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05/02 12:18 中世の石切
フリースペース

文中の「?」は 疑問符を表す場合と ローマ数字が反映されていないケースによる表れがあります

携帯からの送付分がそのような変換となり いくつかは確認 訂正いたしましたが

おいきれないものや 手もとに書物が無い(大抵ございません) といった理由で書き直しはしておりません


* * * * * 





2020.7.24



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ka-on さん
水のよう・・
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2021年3月24日 10時42分
川の流れを力とし
 
昭和4年1929年、駒沢の東京ゴルフ倶楽部が移転することになり、
村議会で「イメージが悪い」と判断し、改称することになった。

香を霞に変えた。畏れ多いということで。

朝霞の地名由来等については、検索しやすい面もありましたが、
経済活動のほうは、市で纏めておられます(開いておらず)。
昨日本を手にして初めて目に。


朝霞市の前身は膝折ひざおり村、川越街道の要衝として賑わった。
水が乏しい旧武蔵国内で、そこだけ低地で水に恵まれ、早くから宿場が形成できた。

(江戸時代)文化文政期1804〜1830年黒目川の水流を動力源に、水車で製粉作業、
文化13年1816年に、奥住金兵衛が京都から技術者を招き、関東初の伸銅工場(水車を利用した伸銅業)を始めた。
文政3年1820年には、徳生平左衛門による二つ目の伸銅工場ができ、銅線や桶のタガの製造。
明治初期には、日本初の電話線が製造されたと伝えられ、
明治43年から、水流を用いた電力供給事業が開始された。
(参考『東武沿線の不思議と謎』178-179)



3.26
(川底を見ても 浅瀬 とか浮かぶ程度)

洗い越し 渡渉 (初めて使う言葉)

…徒渉…
https://santalab.exblog.jp/23700543/

(釈氏の読み方も初めて見て)

 



2021年1月4日 8時21分
しょうめい の たつじん
隠れたがるものも記録

(本日の公園検索)

「多くの子どもたちが水遊びを楽しんでいた」
様子が載せられたのは こちら

猛暑の“犯人”は「ダブル高気圧」 40度超えの地域も
2020/8/20 6:00 (2020/8/20 10:59 更新)
西日本新聞 社会面
https://www.google.co.jp/amp/s/www.nishinippon.co.jp/it
em/n/637048.amp



公開投稿ボタンを押したのは 9時頃


第一次世界大戦の火ぶたを切った「サラエヴォ事件」で暗殺された、オーストリア皇位継承者の居城を訪ねて
2020/10/11サライ.jp
文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)
https://serai.jp/tour/1006905


今日は何の日(6月28日)TRT
28.06.2020
https://www.trt.net.tr/japanese/puroguramu/2020/06/28/
jin-ri-hahe-nori-6yue-28ri-1443159



要人暗殺をきっかけに…
2020/1/9 10:40 西日本新聞 オピニオン面
▼第1次大戦の反省から紛争の平和的解決を目指した国際連盟の発足からあすで100年になる。
https://www.google.com/amp/s/www.nishinippon.co.jp/
item/n/574310.amp



「20世紀はここで始まった」 サラエボ事件の意味を解き明かす会議を開催した教授に聞く
小林恭子 | ジャーナリスト
2014/7/5(土) 8:30
https://news.yahoo.co.jp/byline/kobayashiginko/
20140705-00037093/



オーストリア皇太子の日本日記
講談社学術文庫
オーストリアコウタイシノニホンニッキメイジニジュウロクネンナツノキロク
著:フランツ・フェルディナント 訳:安藤 勉内容紹介
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000151316
本邦初訳!「サラエボの悲劇」の主人公が綴る日本紀行
長崎―熊本―下関―宮島―京都―大阪―奈良―大津―岐阜―名古屋―宮ノ下―東京―日光―横浜

1892年末、オーストリア帝国帝位継承者、皇太子フェルディナントは世界周遊の旅に出た。翌年長崎に到着した彼は東京を目ざすが、その途次、各地で日本文化との出会いを堪能しつつ、のちにウィーン民族学博物館日本部門の礎をなす18000点もの美術品等の蒐集も行う。21年後、サラエボで暗殺される悲運の皇太子若き日の日本紀行。

園内は無数の提灯がまるで妖精のようにきらきらと輝き、真昼のような光に満ちあふれていた。日本人というのは、まことに照明の達人だ。簡素きわまりない装置を巧みに用い、すばらしい効果を生み出す術をじつによく心得ている。(熊本クラブの庭園にて)


公開投稿ボタンを押したのは 9時頃


庭園連想をみますと 特異な…
www.suizenji.or.jp/



(1年前のことがあり)

どこかだけを見て (出すか 出さないか)

そういった時極かどうか



一昨年(まで)の個人的感想をふまえ
(昨年の扱いに憤慨し)

現場のエキスパートによる細かな抽出の組み合わせ
心配りなどが 全て無駄になるような
仕組み
  ということを記入してまいりました



 



2020年9月18日 10時18分
還元焼成
景徳鎮 (中國紀行/vol.17/多元融合/019)

 地球は酸素で包まれている。宋の時代、焼きものの世界に二つの大きな進歩があった。還元焼成の技術が確立し、透明の釉薬が生み出され、良質の磁器が作れるようになったのだ。

 還元焼成というのは、素材から酸素を奪う考えからきていて、釉薬と磁土の酸素を奪うことを目的としている。この二つの技術が出来たことで、磁器が産業になったのだ。






(誰かの文章)
 



2020年7月17日 19時31分
記入を遅らせました
 
(不本意ながら記入を遅らせました)


こちら
https://blog.kuruten.jp/ka-on/347526 (2016.2)
初めて読んだときの
波の立たないような 独特な筆圧など

感銘を受け


さらに 静謐な拍動を 7.10に

こちらの頁からの文章で
…6月号掲載予定の牧野淳一郎著「3.11以後の科学リテラシーno.90」のプレプリントを特別に先行公開いたします。(最終印刷版と異同がある場合があります。)ダウンロードはこちら(pdf)。リード文より:「現状では東京都 の感染者データがあまり信用できません が,そのことを含めて,東京都では感染 拡大が続いているとみるべきで,対策強 化が必須でしょう。政府専門家会議の 「見解」は,一貫して直近での実効再生 産数を過小評価するものとなっています。 対応が直ちに必要でしょう。」…

他には無い Rhythm だと


そういうことは
直ぐにお伝えしたいものです

違いますか?


(あるいは 機をみるにしても)

(一個人の感想を
ご本人より先に知って 何か?)



7.12 に
(何度目になりますか)
息苦しさにみまわれ 

紙類の処分くらいなら
かえって払拭方向に繋がるかも と
  (パンフ類などを)

このチラシも虚ろに見えて 躊躇なく
漢字展 ― 4000年の旅
会  期  2019年5月29日[水]ー9月23日[月・祝]
会  場  東洋文庫ミュージアム


数字は 合っているかしら? などと


そうしたら
翌7.13に こちらさまに伺うことになり

「漢字の成り立ち」を語る際は、微細な筆画にも注意して字の構造を明確にしなければならない――「比・真・豊・般」字の字源を例として
nkay 2020/07/12 17:39


個人的には そこらではないところを
とってあるのかと

これは勉強したいな
自分の感覚を研ぎ澄ませ 深堀もと


そんなふうに思ったことも

数日 ねかせて あたためてから
記入することにいたしました

〜7.18



8.10
「そこらではない」一つ

(手もとにのこしている本に)
(外国の方による「鵜飼」解説があり)

  何処かで数行記入したような
  此処ではないような (ブログ内「鵜飼」検索)

  かしょく
  チラっとですか

国名では語れない けれど語れる部分も
(と 発してきました)


 



2020年4月15日 14時6分
牽強附会
 

醜い(後世の)「付会」を絡ませた
複雑な筋書き

陰謀渦巻く歴史を 如何に(胸を張って)
子どもたちに?
渡せます?

積み重ねられた業
遺伝子に纏わりつく罪悪(感)
その感じは 水平伝播の類のことではなく
修整を悪い方へと維持できてしまう民族性の自覚等について

延々精算されない物事

(病気の治療なども)
簡単ではない… どころのお話しではない
ということが
すんなりと理解できます


「恥ずべき」マニュアル化 でしたね




『藤原氏千年』より 〈不比等の登場〉

 『大鏡』には、「御子の右大臣不比等のおとど、実は天智天皇の御子なり。されど、鎌足のおとどの二郎になりたまへり」と語り、「比び等しから不」という名もその意味でつけられたという。しかし、この天智落胤説は史実とは見なしがたく、後世の付会であろう。

  鎌足の長男の貞慧(定恵、643〜666)は、11歳の時に遣唐使の船で唐に渡り、長安にいた慧日について学び、12年後に帰国したが、その年のうちに若くして他界した。僧籍に入ったこの兄に代わって鎌足の跡を継いだのは、次男の不比等であった。

  一方、鎌足の二人の娘、氷上娘と五百重娘は天武天皇の夫人となっていた。藤原氏と天皇家との姻戚関係はここに始まるのである。なお、新田部親王を生んだ五百重娘は『尊卑分脈』によると、異母兄の不比等と密通して麻呂を生んだことになっている。

  11歳で父の死と直面した不比等は、一時的、他家に養われるといったこともあったが、20歳頃には蘇我倉山田石川麻呂の姪にあたる娼子を妻に迎え、この間に武智麻呂・房前・宇合が生まれている。彼らは、それぞれに南家・北家・式家の祖となり、これに麻呂の京家を加えた、いわゆる藤原四家はここに始まる。

  不比等は、これらの男子とは異腹の娘の宮子(?〜745)を文武天皇(638〜707)の夫人とし、そこに誕生した首皇子(聖武天皇、701〜756)に、後妻の県犬養(橘)三千代を母とする娘の安宿媛(光明子、701〜760)を入れるといった二段構えで天皇家に深く楔を打ち込んだ。重要な点は、藤原氏による外戚の地位獲得の萌芽がここに求められることであり、新興の藤原氏が、阿倍、紀、大伴といった有力氏族にうって出るための大きな賭けであった。

  これより先、朱鳥元年(686)、天武の崩御の直後に大津皇子は自殺に追い込まれた(24歳)。持統の同母姉を母にもつ皇子は、東宮の草壁とは1歳違いの弟で、天武は、自分の豪放な性格を受け継ぐ大津に大きな期待を寄せていた。それだけに持統の警戒心も強く、天武の崩御を機に、「東宮に叛意を抱く」という理由で大津皇子は葬られたのである。
25〜26


〈近衛家と九条家〉
 摂関家の勢力を弱めた大きな要因は院政と武家の登場に求められるが、それと絡んでではあるが摂関家内部での勢力争いも無視できない。少なくとも12世紀初め頃までの摂関については、その地位をめぐって時には熾烈な争いがないわけではなかったが、おしなべて暗黙の了解のようなものがあったように思う。しかし忠通あたりから雲行きが怪しくなるのは、それまで摂関の決定が摂関家内で留まっていたのが、上皇や武家が介入してきたことによるものであろう。

 忠通のあと摂関となった嫡男の基実が24歳で若死した時、その嫡男の基通は7歳と幼少であったため基実の弟の基房が摂関となり、やがて20歳になった基通に引き継いだ。この継承は平清盛のクーデター事件のあおりであった。それは、後白河上皇の平家をないがしろにした行動に対して堪忍袋の緒を切った清盛が、上皇を幽閉し、側近を解官してしまったことにある。これ以前に基房は、清盛の孫と車で生き合った際に乱闘事件を起こしたことなどで平家と対立しており、上皇寄りであった。

 一方、近衛家の祖となった基実・基通父子は、ともに清盛の娘を妻にしていて平家と親しい間柄にあった。基通は、平家の都落ちに際して行動をともにするが、これはポーズであって途中から引き返してしまう。その裏を探れば、なんと基通は後白河上皇の男色の相手であって、二人の間ではあらかじめ話ができていたようだ。

 ちなみに九条家の祖となる藤原兼実は、甥の摂政基通(24歳)が上皇(57歳)の寵愛を受けたことを、これは摂関家としては恥ずべきことで秘事ではあるが子孫に知らしむるために書き留めておく、と日記『玉葉』に記している。さらに兼実は、基通が後鳥羽天皇の摂関となったのも上皇の「御愛物」であったからだ、と踏んでいる。

 なお、名うての男色家といえば藤原頼長であり、彼の『台記』を見ると、その相手を自分だけが判るように名前の1字を取ったり、官職で呼んだりしてぼやかし、行為そのものを「会交」とか「濫吹」などの語をもって記している。

 武家政権を樹立した源頼朝は、後白河上皇が源義経に頼朝追討の院宣を与えた時に賛同した基通を嫌い、文治2年(1186)に兼実を後鳥羽天皇の摂政(のち関白)に起用した。ここに到って、幕府のトップである将軍が摂関の決定を左右している。しかし十年後、源通親の暗躍によって兼実が失脚して基通が返り咲き、6年ほど関白を務めた。

 そののち後鳥羽上皇の意向によって、兼実の後継者の九条良経が摂政となるが5年で死去(38歳)、基通の嫡男の近衛家実が代わった。彼は、承久の乱(1221)の最中の2ヶ月ほど(この間に在位した仲恭天皇の摂政になったのは九条道家)を除く22年間、摂関の地位にあった。この乱は、幕府内部の混乱に乗じ、公家(貴族)勢力の復権をねらって後鳥羽上皇が中心となって起こした討幕計画であったが失敗に終わり、公家は完全に武家の監視化に置かれて急速に勢力を弱めていった。
172〜174
朧谷寿




2020.5.15 11:05 テンプレート変更
Blue Cube → ライブラリ
 



2020年3月7日 13時21分
1959

トリミング
(2.23は 長めにとらせていただいた)


巻末年表の中の「1959年」に目が止まり

2月1日 連邦レヴェルの女性参政権,国民投票で否決.ヴォーではカントン・レヴェルの女性参政権を承認.
12月17日 「魔法の公式」,連邦内閣の閣僚比率の定着

「魔法の公式」という日本語になっていて
  (検索しましたが わからず)
  (年月日でもたどれませんでした)

・・・・その検索中に
「1959年」wikipedia/できごと
・日付不詳 - コンゴで、人類初のHIV感染による死亡者が出る。
・日付不詳 - イランで、最後のカスピトラが死亡、絶滅種となる。
など見ました・・・・

その筋の方なら
どうということもないのかもしれませんが

本文中にありますよね? と見
(2.23に言葉を探しまして)

3.7に (文を読みながら)
引用させていただきます



『物語 スイスの歴史』森田安一
245〜
「魔法の公式」の成立 より
1959年に再び変化が生まれた。この年は選挙年にあたり、4人の連邦閣僚が一度に引退するハプニングが起きた。再び合意民主主義の精神にのっとり、選挙された国民議会の議席数に応じて主要4政党に7人の閣僚が配分された。

246
四主要政党による内閣の党構成比率は
今日まで40年以上変わっていない

連邦憲法第96条(現行憲法では第175条)には
同一カントンから複数の閣僚を選んではならないと規定されている

そのうえ、地域的、言語的、宗教的な偏りなく7名の閣僚を選ぶことが不文律となっている。いわゆる「魔法の公式」が成立した。


  …………


2020.3.9

Grindelwald, Switzerland by
car on 30.07.2016

そちらの絵を見ていて

(まず 山の高さなどは違いますし)
(意匠) (色) (旅する年齢層も) ですが

テイストは 思い起こされ 繋がります

日光 箱根   諏訪 小諸 (大沢)
清里 野辺山 小淵沢  白馬 志賀
軽井沢  ……  など など


 



2020年1月30日 12時53分
戦争の中の行為
 
岩波ジュニア新書『戦争のなかの京都』より

(「平安神宮百年史」) P132〜
昭和19年5月5日 府軍事厚生課主願の満州開拓民壮行奉告祭
昭和20年3月6日 京都市主願の満州開拓団出発奉告祭

133
満州への開拓民派遣は戦況が悪化してからもつづけられ
敗戦の5ヵ月前にも満州開拓民出発式があり
それは「京都市が募集したもの」で
「平安郷開拓団」と名づけられた

30家族・137人が現在の中国黒竜江省に入植

しかし、敗戦とその後の混乱のなかで98人が死亡・行方不明となり、6家族は全滅してしまいました。この件のてんまつは、二松啓紀『裂かれた大地ーー京都満州開拓民記録なき歴史』(京都新聞出版センター、2005年)にくわしく記されています。


『戦争のなかの京都』

 
(1945.6)
「米軍機の焼夷弾投下被害防止のため、諸堂の天井板を取り外す。また山内の躅 ∨票砲肪慮覆糧鯑饒続者を受け入れる」『清水寺史』

ほかの寺社でも同様の対応に追われました。「府下各神社では連合軍の空爆から御神体を保護するため、神殿の下に防空壕を掘る。無住の小社には代務者を置く。国宝はすべて疎開」(1954年1月)、「府警防課・社寺課、北野、松尾、梅宮の各神社、妙心寺、天竜寺などの首脳と防空・防火について対策を協議」(2月5日)などの記録があります(『京都府百年の年表』)。
130

 また次のような記録も残っています。なお、カタカナをひらがなにしてあります。

 北野神社に於ては本殿拝殿及廻廊共に檜皮葺にして且つ国宝建造物たる関係上、特に廻廊の一部を解体保存をなし又付属建物、社務所の一部を除去し、延焼防止対策とし宿直員を増強する等、之が対策の完璧を期しつつあり。又東本願寺に於ては建物の特に広大なる関係上防護対策には最も腐心し、所轄消防署の指導の下に防護の重点を本殿大師堂に置き、渡廊下は勿論付属建物は全面的に取除き、四囲には消防自動車の通路を開設し、本堂大師堂の天井板の取除き及び天井裏への貯水槽の配置をなし、更に警備員の増強対策として末寺住職を交替動員宿直せしめ防護の完璧を期しつつあり。(「新居前知事、三好知事事務引継演説書」1945年六月より、京都府行政文書)
130-131

 北野天満宮や東本願寺の回廊を除去したのは、1945年3月の東京大空襲にさいし、明治神宮で回廊から出火した火が本殿に燃えうつり、焼失した経験をふまえてのことだったようです。しかし、各神社では、このころになると僧侶や神官のなかから召集される者が多く、残っているのは高齢者や女性だけという状況で、防火対策を始め境内の保守作業は残留者にとって大きな負担でした。北野天満宮の祭神は菅原道真という実在の人物なので、食料事情が悪化しても、毎日米と酒をお供えしつづけ、神社につとめる人たちはお粥をすすっていたそうです。
131
中西宏次『戦争のなかの京都』岩波書店



「完璧」という自負は恐ろしいもの

それにしても 悠長も度を超えますと 
(感想は なくなります)

 



2019年7月28日 10時6分
デイサイト
 
穂高安山岩(デイサイト質の溶結凝灰岩)
amprphous/ひょうへき/7.27
http://blog.kuruten.jp/ecru/431455

デイサイト


『三つの石で地球がわかる 岩石がひもとくこの星のなりたち』2017/藤岡換太郎


巻末に「さくいん」(222〜218)があり
デイサイトは 79,158
(デイサイト質マグマは 81)と 教えてくれます


79より
富士山の謎
日本の火山で 玄武岩でできているものは非常に珍しい
ほとんどは 安山岩やデイサイトからできている

たとえば浅間山や桜島は安山岩で、雲仙普賢岳や有珠山はデイサイトでできています。

富士山は「四階建て」構造
目に見えない地下には 「古い順」に
 先小御岳 せんこみたけ
 小御岳 こみたけ
 古富士 こふじ
という火山が重なっており その上に
 新富士 が乗っかっている

小御岳までは 玄武岩だけではなく安山岩やデイサイトも含まれ
古富士と新富士は基本的に玄武岩のみでできている

80より
表面は十数枚のプレートで覆われている

日本は4枚のプレートが接している
「三重会合点」ともいわれる地点の真上にできた
富士山

(80〜 玄武岩マグマは「本源マグマ」なのか)


158より
デイサイトという石は 中学校の教科書では出てきません

 要するに、マグマが冷えていくにつれて次々に金属元素を含む造岩鉱物が晶出していき、そのたびに残ったマグマはケイ素の割合が大きくなり、最初は黒っぽかった色は、だんだん白っぽくなっていくのです。ケイ素の含有率は、玄武岩が50%前後、安山岩が60%前後、流紋岩が70%前後です。なお、流紋岩という名前は、表面にマグマが流れた跡(流理)が見られるものがあるためにつけられました。


158から 「火山岩における結晶分化についての、教科書の説明」に入られ
カレー鍋にたとえた結晶分化の全体像「図5-5 火成岩と深成岩の結晶分化作用」が159に掲げられています


7.29
(記入者のタイミング)*1
(第5章 三つの石と家族たち)157〜
火山岩の結晶分化

 私が理科の先生だったら、やはりカレー鍋のたとえを持ち出すでしょう。第2章でも、玄武岩をいろいろな「具材」が溶け込んだカレーに見立て、それが冷えるとさまざまな具材が結晶となって出ていくために、カレーがさまざまに変化するという話をしました。

 そのときは個々の具材、つまり造岩鉱物の名前は出しませんでしたが、あらためて中学校の教科書を見ると、なんと造岩鉱物の名前もあげて、マグマの結晶分化について説明しています。そこで以下は、それに沿って話を進めていきます。

 火山岩の大本は、玄武岩です。玄武岩は地下深くでは1200℃以上の高温で、橄欖石、輝石、角閃石、雲母、長石、石英、磁鉄鉱などさまざまな造岩鉱物がどろどろに溶け込んだマグマの状態です。しかし、マグマが上昇していくにつれて次第に冷えていくと、これらの鉱物は融点の高い順に、結晶となって晶出してきます。

 まず、最も融点が高い橄欖石が出てきます。マグネシウムや鉄を多く含む橄欖石の結晶は重いため、マグマの液とは分離して、沈んでいきます。残ったマグマは玄武岩よりケイ素の割合が大きい安山岩のマグマになります。
(記入者的)*2
 次に、そこからさらに輝石、角閃石、雲母などが分離していきます。残ったマグマはそれにつれて、ケイ素の割合が大きくなります。そして最終的には流紋岩になるというわけです。第2章で名前をあげたデイサイトという石は、中学校の教科書では出てきません。
以下数行重複しますか
 要するに、マグマが冷えていくにつれて次々に金属元素を含む造岩鉱物が晶出していき、そのたびに残ったマグマはケイ素の割合が大きくなり、最初は黒っぽかった色は、だんだん白っぽくなっていくのです。ケイ素の含有率は、玄武岩が50%前後、安山岩が60%前後、流紋岩が70%前後です。なお、流紋岩という名前は、表面にマグマが流れた跡(流理)が見られるものがあるためにつけられました。

 火山岩における結晶分化についての、教科書の説明はこのようなものです。
〜158

(深成岩の結晶分化 158〜)


7.29
(第2章 海洋をつくる黒い石)88〜
火成岩とカレー鍋

「巨視的に見れば、マグマからできる火成岩(安山岩、デイサイト、流紋岩など)の大本をたどれば玄武岩にいきつく」(「ざっくり」)

 また少し、カレーのたとえをもち出すと、鍋の中に、切ったばかりの野菜や肉などの具材や、固形のカレールーを入れた状態を、橄欖岩でできた固体のマントルと思ってください(いささか乱暴ですが)。鍋を火にかけて、長時間ぐつぐつと煮込み、すべてが溶け込んでどろどろになった状態が、玄武岩質マグマです。火を止めて落ち着かせれば、玄武岩カレーのできあがりです。

 ただし、このカレー鍋にはいったん溶け込んだ具材も、何かの拍子で火が消えたり、水が混ざったりして温度が下がると、元の形に戻ってしまうという不思議な性質があります。いわば、ジャガイモの結晶や、ニンジンの結晶ができるわけです。そして結晶は、鍋の外に出ていってしまいます。

 すると、鍋の中の具材の構成が変わります。その組み合わせによって、できあがったカレーが安山岩カレーになったり、デイサイトカレーや流紋岩カレーになったりするというわけです。これは「結晶分化作用」(図2-8)と呼ばれ、本書の後半で岩石について考えるうえで非常に重要な現象ですので、覚えておいてください。

 玄武岩についての紹介は、とりあえずこのくらいにしておきましょう。
〜90

下で(も)保存?
*1(記入者による)
(第5章 三つの石と家族たち)157〜
火山岩の結晶分化

 私が理科の先生だったら、やはりカレー鍋のたとえを持ち出すでしょう。第2章でも、玄武岩をいろいろな「具材」が溶け込んだカレーに見立て、それが冷えるとさまざまな具材が結晶となって出ていくために、カレーがさまざまに変化するという話をしました。

 そのときは個々の具材、つまり造岩鉱物の名前は出しませんでしたが、あらためて中学校の教科書を見ると、なんと造岩鉱物の名前もあげて、マグマの結晶分化について説明しています。そこで以下は、それに沿って話を進めていきます。

 火山岩の大本は、玄武岩です。玄武岩は地下深くでは1200℃以上の高温で、橄欖石、輝石、角閃石、雲母、長石、石英、磁鉄鉱などさまざまな造岩鉱物がどろどろに溶け込んだマグマの状態です。しかし、マグマが上昇していくにつれて次第に冷えていくと、これらの鉱物は融点の高い順に、結晶となって晶出してきます。

 まず、最も融点が高い橄欖石が出てきます。マグネシウムや鉄を多く含む橄欖石の結晶は重いため、マグマの液とは分離して、沈んでいきます。残ったマグマは玄武岩よりケイ素の割合が大きい安山岩のマグマになります。
*2(記入者による)

『三つの石で地球がわかる』2017/藤岡換太郎



7.28 眠気 睡眠不足

7.29 88〜のほうから引用うちこみをはじめ
157〜(*1に移動)へ 途中(*2)で そういえば と
撮っていないものを思い出し撮影 8:14-8:15
もどると投稿ボタンが無効 *1-*2 間は保存されず
画面はGの日 杉原千畝 検索結果頁となっていて
再入力(変換候補により 良くも悪くも時短)



 



2019年5月30日 9時12分
「月事」のはなし
 
この26にも読んでいたあたりを少しだけ引きます
以前どこかで記入したのかもしれませんが あらためまして

おうたい/2019年5月26日 13時30分の記事

  女子は一四歳にて月事げつじ下り
  『黄帝内経』(黄帝素問)

  月候  月水  月信
  月経  経期

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『月経のはなし』武谷雄二 著


定義より

子宮内膜からの周期的出血

内容物は血液 粘液 子宮の内腔を覆う細胞(子宮内膜細胞)
それがはがれたことにより生じたきずからの分泌液 細菌などで
半分から四分の三は血液

月経血はすべて体外に排出されるのではなく
その一部は卵巣から子宮へ 卵らんが運ばれる経路に逆行していき
おなかの中(腹腔内)にも達する

「卵子」は受精する前の状態のみをさすのに対し「卵」は受精後のものまでを含む 4


語源と俗称より
平安時代には月水と記述していた記録があり
安土桃山時代になると月経という言葉が見られる

英語では menstruation または menses
ラテン語で暦の月を表す mensis という単語より派生
mensis は ギリシャ語で地球の衛星である月を表す mene と関係し
ドイツ語 フランス語 デンマーク語 スウェーデン語の表記も
すべて英語と同じで スペイン語 イタリア語などのラテン系
ハンガリー語 ルーマニア語などのスラブ系も類似の表記 5

(さまざまな俗称が用いられていて)
1990年代にアメリカで発行された性教育の教材の中でも
一般の人々の間ではなじみのない「初経 menarche」と婉曲表現

日本では1960年代から「アンネ(の日)」と呼ばれたこともあった


月経血は固まらない
 月経血は子宮内で凝固しない。これは明治以前から知られている。もし凝固したら子宮内に停滞し排出されないため、子宮は過度な収縮によって外に出そうとし、そのため激痛と子宮内の感染を惹き起こすことになるだろう。通常は、体のいかなる部位からの出血も、短時間に大量の出血が起こらない限り、血液がやがて凝固して固まることになる。
 月経血が固まらないのは、血液が固まるのを防ぐプラスミンという酵素が月経血中に存在するためである。おそらく子宮内の血管より流出した血液はいったんは凝固し、それにより止血がなされる。しかし凝固した血液はすぐにプラスミンによって溶解(液体化)する。プラスミンの活性と月経血の量は相関するというデータもある。従って、子宮内のプラスミンの活性が亢進していると子宮内での止血機転が十分に作動せず、子宮からの出血が止まりにくくなると推定される。 

長年にわたってヒポクラテス(紀元前460ころ〜前375ころ)の唱えた説が通説となっていた
彼は「月経とは体内に蓄積した有害物質を排除することであり、出血することに意味がある」と解釈していた。現在では、妊娠にいたらなかった子宮内膜を完全に除去することが月経の意義であるとされている。従って子宮内膜が完全に剥脱しなければ月経の意義を果たせない。 9


20世紀前半の迷信より
17世紀においても「月経は女性の病気であり月経血を出すことで体が浄化されるのである」というヒポクラテスが述べた月経に関する解釈が根強く続いていた

17世紀のスペインにおいて、ユダヤ人は当時流行していたペストのスケープゴートとして迫害されていた。そのようなことを背景にして、ユダヤ人は男でも月経があるという診断を下すことがあった。実際は痔や皮膚疾患による出血などだろう。月経がいかに忌み嫌われていたかがうかがえる。

信じがたいことであるが、1875年には、月経は女性が文明的な生活をすることにより発来するようになり、原始生活を送っている時代には月経はなかったという医師の論文が発表されている。さらに驚くべきことに世界的に有名な医学雑誌(British Journal of Medisine) において、1878年の時点で「月経時にある女性(月経血ではない)はベーコンを腐敗させることがある」という見解が掲載されている。 61

20世紀に入って
ウィーン大学の教授は月経時の女性の汗、唾液、血液中に「月経毒」が存在し、花を枯らす作用があるという結論を1920年、医学雑誌に掲載している。同様に、ある小児科医は母乳中にも月経毒が混入しており、これを飲んだ子供は病気になるという説を唱えていた。 61

ちなみに月経の実体が科学的に明らかにされた現在でも、アメリカでは月経のことを俗語で「the curse=のろい」ともいう。 63


ヒトの特殊さ 207〜
 脱落組織は栄養膜細胞とともに胎盤の構成成分となる。脱落膜組織が形成されることで胎児由来の絨毛は母体側の細胞と調和を保ちつつ増殖し、かつ母体にとって異物である胎児が母体により免疫学的な拒絶反応を受けることが免れることができる。また、脱落膜が存在することで、脱落膜細胞を含む胎盤は胎児が娩出されたあと速やかに子宮壁から容易にはがれて排出されることになる。月経が見られる種は胎盤が子宮壁に深く進入することを可能にするために、母体のサイズに比して大きい子宮を有するという特徴もある。
 ヒトでは月経周期の後半、すなわち黄体ホルモンが存在している時期に妊娠成立の有無にかかわらず脱落膜組織が形成されている。この組織は肥厚しており、多数の血管がそこに進入している。着床する際に脱落膜組織がある程度発達していないと着床、卵の発生、ヒト型の胎盤の形成などが順調に進行しないものと考えられる。もし、妊娠にいたらないと黄体ホルモンは排卵後約2週間で分泌が停止し、厚くなった脱落膜組織ははがれ、それとともに脱落膜組織内に存在している発達した血管が破綻し、相当数の出血をする。これが月経である。 208

ヒトでは子供が胎内で発育を遂げるための胎盤を発達させるため
妊娠の成立の有無にかかわらず排卵ごとに子宮内膜を脱落膜組織に転換させるという
ある意味 無駄な作業をする必要があり
妊娠しないと月経という形でリセットされる 208

『月経のはなし』2012 武谷雄二

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11:10ころ 別室(http://ka-on.hateblo.jp/entry/2019/05/30/091708)とともに更新

(この2(3)頁において)深く拡大された欲と辛苦とが重なり合います

 



2019年5月2日 12時18分
中世の石切
https://www.shinsensha.com/books/2070/ より
紹介文
戦国時代、小田原では箱根火山が生みだした石材を用いて石塔や石臼などの石製品がつくられた。そして、江戸時代になると江戸城の石垣に使用する石材が切り出された。石という素材を通じ、中世から近世へという歴史の大きな転換点を支えた石切(石工)の生産活動を明らかにする。

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『戦国・江戸時代を支えた石 小田原の石切りと生産遺跡』16〜

御組長屋遺跡の五地点の調査
御組長屋遺跡周辺に石材加工の痕跡を残す遺跡が展開している

出土した遺跡は整理箱で200箱を超えたが、出土遺跡のなかで特徴的であったのは、石塔や石臼などの製品とともに、出土事例のまれな未成品が多量に出土したことである。

このときの調査では出土未成品の年代は特定できず
16世紀の所産と位置づけられ その後
2004年に東側隣接地の第甲賄世波掘調査が
石製品と石製未成品が11点出土 中世後半から近世のものとされた

詳細な年代観は不明だったが その状況を抜け出すきっかけになったのは 2005年に調査された山角町遺跡第乎賄澄16


みつかった石材の集積場
山角町遺跡第乎賄世蓮国道をはさんで御組長屋遺跡第甲賄世瞭鄲Δ砲△燭襦N尚篝廚竜離はわずか20メートル程度で、遺跡名は異なるものの同一の遺跡と評価できる。『新編相模国風土記稿』などによると、山角町は戦国時代から畳職人や屋根職人などの職能民が居住する地域でもあったとされている。

この遺跡からは未成品を含む石製品が134点出土
なかでも100号遺構と名づけられた集石遺構からは101点の石製品が出土している
16世紀第3四半期のものとみられる堀と自然流路に切られていることから 16世紀第2四半期には廃絶したと考えられ

これにより100号遺構は未成品を含む石製品が出土した遺構としてはじめて時期を特定する手がかりをもつ遺構となった

さらに あらためて一緒に出土した陶磁器を再調査
瀬戸・美濃窯の陶磁器編年でいう後舷掘疎舁1段階 つまり
1530年ごろまでの製品に限られていることが判明

これにより100号遺構は16世紀前葉までに廃絶した小田原北条氏時代の遺構であることが確認できた
 
同遺構からは石製未成品のほか、多くの自然円礫とともに、現代の石工が「コッパ」や「ズリ」などとよんでいる加工の際に出る破材も出土した。また、一部加工した自然円礫や製品を再加工しようとしていたものも出土している。このことから、100号遺構に近い場所に石製品を加工する石材加工場があり、この場所は、石材を集積しておく集積場=ストックヤードであったと想定することができたのである。 19


(石材はどこから)

石材を分類する
多量の石製品の原料である石は どの火山により生成されたものなのか
まず 出土した円礫・破材がどんな石か 肉眼観察での分類

箱根火山に起因する岩石には堆積岩と火成岩があるが
出土している石材の多くは硬質な火成岩だった

箱根の火成岩の多くは安山岩
色合いや含まれる斑晶の違いにより肉眼で大きく8種類に分けた
(1種類は堆積岩の凝灰岩)

石材を分析するには切断し、ガラス板に貼り付けた岩石プレパラートを作成して、偏光版を装備した顕微鏡を使って詳細に観察する必要がある。そのため、化学分析をおこなうためには、サンプルを破壊する必要がある。しかし、通常は出土遺物を破壊するわけにはいかない。山角町遺跡第乎賄100号遺構の場合は、破材が多量に出土していたため、これらをサンプルとすることで、石製品や未成品を破壊することなく調べることができたのである。 20


箱根中央火口丘の安山岩を用いる 20〜22
7種類の安山岩のうち 5種類が後期中央火口丘の安山岩だととわかる(他の1種類は外輪山 1種類は不詳)

中央火口丘の石は 微細な斜長石を包含する大きな輝石斑晶を含む特徴があるため
肉眼でも黒い斑晶(輝石)のなかに白い斑晶(斜長石)がみえる
一方 外輪山起因との分析結果が出た石には同様の特徴がみられない

 この特徴は肉眼観察でもおおよそ確認できるため、御組長屋遺跡・山角町遺跡合計6地点で出土した石製品の素材・石製未成品362点についても肉眼観察を実施したところ、判別可能なものの大半が中央火口丘の石の特徴をもつことが確認できた。
 以上のことから、石製品の製作にあたっては中央火口丘の石が意図的に選択されたと考えることができる。そしてこのことは小田原周辺の石塔を実見する作業をくり返した結果からも裏づけられた。中央火口丘は、小田原からはもっとも遠い箱根火山カルデラ内に位置する溶岩グループである。そのような石が大半を占めるというのは予想外の結果であった。 21
 もちろん、箱根以外の地域から産出する石にも、箱根の中央火口丘と同等の特徴がみられるものがあり、肉眼観察だけでの石材同定には不確かな部分があることは否めない。しかし、今回の調査結果により得られた肉眼観察の成果は、文献史料で確認された「見立(て)」が、現代のわたしたちの肉眼観察においても、現実におこなうことができることを明らかにしたのである。
 詳細な観察をおこなうためには、個々の破壊分析が必要であるが、前述のような化学的分析結果をふまえた肉眼観察は、硬質石材の産出地が限定的である関東地方においては有効であり、とくに関東地方南部の石を同定するためにはきわめて応用性の高い「見立(て)」ということができよう。 22


使用したのは河原の転石
中央火口丘の石をどこで採取したのか の検討
手がかりとなったのは出土した石材の大きさと自然面の有無

出土した石材362点の大きさはさまざま
多くが加工途中に欠損・遺棄された未成品
すべての石材の本来の大きさを把握することは難しい

限定的にはなるが
ある程度大きさを計測することができるものを抽出
  大きなもので石製容器の44.7センチ
  粉挽臼の42.2センチ
  小さなものは10センチ強

遺跡からは未加工の円滑な自然面を有する未成品・円礫も多数出土しており
未成品よりも大幅に大きな石は使っていなかったと考えられる

 こうして未成品の大きさと未加工の円礫から推測すると、いずれの原料の石も直径50センチ前後のものを入手できれば、作製することが可能と解釈される。そのため、そのような大きさの中央火口丘の石が分布する場所こそ、石製品の原材料の採取地と考えられる。
 遺跡にも近く、直径50センチ程度の中央火口丘の円礫が確保できる場所はどこか。それは、円滑な自然面をもつ特徴から、中央火口丘の石を麓まで運んでくれる河川が最有力であり、中央火口丘の位置する箱根火山カルデラ内から唯一平野へと流下する早川の河川敷だけが唯一その条件に該当する。実際、現在も早川の河川敷では同等の円礫が多く散布している様子を確認することができる。 24
『戦国・江戸時代を支えた石 小田原の石切りと生産遺跡』
佐々木健策


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コピー-港区で拡大までしたもの を 投入
5.2/13時半頃投稿 (〜5.3)
 




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