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「ともにしらがの」 (無料公開)
[【時代小説発掘】]
2014年11月30日 12時7分の記事


【時代小説発掘】
「ともにしらがの」
山田 英樹



(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


梗概
 江戸時代初期の事。浪人・園部多門は、妻・さきが不治の病を患っている事を知る。思い悩んだ末、武士を捨てる道を選ぼうとするが、それに気付いたさきは怒り、離縁してくれと夫へ訴える。
 感情的になった話し合いはこじれるものの、共に相手を思いやった末の決断であり、理解しあった夫婦は残り少ない時間を精一杯大切にしようと誓う。


【プロフィール】:
 福島県会津若松市の生まれで、幼い頃から日本中を渡り歩く暮らしをして参りました。

 しばらくの間、シナリオの勉強に取り組みまして、挫折。
 皿洗い、引越しの手伝い、物置の設置等、様々なアルバイトを体験した後、五十を過ぎてから小説を書き始めて、今は自分の至らなさをひたすら見つめる毎日です。


これまでの作品:

女衒の流儀



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【時代小説発掘】
「ともにしらがの」
山田 英樹



 関ヶ原の戦いから二十五年が経過した寛永二年、後に回向院が建立される隅田川東岸、本所深川の界隈には見渡す限りの湿地帯が広がっていた。
 季節は晩秋、十月の初旬である。
 色あせた葦の原を寒風が吹き抜け、揺れる穂の乾いた音に混じって、木刀を振う男の荒い息遣いが聞こえた。
 齢四十六にして岩の如き体躯を保つ、この巨漢の名は園部 多門。
 元は近江の土豪・井草家に使え、槍足軽の物頭として関ヶ原にも参陣した剛の者で、繰り返す素振りの冴えに些かの衰えも感じられないが、
「未練じゃ」
 口の奥でそう呟き、何を思ったか、木刀をいきなり湿地の奥へ投げ捨てた。
 拳を握る横顔に苦渋の影が過るものの、辺りに軒を並べた掘立小屋の一つへ向う面持は清々しく、最早迷いは感じられない。
 戸を開くと、温めた味噌汁の湯気と香りが漂ってきた。
 粗末な小屋だが、江戸へ来てから五年余りの年月を過ごし、折々で手を入れている分、それなりに造りはしっかりしている。竈もちゃんと備わっており、その前で多門の妻が朝餉の支度をしていた。
「こら、さき……無理をするな。もう少し寝ておれ」
「ご心配なく。今朝は体の具合がとても良いのです」
 気遣う夫へ向き直り、さきは朗らかな笑みを浮かべた。
「前に申し上げました通り、私が幼き頃、叔母も同じ病を患い、養生のこつを見聞しております故」
 生来の丸顔は心持ち青白くこけているものの、まだ三十路の妻は若々しく、重い病魔を宿している様には見えない。
 確かに今朝の具合は良いらしく、野草だけが具の粗末な味噌汁へ美味そうに口をつける。
 膳の傍らには黄色い五弁の花が活けられていた。
「これはカタバミの花じゃな」
「昨日、取ってきて頂いた野草があまりに可憐で、捨てるのが不憫になりました」
「小さいが良い色じゃ」
「はい。眺める内、心根が明るうなる様でございましょう」
 多門は肯いたが、そう告げるさきの笑顔の方が、浪々の辛苦に耐える夫の心を如何に温め、照らしてくれたか知れない。
 夫婦になった時、さきはまだ十四。
 仕えていた井草家が豊臣方へ加担した咎により取り潰される前であった。
 磨いた武芸の腕前で仕官口などすぐ見つかると自惚れていたのに、故郷で七年、京で十余年、更に各地を流離い、江戸へ腰を据える今日まで、とんと成果は上がらない。
 そもそも戦国の世はとうに過ぎ、武芸など無用の長物と化しているのだ。
 仕官の道は夢のまた夢。
 なのに文句一つ言わずついてくる上、実に気が利く、よくできた妻だと思う。
 
 一月前、体調を崩して発熱し、近在に住む医師の診断を仰いだ際にも、さきはあくまで気丈だった。
「胸に性質の悪いしこりができております。未だ初期と存ずるが、不治の病にて、しこりは大きゅうなる一方。精々安静に致す他、手の施し様がございませぬ」
 そう告げられ、尚、取り乱さずに余命の幾ばくかを問うた妻の横顔を、多門は今も忘れられない。
「年を召した御方なら、しこりの育ちは遅うなる。五年、十年と生きながらえる事もございましょうが、生憎と御身はお若い」
「病の進みも早いのですね」
「左様、遠からず……おそらく二年と経たぬ内に」
「先生、もう少し、はっきり申して頂けませんか」
 愕然として言葉もない多門の傍らに座し、即座に問うさきに気圧されて、医師はたじろいだかに見えた。
「どうぞ、お教え下さい。私が、武士の妻として務めを果たせるのは、はたして残り幾年月か」
 明確な答えは返ってこない。
 病の有り様は人其々だから、確かな見込みなど立ち得ないと医師は言う。
 だが、さきはさきなりに、己の答えを見つけた様だ。
 医師が帰途についてから、床を立って多門の正面に正座し、まなじりを据えて言い放った。
「旦那様、私の目の黒い内、後添いを見つけて頂きます」
「……今は重々養生せねばならぬに、何故、そのような事を言い出す」
「私には時がございませぬ」
「されどのう、さき……医者が申せし通り、人それぞれの病なら、案外、養生次第でお前は長らえるやも」
「私は心配なのです」
「己の命の他、今更、何を案ずるか」
「あなた様は武芸の道には長じていても、五十路に近い今尚、世事に疎く、煩わしゅう感じた事を遠ざける癖をお持ちです」
「……俺の耳が痛い話を、随分とはっきり申すのう」
「では、私がいなくなったら、身の回りをどうなさいます。炊事や洗い物の一つも、あなた様は満足にできぬではありませんか」
 一気にまくしたてるさきの語勢は、日頃の温厚な物腰と別人の如き勢いだ。これ程の激しい心根を、妻がその内に秘めていたのは意外だった。
 尤も、芯の強さを隠し持つが故、長い浪々の日々に耐えられたのかもしれない。
「いずれ、あなた様がご仕官の本懐を遂げられた後、果たして御一人で生きていけるものか……武士として恥ずかしくない身だしなみを誰がお世話申し上げるか……。考え出すと、私、死んでも死にきれない心境でございます」
「ならば、仮に俺の後添いが見つかったとして、お前はどうするのだ」
「離縁して頂きます」
「……何を馬鹿な」
「いえ、あなた様の行く末に安堵できましたら、心残りはありません」
「理不尽じゃ。お前はそれで良いとして、俺の心残りは如何する」
「だから、お願い申し上げているのです。私のたっての望みは病み衰える姿では無く、健やかなさきをのみ、あなた様の胸に留め置く事なのです」
 深く思いつめた瞳で見つめられ、これ以上の口論は無益と多門は思った。
 元々、事の道理を捉え、成行きを見定める機転の速さは妻の取り柄の一つである。
 しかし、多門が内心「先読みのさき」と呼ぶ段取りの良さは、この時、少々先走りの域に達した。
 家計を助ける為、さきは長らく裁縫の内職をしていたのだが、その中で得た知己に片っ端から声を掛け、多門の後添い候補を探し始めたのだ。
 勢い込んであちこち訪ね、体調を崩して寝込んだ挙句、持ち直すと又、動きだす。
 その上、家事まで一人でこなそうとするから、心配した多門が「いい加減にせい」と一喝、夫婦仲に暗雲が漂った事もある。
 しかし、そこまでしても後添いの当ては見つからなかった。
 多門からすると当然の話だ。
 男に比べ女の数が極度に少ない江戸の町で、職も無く、老境へ迫りつつある浪人者に誰が嫁ぎたがるものか。当てがあると思うは、夫への贔屓目、いや贔屓の引き倒しと言うべきであろう。
 初めて後添えの件を妻が言い出した時、本心で納得できぬまま多門が口論を避けたのは、その辺を見透かしたが故である。
 賢いさきの盲点が少々微笑ましくもあったが、空回りした末、漸く料簡違いに気づいてくれた様だ。
 多門の先行きを語る事や知己への訪問をさきは控える様になった。
 きつく張り詰めた表情が緩み、近頃は体調の良い日に限り、夫婦の団欒を楽しむ余地さえ生じている。
 
 むしろ問題は日々の糧の方じゃなぁ。
 二杯目の味噌汁を呑み干し、底に残るカタバミの三つ葉を箸でつまんで、多門はしみじみと思った。
 高価な鶏の卵とは行かぬにせよ、せめて蜆のたんと入った汁位呑ませてやりたい。
 その為には、まず稼ぎだ。
 江戸へ来てから多門は、二日に一度、軽子と呼ばれる荷物運びの仕事を口入屋から貰い、主な生計の糧にしている。
 他日は己の流派と同じ鹿島流の看板を掲げた亀戸の道場へ通い、若者に稽古をつける傍ら、仕官の伝手を探していたのだが、
「本日は、御稽古の日でございますね。お気に入りの木刀はどうなさいました」
 出掛けにそう尋ねられ、咄嗟に言葉が出てこない。
 既に道場を正式に辞め、木刀もついさっき湿地へ投げ込んだばかりなのだが、どう妻へ打ち明ければ良いやら。
 仕官なんぞ諦めた。こだわり続けた剣の道も漸く捨てる覚悟が固まった。苦労ばかり掛けた妻に報い、共に病と闘うには他に道が無いと思う。
 でも、その妻が指摘した通り、武骨で口下手な多門には心根を伝える術が全く見えていない。
 取りあえず曖昧な返事でお茶を濁し、逃げる様に小屋を出た。
 隅田川の岸辺に沿って歩くと、近くの小屋の住人が親しげに声を掛けてくる。
 皆、多門と変わらぬ粗末な服を着、力仕事を口入屋から貰っている連中だ。上総や下野から来た出稼ぎ者ばかりで、すべからく多門より若い。荒々しい力の息吹を感じる。
 三代将軍家光が即位して、まだ僅か二年足らず。
 機能の上でも、規模においても、出来上がっていない江戸の街は、働き手としての彼らを大いに必要としていた。
 厳密に記載すべき人別帳の縛りを逃れ、このような湿地帯に掘立小屋の集落ができたのも、その様な意図からくるお上の目こぼしなのであろう。
 若い街に見合う、若い担い手達。
 俺のみ、時代の波から取り残されようとしておるわい。
 沈みがちな気持ちに喝を入れ、多門は口入屋へ向かう足を速めた。医者の費用にせよ、薬代にせよ、さきの命を保つのに金は幾らあっても足りない。
 腑抜けている場合ではないのだ。
 
 その日の夕刻、仕事帰りに業平橋へ寄った多門は、買った蜆を手桶へ入れ、小脇に抱えて帰途を急いだ。
 精のつく味噌汁を、早くさきに飲ませてやりたい。
 その一心で歩を進めるが、どうにも足は捗らない。肩やら、腰やら、踝やら、体のあちこちが軋んでいる。
 口入屋の勧めに応じ、割高の駄賃目当てに取り組んだ新たな仕事は、やはり並大抵のきつさではなかった。鍛えに鍛えた力自慢とは言え、やはり寄る年波、無理が利かなくなっている様だ。
 腰を押さえて立ち止まり、自嘲の笑みを浮かべた視線の先、鮮やかな夕焼け空をくの字の影が横切った。
「おぉ、初雁か」
 群を成して飛ぶ渡り鳥が隅田川へ飛来するのは、例年九月の半ばである。
 今年はやや遅い。
 でも、それは単にこの時まで、多門の目に留まらなかっただけかもしれない。
 何ともはや、迂闊な男じゃからのう、この俺という奴は。
 苦い笑みを消せぬまま、二つの故郷の間で長き旅を繰り返す鳥の動きへ見入り、多門はふと近江の里を思い出した。
 あの懐かしき山河の彩りを、妻に再び見せるのは所詮儚き夢なのであろうか、と。

「さき、今、帰ったぞ」
 意識して明るい声をだし、多門は小屋の戸を開けて中に入った。
「ほら、蜆じゃ。それも業平橋の上物よ。売り子にうまい味噌汁の作方も聞いてきたでのう、今宵は俺がこしらえて進ぜよう」
 おどけた素振りが似合わぬのは、己が一番良く知っている。
 でも、さりげなく仕官の断念を打ち明けるには、段取りが肝要だと思った。
 今朝の様子を見る限り、さきの具合は落ち着いていたし、夕餉の膳を囲み、共に和やかな気持ちになった所で心底を打ち明けるのが上策と思えたが、
「旦那様、その前にお尋ねしたき儀がございます」
 土間を上がった先、六畳程の板間でさきが正座していた。
「ご近所の方が昼頃に立ち寄り、これを届けてくれました。湿地に転がっているのを見つけたそうでございます」
 傍らに置いていた木刀を両手で掴み、夫の正面へ置き直す。
 多門は土間で立ち竦み、己の喉がごくりと唾を呑む音を聞いた。
「何故、この様な……お稽古へは欠かさず持って行かれる筈ですのに」
 窓から差し込む夕日で、木刀の所々にこびりついたままの泥が見える。几帳面なさきにはまずあり得ない事だから、多分、敢えて洗わぬままにしておいたのであろう。
「そ、それはだな」
「はい」
「今朝、素振りの途中にすっぽ抜け、探す間も無く、そのまま……」
「戯言はお止し下さいませ」
 動揺を抑え、上ずる声で何とかその場を取り繕おうとする多門の言い訳を、さきは一言で断ち切った。
「お尋ねしたき儀は他にもございます」
 心持ち顔を伏せ、表情は隠したままで、静かな声が却って怖い。火山の奥で滾る溶岩の熱を感じる。
「本日のお仕事は如何でしたか」
「いや、如何と言われても困る。いつも通りで何も変わらん」
「先程、あなた様と同じ口入屋を通じ、軽子をなさっている方が、一足先に帰って来られましてね」
 又、多門の喉が唾を呑む音を立てた。
「お尋ねした所、あなた様は本日より別の仕事についたと、と話してくれました」
「……そうか」
「私、あなた様ご自身の口から事実をお聞きしとう存じます」
 多門は深いため息をつき、蜆の桶を竈に置いて、板間へ上がった。
 さきの寝床の傍らに活けてあるカタバミの花は、もう枯れていて、黄色い花弁が萎んでいる。
 朝の和やかさが遠い過去に思え、多門は意を決して、妻の対面に腰を下ろした。
「深川の、岸辺にな」
「はい」
「江戸中のごみを集め、埋め立てて新たな土地となす試みがある」
「存じております。ごみが土に慣れるまで、随分ひどい匂いを出すとか」
「大八車は届を出せねば使えないのが江戸の御定法である故、必要な数が中々揃わぬ。集めた近在のごみは荷にまとめ、埋め立て場まで人が担いで運ばねばならぬ」
「わざわざ、ごみなどを担ぐのでございますか」
「おう、山の程な」
 怪訝そうに顔を上げたさきの、しかめた眉が見えた。
 如何にも下賤な生業に思えているのだろうが、ここまで来たら、最後まで言い切るより他に無い。
「きつい汚れ仕事の上、今の江戸は働き手の引く手数多で、やりたがる者は僅かじゃ。その分、日払いの給金は、ぐんと良うなる仕組みでな」
「……あなた様、まさか」
「ははっ、左様。ひがな一日、ごみに塗れて参ったわい」
 笑い飛ばそうとしたのは、切羽詰まった多門の苦肉の策である。しかし、その口元が強張り、血の気が引くまで瞬く間しかない。
 狙いは裏目に出た様だ。
 しかめた眉が一層吊り上り、滅多に見られぬ妻の、鬼の形相がそこにある。
「笑い事ではございませぬ」
「おい、さき、落ち着け。そう目くじら立てずとも」
「曲がりなりにも武士たるもの、下賤のごみを扱うとは、ご先祖様に恥ずかしゅうございませんか」
「背に腹は代えられぬ」
「今は無き義母様に、私、どうお詫びしたら良いものか」
「お前のせいではない」
「されど、情けのうございます。我が夫は誰より誇り高き御方と、ずっと思っておりましたのに」
「あぁ、鬱陶しいのう。やむを得ぬであろうが、我ら夫婦が共に生きる為」
 押し問答を繰り返す内、気が付くと多門も声を荒げている。
 本気の夫婦喧嘩など何年振りだろう。
 故郷を離れて以来かもしれない。日頃は争いとなる前に、さきが一歩引き、夫を立ててくれていたのだ。
 
 あぁ、いかん。確かに黙って事を進めたのは、まずかったわい。
 素直に謝らんか、園部 多門。
 いい年してお主、何時まで女房殿に甘えおるつもりじゃ。
 
 内心大いに焦り、言い争いの引け際を探る内、宙でぶつかる眼差しを、この時も妻が先に逸らした。
「詰まる所、私が理由でございますか」
 呟く声に力が無い。
 まるで張り詰めた糸が切れたかの如き、虚ろな響きが感じられる。
「あなた様が下賤に身を落とし、仕官の望みはおろか、剣の道さえお捨てになろうとしているのは、一重に私、この身の病を慮ったが故なのですね」
「いや、それは……」
「今すぐ離縁して下さいませ」
 一旦逸らした妻の眼差しが、一層強く多門を貫く。
「さもなくば、この場でご成敗を」
「お、俺にお前を斬れと」
「はい」
「できる訳なかろう」
「ならば離縁を」
「おい、そんなに俺と別れたいのか」
「武士であるあなた様に嫁ぎ、武家の妻としてあるべき道のみ追い求めて、今日までお仕えして参りました。その全てを捨てると仰せなら、最早、夫でも妻でもあり得ぬ」
 さきの言葉は淡々としていた。
 表情にも怒りは伺えない。と言うより、如何なる感情も浮かんでおらず、心の熱が感じられない。
 多門には、今、目の前にいる女の気持ちがわからなくなっていた。
 糟糠の妻どころか、初めて会った赤の他人に思えてならない。
 絞り出した問いは呻きに似ていた。
「……つまり、武士でない俺など、共に暮らすに値しないと」
「だって、あなたには、他に何も無いではありませんか」
 その時、さきが浮かべた笑みも又、多門が初めて見るものである。
 唇を歪めた冷笑だ。
「良かろう。その首、差し出せぃ」
 激発した怒りに任せ、鞘走った剣がさきの首筋に食い込む。
 しかし、血が迸る事は無い。
 はっとしたさきが見上げる先、夫の握りしめる竹の刀身があった。
「それは、まさか……」
「竹光じゃ。勢いで抜いてはみたが、どうと言う事も無い。とうに俺は侍の魂を金に換えておったのよ」
「何時、でございますか」
 多門は気持ちを静め、沈黙を守った。
 刀を売り払ったのは一月前、妻が倒れた際に医師へ支払う為だったが、何を告げても言い訳にしか聞こえまい。
 しばし竹光を見つめ、さきはふらりと立ち上がって、小屋の外へ出て行った。
 すぐ、その後は追わない。
 夕べの寒風にさらされる妻の体が気がかりだったが、今は掛ける言葉が見つからず、互いに気持ちを整える時が必要だと思った。

 およそ四半時が過ぎてから多門が小屋を出ると、群生する葦の穂の間に、立ち尽すさきが見えた。
 相変わらず虚ろな瞳を、暮色深まる空へ向けている。
 その後ろ姿があまりに儚げで、多門は出会った頃の、十四のさきを思い出した。
 
 真ん丸な顔をし、勝気の癖に人見知り。
 ふふっ、あやつ、見合いの席ではまともに俺の顔を見れなんだのう。
 
 そう、思えば無理もない話なのだ。
 年端のゆかぬまま夫婦になり、その後は慌しく諸国を巡る羽目に陥る。
 武家の妻という教えられた処世の枠組みを守り、ひたすら日々の拠り所としてきたのであろう。その枠を壊そうとしたなら、己を見失うのも道理。
 小さく頷き、多門はさきの背にそっと歩み寄って同じ黄昏を見上げてみた。
 赤みが失せ、暮れなずむ空を、ゆっくりとくの字の影が過ぎていく。
 渡り鳥を目で追う妻が、徐々に穏やかな表情を取り戻し、懐かしげな微笑みさえ浮かべるのに多門は気付いた。
「なぁ、すまなんだ、さき」
 夫の声に振り向いたさきは、驚きに少し頬を赤らめている。
「お前に隠したは俺の過ちじゃ。先に相談した上、事を進めるべきであった」
「いえ、私の方こそ、先程はどうかしておりました」
「雁を見ていたのか」
「はい、何やら近江の夕暮れが思い出され、あなた様にも見せて差し上げたいと、思っていた所でございます」
 多門は、ふっと笑った。
 見失いかけた妻の心が自分と同じ景色へ魅入り、同じ感慨を抱いた偶然に不思議な喜びを感じていた。遠くて近き、とは良く言ったものだと思う。
「どうなさいました」
「いや」
「おかしいですわね、自分から離縁を申し出ておきながら、私……」
 笑い返そうとしてさきは俯き、夫から目を逸らした。
 だが、再び向けられた背中に、先程の如く多門を強く拒む意志は感じられない。
 代わりに震えている。
 何かにひどく怯え、為す術も無く一人で途方に暮れている。
「さき、何を恐れておる」
 躊躇いが、乱れる妻の息遣いに現れた。
「教えてくれ。何がそんなにお前の心を乱しておるのだ」
 答えを待つ僅かな間にも暮色は深まり、足元に闇の領域を広げつつある。
「叔母が私と同じ病だった事、前にお話し致しましたね」
「ああ」
「旦那様も優しい方で、二人して養生に努められたのですが、最後はやはり……」
 又、口ごもり、さきが奥歯を強く噛み締めた。
「ひどかったのか」
「激しい痛みが続き、薬も効かなくなりました。そして遂に耐えきれず、叔母は旦那様に死を願ったのです」
 事の詳細は語らなかったが、多門の脳裏に自ずと浮かんだ。目の前で苦しむ妻の頼みを断れる筈など無い。
 斬ったのだろう、一思いに。
「間も無く旦那様も亡くなりましたが、食事を取らず、眠れず、魂が抜けて落ち窪んだ目を、私は良く覚えております」
「俺に離縁をせがみ、離れようとした理由はそれか」
「あなた様に同じ思いをさせとうない」
 さきの秘め続けた本音が弾け、叫びとなって迸った。
「でも、あなた様の傍で、最後まで耐え抜く自信も無いのです。きっと負けてしまう、あの叔母の様に」
 多門に向けたままの背中が一層強く震え、微かな嗚咽の声が漏れた。
「怖い……怖いのです」
 その背を両手で包み込み、抱きしめる事しか多門にはできなかった。
 語る言葉が何になろう。
 明日と言う日は濃い暗雲に閉ざされ、確かな約束など何一つありはしない。
 多門も怖かった。
 もし、さきを手に掛ける日がくれば、同時に己の心も砕け散るであろう。
 でも、だからこそ二人でいたいと思う。
 武士でもなく、その妻でもなく、ありのままの俺とお前で身を寄せ合える今のみ、愛おしむ日々を重ねたい。
 たとえ、ともに白髪になり果てる日へ決して辿り着けないとしても。

 互いに動かず、温もりを確かめ合う一時がどれ程に続いた事か。
 夕日が山の端へ没しきる間際、多門とさきは掘立小屋を目指して歩き出した。
「あの、旦那様」
「何だ」
「確か、業平橋の蜆を手に入れたとおっしゃいましたね」
「おう、滅多にない上物ぞ」
 すっかり落ち着きを取り戻した様子で、さきが弾んだ声を上げる。
「折角のお味噌汁、彩りをもう一つ増やしませんか」
 上目遣いの眼差しが悪戯っぽく輝き、伸ばした右手の人差し指が、葦の間のカタバミを指す。
 幼女の如き、あどけない笑み。
 これも多門には見慣れない顔だ。二十五年を共に過ごし、まだまだ俺はコイツを知らぬな、と思う。
 別れの日まで後どれ位、未だ見知らぬ妻の顔と出会う事が叶うのだろう。
 多門は思案顔で立ち止まり、さきの指す野草を見下ろした。
「そうさな、摘んで参るか」
 さきは嬉しそうに肯き、多門と並んで膝を折った。
 二人が見つめる先、黄色い五弁の花がまだ淡い月明かりに照らされ、そよ吹く風に揺れていた。 








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10/26 08:49 「本日のマーケット」(FX編)・・・今週は日米の金融政策イベントに注意。
10/26 08:40 「本日のマーケット」(株式編)・・・ 続伸後に日経平均株価が1万9000円台を回復。
10/21 08:39 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円ちょうどの壁を意識。
10/21 08:25 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、方向感の出づらい展開。
10/19 08:33 「本日のマーケット」(FX編)・・・午前11時に発表される中国の一連の経済指標に注目
10/19 08:23 「本日のマーケット」(株式編)・・・午前11時、中国経済の指標しだい。
10/14 08:48 「本日のマーケット」(FX編)・・・昨日に続き中国の経済指標。米9月小売売上高。
10/14 08:31 「本日のマーケット」(株式編)・・・前日の動きが継続し軟調な展開。
10/13 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円大台を中心に方向感に欠ける動きが当面続きそう
10/13 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・5日線(前週末9日時点で1万8218円)が下値を支え
10/05 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京タイムではドル円やクロス円は押し目買いが優勢
10/05 08:34 「本日のマーケット」(株式編)・・・続伸後、日経平均株価が1万8000円に迫る。
10/04 12:07 江戸浅草物語13「天海僧正の結界が破られる時、魔界の者たちの進撃が始まるのか」 (無料公開)
10/02 08:44 「本日のマーケット」(FX編)・・・米雇用統計を控えた様子見姿勢
10/02 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・週末要因や米雇用統計を前にポジション調整
10/01 08:47 「本日のマーケット」(FX編)・・・9月日銀短観、9月中国製造業購買担当者景気指数(PMI)などが材料。
10/01 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・欧米株式の上昇を受けて買いが先行後、もみ合い。
09/30 08:52 「本日のマーケット」(FX編)・・・日中は119円後半のもみあい
09/30 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・反発後、上値が重い展開。
09/29 08:55 「本日のマーケット」(FX編)・・・株安・円高パターンの継続はドル高圧力を後退
09/29 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落後に落ち着きどころを探る展開。
09/28 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京時間のドル/円は120円半ばを中心にもみあい。
09/28 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、もみ合い。
09/25 08:53 「本日のマーケット」(FX編)・・・・朝方、イエレン米連邦準備理事会(FRB)議長が年内利上げが適切との見方を
09/25 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・引き続き弱含みで推移。直近の安値1万7415円61銭を意識。
09/24 08:37 「本日のマーケット」(FX編)・・・・連休明けの東京時間のドル/円は120円前半を中心にもみ合う展開。
09/24 08:26 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落スタート。連休中にNYダウが軟調に推移。
09/20 10:55 〈助太刀兵法45〉北斎蛸踊り(7)(無料公開)
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