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中世都市の様相 など
2017年10月9日 7時0分の記事
『中世都市鎌倉を掘る』1994/鎌倉考古学研究所 編 より
(パネル・ディスカッション/前半/?〜P276)
P273
大三輪
四角四境祭というのは、いわゆる境を定める陰陽のお祭りですが、その内容は詳しいことはわかりません。ただし四つの境のお祭りについては、どうもかなり広い範囲で行われ、どちらかというと四境祭りの方が先に行われているということがあります。
そんなことで後の四角祭の方は、もう少し中に入ってきて、狭い範囲を限る時に、四角の祭りが行われている。おそらく、私がさきほど中核部と言いましたけれども、その四角を決めるというのが、四角祭で、全部の四つの地域全体を含めた鎌倉の境を決めるのが四境祭だろうというふうに考えられます。
もう一つは、年代的にいつということがなかなか難しいんですけど、そういった宗教的な問題としては、やはり京都を意識していただろうと思われるのは、京都でいえば比叡山の方向にあたる所に天台山という山があります。それから東側の山裾に、八雲
やぐも
神社という神社が祇園社と呼ばれていて、室町時代の文書に祇園神主という宛名が出てまいります。それから今問題になっております御成小学校の裏山の突端のところが天狗堂と呼ばれていまして、おそらく西側の愛宕山を意識していたのではないかということが考えられますが、いつの時期からそうだったのかということについては定かではありません。
P273〜
堀内
京都の場合、報告で言いましたように、平安京の中で、発掘調査例から具体的な京域内での祭祀遺構というのは十分に把握されていません。ただ一応『三大実録』にみる七条朱雀の疫神祭に先ほどふれましたが、図5(194ページ)は左京八条三坊七町の図ですが、このAの調査地点で平安時代前期の川跡が確認されました。
その川跡から、罪や疫病などの災いを防止、和らげるために献じたといわれる人形や土馬がまとまって出土したことから当地域は平安京の当初からこういう祭祀を行う場所にあたるのではないかと考えられます。ただこのような祭りと四角四境祭などの祭祀とがどのようにかわりがあるかは明瞭ではありません。この他、宮内裏の承明門のすぐ北側で、門の基壇を鎮めるための密教の祭であった跡が認められ、その中には「くい」・輪宝が埋納されていた。この遺構は、文献記載などから考えて延久三年(1071)の祭の跡に想定されています。平安京での四角四境祭は周辺部で行われたことがわかっていますが、その痕跡はまだ判明していません。
P274〜 「辻」について
笹本正治
今、司会の方から言われたことにたいして、お答えする力がないので、最初に感想から出発させていただきたいと思います。今までのお話の中で、都市の道、あるいは館を作るということが出てまいりました。当然のことですけれども、都市を作るに際しては、自然の大地を改変して、その上に新たに人間が構築物を作っていきます。そういう自然の大地を改変することが普請だとされています。
名古屋大学の三鬼清一郎先生(日本近代史)が、豊臣秀吉は尾張の新田開発をした時に陰陽師をつれてきたけれども、当時の人々には自然の大地を改変すること、つまり自然に人間が手を加える時には、大地の神が怒るかもしれないという恐れがあって、それを陰陽師が鎮める役割を果たしたのではないか、ということをおっしゃっています。
今回の「中世都市の成立と展開」においても、都市を作るということは、普請に非常に関わっていたはずです。ですから都市を作る時には、陰陽師のような人達の役割が大変重要だったのではないでしょうか。別の面から言いますと、昨日網野先生から都市の出来る場について、大変面白い示唆を与えていただきました。河原とか浜、こういった所に都市ができるということです。私もその通りだと思うのですが、その際に注意したいのは、こういう場所は災害が起きやすい場所だということです。
私は専門が戦国時代なので、古いことはわからないのですが、武田信玄は信濃の千曲川河口に長沼城を作るに際して、普請にさし障りがないように、とくに洪水の災害から城を守るために、判の兵庫という陰陽師をおいて安全を守らせました。もし河原とか浜とか、水害や津波などの恐れがある場所を開発するとなると、そのような場にこそ、陰陽師は重要な役割をもつはずです。
さらに言いますと、これが司会者の言われたことにつながってくると思うのですけれど、都市論の中で、都市とそれ以外の場所、境界領域が問題にされてきています。出来上がった都市だけに関して言った場合でも、都市の外から穢れがくることをどうやって避けるかが問題になります。これがさきほどから問題になっている四角四境祭につながります。そのためには、外から入ってくる穢れのもとになる怨霊などをどうやって排除し、彼ら本来の場所に帰すかが重要になってきます。その役割を陰陽師が負っていました。それらがいったん都市の中に入ってきてしまった場合には、そういう怨霊や悪いものを追い出すことのできる辻などのあの世とこの世をつなぎうる特定の場で、外に追い出しています。これにも陰陽師がかかわります。
陰陽師というのは一つの言い方でして、「博士」「唱文士」と出てくる場合もありますし、私は修験や僧侶でも全く同じような役割を持っていると思います。
中世の絵巻物などを見ていると、そこにあまりに多くの修験者や陰陽師など、宗教者が描かれていることに気付かされます。おそらくそれだけ宗教者が見えるということは、実際は相当の数がいた。中世には人口構成の中に宗教者の比率が大きかったのが、近世や近代は大きく違う点ではないかと考えます。そうすると、ひょっとすると中世の都市においてこそ、今言ったような陰陽師とか宗教者の問題を考えてしかるべきではないでしょうか。「中世都市の成立と展開」という題の中で今までは職人、商人論、あるいは境界論などが論じられてきました。それらをドッキングするような役割を持つのが、陰陽師のような宗教者の問題ではないかと考えます。
いま司会をしておられます小野さんから「お前たちがやってることはなんじゃいな」「お前たちがこういうことも出てくるはずだということを、考古学の方に要求すれば、俺達は探してやる」ということを言われています。鎌倉の場合は、漆器等も残っているぐらいですから、私達が見落としている部分で、こういう祭祀に関わる道具、呪術に使ったものがいっぱい出てくる可能性があると思います。こうしたものに是非注意していただきたいのです。
陰陽師のような人々に対する意識や彼ら自体の呪術行為、こういうことを文献と考古学、さらには民俗学などのお互いの交流の中で追究していくことによって「中世都市の成立と展開」がもっとよくわかってくるのではないかと考えます。
(司会:四角四境祭 「領域を区切る」 単に区切るということではなく
それぞれの領域がそれぞれに違う機能と性格を持っている)
(ダブってくる 商業地や墓の問題 市の問題)
〜276
(パネル・ディスカッション/後半/P276〜)
松尾剛次
/山形大学 さきほど、鎌倉の四角四境祭に関して大三輪先生のご発言がありましたが、『吾妻鏡』を見ますと、四角四境祭で、四角のお祭りが行われているのは、私の見たところでは、全て御所、将軍の御所の四角であると考えられます。もう一つは今回のシンポジウムの感想で、次回に向けての希望でもあります。鎌倉はある意味では宗教都市とも呼べるように寺社がたくさん甍を並べていたわけであります。たとえば大三輪先生のお話の中の、道路によって囲まれた中にも本覚寺
ほんかくじ
というお寺がありますが、それは日蓮宗の寺で、夷堂橋
えびすどうばし
近くにあって商工業者を支配していましたし、あるいは極楽寺が和賀江を管轄していました。そういう寺社による商工業者、港湾の管轄等は都市鎌倉を理解するうえで重要な問題ですので、このような問題とからめて寺社等の発掘の成果も次回はとりあげていただければと思います。
切石を使った方形竪穴址に関する質問
「鎌倉石の基礎がありましたが、材質は近代の別荘等に使われたものと同じでしょうか」「切石を切り出す山はどの辺りが相当されるのでしょうか」
斉木
同一のものです。この切石の材質は、鎌倉周辺で鎌倉石と言いまして、砂質凝灰岩の切石です。現在は切り出せませんが、鎌倉では江戸時代を中心に井戸にも使われています。近世に作られた寺社仏閣の階段、あるいは地覆石
じふくいし
使われたものと同質です。これを切り出した場所というのは、何ヵ所か確認されていますけれど、それが中世までいけるかどうかというのはちょっとわかりません。実際に見られますのは、東は衣張山
きぬばりやま
の裏とか西は腰越
こしごえ
の目白山、ちょうど龍口寺
りゅうこうじ
の裏辺りです。衣張山の石切場は以前テレビで鎌倉の地底城というとらえられ方をしていましたけれども、あれは間違いです。とにかく砂質凝灰岩の崖を、切り崩せば必ず取れる石ですので、もちろん制約はあるでしょうが、これらの周辺から取ったものだと思います。
質問「名越
なごえ
の切岸
きりぎし
を作った際、あるいはそういう土木工事の際に土丹の処理はどうしたのか。あるいはその事業の権利はどうなりますか」
河野
名越の切岸の成立がいつであるのかという問題は、崖を切った跡からは年代はわかりませんので、本当にあれが鎌倉時代の鎌倉とリンクしていたかどうかは説明出来ないわけです。土丹と言われているシルト質の泥岩ですが、これはどこの山の物もそう変わりはないのです。地質学者に見ていただくと、ちょっと違いがあるようです。これは余談ですが、御成小学校の中で下層の方から平安時代の掘り込み地業、つまり「基壇」を伴った倉庫跡が検出されていますが、そこで使われている土丹は逗子か葉山の方の物ではないかという指摘を、県立博物館の松島(義章)先生からいただいたことがあります。ということは、古代の段階でも、岩石土砂をあちこち運ぶということはやっていると思うのです。
私の発表の中で、確かに土丹を取る権利に触れていますが、実はそういった話に関しては雑誌『鎌倉』(69号)に、今司会席におられます馬淵さんがやはり土丹で地業をするという話を書いておられます。その時期は13世紀半ば近くからということです。ただ、この中で馬淵さんは、寺院などを造営する際に余った土丹を町の方へ持ってきているのではないかという一つの仮説をたてておられるわけです。それですと、寺院の建築というのはつねに継続的に進んでいくわけではないので、おそらく鎌倉の町の近くの、どこかの山際で継続的に土丹を取れる場所というのがあったのではないかと私は考えています。
ただ大三輪先生の話でもありましたように、谷戸
やと
の奥の部分はだいたいにおいて寺院か武家屋敷が占めておりますので、そうなると土丹を取る権利というのは、必然的にそこを占めてていたであろう階層が握っていたと思います。あるいは寺院と何らかの関係を持つ武士などが、そういう土丹採取に関する権利を持っていたのではないでしょうか。
そうすると、松尾さんから話が出ておりますように、商工業者の支配にお寺が関わってくる、流通の方にもお寺が関わってくる、それに鎌倉の場合ですと貿易に関しても極楽寺が握っているということからしますと、都市造営に関しても、お寺を介した形での支配関係というのが考えられないでしょうか。これはまだ想像の域を出ないものですが、道路や屋地の造成については、考古学と文献サイドが一緒に考えていい問題だと思います。
278
都市鎌倉の人口
「中世鎌倉では、武士や土地持ち農民以外の十万誓い人々の生活必需品の供給はどうやって行われていたのか」
「十万近い人々はいったい何を生業としていたか」
大三輪
大変な問題をふられてしまって困ってしまいました。まず物質(生活必需品)ですけれど、食糧を言っているのか、それとも生活用具を言うのか、その辺がどうもはっきりしないんですが、一つには本貫地、所領から送られてくる食糧というものが当然あったと思います。それから周縁部からさらに外側に拡がる空間の中に、農地が相当作られていて、農業生産物の供給ということも当然あったと思います。また生業との関わりでは、それぞれ何かを生産した場合に、必ずそれを売るとか、あるいは物と交換するというような形でやっていたわけで、その辺は網野さんにお伺いしたほうがいいと思います。昨日の話ではありませんけど、農業をやっていなければ食べれないんだということではないという気がします。
網野
大三輪さんのおっしゃる通り周辺地域からの供給もあると思いますが、もっと広域的に物質は供給されていたのだと思います。時期によって異なるとは思いますが、少なくとも十三世紀後半以降の物資の流通は、これまでの我々の常識よりもずっと活発で広域的だったと思います。例えば若狭の常神
つねかみ
半島の突端の御賀尾浦(神子浦)は今では寒村のように見えますが、十四世紀の初頭、この浦の有力者刀禰
とね
は米を百石以上、銭を七十貫文以上、財産として持っていたことがわかっています。これは交易によって得たものであるのは確実で、そう考えますと、鎌倉に集中してきた物資の量は、もちろん年賀、公事の形での流入もあるでしょうけれども、商人たちの独自な交易による流入も大変大きかったと思います。私の報告の中でもふれましたように、鎌倉に居住する御家人たちが京都の六条若宮の造営のために負担している銭は四六〇〇貫文に及んでいるということが確認も出来るのですから、銭の流入も相当の量に達していたと考えられます。私は十三世紀後半以降の都市の発達は相当に評価することが出来ると思うので、農地の全くない所に人口が集中し都市が形成されうる条件があったと、考えてみてはどうかと思っています。そう考えてみると、いまよりはるかに小さい住居に人々が住んでいたのですから、中世の鎌倉の人口は現在よりもかなり多かったと見てよいのではないでしょうか。
石井
本来私が、総括提案で言わなければならないところを、あがってしまって、すっかり落としてしまったのですが、貿易の問題ももちろんやらなければいけなかったんです。幕府の都市法の中で物価の統制令とかを何度も出しているわけですが、その中の一つは物価の統制令を変えたと、変えたについてはこの命令を相模の国のしかるべき物の交易場に布告しろという付帯条項がついております。そうするとこれはやはり鎌倉の町の非常に多くの都市人口を養うためには、近隣の村、海村、平地村、その他を含めた村人の協力というのがなければいけないわけです。相模の国内のしかるべき物の交易場と言えるような、一種の物資流通ネットワークというものが、当然存在しただろうと考えております。こういうものを明らかにしていくということは、考古学、文献史学の両方にとってこれから非常に重要な都市研究の課題の一つではないかと考えます。
279『中世都市鎌倉を掘る』1994/鎌倉考古学研究所 編
『中世都市鎌倉を掘る』1994/鎌倉考古学研究所 編
第4章 消費する都市 鎌倉に見る中世都市の様相/大三輪龍彦(113-134)
(「一 鎌倉の発掘のあゆみ」より)
鎌倉考古学研究所の発足
中世の始まりと終わりを示す記念碑的な遺跡
・源頼朝が一番最初に幕府を作ったといわれる大倉の幕府跡
・中世の終焉をむかえた小田原北条氏の時代の玉縄城
ところが不思議なことに、これらがすべて学校建設のために壊されてしまいました。だから、鎌倉の遺跡はどうも学校に壊される運命にあるんではないかというようなことを考えると、何か今の御成小学校内今小路西遺跡をめぐる情勢というものも、ひじょうに鎌倉的なことが起きているのかなあという気がしております。
そういう中で、昭和35年以降、だんだんと組織的な発掘が少しずつでてきたわけです。たとえばこれは中世の遺跡ではありませんが、鎌倉としては大がかりな発掘調査をやったというのが、大船にあります山居遺跡です。
縄文から平安時代までの遺跡の調査をした
その頃から発掘を組織的に始め 鎌倉考古学研究会ができた
当時は山居遺跡を発掘した学生を中心にした会で三上次男(陶磁器の研究家/「陶磁の道」を提唱)を顧問にして活躍を始めた
時が経つにつれ「高度成長」 都市化の波とともに鎌倉の開発も進み
開発前の「事前調査」…遺跡の発掘調査も相次ぐ
そういう中で、鎌倉考古学研究所というものが各調査団の連合体のような形で、協力をして研究を進めようということで生まれてきたわけです。ようやく民間の、いわゆる任意団体としての研究組織ができあがって、その中でそれまでバラバラであった各調査成果が体系的に結びつけられるようになっていったわけです。
その時々の一つの資料になっていった遺跡の90%というものは すでにない 116
(「五 消費するする都市」より)
使い捨て現象
鎌倉では ひじょうに多種多様な遺物が出てくる
その中でも、鎌倉の一つの特色として、舶載陶磁や国産陶磁の膨大な量があります。もちろん他の中世遺跡でも、舶載陶磁とか、あるいは国内産の陶磁器、こういうものについては大変、研究が進んでおり、注目も集めているわけですけれども、鎌倉では、その他いわゆる有機質の遺物がひじょうにたくさん残っています。
それは鎌倉の一つの特性埋め立てを繰り返しきた歴史があり
その埋め立てのたびに地下水が上昇していって
中世の有機質の遺物が全部水漬け状態で残るというようなことになったため
木器 漆器の類までが かなり良好な状態で遺存している
こういうような、陶磁器だけでなくて、木器、漆器までを含んだ形での遺物構成、そういう物の中でみてまいりますと、今までは、鎌倉では中国の舶載陶磁器が極めて一般的に使われていたのではないかと言われてきました。量が多いから、そうではないかということを言っておりましたし、私自身もそういうことを考えていたわけでしたが、どうもやっぱり、木器、漆器というような一般的な、特に漆器の膨大な量から考えますと、日常的な物として、舶載陶磁を本当に考えていいのだろうかという気がするのです。
だから極めて一般的に、実は私達がプラスチック容器を使うように鎌倉では漆器が使用されていたというふうに考えてもいいかなというくらい、漆器の量が多いわけです。しかもそういった物が、あまり傷がついていない。使用した傷が少ない。つまり使い捨てというような感じの様相がひじょうに強いわけです。たとえば土器溜まりなんかでも、土器は一括して廃棄される。そこへ何十人前の宴会のための折敷も一緒に廃棄されているというような使い捨て、いわゆる使い捨て現象というものが遺物の上でみられる。これもやはり都市の一つの特徴ではないだろうかと考えます。
つまり消費性がひじょうに高い
消費をする都市であるということは、そのことからも伺える。
(これで、さきほどのいわゆる建物から考えて移動人口が多いということ。それから今度は遺物の面から見ると消費性が高い。)
131
『中世都市鎌倉を掘る』1994
・・・・・・・・
漆器ですか
漆といえば 即思い出されます採り方が
http://www.satoyama-life.pref.ibaraki.jp/tokusyu/p14/
「掻き鎌」
https://note.hinode.shop/column/urushi-scraping/
…より漆を出させるために、反対側の小さな鎌の部分であるメサシで、少しだけ引っ掻きます。漆器に使われる漆は、このウルシノキの木が、傷つけられた部分を塞ぐために出てきた樹液が使われます。…
…一度に沢山の傷をつけられるわけではなく、6月頃に小さな傷を一度つけ、漆が木の中でその傷を修復するために集まってくるように促すのだそうです。
そして数日後、漆が傷周辺に集まった頃に、もう少し大きな傷をつけて採取、それを繰り返しながら段々に傷を長くしていきます。…
「少し残しておかないといけないんです。」
…一つの溝から出た漆を採りきってしまうと、木が傷を塞ぐ分の漆がなくなり…
「逆三角形を形作る、無数の傷跡の理由」
「一度に全部の傷がついたのではない」
そんな やりかた
どなたかたちが そのように
プラスチック容器
日本製のものも よくみかけるような
(百均に)並んでいる商品の裏をよくみますけれども
要素・・原材料 成分などもですが 住所も常常確認
あちこち 移動されたのかな
・・・・
7〜9は 本が持てない感じ
あれですか? ずっと ?瞑想?
こちらも そのうち また機会があれば ということで
14と15 16に追加
なんとかを取る 「権利」「階層」というのも
「土丹」 どこかの泥岩 陶器 (地名)(土器)(欠片)
などとの つながり が と 個人的には
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