連載しているザ・フナイの2016年7月号、発売中です! | |
[ザ・フナイ] | |
2016年6月2日 23時42分の記事 | |
今回の連載のテーマは「日本と世界を読み解く(9)――ローマ法王フランシスコの『福音の喜び』を読む?」で、これまで『福音の喜び』を見つめ読み解いてきたシリーズの9回目です。今回と前回は経済について書きました。 ザ・フナイ 2016年7月号
経済学者の水野和夫氏が資本主義の終焉を述べています(資本主義の終焉と歴史の危機〔集英社新書〕などで)が、これを簡単に言うと資本主義の核心である資本を拡大するために必要であったフロンティアがなくなり、資本はその拡大のために今度は内側に方向性が向き、社会を浸食し始めたということです。フロンティアとは新天地のことで、それが南北格差などになっていたわけですが、グローバルの時代にはそのフロンティアがなくなり、非正規労働者などのように社会の内部にその資本拡大のための源泉をつくるようになるわけです。しかし、それでは社会は貧富の差が拡大し、そのことに伴う様々な問題が発生し壊れてしまいます。そのような事態に資本は何かをしようとはせず、逆にそのことを強化する方向に向かいます。今の日本の政治を見ていればよくわかることです。 このことがグローバルな規模でなされ、よって貧富の格差、富の偏在がグローバルな規模で起きますが、それは購買力のない人々の出現を意味し、同時に購買力なき社会の出現を意味します。今の日本を見るとまさに購買力のない社会なのですが、これでは大資本が市場を独占し、モノを生産しても意味はありませんし、どんなに資本を蓄積しても意味がありません。これは既に資本主義の限界であり、終焉なのです。そのまま掘っておけば、社会の貧富の格差などが温存され、このことによって社会における問題は深刻化し社会は崩壊します。これは人類の衰退・崩壊を意味しますが、このことは、資本主義よりはるかに重要な問題であるのです。今や人類の生存の問題と直結する状況なのです。このような状況では資本主義は終焉するのは時間の問題です。 これが現在の世界の実態ですが、法王フランシスコは『福音の喜び』の中で「もはや、市場における見えざる力と見えざる手とに信を置くことはできません」(『福音の喜び』P.179)と述べています。これは明らかにアダム・スミスの「神の見えざる手」のことで、資本主義そのものの意味です。そのことにこれ以上、信は置けないと法王を言うわけです。それも3年も前にです。もう新しい時代への号砲はなっているのです。 もちろん、資本主義を純粋化した新自由主義・トリクルダウンなどはただ単に社会を壊すだけですし、人類を壊すだけなのです。新自由主義は一種の戦争と同じで、人々や社会を直接は傷つけないだけで、それらを確実に崩壊させていく原因です。だからこそ、人類の存亡に関わるわけです。 このようなことを書いたのがザ・フナイの前号でした。 それでは、資本主義の時代はいずれ終わる、もしくは終わらなくてはならないのですが、その後の時代はどうすれば良いのか、人々や社会を守り、新たな社会はどのようにつくれば良いのか。このことを書いたのが今号です。そして、そのモデルが江戸時代にあります。 江戸時代はとても様々な面でとても興味深いのですが、その時代に大きな影響を及ぼした鈴木正三と石門心学の石田梅岩をとりあげて考察しました。そしてその時代にこのふたりが述べていることが、実は法王フランシスコが述べていることと同じなのです。 次の時代は既に始まっています。その内容がここに書かれています。そして次号もまた同じように次の時代の生き方です。 多士済々のザ・フナイです。是非、ご覧いただければと存じます! | |
このブログへのチップ 0pts. [チップとは] [このブログのチップを見る] [チップをあげる] |
このブログの評価 ★★★★★ [このブログの評価を見る] [この記事を評価する] |
◆この記事へのコメント | |
コメントはありません。 | |
◆この記事へのトラックバック | |
トラックバックはありません。 トラックバックURL https://kuruten.jp/blog/tb/katagiri/354041 |