寛容性の中に感じる霊性 | |
2013年10月2日 1時1分の記事 | |
自分が話している相手がもしブッダだったら、イエスだったら、どんな態度をするのだろう。 あるいは、もし自分自身がブッダだったら、イエスだったら、どんな態度で臨むのだろう。 こんなことを感覚で味わってみるのも、たまには人間関係でよいスパイスとなるかもしれません。 私は、およそ人間関係において大切なのは、礼節を尽くすことだと思います。 それが、身内であれ、他人であれ、かわりはありません。 礼節を、思いやりの心、心配り、こういった表現に言い換えてもいいかもしれません。 誰でも、内側からにじみ出てくるものがあります。 その人物の話している内容うんぬんではなく、その人物の雰囲気、オーラなど存在全体が醸し出してくる「香り」です。 この「香り」に、その人物の霊性の程度が現れてきます。 霊能の程度は関係ないんですね。
チャネラーであっても、霊性の低い人はたくさんいます。 それは、当の本人だろうが、憑依している存在だろうが、同じことです。 類は友を呼ぶの法則で引き寄せ合っていますから。 逆に、霊能力は全くないと感じていても、霊性の高い人はいます。 それは、例えばその人がフェイスブックでいいね!をしただけでも、私の場合ですと例えば個人リーディングをさせていただいたような人は(意識がよく通じている人は)、その人の霊性の程度が高いことが直観的に感じられてきます。 一般に、霊性の高い人に共通しているのは、「寛容性」です。 ふところの深さと言い言い換えてもいいかもしれません。 でもそれは、感情の表現が少ないということではありません。 喜怒哀楽が激しくても、高い霊性を保つ人はたくさんいると感じます。 ここでいう霊性とは、セスの言葉を借りるならば、宇宙の生命力であるところの、創造性、歓喜、そして愛です。 私はこれに、寛容性を付け加えたいと思います。 これは、自分自身を曲げることによる相手に対する服従を意味するものではなく、相手と共に歩むことや、同じ次元を共有していこうという意思を内包しています。 つまり、共に生きるという姿勢こそが、寛容性の根幹にあると思うわけです。 共に生きるために、人々は輪廻するわけです。 輪廻を単なる情報であると捉えることもできなくはありませんが、それは見方の問題なのでここでは割愛します。 輪廻というのは、単なる手段ですが、それによって霊性を発揮するかけがえのない機会が与えられています。 だから、聖人ですら輪廻するわけです。 それによって、人の心の痛みが少しずつ分かるようになるからです。 そこに、寛容性の生まれる鍵があるような気がしています。 笑顔がその人の寛容性を感じさせるのではなく、笑顔の奥にある霊性が、その人の寛容性の高さを物語っています。 Some rights reserved by Laurel Davies-Butts | |
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