2014年7月26日 7時6分 |
永遠のナンバー2『後藤田正晴 男の美学』 第9章 人材を発掘する |
第9章 人材を発掘する 君、今度宮邸に来てもらうよ 平成七年春の統一地方選挙で東京都知事選挙に出馬して青島幸男に敗れた石原信雄(昭和二十七年採用組=昭和六十一年七月に自治省を退官)は、竹下政権が誕生した昭和六十二年十一月六日から平成七年二月二十四日までの約七年三か月、内閣官房副長官を務めた。 |
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2014年7月25日 6時35分 |
永遠のナンバー2『後藤田正晴 男の美学』 第8章 危機と選挙に強い官房長官中曽根さんとは気が合わない ? |
謙虚な気持ちで間違いのないようやっていきたい 中曽根は、昭和六十年十二月二十八日、第二次中曽根改造内閣を発足させた。この内閣で、後藤田は、行政管理庁長官から官房長官に返り咲いた。中曽根は、田中角栄元首相の強い影響を受け、その代理人として後藤田が送り込まれているとマスコミなどから激しく批判されたため、後藤田を総務庁長官に退避させ、続いて、行政管理庁長官に据えていた。 |
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2014年7月24日 6時16分 |
永遠のナンバー2『後藤田正晴 男の美学』 第8章 危機と選挙に強い官房長官中曽根さんとは気が合わない ? |
非武装無抵抗の民間航空機を撃墜することは許されない 昭和五十八年九月一日、大韓航空機がソ連軍の迎撃機のミサイルによって撃墜された。これに対して、後藤田は、同月六日朝、緊急記者会見し、ソ連機が地上基地と交わした交信記録の核心部分を公表した。この交信記録は、日本の航空自衛隊が傍受したもので、通常は公表されない。これを後藤田は、「中曽根首相の高度の判断」を得て、公表に踏み切った。こうした行動は、日本政府としては、前例のない異例のことであった。 |
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2014年7月23日 5時18分 |
永遠のナンバー2『後藤田正晴 男の美学』 第8章 危機と選挙に強い官房長官中曽根さんとは気が合わない ? |
第8章 危機と選挙に強い官房長官中曽根さんとは気が合わない 後藤田は、昭和五十七年十一月二十七日に成立した第一次中曽根内閣の官房長官に就任した。後藤田は、もともと中曽根政権が発足したとき、この政権を樹立したキングメーカーの田中角栄元首相によって、"監視役"に送り込まれた。田中は、中曽根を首相にするのと引き換えに、巨額な官房機密費を握る官房長官に後藤田を配置することにより、その機密費を自由に使おうとしたといわれた。 |
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2014年7月21日 5時41分 |
永遠のナンバー2『後藤田正晴 男の美学』 第7章 日本のジョセフ・フーシェ ? |
まだ、その任には非ず 昭和五十二年の自民党総裁選挙予備選挙でも大平正芳幹事長を第一位に押し上げるのに大活躍した。 竹下登と後藤田は、福田赴夫首相と大平正芳幹事長が、自民党総裁選挙で争った際に、田中角栄元首相の指示で、大平につき、予備選挙では、党員・党友名簿を管理していた立場を利用して多数派工作を行い、大平を当選に導き、大平政権を実現した。二人は、名コンビだった。後藤田は、当選回数が多く、政治家としての先輩格に当たる竹下を補佐することによって、田中のために働いたのである。 |
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