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〔助太刀兵法31〕御家人馬鹿囃子 (無料公開)
[【時代小説発掘】]
2013年11月10日 13時26分の記事


【時代小説発掘】
〔助太刀兵法31〕御家人馬鹿囃子
花本龍之介 



(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


梗概
 江戸深川の貧乏長屋を出た飛十郎は、行きつけの名物酒屋・武蔵屋へ入っていった。気分よく枡酒をあおっていると、紋付き羽織袴の侍がやってきて、いきなり小判を差し出されて面くらう。伝法な口をきくその御家人は、飛十郎に息子の命を助けられた礼だと言い放つ。むっとした飛十郎は金を押し返す。
当たり前のことをしただけだと言って、小判を突っ返した飛十郎に、御家人は賭けをして負ければおとなしく金を引っ込めようと言い張る。仕方なく飛十郎は賭けに応じることになった。江戸の下町を舞台に、底辺に生きる庶民と貧乏御家人の人情味あふれる生きざまと、四十一俵取りの御家人と浪人早船飛十郎の男同志の友情を描く………。
  

【プロフィール】:
尾道市生まれ。第41回池内祥三文学奨励賞受賞。居合道・教士七段。
現在、熱海に居住している。



これまでの作品:

〈助太刀兵法21〉尾道かんざし燈籠
〈助太刀兵法22〉尾道かんざし燈籠(2)
〔助太刀兵法23〕尾道かんざし燈籠 (3)
〔助太刀兵法24〕尾道かんざし燈籠 (4)  
〔助太刀兵法25〕 尾道かんざし燈籠(5)
〔助太刀兵法26〕尾道かんざし燈籠(6)
〔助太刀兵法27〕尾道かんざし燈籠(終章)
〔助太刀兵法28〕室の津綺譚
〔助太刀兵法29〕室の津奇譚(2)
〔助太刀兵法30〕 室の津奇譚(終章)





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【時代小説発掘】
〔助太刀兵法31〕御家人馬鹿囃子
花本龍之介 



 一 団十郎親爺

 ぶらりと裏長屋を出た早船飛十郎は、さてこれからどうしたものか、と海辺大工町の四つ辻に立って無精髭をこすりながら考えていた。
「うむ、やはり武蔵屋にするか」
 決心したように呟やくと、飛十郎は高橋にむかって威勢よく歩きはじめた。
 海辺大工町は、小名木川の万年橋から高橋にかけて、南河岸添いに細長くつづく町屋筋である。表通りには、さまざまな品を並べた商い店がずらりと軒を接して続いているが、大店はほとんど見えない。いずれも天秤棒を肩にかついで江戸八百八町を売り歩く棒手振(ぼてふ)りが、やっとの思いでためた銭で表店を構えた、という小商いの小店ばかりである。
 その小店が四、五軒も続くと、きまって店と店の間に狭い路地があって、奥に長屋が建っている。万年橋の傍にある、そういった裏長屋の一軒に飛十郎も住んでいるが、日本橋や神田や浅草の住人たちから川向こう、と呼ばれる深川の中でも海辺大工町は特に庶民の町であった。
 飛十郎がこれから行こうとしている煮売り酒屋は高橋のたもとにあるが、この武蔵屋というのがかなり風変りな店だった。五平という小柄な白髪の年寄りが、娘らしい女ふたりとやっているのだが、まず店に看板がない。名入りの軒行灯や提灯といったものは、いっさいなかった。格子戸の前に、無愛想にぶらりと古びた縄暖簾が下がっているだけである。家の造作は、一見普通の仕舞屋(しもたや)だから、うっかりすると通り過ぎてしまう。飛十郎も思わず通り過ぎて、引き返したことが何度もある。
 団十郎親爺、あるいは団爺というのが、その店の亭主である年寄りの通り名だ。客は誰も五平とは呼ばない。と言っても、五平が二丁町に出勤中の〔大江戸の飾り海老〕といわれる当代一の人気役者・市川団十郎が贔屓の、芝居狂いというわけではけっしてない。
 酔客が呼びはじめた五平の通称は、成田屋こと市川宗家の家紋に由来する。宝永年間、京の男伊達といわれた万屋助六が、島原の遊女揚巻と心中した事件が狂言になり、のちに歌舞伎十八番の〔助六所縁江戸桜〕となって、団十郎扮する花川戸助六が吉原の三浦屋の揚巻の前に登場する衣裳は、江戸の粋の極地だといわれるが、その着物の紋所は枡を三つ重ねた三枡(みます)である。
 三枡、つまり一合枡に三杯。武蔵屋では、客に三合以上は絶対に呑ませない。毎日顔を出す常連客も、御家人崩れの悪侍も、地廻りのごろん棒も、例外なく枡に三杯こっきりである。酔っぱらいがいくら嘆願しょうが、怒ろうが、わめこうが五平は蛙の面(つら)にしょんべん、けろりとして客の顔の前に指を三本立てて見せるだけだ。
 飛十郎が縄暖簾を手で分けて武蔵屋へ入っていくと、団十郎親爺がむずかしい顔をして、職人らしい中年男の前に皺だらけの指を三本出していた。
「てやんでい……、べらぼうめ……。呑み屋ならほかにも……、くさるほどあらあ」
 筒袖に腹掛けぱっち姿の職人は、立ち上がるとふらふらしながら腹巻きの中から一握りの波銭(四文銭)を掴みだすと、空の一合枡とつまみ皿が並んだ塗り盆の上に、どさりと置いた。
「なんでえ、こんなけちな店……。二度とくるけえ!」
 捨て啖呵を切ると、職人は土間へ降りて草履を突っかけて店から出ていった。なに、こうやって怒っても〔江戸っ子は五月(さつき)の鯉の吹き流し、口先だけで腹わたは無し〕の言葉通り、明日の夜もまた平気で呑みにくるのだ。
 五平は飛十郎の顔を(これだけは団十郎に似た大きな目玉で)じろりと見ると、奥の座敷にむかって、ぐいと顎をしゃくった。これは入れ込みのいつもの席が空いているから、そこへ行きな。という意味である。
「すまんな」
 飛十郎は、にやりと笑うと刀を鞘ごと帯から抜いて、草履を脱ぐと入れ込み座敷で呑んでいる客たちのうしろを通って、その席にむかって歩いていった。入れ込みは八畳の座敷に一畳をつぎ足したような変わった造りで、座布団はなく畳の上に舟の渡り板のような細長い厚板が、いくつも置かれているだけだった。二人連れの客なら、板をはさんで呑む。飛十郎の気に入りの席というのは、その継ぎ足した一畳で、真ん中に俎板(まないた)を大きくしたような厚板が一枚おいてあった。その板はかなりの年季物らしく、瑕だらけのうえ焼こげがあったが、これは湯豆腐や蛤鍋の季節になると持ち出される小さな七輪の炭火の跡だった。
 飛十郎は板の前に座ると、ふところ手をして背中をうしろの板壁にもたせ掛けた。すぐに二人娘のうちの丸顔の愛嬌のいいほうが、葱と卵をかけた納豆の小鉢と、おからに野菜を刻み込んで味をつけたお通しの小皿を持ってきて飛十郎の前に置いた。
 ほかの店なら壁に貼った御品書から好きな肴を選び、目の前の看板娘に注文するわけだが、武蔵屋はちがう。黙っていても、次から次へと料理が運ばれてくる。つまり好むと好まざると、この店へやってきた客は、団十郎親爺が用意した酒肴をおとなしく食べねばならないわけである。
 酒は灘の銘酒〔桜正宗〕これを団爺は、人の頭ほどもある大きな土瓶に入れて持ってくる。肴は五品、まず納豆とおから、つぎに秋ならば里芋の子を茹でた衣かつぎ。これの皮をむいて、塩をちょんと付けて食べる。熱いのをほくほくして食べるのだが、飛十郎の大好物である。つづいて出てくるのが、やや大振りの皿の中に三分の一丁ほどの豆腐と、白身魚の切り身を熱いだし汁に浮かべたもの。豆腐の上に盛った刻み葱とちりめんじゃこ、これに振りかけた一味唐辛子が舌にぴりっときて、酒呑みにはこたえられない絶品の肴ということになる。五品目の最後の止めが、大根、白菜、人参を細かく切って軽く漬け込んだ浅漬けである。酒がくる前に、飛十郎の口の中に唾がたまった。
 いきなり板の上に一合枡が置かれると、団爺の無愛想な顔が上から飛十郎を覗き込んだ。
「………」
 むっつりした顔のまま、団爺は空の一合枡の一尺ほど上から土瓶の酒を注ぎはじめた。飛十郎の目の前で、土瓶はゆっくりと持ち上げられ、やがて二尺(六十五センチ)ほどの高さになった。土瓶の口から流れ落ちる酒が、ぴたりと止まった時には、なんと枡を盛り上がった酒は一滴たりとも零(こぼ)れなかった。
 戦国の世に、山城の油商人からついには美濃一国の領主にのしあがった梟雄・斎藤道三が、まだ松波庄九郎の名で諸国を油を売って歩いていた頃、一文銭の小穴を通して枡に油をそそぎ入れて、一滴もこぼさなかったと言われている。団十郎親爺の枡技も、それにおとらぬ名人芸といえよう。
「ふうむ」
 不機嫌そうな顔のまま立ち去る団爺を見送った飛十郎は、板の上に這いつくばる姿勢で、一合枡に口を寄せていく。枡のほうを動かそうものなら、盛り上がった酒はたちまち溢れ出して板を濡らしてしまう。呑兵衛(のんべえ)のなかには、もったいなくて板に直接口をつけて、酒をすすり込む意地汚い連中もいる。
 枡に口をつけて、ぐぐっと酒を喉に流し込むと、うれしそうに飛十郎は枡に手をのばした。
「こたえられん」
 独りごとを言うと、もう零れる心配はない、とばかりに一合枡を掴み上げると、今度はゆっくりと桜正宗の味を楽しみはじめた。団十郎親爺が、土瓶でつけた燗酒。人肌よりほんのわずかに暖かいほどなのだが、これがなんともいえず良いのだ。江戸八百八町の煮売り酒屋、喰い物屋、居酒屋、立呑み屋台、およそ酒を出す店の暖簾を数えきれぬほどくぐった飛十郎だが、土瓶で燗をつけて出す店は武蔵屋しか知らない。酒は一合しか呑めないという弱い男でも、土瓶で注がれる桜正宗ならするすると三合呑んでしまう。呑み終わったあとで、不思議そうに首をかしげている客を、飛十郎は何人も見ている。
 これはやはり五品のつまみと、下町の仕舞屋風の店構えと、親爺が二尺うえから枡へ酒をそそぎ込む名人芸と、ほど良い土瓶の燗かげんの四つが重なって、かもし出す雰囲気に化かされて呑んだ、というしかないであろう。
 やがて……、飛十郎の前に浅漬けの小皿が置かれると、団十郎親爺の土瓶から三杯目の酒が音を立てて一合枡にそそぎ込まれた。あい変らず一滴の酒も零さない名人芸をしてのけると、団爺は指を三本見せて、むっつりした顔のまま他の客のほうへ歩いていった。
――やれやれ、桜正宗が呑めるのも、今夜はこれで最後か……
 そう思いながら、飛十郎は名残惜しそうに枡の中を覗き込んだ。


 二 金五十両

「そつじながら、おぬしが早船どのでござるかな」
 枡の酒に人の顔が映(うつ)ると同時に、頭上から落着いた低い声が落ちてきた。
「ああ、そうだが」
 顔を上げて相手の姿を見た飛十郎の手が、左膝の横に置いた刀のほうへ伸びた。
「あいや身どもは、幕臣の勝左衛門太郎惟寅(これとら)と申す者。けっして怪しい者ではござらん」
 にこりと笑うと、その侍は飛十郎の前の席に正座した。手に提げていた祝い用の朱塗りの角樽は、横に置く。かりにも幕臣を名のる武士が正座をしているのに、浪人者の飛十郎が胡坐(あぐら)をかいていたのでは無礼になる。
「早船飛十郎です。こちらは三代つづいての浪人者、お見知りおきを」
 仕方なく正座をすると、飛十郎も名のった。
「早船どの。そこもとは過ぐる日、さよう十日ほど前でござろうか。入江町近くの空き地において、九歳ほどの子供が犬に喰いつかれて難渋いたしておる時、おりよく通りかかられて野良犬を追い払い、お助けいただいたそうでござるな」
 真新しい正絹の紋服に、折り目の通った羽織袴を身につけたその幕臣は、堅苦しい口調で言った。両手をぴたりと膝の上に置いている。
「はあ。そういえば、そのようなことがありましたな」
 もぞもぞと身動きした飛十郎は、困ったように頭をかくと、その手を降ろして無精髭を撫ぜた。
「やはり、早船どのでござったか。あのおり犬に噛まれていたのは、身どもの倅の麟太郎でござる。あと少し手当てが遅れれば、命が危なかったとのこと。そこもとのおかげで、麟太郎は一命を取り止めました。かたじけない、この通りでござる」
 そう言ったかと思うと、その武士はぱっと後ずさって畳に両手をつき、飛十郎にむかって深々と頭を下げた。これには飛十郎も驚いたが、客に小皿を運ぼうとしていた看板娘と、一合枡と土瓶を持って桜正宗を注ぎにきた団十郎親爺も驚いた。その場の成り行きを見守っていた武蔵屋の客たちも、しんとなった。
「勝どの、どうかお手をお上げください。そんなことをされては、手前が難渋します。そうですか、あのお子は助かりましたか。それは良かった」
「すべて、早船どののおかげでござる。ついては、これはほんの気持ばかりの礼の品。どうか、ご
笑納いただきたい」
 角樽を飛十郎の前に押しやると、懐中からずっしりと重そうな袱紗包みをだして、その横に並べた。厚さから見て、二十五両の切り餅二つはありそうだった。
「誰に聞かれたか知りませんが、酒は手前の大好物。この剣菱の角樽は遠慮なくいただきましょう。だが、そちらの袱紗包みは、お持ち帰りください」
飛十郎は指先に力を込めると、武士の膝元へ袱紗包みをぐいと押しやった。小判も五十枚となると、かなり重い。
「それは困る。娘が下にもう一人いるとはいえ、麟太郎は勝の家にとって一粒種。そのかけがえのない掌中の珠が、野良犬の牙によって微塵に砕けるところを、早船どのはお救いくだされた。これは、ほんの礼心でござる。ぜひお受け取り願いたい」
 年の頃は飛十郎と同じ位か、痩せた肩をいからせて武士はまた袱紗包みを、ずいと飛十郎の前に押しやった。
「気障(きざ)なことをいうようですが、子供が犬に噛まれていれば助けるのは当たり前のことでしょう。たまたま通りかかったから、それをしたまでのこと。こんな大金をいただくわけにはいきませんな」
 飛十郎も、すかさず包みを押し返す。水を打ったように静まり返った武蔵屋で、酒を呑むのも忘れた客たちが、二人の間を行き来する金包みを追って、同じように顔を右左に動かしている。
「うむ。これほどお頼みしても、だめでござるか」
 みるみるうちに勝左衛門太郎のこめかみに青筋が立つと、切れ長な大きな目がぎょろりと飛十郎を睨みすえた。
「さよう。こればかりは、いくら頼まれてもだめですな」
 飛十郎は相手の顔も見ず、そっけない声を出した。
「ようし、わかった!」
 大声で怒鳴ると、左衛門太郎はいきなり立ち上がった。すわ斬り合いだ、とばかりに入れ込みに居る客たちが浮き足だった。なかには一合枡を放り出して、裸足のまま土間へ飛び降りる客もいる。
「まいった。おい、早船さんよ。おいらはもうこの窮屈袋を、脱がしてもらうぜ」
 ぱっと羽織を脱ぎ捨てると、手早く紐をほどいて袴を足から抜くと、横にぽんと置いた。
「気に入ったぜ、早船さん。当節は山吹色の小判さえ見りゃあ、へこへこ頭を下げて心にもねえ追従をいう馬鹿野郎ばかりだ。金さえ積みやあ無理が通って道理がひっ込むこのご時世に、当たり前のことをしただけだと五十両を突っ返した、その気風(きっぷ)においらは惚れたよ」
 着流し姿になると、邪魔な袱紗包みを蹴飛ばすように押しやって、団十郎親爺のほうを見た。
「おい親爺! なにを鳩が豆鉄砲をくったような面(つら)をしていやがる。そんなとこへ突っ立ってねえで、さっさとおれがとこへ枡を持ってこい」
 固唾をのんで成り行きを見守っていた客たちが、ほっと息をついた。逃げ出しかけた腰を落ち着けて、枡にまた口を付けはじめた。
「団十郎親爺、おめえもおれの話を耳にはさんだろう。えれもんだぜ、早船さんは。三河以来、権現(家康)さまに従って手柄を立てたおかげで、のうのうと無駄めしを喰らっている腰ぬけの直参旗本どもに、爪の垢を煎じて飲ませてえや。なあ、おめえもそう思うだろう。どうでえ」
「へえ、そう思います」
 おずおずと一合枡を板の上に置くと、背中を丸めるようにして答える。
「そうかい、それならいいんだ。親爺おれは、今日はめっぽう気分がいいんだ」
「へえ、けっこうなことで」
「そこで相談だ。早船さんがいらねえというこの五十両で、店を貸し切ろうじゃねえか。どうでえ」
「と、とんでもない。うちの店は旦那もご存知のように、ひとり百文の商いでございます。五十両あれば、武蔵屋なんぞ店ごと買えるようなもんで」
「じゃあ、いいじゃねえか。おれは、前からここにいる連中に、一度でいいから腰が抜けるほど桜正宗を呑ませてやりてえと思っていたんだよ」
 首をすくめると、左衛門太郎は悪さを思いついた子供のような顔をして飛十郎を見た。「そいつは、いけませんや勝の旦那。この武蔵屋は三十年前に店を開いてから、ひとり三杯までというのが決まりですから」
 頑固な表情に戻ると、団十郎親爺はすっと指を三本立てた。
「そんなこたあ、おめえに念を入れられなくても、はなからわかっているよ。だが、今夜はおれが家の跡取り息子が、はぐれ犬に股ぐらを噛みつかれて危なく命を落としそうになったのが、熱が下がってめでたく助かった、ありがてえ日だ。な、だからこうして頭をさげて頼んでるんじゃねえか」
「へえ、そこんとこは、のみ込んでますがね……。どうもねえ……、やっぱり店のけじめってやつが……」
 言い聞かせるような左衛門太郎のおとなしい口調に、安心したのか団十郎親爺が最後の踏ん張りを見せて言い返した。
「おい、親爺。入江町の勝小吉が、これだけお願えしても、おめえはどうあっても駄目だというのか」
 静かな言葉つきが、逆に妙に凄味があった。団十郎親爺が手に提げた土瓶の蓋がかたかたと震えはじめた。入れ込みで呑んでいた連中の、一合枡が宙で止まった。
 勝小吉と聞いて、飲み乾した一合枡を下へ置くと、飛十郎はあらためて相手の顔を見た。面長な浅黒い顔に、品よく鼻筋が通っているが、きりりと結んだ口元がいかにも利かん気そうに見える。
 勝左衛門太郎惟寅は知らなかったが、入江町の勝小吉なら何度も耳にしたことがある。身分は直参旗本だが、若い頃の不行跡がもとで一度も御番入りがかなわず、半ば世をすねた形の今は本所界隈の岡場所の用心棒や、一つ目の道具市の顔役をやって世を過ごしている。本所深川(ところ)で誰ひとり知らぬ者はいない、という名物男であった。
「どうだろう、勝さん。ひとつこの場は、この早船飛十郎におまかせ願いたいのだが……」
 思わず口をはさんだ飛十郎を、勝小吉はじろりと見た。
「お、そうかえ。早船さんが、あずかろうってのかい。ほかならぬ倅の恩人だ。おれがほうは、かまわねえぜ。団十郎親爺のほうは、どうだ」
 貫禄のある声で決めつけられて、団十郎親爺は頷ずくのがやっとである。
「この武蔵屋は、五品の肴(あて)もいいが、なんといっても土瓶からそそぐ桜正宗を、一合枡に盛り上げて一滴こぼさぬという親爺どのの名人芸の枡技が名物だ。勝さんの枡についだ酒がもしこぼれたら、この店を貸し切りにする。ということでどうだろう」
 頭を掻きながら、飛十郎が助け舟を出した。
「うむ、おもしれえ。てことは親爺が見事に酒をつぎおおせば、この小吉の負けってことだ。ようし、いいだろう。そうなりゃ文句ひとついわねえで、器用に引き下がろうじゃねえか。どうだ、親爺?」
「へえ。まあ、枡に酒をつぐのは毎日やってることですからな。やってもかまわねえが、そのかわりこっちが勝ったら、おとなしく帰ってくだせえよ」
「おう、念にはおよばねえ。そのかわり、おれっちが勝ったら、この五十両はおめえのもんだからな」
 袱紗包みをほどいて取り出した、金二十五両と表書きのある切餅を二つ、板の上の一合枡の横に置くと、勝小吉は入れ込みの客たちの顔を睨みつけた。
「いいか、おめえたち。団十郎親爺の気が散るといけねえからな。酒をつぎ終るまで、口をきいちゃあならねえぞ。わかったか!」
 飛十郎の席をうかがいながら、ひそひそ話をかわしていた客たちは、今度こそ石地蔵のように固まってしまった。
「さあ。やってくんな、親爺」
 いつもなら団十郎親爺、ろくに一合枡を見もしないで、そっぽを向いたまま土瓶をかたむけて酒が盛り上がったところで、ぴたりと注ぎ終えるのだが――、今夜は違った。
 ごくりと生唾をのむと、枡の上にかざした土瓶を持つ手が、細かく震えはじめた。
――こいつは、いけねえ……
 見ている誰もがそう思ったが、そこは長年の勘が戻ったのか。酒が土瓶の口から一本の細い線のように流れ落ちた瞬間、はたと震えが止まった。一尺から二尺の高さに土瓶が持ち上るにつれて、枡の中が桜正宗でいっぱいになってくる。みるみるうちに枡の縁に盛り上がった酒が、あふれ出る寸前にぴたりと止まる。鮮やかな名人芸だった。
――やった! 五十両…… 
 声にならぬ、どよめきが武蔵屋を駆けめぐった。
 その時である。まるで、そのどよめきに一揺れしたように、枡に盛り上がった酒がゆらりとしたかと思うと、すうっと木目を伝って流れ出た酒が厚板を濡らした。団十郎親爺の顔から、血の気が無くなった。
「どうした親爺、おめえには珍しい不手際じゃねえか。桜正宗を板に呑ませるなんざ、もったいねえぜ」
「へ、へえ。どうにも、いけませんや。いつも通りやろうと思ったんだが、横のある小判の包みに気を取られて、つい手元が狂っちまった」
 にやにやしながら団十郎親爺を見ていた勝小吉が、すっと手を伸ばすと板の上にこぼれた酒に人差し指をつけると、ぺろりと舌の先で舐めた。
「うめえ。やっぱりここの桜正宗は、うめえなあ。おおい、見ての通りこの勝負は親爺の負けだ。皆んな腰が抜けるまで呑んでくんな。遠慮はいらねえ、この勝小吉と早船飛十郎さんのおごりだ」
 それまで息を詰めて見守っていた客たち、――それは海辺大工町や高橋近くに住む職人や、棒手振りの行商人や、小商いの店の通い番頭や手代だったが――、全員がわっと喜びの声をあげた。


 三 お梅の啖呵

「は、ははは。団爺のやつめ、五十両やるといって手に持たせたら、青くなって賄場(まかないば)ヘ逃げていきおった。ごらんな、大事な商売道具の土瓶を、そこへ放り出しちまってるぜ。楽しいなあ、早船さん」
「そうですな。娘のお竹とお梅に小判を見せねば、といっていたが。そうなると、もう一人お松という娘がいる勘定になりますな」
 豪快に腹をゆすって笑う勝小吉を見ながら、飛十郎はふところ手を袖から出して無精髭をこすった。
「三人娘に、きっちり松竹梅と名を付けるなんざ。いかにも、あの頑固親爺らしいが。それにしても妙なとこへ気がつく人だねえ、早船さんは」
 そう勝小吉が言ったとき、いつもは愛想のいい看板娘がこわばった顔で、ずかずかと畳の上を歩いてきた。背後に団十郎親爺と、賄場からめったに出てこない姉娘を従えている。
「勝の旦那、こんなことをしなすっちゃいけませんよ。五十両といえば、うちの四人家族が物見遊山に芝居見物をして暮らしたって、四、五年はもつ金額ですよ。盗めば首が五つ飛ぶほどの大金じゃござんせんか。酔狂にも、ほどがあるってもんですよ。とにかく、このお金はお返しいたします」
 切り口上で言ってのけると、持っていた切餅二つを音を立てて板の上に置いた。
「おめえは誰だ。お竹か、お梅か」
 わざと気難しい顔で、勝小吉が聞いた。
「お梅でございますよ」
 なるほど名にふさわしく梅の実のように、ふっくらとした丸い顔と躰をしている。姉のお竹が、これまた名の通りに細い躰をして、筋ばった手足がひょろりと長い。となると、お松がどんな姿形をしているか、飛十郎はますます確かめたくなった。
「そうかい。だがな、お梅さん。これは男と男の約束ごとだ。枡から一滴でも酒をこぼしたら、その金で武蔵屋を貸し切ることになっているんだ。まあ、これを見てくれ」
 板をほんのわずかに濡らした酒の跡を、勝小吉は指差した。
「お父っつあんが、しくじったのは本人から聞きました」
 お梅は、悔しそうに唇を噛んだ。
「でもね。勝の旦那、考えてもおくんなさいよ。うちは五品の肴と酒三合を百文で売る、吹けば飛ぶような煮売り酒屋でござんすよ。けど、それで立派に親子四人が悪いこともせずに、なんとか口に糊して生きてこれたんです。それを、たった一晩貸し切りにして五十両貰ったんじゃ、お天道さまに申し訳ないってんですよ。おまけに、どうせ武蔵屋の団十郎親爺は、小判五十枚が欲しくてわざと手元を狂わせたんだと、井戸端で噂されるにきまってるんだ。ねえ旦那がた、貧乏人てのは悲しいけど、そんなもんなんですよ」
 飛十郎は軽く目を閉じて、お梅の啖呵に聞き入っていた。
「そんなことになっちまったら、武蔵屋は店をたたんで夜逃げするはめになるんですよ。どうでしょう、勝の旦那。店はじまって以来の貸し切りは、一刻(二時間)かぎり。桜正宗は呑み放題でようござんすが、肴は材料に限度がありますんで、あと一巡りだけ。ということで、いかがでござんしょう。お代は……」
 と言って、お梅は店の中を見廻した。
「この人数なら、二両ということでいかがでしょう」
 腕を組んでお梅を睨んでいた、勝小吉の顔がうなだれた。
「むむ……、こいつあ道理だ。早船さん、この小吉が一本取られちまったぜ。まいった、お梅。おめえのいう通りだ。おれが家も、内職をしなきゃあ喰っていけねえ貧乏御家人よ。ほかの侍(さむれえ)より、ちったあ所の人たちの心持ちがわかっているつもりだったが。いや、ありがてえ。今夜はいい薬になったぜ」
 いさぎよく頭を下げると、勝小吉は切餅ひとつを手にとって、小気味よく奉書紙を破った。
「さ、二両だ。取ってくんな。すべて、おめえのいう通りにしょうじゃねえか」
 小判二枚を板に置いた勝小吉が、入口の縄暖簾のあいだから顔を覗かせている弥次馬に声をかけた。
「知り合いがいるみてえだ。おい、そこにいるのは、お島とお遊じゃねえか。いいから、こっちへ入ってこい」
 ひと目で岡場所の切見世で働く女だと知れる、白首ふたりを笑いながら手で招く。
「顔を見合せてねえで、こい。酒をたらふく呑ませてやろうってんだ。その横で間抜け面をしているのは、浅田屋の船頭の留(とめ)だろう。かまわねえ、てめえも入れ」
 留と呼ばれた船宿の船頭が、縄暖簾を掻き分けて大声で答えた。
「おごり酒と聞いちゃあ、素通りできませんがねえ。あっし一人じゃねえんで、仲間があと三人いるんでさあ。旦那、どうしましょう?」
「いいから、入れ。一人残らず面倒みてやる。おい留、最後に入ってきたその女も、おめえの連れか」
「とんでもねえ、こいつは夜鷹でさあ。いらねえって断わってるのに、森下町からくっついてきて離れねえんで弱ってるんでさあ。旦那、どうしましょう?」
 これには、さすがの勝小吉も苦笑いをした。皺だらけの顔に厚化粧をしてごまかしているが、手拭いから覗いている顔は五十は過ぎているように見える。
「どうしましょう、といわれてもなあ。ま、いいじゃねえか。鷹も朋輩、犬も朋輩っていうからなあ。誰か知らねえが、おめえも入ってこい。皆んなで、うめえ酒を呑もうじゃねえか」
 入って来た夜鷹は、妙な品をつくって小吉を見あげると、にっと笑った。
「よしよし、おめえは何という名だえ」
「土手のお七ですよう、旦那」
 どん底に落ちた者の強みか、悪びれもせずに名乗った。
「わかった、お七だな。それに、お島とお遊と留公の仲間の船頭たちも、皆んな聞いてくれ。今夜はな、おれが倅の麟太郎が生き返った、めでてえ日だ。おいらはな、うれしくてしょうがねえんだ。遠慮なく、祝い酒を呑んでいってくれ」
 土間へ入って来た女郎と夜鷹を見て、お梅が顔をしかめた。その手に勝小吉は、もう一枚小判を握らせた。
「こいつは、今きた連中の分だ。そんな顔をするな、お梅。仕事は違っても、所の空気を吸って生きてる、皆んな同じ人間だぜ。気持よく呑ませてやってくれねえか」
 勝小吉を見返していたお梅のしかめ顔が、ふいに崩れてにっこり笑った。
「よござんすとも。まったく勝の旦那にあっちゃかないませんよ。お父っつあんと姉さん、ぼんやり突っ立ってないで。さあ、これから忙しくなるよ」
 くるりと振り向くと、お竹と団十郎親爺を追い立てるようにして、お梅は賄場のほうへ引き返していった。
「やれやれ、お梅のやつには見事にやられたぜ。試合に勝って勝負に負けたというのは、このことだな早船さん」
 飛十郎の前に座り込むと、にやにやしながら勝小吉は頭を掻いた。
「いや、勝さん。おれは何だか、あなたが気に入りましたよ」
「そうかい、そいつはうれしいや。おれもね、初手(しょて)から、妙におめえさんのことが気に入ったんだ。それにしても、早船さんと呼ぶのは、どうにも堅苦しくていけねえや。どうだい、これからは飛(飛び)さん、と呼びてえんだが、かまわねえかい。おれがことは、どうでも好きに呼んでくれていいよ」
 うれしそうに入れ込みの席にすわっている、女郎のお島やお遊や、夜鷹のお七や船頭たちに飛十郎は目をやった。
「勝さんのおかげで、今夜はとても気分がいい。ところで勝さん、枡の中の桜正宗が少しもへらないようだが」
「てへっ。面目ねえが、酒はまるで弱いんだよ、飛さん。この枡の酒を全部呑んだひにゃ、真っ赤になってひっくり返っちまわあ。悪いが飛さん、かわりに呑んでくれねえか」
 勝小吉が下戸(げこ)と聞いて、飛十郎は唖然とした。
「これは、驚いた。しかし勝さんの前にあるその枡は、動かせば酒がこぼれてしまう。盛り上がったところだけでも呑んでくれないと、呑めませんよ」
「おう、そうか。ここは一番、飛さんのためだ。清水の舞台から飛び降りたつもりになって……」
 勝小吉は両膝に手を置くと、頭を下げて枡の酒を、ぐぐっと吸い込んだ。
「うむ、これでどうだい。酒をこぼしちゃあ、またぞろお梅に叱られちまうからなあ」
 ほんの少し呑んだだけだが、早くも勝小吉の顔は、茹で蛸のように真っ赤になっている。
「かたじけない。では、遠慮なく」
 軽く会釈して枡を持ち上げると、飛十郎は喉を鳴らして酒を呑みはじめた。


 四 男谷精一郎

「うまい。武蔵屋で四杯目の桜正宗が呑めるとは、まことに夢のようだ。これも勝さんのおかげだな」
「なあに、これもみんな飛さんが、五十両を突っ返してくれたおかげさ。正直いって、助かったぜ」
 急に勝小吉の声が低くなった。
「女房のお信が、やいやいうるせえから、男谷の本家へいって頭を下げて借りてきた金よ。どうやって返したもんか、頭が痛かったんだ」
「男谷というと、直新影流の団野真帆斎道場を継がれた精一郎どのと、まさか関わりがあるわけではないでしょうな」
「その、まさかさ。男谷精一郎は、おれが甥っ子よ」
 そう勝小吉が答えたとき、お梅がいそいそと盆にのせた料理を持って歩いてきた。
「さあ、勝の旦那が大好物の、武蔵屋の五品の肴ですよ」
 客の皆んなに礼を言われて、機嫌が直ってきたらしい。
「まあ聞いてくださいな、早船さん。お酒も呑めないくせに、この旦那は料理だけ平らげて帰っちまうんですからねえ。あきれるじゃあないですか。この武蔵屋は、呑み屋でござんすよ。そう番たびいってるんですけどねえ」
「いいじゃねえか。きまりの百文は、きっちり払って帰ってるだろう」
「そりゃ、そうですけど。勝の旦那、あたしの名前だけじゃなく、少しは桜正宗の味も覚えて帰っておくんなさいよ」
 胸元に手を当てて、にこっと愛想笑いをすると、お梅はさっさと他の客のほうへ歩いていった。
「これだ。怒りゃ泣き出す、ほめりゃつけ上る、殺しゃとたんに化けて出る、てやつだ。この世で女ほど手に負えねえ生き物はねえな。おれも七歳のときに、男谷から勝の家に養子にいったが。家付きの鬼婆あに、さんざっぱらいじめられたっけ。まったく、女にゃ勝てねえや」
 しみじみとした勝小吉の声だった。
「ところで、飛さんは精一郎を知ってるのかい」
「まだお会いしたことはないが。江戸の剣術界で、ちかごろ出色(しゅっしょく)の麒麟児だという噂を耳にしていましたので、もしやと思いました」
「うれしいことをいってくれるねえ、飛さん。男谷精一郎は、おれが一番うえの兄貴の彦四郎の跡取り養子よ。こいつが、剣がめっぽう出来る。若けえ頃は一緒になって浅草あたりで、鳶人足や博打うちと
よく大喧嘩をしたもんだが、最近はどうもいけねえ」
「ほう、どうしました」
 微笑しながら、飛十郎は言った。
「立派になりすぎちまって、煙ったくていけねや」
「勝さんともあろう人が、それはないでしょう」
「それがあるんだ。ここだけの話、おれも叔父貴風を吹かして威張っちゃいるが。あいつは兄貴の養子だから、おれより四つも年上なのさ」
「えっ。甥のほうが、叔父より年上?」
 口に運びかけていた飛十郎の枡が、宙で驚いて止まった。
「は、はは、そうさ。精一郎は剣の腕も上なら、人品学識も上、おまけに年も上ときてるんだからなあ。おれなんかが逆立ちしたって、とうてい及ばねえやつさ」
 自嘲のこもった、淋しげな声だった。
「男谷検校の話ってのを、飛さんは耳にしたことがあるだろうねえ」
 がらりと口調が変わって、勝小吉の顔が明るくなった。飛十郎は、ほっとして口にふくんだ酒を喉に流し込んだ。
「だいぶ前になりますが、両国の筵掛けの講釈小屋で聞いたことがあります。越後の片田舎から、わずか三百文握って江戸へ出てきた目の見えない若者が、艱難辛苦のすえ金をためて、ついには徳川連枝の御三家に大金を貸し付けるまでに成り上がる。出世談でしたな」
「御三家ってのは、水戸藩さ。しかも貸した数万両は、取りっぱぐれて焦げ付いたってことだ。もっとも男谷検校はその見返りに、自分の子を武士に仕立てて水戸家に送り込んでいるからなあ。どっちもどっちだよ」
 そう言って、勝小吉は苦笑いをした。
「よくご存知ですな、そんな内幕を」
「そりゃあ、身内のことだからな。おれの親爺の男谷平蔵は、その男谷検校の倅だからな。つまり検校は、おれの祖父(じい)さまさ。えらそうなことは、おれだっていえねえや。金貸し検校が残してくれた金で、権現(家康)さまお声がかりで召しかかえられた直参旗本の勝家の急養子になれたんだからなあ。といっても、たかが家禄四十一俵の小っ旗本よ」「そんなことはない。直参お旗本なら、勝さん大したものじゃないですか」
「なぐさめてくれるのは、ありがてえが。飛さんも知っての通り、御番入りして足高(職禄)にありつければともかく、おれがようにしくじって一生小普請者じゃあ、せっせと内職に精を出すしか仕方がねえんだ。ご直参たってなあ、そのへんの刀屋がやっていることと、なんの変りもありゃしねえのさ」
「しかし刀の売り買いで儲けるのは、大変なことでしょう。勝さんは、相当目利きができるわけだ」
「そんなこともねえが。道具市の世話役さんたちや、市の仲間や、刀剣好きな素人衆が、いろいろと手をかしてくれて儲けさせてくれるんだ」
「うん。それは勝さんの、人徳というやつだ」
 飛十郎は小吉にむかって、大きく頷ずいて見せた。
「そいつはねえよ、飛さん。このおれに人徳なんぞあるものけえ。親爺の平蔵は、刀もろくすっぽ振れねえ御勘定場の算盤侍だったが。〔恩を仇(あだ)で返すのが当たり前の世の中だが、逆に仇を恩で返すことが出来ればその人間は立派なものだ〕と口癖のようにいってたが。おれも三十を過ぎたから、そいつをそろそろやってみようと心掛けてるのさ」
「む……」
 口にするのはたやすいが、並みの人間に出来ることではない。飛十郎は、思わず無精髭に手をやった。
「それともう一つ、道具市にやってくる町人や職人が腰を低くすれば、それよりもっと低く、頭を下げればそれよりもっと低く下げようと心掛けている。おれがやっているのは、それだけだぜ」
 飛十郎は、身を乗り出した。団十郎親爺が話の途中で注いでいった、枡の酒に手をつけるのも飛十郎は忘れていた。岡場所の女たちや、船宿の船頭たち、いやそれよりも見知らぬ夜鷹女にさえも、わけへだてなく接した勝小吉のあたたかい人柄に、飛十郎は深く感じ入っていたからである。
「それがなかなか出来ないのですよ、勝さん。武士の家に生まれただけというだけで、町人や百姓にむかって威張りかえり、刀もろくに抜けないくせに、のさばり歩いている侍ばかりだ。御家人の次、三男に、とくに弱い者いじめをする連中が多い。それを勝さんは、町人たちより腰や頭を低く下げるという。なかなか出来るものではない。たいしたものだ」
「そうかねえ。飛さんが思っているほど、てえしたものじゃねえんだが……」
 飛十郎にほめられたのが、よほど思いがけなかったらしく勝小吉は首をすくめると、てれくさそうに頭に手をやった。
「けどな。倅の麟太郎ってのが、おれの子とは思えねえほどの出来物でな。礼儀と言葉は折り目正しい、がきの頃から書物と学問が大(でえ)好きときている。てんで、おれと正反対よ。剣術好きってことだけが似ているかなあ。筋がいいから、そろそろ精一郎の道場で稽古をさせようと思っていたとこを、犬に噛まれちまったんだ」
 倅の麟太郎の話をしている時の小吉の顔が、たまらなくうれしそうに見える。
「疵が治ったら、ぜひ麟太郎どのにお会いしたいものですな」
「おう。歩けるようになったら、すぐに飛さんの長屋に礼をいいにいかせるよ」
「そういえば、勝さん。長屋といい、この武蔵屋といい、よくわかりましたな」
 不審げな飛十郎の表情を見て、腹を抱えて笑い出した。
「あは、ははは、不思議かえ。なあに種を明かせば、なあんだってなもんよ。飛さんのことを教えてくれたのは、櫓下の芸者さ」

              了 〈助太刀兵法32・御家人馬鹿囃子−2−につづく〉







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