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2021.9.12



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鵜飼 で検索した結果

  • (不本意ながら記入を遅らせました) こちら https://blog.kuruten.jp/ka-on/347526 (2016.2) 初めて読んだときの 波の立たないような 独特な筆圧など 感銘を受け さらに 静謐な拍動を 7.10に こちらの頁からの文章で …6月号掲載予定の牧野淳一郎著「3.11以後の科学リテラシーno.90」のプレプリントを特別に先行公開いたします。(最終印刷版と異同がある場合があります。)ダウンロードはこちら(pdf)。リード文より:「現状では東京都 の感染者データがあまり信用できません が,そのことを含めて,東京都では感染 拡大が続いているとみるべきで,対策強 化が必須でしょう。政府専門家会議の 「見解」は,一貫して直近での実効再生 産数を過小評価するものとなっています。 対応が直ちに必要でしょう。」… 他には無い Rhythm だと そういうことは 直ぐにお伝えしたいものです 違いますか? (あるいは 機をみるにしても) (一個人の感想を ご本人より先に知って 何か?) 7.12 に (何度目になりますか) 息苦しさにみまわれ  紙類の処分くらいなら かえって払拭方向に繋がるかも と   (パンフ類などを) このチラシも虚ろに見えて 躊躇なく 漢字展 ― 4000年の旅 会  期  2019年5月29日[水]ー9月23日[月・祝] 会  場  東洋文庫ミュージアム 数字は 合っているかしら? などと そうしたら 翌7.13に こちらさまに伺うことになり 「漢字の成り立ち」を語る際は、微細な筆画にも注意して字の構造を明確にしなければならない――「比・真・豊・般」字の字源を例として nkay 2020/07/12 17:39 個人的には そこらではないところを とってあるのかと これは勉強したいな 自分の感覚を研ぎ澄ませ 深堀もと そんなふうに思ったことも 数日 ねかせて あたためてから 記入することにいたしました 〜7.18 8.10 「そこらではない」一つ (手もとにのこしている本に) (外国の方による「鵜飼」解説があり)   何処かで数行記入したような   此処ではないような (ブログ内「鵜飼」検索)   かしょく   チラっとですか 国名では語れない けれど語れる部分も (と 発してきました)
    2020年7月17日 19時31分
     
  • 『庭と日本人』2008 上田篤 《海辺生活への回帰》  P75〜7 たいてい盆地の低湿地などに都市や宮殿がつくられた(中国では見わたすかぎりの大平原のうえに建設された) 六〇〇〇年まえまでの奈良盆地は 奈良市から桜井市にいたる現在の「山の辺の道」などを水際線とする一大湖だった…つまり湖盆 現在の奈良盆地の大半はこの湖の下にしずんでいた(『空間の演出力』上田篤) その湖は自然あるいは人間の手によってしだいに干拓されたが 奈良時代にはまだ各所にその名残の沼や池がのこっていて 宮殿や都も それらの池沼を埋めたててつくらなければならなかった 天武天皇が飛鳥浄御原(あすかきよみがはら)に宮をつくったとき  大君は神にし坐(ま)せば水鳥の  多巣く水沼(みぬま)を京師(みやこ)となしつ(『万葉集』四二六一) と 壮挙をたたえた 庭園に水が欠かせなかったのは湖盆のせいだけではなく 「水を恋う意識」があったのでは (弥生時代になって稲作をはじめても 海岸の低湿地に稲をうえて 近くの州島に生活の本拠をおいた) 海辺が人々の生活空間だった 人々の心のなかにいつまでも生きつづける 回帰願望   住みのえの岸に家もが沖に辺に   よする白浪見つつしのはむ(一一五〇)    『万葉集』…庶民の願望 《曲水の宴》  P77〜80 「川でなにをしたか」 陰暦三月三日に天皇や貴族が庭園のなかの曲がりくねった川のそばにすわって、上流からながれてくる盃がまえをとおりすぎないうちに歌をよみ、盃の酒をのんでつぎの人にながす、という遊びだった。「曲水の宴」といわれる。 曲水の宴ももとは中国からきたもので さかんにおこなわれた…『日本書紀』には顕宗大王のとき 5世紀の終わりごろ 群臣をあつめて後苑(みその)つまり天皇の庭でとりおこなわれた記録がある しかしこれはたんなる遊興ではないのだ。曲水の宴の日本語読みがメグリミズノトヨノアカリといわれるように、宴は「豊の明かり」だった。たくさんの火、つまり豪族たちの竈(かまど)の火をあつめてきて一つにした火のことをいう。それは豪族連合を象徴する火である。その火をまもり代々うけついでいく「火継ぎ」が大王すなわち天皇だった。皇位の継承を日嗣というわけである(『一万年の天皇』)。 したがって 曲水の宴の「宴」は たんなる宴会ではない 節会(せちえ)すなわち祭の日に豪族たちが酒食をともなっておこなういわば「総会」である。それは祭政一致を旨とする豪族連合の古代国家において、今日の国会にもあたる大切な祭礼であり、政治だった。顕宗大王の曲水の宴の前後の記述がそのような情景を推測させる。 「さて問題の核心」 昭和42年に奈良の平城京の東南隅で曲水とみられる川と池の遺構が発見された。水路とおぼしき石敷が、池とおぼしき石敷につながる形だ。水路がくねくねと曲がって池にむかい、池の汀線もところどころに景石をすえながら複雑に曲がっていく。池の岸辺はゆるく、その岸辺から池のなかまで一面に玉石がしきつめられている。「州浜」だ。 発見とうじ、造園学者の驚きをさそったのはこの曲水のうつくしい曲線もさることながら、川や池の水際にしきつめらるた州浜の玉石だった。 (平安以降ではなく すでに奈良時代の庭につくられていた) (伊勢をはじめ 各地の神社でみられる玉砂利) (ストーンサークルでの 石群(いわむら)) 玉石は川や海にしかない…玉石に象徴される水辺がこの国の人々の古くからの生活空間だったことをしめす 平城京などでおこなわれた曲水の宴は平安京でもさかんにおこなわれた 平安京の大内裏に接する禁苑、つまり天皇の庭としてもうけられた神泉苑は、東西二町、南北四町にもおよぶ広大な大園池だったが、その大部分を池がしめた。面積約3万坪、10ヘクタールにおよぶ。武帝の「上林苑」にはおよびもつかないが、しかし今日の小学校なら10ぐらいはいる大きさだ。曲水の宴も十分おこなえただろう。 この神泉苑、さらには左京の冷泉院、右京の淳和院、朱雀院の庭などは今日みうしなわれてしまったが、かろうじてさきの大覚寺と大沢池だけがのこった。そしてかつての天皇や貴族たちの宴遊の姿をしのばせてくれるのである。 《寝殿づくりの南池は神泉だった》 P80〜3 そういう遊びは 禁苑だけでなく貴族の私邸でもおこなわれ 「天平勝宝二年(七五〇)に大伴家持の家でとりおこなわれた」という記録がある(略) 泉殿… 泉は「出水」 自然に水が噴きだしてたまったもの 泉をようする大きな南庭が寝殿づくりの生命 寝殿づくりは そもそも天皇の住居である清涼殿に端を発したもので それに神泉苑という泉をくわえたもの …それが原点 清涼殿で天皇がおこなう最重要の行事は 東庭での四方拝で 天皇だけでなく貴族もおこない 庶民もおこなった記録がある(『江家次第(ごうけしだい)』) 貴族は寝殿づくりの南庭でおこない かならず白砂がしきつめられた (=沖縄のカミアシャギのまえのアソビナー ちがう点は まえに泉のあること) 寝殿づくりは「白砂+泉」 《もろもろの神さまがはいってきた》より 平安時代に寝殿づくりでおこなわれた祭は 古来の自然信仰のほか 中国からはいってきたおおくの信仰がまじり 「天皇の四方拝」をみるとわかるように 礼拝対象としての山陵のほか 北斗七星 天地 東西南北などがある 古代の日本人に星の信仰はなく 湿度のたかい日本では常時 星座を観測することがむずかしく かわりに太陽と山とそれらをみる観測点とを確保し 時刻 季節 方位をしる いっぱんに山のない中国大陸では 古くから北斗七星の柄のさす方向によってしか時刻をしることができず それによって季節もしった…かならずしも北極星はいらない…地球の歳差運動のために北極星が北をしめすようになったのは1000年ぐらいまえからで 古くは北斗七星を中心に北を認識していた 星の信仰が 道教にとりいられて日本にはいった 中国では殷の時代から「冬と夏」「雨と晴」「陰りと日照り」などに一喜一憂する農耕民の生活にしたがい「陰陽二元論」がさかん 思想の大成は3000年まえの『易経』…「宇宙は陰陽の二元からなりたつ」としるされる 東周の時代に「天の思想」が登場し 「蒼茫たる天」のもとに草原を疾駆する遊牧民の生活から生まれ それを遊牧民出身の周王朝がもたらし 天帝の思想につながる一元論となった 戦国時代末(前三世紀)世相を反映した道家思想がくわわり 天でも陰陽でもなく 地上に理想郷をもとめる「神仙説」(多元論) 前漢末(前一世紀)には 四季や東西南北などの自然現象の基数の「四」に それらの中心の「一」をプラスした五を整数とする思想があらわれ=「木火土金水」の五行説 そして一元論 二元論 多元論を習合して「陰陽五行説をうけ 「陰陽道」という方術 つまり技芸もうまれた この陰陽五行説を中心とするもろもろの思想が、現世の幸福や不老不死をねがう中国人古来の信仰にとりいれられて「道教となり、古墳時代から歴史時代のはじめにかけて堰をきったように日本にはいってきたのである。 四方拝には そういう道教の思想が色こく反映されている P83〜5 《神泉は君臣の宴遊世界》より 四方拝をはじめとする寝殿づくりの南庭の白砂での儀式は、そういったもろもろの神さまをまつる行為であった。 またその儀式のあとでくりひろげられる宴は、神さまと人々の遊びであった。 P85 《「神々の庭」》より 『万葉集』に大伴家持の歌がある  P87   やすみししわご大君の 神ながら思ほしめして   豊の宴(あかり)見す今日の日は 物部(もののふ)の八十伴(やそとも)の男(お)の   庭園(しま)山にあかる橘 う華(ず)に刺し紐解き放(さ)けて 「大君が、神さまの御心にしたがって今日もよおされた宴会で、文武百官が庭で赤い橘を冠にさし、衣の紐をゆるめて千年の御世をいわい、さわぎ、わらい、たのしんでいるのをみるのはなんとすばらしいことか」 だが今日の価値からみれば、そういう宴遊世界を手放しに賞めそやすわけにもいかないだろう。ほんらいの趣旨は人民の豊穣と安寧をいのるものだったが、のちにはそれが形骸化してその費用負担のために人民が苦しんだからだ。 芭蕉は長良川で鮎をとる鵜飼を句にしているが 鵜飼ももとは柿本人麻呂の歌(『万葉集』三八)にもあるように神さまとあそぶ行為だった…それが「だだのレジャー」になり ひかれていく鵜たちの姿に「やるせない」想い   面白うてやがて悲しき鵜飼かな    (「橋立案内志追加」) 《勧修寺の氷室池になぜハスの花が》 P89 勧修寺 かじゅうじ 東に本堂 書院 宸殿 西と南には広大な庭 なかの池は氷室池 名は 平安時代の毎年一月二日に池にはった氷を御所に献上し その氷の厚さでその年の五穀の吉凶をうらなった故事からきている 池の真ん中に スイレン・ヒツジグサ-日本原産のスイレン・ハス…直径20センチメートルぐらいの紅いスイレン-外国種-が池の面にさく ときおり直径30センチメートルあるハスの花をみかける…そのむかしインドからわたってきたものだ 「汚濁の世にうつくしいハスの花をさかせよう」釈迦 ハスはスイレンとともに仏教では極楽浄土の花とされた なかに 日本にはないがインドには白蓮華(びゃくれんげ)といわれる白い巨大なハスがあり 「煩悩に汚染されない清浄無垢」の姿をあらわす〜P91 《奈良の寺には庭がない》より 法隆寺や唐招提寺 薬師寺 などをみて 境内には土 石 木 瓦 わずかの緑陰樹 寺は そもそも釈迦の骨を埋葬するところからはじまった…ストゥーパ すなわち塔 骨はたくさんないので かわりに 姿をほった像=仏像 をまつり おがむ…そのための金堂をたてた 教えが広まり 仏像 経典をおさめ 僧たちが朝晩 読経 問答 …さらに まなぶおおくの僧たちが起居 生活 講堂 庫裏(くり) 食堂(じきどう) 僧坊 そこに庭はないが 菩提樹 沙羅双樹などがあった (インド 中国の古い寺にも庭はない) 奈良にある古い寺は庭をもたない 京都にくるとかわる…つまり平安時代-中ごろになり 寺に堂々と庭が登場する 「末法思想」 「釈迦の死後2000年たつと社会がみだれ 仏の教えはすたれ 世は末法になる」という教え 末法にはいるのが 日本では永承七年(1052)から とされた…そのころから前九年の役や後三年の役 延暦寺・園城(おんじょう)寺の僧兵の争いなどがおきて 世の中は騒然となっていった 人々は「万人をすくうことを願いとする」阿弥陀仏にとびつき極楽浄土におられる阿弥陀仏の像を安置する寺を各地にたてた それだけではものたらず「極楽浄土」そのものをしめす池を寺の前にほり そのむこうに阿弥陀堂をたてて 池のてまえはこの世 池とそのむこうを極楽浄土にした=「浄土庭園」 寺は 釈迦の骨の埋葬地でも 仏像の安置所でも 経典の収納庫でも 僧たちの修行場所でも かならずしもなく 「浄土の庭」になっていった (P89〜90)    。 《ハスの花のうえに仏がすわる》 「世にもあつかましい歌」   この世をばわが世とぞおもふ   望月の欠けたることもなしとおもへば    摂政関白 藤原道長(九九六〜一〇二七) かれは自宅の隣に阿弥陀仏をむかえるための法成(ほうじょう)寺をたてた 治安二年(一〇二二)竣工 金色に照りかがやく阿弥陀如来をはじめとするその荘厳(しょうごん)世界をみて人々は驚嘆し「奈良の東大寺よりりっぱだ」と噂しあったという(『大鏡』) 法成寺の庭を極楽浄土にみたてた表現…それは とうじの人々が期待した「現世の極楽浄土」 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 何かが「堰をきったようにはいってきた」 それから トケテいない 「   」 自ずから トケテゆくそれら
    2015年8月12日 14時25分
     
  • ビロウ 江ノ島植物園/2000年3月/Wikipedia (『南方神話と古代の日本』平成7年 中西進 編) 《海人族と日本の基層文化》 千田稔 前ページ 基層文化? の終わり【アタの地名の分布】の  阿多という地名の分布など 「薩摩国の阿多郡阿多郷のほかに、伯耆国、今の鳥取県の日野郡にも阿多郷」がある 「対馬海流に乗った場合、阿多という地名が日本海側にあってもいいとみることができそう」 「奈良県の吉野川沿い、五條市に阿太という集落があり」そこに「阿太の鵜飼の祖がいたという記述が『日本書紀』あるいは『古事記』に出て」くる 「鵜飼は江南文化、中国の南の方の文化と関係」がある 「五條市原には式内社の阿陀比売神社もあり、祭神としてアダヒメノミコト(阿陀比売命)、ホスセリノミコト(火須芹命)、ホホデミノミコト(火火出見命)、ホデリノミコト(火照命)という火という文字のつく神様を祀っています。あるいは小字に「オオスミ」があり、大隅のこととみられ、大隅隼人に関わる地名」だと考えられる 「コトシロヌシの神がワニの姿になって三島のミゾクイヒメのところに通ったということは、やはり先ほどの三島に通じますから、非常に海洋性のある文化と私はみている」 「ほかに全国的にアタという地名があるかどうかみてみますと、注目すべきなのは、沖縄県の国頭(くにがみ)村にある安田(あた)です。これについてもまだ詳細な検討をしていませんが、もしこの安田が鹿児島県の阿多と関係するならば、沖縄から鹿児島県、そして一方は鳥取県、もう一方は奈良県の五條というように、阿多の地名がずっと伝播していくルートが復元できるかもしれないと考えています」 などの 続きです 【三輪山の祭祀】 王権の中枢部に海人の文化  あるいは海洋文化というものがあるのかどうかについての検討 (「これは、大胆な話といいますか、もう少し研究の期間がないと何もいえない問題がたくさんあるわけですが、少し見通しめいたことを述べさせていただいて、あとでまたご批判をいただきたいと思います」) 私が住んでいる奈良盆地から三輪山の姿がたいへんきれいに見えます。三輪山の祭祀については、『日本書紀』の祟神紀七年二月条に次のように記されています。 「是の夜の夢に、一人の貴人有り。殿戸に対ひ立ちて、自ら大物主と称(なの)りて曰(のたま)はく、『天皇、復たな愁へましそ。国の治らざるは、是吾が意ぞ。もし吾が児大田田根子を以て、吾を令祭(まつ)りたまはば、立(たちどころ)に平(たいら)ぎなむ。亦海外の国有りて、自づからに帰伏(したが)ひなむ』とのたまふ」 ここにでてくる「大田田根子」の読み方が非常にむずかしいのです。  (やはり。。) ふつうはオオタタネコとと区切らずに読むのですが、場合によっては、研究者でもオオタ・タネコと読む人もいます。オオタ・タネコさんというと俗っぽくなりますので、私はオオタタネコと呼んでいるわけですが、もしかするとオオタ・タネコかもしれないという気もします。 このオオタタネコという人物が三輪山の祭祀にかかわるという記事は、祟神紀七年二月条だけではありません。 この記述の場合は、夢の中に貴人が出てきて「自分は大物主である」といいます。大物主は三輪山の神です。 そして、「天皇はなぜそんなに悩んでいるのだ。国が治まらないのは自分の意思なのだ。もし自分の子供のオオタタネコをもって、自分を奉るならば、世の中はうまく治まるのだ。また、海外の国もおのずから従うであろう」と述べるというようなことが夢の中に出てくるわけです。 そこで、オオタタネコなる人物をもって三輪山を奉るという有名な話です。 そのオオタタネコなるものは、茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)というところに住んでいたのです。 茅渟県というのは、現在の大阪府の和泉地方です。陶邑は、今日の堺市を中心とした古代の窯業地帯で、須恵器の窯がたくさん発掘調査されたところです。 これに関しては、以前、佐々木幹雄氏がたいへん興味深い論を展開しています(「三輪と陶邑」『大神神社史』所収)。 それによれば、三輪山の山麓で出土した須恵器74点を分析すると、大半は現在の窯跡で焼かれたものだという見解が出されています。 そうしますと、『日本書紀』の伝承と考古学的な事実がよく合うということになってきます。 佐々木氏の分析をそのまま紹介すると、?期から?期まで分けられていますが、?期が21パーセント、?期が35パーセント、?期が24パーセント、?期が0パーセント、?期が3パーセントで、不明が17パーセントという結果になります。 74点をパーセントで出すというのは統計学的に問題があるのではないかとも思いますが、事実としてはたいへん興味深いものがあると思います。 そして、三輪山の祭祀は5世紀後半の?期に開始され、6世紀前半の?期と6世紀後半の?期がピークであって、7世紀以降に急速に消滅するというように解釈されています。 (「この問題から、三輪王朝、あるいは河内王朝の論へと話は展開するわけですが、私は三輪王朝とか河内王朝については、よくわからないことがたくさんありますので、今回はとても触れることができません」) 【オオタタネコとオオタの地名】 オオタタネコなる人物について、もう少し考えてみたいと思います。史料的には問題がありますが、『住吉大社神代記』という史料があります。この中の「船木等本記」というところに大田田命という名前が出てきます。 船木は船を造る木材のことです。船木の連という人物、あるいは氏族について書かれているわけですが、住吉大社と非常に深い関係があることを、まずはおさえていただきたいと思います。 その中に「右は昔、日神を出し奉る。(船木連)宇麻呂・鼠緒・弓手等が遠祖、大田田命の児、神田田命が日神を出し奉りて、即ち此の杣山を領すところなり」という文章があります。 ここから、船木連の先祖に当たる大田田命の子供の神田田命が日の神を奉っていたことを知ることができます。 住吉大社は海の神様で、表筒男(うわつつお)・中筒男(なかつつお)・底筒男(そこつつお)の三神が住吉の神です。 津守氏が神官であることも知られていますし、あるいは阿曇氏がワタツミの神を祀るわけですが、これもウワツワタツミ、ナカワタツミ、ソコワタツミというように、阿曇氏の神と住吉の神の表現のしかたが非常によく似ている点も注目すべきかと思います。 いずれにしても、住吉大社に関係のある氏族の中に大田田という名前が出てくることに注意をしていただきたいと思います。 陶邑については、現在の堺市周辺に陶荒田(すえあらた)神社があります。この神社の所在地は、現在の堺市になる前は大阪府泉北郡東陶器村大字太田といい、オオタタではなくオオタとよばれた点に少し注目すべきではないかと思います。 その神社の森を太田の森といったともいいますので、大田田も太田も同じではないか、もしかするとオオタタネコはオオタで切って、オオタ・タネコと読むべきかもしれないというように、このへんから少し私の心が揺れ動いてきます。 同じようなことが、大和国の葛上郡にある多太(ただ)神社についてもいえます。現在はタダ神社と読むのですが、おそらくはかつてはオオタ神社と読んでいたのだと思います。なぜならばこの神社はオオタタネコを祀っていますので。摂津国の河辺郡にある多太(ただ)神社もオオタタネコの伝承をもっています。 ですから、オオタという地名がむしろ重要なキーワードとして三輪山祭祀の場合に出てくるのかもしれないと思われます。 (「ここまでの話から次の話まで、私の論理の展開に、大きな飛躍があるのではないかということをよく承知しながら、これから申し上げるわけですが、もしかしたら飛躍していなくて、これでいいのかもしれないともひそかに思っています」) このオオタに関する『播磨国風土記』揖保郡の記述 大田の里 土は中の上なり。 大田と称ふ所以は、昔、呉(くれ)の勝(すぐり)、韓国(からくに)より度り来て、始め、紀伊の国名草(名草)の郡(こおり)の大田の村に到りき。其の後(のち)、分れ来て、摂津の国三嶋の賀美(かみ)の郡の大田の村に移り到りき。其が又、揖保の郡の大田の村に遷(うつ)り来けり。是は、本の紀伊の国の大田を以(も)ちて名と爲(な)すなり。 大田の里の地名の由来を述べているのですが、「昔、呉の勝」とある「呉」の解釈が非常にむずかしいのです。この呉を中国の呉越の呉、江南の地にあった呉の国と読めば、江南文化との関係は一直線に説明できるのですが、江南の呉の国の勝なる人物が、朝鮮半島から渡ってくるという文脈は、解釈としては一筋縄ではいきません。 むしろこの呉は、『日本書紀』の欽明期に出てくる久礼山の久礼のことであるという説があります。そうなると、現在の朝鮮半島のどこかに、求めねばなりません。 ただし、朝鮮半島になぜ「くれ」という地名ができたのかということまで考えていきますと、百済と中国の江南地方との関係を考えうるという視点もあります。 井上秀雄先生が指摘された朝鮮半島の南にあった伽耶も非常に海洋性の文化をもっていたという点では、朝鮮半島の「くれ」は、中国の江南地方の呉の影響を受けてできあがった地名かもしれません。 そう解釈しますと、呉の勝が朝鮮半島から渡ってきたけれども、もともとは江南文化というものを携えてやってきたのではないかと考えることも可能になります。 そして、はじめ、紀伊国名草郡の大田村に至ったとあります。現在の和歌山市に大田というところがあり、弥生時代の大田遺跡があります。その後、分かれて、摂津国三嶋の賀美郡の大田村に移り至ったといいますから、先ほどの三島がまた出てきます。 これは現在の茨木市大田にあたります。それがまた、揖保郡の大田村に遷り来たわけですが、揖保郡の大田の村については、現在の兵庫県の太子町に大田という地名があります。そして、これはもとの紀伊国の大田をもって名としたとあります。 したがって、仮に朝鮮半島からこの勝という集団が渡ってきたとした場合、紀の川の河口部に到着して、そこからそれぞれ分かれていったというように解釈することができます。 和歌山市秋月に日前・国懸神宮という有名な神宮があります。その神宮の西に接して、先ほど述べました大田という地名があります。日前・国懸神宮は、天照大神(あまてらすおおみかみ)と関係の深い神社で、太陽神であろうと考えられます。 なぜその太陽神のことをいうのかということは、次に述べる問題とかかわってきます。 先ほどの大阪の三島の大田の近くに当たる大阪府茨木市福井に、新屋坐天照御魂神社があります。あるいは、太子町とはやや距離がありますが、揖保郡にも龍野市龍野町に粒坐天照(いいぼにいますあまてる)神社があり、いずれも天照が出てきます。 神話学の松前健先生の説によると、祭神はいずれも火明命(ほあかりのみこと)で、おそらく天照大神という伊勢神宮の内宮神は火明命から昇格していって皇祖神になったものであろうといいます。 私もその説にしたがうわけですが、火明命というのは、じつは海人族の信仰する神でもあるのです。京都府宮津市の籠(この)神社に所有される国宝の海部氏の系図も火明から始まっています。 また、現在の愛知県にあたる古代の尾張の雄族尾張氏も海人族と非常に関係の深い氏族ですが、その祖先伝承もやはり火明命としています。そうしますと、海人族と火明命が関係があって、それがオオタという地名と結びつく可能性が出てきます。 そのオオタがオオタタネコと関係し、オオタタネコが三輪山を祭祀した人物であるとなってきますと、三輪山信仰の中に海人族の影を少し見いだすことができるのではないでしょうか。 これは単なる作業仮説にすぎませんが、そしてこのことに結びつくかどうかもわかりませんが、三輪山の近くにやはり桜井市太田という地名があります。 また、三輪山の頂上に三輪坐日向(みわにいますひむかい)神社が祀られています。これはおそらく太陽神であろうと思われます。 海人族が信仰した火明命も、火という字を書きますけれども、天空の太陽ともかかわってくると解釈されるわけですから、太陽信仰、つまり日神を海人族の信仰としてきることができると思います。 このような点から、王権の山として上田先生がいわれるように三輪王朝の王権のシンボルの山が海人族とつながってくる可能性があると私は考えています。 【香具山と海人族の信仰】 香具山の埴土(はにつち)、つまり赤い粘土質の土をとることが当時の支配権を獲得することだということを書いたことがあります。 『日本書紀』の神武天皇即位前紀に 「弟猾(おとうかし)が天皇に香具山の埴土をとって天平瓦を作り、天社、国社の神を祀ると敵をしりぞけることができると奏す。椎根津彦(しいねつひこ)と弟猾に埴土を取りにいかせる」 という内容の記載があります。 椎根津彦は神武天皇の東征伝承の中で海を先導してきた人物で、おそらく海人族だろうと解釈されている人物です。したがって、海人族と香具山の土が関係あると想定できます。 『日本書紀』祟神紀十年には武埴安彦なる人物が天皇に謀叛を起こす記事があります。その妻を吾田媛といい、ここで前に述べましたアタというキーワードが出てきますが、吾田媛が香具山の土を領布(ひれ)に包むとあります。 領布というのは、首にかける布きれで、まじないに使う用具です。吾田媛がその土を領布に包んで祈り、「是(これ)、倭国の物実(ものしろ)」という表現で記されています。 これこそがヤマトの国の実体であるのだというわけで、香具山の土がヤマトの国を支配するための象徴的な意味合いをもっていたということになります。それが吾田媛との関連で語られています。 アタを隼人にゆかりのある地名とのみみるだけではなく、先にみましたようにアタというものを従来の説のように隼人に限定せずに、海人族全体に広げて解釈するならば、香具山の信仰が海人族と関係があるといえるように思われます。 同じようなことは、『住吉大社神代記』にも出てきます。住吉大神を香具山の埴土で天平瓦を造って祀り、「古海人老父」を遣わして埴土をとらせると書いてあります。「古海人老父」の読み方はよくわかりませんが、おそらく海人族にゆかりの人物だと思います。 現在も住吉大社では、この埴使(はにつか)いの神事をやっているようです。直接お聞きしていませんが、書物からの引用によると、2月上旬と11月上旬に、何ゆえか香具山ではなく、少し大阪に近い畝傍(うねび)山でやっています。 どこかで伝承が変わってきたのだろうと思いますが、畝傍山で埴土をとるという神事をやっているそうです。 住吉大社は、海に非常にゆかりのある神社ですから、香具山の神事が海洋民、つまり海人族と関係がありそうだということになります。 住吉の神様を奉斎しているのは津守氏です。 『新撰姓氏録』には、「津守宿禰 尾張宿禰同祖。火明命八世孫大御日足尼之後也」あるいは「津守 火明命後也」(摂津国神別)などとあり、津守宿禰は尾張宿禰と同祖で、火明命を祖先として考えていて、津守氏と尾張氏との間に親縁性があることが示唆されています。 また、尾張連については、『新撰姓氏録』に「尾張連 尾張宿禰同祖。火明命之男天賀吾山命之後也」と見え、火明命の男、つまり火明命の子供で、天賀吾山命の後であると書いてあります。 したがって、天賀吾山命と海人族にゆかりのある尾張氏がつながってきます。このあたりからも、香具山の宗教性が海人族と結びついていくのではないかと考えています。 尾張氏は、海産物を天皇に出すことによって勢力を広げていった氏族です。当然、海人族と関係があるわけです。 【ヤマト王権と海洋文化】 (「以上のように考えてまいりますと、まだまだ想定の段階ですが、ヤマト王権が海洋文化と非常に深いつながりがあるということをいいうるのではないかと思えてきます」) 三輪山の信仰についても私の考証にまだ曖昧さが残っていますし、香具山の問題ももちろん検討の余地がありますが、どちらもヤマト王権にとって重要なシンボル的な山であったと考えられます。 それが、海洋性の文化と結びついているということから、ヤマト王権にとって重要なシンボル的な山であったと考えられます。 それが海洋性の文化と結びついているということから、ヤマト王権そのものに海洋性を読み取るという作業をもう少し具体的にやってもいいのではないかと考えています。 そこで、香具山が海人族の神事と関係するならば、「高天の原の天の香山(かぐやま)」は、海洋文化の中で解釈しうる余地があることになるのではないでしょうか。 そのような観点をとれば、「高天の原」は、『古事記』『日本書紀』の神話では天空の世界として書かれ、垂直的な天空世界とされていますが、もしかしたらそれを疑ってもいいのではないでしょうか。 つまり、神々は天空にいるという文化的なコンテクストの中で記紀の神話はできあがるけれども、もともと海人族のもっていた神話は、沖縄のニライカナイの信仰と同じように、水平的なものではなかったのかということを考えてみようと思うのです。 つまり、記紀神話を海上他界という水平的な世界としてとらえなおすことができないだろうかということです。 江南からの海人族の来た道を仮に想定するならば、「高天の原」は、はるか南の海の彼方の土地を幻想しているのではないか。「高天の原」というのは、天空の世界として解釈されているけれども、本当は、はるか南の世界、つまり江南の世界にむしろ行き着くのではないかという想像もできます。 易では、南の方位を天とみます。この易の思想と仮に考えを合わせるならば、南のことを天空のできごととして書くことは、さほど抵抗のないことではないかとという考え方も可能です。 しかし、記紀神話では、明確に天孫降臨が語られ、天からニニギノミコトが降り、アマテラスノミコトも天上にいるわけですから、垂直軸が重視されています。 そこで、記紀神話が構成される段階で、いつ頃かわかりませんが、水平軸から垂直軸への転換が行われた、もしかすると北方文化の影響を受けながら変換していった過程があったという想定をしてみたらどうでしょうか。 天孫降臨の地については、宮崎県の日向という説と北九州という説の二説がありますが、もし、海洋文化を中心に考えるならば南九州でもいいのではないかと思います。 私自身、北九州説を否定しているわけではありません。 南九州説として考えうる可能性という点で、今まで述べてきたことから、問題を提起できるのではないかと思うわけです。 したがって、天孫降臨の地とされる日向の高千穂についても、海洋文化との関連でみるべきであろうと考えます。自ずから騎馬民族征服説に同調することに躊躇しなければなりません。 高天の原に天の安川という川があります。この川は、現実には、たとえば滋賀県の野州川であろうという説もありますが、よくわかりません。野州川周辺についても随分調べてきたのですが、よくわかりません。 ただし、『古事記』の神話レベルで話をするかぎり、天の安川でアマテラスとスサノオの間で子供を生むという話があります。 子供を生むといっても、二人の間に子供が生まれるのではなく、刀を折って子供が生まれるという話で、スサノオの物実からは宗像の三女神が生まれるとあります。 そうすると、宗像の三女神というのもやはり、天の安川で生まれていますので、海洋民との関係をみることができます。香具山もそうだし、安川もそのような一面を含んでいると解釈できるのではないかと思います。 天皇家の祭りの中で、大阪湾で行われる八十島(やそじま)祭は海洋性の香りのする祭りであろうと思われます。 あるいは、仁徳天皇がアジマサ(檳榔)の島が見えると歌った歌謡が、『古事記』に出ています。アジマサの木というのはビロウの木で、南洋の樹木です。 なぜ、わざわざアジマサの歌を仁徳天皇が歌ったのかということを考えていくと、雰囲気としてはとても騎馬民族的ではなく、むしろ海洋民的なものが下敷きにあるように思われてなりません。 (「そのほか、いろいろなものがあるわけですが、大胆不敵な問題提起をさせていただいたということで終わらせていただきたいと思います」) 同書【討論】   金関怒氏の発言より (「亶州(たんしゅう)がどこであるかについては長い間疑問になっていました。 東京大学の白鳥庫吉先生は、種子島だろうと解釈され、そう信じている人が多いようです」 「(略)秦の始皇帝が不老不死の薬を方士の徐福に探させたときに徐福は始皇帝をうまくだまし、宝物や数千人の童男、童女を預り、最後は海上に消えてしまったといいます。 一説には、どこかに行き着いて、子孫がおおいに繁盛しているという話があります。 これは『史記』に書いておりますから、徐福という人物がいて、始皇帝の命によって船出したというところまでは歴史的な事実です。 それから先、どこへ行き着いたかということはわかりません。日本ではおそらく7世紀頃から、ここに徐福が来たという土地がたくさん名乗り出たようです。 たとえば佐賀県の諸富や京都府の丹後半島、あるいは紀州熊野など、徐福上陸地の伝承がよく残されています。 呉書には、その徐福の子孫が亶州でたいへん栄えて数万戸の住民となり、子孫はときどき中国の会稽にやってきて交易をしているということが書いてあります。 そういう有力な中国人の勢力があるならば、それも利用しようと思ったのでしょう、孫権は大将二人にたくさんの兵隊をつけて出しました。ところが、とうとう亶州を見つけることができなくて帰ってきます。 逃亡兵も出たようですし、二人の将軍は作戦の失敗の責任をとらされて、次の年に首を切られてしまいました。 これは事実ですから、相当数の中国の呉の人たちが、南海の島々を航海して失敗し、あるいは難破し、あるいは本国の戦乱に嫌気がさして、平和な種子島や沖縄に住みついてしまったということも考えられます。 (略)歴史の偶然性をまったく否定するならば、「倭(わ)の(な)の国王」の金印など存在しないはずです」    。   。   。   。   。   。   。 大鳥郡  (おおとりぐん、おおとりのこおり) かつて和泉国・堺県・大阪府にあった郡 『日本書紀』崇神紀7年2月・8月の条、三輪山の神大物主の神託に従い、太田田根子(おおたたねこ)を捜したら「茅渟県の陶邑」(ちぬのあがたのすえむら)に見出したという伝承がある。この陶邑は、旧大鳥郡の東陶器村、西陶器村と推定され、その辺りには5 - 6世紀代の須恵器の窯跡が数百基発見されている。大鳥郡には、日本最大の須恵器生産地があったことや茅渟の県にも関係があることが分かる。『古事記』にも同じような所伝がある。- Wikipedia        。 〜淡島 自凝(おのごろ)島 檳榔(あぢまさ)の島も見ゆ 放(さき)つ島も見ゆ〜  (古事記・仁徳天皇御製) ビロウ  Wikipediaより (Livistona chinensis、蒲葵、枇榔、檳榔) ヤシ科の常緑高木。漢名は蒲葵、別名ホキ(蒲葵の音)、クバ(沖縄)など。 古名はアヂマサ。 ビロウの名はビンロウ(檳榔)と混同されたものと思われるが、ビンロウとは別種である。葉は掌状に広がる。ワシントンヤシにも似るが、葉先が細かく裂けて垂れ下がるのが特徴である。東アジアの亜熱帯(中国南部、台湾、南西諸島、九州と四国南部)の海岸付近に自生し、北限は福岡県宗像市の沖ノ島。 ビロウにちなむ地名として、枇榔島(宮崎県門川町、鹿児島県志布志市、南大隅町)、蒲葵島(高知県大月町)などがある。 古代天皇制においては松竹梅よりも、何よりも神聖視された植物で、公卿(上級貴族)に許された檳榔毛(びろうげ)の車の屋根材にも用いられた。天皇の代替わり式の性質を持つ大嘗祭においては現在でも天皇が禊を行う百子帳(ひゃくしちょう)の屋根材として用いられている。民俗学の折口信夫はビロウに扇の原型を見ており、その文化的意味は大きい。扇は風に関する呪具(magic tool)であったからである。 沖縄などでは庭木・街路樹に用いるほか、葉は扇や笠に利用し、また若芽を食用にする。沖縄市の市の木である。        。 会稽山 かいけいざん        。 以下は 「祟神紀」検索中に寄りました処から 抜粋させていただいたものです
    2014年12月12日 14時27分
     
  • 〜伊予の国の風土記に曰く、乎知(おち)の郡の御嶋(みしま)。坐(いま)す神の御名(みな)は大山積の神、 一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇(すめらみこと)の御世に顕れましき。此神、百済の国より度(わた)り来まして、津の国の御嶋に坐(いま)しき。御嶋と謂ふは、津の国の御嶋の名なり〜 (『釈日本紀』鎌倉時代末) ※津の国の御嶋:摂津の三島  ※ここに見える天皇は 「仁徳天皇」のこと (『南方神話と古代の日本』 平成7年 中西進 編) 《海人族と日本の基層文化》 千田稔 【オオヤマツミの神】 より 「基層文化」というのは「わかったようなわからないような言葉」 「何をもって基層というのかあいまいなところがある」 「古代の大和王権のもっている文化というぐらいにお考えいただけばいいのではないかと思います」 アマ族を海の人の俗と書いてしまうと一般的な名詞になるわけです。海の女と書くと、志摩の海女というのがよく知られています。 私が育った奈良盆地では、農繁期になると人手が足りないので、麦秋と、いわゆる稲の秋の年に2回、たいてい未婚の方ですが、志摩から海女の人たちが農業の手伝いにやってきます。 奈良盆地全体ではなく、おそらく私の住んでいた近辺だけだと思いますが、そのときに奈良盆地の農村がある種のにぎわいを呈するわけです。 もちろん奈良盆地にも若い女性はいるわけですが、海女の人たちの闊達な笑い声が奈良盆地の農村に響くという懐かしい思い出があって、海女という言葉に私の幼いころのことを重ね合わせてみたいという気持ちもあります。 そういう個人的な思い出も含めて、海人族を少し考えてみたいと思ったわけです。 はじめに山を考えたいと思います。山と海人族が関係あるのかないのかということについてお話をさせていただきますが、まず山の話です。 日本の歴史の中に出てくる神の名前としては、オオヤマツミ(大山津見・大山祇)の神があります。オオヤマツミの神についてやや長く書かれている史料は、『伊予国風土記』逸文です。 瀬戸内海に浮かぶ大三島という大きな島に大山祇神社があります。「一人相撲」というめずらしい神事でよく知られていますが、その大三島の大山祇神社のことが書かれているわけです。 (疑問など) 「なぜ島に山の神が祀られているのかという問題」 「大三島の山の神様、オオヤマツミの神が百済の国より渡り来たというところは、なお検討を要する点」 『伊予国風土記』逸文は大三島の大山祇神社について記していますが、摂津の三島鴨神社にもやはりオオヤマツミが祀られています。庫の場合は、瀬戸内のルートでオオヤマツミの神が伝播していったと考えてよいと思います。 ところが伊豆にも三嶋神社があり、祭神もオオヤマツミであるといわれています。伊豆の三嶋神社のもとの社地は伊豆諸島の三宅島であるという説が大変有力です。 三宅島は太平洋側にあるわけですから、おそらく黒潮が流れてくる場所に位置すると考えてよいかと思います。 そんな点から、もう少しこのオオヤマツミという山の神の分布を見ていくと、天孫降臨神話があります。 ニニギノミコトがオオヤマツミの娘のカムアタツヒメと結ばれるという話が記紀の神話に出てきます。この女性の名前のカムアタツヒメのアタという言葉が、今回のワタシのテーマのキーワードの1つです。 アタつまり阿多は薩摩の国、薩摩半島の地名です。現在、アタという地名は残っていないと思いますが、古代には鹿児島県加世田市周辺のあたりに阿多郡阿多郷という地名がありました。いわゆる阿多の隼人の根拠地と考えてまちがいないと思います。 そのカムアタツヒメの父としてオオヤマツミという名前が出てくるわけです。そこにもオオヤマツミの分布が確認できるとみたいと思います。 逆に日本海側に目を転じると、出雲神話のスサノオの大蛇退治の話にアシナヅチ・テナヅチの話が出てきまして、オオヤマツミの子供であるアシナヅチとあるわけです。 天孫降臨神話を仮に日向神話と分類することができるとしても、日本神話の中に見えるオオヤマツミの神が、鹿児島県あるいは出雲=島根に出てくる、あるいは瀬戸内のルートにもみられる。 さらに三宅島に出てくるというように分布していることを考えると、おそらく黒潮に乗ってきた神様ではないかと考えられる可能性があると思います。 日本海側を流れる対馬海流は黒潮の分流ですから、南の方から来た神様ではないかということが考えられます。 南の方とはどこであるかというと、梅原猛先生からお話がありましたが、私はおそらく江南の文化に結びつくであろうと予測しています。ただし、そのあたりはまだこれからいろいろと検討する必要があります。 【海幸・山幸神話と阿曇氏】 「さらにワニという言葉に注意してみたいと思います」 オオクニヌシノミコトの話では、因幡の白兎のところでワニが出てきますが、このワニは、日本文化を考えるときに非常に重要な意味をもつ動物ではないかと思います。 かつては、ワニというのはワニザメであるとか、サメであるとか、いろいろな解釈がなされてきましたが、ずばり揚子江に住んでいるワニのことであろうと考えた方が話がわかりやすいと思います。 先に結論めいたことを述べていますが、日本神話の中に江南、中国の南のほうの文化がいろいろなかたちで入り込んでいることを理解するために、ワニに注目したいと思います。 先に触れました鹿児島県の西側の薩摩半島の阿多が、日本文化を考える1つの原点になる土地ではないかと考えています。 海幸・山幸の機器の神話を読んでいくと、この話は阿多のあたりで展開されているのではないかと考えられるわけです。薩摩半島の南の方、もう少し具体的な現代の地名でいいますと、坊津というあたりも阿多に含まれていたと思います。 鑑真和上が中国からやってきて漂着したところが坊津です。海幸・山幸の神話は、おそらくそのあたりを舞台にして展開されたのではないかと思われます。 海幸・山幸の神話についてどのように解釈するかということは従来からいろいろと議論がありました。 釣針の交換というモチーフだけを取り出すと、ずっとインドネシアの方まで行きます。また、全体の文脈から隼人の神話であろうといわれてきたのも理の当然で、阿多が隼人の住んでいるところであるから隼人神話であろうとみてさしつかえないのでしょう。 しかし、よく読んでみると、けっして隼人神話というだけでかたづけてしまうことのできないような内容を含んでいると解釈できると思います。 天孫降臨で降りてきたニニギノミコトが、阿多の女神カムアツタヒメ、またの名をコノハナサクヤビメと結婚して、火の名前をもった神様が生まれます。 『古事記』と『日本書紀』では少し違いがありますが、話が複雑になりますので『古事記』の方だけで考えます。 海幸=海佐知毘古は、『古事記』ではホデリノミコト(火照命)となっていて、これが隼人、阿多の君の祖である。つまり阿多の隼人の祖先が海幸であると書いてあります。 山幸=山佐知毘古はホオリノミコト(火遠理命)であるとなっています。そして、山幸が兄の海幸から借りた釣針をなくしてしまうので、兄はたいへん怒ってなくしたものを捜してこいといいます。 途方にくれた山幸=ホオリノミコトが海の下にある海の神様の宮に入っていき、そこでトヨタマヒメ(豊玉毘売)と結婚するという話が展開されていきます。 おそらくトヨタマヒメの父親は、『日本書紀』などからみていくと、トヨタマヒコに当たるわけで、阿曇(あずみ)氏です。 海人族の阿曇氏に連なる人物であろうと思われます。 そうしますと、海幸・山幸神話は、単に隼人だけの伝承が記されたのではなく、そこに阿曇氏の神話、伝承もミックスされて作られた神話ではないかと考えられます。 阿曇氏の本拠地が現在の福岡県粕屋郡の新宮町あたりにあったというのが古代史の通説です。 あのあたりには阿曇郷という郷名がありますが、先に述べたことからみて、もともとは阿曇氏も隼人と同じく根拠地を阿多周辺にもっていた可能性があるのではないかと考えられます。 阿曇氏はいろいろな神とかかわっていますが、ワダツミの神もその一つです。イザナギが禊(みそぎ)を日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐(あはき)原ですることになっていますが、その際ワダツミ三神が出現します。 このイザナギの禊の場所についてむずかしい論争が展開されてきました。 この地を北九州であるとする見解は、本居宣長以来の確固たる説となっていますが、喜田貞吉先生による現在の宮崎県でよいという説もあり、なかなかどちらもとりがたい問題があります。 この場合、喜田貞吉先生の説をとった方が私にとっては都合がいいのです。北九州説が悪いという問題ではなく、日向を今の宮崎県とみた方がうまく説明ができそうではないかと考えています。 いずれにしても、海幸・山幸神話は、たんに隼人だけの神話ではなく、阿曇氏もそこに介在している。そして阿曇氏は阿多というところにまず最初の本拠地をもったのではないかという仮説をしてみようと思います。 【宗像氏と和珥氏】 海人族のもう1つの非常に勢力のあったグループに宗像(むなかた)氏という集団がいます。 現在の古代史の定説に従いますと、新羅との航路を確保するために宗像氏の果たした役割は非常に強いわけですから、その本拠地を宗像神社が祀られている北九州に求めることはまちがいないわけです。 しかし、この宗像氏についても、史料的に問題があるかもしれませんが、『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の中に、 「河内国 神別」として「宗形(むなかた)の君。大国主命(おおくにぬしのみこと) 六世の孫、吾田(あた)の片隅命(かたすみのみこと)なり」 とあり、宗形の君という人物は吾田の片隅命という神様の後裔であると書いてあるわけです。この吾田が薩摩半島の阿多に当たるのかどうかについては、証明する史料は何もありません。ですから、そういう史料なしで使うのは、たしかに問題があるわけですが、アタという言葉がここに出てきます。 同書の「右京 神別下」にも、 「宗形の朝臣(あそん)。大神(おおみわ)の朝臣の同祖。吾田の片隅命の後」 と出てくるわけです。 そうすると、もしかすると宗像氏自身も先ほどから述べています阿多と関係があった可能性があるように思われます。 とても断定できるような段階ではないわけですが、だいたい「片隅」というのが、私にはまったくわかりません。 右のような過程にしたがいますと、阿曇氏も宗像氏も、そして隼人も、鹿児島県の薩摩半島の南端部に集結していたといった状況が前段階にあって、その後、おそらく隼人だけはしばらく大和王権に反抗するから残ったままになって、宗像と阿曇だけが北のルートをとって北九州あたりに行くというような海人族の移動のしかた、本拠地の北遷を考えたらいいのではないかと思います。 次に、『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』の中で、おそらく『新撰姓氏録』の阿多のカタスミと同じだと思いますが、「阿太の賀太須(かたす)の命、和邇の君(わにのきみ)等の祖」と出てきます。 和珥(わに)氏は、天皇に王妃を出すことでよく知られ、大和にも近江にもワニという地名があります。その和珥氏もここで考えています仮定によりますと阿多と結びつくように思われます。 おそらく古代の和珥氏の「ワニ」も動物のワニに由来すると考えればよいのではないかと思います。和珥氏自身がヤマト王権に近い関係をもっていましたので、ヤマト王権と江南文化が非常に密接な関係で結ばれてくるように私には見えてくるわけです。 『新撰姓氏録』の「大和国 神別」に「和仁古」とあります。この「古」という字がなかなか解釈しにくいのですが、おそらく「古」というのは子供の「子」と同じように、ワニの中でもやや勢力が少ないか、あるいは非常に隷属的なといった意味あいをもっているのかもしれません。 ここにも「大国主六世の孫、阿太の賀太須の命の後なり」と書いてあります。そうすると、和珥氏というこの種族がやはり江南からやってきた種族、揚子江に住んでいるワニを記憶の中にとどめた種族ではないかと想定したいと考えます。 【アタの地名の分布】  阿多という地名の分布について少し考えてみますと、薩摩国の阿多郡阿多郷のほかに、伯耆国、今の鳥取県の日野郡にも阿多郷があります。この伯耆国の阿多郷が薩摩国の阿多と同じであるかどうかは保障の限りではありません。 しかし、オオヤマツミの神の例で述べたように、対馬海流に乗った場合、阿多という地名が日本海側にあってもいいとみることができそうです。これは伯耆国に阿曇郷があるということとも結びつけて考えることができるのではないかと思います。 また、奈良県の吉野川沿い、五條市に阿太という集落があります。現在は梨の産地で有名ですが、そこに阿太の鵜飼の祖がいたという記述が『日本書紀』あるいは『古事記』に出てきます。 鵜飼は江南文化、中国の南の方の文化と関係があります。 五條市原には式内社の阿陀比売神社もあり、祭神としてアダヒメノミコト(阿陀比売命)、ホスセリノミコト(火須芹命)、ホホデミノミコト(火火出見命)、ホデリノミコト(火照命)という火という文字のつく神様を祀っています。あるいは小字に「オオスミ」があり、大隅のこととみられ、大隅隼人に関わる地名だと考えられます。 さらに、『新撰姓氏録』の「大和国 神別」に「二見の首(おびと) 富須洗利命(ほすせりのみこと)の後なり」と書いてあります。この二見は奈良県五條市にある地名です。大和の吉野川沿いに二見というところがあって、その種族について書かれているわけですが、これも隼人と非常に関係の深い伝承を示しています。 それから、先ほど話しました摂津の三島について再び触れてみたいと思います。 現在の大阪府高槻市と茨木市のあたりを三島といっていました。先程オオヤマツミの神の中で三島鴨神社の話に触れました。今度はコトシロヌシという神についてみてみようと思います。 この神も非常にわかりにくいのですが、このコトシロヌシの神がワニの姿になって三島のミゾクイヒメのところに通ったということは、やはり先ほどの三島に通じますから、非常に海洋性のある文化と私はみているわけです。 そういうところに通ったということは、やはり先ほどのワニの問題に関連しますし、コトシロヌシと三島のミゾクイヒメとの間にできた娘がヒメタタライスズヒメノミコトで、『日本書紀』は、これが神武天皇の皇后になったという伝承も記しています。そうなると、日本の天皇家の伝承の中に「ワニ」という問題を介在させながら海洋文化を読み取ることが可能ではないかと思います。 ほかに全国的にアタという地名があるかどうかみてみますと、注目すべきなのは、沖縄県の国頭(くにがみ)村にある安田(あた)です。これについてもまだ詳細な検討をしていませんが、もしこの安田が鹿児島県の阿多と関係するならば、沖縄から鹿児島県、そして一方は鳥取県、もう一方は奈良県の五條というように、阿多の地名がずっと伝播していくルートが復元できるかもしれないと考えています。
    2014年12月11日 14時57分
     

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