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跡地から のぞむ |
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2014年11月14日 13時28分の記事
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『スガモ・プリズンの回想』 森田石蔵 著 H17.3.31
第16章
<1 ソ連戦犯に関する記録> より
ソ連国の戦犯者に関する公式発表の記録は皆無に等しい。
断片的な新聞報道あるのみ
帰還者が舞鶴港に上陸した際、厚生省引揚援護局が復員手続きを行っているので同省には詳細記録あるものと思われるが、発表文見当たらず。
<2 第二次大戦による日本人捕虜のシベリア抑留問題>
(1) ソ連の日本人捕虜シベリア抑留問題
昭和20年8月23日、スターリンは日本人のシベリア抑留の決定を下している。現在、ロシア国防省中央公文書保管所に残されている極東ソビエト軍司令官に宛てたシベリア抑留に関する極秘司令電報には「肉体的に作業が出来る日本人を、日本軍捕虜の中から50万人まで選び出す。」とある。
結局、1945年8月末より翌春にかけて60万人余の日本人が満州、朝鮮、樺太からシベリア各地の抑留所に移送された。その中には将兵のみならず、民間人、満蒙開拓義勇軍の十代の若者達の他、電話交換手やソ連大使館の日本語教師もいた。
広大なシベリア各地に設けられた強制収容所は約1,200ヵ所60万人の1割を超える約7万人が極寒の地(マダガンでは零下50度)で、飢えと重労働の中で死んでいった。
(2) 平成元年6月27日付け読売新聞記事から
日ソ共同シンポジウムが6月20日、東京三田の電気労連会館で開かれ、ソ連側代表アレクセイ・キリチェンコは抑留中死亡した旧日本兵の墓地は、現在日本側に通知済みの26ヵ所をはるかに上回る341ヵ所である。
抑留中に志望した46,082人の他、前線収容所や、捕虜終結地で15,986人が志望した。 全死者 62,068人の内訳 将官 32人 将校 12人 下士官 61,424人 計 61,468人 (註)全死者と内訳人員に600人の誤差あり。
更にソ連内務省の記録として次のように説明している。 341ヵ所 344,322柱であること。
キリチェンコ氏はソ連で死亡した日本人捕虜のリストと埋葬場所の通告がキチンと行なわれず、不完全であった点について、正当化する余地がない。捕虜とその他戦争犠牲者に関する国際法の要求に反している、とソ連の責任を認め、ソ連側としても抑留問題を見直す意向を示した。
註1 キリチェンコ氏午前中の報告のなかで、1945年のソ連の対日参戦についてスターリンは、ヤルタ会談で1945年の2ヵ月前の1944年9月に対日参戦、戦争準備をしていた。モトロフ外相が駐ソ日本大使に戦争通告をしたとき、既にソ連軍は戦闘行為を開始していた。日ソ中立条約の廃棄をソ連政府が一方的に通告した、と説明した。
註2 昭和20年8月からソ連領内に送られた日本人総数57万人と推定されているが、この人員の中に非軍人、民間人が含まれているのか定かでない。57万人中前述344,322柱という数字は約60%が死亡したことになる。否、数字以外にも抑留途中の犠牲者を考慮すると更にその比率は上昇するだろう。
註3 本表に見られる如く、人員数が著しく相違符合せず、特にソ連内務省の記録341ヵ所、344,322柱とは死者数であり、前述の全死者62,068人とあまりにも相違し、いずれが正しいのか判断しかねる。以上の説明に対し、日本側代表がこの差異につき説明を求めた記事なし。
<3 ソ連国の戦争裁判>
山田乙三陸軍大将以下12人の日本将校を、ソ連、蒙古その他の諸国に対し、細菌戦を計画したかどで、昭和24年、山田乙三陸軍大将以下11被告に対し、刑期25年の有期刑の判決があった。
被告が、判決に不服がある場合は、72時間以内に上告することができる。上告の認否はモスクワ、ソ連裁判所でなされ、死刑はなく、最高25年である。
註 6日のモスクワ放送は、10月革命80周年記念日(11月7日)を前にして、欧米の学者が推定した「勝利した共産主義の偉大なる思想」による犠牲者の数を紹介した。 それによると10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の1977年までに6,200万人が殺害され、うち4,000万人は強制収容所で死んでいる。レーニンは社会主義建設のために国内で400万人の命を奪い、スターリンは、4,260万人の命を奪った。 共産主義の中国で3,500万人、旧ユーゴスラビアで100万人が殺された。カンボジアはポルポト元首相が200万人以上の同胞を殺した。社会主義国家全体では合計1億1千万人が抹殺されたことになるという。 モスクワ放送は更にナチス・ドイツは「第3帝国樹立のため約2千万人の同胞を殺害した。日本の指導者は、日出る国の偉大さを確立するために、1936〜45年に約600万人を殺した。」としたうえで、「しかし、これらの恐ろしい数字も勝利した共産主義の偉大なる思想の犠牲者の数とは、全く比較にならない。」と指摘した。(RP−東京)
<4 中国裁判関係> より
昭和27年4月28日、講和条約発効時、中国関係戦犯者は、スガモ・プリズンに91人収容されていたが、その以前の記録は極めて少ない。
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別件でコピーしましたら たまたま ということで この件についてはここまでとなります
以下は 東池袋の公園の石碑のあたりの 「前過程のひとつ」の画
画像が見当たりませんでしたので 雰囲気だけでも と
「服役戦犯、陸軍中将福島久作氏他有志が、米軍が特設した五基の絞首台跡地を国の史跡として永久保存すべく川上刑務所長の許可を得て造成した直後の写真である」
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