個と全体との不可分な関係、キリスト意識に目覚める全体自己への覚醒について | |
2014年6月25日 16時12分の記事 | |
今日は、今朝寝ているときに夢の中で突然始まった、本来の自分との対話からお話したいと思います。 大いなる自己との対話です。
対話は、起きてからリーディングしながらパソコンでタイプしたものです。 テーマは、いわゆる個別意識(=個)と集合意識(=全体)との関係についてです。 我々は、進化が進んでいくと、個別意識ではなくて集合意識として生き始めるようになると言われています。 でも、我々の感覚、たとえば現世的な覚醒の感覚からすれば、個がなくなれば、我々本来の自分もなくなるような錯覚を覚えます。 ですが、そうではないのだということがどうやら言いたいみたいです。 私:個とは何? 本来の自分(以下略して「本」):与えられた個人としての命を全うすることから生じる全生命だよ。 私:全体とは何? 本:与えられた命を脱ぎ捨てたときに生じる全生命だよ。 私:個を、すなわち与えられた命を脱ぎ捨てても、生きられるの? 本:そうだよ。 私:それはなぜ? 本:個が全体の中に含まれているからだよ。全体の一部なのさ。 私:でも、個があり続けている限り、個として生き続けている限り、全体は見えないよ。 本:その通り。 私:全体を知るにはどうすればいいの? 本:与えられた命を全うすることだよ。 私:与えられた命を全うすると、なぜ全体がわかるの? 本:与えられた命そのものが全体だからだよ。 私:それは、個が全体に含まれているというより、個=全体という意味? 本:個は全体の中に含まれているのは事実。 しかし、すべての個の中に全体が含まれているのも事実。 だから、個というのは幻想であり、君たちは今この瞬間も全体として生きているのさ。 私:じゃあ、我々は夢を見ているようなもの? 本:その通り。 私:そこに実体はないの? 本:あるよ。夢の中で君たちは実体がないと感じているかい? 私:いや、実体がありまくりで、むしろ波乱万丈な展開になる。 本:じゃあ聞くが、君の考える実体とはなんだ? 実体とは、あるがままの現実を見つめたときに生じる生命現象そのものだ。 それは、夢であろうと現実であろうと変わらない。体験者に生命があると感じたもの、それが実体なんだよ。 私:じゃあ、僕たちの現実も幻想なんかじゃないってこと? 本:もちろん。幻想であって幻想ではない。 それは個としてではなくて全体として生きているのと等しい。君たちはあえて、自分の知覚力を制限して生まれてきている。 だから全体として生きていることがわからなくて当然なんだよ。 でも、間違いなく君たちは全体として今この瞬間にも生きている。 私:そのことを知る必要はないの? 本:知っても知らなくてもどちらでもかまわない。 私:命(生命現象)を確認することで永遠の生命が得られるの? 本:もちろんさ。 私:命とは何?単なる物理的な生命現象ではないよね? 本:違うよ。命は意識の表現の発露であり、意識は物理的生命現象の背後にあるものだよ。 リーディングでは、覚醒には7段階あると伝えてきます。 それぞれの覚醒は、多次元的なボディと対応しています。 地球上での覚醒は、その第1段階にすぎないのだという印象があります。 今世の私は、個別意識でもありますが、集合意識としての生き始めていると言います。 例えば、私自身は、いわゆる覚醒、悟りというものに顕在意識では全く興味がないんですが、潜在意識下ではそうではないと告げてきています。 むしろ、覚醒とは単なる通過点でしかなく、どんどん覚醒体験を経ながら多次元的に生きているという現実が、誰にでもあるのだという、ありふれた感覚です。 かつてのイエス・キリストやブッダの場合、それまでの人類とは明らかに違った点がありました。 それは、キリスト意識のエネルギーを地球上にアンカーさせるという役目があったからです。 ですから、あらゆる情報が伝えてきているように、イエスキリストが誕生する数世紀も前から、イエスキリストの誕生に向けた準備がなされたと言います。 ある意味において、ブッダもブッダ・キリストとしての側面を持ちますが、イエスに先駆けて地球上に誕生し、イエスキリストの誕生を準備していた側面もあると言われています。 それを伝えているのは、シュタイナーなんかがそうですが、私はあながち的外れではないと感じています。 私の感応では、我々の時代、人類は、およそ9000〜6500年前に非常に大きなパラダイムシフトを経験し、その後誕生した新しい人類だと感じます。 それまでの前時代とは異なる文明が誕生しています。 我々人類全体の役目は、「地球上にキリスト意識を根付かせること」にあると感じます。 つまり、これからは、一人一人がかつてイエスやブッダがそうしたように、キリスト意識を地球上に根付かせる役目をする可能性があります。 それは、日常生活の一コマ一コマにおいてです。 その文脈では、人生そのものが覚醒の連続であり、我々がアンカーすべきところは、日常生活の真っただ中にある、そのように言えると感じる、今日この頃です。 | |
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