自分の内宇宙と外宇宙、ボーダーラインは皮膚 | |
[内宇宙の信仰心(無宗教)] | |
2018年2月21日 19時30分の記事 | |
![]() |
|
この世は幻だと言う表現があります。 確かにこの感じるリアリティのアナログ世界も、現実と呼ぶひとつの幻覚とも言えるのでしょうが。 実際では感じている自分の内部から自分の外を見ていること。 宗教世界が好きな神様が好きな人は、得てして既にある旧知の神を崇拝したがります。 ですがこの物質世界に生きて、精神世界を信じているのに何故。 目に見えるように耳で聴こえるように祈りと信仰のジェスチャーを繰り返すのでしょうか。 昔の自動車免許学校では、教習生に指差し確認、指と声で安全を確認させていました。 でも私が普通車免許を所得した時点(1992年)では廃止していました。 普通の運転通りに、首振りと目線で安全を確認させます。 これは運転を誰が見ていたかが(指導員です)採点のポイントとしてでしたが、本来は運転者である本人だけが理解していればいい話です。 この法則を宗教家の信徒に適用できるのです。 神様が見ている御膳であるから敬虔な信者を演じているつもりであっても。 本当の神様ならば、その人物の全てはお見通しの筈です。 だったら、見た目でも耳でも分かり易くアウトプット(外部出力)する必要はありません。 もしも誰かが決めて名づけた神を信じるのであれば。 産まれた時から自分を見守って下さる自分の内宇宙の防衛神を信じないで。外宇宙、他人が敬えと命令する、無償では守って下さらない神様をいくら崇拝しても、 「もっとお布施(金)を納めなさい、祭壇に尊い犠牲(生け贄)を捧げなさい」 これはその神様の欲望ではないですか? 神と違い悪魔は欲望のカタマリです。 本当の真実は、悪魔が神の仮面を被り、人間を騙しているのですが。 自分の中ににおられる自分を見守って下さる神を信じずに、誰かが作った宗教を信じるから悪魔が近づいてくるのです。 宗教と呼ばれるイデオロギーは、いくら祈りを捧げていても。困難や恐怖に遭遇すると、不安ですがりつきたい気持ちになります。 反対に自分の心と同化している内宇宙の神様を信じて友人や恋人のような感覚で生きていれば。 何も怖くはないことに気がつきます。 この宇宙で生きているのは自分自信である。宗教施設でも学校でも会社でもない。 誰かの教えや格言・名言でもなく、ありのままの自分を信じる勇気は強さそのものだ。 はみだしたって外れていたって、自分をしっかりと持っている個性人はやっぱり輝いていますよね。 この地球で自由に生きようとすれば、幾つもの試練が襲いかかります。 でもそれで良いのですよ。ネガティブもポジティブも両方が必要な相互作用をしますから。 ただプラス思考なだけでは、人としての成長は余り期待出来ない。 ポジティブな思考だけを選んで生きていては、人生の峠を越えることが出来ません。 根性を否定しては仕事が出来ないのと同じ話です。
| |
このブログへのチップ 0pts. [チップとは] [このブログのチップを見る] [チップをあげる] |
このブログの評価 評価はまだありません。 [このブログの評価を見る] [この記事を評価する] |
◆この記事へのコメント | |
コメントはありません。 | |
◆この記事へのトラックバック | |
トラックバックはありません。 トラックバックURL http://kuruten.jp/blog/tb/pekepeke/403214 |