性的指向・性自認・セクシャリティについて考える その1 | |
[日本の政治] | |
2023年2月7日 23時50分の記事 | |
首相秘書官であった荒井勝喜氏の性的マイノリティに対する嫌悪発言報道から、性的マイノリティに対する差別を禁止するなどの議論がマスコミで繰り広げられています。ただ、その観点にはかなりの偏りがあると考えます。議論を展開しているマスコミもそのことにまったく気がついていないのではないかと推測します。現状、日本における報道にはこの観点が完全に欠落し、極めて危険な様相を呈していると考えます。それでは、その偏りは一体どこにあるのか?
性的マイノリティに対する差別を禁止するということには、所謂『性的マジョリティ』だけが性差別をする存在と想定されているということです。これは明らかに偏見です。 これでは性的マジョリティ、異性愛者は差別主義者だといっているにすぎず、明らかに逆差別になります。これ、大変な問題です。 性的マイノリティであるLGBTQへの差別禁止という議論には、このような性的マジョリティ、異性愛者への『差別助長』が内包されているのです。これは極めて危険であり、公正さ、普遍性が完全に消失した議論にすぎません。これ、はっきり言って性的マジョリティに対する人権問題です。 あらゆる性的指向・性自認、セクシャリティに対する差別は禁止するということなら、まだわかります。しかし、現状はLGBTQへの差別のみですから、完全に問題なのです。もう一度、議論を最初からやり直すべきでしょう。 性的指向・性自認、セクシャリティについて、自分と違うものについて理解すると言うことは極めて難しいものです。この問題の根本は『快楽』の方向性です。ですので、自分と違う性的指向・性自認について、どうしてあの行為に快感・快楽を感じるのかという疑問が必ずつきまといます。 これは性的マジョリティも、性的マイノリティも同じです。性的マジョリティ同士、そして性的マイノリティ同士でもこの疑問は当然生じます。ですので、当然、性的マイノリティが性的マジョリティの性的指向について理解できないことも生じます。そして、それが『差別』に繋がることもあります。性的マイノリティが差別をしない『聖人』という前提で日本での議論が進んでいますが、これは驚愕するほどの大変な偏見です。 ですから、あらゆる性的指向・性自認・セクシャリティにおいては、違いがある性的指向・性自認・セクシャリティに対して差別をする可能性があるので、あらゆる性的指向・性自認・セクシャリティに対する差別を禁じるということでなければ、公正性と普遍性を持つことはないのです。差別を禁止するというのなら、少なくともこのことは担保されるべきです。 したがって、現状、日本で行なわれている性的指向・性自認・セクシャリティについての議論が、LGBTQについてのみの議論となっていることは、大変に問題があり、議論を最初からやり直さなければなりません。現状のような偏りが新たな差別を生み出すでしょうし、必ず新たな弊害を生み出します。 このような偏った問題ある議論が生じるのは、性的マイノリティは『社会的弱者』という誤ったステレオタイプに原因の一端があるものと考えます。しかし、現実は違います。性的マイノリティだからと言っても、必ずしも社会的弱者ではありません。性的マイノリティでも政治、社会、経済の分野で成功し、頂点に立つ人々は、古今東西いくらでもいます。現在の日本の社会もこれは変わりません。 だからこそ、上記のような性的マジョリティに対する性的マイノリティの差別を想定しないことは極めて危険なものになるのです。このことを放置すると、確実に性的マイノリティによる性的マジョリティに対する新たなる差別、見えない差別、人権問題に発展します。 あと、アメリカ社会がLGBTQに対して進んでいるというステレオタイプが報道されますが、そんなことはないと考えます。このことは、米国社会が人種差別問題を見事に解決しているということに違和感を覚える人が多いのと同じです。 米国でLGBTQ問題や人種問題に対しての制度化が進むのは、これらの問題について、そもそも米国には日本では想像できないほどの『苛烈な差別』が存在するという現実があるからこそなのです。法制度というのは、そもそも大きな問題があるからこそ生まれるものなのです。そういう普遍的なことは忘れるべきではありません。 この30年間を観るに、米国社会より日本社会の方がはるかにLGBTQを受け入れていると私は思います。むしろ異性愛者同士の理解が大きく阻害されていて、そのことがリカバリーされていないと考えます。 最初に断っておきますが、私は同性愛者ではありません。同性に対して人間的に惚れることはありますが、性的に求めることはありません。 ただ、90年代、米国にいるときに同性愛者については、多くの友人が極めて近い場所にいました。最初は彼らがゲイだとは知らないで友達付き合いを始めましたが、そういう彼らとの出会いは本当に貴重な機会であったと考えています。それから約30年が経ちますが、いまでも彼らとは友人としての繋がりがあります。 その時以来、同性愛については色々と考えてきました。ですので、今回の問題が生じてきたとき、色々と考えましたし、書くべきことは膨大にあります。そのことは、また追々書くことにして、今回は要点のみを書いていきます。 異なった性的指向・性自認・セクシャリティを理解することは非常に難しいものです。それを理解に繋げる唯一の糸口は、この問題の根本が『快楽』にあることにポイントを置くことです。つまり、その快楽の方向性は違えども、その快楽が禁止されたり、迫害されることは、誰にとっても極めて厳しく、人格に関わることとお互いに理解するしかないのです。 だからこそ、性的指向・性自認・セクシャリティについて、相手が嫌がることを強要することはしてはならないのです。無論、犯罪となる性的指向は容認されるべきではありません。 また、現状の日本では、同性愛者でないならば、まず男女がしっかりとわかりあい、理解し合うための教育をすべきと考えます。異性間には性別が違うが故に、同性同士以上にわからない部分があるからです。異性間での理解促進は結構難しい問題なのです。だからこそ、しっかりと理解の促進をしなければなりません。しかし、現状、このことがまったく無視されていることは大きな問題ですし、それなら少子化になっても仕方がないと言わざるを得ません。 (つづく) | |
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