は不正心得には触れておらぬ」
 源吾は厳かに言った。
 重四郎は敗北感で打ちのめされたような思いだった。首項垂れて言葉もない。
「だがのう」
 源吾がため息をつくように言葉を継いだ。
「重馬が編み出したやり方は、田沼意次様のご時世であった」
 田沼意次は、九代将軍家重の小姓から出発して側用人を経て老中となり、一つの時代を築いた人物である。その時代は賛否があるが、袖の下すなわち賄賂が横行した時代ともいわれている。
「・・・・?」
 重四郎は怪訝な面持ちで頭をあげた。
「当世は越中守様のご時世である。そなたの姿勢は〈可〉としなければならぬ」
「では・・・・」
「うむ。伝之丞には、以後慎むように申しつけておいた」
 やはり己の考えに間違いはなかった、と重四郎は安堵の思いだった。
 だが、田沼様のご時世なら許されて、越中守様のご時世なら許されない、そのようなあり方で良いものだろうか、重四郎の胸にはわだかまるものがある。
「とはいえ、先輩を密告し、誹謗した罪は軽くはなかろうぞ」
 源吾の声色が変わった。
「よって、そなたは定町廻りを改め、風列廻り昼夜廻りとする」
 厳かに命じた。有無を言わせぬ響きがあった。
 重四郎は咄嗟に、はっ、と平伏して源吾の命を受けた。
 だが、畳を目にして重四郎には込み上げてくるものがあった。密告し誹謗したつもりはない。越中守様は、役人の勤めぶりについて、納得のいかないことは何度でも押し返し自分の意見を言うように、と申し渡されている。早とちりはあったかもしれないが、どのような理屈があろうと、やはり袖の下は許されないと思う。それゆえ伝之丞には、慎むように命じたのであろうが、だからといって、なぜ自分が役替えにならねばならないのか。
「そなたは若くまだ青い。そなたの若さ青さをわしは好む」
 源吾のふわりとした言葉が、重四郎の背中をかぶさってきた。
「本来なら年番方筆頭与力どのが申し渡すところだが、願ってわしから伝えることにしたのだ。そなたにとっては、不本意であろうが、此度はやむを得ぬ」
 それは重四郎の込み上げてくるものを優しくくるんで溶かし込むような口調だった。
「格別の計らいで見習いは終わりとする。向後は風列廻り昼夜廻り同心として励め。与力の大川武兵衛どのは、そなたに多くのことを教えてくれよう。そして、また定町廻りに戻ってこい」
 込み上げてくるものは、別なものに変わっていた。重四郎は、素直に心の中で感謝した。
 おそらく今度の措置は、源吾のなみなみならぬ温情が働いているのだろう、と想像できた。生意気な後輩を賞していては、上下のけじめを守れないのかもしれない。
「上役となる大川どのに挨拶してくるがよい」
 重四郎は、割り切れない、やるせない、そしてある意味無念の思いを抱いて、年寄同心詰所を後にした。
 源吾は〈ご時世〉という言葉を使った。確かに田沼時代と定信時代では、その施政の方針が大きく異なっている。松平定信は、田沼意次の政治を否定して登場したが、袖の下に対する対応が、権力者によって変わる〈ご時世〉とはいったい何なのだろうか。松平定信が失脚したら、再び袖の下を受け取っても良い〈ご時世〉が来るのだろうか。
 それは重四郎にとって、あまりにも大きくて難しい問いだった。
 重四郎がいなくなると、
「良いのか、大河内。あのような一本気な若者を大川どのに預けて」
 障子が開いて、隣の部屋から年配の年番方与力が顔を出した。
「それがしにいささか思案がござります。お任せ願いとうございます」
 源吾が応じた。
「うむ。すでに了解したことではあるが・・・・」
 年番方与力は語尾を濁して、それ以上は何も言わなかった。

「おお! 弥吉。心配したぞ。昨日はなぜ来なかった」
 その夜、組屋敷に戻ると弥吉が来ていた。
「すいやせん。お聞き及びと思いますが、拐かしの一味の捕り物に借り出されましたんで」
「まあ、上がれ。その話を詳しく聞かせてくれぬか」
 寒風の中、庭先で聞くわけにもいかない。
「へい。お言葉に甘えまして」
 弥吉が部屋に上がると、
「外は寒かったでしょう。温まってくださいね」
 里久が茶を持ってきた。
「酒の方が良いのではないか」
 重四郎が茶化すと、
「そうですね。拐かしの一味も捕らえたことですし。祝い酒としましょう」
 里久は真面目に受けて、台所に立っていった。
 今さら冗談とも言えず、重四郎が茶を一口飲んで、弥吉に改まって話を促した。
「日本橋から神田にかけては、鎌倉河岸の万七のシマなんですがね」
 万七も岡っ引きである。歳は三十一で、以前弥吉のもとで下っ引きをしていたことがある。行儀作法も正しく、度胸があって、感も鋭かった。重四郎も顔は知っている。江戸っ子らしい、いなせな顔が思い浮かんだ。
 そんな万七だったから、先代の万蔵に見込まれて、婿養子に入ったのである。縄張り内では町役人や住人の信頼も厚く、すぐに玉置屋の奉公人から娘が拐かされた情報を得たという。
 だが、事が事なだけに万七は、こっそり弥吉に相談をかけてきたという。
「まあ、あっしにとっては、弟子みてえな奴ですからねエ」
 弥吉は胸を張った。相談してくれたことが嬉しかったのだろう。
「ですが、なるほど扱いは簡単じゃねェ」
「それで、俺に相談しようと海賊橋の袂で待っていたのだな」
「へい」
「すまなかったな。それと知らずに」
 重四郎が詫びたとき、
「ここで飲み直しをされれば良いではありませぬか」
 里久が熱燗にした徳利と猪口を持って、二人の前においた。
「すいやせん」
 弥吉は恐縮したが、表情は嬉しそうだった。
 重四郎が弥吉の猪口に注ぎながら続きを促すと、すいやせん、ともう一度恐縮して、
「そんときは、翌朝でも良いと思ったんでさあ」
「その夜に投げ文があったんだな」
「へい」
 頷いて、弥吉は猪口の酒を一気に飲み干して、ふうと一息ついた。
「万七はすぐに高田の旦那に知らせたそうです」
「そうか、高田伝之丞どのに手札をもらっていたのか」
「へい。そのお指図で、若にも話せなくなっちまったんでさあ」
 すいやせん、と詫びながら猪口に酒を受けた。
 金の受け渡しは、夕べの五ッ半(午後九時)、柳原稲荷だったという。その話をしたい、というのが、番頭が二度目に渡した包みの暗号だったに違いない。
 重四郎が怒って別れた後、伝之丞は玉置屋の裏口からこっそり入って、捕り物の段取りを話し合ったのだろう。重四郎はちょっぴり胸が疼いたが、不思議とそれ以上の後悔の念は起きなかった。たとえ捕り物のためとはいえ、袖の下は許されないと思う。
 それから弥吉は、長々と夕べの捕り物の話をしたが、重四郎は聞いていなかった。
 やがて酔いが回るのを感じながら重四郎は、昼間、挨拶した風烈廻り昼夜廻り与力大川武兵衛のことを思い出していた。
 大川武兵衛は、一言でいえば、相当な変わり者であった。
(了)

(注1)本作はフィクションです。時代考証等を主張するものではありません。
(注2)「図説 江戸町奉行所事典」(柏書房、笹間良彦)を参考にさせていただきました。






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