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〈助太刀兵法36〉夢泡雪狐仇討 (3)
[【時代小説発掘】]
2014年5月11日 12時32分の記事


【時代小説発掘】
〈助太刀兵法36〉夢泡雪狐仇討(3)
花本龍之介 



(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


梗概
 向島の三井の別邸で、弥助の鰻串と酒に舌つづみを打ちながら、飛十郎は八郎右衛門や鶴屋南北と話をした。そのとき聞いた清元派と富本派の確執に、漠然とした不安を感じていたが、不幸にもそれが的中する。清元延寿太夫が、何者とも知れぬ刺客に襲われて殺されたという。長屋に駆け込んできた佐吉の注進によると、延寿太夫の通夜の席へ元の師匠筋の富本の家元たちがやってきて、大騒動が起こる心配があるというのだ。仕方なく腰をあげた飛十郎は、浜町にある延寿太夫の家に行くが、そこで思いがけなく歌舞伎役者の七代目市川団十郎と出会って仇討の助太刀を依頼される。江戸一番の大商人の娘を助けたばかりに、思わぬ騒動に巻き込まれた飛十郎。事件はいよいよ佳境に入っていく………。


【プロフィール】:
尾道市生まれ。第41回池内祥三文学奨励賞受賞。居合道・教士七段。
現在、熱海に居住している。


これまでの作品:

〈助太刀兵法21〉尾道かんざし燈籠
〈助太刀兵法22〉尾道かんざし燈籠(2)
〔助太刀兵法23〕尾道かんざし燈籠 (3)
〔助太刀兵法24〕尾道かんざし燈籠 (4)  
〔助太刀兵法25〕 尾道かんざし燈籠(5)
〔助太刀兵法26〕尾道かんざし燈籠(6)
〔助太刀兵法27〕尾道かんざし燈籠(終章)
〔助太刀兵法28〕室の津綺譚
〔助太刀兵法29〕室の津奇譚(2)
〔助太刀兵法30〕 室の津奇譚(終章)
〔助太刀兵法31〕御家人馬鹿囃子
〔助太刀兵法32〕御家人馬鹿囃子(2)
〔助太刀兵法33〕御家人馬鹿囃子(終章)
〈助太刀兵法34〉夢泡雪狐仇討 ゆめのあわゆききつねのあだうち
〔助太刀兵法35〕 夢泡雪狐仇討(2)




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【時代小説発掘】
〈助太刀兵法36〉夢泡雪狐仇討(3)
花本龍之介 



一 闇討ち

 豪商三井八郎右衛門の向島の別邸で、弥助が鰻屋台を出してから三日後のことである。 飛十郎がお雪の用心棒をするために、海辺大工町の長屋を出ようとして刀を帯に差したとき、佐吉が血相を変えて飛び込んできた。
「旦那、大変だ! き、清元延寿太夫が殺されましたぜ」
 それだけ叫ぶと、佐吉は水から出た鯉のように、口をぱくぱくさせて土間へ座り込んだ。
「落着け、佐吉。いつ、どこで、延寿太夫どのは殺されたのだ」
「へ、へい。時刻は昨夜の四つ(午後十時)すぎ、場所は親爺橋のたもとだそうで。旦那が心配なすった通り、真っ暗闇のなかで襲われたそうでございます」
 刀の柄頭(つかがしら)に手を置くと、飛十郎は思わず舌打ちをした。
「いくら月のない夜とはいえ、警護の三人はどうした。その場にいなかったのか」
「いえ。お武家は三人とも、ちゃんといなすったそうで」
 土間からようやく立ち上がると、佐吉は甕の柄杓から水を喉に流し込んで、人心地がついた顔になった。
「幕府指南所の腕ききが三人もいて、目の前で延寿太夫どのを討たれたというのか。だが、せめて下手人は取り押さえたろうな」
「ところが旦那、まんまと下手人も逃げちまったということで」
「馬鹿をいうな。前後を三人に守られている者を殺害して、どうやって逃げられる。下手人は天狗で、空を飛んで逃げたか」
 決めつけるように、飛十郎は聞いた。
「図星で。けど天狗さまじゃなくて、下手人はどうやら河童らしゅうございます」
 とぼけた顔で、佐吉は答えた。
「なんだと、河童だと……。ふむ」
 ふところ手の指を胸元から出すと、無精髭をこすりながら飛十郎は考え込んだ。
「……そうか、わかった。ならば下手人は橋の下から延寿太夫を刺して、舟にでも乗って逃げたのだな。それなら、不意をつかれた警護の三人が、なすすべもなかったのがわかる」
 頭に浮かんだ考えをまとめるように、飛十郎は口に出して言った。
「どうもそうらしいって、越後屋の大番頭がいっておりました」
「ほう。しかし、大番頭の知恵ではあるまい。誰に聞いたんだ」
「よくわかりますね、旦那は。越後屋へ出入りの、町方同心から耳うちされたそうです
「そうか。町奉行所の同心から聞いたのなら、間違いなさそうだな。橋の下から人を狙うなら、手槍か竹竿の先に刃物を縛りつけた物かの、どちらかということになる」
「なある……。見抜いた旦那もえらいが、考えた下手人も頭のいい野郎でござんすねえ」「こら、佐吉。おれと延寿太夫を殺したやつと、いっしょにするな」
「すいません。けど旦那、あっしはこれでもほめているつもりでござんすけどねえ」
 佐吉は、きびきびとしたよく動く目で、飛十郎を見た。
「妙なほめかたをするな。それにしても、これでお雪の用心棒の仕事はなくなったわけだな」
 さして残念そうでもなく、飛十郎は言った。
「へえ、そういうもんですかねえ」
 首の後を指でかきながら、佐吉は納得のいかない顔をした。
「あたりまえだ。考えてもみろ。清元節一派を潰すために、有力な後援者の八郎右衛門の娘のお雪をかどわかしたのだ。延寿太夫を殺せば、お雪を狙う必要はなかろう」
「そりゃ、そうですけどねえ。越後屋三井といえば、金蔵に何万両あるか数えられねえという大分限者だ。せっかく一人娘の用心棒になれたっていうのに、もったいねえじゃないですか。あっしならこんな太い金づるは、めったに手放すもんじゃありませんぜ」
 溜め息をつくと、佐吉はうらめしげに飛十郎を見た。
「それもそうだが、おれの稼業は助太刀人で用心棒ではないからな。それに、あの年頃の娘の相手はかなわん」
 飛十郎はそう言いながら、顔をしかめた。
「へ。旦那ってのは、あきれかえるほど欲のねえお人だ。綺麗なお嬢さんの相手をして、どっさり礼金もいただけるってのに、やめようってんだから」
「ふ、ふふ。そんなに残念なら、佐吉おまえがお雪の用心棒になればいいだろう」
 無精髭をこすると、飛十郎はにやりとした。
「よろこんで、そうしたいところだが。あっしの達者なのは、口ばかりでね。腕っぷしのほうは、からきし駄目なんですよ。口喧嘩なら、負けたことはねえんだが。旦那に居合の稽古をつけてもらっても、すぐには上達しねえでしょうね」
「ま、無理だな。つけ焼き刃は、役に立たん。へたをすると命を失いかねん」
「そいつは、ごめんこうむりますぜ」
 佐吉は恐そうに首をすくめた。
「それより旦那、葬礼のほうはどうしなさるんで。今夜が仮通夜で、あしたが本通夜で、あさってが葬式っていう段どりだそうで」
 刀を抜き取ると、飛十郎は奥の四畳半に引き返して障子を引き開けた。冷たい朝の風といっしょに、小名木川を行き来する荷船の櫓の音が流れ込む。飛十郎は耳を澄ませると、軽く目を閉じた。
「茶の湯の言葉に、一期一会というのがあるが……。一度しか顔を合わしたことのないおれが、延寿太夫どのの葬礼に出るのはおかしくないかな」
「あっしらには、そのへんのとこはよくわかりませんがね。大番頭がいうには、今夜から葬式が終るあさっての夕方まで、ぜひとも早船の旦那に棺桶の傍にいてほしいそうで」
「なぜだ。おれが清元延寿太夫どのの家に、どうして詰めねばならんのだ」
 眉をひそめると、怪訝そうに飛十郎は聞いた。
「へい。なんでも延寿太夫さんの元の師匠筋の、富本節の家元がかならず線香をあげに弟子を引き連れてやってくる。大騒動になるのは目に見えてるってんですよ」
 神妙な顔で、首の後を手で叩きながら、佐吉は言った。
「ということは、延寿太夫どのの弟子たちは師匠を殺したのは、富本派だと思っているわけだな」
「そりゃあそうですよ。誰が考えてもそうでしょう。清元節のほうでも、血の気の多いのが揃ってますからね。富本がやってきたら、ただじゃ帰さねえってんで、手ぐすねひいて待ってるらしゅうござんすよ」
「だが、江戸は将軍家のお膝元だ。葬礼の場で、芸人同志が血の雨を降らしてみろ。身分柄をわきまえぬ曲事(くせごと)だとばかりに、頭の堅い老中どもが町奉行に命じて、清元も富本も叩きつぶすぞ」
 窓の外に目をやったまま、つぶやくように飛十郎は言った。どんよりと曇った冬の空から、音もなく細雪(ささめゆき)が落ちはじめた。小名木川をいく猪牙舟の船頭が、首筋に入った雪に顔をしかめると、寒そうに身を縮めて櫓を動かす手を早めた。
「ですから、三井の旦那もそれを心配なすってるんで。それを防ぐために、居合の腕をお借りしたいと、こうしてあっしが使いにきたわけでさあ」
 
 
二 江戸の宝

 飛十郎の視線を追って外を見た佐吉が、たちまちうれしげな顔になった。
「おや、雪ですね。こいつはいいや。旦那、いつ見ても雪はようござんすねえ」
「ほう、佐吉は雪が降るのがうれしいのか」
「へい。あっしが生まれた尾道ってとこは、目の前が海で、すぐ後が山でござんすからね。雪も少ないし、風もあまり吹かねえ土地柄で。江戸へ出てきて、まず驚いたのが関東名物の空っ風でござんす。たちまち風邪をひいちまって、死ぬほど苦しかったのを覚えておりますよ」
「そうか。佐吉も、慣れぬ土地でつらい思いをしたわけだな」
「へ、それもこれも今じゃ笑い話でさ。いろんなことがありやしたが、あの雪みてえに小名木川の川面に落ちる前に消えちまうような、たわいもない思い出でござんすよ。ほんとに江戸ってとこは旦那、田舎者の吹きだまりのような街でございますからねえ……」
  珍しくしみじみした口振りに、飛十郎は振り返って佐吉を見た。
「そうだな。江戸生まれのおれには、よくわからぬことだが」
「それより、旦那。今夜の仮通夜には出てくれるんでしょうねえ」
「さて、どうしたものかな」
 腕を袖から抜き出すと、飛十郎は雪を眺めながら無精髭をなぜた。
「なにも考えるこたあないでしょう。三井の旦那に、お雪さんに、南北の先生も首を長くして、早船の旦那が顔を見せるのをお待ちになってるんですから」
 じれったそうに言うと、佐吉は古畳の上を落ち着きなく歩きはじめた。
「そうか。お雪どのや南北老人も、出ることになっているのか」
「それどころじゃありませんよ、旦那。七代目も線香をあげにくるそうですぜ。まったく驚くじゃあござんせんか」
「うむ。七代目というと、団十郎だな」
「どんぴしゃり。お江戸の飾り海老、成田屋でさあ」
 七代目市川団十郎は気骨のあることで知られ、歌舞伎十八番を定めるなど市川宗家の力を大いに高めた。贅沢の限りをつくして作った莫大な借金から逃れるために、長男の海老蔵に無理に八代目を継がせ、自分は息子の芸名の海老蔵を名のるなど奇行の持ち主でもあった。このため若さと美貌と才気で江戸の芝居好きをわかせた八代目市川団十郎は、借金と父のわがままと団十郎の名跡の重さに追いつめられて、巡業先の大坂の宿で自刃した。だが、これらの変事が起きるのは数年先のことで、飛十郎はむろん知らない。
「旦那、尾上菊五郎のお岩さんもよかったけど、団十郎の民谷伊右衛門がなんともいえず崩れた凄味があって、ようござんしたねえ」
 中村座で見た芝居を思い出したのか、佐吉はうっとりした声を出した。
「その東海道四谷怪談と、助六所縁江戸桜の舞台顔しか知らないが、通夜の席で騒動が起きて団十郎や南北老人がとばっちりを受けて、おとがめがあっても気の毒だな」
「そうですとも。団十郎も大南北も、いわば江戸の宝だ。ふたりが牢に入れられでもしたら、八百八町は灯が消えたも同然ですぜ」
 飛十郎は降りつづく細雪の中を、遠去かっていく猪牙舟を眺めていた。
「延寿太夫どのが聞かせてくれたのは、明烏夢泡雪だったな。あれが太夫が、この世に残した最後の唄声だったかもしれない……」
「ちげえねえや、旦那。これも、なにかの縁ですぜ」
「いくことに決めたぞ、佐吉。人の一生もこの雪のように、うたかたの泡雪かもしれぬ。おれの居合が役に立つなら、喜こんでうかがうと八郎右衛門どのに伝えてくれ」
「がってん、承知の介とくらあ。そうこなくちゃいけねえや」
 佐吉は身軽に立ち上がると、手早く尻端折りをした。
「道がぬかるんでるぞ。転ばぬように気をつけていけ」
 飛十郎のいたわりに、佐吉はうれしげに大きく頷ずくと、戸を引き開けて雪の中を鉄砲玉のように飛び出していった。


三 名残りの唄

 暮れ方の六つ半(午後七時)すぎに、飛十郎が浜町河岸にある清元延寿太夫の家に着いたときには、もう雪は降りやんでいた。
 清元節の創始者で、当代きっての唄の名手の突然の死とあって、芝居者や芸者たちで家の中は足の踏み場もないほど込み合っていた。
「これは、早船さま。雪の中をお呼びだてして、申しわけございません」
 心待ちしていたらしい三井八郎右衛門が、目ざとく奥の座敷から出てきて、すぐに延寿太夫の枕元に案内した。
「眠るがごとく、とはこのことでしょう。まことに穏やかな死に顔でございます」
 八郎右衛門の言葉通り、延寿太夫の顔は血色もよく、口元にかすかな微笑を浮かべたその表情は、暴漢に襲われて非業の死をとげたとは思えなかった。
「人の命は蜉蝣(かげろう)のようにはかないもの、といいますが三日前の太夫の唄が聞きおさめになるとは、夢のようでございます」
 線香をたむけて、瞑目した飛十郎の横で、八郎右衛門は泪に濡れた目であたりを見廻した。
「おう、あのおり太夫の連れ三味線をひいた小吉が、柱にかくれて泣いておりますぞ」
 飛十郎も月の光の下で、新内語りに扮した延寿太夫の楽しげな顔を、目の前で見るようにありありと思い出していた。
「たった一度の不思議な縁(えにし)だったが、おぬしの屋敷の庭で耳にした唄声が忘れられぬ」
「そうでございましょうとも。延寿太夫の清元を耳にした者は、たちまち魂を奪われるといいますからな」
「だろうな。もっとも、あのとき聞いたのは新内だったがな」
「はい。延寿太夫がこの世の名残りに唄ったのが、清元ではなくて新内だったというのも不思議なことでございます」
 飛十郎の顔を見ながら、八郎右衛門は淋しげに笑った。
「おや、誰かきたようですな」
 玄関先のざわめきに立ち上がった八郎右衛門は、すぐに口を飛十郎の耳元に寄せた。
「成田屋ですよ。このような席ですから、おおっぴらには出来ませぬが、軽くお引き合わせをしておきましょう」
 どんな千両役者や名優であろうと、人気だけでは芝居を張っていくわけにはいかない。有力な贔屓筋の後押しがあってからこその役者稼業である。
 一つ紋の黒羽織・袴姿で花道の登場よろしく、あたりをはらって入ってきた市川団十郎も八郎右衛門を見ると、たちまち小さくなって丁重に挨拶をした。
「これは三井さま、今夜はご苦労さまでございます」
 深々と頭を下げる団十郎の傍へいくと、八郎右衛門は小声で話しかけた。どう紹介されたのか団十郎は一つ頷ずくと、目を見張って飛十郎を見た。成田屋は名代の大目玉である。口上披露の〔睨み〕が江戸名物になっているほどだ。その団十郎に睨まれて、飛十郎は思わず無精髭に手を当てた。
 線香をあげた団十郎を、八郎右衛門が奥の広間へ案内する。大川に面したその座敷には、山谷の八百善から届いた精進落としの豪勢な仕出し料理が並べられているという。
「そんな堅苦しい席は、まっぴらだ。おれは、台所のほうがいい」
 八郎右衛門のさそいを、にべもなく断わった飛十郎は、下働きの小女の後について台所へ入っていった。さすがは今売り出しの延寿太夫の家の台所だ。弟子の数も江戸一番といわれるだけあって、台所も広々としている。黒光りのする太い大黒柱に背をあずけると、飛十郎は一升徳利から茶碗へ注いだ酒を、ちびりちびりと呑みはじめた。
「お呼びで、旦那」
 小女に呼びにいかせた佐吉が、飛十郎の横で片膝を付いた。
「おう。まあ、一杯やれ」
 用意していた茶碗酒を、佐吉の前に押しやった。
「延寿太夫どのの枕元でなにか起きたら、すぐにここへ顔を見せてくれ」
「へい。ですが、顔を見せるだけでよろしいんで?」
「ああ、それでいい。あとは、おれの仕事だ」
 うまそうに茶碗酒を呑み乾すと、佐吉は手の甲で口をぬぐった。
「旦那、面白い話を小耳にはさみやした。今夜、騒ぎを起こしそうなのは、二人だそうで。ひとりは三味線方をつとめる清元斎兵衛という男で、もうひとりは役者崩れの清元三枡太夫だそうです」
「ほう、誰に聞いた」
「越後屋の大番頭ですよ。危ないのは斎兵衛のほうで、この男は元の名が鳥羽屋万吉といって、浅草界隈でだいぶ暴れ回ったやつらしゅうございますよ」
「もうひとりの三枡太夫というのは、名からいって団十郎の元弟子か」
「図星で。役者のほうは才がなくて親方から見限られ、延寿太夫に泣きついて音曲に移ったそうで」
「わかった、もう行け。なにかあったら、すぐに顔を見せろ。今のふたりから目を離すな」
 佐吉が姿を消すと、飛十郎は刀を膝元へ引き寄せて、茶碗酒にはもう手をふれようとはしなかった。
騒ぎが起きたのは、それから間もなくだった。飛十郎は立ち上がると、台所へ入って来た佐吉の顔を見た。
「はじまったか」
「へい。ですが旦那、あっしが来るのがどうしてわかったんで」
「ふん、どうしてそんなことを聞く」
「だって、あっしが顔を出す前に立ちあがっていたじゃありませんか」
「足音だ。おまえの足の運びを聞きわけただけだ」
「へええ。こいつは、恐れ入谷の鬼子母神でござんすね」
 佐吉はめを丸くして立ち止まった。
「くだらんことをいってないで、早く歩け。斎兵衛は弔問客の誰にくってかかったんだ」「富本節の二代目家元、富本豊前掾が弟子をふたり引き連れて、延寿太夫の遺骸の枕元にすわり蝋燭の炎に線香を差し入れたとたんに、斎兵衛が飛びかかったんでさあ」
 飛十郎は、舌打ちをした。
「あれだけ人がいて、誰もとめられなかったのか」
「それがもう、あっけにとられるほどの素早さでして」
 佐吉は、面目なさそうに頭をかいた。
「よし。おまえは、おれの傍にいて手伝え。いくぞ」

 
四 漬物小屋

 仮通夜の座敷に飛十郎が踏み込むと、さっきまでうなだれて座っていた弔問客たちが、総立ちになって大声を出していた。延寿太夫が横たわったすぐ横で、五人の男たちが取っ組みあいを演じていた。
「は、早船さま、なんとかしてくだされ。これでは太夫のせっかくの通夜が、めちゃくちゃでございます」
 地獄で仏に会ったような顔で、八郎右衛門が傍へ駆け寄ってきた。
「まかせろ。すぐに片付ける」
 人垣のむこうで、苦虫を噛み潰したような顔をした団十郎が、腕組みをして仁王立ちになっているのが見えた。
「早く静めてくだされ。それでなくとも、役者や芸人は町奉行所から目をつけられております」
 困惑している八郎右衛門に頷ずくと、飛十郎は佐吉をしたがえて騒ぎの輪の中へ入っていった。羽二重の黒紋付きを着た立派な風采の男の胸倉を掴んで、馬乗りになっているのが斎兵衛に違いない。その斎兵衛の頭を後から拳で殴っているのは、富本の弟子だろう。「おい。こんなところで、なにをしている」
「なんだと」
 飛十郎に声をかけられた男は、拳を振り上げたまま振りむいた。瞬間、すっと腰を沈めた飛十郎は、男の鳩尾(みぞおち)を刀の柄頭で突き叩いた。
「うっ」
 ぐったりと畳に崩れ落ちた男の襟首を掴んで、飛十郎は佐吉を見た。
「こいつを庭でも玄関先でもいい。外へ放り出せ。それから、こいつらもだ」
 横で殴り合っている痩せた色白の男にむかって、飛十郎は顎をしやくった。
「え! けど、そのお人は清元の三枡太夫ですぜ」
「かまわん。喧嘩両成敗だ」
 ののしり合って拳を振り廻している男たちの間に割って入ると、飛十郎は目にも止まらぬ早さで、ひとりに柄頭を残るひとりに右の拳を叩き込む。男たちが重なり合って畳に崩れ落ちると、すかさず佐吉がひきずり出す。
「さてと……、残りはあとひとり」
 夢中になって富本豊前掾の首を絞めながら、清元斎兵衛はうわごとのように同じ文句をくり返している。
「き、きさまが指図して、誰かにお師匠さんを殺させたに違いねえ。やい、白状しろ」
 前に廻った飛十郎は、斎兵衛の右手首を指で押えると軽くねじ上げた。さして力を入れているようにも見えなかったが、斎兵衛の躰はふわりと浮いて背中から畳に落ちていった。
「な、なにをしゃがる!」
 わめきながら起き上ろうとする斎兵衛の腹を、鞘ごと引き抜いた飛十郎の刀の鐺(こじり)が勢いよく突いた。
「ぐっ」
 目をむいて崩れた斎兵衛の躰を肩に担ぎ上げると、飛十郎はさっさとその場から出ていった。
「どこへいくんで、旦那」
 追いかけてきた佐吉が声を掛ける。
「台所の外へ炭小屋のようなものが見えた。しばらくそこへ放り込んでおく」
「そいつはいい考えだ。で、富本の家元はどうなさるんで?」
「あれは八郎右衛門にまかせる。おれの仕事は、騒ぎをおさめることだ。役目は果たしたぞ」
 忙しげに立ち働く女たちの間をぬって土間へおりると、飛十郎は外へ出て小屋へむかった。
「なんだ、臭いぞ。こいつは炭ではなく漬物小屋だ。延寿太夫は漬物が好きだったんだな。糠味噌のにおいがするが、少しここで頭を冷やせ」
 肩の斎兵衛を放り込むと、ぴしゃりと戸を閉めた。そのまま二人は台所へ戻る。
「じゃ、あっしは座敷へ戻りますぜ。また騒ぎが起きたら、呼びにきますよ」
「ああ、そうしてくれ佐吉」
 大黒柱を背にして座ると、飛十郎は一升徳利を手にした。
「酒もうまいし、巻き寿司も稲荷寿司もうまい。おれは、ここが気に入った。朝までここにいると、八郎右衛門に伝えてくれ」
 飛十郎が茶碗酒を呑みはじめると、下働きの女や近所の手伝い女房たちが、里芋や蒟蒻の煮物の大皿や、蒲鉾を盛った皿を次々に運んできた。
「いや、すまん。悪いな」
 そのたびに女たちに頭を下げる飛十郎の廻りにも、少しずつ人がふえてきた。身内の者しか呼ばぬ仮通夜、という話だったが、出入りの鳶の者や、弟子の三味線弾きや芸人たちで広い台所も混み合ってきた。
「早船さま。さきほどは、まことに鮮やかなお手並みで、成田屋も感心しておりました。舞台でも、ああは見事には出来ぬ、と申しましてな」
 飛十郎の前に座ると、茶碗に酌をしながら八郎右衛門は指で額に浮いた汗をぬぐった。「そんなことはあるまい。団十郎の立ち回りのほうが、鮮やかだろう」
 つがれた酒をぐびりとやると、飛十郎は里芋を指でつまんで口に放り込んだ。
「ともあれ成田屋が、お礼かたがた早船さまにご挨拶をしたいと、離れで待っております」
「礼にはおよばぬ、と団十郎にいってくれ。これは、おれの商売だからな」
 もぐもぐと芋を食べながら、飛十郎は八郎右衛門を見た。
「困りましたな。成田屋はいい出したらきかぬとこがありますから。それに、なにやら早船さまにお頼みしたいことがあると申しておりました」
「ほほう。団十郎が、おれに頼みたいことがあるというのか」
 顔をしかめると、飛十郎は指についた煮物の汁を舐めながら立ち上がった。


五 芸道兄弟

 離れは、茶室造りになっていた。
 渡り廊下を通って次の間へ入ると、飛十郎は右手に持ってた刀を土壁の刀架けに置いて、躙り口から入っていった。
 床の間の掛け軸を眺めていた団十郎は、その気配に膝を滑らせると、下座へすわり直して頭をさげた。
「これは早船さま、さきほどは元弟子の不始末で騒ぎになりましたところを、お取り静めいただき、まことにかたじけのうございまする」
 舞台そのままの癖はあるが、よく通る澄んだ美しい口跡である。
「いや。あれは八郎右衛門に頼まれて、手間賃だけのことをやっただけだ。べつにおぬしに礼をいわれる筋はないと思うが」
 そんなことはございません、というように団十郎は手を横に振った。
「ご存知ないと思いますが、延寿太夫とは盃こそ交しませぬが、芸道の上で五分と五分の呑みわけの兄弟分のような気持でおりました。これまでも力を合わせて、いくつもの舞踊狂言を作ってまいりました」
「ふむ、そいつは知らなかった」
 飛十郎は無精髭をこすりながら、沈みきった団十郎の顔を見た。
「それが何者かの手によって、このたびの不慮の死。市川の家にとっても、取り返しのつかぬ大きな打撃でございます」
 肩を落とすと、畳についた手の甲に、団十郎の大きな目から零れた泪が、ぽたぽたと落ちて砕けた。
「それよりもなによりも、兄とも敬い弟とも慕った延寿太夫を、無残に殺害した下手人が憎くて仕方がございません。早船さま、お願いでございます。どうか清元延寿太夫の仇討に、助太刀人として剣の腕をお貸しくださいませ」
 泪に濡れた大きな目が、ひたと飛十郎を睨んだ。               
「延寿太夫を刺殺した下手人は、まだ何者か判明しておらぬぞ。それでも成田屋、おぬしは仇討をするというのか」
「いたします。延寿太夫を殺した下手人は、どう考えましても富本節にかかわりのある者に違いございませぬ。ですが、家元の豊前掾ではないと思いまする」
「ほう、なぜそう思う」
「はい。仮通夜の席にあらわれました時の、泰然自若とした動作。延寿太夫の弟子に組み伏せられ、無体にも殴りつけられたのち、この家から帰るさいの毅然(きぜん)とした態度を目にしたからでございます。あれは、人を殺した者の顔ではありませぬ」
「なるほどな。では下手人は誰だ」
「昔から、ものごとは隠すよりあらわれる、と申します。延寿太夫が死んだことをよいことに、座元や狂言作者、あるいは人気役者へ富本節を売り込みに動く者が、真の下手人に違いないとおもいまする」
「おぬしの家に伝わる荒芸のように、派手に動き廻る必要はない。網を張って待っていれば、獲物は引っかかるというわけだな」
 無精髭をなぜ廻しながら、にやりと飛十郎は笑った。
「さようで。花川戸助六のように、吉原の三浦屋の格子先で派手に煙管(きせる)の雨を降らせなくとも、仇は知れましょう」
 見得をきる所作をすると、団十郎もにやりと笑い返した。
「ま、いいだろう。下手人が判明したとして、まさか江戸の飾り海老といわれる市川団十郎が、仇討人になるわけにはいくまい」
「ほかに人がいなければ、喜んでなりますが、延寿太夫には子供がおりまする」
「そうは聞いていないぞ。延寿太夫には、子がないと八郎右衛門がいっていたぞ」
「はい。正妻の子供はいませぬが、かくし子がおりまする」
「なに、かくし子だと」
 飛十郎は愕然とした。
「なにも驚かれることはございませぬ。役者や芸人の世界にはよくあること。相思相愛の柳橋の芸者に、女の子が生まれました。これが男の子ならば、わたくしの弟子にも芸養子にもして、一人前の役者にいたしますが」
「いくつになるのだ。延寿太夫の娘は」
「十二歳でございます。六つの頃より、鳥羽屋万吉が熱心に三味線を仕込んでおります」「鳥羽屋というには、たしか……」
 聞き覚えがある、という顔を飛十郎はした。
「斎兵衛という芸名で、三味線方をしている者でございます。清元節の名曲は、ほとんどこの男と延寿太夫が協力して作りあげたといっていいほどの名手でございます」
「そうか。そいつは知らなかった」
 飛十郎は当身を喰わして、肩に担ぎ上げた男の顔を思い出していた。
「ふ、ふふ、そんな名手とも知らずにな。おれは斎兵衛を、漬物小屋に放り込んだぞ」
「なに、よろしゅうございますとも。あの男は名代の癇癪もちで、おまけに大のわがまま者でございます。たまには漬物樽の横で、糠味噌の臭いをかいだほうが身のためでしょう」
「そうかな……」
 頭をかきながら飛十郎は、団十郎の顔から床の間の掛け軸に目を移した。
「成田屋だけにはいわれたくない、と斎兵衛は思っているのではないかな」
「これは、ご挨拶でございますな。この市川団十郎、ひさかた振りに一本取られました。あは、ははは」
 市川宗家といえば、芝居の世界では第一等の家柄である。小さい頃から御曹司と呼ばれ、甘やかされ放題、やりたい放題に育てられたに違いない。他人に面とむかって皮肉られることなど、生まれて初めてのことだろう。その団十郎が怒気を顔にあらわそうともせず、腹の底から楽しげに笑いはじめた。


六 男の花道

 堺町にある芝居小屋・中村座の櫓下看板を、飛十郎がふところ手をして見上げていた。 芝居がはねて半刻(一時間)ほどたった頃のことで、通りにはほとんど人の姿はない。斜めに差し込む月の光で、巨大な看板の中央に猿若勘三郎、その右に市川団十郎、左に尾上菊五郎と書かれているのがはっきりと見える。
 暮れ六つ(午後六時)頃に櫓下で待っていてほしい。という使いが団十郎からきたのだが、石町の鐘はとうに鳴り終わっていた。これが夏ならば、江戸の夕景名物の蝙蝠がいそがしく飛びはじめる時刻だったが、この季節では冴えた冬空に、数え切れないほどの星の群れが凍りついているだけである。
 芝居茶屋の男衆が持つ提灯に足元を照らされて、見物客と芸者が声高に役者の評判をしながら、飛十郎の背後を通り過ぎていった。
「早船さま。お待たせいたしやした」
 客寄せの男たちが呼び込みをしたり手踊りをする、ばったり縁台の後ろから声がした。「成田屋は、どこだ」
 声のほうを向いたが縁台には手摺りがあるから、そこへ上がるわけにはいけない。
「親方は、舞台にいらっしゃいます」
 横の鼠木戸がすっと開くと、三枡ちらしの浴衣を着た若い男が頭を下げた。幕がおりたあとの桟敷へ入るのは初めてのことだ。百目蝋燭に照らされて舞台は皓皓と明るかったが、桟敷席は誰かが潜んでいてもわからないほど暗い。
「足元が暗うございます。早船さまも、遠慮なくこちらをお通りください」
 若い男は、ひょいと花道の上にあがると、すたすたと舞台にむかって歩きはじめた。
「む……」
 さすがに飛十郎は躊躇した。役者が命を賭けるという、檜舞台の本花道である。
「この成田屋が、いいっていうのだ。さあ気にしねえで、その花道を歩いてきてくだせえ」
 団十郎の声が聞こえて、すっぽんと呼ばれる花道七三のせり出しから姿を見せると、笑いながら飛十郎を手まねきした。
「月日がたつのは、まったく早え。延寿太夫が殺されて、あっという間にもう二か月だ。早船さま、仇が知れましたぜ」
 団十郎には、いつも驚かされる。飛十郎は袖から手を抜き出して、無精髭をひとこすりした。
「なに、下手人がわかったのか。いったい誰だ」
 意を決したように、飛十郎はゆっくりと花道へ上がった。
「それが、意外なお人でしてね。まあ、こちらへおいでなすって」
 団十郎はそう言って、舞台中央に置いた緋毛氈敷きの縁台にほうへ歩き出した。
「けっきょく、すべて斎兵衛たちの早とちりで、今度の一件には富本節はいっさい関わりがありませんでしたよ」
 腰の筒から抜き出した、金拵えに銀象嵌の豪勢な煙管の雁首に莨をつめると、百目蝋燭で火をつけると団十郎はうまそうに煙りを吐き出した。
「ふうむ……。富本一派でないとすると、見当もつかんな」
 うながされるまま飛十郎も縁台に腰をおろすと、いぶかしげな顔で団十郎の次の言葉を待った。
「日本橋の室町に、京屋という老舗がございました。主人が代々丹兵衛と名のって、通称が京丹。有名な呉服屋でしたが、五年ほど前に越後屋さんと商いをめぐって熾烈に争ったあげく、敗れて夜逃げをいたしました」
「ふむ、すべては八郎右衛門を恨んでやったことだというのか」
「さようで」
 煙りの行方を目を細めて追いながら、団十郎は答えた。
「そいつは、げせんな。越後屋への商いの恨みならば、延寿太夫を殺す必要はあるまい」「ところが早船さま、この京丹が芸者泣かせの道楽者でしてな。延寿太夫に惚れた柳橋の芸者の国夢に横恋慕したあげく、手ひどく振られたものでございます」
「それならわかる。京丹という男は商いに負けた恨みで、八郎右衛門の娘お雪をかどわかし、恋に敗れた恨みで、延寿太夫を殺害したわけだな」
「まことに、とんでもない男でございます」
 灰吹きの竹筒に雁首を叩きつけると、団十郎はいまいましげに大向うのあたりを見上げた。
「それにしても、よく調べあげたものだな。岡っ引き顔負けではないか」
「は、ははは、調べたのは、その岡っ引きでございますよ。花川戸の藤次という親分ですが、これが先代からの成田屋びいきでして、骨見を惜しまず働いてくれました」
「だが、働いたのは藤次だけではあるまい」
 飛十郎は、ふところ手の指を胸元から出して無精髭をこすった。
「さすがは早船さま、読みが鋭どいですな。おかげさまで上は若年寄りさまから、下は町方の与力同心、魚河岸の顔役にいたるまで、喜んで協力してくれました」
「そうだろうな。まずはめでたい。だが、延寿太夫殺しは京屋丹兵衛ひとりの仕業であるまい。舟をあやつる者があと一人いるはずだ」
「お見通しでございますな。京丹が吉原で大尽遊びをしていたおり、柳橋から山谷堀まで猪牙舟の船頭をしていた勘助というのが、つるんでいるようでございます」
「やっぱりな。舟の上から橋の上の延寿太夫を刺したのだ。片手で艪をこぎ、片手で人を突き殺すことなぞ、いかな武芸の達人でもたやすく出来ることではないからな」
「では、最初から二人組の仕業だと、目星をつけておられましたか」
 筒に煙管を入れながら、団十郎は感心したように首を振った。
「そんなことより成田屋、そろそろ仇討の日どりと場所の目星がついてるだろう。いつ、どこで、やるつもりだ」


七 成田屋の睨み

「恐れ入りました。早船さまには、かくしごとは出来ませぬな」
 それまで微笑をたたえていた団十郎の顔が、ふいに厳しくなると手を打ち鳴らした。それが合図だったか、桃割れ髪に振り袖姿の少女が、おずおずとした足取りで縁台へ近寄ってきた。
「これが、清元延寿太夫の忘れがたみの、お糸でございます」
 お糸が着ている友禅染めの振り袖は、右に清水の舞台、左に白糸の滝の絵柄という珍しいものであった。
「三味線の糸から思いついて、延寿太夫がつけた名でございます。そうだな、お糸?」
 団十郎にうながされて、お糸は恥ずかしそうに、こくんと頷ずいた。
「そうか。なかなかいい名だ」
 そう言いながら、飛十郎は笑いをこらえるのに苦労していた。お糸が頷ずいたとたん、二重(ふたえ)の顎の肉が三重になったからだ。糸というより三味線の胴といったほうがふさわしい躰つきだったからだ。
「こちらが早船飛十郎さま。お糸の仇討の、助太刀人をつとめて下さるお方だ」
 袖口から見えているお糸の手は、武者人形の金太郎のように丸々としている。笑窪のできた豊満な頬を赤らめると、両手をきちんと揃えて飛十郎にむかって丁寧にお辞儀をした。
「女の身でございますが、父の仇を討ちとうございます。でも、どうしていいかわかりません」
「心配いらねえよ、お糸ちゃん。早船さまがついてりゃ、鬼に金棒だ。延寿太夫を殺した悪党はふたりだが、なあに旦那のおっしゃる通りにしていりゃあ、きっと仇は討ってくださるぜ」
 団十郎が励ますように言ったが、お糸が不安な顔をするのは無理はない。これまで三味線の撥(ばち)しか持ったことのない手に刃物を握り、大人ふたりの命を取らなくてはならないのだ。
「今度の弥生狂言には、義経千本桜を出すつもりです。菊五郎の、いがみの権太。てまえが狐忠信をやります。その弥生の頃(陰暦三月・現在の四月上旬)に、仇討をするつもりでございます」
 背景も大道具もない、がらんとした舞台を飛十郎は見廻した。
「満山桜で埋めつくされた吉野の景か……、さぞ綺麗だろうなあ。しかし成田屋、まさか和州の吉野山で仇討をするつもりではあるまいな」
「は、はは、あんな遠方で仇討もありますまい。山は山でも、お江戸のはずれ、桜の名所・王子の飛鳥山でございますよ」
「ほう、飛鳥山か。なにか、いわくがありそうだな」
 この肉付きのいい娘に、とどめを刺す稽古をするのは手こずりそうだな。お糸を見ながら飛十郎は思っていた。
「はい、立派ないわくがございます。京丹と勘助は用心をしているせいか、めったに顔を合わせませぬが、年に一度だけ昔の遊び仲間が寄り合って、どんちゃん騒ぎをするそうでございます」
「それが、飛鳥山の花見だというわけだな」
「はい。京屋が潰れて五年このかた、これだけは一度もかかさぬ丹兵衛の年中行事とのことで。浮き沈みの多い人気稼業のてまえには、なにやら身につまされてわかるような気がいたします」
 腕を組むと、しみじみとした目で団十郎は広い芝居小屋を見廻した。
「名門の御曹司に生まれ、なに一つ苦労もせず団十郎の名跡をついだおぬしに、浮き沈みなどあろうはずはあるまい」
 飛十郎の言葉を聞くと、団十郎は淋しそうに苦笑いをした。
「誰しもそうおっしゃるが、幸か不幸か市川宗家に生まれて、こいつばかりは棺桶の蓋がしまるまでわかるものではございませぬ。役者というものは外見(そとみ)は派手でも、内所は火の車。若い頃から女遊びは芸のこやし、とばかりに玄人と素人のくべつなく、ずいぶんひどいことをしてまいりました」
 百目蝋燭の炎のゆらぎに、団十郎は視線を当てた。
「うむ。おぬしが海老蔵の頃からの華やかな放蕩の噂は、おれもいろいろ耳にしている」「その罰が当たったのでしょう。女房の悋気と癇癪に苦しめられ、気だてのやさしさに引かれて妾にした女が思いがけなく気の荒い女でございました。この女ふたりの板ばさみにあって、毎日苦しんでおります」
「ふ、ふふ。まさに前門の虎に後門の狼といったところだな。自業自得だ、成田屋」
「まったく、独り身の早船さまがうらやましゅうございますよ。出来ることなら、気楽な独りの頃にもどりたいもので」
 真面目な顔で、団十郎は飛十郎を見た。
「馬鹿をいうな。独り身は、独りなりにいろいろと苦労があるぞ。おれこそおぬしの芝居を見て、いつもうらやましく思っていた。一度でいいから華やかな舞台の上で、大向こうから掛け声をかけられたら、どんなに楽しかろうとな」
「なるほど、人それぞれでございますな。誰しも、おのれの立ち場には満足しない、ということですかな」
「そうだ。駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人、というではないか。大江戸の飾り海老、江戸っ子の代表といわれるおぬしが、そう弱気では困るぞ」
「そうでございますな」
 飛十郎の励ます声に、気を取り直したように団十郎は、お糸を見た。
「これから親の仇を討つ、この娘のために吉例にちなみ、成田屋が一つ睨んでご覧にいれやしょう」
 団十郎は腰掛けに座ったまま三宝を持つ所作をすると、片袖をはずして口上の時しかしない〔睨み〕
を、お糸にむかってやって見せた。

               〈助太刀兵法37・夢泡雪狐仇討−4−につづく〉












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