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くる天
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日記
goodgoodergoodest
極上のバリトン
 
2009年8月3日 22時50分の記事

ウサビッチにはまりそうではまりそうでまだはまってない。
そうそう簡単に策略にはまりますか!

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やっと梅雨が明けて本格的に夏ですね。夏です。
夏は蝉の抜け殻と死骸とを短期間に見るので死をダイレクトに感じる季節ですね。

前は、蝉が短期間で生きて死ぬのが悲しくて切なかったんだけど
蝉からしたら余計なお世話なんじゃないかって思ってきた。
だってそれが蝉の一生だもの。人間にどうこう言われるものじゃないよな。
蝉が人間みたいに80年生きたら幸せか?って言ったら全然そんなことないって思うし
蝉は数カ月で生まれて子孫を残し死んで行くと決まってるんだからそこに幸せもへったくれもないと思われる。ここに「命が短い=不幸せ」観念はいらないわけである。
けど、子孫を残せず自分のDNAを未来へ繋げられなかったらそれはきっと不幸せだろうな。

もし、80億年生きる宇宙人がいたとする。(年の概念があるなしは置いといて)
宇宙人は人間を見て「80年しか生きられないなんて可哀そう」と言う訳だ。だけど私からしたら「80億年も生きるなんて可哀そう」と思う。蝉も人間を見て可哀そうと思ってるかも。

人間は(個人としても種族としてもホモサピエンスとしても)自分基準で物事を解釈する。
よって、私が誰かを見て「ああ、可哀そうに」と思ったとしても
それが本当に可哀そうなのか、可哀そうじゃないのか、それとも私が思っている以上に可哀そうなのか、それは私に判断できないって話。

可哀そうってなんて偉そうな言葉だ!

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