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「陸舟」のようでもあり
 
2014年5月13日 14時54分の記事




一昨日になりますか

よれた紙がありまして
伸して何かの上に置いた ということがありました





今朝 周囲に音楽やら本やコピー紙などを配置していて


そういえば 「鹿」つながり と伸された紙を手にし
(8時半頃に)眺めておりました


その「松」のことは現地で見たかどうかもわからない・・


ですが 「舟」といえば即思い浮かぶ石があり
そこ(京都市北区金閣寺町1)での風景が巡りまして


画像を探してみよう などと思っていたところ
見た目は舟のようでもない?何かが揺れました




(画像は3.12撮影分  総門の傍の空間だと思います)





   *





【鹿苑寺】パンフレットより


「庭園」

〜 金閣のある鏡湖池を中心とし、葦原島など大小の島々や、当時の諸大名がきそって石を献納してその名が付けられた畠山石や赤松石・細川石などの名石が配されています。西の衣笠山を借景とした庭園は室町時代の代表的な池泉回遊式庭園で、国の特別史跡及び特別名勝に指定されています。

 方丈の北側には京都三松の一つで舟形をした「陸舟の松」があり、義満が自分で植えたと伝えられています。

 金閣の後を進むと、義満がお茶の水に使ったと伝えられる「銀河泉」、手を清めた「巌下水」があり、それに隣接する「龍門の滝」は、鯉が滝を登ると龍になると言われる中国の故事「登龍門」に因んだ「鯉魚石」が置かれています。「安民沢」は古くからある池の名前で、中の島には「白蛇の塚」があります。〜



「金閣」の後ろの道は印象深く


何かを模されたという造作物のことですとか
道の賑わいや各国の旅人のことなどもぼんやりと思い出されます





パンフは その「歴史」についてのことから始まっていて・・


〜お釈迦様の舎利(お骨)をまつった舎利殿「金閣」が特に知られ、金閣寺とよばれていますが、正しくは「鹿苑寺」と言い、臨済宗相国寺派の禅寺です。

 この地は、鎌倉時代に西園寺公経の別荘「北山第」が在りましたが、足利三代将軍義満が気に入り、応永4年(1397年)に西園寺家から譲り受け、山荘「北山殿」を造りました。

 金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世に現したと言われ、後小松天皇(一休禅師の父)をお招きしたりしました。室町幕府は中国(明国)との交易を盛んに行い、北山文化の中心地として発展しました。

 義満没後、遺言により夢窓国師を開山(初代の住職)とし義満の法号鹿苑院殿から二字をとり、鹿苑寺と名づけられました。

 1994年、世界文化遺産に登録されました。〜



「舎利殿(金閣)」
〜金閣の二層と三層は、漆の上から純金の箔が貼ってあり、屋根は椹の薄い板を何枚も重ねたこけら葺で、上には鳳凰が輝いています。一層は寝殿造りで法水院、二層は武家造りで潮音洞とよばれています。三層は、中国風の禅宗仏殿造りで究竟頂と呼ばれ、三つの様式を見事に調和させた室町時代の代表的な建物です。

 昭和62(1987年)秋、漆の塗替や金箔の張替、更に天井画と義満像の復元を行いました。又、平成15年(2003年)春、屋根の葺替が行われました。〜



(と 英語・中国語・韓国語で載っているようです)


(庭園の説明は順番的にはいちばん後になります)





鯉絡みの石のあたりでは徳水亭の滝を思い起こしたりも





      *





先週でしたか


図書館で四葉辺りのことを調べておりました



古代における文献史料などは確認されていない様子で
「考古学による成果とその検証」が頼りとのことですが


「中世における四ツ葉地域が含まれる赤塚郷」に関する史料は僅かに散見されているようです





「京都」の「鹿○○」のあたりを抜き出します



「赤塚」の地名が初見される元弘3年(1333年)頃に作成された
「足利尊氏・直義所領目録」(「比志島文書」)によると


「鎌倉時代の四ツ葉地域を含む赤塚郷は北条得宗家の領有地であった可能性があるとされており、当地が鎌倉幕府倒幕の論功行賞として尊氏の弟直義へと与えられたことがわかる。その直義の死後に同郷は、直義室の実家である渋川氏の女人の間で相伝されることとなった。永徳元年(1381年)には同郷を継承していた渋川氏出の将軍義詮の正室であった幸子(当時は出家し如春と称す)が、赤塚郷を京都の鹿王院へと寄進して、それ以後は同院の所領となったことが確認される。」



室町時代になって下総千葉氏の内紛から逃れた
千葉(実胤)自胤が赤塚城に関わることになり

(実胤は石浜城に居を構えたと書かれていたり
赤塚城に入ったという記述のある書もあり)


以来赤塚郷内にある曹洞宗松月院は千葉氏の菩提寺に


赤塚城の鬼門除けとして長禄年間(1457〜1460)に上赤塚氷川神社を
(1469〜1487)に大門諏訪神社を勧請 




赤塚郷は鹿王院領であったため 当初千葉氏の支配とが重複し

「争いが絶えず」

「押領された鹿王院の訴えにより、堀越公方の足利政知は赤塚郷の返還を長尾景春や自胤に要求」


しかし支配は続けられ神社を創建したという流れのようです



「戦国期にかけて同郷は、次第に鹿王院から武蔵千葉氏の実質的な所領となっていったのである」






かつてどこかに記された流れ 

みることのできる文献などや景色 というものがありますが



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「藤原広継命は奈良時代に政権争いから九州へ追いやられ、太宰府で 反乱を起こしたが朝廷軍に捕らえられて処刑された薄幸の貴族である。朝廷ではその怨霊の祟りを恐れて神として祀ったが如何なる理由で当社に祀られたかは不明である。」(板橋区教育委員会)

 


「創建時には武蔵国一之宮氷川神社から素戔嗚尊を勧請していますので、その時点で藤原広継も合祀されたとは考えにくいですよね。となると後世に新たに勧請されたことになるのですが、どこから招来されたのかが問題」とも述べられている方がいまして

可能性があるのは 「現在は京都府に鎮座する上下両御霊神社」ではないだろうか とのこと

「八所御霊と称して下御霊神社では崇道天皇・伊豫親王・藤原吉子・橘逸勢・文屋宮田麿・吉備聖霊・藤 大夫・火雷天神の八柱を祀り、冤罪を以て誅せられたことから怨霊化して祟神となった彼らの魂を鎮めるお社なの。因みに、上御霊神社では伊豫親王・藤原吉子 に代えて井上大皇后、他戸親王を祀りますが、両社に祀られる藤大夫と云うのが藤原広継のこと」 と つづけられていた

・・・・・(muonからのコピー)・・・・・・・・・・・・・・・・・・



創建というときに 何処かから何かを勧請し 
その後も 何かを招いたりしていた? 


「絶えなかった」「争い」というのもが 
どのようなアラソイであったのか  何であったのかは「?」





       *





四葉は


「室町戦国時代には赤塚郷六カ村の内、江戸時代には豊島郡四ツ葉村とされ天領であったが、後に上野東比叡山寛永寺の寺領となる」


四葉地区は
「赤塚・成増・徳丸・大門に囲まれた500m四方の小さな区域」だそうで

四つの地域名が書かれていたりしますが

「成増」は「石成村」が変じたようで
小字として「石成」が残っているようす




「いしなりはのぞき候ぬる」と

赤塚郷を京都の鹿王院に寄進した時に
足利義詮の室の香巌院殿芳林如春が記しているそう(康暦元年 1379)



地図で確認しますと 成増は接していないようすで
現在隣接しているのは 三つの域と 高島平ですかね




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