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遙かなるミッドウェー『父からの手紙』前編 (無料公開)
[【時代小説発掘】]
2013年6月9日 11時20分の記事


【時代小説発掘】
遙かなるミッドウェー『父からの手紙』前編
斎藤 周吾


(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


【梗概】:
 扶桑映画社に勤務するカメラマンの林定彦は、太平洋戦争のミッドウェー島攻略に、報道班員(従軍記者)として出征するよう、命じられた。太平洋戦争のターニングポイントになった海戦を通して、家族のありようを創作した。


【プロフィール】:
斎藤周吾 (さいとうしゅうご)
受賞歴
 平成20年8月、日本文学館『最後の家康』で、短編部門の審査員特別賞。
 平成20年1月、(財)斎藤茂吉記念館にて、『短歌部門』で、川嶋清一選で佳作。


これまでの作品:
女帝物語−わが子に
血染めの染雪吉野桜



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【時代小説発掘】
遙かなるミッドウェー『父からの手紙』前編
斎藤 周吾



 (一) 出征命令

 
 昭和17年(西暦1942年)5月8日、夕方5時20分。扶桑映画社が定時に終業した20分後であった。
「大本営発表……。今日、ニューギニア島付近において、米空母二隻、戦艦一隻を撃沈せり。これで米国の太平洋艦隊はほぼ全滅し、三流海軍国に転落した。我が方の損害は軽微。残存米艦隊を追撃して作戦は続行中なり。なお、本海戦をサンゴ海海戦と呼称する」
 いつものように、ラジオが景気よくがなりたてた。
 太平洋戦争に突入し、ハワイの真珠湾奇襲攻撃以来、丁度、五ヶ月が経っていた。
「万歳!……。これで、ニュース映画を見に来る観客が、ますます増えるぞ……」
 終業時間が過ぎても、だらだらと居残る社員達は総立ちして、ラジオに向かって、こわだかに万歳を連呼している。
 三十四歳になる林定彦は、昨年に統合された扶桑映画社に入っていた。
 内務、文部、厚生三省共同の立案になる映画法が昭和14年に施行され、映画を上映する時には必ずニュース映画を流すことになっている。
 ニュース映画用として明日一番に検閲を受け、上映時間前まで配給先にネガフィルムを届けなければならない。戦争に突入してから、フィルムを繋ぐ接着材が付きにくく乾きも遅くなった。当然、編集時間も延びる。細かい仕事なので一人でしかできない。今日も徹夜だ。頭の中はフィルム編集の事で一杯であり、戦争どころではない。ラジオが戦捷を報じても、一人、うつむいたままだった。
 今年も八十八夜が巡り、新茶を摘む季節になった。青くそびえる富士山の麓で、若い女達が初夏の陽射しから柔肌を守る為につげ傘をかぶり、茜ダスキをかけて新茶を摘んでいる。我ながら綺麗に撮ったものだ。茶摘み女の生き生きとした笑顔は、切れそうな神経をいやしてくれる。唇に微笑を浮かべながら拡大鏡をのぞいていた。
 
 半月が過ぎた5月25日、月曜日、林がこもっている、写真現像の暗室のベルが鳴った。
 扶桑映画社は、月月火水木金金であり、日曜日という文字はない。昨日の日曜日も取材で駆け回り、昨日撮ったばかりのフィルムを現像しているところであった。
 暗室に光が入れば、せっかく撮ったフィルムが感光して真っ黒になり、おシャカになる。入口ドアの取っ手には『現像中、入室絶対禁止』の札を掲げた。暗室入口には、当然、内鍵も掛けてある。
 しばらく後、またもやベルが鳴る。
 今度は長い。
 暗室は舞台幕のように奥行き三列の引幕で仕切ってある。厚い黒幕を通るたび、一々開閉して出る。
「今は現像中ですが、何用ですか?……」
 入口のドア越しに聞いた。
「急ぎ、社長がおよびです……」
 社長秘書の声である。
「……今すぐですか?……」
「現像を止めて、今すぐ来て下さいとのことです……」
 先刻、社長が帰るまで外出しないで会社にいるように、と電話連絡があった事を思いだした。どうせ今日は一日中、現像と編集で会社にいるので、在社を命じられた事などすっかり忘れていた。
 いや、忘れようとして現像に没頭し、気を紛らせていたのだった。
 現像を途中で止めれば、せっかく撮ったフィルムが真っ黒になるか、ばらつきがでる。現像中に人が代わっただけでも、つないだフィルムに濃淡の差が出て映像がおかしくなる。素人観客にはほとんど見分けがつかないが、競争会社や映画を知る人には分かり、『あれでも国策ニュース映画会社の仕事か』、と笑われる。写真屋にとっての現像は、絶対に失敗の許されない最も重要で難しい工程だ。
 フィルムを熟知している社長がすぐ来いと言うことは、戦時下で貴重なフィルムだが、一本くらい駄目にしても良いというほどの重要さだろう。定着液で取り出していたフィルム画像の定着だけを急いで済ませ、フィルムの洗浄は同僚に頼んだ。
 ドアを開けて室外に出るとまぶしい。西の高窓から差しこむ光に思わず目がくらんだ。陽はもう、西に傾いている。朝からずうっとこもりっぱなしだ。突然お腹が不平そうに鳴りだした。妻が作ってくれた手弁当さえ食っていなかったのだ。社長室から戻ったらゆっくり食おう。
 開いている社長室のドアをノックし、名乗った。
「入りたまえ……」
 前方に壁のように立ちふさがるつい立て越しから、いつもの、人を圧する社長の鋭い声がする。
 社長席の背後の壁の上には、現人神であらせられる、今上天皇の御製の、
 ”磯崎に たゆまずよする あら波を しのぐいはほの 力をぞ思う”
 が、掲げてある。
 社長の顔は、思い詰めたように暗い。
 腰を直角90度に曲げ、扁額に最敬礼をした後、指示は何だろう、と社長机の前に直立不動の姿勢で立っていた。
「ソファーに座り、ちょっと待っていてくれ……」
 幅広机の向こうに座る社長は、最敬礼が終わるのを見計らい、うつむいたままで言った。己の右横にある、肘掛けに螺鈿を用いて蟠桃を細工した、モダンな作りの来客用ソファーである。
 急用と言うので来たのに、何やらのんびりと書き物をしながら座れという。改まった物言いに思わず身を固くした。一生懸命やった取材を、きみの撮ったフィルムは必要ない、と全て否定されたような響きだ。もしや、あの事件が原因で、首だ、と言われるのではないのか。それでなければ、大事な現像を止めてまで来いとは言わないはずだ。己よりはるかに斬新な発想をして、カメラマンとして入社したい優秀な人は沢山いる。体が思わず震え、座るのをためらった。
 今まで一度も座らせて貰った事のない社長室のソファーであった。
 顔をあげた社長に、再び、座るよう促された。社長の目は、とったネズミをいたぶる猫の目のように光っている。ソファーに浅くそっと腰かけ、刑事被告人が判決を待つように天井を見つめた。
 戦争に突入してから物資統制に入り、『アサヒカメラ』という雑誌などは、今年の2月号で休刊の憂めにあった。我が社もついに人減らしが始まったのか。今の時代、首と言われても職がない。明日から妻子をどうやって食わそうか、子供の教育はこれからどうしようかという不安が頭をよぎる。
 茶を置いて去る若い給仕に、社長はドアを閉めて行くように告げた。
 ますます緊張した。
 社長がソファーに座って茶を喫し、濃い渋茶を飲むような渋面を作りながら、おもむろに語った。
「……軍艦に乗り、ミッドウェー島に、取材に行ってはくれないかね……」
 今は戦争中で危険だ。海防艦にでも乗って行くのだろう。首だと覚悟していたので、奈落の底から一気に天にも昇る心地であった。窓の下には、初夏の陽射しを受けた白いナナカマドの花が、紫陽花のように玉になってまぶしく咲き誇る。
「新渡戸島とは、南方のどこにある島ですか?……」
 日本の古き良き武士道をたたき込む為、新渡戸稲造の名を取って、占領した島の名を新渡戸と付けかえたのだろう。ヤシの葉で葺いた軍営で守備する兵隊さんの、国民の戦意昂揚の為のニュース映画取材に相違ない。
「……ニトベじゃない……、ミッドウェーだ。ここから2200海里ほど東にあり、日本が真珠湾攻撃したハワイ諸島の西1300海里沖にある。日本と米国西海岸のほぼ中間にあるので、ミッドウェーと言うそうだ……」
「……英語の名称からして、もしや、米国領では……」
 軍艦で米国領に行くとは、当然、占領に行く。戦争を意味しているからだ。
「もちろん、ミッドウェー島攻略作戦の取材だ」
 社長の答える声は、近所に取材か、使いにでも行ってくれないかと言う、余りにも日常的な響きであった。
 陸軍に従って大陸に渡った従軍記者は沢山いるが、秘匿性の高い海軍の作戦に従軍したカメラマンが居た事など、未だかつて聞いた事がない。壁上の扁額の重みが肩にずっしりとのし掛かってくる。支えきれず、固いソファーに思わず沈み込んだ。
「まあ、そう固くならず……。まずは茶でも飲みたまえ……」
 固くなっているのではなく、放心しているのだ。社長は簡単に促すが、茶飲み話どころではない。一つしかない命がかかっているのだ。茶を喫する手は震え、熱い茶を膝にこぼしたが、茶の熱さも感じない。停車場や港で出征兵士を見送る映像や、銃後を守る健気な家族をカメラに収めてきたが、自分が戦域に見送られるとは、夢想だにしなかった。
 先日、笑顔で茶摘みをする若い女性達をニュース映画に流したところ、地方検閲官に、「本官は、茶摘みならいいと簡単に検閲済の印を押してしまったが、あとで、内務省本省課長が、『帝国の威信を損するおそれがある』と、怒っておられると直属課長の叱責を受けた。改めてニュース映画をよく見ると茶摘み女達が笑っているではないか。今は非常時の戦時下だ。一億総国民が一所懸命に戦っているのに、どこ吹く風と笑いながら茶を摘む女達を撮るとは、国威を高揚すべきニュース映画を作る国策会社の一員としてあるまじき行為だ。我が国の象徴である神聖な富士山の麓とは、帝国に対する嘲弄ではないのか。お国の為に、貴い命を鴻毛の軽きごとく投げうって靖国神社に祭られた英霊達は、さぞや嘆き悲しんでおられるであろう。これで本官の将来は閉ざされ、恩給にも差しさわる。貴様には後日、主務大臣からの懲役か罰金刑の御沙汰がある事を覚悟せよ……」
 定年間際の小役人に呼び出され、ふらちな非国民だと歯の根が合わぬげに罵倒されていた。
 文化映画および時事を撮影したものに過ぎないと思っていた。此度の派遣はその刑罰だろうか。それなら、戦争に行くより、首だと言われた方がまだましだ。
「私は近眼で背が低く、兵隊に取られませんでした。戦争というものが死ぬほど恐いのです……」
 はずした眼鏡を拭きながら、素直に言った。もちろん、近眼では激しい戦域に行っても使いものにならない、と無言で訴えた。
 突然、社長は何を思ったのか立ち上がり、
「我が国は神代以来、外国軍に一度も国土を踏ませた事がない神国だ。神々に守られているせいもあるが、これは、忠孝にして忠良なるわが臣民が命を懸けて国土を守り、常に外地か海岸で敵を撃退したからだ」
 後ろを向いて扁額に最敬礼したあと、座り直してさらに言った。
「きみが兵隊に行かなかったので肩身の狭いのは分かる。今こそ、お国の為にミッドウェー島攻略のMI作戦を取材して、男の名をあげるトキじゃあないかね……」
 ニュース映画会社を何とか存続させたい社長は、国の為だと強調するのであった。
 戦時になって、兵隊や軍需関係に携わる人はますます羽振りが良くなったが、兵隊に行かないのを恥じないどころか、内心は天祐とさえ思っている。写真や絵描きは肩身の狭い職業だが、天職とさえ思っている。
「私は今まで、市井の沢山の人々をカメラに収めて来ました。戦争映画など撮った事はありませんよ……」
 なおも言った。
「関東大震災後の我が国は、不況にあえいで娘を売るような暗い世相になった。そんな時、清く美しくたくましく生きる、庶民の平凡な日々の生活の中にある美しい一瞬を切り取る芸術写真を撮りたい、ときみは常々言っているね。きみの、戦争を素直に怖がる所が良い。軍人は命知らずだが、写真屋は命知らずでは駄目なのだ。命知らずの写真は荒っぽく、軍艦や飛行機ばかり一所懸命撮って、深みも幅もない。御両親はきみの子供の時に亡くなり、死については人一倍鋭敏なきみだ。人は深い悲しみがないと良い映画は撮れない。人々の共感を得る写真は、苦しさの中で必死に生きる姿だよ。それが映画を観る客層を増やす。お国に命を捧げる兵士の心を撮る事ができる、恥ずかしくなく送り出せるのはきみしか居ないのだ」
 臆病を、褒められたのか、けなされたのか分からない。
「社長、恐らく軍機であるミッドウェー島攻略を、下っぱである私にどうして話されるのですか?……。封密命令とまでは申しませんが、軍艦に乗ってから、ミッドウェー島に征くのを知らされるものだと思いますが……」
 半ば諦め、どうでもよいような事を尋ねていた。
「……大本営陸海軍報道部の副官殿に先ほどよばれ、今帰ってきた。連合艦隊の総力をあげてMI作戦を遂行するので、国威発揚のニュース映画に撮って欲しいと言う事であった。米国海軍はサンゴ海海戦でほぼ全滅したが、太平洋は広すぎる。米国にそれとなく作戦の情報を流し、ミッドウェー島近海に敵機動部隊をおびき出して残存勢力のせん滅にあるそうだ。しかし、ハワイを守る事に汲汲とするニミッツ提督は、空母を残存させようとしてミッドウェー島守備は放棄するだろう、と言うのが、大本営の見通しのようだ……」
 己の軟化を悟ったのか、社長は、作戦を微細に説明しだした。
「……国は一矢報いようと、シャングリラから飛び立ったB25爆撃機が、先月の4月18日、東京を空襲しました。日本の空には神風など吹いておらず、リメンバー・パールハーバー、真珠湾奇襲を忘れるな、これから日本を大空襲する手始めだ、と米国のラジオ放送はこわだかに叫んで居ます。ミッドウェー島攻略はむしろアメリカの方から仕掛けられ可能性が高いです。我が連合艦隊をハワイかミッドウェーの自陣に誘いこもうと、手ぐすね引いて全力で待ち構えているのではありませんか。我が国のような帝国主義国家は、用意周到で戦いに臨むので緒戦には強い。民主主義国家は立ち上がりが遅くとも持続力があります。米国を甘く見たら敗れます……」
「……きみは、戦争が恐いと言いながら、良く分析しているね……」
「学校では国史・戦史を教えられ、配属将校には、いやがおうでも木銃を担がされて軍事教練を受けましたので……。多少は……」
「きみまでが、あがく米国の、日本向けプロパガンダ放送を信じるのかね……。理屈はもういい。きみがあくまでも嫌なら、僕が行くしかないがね……」
 即諾せずに何だかんだ言うので、社長はついに怒ったようだ。米国のハルノートのように最後通牒を突きつけてきた。いや、有無を言わせぬ、結論の催促だ。
「いえ……。社長は、我が社にとってなくてはならぬお方です……。私は行きます……」 それは結構な事です。社長さんがどうぞ、とでも言おうものなら社長の逆鱗に触れて首にされたうえ、それこそ不義不忠の烙印を押され、戦時下の次の就職先選びに響く。
 それを裏付けるように、社長は、
「よく決心をしてくれた。ありがとう……。実は、きみを望んだのは、ほかならぬ、恐妻家で有名なあの副官殿だ。副官殿の奥さんが、きみの撮った茶摘み女のニュース映画を見て感激したそうだ。余りにも奥さんが褒めるので、忙しい最中だが副官殿も見に行ったそうだ。戦時下にもかかわらず……、いや、戦時下だからこそ、茶摘み女の生き生きとした姿を撮ったのを見て、国威発揚に、此度のMI作戦を映像に収めようと思いたち、きみを指名したと言う。私は、きみは近眼であり、軍務遂行にはどうかと言うと、副官殿は、カメラをのぞくには近眼ほど被写体を注視するものだ、と言われ、きみに白羽の矢をたてたのだ……」
「……副官殿の特命ならば、私は赤紙で応召される、兵隊、同然ですか……」
 全身から一度に力が抜け落ち、思わずソファーに沈没した。
 戦時下になり、検閲する内務省など遙かに及ばない、強大な権限を持つ大本営海軍部の命令なのだ。
「……今度のきみの身分は軍属だ。あくまでもきみが拒めば、徴兵忌避罪になっていたね……」
 戦時下の徴兵忌避は重罪だ。家族を養う、養わないどころの騒ぎではない。
(ああ……。やはり懲役の刑だ……)
 思考が止まり、思わず天を仰いだ。やがて思いだしたように、すでに冷えた茶を、水杯を掲げるように一気に飲みほした。深い深呼吸をしたあと、思わず苦笑してしまったのであった。
「……この期に及んで苦笑するとは、きみは相当な大物だ。さすが大本営陸海軍報道部の副官殿だ。きみの資質を、映像を見ただけで見抜いた……。これを受けざるは、男子にあらず。我が社の名誉の為にも、ぜひ、頼む……」
 いつもは威厳あふれる社長だが、ついに、部下に頭を下げたのであった。
「ただし、ミッドウェー島に行っても、日本軍の余りにもの快進撃に、撮影のネタ探しに苦労するだろう、が……。あの島にはブーゲンビリアやハイビスカスが咲くだろうが、ナナカマドの花も咲くのかな……。屋久島辺りが南限と言う人もいるが、扶桑大和の国の花はどこに行っても綺麗に咲く……。来年の今頃は、米国の検疫検査なしで移植したナナカマドの花が、さぞや見事に咲き誇るだろう……」
 社長は、遙かなミッドウェー島に思いを巡らした。
 社長は社内にいる者達を集め、派遣辞令書を皆の見守る中で交付した。さきほど、社長がうつむいて何やら書き物をしていたのは、ぼん字のような独特の花押を辞令書の末尾に描いていたのであった。
 夕方、会社を早めに閉め、壮行会に街にくりだした。貸し切った小さな飲み屋であった。
 
「遅かったわね……。余り遅いので心配したのよ……」
 夜遅く家に帰ると妻の田鶴子が出むかえた。夫の二歳上で今年三十六になる。夫の履く南部桐下駄の音を聞いて玄関先に出ていた。瓜実顔に微かに憂いを帯びた、年上妻の目を見ると、いつも癒やされる。
「せっかく作ったのに、弁当を食べなかったの?……」
 帆布バッグの厚みと重さが、出社する今朝と変わらない。弁当を包んだ風呂敷の結び目も田鶴子が結んだままだ。食事をせずに待っていた妻は、夫のバッグを開けただけで心配そうに見あげた。そう言えば、昼飯弁当を食わなかったのは初めてだった。
「あなたは戦争が嫌い、軍人は好かないというから私は結婚したのよ。それなのにどうして戦争に行くのよ。他の人に行って貰えばいいのに……。満州事変以来、朝日新聞記者だけで16人以上も戦没しているのよ。今日の朝刊にも、朝日新聞社の赤司特派員というカメラマンがビルマで報道散華したと載っていた。まもなく子供も生まれるのよ……。あなたの乗る船が沈んだら、残った私達は、一体どうすればいいのよ……」
 田鶴子は、中学校教員の父により陸軍士官と見合い結婚させられたが、乳飲み子の娘を抱えて離婚した。まもなく林と知り合って結婚していた。林は初婚であった。
 妻は窮屈げなお腹を押さえたまま、おろおろするばかりであった。妊娠五ヶ月目に入った戌の日に腹帯を締める。4日前の21日がその日であったが仏滅であった。その前の5月9日が先負の戌の日にあたる。9日の夕方、水天宮に行って安産祈願し、斎肌帯(いはだおび)を締めたばかりであった。
「私は前夫と別れ、乳飲み子をかかえてどうしようかと途方に暮れて居る時、あなたに救われた。あなたの子がようやくできたと喜んだばかりなのに……」
 田鶴子を以前から思い続けていたが、田鶴子は士官と結婚した。離婚したので直ぐに求婚したのだった。この非常時、一人でも育てるのが大変だ。二人になるのだから妊娠した事を悔いている言葉にも聞こえるが、それ以上に、寡婦になり、父なし子がまた増えると悲しむようである。
「戦争になると死ぬ人が多いけど、生まれるのも増えるそうだ……」
「私はどうして、こんな殺伐とした戦争の時代に生まれてきたのかしら……」
 田鶴子は、力なく肩を落として横むいた。
「私は大本営から簡抜された。無事に今度の勤めを終えれば、社長は、扶桑映画社の経営陣に私を加えるとおっしゃった。中学校しか出ていない私でも重役になれる、好機だ。お母ちゃんはいずれ重役夫人と呼ばれ、御両親にも顔向けができる。借家住まいも返上し、今より暮らしむきが楽になる。こんどのミッドウェー島攻略は、軍事的散歩だと大本営では語っている。MI作戦は長くて一ヶ月だそうだ。戦闘中は軍艦の一番安全な艦首付近にいる。必ず生きて帰る」
 妻が動顛して流産などしないよう、できるだけ希望を持たせる為に言った。
「それでは、いつ行くの?……」
「明朝、東京発の電車に乗り、広島の呉軍港の旅館に泊まる。明後日の朝に出航する航空母艦赤城に乗らなければならないのだ」
「明朝……出発……だなんて……」
 田鶴子はついに、悲鳴をあげた。
「……今は電車が混んでいるのよ。切符を買えなくて何日も待たされている人が沢山いるのよ。それに……、深夜になった今から持ち物を買い揃えるのは、とても無理よ」
「フィルムもカメラも着る物も、会社が全部揃えてくれた。特別に二等車の指定席券も貰ったよ。それにもし、電車か汽車が途中で止まったら、近くの海軍飛行場まで走れと言われた。飛行機で直接、空母赤城の甲板まで乗せて行ってくれるそうだ」
 大本営海軍部の押印がある、海軍飛行場に提示する為の緊急臨時命令書も貰っている。「何が、お国のためよ……。お金持ちはみんな、兵役を逃れるか内地にいるのよ。死ぬのはばかよ。ただの犬死によ……。私は今のあなたで十分なのに、私や家族を犠牲にしてまでそんなに出世が大事なの……」
「女性は左の顔が美しいと言うが、お母ちゃんが涙を流すと右顔も美しくなるね……。涙を流す女性を見れば美しいが、なぜだか分からないけど、一枚の写真に収めると実に見るに堪えなくなる。人の目の感覚は不思議だ。だが、妊娠して肌のきめが一層細やかになり、涙を流す憂い顔はそれこそ凄艶な美しさだ。心に訴える小説は美しく書くのが難しい。視覚に訴える写真は、憂い顔に美しい笑顔を貼り付けたのを撮るのはもっと難しい。カメラマンは、いかに人を美しく笑わせて撮るかが腕だ……。褒?(ほうじ)のように、ちょっと、微笑してみて……」
 社長に願って会社のカメラを持って帰ればよかった。カメラに三脚を立て、シャッターを押せるよう物干竿を加工してケーブルレリーズと結び、誰にも邪魔されず、親子三人だけでカメラに収まれば、妻の心の底から湧き上がる、自然で真実の憂いを帯びた美しい笑顔が撮れた。
 未練げに、両手の親指と人指し指を合わせて四角形の構図を作り、妻を片眼でのぞいていた。
「暗いから綺麗に見えるだけよ……。こんな時に笑えるものですか……。ばか、ばか……」
「よせよ……、大声を出すと隣や道行く人に聞こえ、特高に密告されるぞ」
 田鶴子は口を閉じたが、気がふれたように涙を流しながら、夫の胸を叩いた。
 
 東京停車場の電車乗降台で、社長始めみんなに見送られた。
『祝出征 林定彦君 扶桑映画社』
 と大書したのぼりが掲げてある。茶摘み女を撮影した憧れのニュース映画カメラマンだと聞き、若い女性達は争って入場券を買い、遠巻きに群がった。
「定ちゃんも、お父ちゃんと行きたい……」
 母の側に立つ、四歳になる娘の定子が、じっと電車を見つめている。
「……定子は、やはりお父ちゃんの子ねえ……。何の事はない、乗物に乗りたい一心なのだから……」
 蒼白顔の田鶴子は、憂いを帯びた黒目を、黒曜石で作った矢じりのような見幕で、娘を睨んだ。その怒りは娘ではなく、明らかに、どこにもやり場のないものであった。
 田鶴子の前夫の子の定子だが、定子が大きくなって結婚するまで、この事は伏せておこうと夫婦で語り合っていたのだ。
「駄目だよ、嬢ちゃんは軍艦に乗れないよ……」
 側では、社長がしゃがんで定子の頭をなでた。
「……大きくなったら乗れるの?……」
「……それが、女は、大きくなっても駄目なのだ……」
「どうして駄目なの?……」
「英語で、船のことを『彼女』、というのだ。海の底にある竜宮城の乙姫様も女でしょう……。女が船に乗ると焼きもちをやき、大風を吹かせて船を沈めてしまうのだよ。特に、ケンカをする軍艦には絶対女は乗せないのだよ……。乙姫様と浦島太郎が結婚して太郎が男の王様になり、日本が米国を降参させて船を『彼』とよびかえれば、女も軍艦に乗れるようになるかな……。この理屈はむずかしいので、嬢ちゃんにはわかったかな……。大きくなったら、お母さんのような、気丈で何事にも動じない、立派な軍国の母になるのだよ」
 社長は、真顔で説明した。
「苦しい時ほど、よく笑え……」
 父は娘を高々と抱き上げ、力をこめた。
「……どうして?……。お父ちゃんみたいに、泣いちゃあ、いけないの?……」
 定子は、不思議そうに父の顔を見おろした。
「……ん?……ははは……。定子は夕べ眠たくて夢の中だったので、お母ちゃんが泣いたのを勘違いしたのだな……」
 社長に気丈と褒められた田鶴子は、明らかに、夕べ夫に出征すると聞いた以上の狼狽ぶりであった。娘の今の一言で、夫は重役になれないかも知れないのだ。
「お父ちゃんは男だ。大声をあげて笑っても、泣いた事など今まで一度もないぞ……。こんどお姉ちゃんになるのだから、お母ちゃんを大事にするのだ、いいね……」
 父としての威厳をもって声高に言うと、定子は、
「はい……」
 と言いながらニッと笑顔を浮かべ、誰に聞いたのか、ひじを脇腹につける海軍式の敬礼をした。
 田鶴子は、そんな日本少国民の娘を、大きく溜息をついて見つめた。
「さあ、みんなで写真を撮ろう……」
 社長が言った。
 社長と田鶴子と定子と四人、最前列中央に並んだ。
 妻の悲しい横顔を見ると、胸が苦しくなる。
 叶うなら、妻と娘の手を引いてどこか遠くに逃げ去りたい。しみじみと見つめた。
「先輩……、美人な奥さんとしばし別れる辛さは分かりますが、奥さんばかり見つめていないで、せめてシャッターを切る間だけでも、ちゃんとレンズに顔を向けて下さいよ……。林さんは著名な写真家なのですから……」
 カメラを構える部下が注意すると、緊張するみんなの顔が、一瞬、緩んだ。
 田鶴子の憂い顔も緩み、カメラに向かい、突然、わずかに開く唇に微かな笑みを貼りつけた。
(……ああ……美しい……、実に美しい……。妻の笑顔は、喪服を着た妊婦のモナリザの微笑も遙か遠く及ばない……。ヨハネス・フェルメールの描いた、『真珠の耳飾りの少女』の微笑だ。これぞ渾沌とした壮大で無限な太極に近づく、動物にはまねのできぬ、人の心の中の心の極み。私の夢見ていた、これぞ至高の美しい笑顔だ……)
 美しい妻の微笑を涙があふれるほど見つめた。帰って来たら妻の笑顔の写真を引き伸ばし、写真展示会に出せば必ず話題をさらう。写真家の我が師を越えられるかも知れない。 発車のベルが、ついに鳴った。
「二等車に乗って海軍基地に行けるとは、報道班員は司令官なみの厚遇だ。がんばってくれたまえ」
 闘牛のように向かってゆけ、と赤い日の丸の旗を、社長始めみんなが盛んに振っている。
「お国の為に、立派にお勤めを果たして下さい。ご武運を祈ります……」
 田鶴子は型どおりの言葉を並べた。もはやあの美しい笑顔は瞬時に消えていた。
 呼子笛がなると電車は動いた。二等車の指定席から、満面の笑みを浮かべて手を振った。
 この時、田鶴子は夫の背に暗い影が差しているのに気づき、”もしや”、という胸騒ぎを覚えた。
「何かあったら、会社でも私の自宅でもいいから、相談に来なさい……」
 社長は田鶴子にそう言い、仕事があるからと言って先に帰った。
 頼りとするのが社長一人になった田鶴子は、社長の背中に深々と頭を下げて見送った。 昇降台に残った田鶴子は、いつまでも、夫の去った線路の彼方を見つめていた。
 父らしい人に手を引かれ、見知らぬ幼い娘が目の前を横切って行った。じっと見つめていた定子は、
「こんど、お父ちゃんと、いつ、ゆうえんちにいってお馬さんに乗るの?……」
 以前、父に連れられて『温泉遊園地 多摩川園』に行き、回転木馬に乗った事を思いだしたのだ。
 田鶴子は、力なくひざまずき、娘を思わず抱きすくめていた。


 
 (二) ミッドウェー島へ

 
 翌朝、予定通り広島呉軍港の波止場に行くと、大勢の見送り人でごった返していた。輸送船や駆逐艦ではなく、海軍士官と共に、赤城に向かう17メートル内火艇に乗り、一時間ほどで柱島泊地に着いた。波間に投錨する航空母艦赤城は、逆光の為に真っ黒い塊に見え、まさに小島だ。背広姿にリュックサックを背負って不沈空母赤城のタラップを登ると、軍服姿の軍人達は、奇異な目でじろじろ見つめた。バッグの中身は、ほとんどが取材関係の物だ。
 連合艦隊は、5月27日の海軍記念日をミッドウェー島攻略日に定めようとしたが間に合わず、出発を27日としただけで、せめてもの体面を保った。あわただしく出航したのであった。
 旗艦である空母赤城は四万二千トン。長さは248メートル。常用搭載飛行機数66機。その内18機ほどが直奄機の零戦(れいせん)。他に分解して積んである補用が25機ある。
 初め、空母赤城の広い飛行甲板を見て競技場だと錯覚した。艦内に入ると狭く、横になってすれ違う。割り当てられた部屋は汽缶室の隣である。改装前は石炭庫だったという。音はうるさい。ミッドウェーの緯度は22度強、台湾南端とほぼ同じ熱帯に位置する。ミッドウェーに近づくほど熱くなる。戦時塗装である迷彩色に塗ったばかりのペンキの臭いが暑さで蒸散し、狭い艦内にまで入って来る。さすが塗料十五トンも使った臭いだ。燃料である重油の臭いと混じって思わず吐き気をもよおした。みんな不平も言わず、よくも、鶏ケージか豚小屋のような空母に乗っているものだ。
 
 6月4日の深夜、艦隊は北太平洋の真ん中に浮かぶ、小さなミッドウェー島を目指して進んでいる。面積は6.2平方キロメートル。滑走路一本造れば、島のほとんどの面積を占めてしまうほどの小島だ。
 空母赤城の右舷には煙突があるので煙い。飛行甲板の左舷には艦橋がある。その下にある最上甲板のデッキにもたれていた。
 舷側を流れる波を見ても、今でも岸辺に立って流れる河川を見ているようだと錯覚する。暗闇でも波が不思議と白く見える。環礁の島に近づいている証しだ。艦橋下は艦の中央付近なので前後揺れが比較的小さいが、デッキにもたれ、またもや暗い海に吐いた。
 明日は戦闘が始まるというのに、商売道具のカメラを持つどころではない。これでは駄目だと思うほど、胃からこみ上げてくる。信州で諏訪湖より大きい湖を見た事もなく育ったので、海は全く別の世界だ。戦争になる前からもう白旗を掲げていた。逃げたくても、北太平洋のど真ん中では海に飛び込む訳にもいかない。飛び込んでも鮫に食われたあげく、残った妻子は非国民として石を投げられる。
 意識はもうろうとし、気がめいる。赤城乗組員には赤痢や結核になる者が多いという。下痢・発熱・血便・腹痛はないが、自分も赤痢にかかったのかな、と不安が頭をよぎる。 呪われた艦隊は、地獄の死の闇に向かって突き進んでいるようだ。
 空母赤城と並走する、軽巡洋艦長良の艦尾の檣頭(しょうとう)に灯る点滅信号灯が、いつのまにか消えていた。
 先程は晴れたと思ったが、またもや濃霧がかかってきた。ミッドウェー島方向の東空には、日本と同じ下弦の月が昇っているはずだが、全く見えない。
 水兵達は、甲板の鉄床に転がって夢中で眠っている。寝る為のハンモックを取られてしまい、マンドレットと言う、艦橋や発着艦指揮所の最重要箇所の防御用に巻かれてしまった為だ。己の恐怖とは裏腹に、彼等には日中戦争以来の巨大な慣れがあるのだろう。眠っている水兵とは別に、不眠不休で働く整備兵の間断なく打つ、つち音、飛行機の発動機音が聞こえてくる。
 もう吐く物がない。水筒の水を飲んだ。ミッドウェー島は水不足に悩まされ、上陸しても困らぬようにと、大きめのアルミ水筒を餞別として社長に貰った物だ。
 水筒の水を飲んだら、さらにおう吐がひどくなった。
 飛行機昇降口の隣で、先ほどより、白い戦闘帽子に整備服を着た若者が、じっと霧の中の暗い海を見つめている。飯山峰吉という特年兵のようだ。
 海軍特別年少兵制度が昨年の7月に創設された。11月生まれなので満十三歳で峰吉は入った。今年の9月に配属される予定だが、この少年は脱走兵同然に潜り込んだ。ミッドウェー島を日本に取られると米国は降参し、講和になると聞いている。国の為に尽くす最後の機会と思い、部屋の荷物の中に書き置きを残し、ハンモックの中に潜り込んで乗り、船倉に隠れていたと言う。艦が出航したら憲兵に引き渡される心配がないので、もうこっちのものです、と怪気炎をあげていた軍国少年だ。
 誰かの入れ知恵で潜り込んだに違いないが、行動を起こすのは少年自身だ。
 昨夜、同じテーブルで飯を食ったが、どことなく元気がなかった。何やら様子がおかしい。急いで近寄った。デッキに張られた綱を峰吉が乗り越えた。
「待ちたまえ!」
 あわてて抱きすくめた。
「止めないで下さい。明日は戦闘になれば足手纏いになると言われましたので、死にます」
 整備科の整備班雑用に回されたが、海軍では未経験な少年など使いものにならない。お前に喰わせる無駄飯はないと言われ、精神注入棒で死ぬほど尻をぶたれたという。
「死んだらどれほど父さん母さんが悲しむことか、わからんのか」
 思わずどなった。
「いえ、自分は口減らしで、軍隊に志願させられただけです……」
「子が死んで喜ぶ親がどこにいる。親の居ない私から見れば、両親がいるだけでもありがたいではないか」
「ばかもの……。今時の若い者ときたら……。熱にうなされて遊び感覚で来るから、少しぐらいの障害で挫折するのだ」
 背後で叫ぶ者がいる。太った体に眉は太く目が鋭い、口は真一文字に結び、作曲家のベートーベンのような風貌を持つ、急降下爆撃隊長の大尉であった。真珠湾奇襲攻撃で、250キロ爆弾を戦艦メリーランド型に投下して撃沈させた勇者である。
「自殺などすれば、整備班の連帯責任になるのだぞ。死ねと言うはずがない。戦闘間近なので気がたっているだけだ。整備班長を怒鳴ってやる」
 大尉は、忙しく動き回る格納庫を睨んだ。
「不眠不休で懸命に働く整備班長を怒鳴るのは止めて下さい……。隊長、この少年を私の従兵に下さい。戦闘中を撮るのは、一人では大変ですから……」
 大尉に願った。
「……分かった、副官殿に頼んで見よう……。ところで一つ、本官の写真を記念に撮ってはくれませんかね……。見合い写真にしたいのだが……」
 周りの噂では、二十八歳になったが、結婚して若後家にさせたくないと言って独身を保っていると聞いた。どういう風の吹き回しであろう。独身を止めたいと懊悩するほどの女性が見つかったのだろうか。大尉が一喝すれば、周りの者は大概萎縮する。いかつい顔が急に茶摘み乙女の恥じらいに変わり、手もみ茶を作るような手つきで、もみ手をした。
「カメラは室に大事にしまっています。明るくなったら機上の人となり、操縦席前部の風防を開け、飛行帽をかぶり、首から羽二重のマフラーをなびかせて手を振る威容を、一番に撮ってあげますよ……。若い女性ほど、飛行機乗りには憧れますからね……」
 思わず、微笑して言った。
「……分かった……。何か変な音がする……。さきほど、後続する二航戦が濃霧の為にはぐれたので打電した。敵に傍受されて、この濃霧の中を、新型の敵機がもう飛来したのかな……」
 大尉は突然、虚空を睨んだ。
 耳を澄ましたが、真下にある汽缶室の振動が微かに伝わってくるだけであった。
「わあ!」
 思わず、後ろにのけぞった。
 突然、弦から下が見えぬほど、軽巡洋艦長良の巨体が目の前に現れたのだ。
「やはり、長良のオールギヤード・タービンの音だ!」
 大尉は叫んだ。
 両艦とも探照灯や信号灯を灯し、汽笛を鳴らし、接触することなくどうにか離れた。
「27ノットしか出ない戦艦大和でも、強力な96式150センチ探照灯を片舷4基・計8基備えているので、一緒に航海すればこのようなへまはしなかった。今度の作戦が新造艦大和の初陣なので、後生大事に後方に遊弋させるらしいが、本音は余りにも住み心地が快適なので、連合艦隊司令部は動くホテルと勘違いしていやがるのだ」
 軍艦は、敵潜水艦の魚雷攻撃を避けようと、夜間や霧の中でも警戒してジグザグに針路を取る。大和が針路誘導していれば、絶大な信頼をもって航行できた。
(いかん、いかん、私は報道班員だ。霧の中の暗闇でも、どうして今のを写真に撮らないのだ。どうして常にカメラを携帯していなかったのだ。機会は予期しない時に現れるものだ。国策精工で作られ、昨年から販売された一つ眼式のオートキーフのスチールカメラだ。閃光をたけば信号灯や探照灯ぐらいは写った)
 足の震えが止まらない。カメラマンはカメラが戦場だ。精神注入棒で打たれなければならないのは、峰吉ではなく、己の方だ。
「報道班員は今まで、眠っているような目だと思っていたが、戦場が近くなると輝いてきた。さすが、選ばれたお方だ……。以前から気になっていたのだが、バッグの脇に縫い付けてある物は何ですかね……」
「これはナナカマドと言って、ミッドウェー島に上陸したら植えてくれ、と当社の社長から預かった苗木です……」
 土付き苗木を、油紙でしっかり養生している。ナナカマドは、七度かまどにくべても燃えない木といわれ、火事に遭わない、すなわち船は沈まないという魔よけの縁起物でもある。
「……ふーむ……。普通、航海の無事を願ってナギの葉は持つが、ナナカマドですか……」
 大尉はそう言って、出航前に神社にお参りして神主に貰ったという、ナギの葉を胸ポケットから取り出して見せた。
 最先端科学である飛行機に乗る大尉の意外な信心深さに、思わず微笑していた。
「峰吉君は、船酔いはしないのかね……」
 大尉が去ったあと、思いだしたように尋ねた。
「自分は漁師の子ですから、船が揺れれば揺れるほど、腹が減るのです……」
 大飯食いの峰吉は、上目遣いで林を見あげた。
 そして、
「実は、先程、優しく思いやりのある林さんなら止めて下さると思い、海に飛び込むまねをしたのです……。昨夜、荷物担ぎの助手が一人欲しいとつぶやいていましたので……」 峰吉は、すまなそうに頭を掻いた。
「どうりで……。ただの口減らしで海軍に入った者が軍艦に潜りこむはずがないので、不思議に思っていた……。日本はやはり、大和魂の国かと自分を納得させていたのに……」 思わず、苦笑しなければならなかった。
「そのかわり、明日は命がけで働き、恩返しをいたします……」
「……うむ……」
 喜んだものの、写真を全く知らない少年だ。犬猿雉よりは増しだろうぐらいしか期待できなかった。
「特年兵は、海の上では稚児のように可愛がられると先輩に耳打ちされて潜りこみましたが、考えが甘かったです……」
 本音を語った峰吉は、苦笑してまたもや頭をかいた。
「……おいおい、勘違いしないでくれたまえ、私には妻や娘がいる。そんな気できみを従兵にしたのではないぞ……」
 あわてて手を振ったものであった。
 
 艦隊は、今までの強速16ノットより速い、速力20ノット以上の戦速にあげている。濃霧の風に、背広は湿気を帯びている。あと数時間で米軍の制空圏内に入るようだ。
 これから戦闘がはじまるとはとても思えないほどの、のどかなアロハオエのハワイ音楽が、どこかのラジオからか、流れ始めてきた。
             
                             次回は、後編 『海戦』
                      






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