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携帯からの送付分がそのような変換となり いくつかは確認 訂正いたしましたが

おいきれないものや 手もとに書物が無い(大抵ございません) といった理由で書き直しはしておりません


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戦争の中の行為
 
2020年1月30日 12時53分の記事

岩波ジュニア新書『戦争のなかの京都』より

(「平安神宮百年史」) P132〜
昭和19年5月5日 府軍事厚生課主願の満州開拓民壮行奉告祭
昭和20年3月6日 京都市主願の満州開拓団出発奉告祭

133
満州への開拓民派遣は戦況が悪化してからもつづけられ
敗戦の5ヵ月前にも満州開拓民出発式があり
それは「京都市が募集したもの」で
「平安郷開拓団」と名づけられた

30家族・137人が現在の中国黒竜江省に入植

しかし、敗戦とその後の混乱のなかで98人が死亡・行方不明となり、6家族は全滅してしまいました。この件のてんまつは、二松啓紀『裂かれた大地ーー京都満州開拓民記録なき歴史』(京都新聞出版センター、2005年)にくわしく記されています。


『戦争のなかの京都』

 
(1945.6)
「米軍機の焼夷弾投下被害防止のため、諸堂の天井板を取り外す。また山内の躅 ∨票砲肪慮覆糧鯑饒続者を受け入れる」『清水寺史』

ほかの寺社でも同様の対応に追われました。「府下各神社では連合軍の空爆から御神体を保護するため、神殿の下に防空壕を掘る。無住の小社には代務者を置く。国宝はすべて疎開」(1954年1月)、「府警防課・社寺課、北野、松尾、梅宮の各神社、妙心寺、天竜寺などの首脳と防空・防火について対策を協議」(2月5日)などの記録があります(『京都府百年の年表』)。
130

 また次のような記録も残っています。なお、カタカナをひらがなにしてあります。

 北野神社に於ては本殿拝殿及廻廊共に檜皮葺にして且つ国宝建造物たる関係上、特に廻廊の一部を解体保存をなし又付属建物、社務所の一部を除去し、延焼防止対策とし宿直員を増強する等、之が対策の完璧を期しつつあり。又東本願寺に於ては建物の特に広大なる関係上防護対策には最も腐心し、所轄消防署の指導の下に防護の重点を本殿大師堂に置き、渡廊下は勿論付属建物は全面的に取除き、四囲には消防自動車の通路を開設し、本堂大師堂の天井板の取除き及び天井裏への貯水槽の配置をなし、更に警備員の増強対策として末寺住職を交替動員宿直せしめ防護の完璧を期しつつあり。(「新居前知事、三好知事事務引継演説書」1945年六月より、京都府行政文書)
130-131

 北野天満宮や東本願寺の回廊を除去したのは、1945年3月の東京大空襲にさいし、明治神宮で回廊から出火した火が本殿に燃えうつり、焼失した経験をふまえてのことだったようです。しかし、各神社では、このころになると僧侶や神官のなかから召集される者が多く、残っているのは高齢者や女性だけという状況で、防火対策を始め境内の保守作業は残留者にとって大きな負担でした。北野天満宮の祭神は菅原道真という実在の人物なので、食料事情が悪化しても、毎日米と酒をお供えしつづけ、神社につとめる人たちはお粥をすすっていたそうです。
131
中西宏次『戦争のなかの京都』岩波書店



「完璧」という自負は恐ろしいもの

それにしても 悠長も度を超えますと 
(感想は なくなります)



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