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中世の石切
2019年5月2日 12時18分の記事
https://www.shinsensha.com/books/2070/ より
紹介文
戦国時代、小田原では箱根火山が生みだした石材を用いて石塔や石臼などの石製品がつくられた。そして、江戸時代になると江戸城の石垣に使用する石材が切り出された。石という素材を通じ、中世から近世へという歴史の大きな転換点を支えた石切(石工)の生産活動を明らかにする。
・・・・・・・・・・
『戦国・江戸時代を支えた石 小田原の石切りと生産遺跡』
16〜
御組長屋遺跡の五地点の調査
御組長屋遺跡周辺に石材加工の痕跡を残す遺跡が展開している
出土した遺跡は整理箱で200箱を超えたが、出土遺跡のなかで特徴的であったのは、石塔や石臼などの製品とともに、出土事例のまれな未成品が多量に出土したことである。
このときの調査では出土未成品の年代は特定できず
16世紀の所産と位置づけられ その後
2004年に東側隣接地の第?地点で発掘調査が
石製品と石製未成品が11点出土 中世後半から近世のものとされた
詳細な年代観は不明だったが その状況を抜け出すきっかけになったのは 2005年に調査された山角町遺跡第?地点
16
みつかった石材の集積場
山角町遺跡第?地点は、国道をはさんで御組長屋遺跡第?地点の南側にあたる。両遺跡の距離はわずか20メートル程度で、遺跡名は異なるものの同一の遺跡と評価できる。『新編相模国風土記稿』などによると、山角町は戦国時代から畳職人や屋根職人などの職能民が居住する地域でもあったとされている。
この遺跡からは未成品を含む石製品が134点出土
なかでも100号遺構と名づけられた集石遺構からは101点の石製品が出土している
16世紀第3四半期のものとみられる堀と自然流路に切られていることから 16世紀第2四半期には廃絶したと考えられ
これにより100号遺構は未成品を含む石製品が出土した遺構としてはじめて時期を特定する手がかりをもつ遺構となった
さらに あらためて一緒に出土した陶磁器を再調査
瀬戸・美濃窯の陶磁器編年でいう後?新〜大窯1段階 つまり
1530年ごろまでの製品に限られていることが判明
これにより100号遺構は16世紀前葉までに廃絶した小田原北条氏時代の遺構であることが確認できた
同遺構からは石製未成品のほか、多くの自然円礫とともに、現代の石工が「コッパ」や「ズリ」などとよんでいる加工の際に出る破材も出土した。また、一部加工した自然円礫や製品を再加工しようとしていたものも出土している。このことから、100号遺構に近い場所に石製品を加工する石材加工場があり、この場所は、石材を集積しておく集積場=ストックヤードであったと想定することができたのである。
19
(石材はどこから)
石材を分類する
多量の石製品の原料である石は どの火山により生成されたものなのか
まず 出土した円礫・破材がどんな石か 肉眼観察での分類
箱根火山に起因する岩石には堆積岩と火成岩があるが
出土している石材の多くは硬質な火成岩だった
箱根の火成岩の多くは安山岩
色合いや含まれる斑晶の違いにより肉眼で大きく8種類に分けた
(1種類は堆積岩の凝灰岩)
石材を分析するには切断し、ガラス板に貼り付けた岩石プレパラートを作成して、偏光版を装備した顕微鏡を使って詳細に観察する必要がある。そのため、化学分析をおこなうためには、サンプルを破壊する必要がある。しかし、通常は出土遺物を破壊するわけにはいかない。山角町遺跡第?地点100号遺構の場合は、破材が多量に出土していたため、これらをサンプルとすることで、石製品や未成品を破壊することなく調べることができたのである。
20
箱根中央火口丘の安山岩を用いる
20〜22
7種類の安山岩のうち 5種類が後期中央火口丘の安山岩だととわかる(他の1種類は外輪山 1種類は不詳)
中央火口丘の石は 微細な斜長石を包含する大きな輝石斑晶を含む特徴があるため
肉眼でも黒い斑晶(輝石)のなかに白い斑晶(斜長石)がみえる
一方 外輪山起因との分析結果が出た石には同様の特徴がみられない
この特徴は肉眼観察でもおおよそ確認できるため、御組長屋遺跡・山角町遺跡合計6地点で出土した石製品の素材・石製未成品362点についても肉眼観察を実施したところ、判別可能なものの大半が中央火口丘の石の特徴をもつことが確認できた。
以上のことから、石製品の製作にあたっては中央火口丘の石が意図的に選択されたと考えることができる。そしてこのことは小田原周辺の石塔を実見する作業をくり返した結果からも裏づけられた。中央火口丘は、小田原からはもっとも遠い箱根火山カルデラ内に位置する溶岩グループである。そのような石が大半を占めるというのは予想外の結果であった。
21
もちろん、箱根以外の地域から産出する石にも、箱根の中央火口丘と同等の特徴がみられるものがあり、肉眼観察だけでの石材同定には不確かな部分があることは否めない。しかし、今回の調査結果により得られた肉眼観察の成果は、文献史料で確認された「見立(て)」が、現代のわたしたちの肉眼観察においても、現実におこなうことができることを明らかにしたのである。
詳細な観察をおこなうためには、個々の破壊分析が必要であるが、前述のような化学的分析結果をふまえた肉眼観察は、硬質石材の産出地が限定的である関東地方においては有効であり、とくに関東地方南部の石を同定するためにはきわめて応用性の高い「見立(て)」ということができよう。
22
使用したのは河原の転石
中央火口丘の石をどこで採取したのか の検討
手がかりとなったのは出土した石材の大きさと自然面の有無
出土した石材362点の大きさはさまざま
多くが加工途中に欠損・遺棄された未成品
すべての石材の本来の大きさを把握することは難しい
限定的にはなるが
ある程度大きさを計測することができるものを抽出
大きなもので石製容器の44.7センチ
粉挽臼の42.2センチ
小さなものは10センチ強
遺跡からは未加工の円滑な自然面を有する未成品・円礫も多数出土しており
未成品よりも大幅に大きな石は使っていなかったと考えられる
こうして未成品の大きさと未加工の円礫から推測すると、いずれの原料の石も直径50センチ前後のものを入手できれば、作製することが可能と解釈される。そのため、そのような大きさの中央火口丘の石が分布する場所こそ、石製品の原材料の採取地と考えられる。
遺跡にも近く、直径50センチ程度の中央火口丘の円礫が確保できる場所はどこか。それは、円滑な自然面をもつ特徴から、中央火口丘の石を麓まで運んでくれる河川が最有力であり、中央火口丘の位置する箱根火山カルデラ内から唯一平野へと流下する早川の河川敷だけが唯一その条件に該当する。実際、現在も早川の河川敷では同等の円礫が多く散布している様子を確認することができる。
24
『戦国・江戸時代を支えた石 小田原の石切りと生産遺跡』
佐々木健策
・・・・・・・・・・
コピー-港区で拡大までしたもの を 投入
5.2/13時半頃投稿 (〜5.3)
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