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〔助太刀兵法28〕室の津綺譚 (無料公開)
[【時代小説発掘】]
2013年6月16日 11時19分の記事


【時代小説発掘】
〔助太刀兵法28〕室の津綺譚
花本龍之介 



(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


梗概
 山陽道をのんびりと播磨の国まで旅をしてきた飛十郎と弥助のは、古くから風待ちの港として栄えた室の津で足を止める。町の入口で偶然出会った藤森新兵衛という武士と言葉をかわしたあと、港の茶店で一休みをした飛十郎は、亭主に聞いた遊女屋・室津屋へ泊まることにする。飛十郎たちが港の光景に見とれている頃、本陣にいた新兵衛に薩摩の侍五人が会いにくる。かねてから藩主同志が、綾衣という遊女を取り合っているところから、無理難題を仕掛けてきたのだ。おちょろ舟で有名な室の港で、またもや飛十郎が思わぬ騒動に巻き込まれた!

 

【プロフィール】:
尾道市生まれ。第41回池内祥三文学奨励賞受賞。居合道・教士七段。
現在、熱海に居住している。



これまでの作品:
[助太刀兵法1]鎌倉しらす茶屋  
[助太刀兵法2]人助けの剣
[助太刀兵法3]白波心中
[助太刀兵法4]おとよの仇討 
[助太刀兵法5〕神隠しの湯
〔助太刀兵法6〕秘剣虎走り
〔助太刀兵法7〕象斬り正宗 
〔助太刀兵法8〕討ち入り象屋敷 
〔助太刀兵法9〕夜桜お七
〔助太刀兵法10〕夜桜お七 (2)
〔助太刀兵法11〕柳生天狗抄 (1)
〔助太刀兵法12〕柳生天狗抄 (2)
〈助太刀兵法13〉柳生天狗抄(終章)
〈助太刀兵法14〉山の辺道中
〈助太刀兵法15〉山の辺道中(2)
〈助太刀兵法16〉十五夜石舞台
〈助太刀兵法17〉五夜石舞台 (2)
〔助太刀兵法18〕大江戸人形始末)
〔助太刀兵法19〕大江戸人形始末(2)
〔助太刀兵法20〕大江戸人形始末(3)
〈助太刀兵法21〉尾道かんざし燈籠
〈助太刀兵法22〉尾道かんざし燈籠(2)
〔助太刀兵法23〕尾道かんざし燈籠 (3)
〔助太刀兵法24〕尾道かんざし燈籠 (4)  
〔助太刀兵法25〕尾道かんざし燈籠(5)
〔助太刀兵法26〕尾道かんざし燈籠(6)
〔助太刀兵法27〕尾道かんざし燈籠(終章)

猿ごろし



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【時代小説発掘】
〔助太刀兵法28〕室の津綺譚
花本龍之介 


一 気まぐれ風

「ほほう。ここが、室(むろ)の津か……」
 早船飛十郎は、室の町へ入る坂の上に立って、無精髭をひとなぜした。
「まさか、旦那。この港へ、またぞろ何日も長逗留する気じゃないんでしょうね」
 飛十郎の肩越しに室の津を覗き込んでいた弥助が、たまりかねたように高い声を出す。「さあて、そいつは町へ降りてみなければわからんが。なかなか、よさそうな所ではないか」
 胸元から出した手で顎をこすっていた飛十郎は、袖から抜き出した右手で帯に差していた渋扇を取ると、暑そうに顔をあおぎはじめた。
 室町の時代から室の津千軒と言われ、大坂から西にかけて尾道、鞆の浦、赤間が関(下関)と並んで風待ちの港として繁華を誇っていたが、それは文政の今も変わってはいない。
 擂り鉢状の急斜面に、押し合うようにぎっしりと家が建ち並んでいる。馬蹄形をした港の真ん中には、帆を降ろした千石はあろうかと思える菱垣廻船や樽廻船や北前船が、五百石や三百石積みの内海巡りの荷船に囲まれるようにして碇(いかり)をおろしている。
 わずかに沖のほうに傾いた午後の太陽に照らされた青い海が、きらきらと眩しい光を反射していた。
「ちと、港の風情を眺めに立ち寄るだけだ。この機会をのがせば、もう二度とこれぬかもしれんからな」
「まただよ。山陽道を大坂まで真っ直ぐに行くとばかり思っていたのが、岡山からふいに脇街道にそれて。なに、ちと赤穂の城を眺めたいだけだと言って、けっきょく三日も居たじゃないですか」
 不服そうに頬をふくらませた弥助が、眩しげに目を細めて海を見ると肩の振り分け荷物をゆすり上げた。
「しかし、おれも助太刀を商売にしている身だからな。仇討の本家本元の赤穂を素通りすわけにはいかんからなあ」
 にやにやしながら飛十郎は、足元の小石を蹴った。爪先で軽く蹴っただけなのに小石は急な坂道を、はうか下の民家の板塀まで転がり落ちていった。
「そうおっしゃるから、泣く泣くお供をしたんですが、ちと眺めるどころじゃないよ。塩浜を見て歩いたり、日がな一日大手門の前にある茶店へすわり込んで、門が開くのを待ちつづけて、さすがにこの弥助も尻がすりむきそうになりましたよ」
「まあ、そう言うな。おかげで赤穂の浅野家が三代にわたって築いた、汐入りの名城がゆるりと見物できたではないか。あの大石内蔵助が住んでいたという家老屋敷も見たしな」「たしかに拝見したことはしたけど、旦那のような浪人や、あっしみたいな町人は大手門をくぐるどころか近寄ることも出来ねえ。お城の侍が出入りする時に、遠目にちらりと見ただけじゃありませんか」
「遠目だろうが、ちらりであろうが大石どのの屋敷を見たことに違いないぞ。さすが後世に名を残すだけあって、格調の高い家であった」
「へ、あんなことで格の高い低いが、わかるんですかねえ」
 飛十郎の気まぐれ旅が、よほど腹にすえかねたのか、弥助はあきれたような声を出した。
「うむ。ちらりと見ただけでも、わかる者のにわかる。心得のある人間とは、そういうものだ。しかしな弥助、そんなふうに苦情ばかり言っているが大手前広場にあった茶店では、えらく饅頭を喰っていたではないか、うれしげな顔だったぞ」
「そりゃあ、そうですよ。なにしろ名代の塩饅頭ですからね。名高い赤穂の塩田でとれた白塩を餡に練り込んだ、甘みの中にじわりと塩味がきいた、なんともいえない上品な饅頭でございますからねえ」
 思い出しただけで唾がわいてきた、といった顔を弥助はした。
「ふん、饅頭にはなかなかうるさいな。だが塩饅頭を五皿も喰ったのには驚いた。腹も身のうちだ。ちと
喰いすぎだぞ」
「早船の旦那もちがって、あっしは甘党だからね。饅頭や煎餅しきゃ楽しみがないんだから、しょうがないでしょう」
 人のことは放っといてくれ、といった顔を弥助はした。
「けど、そんなことはどうでもいい。そりゃあ旦那のほうは何ヵ月かかって江戸へ着こうがかまわねえでしょうが、あっしは一日も早く帰って鰻屋台を出さなきゃいけないんですよ。お願いですから、ここへは寄らないで行きましょうよ」
「そうだな。弥助がそれほど言うなら、室の津へは寄らずに姫路の城下へむかうとするか。まだ陽も高いことだしな」
 室の港町へ歩きかけた足を止めて、飛十郎が姫路へむかう脇海道のほうへ振り返ろうとしたとき、海から吹きつけてきた涼やかな風が袴と袖を大きくふくらませた。
「う、ううむ……。いい風だ」
 眼下の港にむかって思いきり伸びをした飛十郎は、細く急な坂をゆっくりと下りはじめた。
「ど、どうしたんです旦那。室の津へいくのは、やめたんじゃなかったんですか?」
「悪いが、気が変わった。船というのはな弥助、そのときの風の吹きようで、出帆を見合せて港に停泊することもあるのだ」
 飛十郎は、波に揺れている何十艘もの船を指差しながら言った。
「えっ。それじゃ、いま吹いた風で姫路へむかうには取りやめになったんで」
「そうだ。見てみろ弥助、なかなか気分の良さそうな港町ではないか。ここへ一夜の泊まりをするなぞ、べつになんでもなかろう」
――そりゃ、一夜泊まりならようございますがね。それが二夜になり三夜になっちまうから困るんだ…… 
 言い捨てて、さっさと坂道を降りて行く飛十郎の背中を見ながら、胸の内で愚痴をこぼしながら弥助はあとを追った。
 飛十郎と弥助が、港へむかう坂道を半分あまり下った時、ふいに背後から呼びかけられた。
「まことに突然ながら、それがしは藤森新兵衛ともうす者。失礼ながら、ちとお願いしたいことがござる」
 静かな落着いた声である。飛十郎は渋扇を左手に持ち変えると、ゆっくりと振り返った。弥助は声の主を見ると、驚いて道の端に身を寄せた。
 この暑いのに、旅袴にぶっさき羽織を着て、手甲脚絆で足元を固めている。両刀をたばさんだ供侍ひとりと、槍持ちと挟み箱をかついだ中間を従えていた。どう見ても祿を得ている堂々たる武士である。
「ごていねいな挨拶、痛み入ります。てまえは江戸の浪人、早船飛十郎ともうす者。ご用があれば、何なりとお聞きいたしましょう」
 名を告げられれば、名のり返すのが侍の礼儀である。
「かたじけない。お急ぎの旅でなければ、それがしに道をおゆずり願えますまいか」
 軽く会釈すると、にこやかに笑いながら飛十郎を見た。
「どうぞ、どうぞ。当方は、見ての通りの気まぐれな遊山旅。この室の津は素通りするはずのところ、風の吹きようで港と町を見物する気になったばかり。遠慮なく先にお行きください」
 飛十郎も一礼すると、坂道の横に身を寄けて手に持った渋扇で港を差し示した。
「これは、ありがたい。早船どの、気まぐれな旅とはうらやましい。それがしも一生に一度は、そのような旅をしたいものでござる。は、はは、さても宮づかえとは、つらきもの。明日お着きになる殿のお行列を、つつがなくお迎えいたす先のりが、それがしの役目にござる」
 どうやら藤森新兵衛という男は、飛十郎が気に入ったらしい。侍が自分の役目を他人に話すのは珍しい。
「それは、なかなか大変ですなあ」
 以心伝心。飛十郎のほうも、すぐさま新兵衛に好感をもったようだ。さぞ気苦労が多いでしょうな、といった同情の目で新兵衛たち一行四人を見た。
「なあに。もう、なれ申したよ」
 新兵衛は、気さくに手を上げた。
「しからば、お先にごめん」
 弥助にも声をかけると、二人の横をすりぬけて足早やに坂を降りて行く。新兵衛の人柄か、それとも家風なのか供の侍と中間も折り目正しく挨拶すると、主人の後を追って下って行った。
「ふうむ。地方には、まだああいった武士らしい御人がいるんだな」
 ふところ手をすると、飛十郎は感じ入ったように無精髭をこすった。
「浪人者や町人など、邪魔だ、どけ、とばかりに押しのけて、まかり通る侍が多いが。あのように礼をつくすのは、今時まことに珍しい」
 年齢は三十代はじめか、飛十郎よりわずかに若く見えるが、立居振舞いになみなみならぬ器量をうかがわせる。
「ほんとに、そうですよ江戸の旗本や御家人ときたら、腰の大小が重いといって脇差し一本を差した連中や、ぞろりとした長袖の着流しで出歩く軟弱な侍ばかりですからね。そのくせ威張り返って何かあれば無礼討ちだと、わめく武士ばかりだ。ちいっと藤森さまの爪の垢でものんだらいいんですよ」
 坂を下って町並みのほうへ小さくなって行く新兵衛一行を見ながら、感心したように弥助は首を振った。
「ねえ旦那。ほんとうは、藤森さまともう少し話したかったんじゃないんですか?」
「そうだな。しかし、旅の出会いは一期一会だ。藤森新兵衛どのとは、もう二度と顔を合わすことはあるまい」
 筋目正しい武家育ちしか見られない爽やかさを覚えて、飛十郎は谷間を流れる清冽な水にふれたような心地良さにひたっていた。


二 夏の子

 室の津は、奥深い入江にめぐまれた五泊(いつのとま)りでも一番といわれる良港だったが、およそ四半刻(三十分)もあれば一周出来るほどの狭い町であった。五泊りとは播磨の韓(から)の泊まりと、魚住みの泊まりと、この室の泊まりと、それに摂津の大輪田の泊まりと河尻の泊まりの五つの港のことである。
 海に面した浜通りの道と、商家や宿屋が並んだ本町通りがあるだけで、あとは人がやっとすれ違えるほどの細い路地が迷路のように縦横に走っているだけだった。
「夏も終りだというのに、あついな親爺。暑気払いに、冷酒(ひや)を一杯たのむぞ」
 まるで残暑のひどいあつさは亭主のせいだとばかりに、浜の荷揚げ広場にある茶店に入った飛十郎は、葦簀(よしず)の影になった腰掛けにすわった。頭が禿げた茶店の亭主は、飛十郎のような旅の客は慣れているとみえて、平気な顔で注文を聞いた。
「へえ。この暑いのに、よう室の津へおこしやした。お連れさまは、何を?」
「あっしは、お茶でいいや」
「では、よう冷えた麦湯をお持ちしましょう。お酒の肴には魚の干物と、冷やし豆腐がございますが」
「干物は、なんの魚だ」
「もちろん、室鯵の干物でございますよ。お客さま」
 亭主は、すました顔で答える。
「ふ、ふふ、聞いたか弥助。室の津だから、室鯵だそうだ。おもしろいな。では親爺、その干物と冷奴をもらおう。お前も、なにか腹のたしになる物をたのめ」
「では、あっしは汁とめしと、その室鯵をいただきましょう」
 振り分け荷物を横に置くと、弥助は腰の手拭いを取って顔や胸元の汗をぬぐった。
「さっき前を通った本陣に、藤森さまが御滞在のようですね」
「そうだな。たしか板倉摂津守様御宿と書いてあったな」
 茶碗酒をうまそうに口に運びながら、飛十郎は目の前の海に目をやった。午後の海の照り返しが眩しい。
「でも旦那、ほかの宿場の本陣にくらべると、建物が小そうございますね。やはり室の町が狭いせいでございますかねえ」
 麦湯を飲みながら、弥助が首をかしげた。
「まあ、そうだろう。板倉家といえば、たしか庭瀬藩二万石の大名だったな。親爺、この港町には本陣は一軒だけか」
 空にした茶椀を上げて酒の催促をしながら、飛十郎は親爺に声をかけた。
「へえ。なんでも昔は江戸へ行き来するお大名方は、すべてこの室の津で船泊まりしなさったそうで。その頃は本陣が六軒もあったそうでございます」
「なんだと、この狭い町に、本陣が六軒もあったのか」
 これには、さすがの飛十郎も驚いた。
「旦那。城下町の姫路でさえ、三軒しかありませんでしたよ」
 弥助も目を丸くして、箸を動かす手を止めた。
「また、どういうわけで六軒も本陣があるほど賑わった室の津が、一軒になるほどさびれたのだ」
「いえ、べつに港がさびれているわけではありません。風待ち泊まりとしては、今も昔も荷船でいっぱいでございます。ただ、この室の津から陸へあがって、山陽道を西の宮から大坂や京にむかっていたお大名がたが、ぱたりとこなくなったからですよ」
「ふむ。では大名の船は、今はどこの港に入っているのだ」
「明石や兵庫の港でございます」
「なるほど。たしかに、そっちのほうが大坂や京に近いからな。ふところが苦しい大名としては、少しでも節約したいところだろう」
 亭主が運んできた二杯目の茶碗酒に口をつけると、飛十郎は港をぐるりと取り囲んだ家々の屋根の波に目をむけた。
「この港には、泊まる場所は何軒あるのだ」
「本陣のほかに脇本陣が一軒、ほかには小さな旅籠が七軒ございます」
 丸盆を、すり切れた前掛けに押し当てて親爺は答えた。
「ほう。それでは、この町には今は家が何軒あるのだ」
「へえ。千二百軒ほどの家に、およそ五千三百人ほどが暮らしておりますが」
 それを聞いて、飛十郎は首をひねった。
「げせんな。それほど家があるなら、宿屋のほかは何をしているのだ」
「女郎屋でございますよ。ご存知のように室の津は、遠く室町の頃から遊女が名物でございますからな。この町全体が遊郭ともうしてもいいほどで。なにしろ、この狭い場所に七百軒もの遊女屋が、ひしめき合っておりますからな」
 前掛けで盆を拭きながら、亭主は慣れた口調で話した。
「えっ、こんなところへ七百軒も? じゃあ、尾道より多いじゃありませんか」
 弥助が、驚いて声をあげた。
「うむ。古くから室君(むろぎみ)と呼ばれて、この港の遊女は世に名高いからなあ」
 飛十郎は、したり顔で顎の先をつまむ。
「ですが、お客さま太夫(だゆう)を置いた大見世は二軒ほどで、あとはすべて船乗り衆相手の小見世でございますよ」
「太夫とは、また古い言葉を聞くものだな。そういった位の高い遊女を買うのは、やはり大名の殿さまか」
「いえいえ。近頃のお大名は、ご多分にもれずお手元不如意。大見世に揚がるのは、船主か荷主でございます。まれに北前船や菱垣廻船に乗り込んだ上方や江戸の豪商が、もの好きに寄られるようですが」
「そうだろうな。ところで親爺、この干物だがえらくうまいではないか」
 江戸で売っている干物の二倍はあろうかと思える、たっぷりと分厚い鯵の身を箸でつまむと、飛十郎は口に入れた。 
「塩の味も、濃いからず薄からず、とちょうどほど良い」
 酒を口に運びながら、飛十郎の目が満足そうに細くなる。
「油がのった室鯵の一夜干しですからな。江戸の干物とは、ひと味もふた味も違いますよ」
 茶店の亭主は、まるで自分が作ったように自慢の鼻を動めかす。
「さすがだな。酒はもう一つだが、地魚ほうはいけるぞ」
 地元の酒をけなしながら、飛十郎がもう一杯おかわりを頼もうとした時、船着場の石段あたりの人の動きが急に慌ただしくなった。
「おや、どこぞのお大名の御用船が着いたようですな」
 亭主の声に雁木のほうを見ると、着いたばかりの帆掛け船から、船頭が舫うのを待ちきれぬように侍が八人、肩を怒らせて浜の広場に飛び降りたところだった。
「旦那、帆に大きな紋どころがついていますぜ。あれは薩摩の島津さまでございますよ」 丸の中に十文字が入った家紋が薩摩藩だということは、子供でも知っている。
「そのようだな。親爺、薩摩の侍は室の津へはよく来るのか」
「いえ、島津さまは船で鹿児島をたって、大坂から陸路を京へのぼって東海道を江戸まで参勤なさいます。昔はいざ知らず、近頃はこの港へは寄らないはずですが」
「ならばいいが。もし島津公の御座船が入港するようなことがあれば、えらいことになるからなあ」
 飛十郎の言葉に首をかしげていた弥助は、侍たちのあとに続いて船からおりてきた十人あまりの荷かつぎの中間や、槍持ちの足軽たちを見て、ぽんと膝を打った。
「そうか。もし薩摩のお殿さまの船が入りでもしたら、大名の鉢合わせだ。本陣は一つしかない。もしそんなことになったら、先のりの藤森新兵衛さまが大変なことになりますよ」
 坂を上って行く侍たちの姿を目で追いながら、弥助は気がかりそうな顔をした。
「しかし、万が一にもそんなことはあるまい。大名行列が多い東海道でも、めったに鉢合わせなどないそうだからな。また、そのために新兵衛どののような先のり役がいるわけだ」
「そうでございますとも。お人柄のよい藤森さまですから、なにがあろうと妙なことになるわけがございませんよ。花は桜木、人は武士、というじゃありませんか。旦那、まだ侍も捨てたもんじゃないですよ」
「なんだと。花は桜木人は武士だと? ふ、ふ、珍しいことを聞くものだな」
 飛十郎は苦笑した。
「近頃は、武士道も地に落ちて、侍の世界も万事金しだいとでも言うんですかい。違いますよ。だって、まだ旦那のような侍もいるじゃございませんか」
「弥助。悪いが、おれは侍ではない。浪人だ。侍というのはな、将軍家ならば旗本。大名ならば藩士。そういった主君につかえて役目を果たし、俸禄を貰う者をいうのだ。おれなんぞ、ただの助太刀人にすぎん」
そう言って飛十郎は、ぐいと茶碗酒を呑み乾した。
「なにを、おっしゃいます。助太刀人だって、立派な人助けの仕事じゃありませんか。きまりきった時刻に登城して、刻限がくればお城から帰ってくる、そのへんのぼんくら侍より旦那のほうが、よっぽどご立派な生きようじゃございませんか」
 息巻くように言って、弥助は拳(こぶし)を振った。
「そうかもしれん。あれも一生、これも一生だ。おれには、この生き方しかできん。今日一日を心楽しく生きれば、それでいいんだ」
「うまい酒が呑めて、うまい物が喰えれば何もいらないんでしょう。旦那は」
「まあ、そういうことだ」
 両手を大きく広げると、飛十郎は気持ち良さそうに伸びをした。目の前の海から、ゆったりとした波がくり返し打ち寄せると、雁木石段を洗う音が低く高くあたりに響いた。眠くなりそうな昼下がりの海だ。
「うまい物といえば旦那、この干物はめっぽうおいしゅうございますな」
 骨だけ残して綺麗に室鯵を食べ尽くすと、弥助は冷えた麦湯で喉をうるおした。
「藤森さまも、お供の衆も、この干物を食べていらしたら、ようございますね」
「この干物は、室の津の名物らしいからな。本陣の食膳にも上っているだろう」
 そう飛十郎が言った時、商家の子らしいよく日焼けしたのが五、六人ばかり本町通りから坂を駆けてくると、喚声をあげながら雁木から海へ飛び込んだ。泳ぎは達者らしく、周囲にひとしきり水飛沫(しぶき)を撥ね上げると、また雁木から一人ずつ水面めがけて飛び落ちる。あきもせず、何回もそれをくり返した。
「どうやら弥助も、新兵衛どのの爽やかな武士気質(かたぎ)に、男惚れしたようだな」
 大川(隅田川)の河岸で、水遊びをした子供の頃を、飛十郎は懐かしく思い出していた。尾道育ちの弥助は、子供が海へ飛び込む姿など見あきているのか、目も向けない。
「新兵衛さまもいいが、あっしが気にいったのは槍持ちのほうだ」
「むむ。あの中年男か」
 室の津の入り口ですれ違った、槍をかついだ厳(いか)つい顔つきの男を思い浮かべた。「そうだよ。お武家さまの家来らしくねえ、朴訥で腰の低いところがいいよ」
「は、はは、お前に腰が低いといわれれば、世話はないな」
 江戸でこれ以上ないほど、素朴でおとなしい鰻屋台の主人を見ながら、飛十郎は声をあげて笑った。
「だが、あの槍持ちは新兵衛どのの家来ではないな。おれの目に狂いがなければ、あの男はこのあたりの百姓で、旅をする者たちの荷をかついで駄賃を稼いで暮らしているのだろうな」
「へええ。そんなことが、よくわかりますねえ旦那は」
「人の表情や動きに注意していれば、誰だってわかる。足軽や渡り中間は、虎の威を借りてもっと威張っているものだ。あの槍持ちは、愛想がよかったからな」
 奥で聞き耳を立てていた亭主が、呼ばれもしないのに出てきた。
「それは宮前村の権次(ごんじ)のことでしょう。お客さまのおっしゃる通り、街道筋の旅人に声をかけて荷を持たせてもらって、親ひとり子ひとりの暮らしを立てている男でございます」
「ほう、父親と子供だけか。女房はどうした」
「五年ほど前に、流行り病いで亡くなりました。男の子は十歳になりますが、同じ村の鍛冶屋で年季奉公をいたしております」
「旦那、感心な子じゃございませんか。貧乏なほど親孝行な子が出るっていうが、ほんとうでございますねえ」
 幼い頃、父親を失くして苦労を重ねた弥助は、身につまされた声で言った。
「権次ってのは、気のいいやつでございますが。風変わりなところがありまして、どういうものかお武家さまの荷物を持ちたがります」
「それはまた、どうした訳だ」
「さあ。駄賃は同じですから、恐らくお侍さまの後から荷をかついで歩く気分が好きなんでしょうな。そうですか、権次は槍を持っておりましたか」
「ああ、うれしそうに新兵衛どのの槍をかついでおったぞ。親爺、おれも冷たい麦湯を一杯たのむ」
 さすがの飛十郎も、昼日中から茶碗酒を二杯以上呑む気はないようだ。
「それにしても、藤森さまはどうして権次とかいう槍持ちをやとったんですかねえ。ご自分の家来がいないんでしょうかね」
「いないのだ。おそらく新兵衛どのは、室の津の近くまで自分で槍をかついできたに違いない。途中で声をかけてきた権次をやとい入れたのだろう。先のり役で本陣に乗り込む侍が、槍持ちがいなければ格好がつかんからな」
「なぜ、そんな面倒なことをするんです。最初から槍持ちを連れてくればいいじゃないですか」
 いぶかしげな顔で、弥助は飛十郎を見た。
「金だ。ふところが苦しいのだ」
 袖から手を抜き出すと、飛十郎は胴巻きが入っているあたりを拳で叩いた。
「新兵衛どのの禄高では、中間ひとりと下女ひとりを家に置くのがやっとだろう」
「だけど、お供の侍がひとり居たじゃないですか。あれは、どうしたんです」
 弥助が納得のいかない顔で聞いた。
「あれはな。上役の家来を借りたか、渡り徒士(かち)をやとったんだ。れっきとした幕臣や藩士でさえも、小身の場合はお役目を勤めなくならん時は、いたしかたなくそうすると聞いたことがある」
「ふうん……。お武家さまも、なかなか苦労しなさるんですねえ」
「そうだ。おれのような浪人者のほうが、いっそ気楽でいいぞ」
「早船の旦那は、ちっとばかし気楽すぎまさあ」
 飛十郎の前では、ろくに口がきけなかった弥助も、佐吉が亡くなってからは人が変わったようにしゃべるようになった。時には飛十郎のほうが、やり込められることもあった。「そうかな。それが、おれの取柄だと思うがな」
 井戸で冷やした麦湯で喉をうるおすと、飛十郎は船着き場を駆け廻っている子供たちに目をやった。
「おれも近所の遊び仲間と、夏にはああやって大川へ飛び込んだものだ。弥助も尾道では、佐吉と水遊びをしたんだろうな」
 海の水で躰を濡らしたまま走っていく子供を、弥助はうっとりとした顔で眺めた。
「尾道の子供は、冬は山を駆け廻り、夏は海で遊ぶときまったものだ。あっしも小さい頃は、長屋の前の山波浜で遊んでいたが、少し大きくなると仲間と住吉浜までのして行って、町場の子供らとよく泳いだもんだ。そんな時、よく商家の子と漁師の子と大喧嘩になって、逃げ遅れたところを助けてくれたのが勢州屋の倅の佐吉だったんだ」
「ふむ。それが佐吉との長い縁のはじまり、というわけか」
「へい。敵の餓鬼大将に頭を棒っ切れでぶん殴られて、海へ放り込まれて溺れそうになった時に、襟首をつかんで引き上げてくれたのが佐吉ですよ。あいつは命の恩人でございます」
 真っ黒に日焼けした子供ふたりが、仲良く肩を組んで茶店の前を歩いて行く姿を、目で追いながら弥助はしみじみと言った。
「不思議なことだな。尾道で知り合った幼な友がともに江戸へ出て、海辺大工町のおれが住む長屋の向い部屋を借りたことから、はるばる尾道へいくことになったのだからな。世の中どんなことで、どんな目に合うかわからんからなあ、油断ができんぞ。また、それが人生の面白いところ、と言えぬこともないがな」
 柄にもなく飛十郎は、感慨深げな目をして顎の先をつまんだ。


三 おちょろ舟

「ところで旦那。のんびり休んでいる間に、だいぶ陽が海のほうへ傾いてきましたよ。今夜の泊まり宿はあるんでしょうねえ」
 そっちのほうが、よっぽど気がかりだと弥助は心配そうに言った。
「泊まり宿だと? ここは室の津千軒だぞ。泊まる部屋の一つや二つないはずはなかろう。心配無用だ。なあ、親爺」
「それが、お客さま。あの船でございます」
 気の毒そうな顔で眩しく輝いている海面に、ゆらゆら揺れている荷船の群れを指差した。
「あの船が、どうした」
「すべて風待ちの船でございます。三日も前から、ぱったりと風が止まりまして、船の客も船乗りたちも下船して全員が宿屋に泊まっております。七軒あります宿は一軒のこらず満員でございます」
 だから言わないこっちゃない、という顔で弥助は横目で睨む。
「だが親爺。ここは、おちょろ舟で有名な室の津ではないか。船乗りたちは、舟の上で女たちと枕をかわすそうではないか」
「なんです旦那、おちょろ舟というのは」
 弥助が、身を乗り出した。
「江戸を立つおりに、安達屋藤兵衛に聞いたのだ。播州の室の津にいる遊女は、小舟を漕いで停泊している荷船に着けて、旅客や船乗りたちに春をひさぐということだ。まことに旅情が身にしみる風習ではないか。と、藤兵衛が申しておった」
「へえ。それじゃ永代橋や、深川の堀川の橋たもとにいる船饅頭みたようなものじゃありませんか」
 閻魔堂橋の傍で商売をしているだけあって、弥助も小舟に客を誘い込んで身を売る船饅頭のことは知っているようだ。
「いや、あれとは少し違うな。江戸の船饅頭というのは、夜鷹と同じように遊客を言葉たくみに誘って春を売る。室の津のおちょろ舟は、遊女のほうから舟を漕ぎ寄せて、船乗りたちと値の交渉をする。そのおり、もし銭がなければ米にても身をまかせるということだ。そうだな、親爺」
 念を押すように、飛十郎は亭主の顔を見た。
「おちょろ舟でございますか。あれはもう昔の話でございますよ。今はあんな手間のかかることは誰もいたしません。旅客や船乗りのほうから遊女屋へ出かけます。まことに安直(あんちょく)なものでございますよ」
「それでは、もはや平安や室町の頃のような雅(みやび)な風情は、この室の津にはなくなったということか……」
 気落ちしたような顔を飛十郎はした。
「いえ、まったくないとは申しません。そこはそれ、お客さまのような風変わりなお人も室の津へこられることもあり、また遊女のほうでも同じように風変わりな者もいるというわけで。まだ少しは小舟を漕いで船へいく遊女もおりまする」
「そいつは面白い。よし、宿屋がいっぱいならば、おちょろ舟を出すという遊女屋へ泊まろうではないか。どこだ、親爺」
 飛十郎の物好きがまた始まったと、弥助は顔をしかめた。
「へえ。輪違屋の東雲(しののめ)と室津屋の花筏が、その変わり者でございます」
 食べ終えた茶碗や皿を片付けながら、亭主は答える。
「嫌だよ。遊女屋といえば、宿屋とちがって、女もくれば贅沢な料理も出てくるんだろ。そんな余分な銭は持ってねえよ」
 顔色を変えて、弥助は首を横に振った。
「心配するな。室の津へきたのは、おれの気まぐれだ。けちなことは言わん。費用は全部はらってやる」
 胸を叩いて、飛十郎は鷹揚に受け合った。尾道を立つ前に納屋吉兵衛から、よほどせしめたらしい。
「それでも、遊女は苦手だ」
 膝に置いた弥助の手が細かく震えているのを、目ざとく飛十郎は見つけた。
「なんだ、震えているのか。まさかその歳で、女を知らないのではあるまいな」
「そ、そんなことはねえ。女の二人や三人は知ってるさ。馬鹿にするんじゃないよ。人は見かけによらねえもんだ」
 憤然として、弥助は飛十郎を睨んだ。
「は、はは。人は見かけによらん、ときたか。よし、わかった。では今宵は室津屋に登楼することにきめたぞ。親爺、世話をかけたな。勘定はいくらだ」
 飛十郎は、刀を腰に差しながら立ちあがった。
「へえ。酒が二杯に、干物と冷やし豆腐が二つずつ。それと、めしと汁でございますな」 亭主は天井を見上げると、算盤の玉を動かすような手付きをした。
「お二人さま、しめて百十五文でございます」
 袖の中から一朱銀を取り出すと、飛十郎は無雑作に床几に敷かれた花茣蓙の上に置いた。
「釣りはいらんぞ。いろいろと親爺には教えてもらったからな、案内料だ。ところで室津屋というのは、どのあたりだ」
「へえ、本陣のななめ向かいでございます。お客さま、たいしたこともしておりませんのに、こんなに頂きまして申し訳ございません。またのお越しをお待ちします」
 盆を手に持ったまま深々と腰を折る茶店の亭主に手をあげると、飛十郎と弥助は町にむかって歩き出した。道の両側には小さな商い店が、ぎっしりと建ち並んでいる。
「へ、へへ、あの親爺。旦那が釣りはいらんと言ったとたん、いやに言葉使いが叮嚀になりましたね」
「それが、田舎の人間の正直なところだ。江戸者は、へそ曲がりだからな。弥助にしても、ああ素直にはなれんだろう」
「そりゃあそうですよ。釣りはいらねえと言われたって、ころりと態度は変えませんよ。逆に無愛想になりますね」
「ふん。そいうことなら、江戸で心付けを渡してもなんにもならんな。次からは、お前の鰻屋台で呑んでも、きっちりと勘定だけ払うことにするからな」
 両側の店先を覗きながら、飛十郎はふところ手をして坂をあがって行く。いずれも間口が一間半(二メ−トル七○)あまりの小店ばかりである。
「どういたしまして。ほかのお客ならお断りしますが。身うち同然の早船の旦那からなら、喜こんで心付けをちょうだいしますよ」
 揉み手をしながら、弥助は笑った。
「調子のいいやつだな。そういったとこは、だいぶ佐吉に似てきたな」
「なにしろ幼な馴染ですから、佐吉とはつき合いが長うございます。ところで旦那、二軒ある遊女屋のうち、どうして室津屋にきめたんです?」
 弥助が、肩越しに声をかけた。
「考えてもみろ弥助。店の名が悪い。もう一軒は、輪違屋だ。もし間違いが起きでもしたら困るだろう」


四 お福

 室津屋は本陣・名村屋理左衛門方を、二軒ほど通り過ぎた筋向いにあった。旅宿と違い、店先の両格子が紅殻色(べんがらいろ)なのが、艶めかしくていかにも妓楼らしい。
「世話になるぞ」
 波模様の繋ぎ暖簾を手で跳ね上げて、飛十郎は土間へ入っていった。
「へえぇい」
 野太い声で返事をした男衆が、すすぎ水の桶を持ってのっそりと顔を出した。飛十郎も上背(うわぜい)があるほうだが、その男は天井に頭が当たるほど大きい。ゆうに七尺(約二メ−トル)はあるように見える。弥助は、あんぐりと口を開けて男を見上げた。
「泊まりだが、部屋はあるだろうな」
 あきれたような弥助の表情を見ながら、飛十郎は巨漢に声をかけた。
「へえい、たぶん……。でえじょうぶ、でございましょう」
 独活(うど)の大木という言葉があるが、この並みはずれて背の高い男も、少し頭の血のめぐりが鈍いようだ。
「たぶん、では困るのだが。なあ、弥助」
 頭を掻きながら、飛十郎は憮然とした声を出した。とりあえず上り框に腰を降ろした飛十郎は、草履をぬいで水で足を洗いながら、ほかに誰かいないかと店の奥を覗き込んだ。「お二人さま、お泊りでございますか。二階に見晴らしのよい座敷があいております。どうぞ、おあがりくださいませ」
 二階から降りてくる軽い足音と一緒に、若い張りにある声が聞こえた。妓楼の階段は、表通りから見て逆についている。すすぎの水を使いながら見上げると、十二、三才ほどの小女が、階段に上から白い顔をひょいと覗かせた。眉と目尻の下がった愛敬のある顔で、肌が抜けるほど白い。
「お泊まりは、何日でしょう」
「む。一日のつもりだが」
 二重の大きな目で、小女は飛十郎を値踏みするように見つめた。
「お好みのお女郎さんは、いらっしゃいますか」
 ぽっちゃりした躰付きにふさわしく、声もふんわりと真綿に包んだように柔らかい。
飛十郎は、この年頃の少女は苦手である。
「う、うむ。べつに、好みはない。誰でもいいぞ」
 弥助は、驚いたように飛十郎を見た。
「何をいってるんですよ旦那。花筏って遊女に、きめていたじゃないですか」
「はあい。花筏さん、ご案内。お連れさんの相方は、どなたにしましょう」
 慣れているのか、小女は平気な顔で大声を張り上げる。妓楼で働く小女は、五、六才の頃から目鼻立ちの良い幼女が買われてきて、男女の金がらみの色恋沙汰を何の不思議もなく身近で見ながら育っているから、恥ずかしいも何もないわけだ。
「おい弥助、相手は誰がいい」
「そんなことを聞かれたって、室の津もこの遊女屋も初めてだ。わかりませんよ、旦那がきめてください」
「それも、そうだな……」
 男衆が差し出した手拭いで足をふきながら、飛十郎は苦笑いをした。
「ならば、まず部屋に通してもらおうか。連れの相手は、それからきめよう」
 板の間に上ると、飛十郎は小女の後について階段にむかった。
「そうだ。刀は内所へあずけなくてもいいのか」
 小女に声を掛けると、右手に持った刀に目をやった。
「へえ、ご遠慮なく。お腰の物は、お座敷へお持ちください」
 三尺(九十センチ)ほどしかない狭い階段を上がりながら、振り向きもせずに小女が言う。
「座敷は、いくつあるんだ」
「二階が五つに、下が二つでございます」
 階段を上ると、海に面した小座敷が五つずらりと並んでいる。細い廊下の片側は手摺りになっていて、道と向かいの家が見降ろせるようになっていた。
「おう。あれが本陣だな」
 手摺りから身を乗り出すと、飛十郎は斜め向かいに見える広い瓦屋根を覗き込んだ。本陣は何処でもそうだが、大名が泊まる書院造りの屋敷と、家族の者が住む民家の部分にわけて建てられている。
「いまは、お殿さまがお泊りでないからいいが。お供の侍に見つかると、きついお咎めをくらうよ」
「ほう、そんなことがあったのか」
「ああ。酒に呑まれちまった船頭が、本陣を覗きながら大声で騒いで、大目玉をくらったことが何度もあるよ」
 手前の門が本陣の家族や使用人が出入りする勝手口で、その隣りにみえる屋根付きの堂々たる門構えが、大名が駕籠ごと乗り込んで行く貴賓門のようだ。
「船乗りと言えば、気が荒くて柄が悪いのが通り相場だ。それが、お叱りだけですんだとは妙だな。無礼討ちになった者はいないのか」
小女も飛十郎の横に並ぶと、本陣のほうを眺めた。
「まだ斬られた客はいないよ。庭瀬のお殿さまは、気がやさしいからね」
 本陣の門から石畳の道が、玄関の式台まで長く伸びている。一段高い板敷が見えるが、大名の乗り物を置く台であろう。
「ふうん。板倉の殿さまは、そんなにやさしいのか」
「やさしいよ。いつだったか酔っぱらいが、門の両側に張りめぐらした定紋入りの幔幕に、小便をひかっけたことがある」
「なに。家紋に小便をだと――」
 思わず飛十郎は絶句した。
「ひどいことをする。江戸ならば、無礼討ちは間違いないぞ」
「それを見た徒士侍が怒って斬ろうとしたのを、先のり役のお侍さまが押し止めて、お殿さまにおうかがいを立てたんだ」
「旦那。酔っぱらいの命を助けたのは、藤森新兵衛さまに間違いねえよ」
 黙って小女の話を聞いていた弥助が、後ろから口をはさんだ。
「たぶん、そうだろうな。それで情け深いお殿さまは、お慈悲でその酔っぱらいを助けたのだな」
「そうだよ。頭の白い御用人とかいうのが出てきて、捕まえた酔っぱらいをこっぴどく叱りつけていたが、次の日の朝に大名行列がご出立と同時に、ご放免になったよ」
「定紋というのは、大名の旗印だからな。それを町人に汚されて勘忍するなぞ、旅先とはいえなかなか出来ることではないぞ、弥助」
「そうですとも。これが江戸なら、肩がふれただけでも大喧嘩になりますよ。へたをすると刃傷沙汰でございます」
 町並や本陣を珍しげに見廻しながら、弥助が答える。狭い道のすぐ背後は急な斜面で、折り重なるように山の上まで小さな家々が建っていた。


五 恋の鞘当て

「庭瀬藩主の板倉摂津守というのは、いまどき珍しいほど人柄のいい大名のようだな」
「なんせ、あの新兵衛さまの殿さまですからね。家来を見れば藩主もわかるというもので、悪いわけがございません」
 得意気に、弥助は鼻をうごめかした。
「は、はは、弥助はえらく新兵衛どのの贔屓連のようだな」
 笑いながら本陣に目をやると、玄関の式台の上で羽織袴を着た町人が両手をあげて、前に立つ侍をなだめるような仕草をしているのが見えた。何ごとかと目をこらすと、二人はすぐに奥に消えた。入れ替わりに番頭らしい前掛け姿の男が、石畳の上を足早に門を抜けて町のほうに歩き去った。
 男を見送って首をひねると、無精髭をこすりながら小女を見た。
「それにしても、げせんな。庭瀬藩といえば、ここからそれほど遠くないはずだ。わざわざこの室の津へ泊まらずとも、無理をすれば姫路まで行ける距離だと思うが」
 何を言い出すのかと、弥助は飛十郎に目をやった。
「よく気が付いたね、お客さん。それには、ちいっとばかし訳があるんだ。でもこんなとこで立ち話をするより、座敷に案内してゆっくり説明したいけど、それでもいいかね」
「いいとも。ひとまず部屋で落着こうか、弥助」
 本陣の動きも気になるが、廊下に立ったまま見ていても仕方がない。ひとまず座敷へ通って、手足を存分に伸ばして寝転びたいと飛十郎は思っていた。
「この座敷だよ、お客さん」
 ふっくらした白い指で障子を開けると、小女は先に立って入っていく。突き当りの角部屋で広さは六畳ほどだったが、海側の障子窓を開け放つと見晴らしのいい座敷であった。「おう、これはいい」
 腰の両刀を抜き取って床の間の上に置くと、すぐに飛十郎は窓に歩み寄った。海からの風を大きく吸い込むと、目の前に見える細長い入り江の波に揺られながら浮かんでいる船を眺めた。
「名は、何という」
 飛十郎は振り返ると、小女を見た。
「あたいかね。お福だよ」
 名は体をあらわすと言うが、なるほど小女はぽっちゃりとして手足も丸々と、いかにも福々しい。
「おれは早船飛十郎、見ての通りの浪人者だ。この男は弥助、江戸の深川で鰻屋をやっている」
 そう言われて、弥助は困ったような顔をした。
「なあに、鰻屋といっても、まだ屋台店だがね。そのうち金をためて、表通りに店を出すつもりだよ」
 浪人者と鰻職人という奇妙な取り合わせに、お福は目を丸くした。
「お福、あの岬の先にある鳥居と社(やしろ)は、なんという名だ」
 飛十郎は家並の先にある、こんもりと松が茂った丘を指差した。
「あれは、賀茂明神だよ。それがどうかしたかね」
 愛敬たっぷりの福顔のくせに、声はひどく無愛想である。
「いや、どうもしないが。えらく綺麗な所だと思ったのでな」
 そう言って、飛十郎は空を見上げた。港とそれを取り囲む町は、箱庭のように小さいが空は広かった。高い空は深く青い色をしていたが、積み重なるようにして浮かんでいる細長い雲の群れは、黄昏の気配を感じさせて縁(ふち)がかすかに赤く染まっている。
「お客さん、もうすぐ夕焼けになるぞ。このぶんだと、明日も快晴だ」
「そいつは、ありがたい。俗に旅の難儀は、一に雨雪、二に病い、三に胡麻の蠅というからな。天気
がいいのは何よりだ。ところで、お福。さっきの話のつづきだが」
 空を見上げながら、さりげなく聞いた。
「庭瀬のお殿さまのことだね。摂津守と名は偉そうだけど、まだ二十一になったばかりだ。一昨年の秋の初めに、ふいの雨やどりに室の津に足を止められたおり、本陣に呼ばれてお茶を立てたのが綾衣太夫だ。若えから無理もねえが、ひと目惚れってやつで、さあそれからは寝ても覚めても、綾衣の顔が頭から離れねえ」
「ううむ……。まるで芝居で見るような筋書きではないか」
 思わず飛十郎は唸った。江戸に幕府が置かれ、城や町筋の建設が盛んだった頃、女手の不足のため幕閣や大名たちが、客のもてなしに名のある遊女を屋敷に呼んだという話を聞いたことがある。さすがに室の津は古い港町だけあって、まだそんな風習が残っているとみえる。
「そうなりゃあ二万石のお大名も、そこらの船頭の若え男も変わりゃしねえ。まったく男という生き物はしょうがねえもんだ」
 お福は、したり声で言った。色町で暮らすと、ほんの十二、三歳にしか見えぬ小娘でも、これほど生意気なことを言うようになるのかと、飛十郎は内心あきれ返った。
「おれは見かけ通り、色恋の道にはうといが、板倉摂津守の想いは成就しそうなのか」
「さあねえ。この道ばかりは、お釈迦さまでもわからないからねえ。お国元に居なさる時は、ご領地が近いから、もう何回もお忍びでやってきて、太夫にお逢いなさってるようだけど」
 そこは年相応に、お福はあどけなく小首をかしげた。
「しかし、それほど熱をあげているなら、綾衣太夫も情にほだされて摂津守になびいてもよさそうだが」
「そうはいかねえよ。お客さんは知らねえようだが、この色町ってとこは金がものをいう世界だ。二万石ぽっちの貧乏大名には、太夫を身請けするのはとうてい無理だろう。金さ金、好いた惚れたは二の次だよ」「人間、万事金の世の中か……」
 ゆっくりと茜色に染まりつつある美しい夕暮れの海と港を見渡しながら、飛十郎は思わず溜息のような声を出した。
「しょうがねえさ。もともと遊女町ってのは、そういうとこだ。金がねえのは首がねえも同じだっていうが、遊女ひとりを二人のお殿さまが取りあえば、そりゃあ金のあるほうが勝つにきまってるさ」
 意味ありげに大きな目を動かすと、お福は派手な色の小袖を両腕で胸で抱くようにした。
「なんだと。摂津守と綾衣を奪いあっている大名がいるというのか。誰だ、それは?」
「へ、へへ。まさか、丸に十の字のお大名じゃないよね。お福ちゃん」
 船着場で目にした薩摩の御用船から思いついたのか、笑いながら弥助が冗談を言った。「よく知っているね、弥助さん。そのまさかだよ、板倉さまの恋敵は」
 飛十郎の顔色が変わった
「なに。摂津守の相手は、島津大隅守だというのか」
 島津といえば、かの天下分け目の関ヶ原の合戦で、島津義弘が軍勢をひきいて豊臣方の西軍に組し、戦さに利あらず西軍が総崩れとなるや〔われ敵に背中を見せるを好まず。たとえ全滅するも敵中を突破せよ〕
と号令して、徳川家康の面前に突撃した。勝ちにおごっていた東軍の将兵の心胆を寒からしめ、鹿児島にたどり着いた時には九百余人の味方が、わずか八十人たらずになっていたという。それ以来、薩摩隼人はその勇猛果敢さと気の荒さで世に喧伝されていた。
「それにしても庭瀬藩板倉家は、わずか二万石。参勤の行列にしたところで、せいぜい七、八十人がいいところだ。ひきかえ九州一の大藩、島津家の行列はおよそ……」
「二千人だよ。それが二百艘あまりの船で乗り込んでくるんだ」
 あっさりと、お福が言い放つ。
「ふむ。半分は船で泊まるとしても、あとの千人はこの港へ宿泊しなければならんだろうが。この狭い室の津へはとうてい泊まれんだろう」
 対岸に見える家並みの低い屋根に目をやりながら、飛十郎は無精髭をこすった。この座敷からは、小さな港町が一望のもとに見渡せる。
「ああ、無理だね。お寺さんや神主さんの屋敷や、町役の家や遊女屋へ分宿させても、とうてい千人のご家来衆を泊めるわけにゃいかねえ。近くの百姓家まで供の者たちを引き受けさせて、やっとこさだったよ」
「そんなことでは、島津の殿さまも気軽に室の津へやってきて、綾衣太夫に酌をさせるわけにもいくまい」
「ふ、ふん。素人(とうしろ)だね、お客さんは」
 お福は、鼻で笑った。諸国からこの港へやってくる船頭から教わったような奇妙で荒っぽい言葉だったが、お福が言うと何故か憎めなかった。
「たしかに、おれは素人だが。なにか抜け道があるというのか、お福」
「薩摩のお殿さまはね、自分のご座船だけ室の津へ寄らせて、お供の衆の船はすべて兵庫の港へ泊まらせるのさ」
 得意そうに、お福は言った。
「なるほど。島津公もなかなかに抜け目がないな。当代の大隅守は、たしか斉興どのだったかな。豪快な重豪(しげひで)公と違って、温厚な人柄と聞いているが。それだけに女好きかもしれんな」
 寺社奉行の脇坂淡路守から聞きかじった蘊蓄(うんちく)を、飛十郎が披露する。
「女好きかどうかは知らねえが、年は四十を過ぎているからね。あたいの好みとしては、若くて男振りのいい板倉の殿さまに肩入れしてえわけさ」
 板倉摂津守がよほど気に入っているのか、お福はそう言って肩をゆすり上げた。
「あっしも同じだよ、お福ちゃん。綾衣太夫とやらをめぐってのこの勝負、できることなら新兵衛さまのご領主の摂津守さまに勝たしてえもんだよ」
 ねえ、そうでござんしょ。という顔で、弥助は飛十郎の表情をうかがう。お福も肩をいからせて、同じように飛十郎を見た。
「うむ。おれも同じ気持ちだが……」
 夕焼け空を見上げると、飛十郎は頭を掻いた。
「ふたりが肩入れするのはいいが、なかなかむずかしい勝負だな。それにお福は、たったいま色町は金がものをいう、と言ったばかりではないか。なにしろ、二万石と七十七万石だからなあ。遊女でなくとも石高が多いほうに、なびくのが女心というものだろう」
「たしかに、それが当たり前なんだけど……」
 口ごもるように言うと、困ったような顔をした。
「どうした、お福。理屈通りにはいかんということか。まさか綾衣が島津公を袖にして、二万石の貧乏大名に惚れたわけではあるまいな」
「どうも、そうらしいんだよ」
 こいつは面白くなったというように、飛十郎は身を乗り出した。
「おかしな話を聞くもんだな。江戸の吉原や京の島原、それに大坂で名高い新町では、裕福なお大尽が勝つと相場がきまっているぞ。もっとも、おれも芝居で見たことがあるだけだがな」
「町の皆んなもそう噂しているけど、なにしろ室の津は田舎だからね。相場通りにはいかないよ」
 困ったことだと、お福は唇を噛んだ。小さいながらも遊女屋で働く身としては、気が揉めるらしい。
「だが、そうだとすると、気になることがあるぞ。つい今しがたのことだが、弥助と船着き場の茶店で休んでいると、目の前を御用船からおりた薩摩っぽたちが通りすぎていったぞ。どいつもこいつも、一筋縄ではいかん顔をしていたな」
「なんだって! 薩摩の船が、この室の津ヘ入ってきたのかい」
「ああ、間違いない。先のり役かどうかわからんが、七、八人の侍が港から本陣にむかって歩いていったのはたしかだ」
「そりゃあ、えれえことだ。鉢合わせだ。こんなとこで、ひまな連中の相手をしている場合じゃねえや」
 言い捨てると、血相を変えて座敷から出ていった。
「まて、お福。慌てる気持ちはわかるが、弥助の相手をきめるのを忘れているぞ」
 障子も閉めずに駆け出していくお福の後から、飛十郎が声を掛けた。
「あ、そうか。早船さんとか言ったね。お連れさんの相娼(あいかた)は、どんなお女郎さまがいいかね」
 お福を追って階段の上までいくと、飛十郎は小声になった。
「強がってはいるが、弥助は遊女屋へあがるのは初めてだと、おれは見た」
「ふうん。弥助さんは、あの年でまだ女を知らねえのかね。いまどき珍しい男がいたもんだねえ」
 感心したように顔を振った。
「あいつは、おれと違って商売熱心でな。こんな場所へくる暇はなかったようだ」
「じゃあ若けえ女より、ちっとばかし年増のほうがいいねえ」
 わけ知り顔で腕を組むと、お福は考え込んだ。
「うん。ちょうどいいお女郎さまがいるよ。朝霧っていう三十過ぎの大年増だけど、男の扱いになれている上にやさしくて、弥助さんの筆おろし役には、うってつけだと思うよ」 頷ずくと拳で、ぽんと手を打った。
「朝霧か。よし、それでいい。お前にまかせるから、万事よろしく頼むぞ」
「いいとも、まかせなさいよ」
 遣り手も顔負けの仕草で胸を叩くと、お福は意味ありげに手を出した。
「わかった。お前もそうだろうが、おれも本陣の動きが気になる。薩摩の侍と藤森どのの間で、もめ事がお起らねばいいと思っている。何かあったら、すぐに知らせてくれ。お福のことだ、本陣に知り合いがいるだろう」
にやりと笑って袖の中をさぐると、一分銀をつまみ出してお福の肉付きにいい丸い手に握らせた。


六 薩摩隼人

 その頃――。 本陣では、飛十郎が予測した通り、武士の意地をかけた騒ぎが起きようとしていた。
 藤森新兵衛と供の者たちが、門前に藩主の名を記した関札を立て、定紋入りの幔幕を左右に巡らせ、ほっと一息ついて茶を飲んでいると、主人の名村屋理左衛門が顔色を変えて座敷へ走り込んできた。
「た、大変でございます。薩摩のご家来衆八人が、たった今この本陣に乗り込んでこられました」
 うろたえきった理左衛門を見ながら、新兵衛はゆっくりと茶を飲み終えると静かに茶碗を置いた。
「して、そのかたがたのご用件は?」
「明晩、大隅守さまのご座船が、この室の津のお入りになるので、ぜひとも本陣を使いたい。との申し入れで……。なんともはや」
 ぺたんと畳に座り込むと、理左衛門は青ざめた顔に浮かぶ冷たい汗を手でぬぐった。
「しかし明日は、わが殿が本陣にお泊りになるご予定。これはもう半年も前に当方より申し込んでおりますぞ」
「もちろんでございます。いくら島津さまとて、先約を無視しての割り込みは出来かねまする、と手前も申したのでございますが」
「聞き入れぬ、というのか」
 口元にかすかに微笑を浮かべると、新兵衛は帯に差していた白扇を抜き取って、ぱらりと開いた。
 返事のかわりに理左衛門は懐中から手拭いを出して、胸元をせわしなくぬぐった。
「そういうことならば、ほどなく島津のご家来がここへ談判にまいられるであろう。そのほうらは、すぐに隣りの座敷へ移ってもらいたい。ただし何があろうと手出しはゆるさぬぞ」
 伯父の藤森彦衛門から借りてきた柏木宮内と、親の代から勤めている中間の仲蔵を見ると新兵衛は白扇を動かして隣室ヘ追い立てるような仕草をした。
「かたじけのうござります。石高の多少にかかわらず先約されたお大名からお留めいたすのが、われら本陣の昔からの定め。島津家の先のり役さまには、ことをわけてご説明いたしましたが、いっかなお聞き入れになりませぬ」
 びっしょりと冷や汗をかいているのだろう。理左衛門の単衣の黒紋付きの襟元が、汗じみで色が変わっているのがわかる。
「あいわかった。これは理左衛門どのの手落ちではない。ほかの藩ならば、薩摩もこのようなことはするまい。わが主君の名を書いた関札を見て、これは面白いとばかりに無理難題を仕掛ける気になったに違いない」
「はい。おそらくは……」
 板倉摂津守と島津大隅守が、輪違屋の綾衣太夫の袖を引き合っていることは、室の津で知らない者はいない。
「なに、それがしが理を分けてお頼みすれば、先方もさほど無体なことはするまい。案ずるより安しだ。あまり心配いたすな」
 この言葉を、新兵衛は前にいる理左衛門より、襖の向こうで聞き耳を立てている宮内と儀助にむかって言った。
「さようならば、よろしゅうございますが」
 不安げに理左衛門が言ったとき、廊下のむこうで何人かの荒々しい足音がした。
「きたようだな」
新兵衛は膳を横に押しやると、穏やかな表情で理左衛門を見た。
「お女中がたにいって、これらの膳部を片付けてもらいたい。それと島津家のかたがたに、お茶をな」
「これは、気が付きませんで。すぐに使用人を呼びまする」
 慌てて膳を座敷の隅に運んで、廊下へ出て行く理左衛門と入れ替わりに、肩をいからせた逞しい躰付きの武士が四人、座敷へ入ってきた。
「ごめん! おいどんらは、薩摩藩島津家の先のり役でごわす。おはんに、おりいって話したいことがあって参上しもした」
 いずれも三十前であろう。作法通り右手で刀を持ってはいるが、ことと次第によっては、すぐさま持ち変えて斬って捨てようという面構えである。
「それがしは、庭瀬藩石倉家の先のり役、藤森新兵衛でござる。立ったままでは、話も出来ません。まずは、おすわり下され」
 新兵衛は立ち上がって、それまで座っていた床の間の前を四人にすすめると、対面する襖の前に腰を降ろした。これは謙遜して上座を薩摩側にゆずったというより、襖の向こうで息をひそめている供の二人が無謀なことをせぬようにとの配慮であろう。
「うむ。さようでごわすか」
 先頭に立っていた固太りの色黒の武士が、後の三人に目くばせすると、ずかずかと座敷に入って床の間の前に座った。残りの三人も、その横に居流れるように座る。
「まずは、名のりもそ。おいが伊集院左近、となりが二階堂琢磨、その次が有村義介、一番端しにおるのが西郷吉兵衛どんじゃ」
 名のりを終えても、伊集院はじめ二階堂と有村は微動だにしなかったが、西郷だけは肥満した躰を縮めるようにして深々と会釈をした。
「おいどんらが顔を揃えておはんの座敷へきたのも、おりいって頼みがあるからでごわす。が、それをきり出す前に、おはんの禄高をお聞きしたか」
 他藩の侍にむかって、何石もらっているかと聞くなど無礼きわまる話である。あきらかに新兵衛を怒らせて喧嘩に持ち込み、ごり押しを通そうとの策略に違いない。
「それがしは徒士組をうけたまわって、五十石でござる。しかし、主命を果たすのに俸禄の高は、いささかも関わりがないと存ずるが」
 眉の毛一本動かすことなく、新兵衛は落着きはらって答えた。
「ふん。おはん、なかなか胆の太かこというの、気にいったぞ。おいどんは、おはんと同じ先のり役の徒士組だが、六百石。二階堂は四百五十石、有村は三百石じゃ。ここで、おはんと気が合いそうなのは、さしずめ、小姓組五十石の西郷ぐらいなもんじゃろうな」
 鼻柱に皺を寄せると、伊集院は小馬鹿にした目で新兵衛を見た。
「世間話は、もうけっこうでござる。ご用件を受けたまわりたい」
 これ以上の無礼はゆるさぬ。といった毅然とした態度で、新兵衛は伊集院琢磨をきっと見据えた。

                 了〈助太刀兵法29・室の津奇譚−2−につづく〉 








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11/15 15:30 〈助太刀兵法46〉北斎蛸踊り(8) (無料公開)
10/26 08:49 「本日のマーケット」(FX編)・・・今週は日米の金融政策イベントに注意。
10/26 08:40 「本日のマーケット」(株式編)・・・ 続伸後に日経平均株価が1万9000円台を回復。
10/21 08:39 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円ちょうどの壁を意識。
10/21 08:25 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、方向感の出づらい展開。
10/19 08:33 「本日のマーケット」(FX編)・・・午前11時に発表される中国の一連の経済指標に注目
10/19 08:23 「本日のマーケット」(株式編)・・・午前11時、中国経済の指標しだい。
10/14 08:48 「本日のマーケット」(FX編)・・・昨日に続き中国の経済指標。米9月小売売上高。
10/14 08:31 「本日のマーケット」(株式編)・・・前日の動きが継続し軟調な展開。
10/13 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円大台を中心に方向感に欠ける動きが当面続きそう
10/13 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・5日線(前週末9日時点で1万8218円)が下値を支え
10/05 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京タイムではドル円やクロス円は押し目買いが優勢
10/05 08:34 「本日のマーケット」(株式編)・・・続伸後、日経平均株価が1万8000円に迫る。
10/04 12:07 江戸浅草物語13「天海僧正の結界が破られる時、魔界の者たちの進撃が始まるのか」 (無料公開)
10/02 08:44 「本日のマーケット」(FX編)・・・米雇用統計を控えた様子見姿勢
10/02 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・週末要因や米雇用統計を前にポジション調整
10/01 08:47 「本日のマーケット」(FX編)・・・9月日銀短観、9月中国製造業購買担当者景気指数(PMI)などが材料。
10/01 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・欧米株式の上昇を受けて買いが先行後、もみ合い。
09/30 08:52 「本日のマーケット」(FX編)・・・日中は119円後半のもみあい
09/30 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・反発後、上値が重い展開。
09/29 08:55 「本日のマーケット」(FX編)・・・株安・円高パターンの継続はドル高圧力を後退
09/29 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落後に落ち着きどころを探る展開。
09/28 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京時間のドル/円は120円半ばを中心にもみあい。
09/28 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、もみ合い。
09/25 08:53 「本日のマーケット」(FX編)・・・・朝方、イエレン米連邦準備理事会(FRB)議長が年内利上げが適切との見方を
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09/24 08:37 「本日のマーケット」(FX編)・・・・連休明けの東京時間のドル/円は120円前半を中心にもみ合う展開。
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09/20 10:55 〈助太刀兵法45〉北斎蛸踊り(7)(無料公開)
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