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紙・神・髪(坂まち通信 1992 /紙の歴史)
 
2014年11月18日 14時48分の記事

重複箇所 多くなっております



・雑司が谷・目白・関口・音羽・大塚・小日向・小石川・ のあたりについての小冊子 
といいますか ボリューム的にはパンフレット風でもあるような





坂まち通信』 1号 1992.6.1 より 

文章部分を抽出いたします  
画像やイラストにに添えられた説明などは不自然な流れになるかもしれません





(表紙より)

陸軍兵器庫の崖には
 猶樹木あり荒草萋々たり。
  崖下の陋巷を歩むに
   今猶むかしの井戸の残りたるもの多く、
    大抵は板にて蓋をなしたり。
     されど徃年見覚えたる細流は
      既に埋められて跡なし。
電車道を横断し
 音羽通西側の裏町を歩みしが
  ここにもむかし流れゐたる溝河は
   埋められて跡もなし。
永井荷風『断腸亭日乗』 昭和11年1月元旦より





創刊によせて

今から三十数年前、雑司が谷・本浄寺東の崖下に、小さな泉がわいていた。小学生だった私は、夏でも冷たいこの湧き水を、学校帰りに飲むのが楽しみだった。いつしかその小さな小さな泉も高速5号線の下に姿を消し、湧き水の存在を知る人も少なくなりました ―。
(記入者:勝手ながら 略しております)
地上からは姿を消しても、地価の深部にその水脈を伝える泉のように、残すべきものを残しながら真に創造的な暮らしの在り方を、息長く、考えていく ― そんな場として、今日、坂まち通信をみなさまにお届けいたします。





特集消えた川をたずねて/弦巻川・水窪川 東青柳下水
(岩田智明・小林顕一)

豊島区と文京区の境にあたる地域は、起伏の多い武蔵野台地の東端で、池袋・雑司が谷・水久保・小石川・清水谷といった、古くからの地名を見てもわかる様に、かつては豊かな水脈を抱いていた大地の下部からは、地下水が湧き出て、小さいながら清冽な泉を作っていました。今回はこの丘と谷をはうようにして昭和初年まで流れていた二本の小さな川をとり上げてみました。




秩父に源を発する地下水

文京区関口の椿山荘庭園の南斜面中程にある井戸は、今でも渾々と豊かな水が湧いている。傍らの説明版を読むと、この水は遠く秩父連山にその源を発すると記されている。このことでも解るように弦巻河と水窪川(東青柳下水)も、同じ水脈を抱く武蔵野台地の東端が水源となっている。





弦巻川の水源と流路

弦巻川は池袋という地名の由来となった。丸池という池を水源にしていた。現在の、メトロポリタンホテルと芸術劇場との間のあたりが、この池のあった所である。かつての流れは、明治通りを横ぎり、雑司が谷の谷沿いを流れ、清土鬼子母神の北側を迂回し、西青柳の崖ぎわを南流し、音羽2丁目より音羽通りをくぐり、水窪川と合流し神田川に注いでいた。

水源の丸池は、江戸後期の遊歴雑記(津田大浄/文化十一年版)には、『当村を池袋と号けし事ハ、往古夥しき池ありしによってなり中古より段々と埋まりしかど今もなお三百坪もあらんや』とあるようにかなり大きな池であり、江戸の同じ頃に出版された「雑司が谷里の諺」(金子直徳)にも『池ヶ谷の月と云いしハ(中略)ワたり半丁斗なる池にて水清らかに湧出し泉なりし』と書かれているように、豊かな水をたたえた袋のような形の池であったことが推測される。

*弦巻川の源であった丸池は、現在見ることはできない。丸池があった。豊島区立元池袋公園には数年前まで水源を示す石碑があったが、同池が地域開発のためビルに建て替わる計画で現在は区の方で保管。
丸池は昭和30年代にはゴミや石ころがふえ、池というより大きな水たまりと化してしまった。

*古くから雑司が谷の農家の水源ともなったこの丸池は、元々雑司が谷の内であった。江戸の頃、近隣の人々に雑司が谷八景の一つ「池ヶ谷の月」として上げられている。静かな武蔵野の原風景ともいえる趣をもったこの丸池は明示末頃まで水が湧いていたという。

*「弦巻川には大正までコイ・フナ・ドジョウ・ナマズなど多くの魚が棲んでいた」(吉田磯次郎さん)

*昭和七年、弦巻川は水質の悪化により、伝染病の温床となったため、ついに高田町会全員の決議により暗渠となった。(記入者:暗渠記念碑は大鳥神社にあるらしい)





水窪川(東青柳下水)の水流と流路

御府内備考によると「幅九尺、古来何川と唱相知不申細流に而、水上は巣鴨村雑司が谷、谷村之内田畑際より流出」とあり、この記述を明示40年の郵政省発行の地図で等高線をたどってみると、水源は現在の美久仁小路(青江美奈の唄で有名)の辺りとなる。

この辺りは、今では高低差を感じとれない地形となっているが、江戸期の字名(あざな)を調べると、蟹窪と呼ばれた湿地で、急激に落ち窪んだ谷地だったと考えられる。水源の周辺は根津山と呼ばれ、サンシャインビルがそそり立つ現在の姿からは、想像もつかない静かな所だったのである。

川は根津山の地から、今のサンシャインの南を流れ、都電荒川線をくぐり、水久保を蛇行し、文京区の坂下通りの裏を通り、大塚5丁目の善心寺下の湧水から出る地位だな流れと合流し、豊島ヶ丘御陵や護国寺の豊かな地下水を集め、東青柳町から音羽の今宮神社先に至って弦巻川と出会い、神田川へ注いだ。


*(現在ビル新築のため空地となっている)造幣局の南東にある望月家。山梨県から和紙づくりの技を伝えた家である。70年前、近くに深さ一丈五尺の池があったという。昭和30年代まで紙を漉いていた。

*水窪川の蛇行の後を示す迷路のような露地が続く、現在東池袋5丁目付近。東京でも屈指の住宅密集地。この一帯は水久保と呼ばれて戦前は大雨のたびに家が水につかったという。

*造幣局南東に残る石積の下水道開口部旧巣鴨監獄の下水はここで水窪川へ下ちていたと思われる。

*大正の頃まで、水窪川の水源があった東池袋一丁目美久仁小路付近。古老の話では池の辺に栗の木があったという。故井本正太郎さんの話では、70年前には、この近くの谷で川エビが獲れたという。瀧澤光雄さんによれば、戦後水源付近の谷はスガモプリズンに勤務していた米兵のフットボール場として造成するために、となりの根津山の土で埋めてしまったということです。


*(清立院傍の木村橋)享保十八年の銘の入った石供養碑。寛保二年木村という人によって石橋が掛替えられことで木村橋という。

*(清立院・木村橋)「尼寺の下あたりはちょっとした渓流のようだった(大正末)」(長島正雄さん)

*(〃)ヘビが出るので 小学生のため シャモをかっていた

*(坂下通り)昨年取りこわされた木造三階建ての岸野ラムネ工場。工場内の井戸も、今は駐車場となって姿を消した。

*清土鬼子母神、この地から出土した鬼子母神像を祀る。土地が周辺より一段と窪んでいて境内の三角井戸(非常にめずらしい)をのぞくと、水面が間近にみえる。弦巻川は近くの泉清さんのお話では昔はもっと川巾が広く、神社南には小さな滝がありホタルの名所であったという。

*神社横の民家の井戸。清冽な水が手にしみた。

*水車で米をついていた(雨の日のみ)

*弦巻神社の祠は、昭和三十年中ごろまで、清土鬼子母神、東南の高速5号線下にあった。今は清戸坂を渡った目白台のビルの中に移されている。

*今でも御陵内の池にはカモが飛来する。

*護国寺境内の池から流れていた細流に懸っていた石橋。今は富士塚の下に移された。

*明治37年の護国寺の銅版画。寺内の中ほど右に描かれた池は、現豊島ヶ岡御陵の池(湧水)とともに水窪川の水源となっていたことがわかる。35年ほど前には、この池でオハグロトンボをよく見かけた。寺が置かれる以前は、この辺りは幕府の直轄の高田薬草園であった。

*旧青柳小うらのがけにザリガニがいた 昭和30年代まで

*「戸板で川をせきとめ水泳をした(明治末)」(柴崎留吉さん)

*御陵裏の水窪川の流路がそのまま残る道。この道ぞいの柴崎さんのお宅には、大水の時に流されてきたという石柱や水窪川に懸っていたという石橋の一部が残されている。

*坂下通りを馬車が行き来した40年前まで、道路際にある井戸。戦前から近くの人々に大切にされ戦時中や渇水時には活躍した。現在は故障中で区に再生を依頼しているという。

*「明治末 ある大雨の日に大蛇が川をさかのぼっていた」(吉田磯次郎さん)

*(坂下橋(泪橋))巣鴨監獄に行く罪人が家族とここで別れたというので泪橋という。

*昭和初年頃には川は汚れ大ドブと町の人たちは呼んだ。

*提灯をつけ丸木橋(石橋?)をわたって君の湯へいった。(大正初)





弦巻川、水窪川流域の地形と地質

弦巻川と水窪川両流路の地形の背景となるこの豊島台は、武蔵野台地の成増面に位置し、地質構造はローム層・礫層・東京層・上総層群から構成され、このうちローム層の部分が地上に現れている。

川はこの豊島台を南東の方向に流れ、神田川に注いでいた。西に高く、東に低い武蔵野台地では神田川のように東に流れる川が多いのだが、台地の西北部を流れている川は南東の方向に流れている。

これは台地が形成された時、南東に低くなる傾斜を持っていたことを示している。この二つの川の流域で最も特徴ある地形と思われるのは、護国寺から下流(音羽谷)に見られる底の平らな講型の谷で、川が横方向に浸食を進めていったことを示している。この特徴から昔の音羽谷は低湿地が広がり川も合流し一本となって下っていて、二本に分かれたのは人為的な要因によるのではないだろうか?

*護国寺正門前で、有楽町線の地下鉄工事作業中約12万年前のセイウチの頭の骨が出土。ここが昔海であったことがわかる。





練馬大根発祥の地!?

江戸時代名所図にもみられるように、この辺は田畑が多く、江戸時代から続いた旧家のご当主柴崎六郎氏(大塚5丁目)のお話では「練馬大根の発祥はこの辺であったと聞いている」とのこと。古老の話の中にも「大根の洗い場」のっことは、たびたび出てくる。雑司が谷の清立院附近や、大塚辻町下にも神田の野菜市場(ヤッチャバ)へ出荷する大根の洗い場があったようだ。また雑司が谷では同じ頃、弦巻川の流れで水車を廻わし、米をつく風景は、ごく日常のものだったと聞くと、嘘のような気さえする。





立地を生かした音羽の製紙

1833年(天保四年)長野県飯田市の竜江村から、紙問屋の騒動のため新天地を江戸に求め、製紙職人久保田増平が、豊島区高田に移り住んだ。しかし製紙の排水が神田川を汚すということで、音羽へ移転、弦巻川、水窪川の二つの川を利用し、排水を神田川上水の関口の取水口より下流へ流すことで許可を得、操業を再開する。北に崖を背負い、陽の当たる南面を持ち、川と井戸に恵まれたこの地は、いわば最良の和紙づくりの条件を備えていたといえる。音羽の製紙は、水引・元結・巻紙などとして、小石川の加工職人達との連繋プレーにより、江戸の町で高い評価を得ていくことになる。その後震災で製紙の生命というべき水脈に変化があったため、音羽の製紙は水窪川沿いの日ノ出町近くに移り、昭和30年代まで続けられた。

音羽の今宮神社には、製紙業者が明治時代、勧業博覧会に出品した製品を賞揚された事を記念して勧請した、和紙の神(天日鷲の命 あめのひわしのみこと)が祀られている。

*東京名所図会に出てくる音羽の滝の説明によると上水の余り水を引いて流した人口の滝のようである。玉水簾と名付けられ、蜀山人も訪れた名所であった。明治頃まで日本橋あたりから人力車で涼みにきたという、井本正太郎さんのはなし。

*長野県飯田より和紙づくりの技術が伝わった音羽の町は、地形が伊那谷とよく似ていて木曽山脈を越えてくる乾燥した風と天竜川の水とそして、和紙を干すための日照。この立地条件にかない一時音羽は、約80軒もの工房が並び、一大信州人町となった。

*音羽1丁目に残る紙問屋の坂巻商店。音羽も町の再開発でビルの林立する通りとなり、紙関係の店や看板もほとんど姿を消した。音羽の和紙は日本髪に欠かせない元結紙の製造で発展した。断髪令の出された後の明治七年発行府県物産表でも、音羽の和紙は元結の項に千六百八円五十銭が記載されている。水引にも加工されたが すき返し紙が生産の大半を占めた。

*音羽の製紙業者が祀った5天日鷲の命。今宮神社境内本社右手横にある。





水と地場産業

坂まちの中を流れていた幾筋かの川のほとりには、明治以降、水と密接につながった産業が興っている。豊島区の谷端川(千川)では製氷・醬油製造が行われ、水車で薬草をついて製薬を行っていた太田製薬は今も千川通りで営業を続けている。水窪川の川筋にはラムネ工場があり、地下水も併用して昭和30年代まで操業を続けていた。

*筑波大付属盲学校の北側崖上に自生するカタクリ。この崖上は、高速道路が谷沿いにできるまでは一面ずっとカタクリが繁茂していたところである。適当な湿り気のある斜面を好むカタクリは、本来が山の植物である。30年前にはまだそうした環境が残っていたのである。

*「アヒルが弦巻川の小魚をエサにしていた」(田口こまさん)

*「大水のとき上流から木が流されてきて、それを拾ってフロのたきつけにした」(堀江ふみさん)





滅ぼされた川

東京の街では、明治の末期に近代化政策の一つとして、ドブ川化していった市中の川がつぎつぎと埋められていったが、弦巻川と水窪川が姿を消すのは昭和に入ってからである。震災によって消滅した市中から、この小さな川沿いの土地にも、被災者たちが多く移り住み、急激な都市化(?)が進み、川は短期間の間に下水へと変身し伝染病が流行し、低地では大雨のたびに汚水が家に入りこんできた。愛され、親しまれ、家業の源であった川は、もはや不潔な邪魔者となってしまい、ついに二本の川も昭和十年前後にその姿を消したのである。

*二つの川に懸っていた24の橋(平成四年五月現在調)中でもその往時の痕跡をわずかにとどめているのはこの今宮橋。この石の長さからすると川巾は、ほぼ一・三米位と推測される。水が流れていた頃は水量も豊かであったという、今宮神社の菊地さんのはなし。

*昭和39年に音羽は、高速5号線が開通。弦巻川のおもかげも残っていた町並も消えた。蓮光寺山門のうしろを横断する5号線。

*桜木町(現音羽1丁目)で弦巻川・水窪川は合流し神田川に注いでいた。暗渠が見える。

*「昭和十年頃水窪川を埋める工事現場でトロッコに乗って遊んだ」(椙田実さん)

*音羽1丁目の裏、小日向の崖下には今でも清水が湧き出ている所がある。清水を受ける小桶の中には、季節の草花が投げ入れられていたり、夏には西瓜が冷えていたりする。





弦巻川と水窪川の由来

弦巻川は鎌倉時代、八幡太郎義家が、この川辺に陣を引き、弓の弦を巻いたところから、又義経がこの地を渡ったとき鶴が多く舞い上がったからとも伝えられている。上流部を布引川ともいう。水窪川は、御府内備考には、東青柳下水(この場合の下水は、上水に対し下水で、現在の下水とは異なる)と呼ばれ川の名は無いとされ、音羽に入ると両川とも鼠谷下水と言われた。町の人々は音羽川、水窪川とも呼んだ。





【提案】

現在、音羽は小日向の崖から何ヶ所か湧水が認められる。又御陵の中には、蟹池という湧水地がある。昔はこの池から流れを集めて水窪川に注いでいた。点と点を結びビルの谷間にふたたび清流を引けないものだろうか!?





下線は記入者によるもの





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東京さまよい記さんより
http://blog.goo.ne.jp/asaichibei/e/7da4180628512760616eae58dcd2efd2


【八幡坂〜今宮神社】2011年02月08日 の旅の中で『断腸亭日乗』を紹介されている 

永井荷風は昭和11年(1936)元旦このあたりを訪れたことをに書いている。
「正月元日。晴れて風静なり。午頃派出婦来りし故雑司谷墓参に赴かむとする時、鷲津郁太郎来る。その後宮内省侍医局に出勤すると云ふ。日も晡ならむとする頃車にて雑司ヶ谷墓地に赴く。先考及小泉八雲、成島柳北、岩瀬鷗所の墓を拝し漫歩目白の新坂より音羽に出づ。陸軍兵器庫の崖には猶樹木あり荒草萋々たり。崖下の陋巷を歩むに今猶むかしの井戸の残りたるもの多く、大抵は板にて蓋をなしたり。されど徃年見覚えたる細流は既に埋められて跡なし。久世山に上る坂の麓に今宮神社の社殿神楽堂残りたり。社殿の格子に石版摺の選挙粛正の紙を貼りたり。殺風景もまた甚し。電車道を横断し音羽通西側の裏町を歩みしがこゝにもむかし流れゐたる溝川は埋められて跡もなし。たまたま不動阪の方へ上り行く小道の左側に石橋の欄干の残りたるを見出したり。日は既に暮れ果てしが電柱につけたる火影にてさくらばしと刻せし文字をよみ得たり。此石橋の左側は人家の間の路地より直に何とやら云ふ古寺の門前に出でそれより関口の公園につゞくなり。江戸川橋の上に佇立みて乗合自働車目白駅新橋間の来るを待つ。江戸川の流も今は不潔にて何の趣もなき溝渠となりたれど、夜になりてあたり暗ければ水声の淙々たるを聞くのみ。此の水声をきけばわが稚けなかりし頃のことも自ら思出されてなつかしき心地す。新橋停車場裏にて車より降り酒肆金兵衛に入り屠蘇三杯を傾け夕餉を食して家にかへる。燈下英国公使アルコツクの江戸滞在記を読む。」





     ・・・・・・・・・・




飯田の「紙問屋の騒動といいますのは

歴史の勉強さん内の 大名騒動録というページに
http://roadsite.road.jp/history/soudou/soudou-iida.html
「紙問屋騒動」という項目がありますが このあたりのことでよろしいのでしょうか?


<飯田藩の騒動>
南信濃伊那谷の飯田は、関ヶ原後に小笠原氏、脇坂氏が短期間領主を勤めたのち、
寛文12年(1672年)に親良系堀氏の堀親昌が入り、以後12代200年にわたり支配した。
堀氏の飯田藩は、石高2万石(のちに1万5千石)の小藩であり、多くの騒動や一揆が発生した。


【紙問屋騒動】より

文化6年(1809年)に 紙問屋騒動が起こる

この地方は古くからの和紙の産地であり、百姓たちは冬の間、紙を漉いてその紙を上納した。一種の内職であり、家内工業であった。上納した紙は安い値段で藩に入り、その分が年貢から差し引かれ、また藩士個人へ売り渡した分は安価ながら現金収入になっていた。

ところが文化4年(1807年)のこと、毛賀村林新作(のちに六郎左衛門と改名)が、御用紙の一手引き受けを条件に、公許の紙問屋の設立を願い出たことから騒動が起きる。


農村には商人を置かないというのが建前

商売をする農民も現れる

一旦崩れだすと建前だけでは止められず
なし崩し的に商人の権利が侵されていくこととなった

(略)

結局紙漉職人が馬鹿を見ることになった




     ・・・・・・・・・・



天日鷲命」と出てきましたが 音羽のほうの今宮神社には
ここ数年で数回通りかかっておりまして うち2回は敷地内でゆっくり



 と 和紙


そして 紙のそもそも・・ ということで 

下部の「続き」部分に お詳しい方のところから引用させていただきます 



地名や名称 用語などが 
個人的にさまざまなシーンを呼び起こしますような   様様 






  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



このページは amorphousM」「水辺」の方面の関連です


その後 それらはexciteに移しました
2021.8.29追記

M
https://katation.exblog.jp/24286140/

水辺
https://katation.exblog.jp/24286277/



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作業用BGM〜冬の夜空に〜 Winter Moon And Stars [Jazz]
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紙への道さんより 

「日本に紙を伝えた曇徴の来朝(西暦610年)以前に紙およびその製法が、わが国に存在していると考えられます」

「そのため曇徴はわが国の紙祖でないとするのが通説になっています」

「そしてわが国の紙の始源については、中国・朝鮮からきた説と、日本に古くから紙があったとする考え方があります」



http://homepage2.nifty.com/t-nakajima/32toppage.htm
紙祖神 天日鷲命

日本に古くから紙があったとする説のひとつが、「天日鷲命(あまのひわしのみこと)」を紙祖神とする説ですが、阿波(今の徳島県)のほか全国各地の紙郷で紙祖神として祀られています。

アワガミファクトリーのホームページ阿波和紙 -Awagami Factory-(阿波和紙)によれば、

「阿波和紙の始まりは、今から1300年ほど前のころ、忌部族という朝廷に仕えていた人達が、現在の徳島県麻植郡山川町の地に入り、麻や楮を植えて紙や布の製造を盛んにしたとの記録が古語拾遺(807年)に見られ、以来、忌部族の始祖天日鷲命(あまのひわしのみこと)を紙の始祖伸として崇め祭ることにより、その技術が伝承され現在に至っています」

とあります。

このように天日鷲命は、伝統ある阿波和紙の紙祖神とされています。



その天日鷲命について、もう少し説明します。天日鷲命の名前の由来は次のようです。神話で知られている高天原の主神、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天之岩戸に入られたとき岩戸の前で天鈿女命(あまのうずめのみこと)の舞いと神々の踊りがはじまりました。このときこの神が弦楽器を奏でると弦のさきに鷲が止まりましたので、多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥をあらわす鳥といってよろこばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされたということです。

その天日鷲命は忌部(いんべ)氏の祖として、阿波(徳島県)の開運・開発・殖産の神で、徳島県麻植(おえ)郡山川町に残る伝承に、紙の祖神として、山川町高越山に高越神社として祀られています。



それに関連して、林 正巳著「和紙の里」の中の「和紙の起源と麻および忌部氏との関係」で、次のように記載されています。

なかでも注目されるのは、徳島県麻植郡山川町に残る伝承である。この郡名となっている「麻植」には重要な意味がある。これは文字どおり麻を栽培することであって、大和から阿波の地に派遣され、国土開発の命をうけた天日鷲命が、この地に麻が豊富に自生していることに目をつけて、麻を栽培する適地としたからであろう。

この忌部氏は国家の祭祀を担当してきた氏族で、その職責にともなって神前にささげる幣をつくっていた。この幣の原料として麻が使用されていたため、その原料確保がひとつの職責であったわけである。

この幣は、後には紙でつくられるようになったが、上代においてはこれを木綿(ゆう)と称して麻のせんいからつくられたといわれている。これは日本に独特なもので、紙の原始形を示すものであると考えられる。もちろん、これらは書写用には不通ではあったが、大陸との交渉がはじまり、「紙なるもの」に接するようになって改良されていったであろう。このように、先進文化のなかで「紙」を知った日本人の祖先は「紙とは糸でてきたなめらかなもの」という意味と知り、さらにそれが神そのものと考えたのか、「紙」を日本流でよむとき「かみ」と訓よみにしたと考えられる。このような日本人的発想は、新しく珍しいものはすべて「神からの授かりもの」「神そのもの」とする意識が根底にあったがゆえであろう。

かかる紙は、日本においては、たんに神事に使用するものとしてのみつくられていた。しかし、この日本固有の紙が、その後、渡来人の技法を加えて混然一体となり、今日の和紙が形成されていったと考えることもできるであろう。



そして、天目鷲命を紙祖神とする経緯には次の記述にあります。

西暦807(大同2)年に成った斎部広成「古語拾遺(こごしゅうい)」の神武天皇大和奠都(てんと)の条に、

「天日鷲命の孫(すえ)は、木綿(ゆう)及び麻、並びに織布(あらたえ)を造る。よって天富命をして、天日鷲命の孫を率いて、肥饒地(よきところ)を求め、阿波国に遣わして、穀(かじ)、麻の種を植えさせた。その裔(すえ)は今かの国にあり、大嘗(おおにえ)の年に当たりて、木綿、麻布、また種々(くさぐさ)の物を貢(たてまつ)る。郡の名を麻殖(おえ)とする所以(ゆえ)の縁(もと)なり」

とあります。

ここで穀は楮(こうぞ)であり、木綿はこの穀の皮を細く裂いたものですが、これを織れば栲布(たくぬの)となり、これは紙の原料でもなります。

 

この記事にもとずいて、佐藤信淵(さとうのぶひろ)は「経済要録」(1827年)で、

「古語拾遺岩戸隠れの条に、天日鷲命にのたまいて、穀木をうえて、白和幣(しろにぎて)を作らしむる事あるを按ずるに、穀木は即ち楮樹の事にて、古は此木の白皮を木綿と名づけて白和衣(しらにぎたへ)の神衣(かうそ)を織たるものなれば、紙を漉出せし事も此時代を距る事遠かるまじく思はるゝ也。」

とし、また、屋代弘賢は「古今要覧稿」(1842年)で、

「……依て思ふに皇国のくしき神代にして繭をとり絲をひきては、他国に勝れれたる絹布を自から織そめたる事など有るを、紙をすく事も皇国のいにしえになくてあるべき」

と記述しております。このように二人の国学者は、和紙の起源をこの記事に求めて、天目鷲命を紙祖神としたわけです。

 

そして徳島県麻植郡山川町高越山に高越神社のほかに、徳島県徳島市の忌部神社、山口県玖珂郡本郷村の楮祖神社、島根県松江市乃白町の野白神社の摂社として穀木(かじき)神社、山梨県市川大門町の神明宮、山梨県市川大門町の弓削神社の境内にまつられている摂社として白紙社があります。これは祭神として天目鷲命と、その子津咋見命(つくいみのみこと)が合祀(ごうし)されています。また、東京都文京区音羽一丁目にある今宮神社境内の天目鷲神社、東京都台東区千束三丁目に鎮座する鷲(おおとり)神社、茨城・栃木面県境にある茨城県美和村の鷲子山上神社など全国各地で天目鷲命を紙祖神として祀ってあります(久米康生著 和紙文化辞典)。




*続いて「越前の紙祖伝説・・・川上御前」「和紙づくりの祖 聖徳太子」説が述べられている*





同ページで紹介されている
ふすま&内装考房EBSさん(は リンクが切れているかもしれません)

和紙の歴史

「国産化初期の紙として最も古くから漉かれた紙は、中国の紙を模範にした麻紙で、原料は大麻や苧麻の繊維や、麻布のボロや古漁網などから漉かれました。麻は繊維が強靱なので、多くは麻布を細かく刻み、煮熟するか織布を臼で擦りつぶしてから漉きましたが、漉きあがった麻紙は、表面が粗いので紙を槌で打ったり(紙砧)、石塊、巻貝、動物の牙などで磨いたりして表面を平滑にしました。次いで空隙を埋めるために、石膏、石灰、陶土などの鉱物性白色粉末を塗布し、さらに墨のにじみ(遊水現象)を防ぐため、澱粉の粉を塗布するなどの加工を行いました。

しかし、麻は取り扱いが難しいために、次第に楮に取って代わられ、一時期は消滅してしまいました。楮は麻と同様に繊維が強靱で、しかも取り扱いが易しいので、増産に適した楮を原料とした穀紙次第に普及していきました。なお、穀は梶の木のことで、楮の木とも書き、楮と同属の桑科の落葉喬木で、若い枝の樹皮繊維を利用しますが、抄造は麻紙と同様に煮熟して漉きます。繊維が長くて丈夫な紙となり、写経用紙や官庁の記録用紙として、染色されずにそのまま用いられました。紙のきめや肌がやや荒いが、丈夫で破れにくく、衣食住のさまざまな分野に応用されて使用されるようになりました」




紙への道さんより
http://homepage2.nifty.com/t-nakajima/faq.htm#kaminogogen

「紙」という漢字の語源について

「紙」という漢字は、紙発祥の地である中国で生まれました。すなわち、「紙」という漢字の成立ちは、中国最古の辞書(字書)といわれる許慎(きょしん)(西暦30〜124年)の「説文解字」(せつもんかいじ)(西暦100年)に見られます。その解説によりますと、「紙絮一苫也」(紙は絮の一苫なり)とあり[ (注)絮…じょ。苫…せん。簀、簾(すだれ)のこと]、紙は「絮を洗って、これを簀でこしたもの」と位置付けしております。

ここで絮(じょ)とは、「蔽緜(へいけん)なり」とあって屑繭(くずまゆ、古真綿)のことで、絮の懸濁液を簀(す)で漉きとり、簀の上に残った繊維の薄層を乾かしてできたもので、その物質の表記に「紙」の字を当てたわけです。



ここで「紙」という字を分解してみますと、紙という字の偏の「糸」は、蚕糸を撚り合わせた形により、糸を示す象形文字で、旁(つくり)の「氏」は、匙(さじ)の形を描く象形文字で滑らかなこと表します。すなわち、糸+氏=紙で蚕糸を匙のように薄く平らに漉いた、かつ柔らかいものをいいます。

(注)「紙(し)は砥(し)なり、その平滑なること砥石(といし)のごとき」(「釈名」劉煕(りゅうき)著)

当時の紙の製造法が、屑絹糸を平面に漉いて、滑らかにしたことから「紙」の字が成立したわけです。

しかし、絹は非常に貴重なものであったため、絮より安価な麻などの植物繊維を材料とするようになり、後漢の蔡倫(さいりん、蔡侯)が、紙を作り西暦105年に帝に献上したと記録に残っております[「後漢書」…中国の史書、宋の笵曄(はんよう)の編集]。



すなわち、後漢書 蔡倫伝の中に「自古書契多編以竹簡、其用糸兼帛者、謂胃之為紙、糸兼貴簡重、並不便於人、倫乃造意用樹膚麻頭及敝布魚網以為紙、元興元年奏上之帝善其能、自是莫不従用焉故天下咸稱蔡侯紙」(抜粋)と記載されております。

これを解すると、「古より書契の多くは編むに竹簡を以てす。その糸兼帛(けんぱく)を用いる者は、これを紙といった。糸兼は高く簡は重い。並びに人には不便である。倫(蔡倫)すなわち意を用いて樹膚(じゅふ)、麻頭(まとう、大麻の上枝)、敝布(へいふ、麻織物のぼろ)、魚網などを使って紙をつくり、元興元年これを皇帝に奉った。帝はその才能を褒め、これよりこの紙を用いないことはなかった。故に天下の人びとは皆これを蔡侯紙といった」というものです。

(注)・文中、糸兼とあるのは、一文字で漢字がアウトプットされないために、止むを得なく「糸」と「兼」 を合成したもの。「けん」といい、絹のこと
   ・元興元年…西暦105年、皇帝…後漢の和帝
   ・紙以前の書写材料:竹簡・木簡…紀元前1300年〜
             帛(絹布)…紀元前7、6世紀〜

    
 
なお、中国の紙漉きの技術が、わが国に伝えられたのは、朝鮮・高句麗から僧侶曇徴(どんちょう)と法定(ほうじょう)が来朝した西暦610年であると日本書紀に記録されています。

これによれば、「推古天皇の18年(西暦610年)の春三月、高麗王、僧曇徴、法定を貢上る。曇徴五経を知り、且た能く彩色および紙墨を造り、并せて碾磑(てんがい)を造る。蓋し碾磑を造るは是の時に始まるか」とあります。すなわち、推古天皇の18年(西暦610年)の春三月に、高麗の王が曇徴と法定という二人の僧を遣わした。曇徴は儒教、仏教に通じている上に、絵の具や、紙や墨の製法も心得ており、水臼もつくったというものです。

これがわが国へ伝来した製紙の始まりとして記録上、残されている初めてのものですが、紙そのものはそれ以前からわが国に伝わっていたとされております。




紙への道さん
http://homepage2.nifty.com/t-nakajima/30toppage.htm

紙の起源と蔡倫 より


【蔡倫以前の紙】

絹布(糸兼帛)を原料にしたものを「紙」といった、と上記「後漢書」蔡倫伝にあるように、蔡倫以前にも「紙」という漢字がありました。

「紙」という漢字は、紙発祥の地である中国で生まれました。すなわち、「紙」という漢字の成立ちは、蔡倫が紙を皇帝に献上する以前の西暦100年に刊行された「説文解字」(せつもんかいじ)に見られます。なお、説文解字は許慎<きょしん>(西暦30〜124年)の編集で、中国最古の辞書(字書)といわれています。

その解説によりますと、「紙 絮一苫也」(紙は絮の一苫なり)とありますが、ここで絮(じょ)とは、「蔽緜(へいけん)なり」とあって屑繭(くずまゆ、古真綿(きぬわた)、屑繭から作った真綿のぼろ綿)のことで、苫(せん)は簀(す)の子、簾(すだれ)のことですので、これより「紙とは、きぬわたの懸濁液を簀の子で一すくいし、漉きとり、簀の上に残った繊維の薄層を乾かしてできたもの」ということになります。

さらに「紙」という字を分解すれば、紙という字の偏の「糸」は、蚕糸を撚り合わせた形により、糸を示す象形文字であり、旁(つくり)の音符(漢字の字音を示す部分)「氏」は、匙(さじ)の形を描く象形文字で滑らかなこと表します。すなわち、糸+氏=紙となり、紙は蚕糸を匙のように薄く平らに漉いた、かつ柔らかいものをいいます。
 

当時の紙の製造法が、屑絹糸を平面に漉いて、滑らかにしたことから、その物質の表記に「紙」の字を当て、「紙」の字が成立したわけです。




紙の語源ですが、紙でないパピルス

紙の語源でありながら紙に分類されないものがあります。それは紀元前3000〜2500年ころの古代エジプト時代に書写材料に用いられたパピルス(papyrus)ですが、欧米で「紙」の語源(英語:paper、フランス語:papier…など)であることはよく知られているところです。しかし、紙ではありません。

何故ならば、それはその製造法にあります。紙の定義ば、「植物繊維その他の繊維をきわめて細かくして水に分散させ、それを漉して、網や簀の上に均一な(薄い)層、いわゆるシート状を形成するように流出させ、からみ合わせて、さらに脱水したのちに、乾燥したもの」です。一方、パピルス紙は、パピルスという草の茎の外皮をはぎ、芯を長い薄片として縦・横直角に重ね合わせて並べて水をかけ、重しをかけて強く圧搾、表面を石・象牙等で擦って平滑にして天日乾燥し、シート状にしたものです。

このようにパピルス紙は、紙の特徴である繊維を「水に分散」させ、それを「漉す」という工程を経ていないため、紙そのものとはいえません。このためパピルス紙は情報記録媒体として用いられていたにもかかわらず、紙として分類されないわけです。






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