第四部 5話【ハラベエ プロの門を叩く?】 | |
[ハラベエさんの犬星☆猫星(第四部)] | |
2013年5月13日 22時15分の記事 | |
ハラベエさんの犬星☆猫星 =BEEとハラベエの愛の物語= 作・原 兵 衛 第四部連載開始! 第四部 5話【ハラベエ プロの門を叩く?】 UPしましたー見てね(。・ ω<)ゞ♪ ☆今回のお知らせイラストは 【シュナウザー】ですみてねー(´∀`)ノ
☆【第0部】 【1P】 ☆【第一部】 【1P】【2P】【3P】【4P】【5P】【6P】【7P】【8P】【9P】【10P】【11P】【12P】 ☆【第二部】 【1P】【2P】【3P】【4P】【5P】【6P】【7P】【8P】【9P】【10P】【11P】【12P】【13P】 ☆【第三部】 【1P】【2P】【3P】【4P】【5P】【6P】【7P】【8P】【9P】【10P】【11P】 【12P】 ハラベエさんの犬星☆猫星 =BEEとハラベエの愛の物語= 作・原 兵 衛 第四部 5話【ハラベエ プロの門を叩く?】 チビクロとの出逢いが、ゆくりなくも、ハラベエさんに過ぎ来し方を忍ぶ機会を与えてくれました。 普段は遠い記憶の霞のかなたに忘れ去られている、様々な想い出も、掘り起こしていくと、ひとつひとつが臨場感を伴って去来、涙を誘い、大笑いを爆発させてくれます。 それが結構半世紀も過ぎた、古い想い出が多いのです。 そうそう楽しいことばかりではないはずですが、いやなことは消し去ろうという意志が働いているのでしょう、大体は楽しい場面の連続で、登場するのは、もう既にこの世の人ではない、先輩の面々です。 迎えに来てるのかな……と思うほど、頻繁に夢枕にも立たれますが……まだこの世に未練がありますので、今暫しご猶予をとお願いしている次第であります。 そんな先輩の面々が、皆さんから忘れ去られる前に、あれこれ語ることによって、願いを聴き届けて頂けるのじゃないかというさもしい下心で、ハラベエ版の、芸能裏面史など、ものしたいと思います。 故人が専らとなりますが、まだご存命で活躍中の方も、成り行き次第で登場して頂く場合もありますので、記憶力減退による間違いや、調査などにあまり努力をしないノラな性格を、あらかじめご容赦の程お願いしておきます。 せめて、初めに自分自身を肴にして、恥部をさらけ出し、御寛恕いただくため、ハラベエさん自身の歴史から紐解くことに致します。 高校演劇に始まるアマチュアのハラベエさんが、プロの門を叩いたのは昭和三十年代半ばの頃。 これを、ハラベエさん流に解説を加えると……売春禁止法で、赤戦の灯が消えた、昭和三十三年三月三十一日の二年後です。 当時ハラベエさんは大学の五年、五年間の授業料は、親の仕送りで滞りなく納入していましたが、肝心の講義には一切出ず、取得単位はゼロでした。 負け惜しみをいう訳ではありませんが、三回授業に出ただけで、以後行こうとしなかったのは、知名度の高い教授・講師の講義に失望したからです。 高校演劇にしては結構高い水準にあった、秋田県立秋田南高等学校……現在は秋田高校と改称して秋田市手形に校舎があるが、ハラベエさん在学中は、国鉄の秋田駅前にありました。 市内の中学校から合格した五人に名を連ねたハラベエさんは、入学早々、最初に誘われた部員募集に応じて、演劇部の一員となりました。 さほどの理由はない。 あえて云うとすれば、国民学校の低学年の頃から、担任の教師が自分の抱えた雑事を消化するため、自習時間にする際、ハラベエさんに、童話、神話、講談本、冒険小説などの朗読を命じました。 ハラベエさん、教師の期待に応え、同級生たちは、正規の授業よりむしろ自習時間を待ち望むようになりました。 恰も、紙芝居のおじさんをクラスで丸抱えしているようなもので、授業から解放される歓びも手伝って、ハラベエさんの朗読は、大歓迎だったのです。 クラス全体がファンクラブみたいなもので、ハラベエさんの自尊心は大いに擽られました。 人前で何かを演じ、それを支持してくれるクラスメートに囲まれていた中学生の頃、自ずから進路は決まっていたようなもので、演劇部の勧誘にあっさり乗って入部し、翌日には一年生ながら部員として、勧誘活動に没頭していました。 その甲斐あって、日を追って部員は増えましたが、長続きしたものは少なく、一学期を終える頃には大半がやめました。 三年間行を共にしたのは数名でした。 秋田県の北部の大館にあった佐竹藩の支藩、大館藩の惣領サタケクン……彼 は、青山学院を出て、エレベーター関係の会社に就職。 ふっくらとした、女性に見まがわしい美少年ミウラクンは、弘前医大を出て、医者になったという、さだめし女性患者や看護師の憧れの的だったろう。 その他、千葉大学を卒業して、会計監査院の役人になった男。 台詞の終わりに「なーんてな」とてれ隠しの一言がついてしまうテレ屋さん、演技者として起用されず、与えられた裏方の仕事楽しそうにコナしていた。 中学が同じで、腰巾着だったワタナベは、高校でも、ハラベエさんの傍を離れようとはしなかった。 その他、数名は居た筈だが、ハラベエさんのこのところ急速に衰え始めた記憶の網になかなかかかってくれない。 まして、一生を通じて演劇界、となると、ハラベエさんの他には一人だけ、それも高校時代は演劇には無縁の部に属し、早稲田で演劇科に学び、卒業後は、東宝現代劇の主要メンバーとして大活躍のM山君のみです。 その他の部員は二年が主で、三年生は、一見先生と見間違えられそうなおじさん顔の人で、部活に情熱を傾けそうに見えません。 部活の中心は二年生がなっていました。 クマさんこと、熊谷さん……満州からの引き揚げ者で、境遇が似ているところから、ハラベエさんを特に可愛がり、後日、法政大学に学びましたがその四年間は、八畳と四畳の部屋を借りて、もう一人の二年生千葉さんと三人で、共同生活をした仲です。 早稲田に学び、故郷のちいさな中学校の英語の教師になった佐々木さん。 名前は何だっけ……親の後を継いだペンキやさん、確か立教だったな。 県内随一の進学校とあって、殆どの生徒が進学だが、地元の有名企業への就職組の一人が、演劇部に居たのですが、云うこと為すこと気障の塊で、中庭のテニスコートで休み時間にプレーするときなど、教室の窓から覗く多くの視線を意識して、殊更に優雅な(自分はそう思っている)所作を展開するのです。 打ったボールの行くへも、返球の有無もおかまいなしに、ひたすら打つ姿撃ち終わってのポーズに心砕いている様子、おかまっぽい姿に辟易し、同じ演劇部員であることを恥ずかしいとさえ思ったものです。 もう一人変わり種は,「駅前のようちゃん」、それだけで郵便物が届くから付けられた呼び名ですが、彼が有名人だったからではなく、ただ単に彼の家が駅前の郵便局だったに過ぎません。 このようちゃん、素行が頗る悪く停学処分になったのか、自ら希望したことなのか、諸説ありましたが、東京の日大二高に転校していきました。 素行云々はおいといて、よくあることで部員仲間には、チョイ悪なところがうけて、人気者でしたし、彼も古い仲間が恋しいのか、ちょいちょい帰省して、東京での生活を面白おかしく披瀝したり、 「♪ れがな れがなて ちたかわの (流れ流れて 立川の) びせろがたすは ぱなんもで (背広姿は 軟派でも) ろここにゃこうはの がちかよう (心にゃ硬派の 血が通う) いらおしょうにの れぐんいた (おいら二商の 愚連隊) ああびさしい がわろここ (ああさびしい 我が心) 」 と、不良仲間で流行っていた替え歌を歌ってくれたものでした。 東京志向の元同級生たちや後輩たちは、それぞれの思いを胸に「駅前のようちゃん」の歌声に聴き惚れ、自然に唱和していました。 ハラベエさんは、二年になると、先輩連中を差し置いて、主演・演出を手がけるようになり、成果を上げました。 関東(江の島)・南九州・東北と転々としたおかげで難解な方言にも通じ、基本は関東、まして父は秋田、母は宮崎の出身ながら、片や製薬会社のプロパー、一方は看護師と人付き合いの多い職業柄、訛りを克服し日常会話は標準語だったので、幼いながらもハラベエさん、標準語が身に付いて居ました。 かてて加えて、朗読です。 未熟でしたが、ハラベエさん、標準語と方言の、使い分けに力を注いだのです……母に教えを請いながら。 ノラの割には一点集中で努力するハラベエさんでしたが、クラス内で特別扱いされる、心地よい居場所を確保しようとする思いだったようです。 とかく白い目線に曝されがちな、転校生の自己防衛策でもありましたが、秋田の中学でも効果があったようです。 ハラベエさんの周囲には、クラスでも成績上位の級友が集まり始めました。 ハラベエさん自身、成績優秀でしたが……十で神童、十五で才子、はたち過ぎればただの人……と、右肩下がりの人生に於いては、まあまあ絶頂期にあったのでしょう、通信簿の5段階評価は、5で埋まっていました。 それには口惜しさがつきまといます。 転校してきた二年生の秋の二学期から卒業間で、5の数が終始三位に終わったことでした。 一位と二位は不動で、二位は野球部の捕手で、後には当然のように主将になった、ガリ勉タイプの男子、ハラベエさんとは全く異なる努力型で、クラスが同じだったことはなく、彼なりにの王国を形成していたようです。 二位は同じクラスのI田朝子さん、ややえらがはっているが、理知的な美人でした。 この二人を抜くことはできませんでしたが、己の勉強不足努力不十分は棚に上げて、余所者に安易にトップをとらせる訳に行かぬといった思惑がからんでいるのではないかと、僻んだこともありました。 曲がりなりにも、演劇部の主軸として活動するハラベエさん、一方ではアメリカ音楽、ジャズの世界にのめり込んでいきました。 深夜の秋田城趾、毎晩のように口三味線ならぬ口ラッパで練り歩き、演劇について侃々諤々、議論を交わしたものです。 クマサン、千葉さんなどの演劇部員が常連でしたが、中に独り文芸部員が混ざっていました。 そのM井さん、北海道大学に学び、卒業後某テレビ入社、一度だけ担当の番組に出演させてもらいました。 当時大人気だった、子役時代の松島トモ子主演のラジオドラマ『ペスよ、尾をふれ』詳しくはこちら→wikipediaでしたが、ご縁はこれきり、その後お会いはしていませんが、ハラベエさんの青春を彩る大事な人物です。 さて次回は、ハラベエさんの古き良き昔を、暫し彷徨ってみることに致します。 ランキング参加中 ポチっとお願いします〜(*´д`*)ノ くる天 人気ブログランキング フルーツメール | |
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