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くる天
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プロメテウスの禁じられた火
[”民主主義はタダでは手に入らない!”政治・経済・デタラメディア]
2012年3月11日 19時15分の記事

再び3月11日が巡ってきた。

暦という形式上はともかく、歳時記における最大の”節”であるはずの正月ですらが、もはや心理的には霞んで「節目」となりえないほど昨年の3月11日の衝撃は激烈だった。
それまで浴していた日常と常識は、あの日を境に根底から覆り、あるいはまた、瓦解した。

大震災発災当初、津波と地震による被害がどれ程甚大であろうと、時間の経過とは必ずしも正比例しえない心理的な傷痕を別にすれば、相応の時間は有するにせよ、それらを立て直すことは可能だと私は思っていた。やらなければならないことが目の前にはっきりと提示されている局面においてこそ、日本という国は結束し、底力を発揮する--------------------------そう、津波と地震、それのみであったならば。

原発事故という災禍がそこに加わったことによって様相は一変してしまった。

核のもたらす災害は、通常の災害と様々な面で性質を異にするが、最大の違いはその事故後に描く収束曲線特性と生命の連鎖に遺伝子レベルに及んで脅威するという影響深度の深刻さだろう。

まず前者の収束曲線は、時間tを横x軸に取り、災害のもたらす影響を縦y軸に取ったグラフにおいて、核以外のどのような大災害・大事故であっても、換言すれば、上記グラフにおいて、曲線の傾きが発災当初どれほど垂直に近い傾きを持っていたとしても、x軸の正方向への移動、つまり時間の経過とともに曲線の傾きdy/dtはゼロになり、曲線はピークを打って下降に転じるのが通常であるが、核のもたらす災害はこれらとは全く異なる事後曲線を持つ。
時間の経過という環境要因による単純な収束が期待できず、したがってその曲線はピークを持たず、時にはタンジェントカーブに写像されるような無限大に正方向に伸び続ける曲線をも内在するのが核災害の持つ事後曲線ではないのか。
核によって引き起こされる災害は、人間による収束が極めて難しく、また、収束に向かうとしても他の災害と比較にならないほど長いタイムスパンを要するからである。
そうなってしまう理由は言うまでもなく、一つには基本的には人間が主体となってその収束に関与することが極めて難しいこと、もうひとつには放射性物質が自らその影響を減じてゆくには極めて長い時間を要することが挙げられる。
そばに近寄ることすらままならない物質を人間の手で短期収束させられるはずもなく、人間に出来る最善は、ただひたすら遠くに逃げ、瘧のような放射性物質がその放射性を放棄するのをひたすら待つよりほかにない。
他の災害とは異なり、一旦檻から出てしまった放射性物質に対して、人間は常に受身の対応を強いられるのであり、能動とはなりえない。つまり、人間の都合にそぐうように主体的にコントロールができないということである。

少し本論の主旨からはずれ蛇足になるが、四国新聞をはじめとする自称メディアその他は、大震災以降の自らの非理性的で無思考な報道をいささかも省みることなく都合よく棚に放り投げて、未だ事故調や米政府の言を借りて政府対応の非をあげつらうに余念がないが、確かに情報管理の部分に不手際があったことは否めないにせよ、核災害における事後対応は、どれほど人間が死に物狂いで適正処置に務めようと、基本的に「後手」であり、「失敗」であり、「場当たり」にならざるを得ない部分を持ち、その意味からいえば、最も糾弾せらるるべきは周到を全く欠いていた前政権自民や東電という事故破綻前の当事者の対応であり、またそれを見切れない自称メディアにあるべきだと私は思う。
彼ら自称メディア及びこれに付和雷同する人々というのは、とにかく人間が本気で根性を出しさえすれば一点の瑕疵もなくこのシビアアクシデントが収束できたはずであるという荒唐無稽を本気で信じている狂気に取り付かれている人々であって、核災害の本質を理解できているとはとても言えない。また、そう言ったロジックを欠く論調が、日本における議論をここまで腐らせたことをあわせ考えれば、これらの人々が世論を先導するという構図は事故そのものと同様、おぞましく薄ら寒いものであると言わざるを得ない。

誰がどう対応しようと一旦パンドラの箱から出てしまった放射性物質を元通りに収めることなど、生身の身体を持つ人間には不可能である。
かくして、核の事後曲線は、何らかの理由で平行や減衰に転じれば御の字、たいていの場合、音もなく色もなく匂いもないまま、正方向の傾きを転ずることなく、その曲線は無限大に拡散していくことになる。

次に核災害の持つもうひとつの脅威として既に周知ではあるが、その被害が遺伝子レベルに及ぶ点を挙げなければならない。
核には、”解毒剤”あるいは”特効薬”はなく、”生分解”もない。
核種によっては超長期に渡り消失せず、そして強制的に消失させる手段を人間は未だ持たない。半減期を短縮する方法も放射能の影響を免れる手段も人間は持っていないのだ。ただ、手をこまねいて見ていることしか人間にはできない。
除染は根本的な解決どころか、放射能を単にA地点からB地点へ移動させるだけのものであって、拡散に一役買ってしまう意味からは有害ですらある。

であれば、こういった特性を有する核災害を防ぐために人間がすべきこと・できることは何か。

更なる防護策を講じることか。人間に代わるロボットを開発することか。あるいは多重のバックアップや制御網を積み上げることか。

いずれも核の持つ根本的な問題点の解としては非現実的であり不完全であると私は考える。

高線量下でロボットに人間に代わる働きを期待することは今の科学水準ではとても覚束ない。
そして、原発というシステムが一旦アウトすれば誰も手がつけられず、そしてシステムアウトの可能性は決してゼロにはならないからである。

人間に出来る最善の選択はすなわち、核には手を出さないことである。

考えてみれば、他の動植物と同じく肉体という制約を持つ人間が、半分しか扱い方を知らない、こんな神の火ともいうべき核を弄ぶこと自体が狂気の沙汰であった。

これだけ放射能が撒き散らされ、福島第一がまだ喉元にあってなお、再稼動をためらう姿勢を脱原発に阿るポピュリズムと言って憚らない人々が存在するが、脱原発が大衆迎合というなら、原発肯定は大企業や電力会社といった、それによって利益享受する利権迎合であり、効率迎合、拝金迎合に他ならない。多数が必ずしも真とは言えないが、原発推進派が計らずも”大衆迎合”という言葉を用いてしまうように、脱原発は個人単位で見た時に趨勢であるにもかかわらず、これら少数の人々はあたかもそれが絶対命題であるかの如く、原発稼動を謳う。
そこまで効率に侵された思考をまず自覚し、正していくところから我々は始めなければならないのであるが、ともすれば安きに流れ快楽や効率に傾きがちな人間がそのプロセスを正しく踏襲するには禁煙や節食の比ではない想像を絶する忍耐と自律と思考とを要するだろう。
事は大量生産・大量消費、あるいはグローバリズムを至上とする資本主義経済活動の在り方にまで踏み込まなければならないだろうし、そこを回避しての議論はこの国で蔓延している単なる皮相な議論のための議論、きれい事に過ぎない。グローバリズムで勝ち残るのはごく一握りの大国・強国、のそのまた中のごくわずかの利権集団だけである。

あるいはまた。

昨夏から続く供給余力ギリギリの電力供給を自称メディアは口を揃えて「異常事態」と騒ぎ立てるが、異常だったのは、望めば電気他のエネルギーを好きなだけ使え、それがどのような構造で支えられているかすら意識しないですんだこれまでなのであり、科学技術が、人類の生物学的限界及び地球の浄化能力を凌駕しつつある今、人間の決断は、悉くにおいてそれらを考えあわせたものでなくてはならない。

また、あるいは。

よく推進派が振るう言説に、「原発なくして日本の高度経済成長期はなかった」というのがある。
青壮年期だけを抽出して人生が語れないように、高度経済成長期だけを取り出して、原発という核エネルギーシステムを語ることは決してできない。
多くの原発が経年劣化し耐用年数を超えつつある現在、人類はそのシステムがもたらす正負の置換という過渡転換点にあるとも言えるのであって、そういう意味では福島第一の破綻は一種の”必然””端緒”であったとも言えるのだ。
数千年・数万年に渡り、人間が原発の”残滓”を適正に保全管理できるとは私には到底思えないし、原発推進派がこれらを保障する明確な論理を持っているようにも見えない。
であるなら、たかだか数十年の栄華のツケを数万年にわたって支払い続けなければならないのだとしたら、これほど愚かでおぞましく、傲慢でまた、効率至上人間が毛嫌いする”非効率”なことがあるだろうか。

それでは何故これだけの矛盾にもかかわらず、原発というシステムが存在するのか。

原発は、欲求という無限の動機に突き動かされ、それに応えるべく構築された自己都合に満ちた人間の文脈のなかでのみ許容可能な存在なのであり、そしてそれは人間の文脈のなかでは成立しえても、太陽系第三惑星地球における自然の摂理という文脈では決して許されない存在だった。
そして、瞬間的に人間が自然を征したかに見えても、結局のところ、その力関係の不等号の向きが永続的に反転することは決してないにもかかわらず、人間の考える文脈に自然が沿うべき、沿わせることが可能だと考えた倒錯、あるいは人間の文脈がそのまま自然の文脈足りえると考えた傲慢ゆえにこのシステムは存在しえたのだと私は考える。

原発は大気圏という手厚い庇護のもとでかろうじて成立しえる極めて脆弱な生態系を有するこの地上に決して持ち込んではならないものだった。

地中海屈指の栄華を誇った古代カルタゴは塩を撒かれて滅びたと伝承されるが、まして放射能で汚れた土地にどれほど豊かな財を持つ何人であろうと住むことはできない。のみならず、その汚染は、生物の根幹とも言うべき遺伝子に直接作用することによって命の連鎖をも脅かし断ち切るものであるのだ。

あの震災以降、日本にあっては絆という言葉がさかんに叫ばれているが、分断されていたのは何も人と人の結びつきに止まらない。主には自然を人間の欲求完遂を阻む対立的なものと捉えこれと対峙する立場を取る西欧的思想近代文明によって人間と自然との絆もまた分断されてしまった。
自然を畏れ敬いそれを甘受しながら生きることは決して前近代的な未開の論理などではなく、持続的で分相応の繁栄を享受し続けるに最も理に叶ったものであり、整合するものだということを世界に向けて提示し、断ち切られてしまったその絆を結び直すことこそが、どんな効率化問題よりも優先してなされなければならない命題であって、それを確信を持って掲げることができるのは、かつてアニミズムとともにあり、今自然と核の脅威に悉く晒されたばかりの我々日本人だけではないのか。

自然を畏れ敬い、不必要に抗わないという視点から、どんなリスクを侵してでも際限なくエネルギーを取り出すことを是とする原発という発想は決して生まれない。
人間が如何に知恵を得ようと、地球上にある以上は、その一生物に過ぎないという本分を逸脱すべきではなく、自然と対立せず、ともに生きることは決して「敗北」ではないということを今こそ世界に向けて掲げるべきなのだ。

福島第一という重い十字架を背負い、塩の代わりに放射能に侵された日本に未来があるかどうかは分からない。しかし、もし日本の命脈がまだ尽きていないならば、あるいは例えどこかでその命脈が尽きようと、その最後までそれを叫び続ける使命が日本にはあると思う。

忘却も風化も、「危ないことは分かっているけど」という弁解も、目先の利益に目が眩み短絡的に欲望の赴くままエネルギーや資源を貪ることももはや許されない。
特にこれまで原発を推進するなかで駆使してきた”恣意的”な忘却や風化は絶対にあってはならない論外の暴挙であって、看過侵食されない不断の努力と覚悟が要求される。

宮崎駿氏の構想する世界観のその細部について、個人的には色々と異に思う部分もあるにはあるが、『ナウシカ』で氏が透徹してみせた”未来図”は、震災後の今の日本に不気味なほど符号している。

前世紀の栄華の果てに環境汚染という負の遺産だけがことごとく残り、それにまみれたような世紀末のなれの果てのような世界に住むナウシカが望んだものは、美しい洋服でも贅沢な食べ物でもなく、清浄な空気と水、ただそれだけだった。

そのナウシカの渇望はどこまでも重くのしかかり、のみならず、ナウシカのその思いと、今我々が希求するものとの近さに慄然とせずにはいられない。

2011年を価値観における真の転換点とし、目の前の効率を犠牲にしてでも生物や地球の限界と矛盾なく両立しえる新しい普遍的価値を構築できなければ、早晩人間の飽くなき欲望と猜疑によって本来あるべき自然の恩恵すらが食い潰されてしまった、悪夢ような『ナウシカ』の世界を必ず招聘してしまうだろう。

我々はまだ、間に合うだろうか。


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◆この記事へのコメント(投稿順)
1. mamakuma 2012年3月28日 21時35分 [返信する]
間に合わない。もう間に合わないよ。

 


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