くる天 |
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TALES OF NIGHTINGALE |
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ブログの説明: 〜〜真実が浮かび上がるのは、夜。見つめるのは、ナイチンゲールの瞳。〜〜
「TALES OF NIGHTINGALE」にお立ち寄りくださいましてありがとうございます。当ブログでは、真実を見つめ続けるナイチンゲールの視点を借りて時事政治経済、フィギュアスケートなど関心のありますことについて硬軟問わずネットの森の片隅で語っております。 |
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「論より絆」のこの国で 〜プロメテウスの禁じられた火 2013〜 |
[”民主主義はタダでは手に入らない!”政治・経済・デタラメディア] |
2013年3月11日 19時40分の記事
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震災後二回目の3月11日が巡って来た。 この国の言論は深まっただろうか。
否、そこにおける混迷は是正されるどころか深まるばかりというのが現下の私の印象だ。 今年元旦四国デマ新聞掲載の高樹のぶ子氏の主張(特集5面)を題材に、それを検証してみる。
高樹氏は
高樹 「日本には強くなってほしい」
でこの文章を切り出す。
彼女の考える「強さ」とは、軍事力でも経済力でもなく、「外側から「侵しがたいもの」と思わせるもの」だそうだ。
「日本人のDNA」という副題や文中のアイデンティティーという言葉から察するに、それは外国にはない日本独自の品格や品性、あるいは尊さという言葉に置換可能だと思われるが、残念ながら少しでも政治の真相を知るものなら自明だが、B29における竹槍のような、情緒的な品格で他国を牽制できるほど、現実の世界はおめでたくは出来ていない。 どれほど高邁で高潔な人格を有していようと攻め込む時には攻め込んで来るのが今の世界のありようだ。 もし本当に高潔な品格が他国に対する抑止力・牽制になるなら、世界各国は今頃核ではなく、その追求にしのぎを削っていなければならない。
この女史の考える日本人のDNAの特異性が如何ほどのものであるか、残念ながら女史の書物をこれまで一冊も読んだ事がないし、今後読むつもりもないので知る由もないが、上記超現実問題から離れてもう少し本来的な意味でも、生物学的にはゲノムレベルですらショウジョウバエとさほど変わらないという人間のDNAの、その井の中の比較に過ぎない民族的な差異が生物学的組成上如何ほどの意味を持つかは推して知るべしだが、仮にこの「DNA」と言う言葉を、その土地独自の風土気候歴史に育まれた「気質」的な意味合いで用いているのであれば、確かにそれは一考には値するかもしれない。
ただし、それはここでこの根っから文学かぶれしたこの女性が引用している、それを以って貴しとな(し、場合によっては外国を牽制し、日本を守れると考えうるもの)す、とはむしろ正反対の、それゆえに本来ロジックで語るべき事ですら根性や絆といった情緒的判断に置換せしめ、その結果として導かれた歴史として、第二次大戦に惨敗しても原発がアウトしてもなおそれをあらためず(あらためられず)、今また原発アウトの最大の戦犯とも言うべき国賊自民を国の中心にすえるような、衆生解脱のお題目の如く千年一日唱え続けるその、ほとんど病理と言って過言でない特異性としてこそ適用可能なのであって、であれば、それが日本の明るい未来に繋がるなどは、それこそ文学的には面白いおかしい昏倒ではあっても、福島第一事故という目の前の最もシビアな重い十字架背負った現在の日本を読み解き、再生させるためには、支障になりこそすれ、よすがになったりは決してしない。
「過ちは繰り返しませんから。」
この作家は広島の碑に刻まれたこの文言を引いて、
高樹 「これが中国や韓国であったなら、恨みは世代を超えて末代まで継承されたに違いない。」
とわざわざ中韓と対比させ、日本人の寛容受容の偉大さを称える。原発の碑のあの言葉は、日本人の寛容というよりはむしろ、原発のあまりの絶対的な威力の前に思考を停止させるしかなかった、というのが真相だと個人的には思っているが、仮にそれが寛容によるものであったとしても、帝国主義西欧からの救済者と期待したアジア諸国において、その帝国主義の猿真似をして彼らの期待を見事に踏みにじった日本の罪が消えるわけではない。 そして、その自らの罪を直視する事もなく、このような安直極まりない民族主義的な比較に帰結させる人間を含む日本人という民族が真に寛容で心豊かだとは、少なくとも私は思わない。 「罪を憎んで人を憎まず」という、言葉にするのは簡単ではあっても実践はしがたい理念を残留孤児において踏襲した中国人民が恨みしかもてない民族だとは私は思わない。 異端と見れば排斥にかかり、如何に自分が異端にならないかに腐心し、その暗い心性の表現として、継子いじめや嫁姑の確執に余念がない日本人に比して余程懐が深いとすら感じる。
少なくともこの作家の論理で、同じ敗戦国でありながらヒトラーを擁したドイツすらと異なり、この国が周辺国の信頼を得られていない事は全く説明不可能だ。
他国の少女達をいいくるめて慰安婦に仕立てあげ、のみならずそれを知らぬ存ぜぬでやり過ごそうとしているのも日本人なら、それらを恨まず憎まず水に流せと加害者目線の傲慢不遜な論理を相手に強要しているのがこの作家の論理だ。
それのどこが立派な民族か。
加害者側の論理ともいうべきこんな論調を未だ平気で振りかざすからこそ、その民度が疑問視されているということにこの物書きの思考は全く及んでいない。だからこそそれを浅はかにも踏襲しているとも言える。
そしてこれに連動して、この文章のより現実的な看過せざるべき最大の問題は、これらの主張が、此度の原発事故を引き起こしたに直接的に責任を負うべき東電や国賊自民といった原発利権の免責と、それを追求しようとする姿勢を個人的な不寛容に乱暴にも帰結させるという暴挙を、婉曲的間接的であるにせよ犯していることに全く無自覚・鈍感である事だ。
図らずか図ってかは知らないが、前者であればその見識欠落の謗りは免れないし、後者であればまさに確信犯的戦犯擁護隠蔽者ということになる。
「過ちは繰り返しませんから。」
ならば原発をアウトさせたものの責任も問う事なく、全ての罪を引き受けたという受難のキリストよろしくひたすら受容し水に流すべきか。
答えは否だ。
今やらなければならないのは、徹底した原因究明と対策という論理性によるそれら日本社会の膿を最後まで出しきる事であり、その本来あるべき通過儀礼が未だ緒にもついてない事は国賊自民のパラノイア安倍を筆頭に上記戦犯の誰一人として法廷の被告人席に立つ事も収監されることものなくのうのうと表通り跋扈している事からも自明だ。
恨まず許せという文は、文章としては格調高く非常に美しい主張だ。 また、市民生活レベルにおいては、むしろ大事な資質であり方便であり、それを否定するものではない。 しかし現実に断罪すべきを断罪せずに放置していいということにはまったくなりはしないし、それが全くなされていない震災わずか二年後の今この国に最も必要な方向性だとは私は思わない。 国家の一大事、特に原発のように一瞬で世界がカタストロフしてしまいかねない事に寛容の問題を用いて片付けろというのは完全な誤りだ。
高樹 「(経済や軍事力の代わりになるアイデンティティー獲得のために日本人が)もっと地に落ちる必要があるのかもしれない、と感じた。」
原発事故を伴った震災後の今日の日本以上の底がどこにあるのか私には分からないが、その意味でいうならいまこここそが女史の言う”地”だ。
いまここにある十字架を見ずして何が見えるというのか。
これほどの底もないと思えるにこんにちにおいてさえ、まともに思考しようとしない日本民族が、今更更に底を這ったところで、覚醒できる保証はどこにもない。むしろ「貧すれば鈍する」の格言よろしくますます思考放棄・付和雷同の易きに流れるのがオチというものだ。
そしてそれは原発の最大の推進母体である国賊自民を国の中央に据えるという酔狂を犯した昨年末の衆院選で既に一部実証済みだ。
今の国賊自民の自称政策にあるように現実がむごいものであればあるほど、この国はそれから目を逸らしその場しのぎの方便と情緒論で誤魔化し続けてきた。 その自覚なくして何故ほかならぬこの国で原発がアウトしなければならなかったのか、それを読み解く事は永遠にできず、再度同じ過ちを繰り返すだろう。
今こんな現実に直面しているのは、まともな議論を尽くしたからではなくむしろそれを端から放棄してその場しのぎに終始し続けたからこれまでのその情緒的判断を未だ自覚できないとはどういうことなのか。
先ほども述べたように上記利権のまだ誰もこの原発事故の被告人になっていないし、牢屋に繋がれてもいないというのが、情緒的判断に依存し続けたがゆえのこの国のあまりにもお粗末な現実なのだ。
根性や絆といった美談で語れる問題とそうでない問題がある。
語るべき問題と語るべきでない問題といったほうがより適切かもしれないが、原発や放射能は明らかに後者だ。 そこを誤れば絆は可能性を縛る枷になり、しがらみになり、重しになるだろう。
福島からいち早く避難した人を悪し様に罵るなどはその典型だ。 誰がどこに行こうが個人の自由だ。扶養の関係ででもない限り(場合によってはそれあったとしてもこのような生命や健康に関わる部分においては)文句を言う筋合いにはない。まして福島第一事故のような生命未来を左右しかねない深刻な事故においては尚更だ。
それを義理人情を持ち出して縛ろうとするならそれは絆ではなくしがらみだ。
諸外国と海で隔絶されたこの国の地理的条件は、日本史において、確かにひとつの防衛上の機能を果たしたといえるかもしれないが、他面、比較対象あるいは外からの批判を持たないがゆえの、自国内限定の極めて妥当性を欠く井の中の自己満足的論理をここまで蔓延させた面は否めない。 要するにこの文章から伺えるのは、自ら持つ文学における懐刀が、その持ち場以外でも俄然通用すると考えてろくな論理的思考もなさずに政治外交という最も論理を要する畑にうかうか分け入り、そのまさに畑違いの刀を振り回しているうっかり者の姿である。 それが、仮に日記やチラシの裏に戯れに書き付けるといったごく個人的な行為に留まるものであれば、うっかり者で笑ってすます事もあるいは可能だろうが、それが自称メディアの一角を占め、その購読者という、ある一定程度の規模を持つ人々須らくの目に触れるとなれば、それはうっかりで笑ってすませない大衆煽動の問題へと格上げになる。
そしてこのミスリードの最大の”功労者”が、こんな文章を一年の計を測る元旦紙面にこれ以上ない印象操作とも言うべき神々しいまでの大判日の出写真とともにデカデカ掲載した四国デマ新聞にある事は言うまでもない。 この文章を掲載するという行為において、このデマ紙の政治外交に対する認識もまた、「外側から「侵しがたいもの」と思わせるもの」でなんとでもなるという程度のものであるということが明らかになったが、そんな幼稚な認識の持ち主が自称メディアを名乗る事の異常さが問われなければならないのもとより、こんな自称メディアが平然と跋扈する日本の言論の異常さには戦慄以外のものを覚えない。
一年前、このデマ紙の元旦紙面にあったのは上野千鶴子の原発と決別すべきという断固とした主張だった。それがわずか一年で許容に軟化するその有様はまさにこの国の言論の砂漠の面目躍如といったところだ。
言論の死はそのままその言論をなす民族の死に直結する。
今日本はその絶望の軌道をひたひたと走り続けている。
太陽を赤い丸という最も単純化された象形をいただく日本の国旗は、世界で最も美しいと思っているが、その日の本(もと)日本は、仰ぎ見るべきその日を、自ら標榜した時に完全に道を間違えたと言える。
別に日本に限った話ではない。
この星に最初の原発が建った時点で、人間のみならずそこの住まうありとあらゆる生命の未来はたとえさやかに見えないとも決定的な絶望によって定められた。 そのなかでもとりわけ、未だ論理を捨て、情で全てを縛ろうとするこの国にあっては、”その日”はより早く訪れるだろう。
この絶望を前に何をすべきなのか。一番大事なことは何か。
金と株高と円高とTPPか。
もっとずっと軽んじられてきたありふれた命や環境か。
原発の破綻を目の当たりにした我々は、誰一人としてその自問から逃れることはもはや許されないし、逃れられない。 希望からではなく絶望から始めることによってしか、地に足のついた本当の未来は手繰り寄せられないと私は考える。 「絶望の認識」によってしか、現実の正常な認識はならず、そのプロセスのみが実は、絶望を免れることはなくてもそこの渦中から一歩外れるという、知的思考の最終にして唯一の砦なのだから。
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後日検証のため、通話内容をICレコーダーなどで録音されることをお勧めします。
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