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話はますますややこしく 1
 
2014年10月24日 14時25分の記事


『抗うつ薬の功罪 SSRI 論争と訴訟』 2005年 みすず書房  

デイヴィッド・ヒーリー   
田島治 監修    谷垣暁美 訳



<第8章 話はますますややこしく> より 



【トロント・スキャンダル】  (P292〜)

2000年11月の末、私はトロント大学の精神医学部門に頼まれて、75周年を祝う会で講演をおこなった。会のテーマは「後ろをふりかえり、前を見よう」だった。メネロフもその会で講演をした。

私はその1年前、トロント大学から嗜癖・精神衛生センター(CAMH)の気分・感情障害プログラムの精神医学教授に任命され、ヴィザの発給を待っているところだった。トロントでの式典の翌週にはニューヨーク州のコーネル大学医学部で精神医学の歴史について、ゲストとして講演とセミナーをおこなうことになっていた。私はこの二か所で同じ話をするつもりでいて、二つの講演の間にニューヨークのファイザー社に、ゾロフトに関する書類を見にいく手配をしていた。

トロントでの会の前の週、私は自分が運営することになるプログラムのポジションに応募してきた心理学者を面接し、新しいオフィスのインテリアを考え、CAMHの所長であるデイヴィッド・ゴールドブルームを相手に、英国からカナダへの移転についての細かい打ち合わせをした。私の給料の一部はゴールドブルームが動かしている予算から来ることになっていた。私は自分がかかわっているSSRI訴訟の話をしたが、彼はまったく関心がないようだった。75周年記念の式典の当日、精神医学部門の一部はリリー社と「新しい研究成果」について話し合うためにインディアナポリスのリリー社に行っていた。リリー社はトロント大学の精神医学部門の研究に資金を提供していた。

私がトロント大学とコーネル大学でおこなった講演はもともと、アストラゼネカの会合のために用意したもので、内容はハーバード大学出版局から出ることになっていた『精神薬理学の創造』〔仮訳題〕の概略だった。私は精神薬理学50年にわたる歴史をたどった―主要な薬、臨床試験の発達、増大していく利害関係。本書の中心的な主張―SSRIは自殺傾向を引き起こすことがあること、そして問題が起きて以来、その重要性をはかり、これらの薬が投げかけるリスクを最小限にする方法を探るためのリサーチがまったくおこなわれてこなかったこと―にも触れた。数週間後、トロント大学から受けとった参加者アンケートでは、私の講演は内容的に最高の評価を受けていた。数日後、ニューヨークで同じ講演をしたときには、コーネル大学の精神医学部門の長で『総合精神医学アーカイブズ』の編集責任者のジャック・バーキャスが、精神医学の歴史についてあなたがした仕事は人々の記憶に残るだろうと言ってくれた。

講演後の食事会で、コーネルの学部長、ボブ・ミッチェルズが、私の顔を見るなり、トロントで何があったんだと尋ねた。私は驚いて、あなたがいま聴いたのと同じ講演をしただけだと言った。私はミッチェルズやほかの人たちに、7月にメネロフに会ったことや、トロントでの講演のあとゴールドブルームが、SSRIが自殺傾向を誘発することがあるというあなたの考えや、リリーがそのことを知っていたはずだというあなたの憶測(ゴールドブルームはそういう表現を使った)には反対だと言ったことを、かいつまんで話した。メネロフの弁護士ニーナ・ガサックによれば、メネロフはトロント大学のある人々と「ヒーリー(呼び捨て)について話をし、決断が下されたという印象をもった」という。このあとの手紙で、ゴールドブルームは、自分に話をしにきたのはメネロフだけだはないと言った。彼はそれらの人々が、それぞれ自分の考えで話をしにきたのだと信じていた。ほんとうだろうか?彼らはみな、何かのかたちでメネロフに出会っていたのではないか?

ミッチェルズは、私は解雇されたのだと教えてくれた。次の日ニューヨークからうちに戻ると、ゴールドブルームからEメールが来ていた。

率直に申し上げて、私たちは、あなたには、CAMHの気分・不安障害の学術プログラムのリーダーという役割は合っていないと考えます。あなたは現代精神医学史の研究者として高く評価されていますが、あなたのアプローチは、私たちの目指す学術的・臨床的な知識の蓄積という目標にふさわしくないと思います。この見方は、最近、CAMHでおこなわれた学術的な講演の場でのあなたのお話しぶりによって、いっそう固まりました。

どうしてこんなことが起こったのかわけがわからなかった。トロント大学はナンシー・オリヴィエリという研究者の件で陥った窮地から、まだ抜け出していなかった。ナンシー・オリヴィエリは臨床試験の有害事象データを公表したために解雇されたのだった。国際的な抗議の声によって彼女は復職し、新しい学部長は大学というものの中心的価値観を維持することを誓った。またオリヴィエリのような騒ぎが起こることは、トロント大学にとっては痛手だろう。リリー、ファイザー、スミスクラインには、いっそう大きな痛手になるかもしれない。この種の話は陪審にとってわかりすぎるほど、よくわかる話だからだ。

トロントで講演をした翌日、私がファイザーの健康なボランティアの研究結果を探すために同社の文書保管所へはいっていったころ、メネロフはアメリカ自殺予防財団の評議会で、ニューヨークの精神科医たちを前に「ヒーリーとその意見」についての長い話を終えていた。私の情報源によると、金曜日と私がコーネルで講演をした火曜日との間のいつかに、米国精神薬理学界の重要人物がコーネル大学の重要人物に電話して「ヒーリーは躁うつ病で凶暴な、インチキ科学の買人だ」と言い、ヒーリーの講演はキャンセルしたほうがいいとほのめかしたらしい。

私は以上のことのほとんどを、ゴールドブルームのEメールを受け取ってからの数日間に研究者仲間からの電話を通して知った。CAMHや大学の人たちと話をしても、なんら建設的な回答が得られなかったので、私はCAMHと大学に手紙を書き、状況はあなた方が思っている以上に複雑かもしれないと述べた。私が以前、同じ分野について書いた論文が『ヘイスティング・センター・リポート』に掲載されたあとで、リリー社が同研究所への資金援助をひっこめたという事実があるので、マスコミはおそらく、トロント大学が精神医学部門へのリリー社からの援助が断ち切られるのを恐れたと解釈するだろう。たとえ意図的ではなくても大学が、訴訟事件の承認をおびやかすのに加担してもいのだろうか。(〜P295)


・・・(略)・・・


私がトゥビン訴訟の反対尋問で、のっけから「ヒーリーさん、あなたがトロント大学をくびになったというのは事実ですか?」という質問を浴びせられる可能性は高かった。(P297)


トロント大学からもCAMHからも皆無といっていいほど反応がなかったので、私としては3月末のトゥビン訴訟の証言録取で、先制的にこの問題を持ち出し、それからこの問題についてのマスコミの質問に答える以外にやりようがなかった。数週間後、スミスクラインからの申請に応えて、ウィリアム・ビーマン判事が緘口令を出し、弁護士たちがマスコミに話すことも、法的手続きの中で私の雇用状態の問題をとりあげることもできなくなった。(P297、8)





 


【大詰め】  (P298〜301)

トゥビン訴訟の審理はワイオミング州のシャイアンで2001年5月21日から6月6日までおこなわれた。公判が始まる直前にオーストラリアのニューサウスウェールズ州で、ある最高裁判事が、ゾロフトに対する有害反応を過去に示したことがあり、ゾロフトを服用しはじめた翌日に妻を殺し、自殺したデイヴィッド・ホーキンズという73歳の男がもしゾロフトを飲んでいなかったら、その行為をおこなわなかっただろうという判断をした。しかし、これはトゥビン訴訟の要素として組み込むには遅すぎた。

5人の女性と3人の男性からなる陪審はまず、原告側弁護士のヴィッカリーとフィッツジェラルドから原告の言い分を聞いた。トゥビン家とシェル家の遺族が証言をした。それから、元ロシュ製薬の安全責任者のドン・マークス、ハーバード大学のテリー・モルツバーガー、そして私が専門家としての見解を述べた。そして陪審はペイテル医師が、もし自分が警告を受けていたら、もう少し気をつけていただろうと語るのを聞いた。

スミスクラインは一連の専門家たちをくりだした。コロンビア大学のジョン・マン、サンアントニオ大学のアラン・フレーザー、ハーバード大学のフィリップ・ウォン、コーネル大学のケネス・ターディフ、そして同社のデイヴィッド・ホイードン、イアン・ハドソンらである。

たくさんの主張を柱に弁護が展開された。一つはドナルド・シェルは慢性のうつ病で、理想的に言えば、最初に抑うつ状態になったときから、ずっと抗うつ薬を飲みつづけるべきだった、という主張だ。この主張の根拠の一つはモンゴメリーの研究である。この研究では、パキシルに好反応を示した患者を数か月後、パキシルまたはプラセボに無作為割り付けした。プラセボに割り付けられた患者は状態が悪くなり、その結果、モンゴメリーとスミスクライン社はパキシルはうつ病を治療するだけでなく再発を予防すると主張するに至った。この研究を根拠として、FDAとMCAはスミスクラインにそのような主張をすることを許した。しかし健康なボランティアでのスミスクラインの研究で85パーセントの身体的依存性が報告されていることを考えると、これはとんでもない主張だ。

第二の主張はモンゴメリーとロペス=イボールが別べつにスミスクラインの臨床試験のデータベースを分析し、いずれも、パキシルが自殺を誘発しないことを証明した、というものだった。原告側は知らなかったが、これらの分析の筋には非常に問題があり、公判が終わってからそのことが明らかになった。

第三の主張は、ある報告―スミスクライン社に寄せられたパキシル服用者の自殺または殺人についての報告をまとめたチェン報告と呼ばれるもの―によると、その率は人口全体における率と大差ない、という主張だ。しかし、この弁護は、そういった事例がスミスクライン社に報告されるのはせいぜい、10例に1例ぐらい、悪くすると100例に1例ぐらいかもしれないということを考慮していない。報告された例が人口全体における率と大差ないということは、自殺や他殺が疫病のように蔓延していると考えてよい。

スミスクラインの書類を見ると、研究者や社員が、アカシジアや幻覚も含めて臨床試験で出てきた反応を、明確にパキシルによって引き起こされたものとして分類しているのに、同社は個々の症例で因果関係を確立するのは不可能だと主張していた―因果関係の確立は無作為化対象試験によってのみ可能だというのだ。

この戦略がはっきりと表に現れたのは、公判全体の中で最もおそろしい瞬間―イアン・ハドソンヴィッカリーのやりとりにおいてであった。ハドソンはスミスクライン社が個々の自殺例について、それが薬のせいなのかどうかを判断するのは不可能であると、ヴィッカリーに対して何度もくり返した。そのあと次のようなやりとりがあった。

問い わかりました。あなたのご意見はこうですね。スミスクライン・ビーチャムにとって、パキシルがある個人の自殺行動あるいは殺人行動に関与したかどうか判断するのは不可能である。そう証言なさるのですね?
答え もちろん、私たちはあらゆる情報を集めるでしょう。しかし個々のケースで、パロキセチンがある出来事を引き起こしたかどうか判断するのは不可能でしょう。
問い わかりました。では―ちょっと待ってください。証拠物件2番の「攻撃性研究(チェン報告)」を見てください。おやページがわからなくなった。ちょっと待ってくださいね。ええと、63ページあるうちの21ページを見てください。見ていただいていますか?
答え はい。
問い では、そのページのいちばん下にある5番目の報告の行動がパキシルによって引き起こされたかどうか判断するのは不可能だということですね?
答え 個々のケースで、ある薬がある出来事を引き起こしたかどうかを判断するのは不可能でしょう。
問い わかりました。そこに書かれている患者が私の依頼人の亡くなった身内であるかどうか、おわかりになりますか?それはドナルド・シェルですか?
答え ええ、そうだと思います。
問い あなたは宣誓をしておっしゃっていますね、スミスクライン・ビーチャムにとって、シェル氏が妻と娘と孫を殺し自殺した原因がパキシルなのか、そうでないのかは単純に言って判断不可能だ、と。そうですね。
答え 個々のケースで―個々の報告から―因果関係を引きだすのは不可能です。とりわけこのような複雑な問題では。ですから何か起きたときには、私たちは入手不可能なすべてのデータを見直し、判断を下します。入手できるすべてのデータにもとづいて、問題があるのかないのかを決めます。
問い なるほど。パキシルが世界のどこかで誰かが殺人行為あるいは自殺行為を起こす原因となったということがありうると思いますか?
答え そのようなことを示唆する証拠はまったくありません。

ハドソンはここで巨大なブラックホールのふたをあけてしまっている。医師その他どんなに多くの人がスミスクラインに、パキシルと関係があると思う殺人や報告をしようとも、スミスクラインは因果関係についての証拠をいっさい否定するだろう。無作為化対照試験による証拠がないからである。同社がそのような試験に着手したこともなければ、そうしようと計画したこともないという事実は、キリストの処刑を前にして手を洗うような責任逃れのにおいがする〔ローマのユダヤ総督ピラトは、群集の前で儀式として手を洗い、「この人の血について、私には責任がない」と言った(マタイ伝)〕。このときまでに、企業は多くの社内評価で、その薬がその問題を起こしたのではないという臨床試験研究者の意見をくつがえし、それらの反応を薬によって引き起こされたものとして分類してきたが、この新しい弁護によれば、そのような評価も有効ではないのだ。

陪審はハドソンの見解に納得しなかった。6月6日、2週間半の審理のあとの三時間足らずの陪審評議を経て、陪審はスミスクライン有罪の評決を下し、ワイオミングでの過去最高の賠償額の4倍にあたる損害賠償を裁定した―向精神薬の精神医学的副作用について製薬会社を有罪とした初めての評決だった。






【トロントの学界に自由はあるか?】  (P301、2)

トゥビン裁判の評決はトロントには何のインパクトも与えなかったようだった。トロント大学からもCAMHからも、問題を見直そうという動きはなかった。

この時点で大学とCAMHがとっていた立場は、学問の自由を考えるうえで、臨床領域には独自の特別な問題があるというものだった。患者は無防備で、他人が言うことに影響されやすいので、ここでは通常のルールは通用しないという意味だ。私のような者に、SSRIを貶す発言を許すことは、満員の劇場で馬鹿者に「火事だ!」と叫ぶことを許すようなものだというのだ。

臨床領域で特別な注意が必要なことは、古くから認識されていた。だからこそ規制がなされてきたのだ―やぶ医者が無防備な患者に価値のない治療薬を売りつけるのを制限するために。しかし、薬の危険性についてはっきりとものを言うことができるからこそ、処方箋薬の制度ができたのではないか。知られている危険について沈黙を守ることは事実上、法の精神にそむくことだ。

このときすでに、カナダ大学教員連合(CAUT)が私のために大学その他の機関に働きかけてくれていたが、彼らも私同様、何の回答も得られなかった。9月、精神学分野の錚々たる研究者29名―その中には2名のノーベル賞受賞者や、米国精神医学会、米国神経精神薬理学会ほか世界中のさまざまな精神医学・精神薬理学関係機関の長の経験者が多数含まれていた―の連名で、「ヒーリー事件」における学問の自由の侵害に抗議する手紙がロバート・バーゲノウ学長に送られた。ヨーロッパからも、南北アメリカからも、日本、中国、オーストラリアからも抗議が寄せられた。

バーゲノウの回答は、これらの署名者たちは事情を十分に知っているわけではないとほのめかしていた。2週間後、CAUTの支持のもと、私は大学を訴えた―まず第一に学問の自由の侵害について、そして契約違反と名誉棄損について。それがこの問題の本質をあばきだす唯一の方法だと思われた。











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