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つくられた「池」
 
2017年10月23日 5時30分の記事


おりおりに ┏ ┛ 進めます

(22夕 打ち込み分)
 ・・・・


読みなおす日本史『埋もれた江戸』東大地下の大名屋敷
2017/吉川弘文館(原本:1990/平凡社) 藤本強

第三章 池に残る宴の跡/127-159


…池は江戸時代の初頭には埋まりかけた状況にあった…


《池の底から》

〈ヘドロの中の大量の遺物〉

池は中央診療棟の調査地点の中央やや東よりに発見され

上部は破壊がかなり深いところまで及び
地表下4mの「下の砂利面」と呼ばれる舗床面も破壊されている部分があった

明治時代以降の建物の基礎により破壊されている部分であり
それらの周辺の堆積を見るため 重機によるテスト・ピットで発見された

  85年11月、調査は「下の砂利面」にかかっていた。この砂利面の破壊を受けている部分を掘り下げ、周辺の堆積を見て、その後の調査方針をたてようとして、テスト・ピットを入れたところ、ヘドロ状の土のなかに木製品の入ったものが出現した。年内の調査終了を目ざして、山場にかかっているところであり、その上に、きわめて深いところからの木製品の出土である。

  「下の砂利面」に関する土を掘り下げ、周辺を掘り下げたが、木製品を出す遺構の輪郭がきわめて不整であったため、井戸と何かの切り合い、埋まった自然の沢の水路に木製品が堆積しているなど、種々のことを考えた。いずれにしろ、簡単に調査が終了できるものではないことは確かである。切迫している東側の工事再開の問題があり、大学の本部と交渉をもった。調査員はそれぞれが担当している仕事で手一杯、池の調査には一人も割けない。本部と話し合いを重ね、施設部と附属病院から毎日職員を出してもらい、筆者がつきっきりになり、施設部と附属病院の職員の手によって調査した遺構である。

掘り進み 四周に立ち上がりが現れ
(一つの遺構であることが明らかに)

底 四周の立ち上がりともに不整な形
厚い鉄分の沈澱 付着 が見られる

明らかに 水がかなりの間溜まっていたことを示す遺構

そのような状況から 池と考えるのが妥当だろうということになり

(それが「池」だとしても)
底には多数の木製品と「かわらけ」があり
調査は慎重になり 時間は迫り 緊張の連続

  池は破壊を受けていない北と西では自然堆積の層から切り込んでいるので、江戸時代の遺構のなかではもっとも古い遺構の一つである。池を埋めていた土は、場所によって若干の違いがあるが、最下層は非常に固く、粘性の強い灰黒色土である。これは厚さが数センチのもので、池の底に近い部分にある。この土には鉄分がかなり浸透しており、鉄分が凝縮している部分はたいへんに固い。鉄分の浸透の状況からみて、かなり長い間水に、しかも溜まり水につかっていたことが明らかである。

  この上には、ロームの混じる黄褐色土が、池の四周の立ち上がりの近くにある。池の西側のこの土が、主要な「かわらけ」の包含層になる。この部分では、「かわらけ」は折り重なって、20センチ〜30センチの厚さに堆積しており、その間にわずかに黄褐色土があるという状況であった。この上は厚いヘドロ状の黒色土になる。ドブの臭いが大変に強い土で、夕方、その日の調査が終わった後、お湯と石鹸でいくらゴシゴシ洗っても、なかなか異臭が抜けず、困ったことを覚えている。木製品の多くはここから出土している。

  この上には、必ずしも全面にあるわけではないが、灰色〜灰茶色の砂質土の薄層がかなりの部分にある。これは埋まり始めたある時期の池の表面ではないかと考えられる。ここまでが自然に堆積したものであり、これは周辺で薄く中央で厚い、考古学の世界でよくいう凸レンズ状の堆積を見せている。この層には遺物はほとんど見られない。

  これから上は人工的に埋められた土であろうと思われる。かなり均質な土が次に水平に堆積している。いずれもロームを交えた暗褐色土・茶褐色土などで、これらはほぼ水平に堆積している。さらにこの上には0.9?の厚さをもつ人工的な堆積がある。これは池の外にもある層で、数センチ〜20センチの厚さの種々の土を次々に重ねて、その上に非常に固い砂利混じりの層がある。一度に作られた人工的なものである。これがいわゆる「下の砂利面」で、調査区東側に12号組石までの間に広く見られる層である。

そのような堆積状況から考えられること
・まず埋まりかけている沢のなかに池が作られる
・ほどなく「かわらけ」や木製品などが 一括投棄される
・そのあとしばらく池は放置される
・ローム混じりの黄褐色土が池の周辺から池に流れ込む
・放置されていた池は ヘドロ状の堆積が底を中心にして溜まる
・池の水位は次第に浅くなり
・表面には水がない状態となる

…その時に堆積したのが砂質土の薄い層だろう

「下の砂利面」を作る際に 池はローム混じりの暗褐色土・茶褐色土などでまず埋め戻され

周囲と同じ高さに水平にされ

その下に「下の砂利面」を構成する種々の土が積み重ねられたのであろう

「下の砂利面」が作られた際に 周辺と完全に同一の舗床面になっている

  池は南北方向の最大長9.0?、東西方向の最大長7.3?の不整な形をした隅の丸い多角形をしている。底は凹凸がひどいが、いくつかの深い部分、いわば池盆をもっており、その間には尾根状の高まりがある。池盆は大きくみれば三ヵ所になる。南のものがもっとも深く、池を確認した面からの深さは2.4?。北のものは若干浅く、確認した面から1.9?、西のものはもっとも浅くまた大きさも小さい。深さは1.2?ほどである。底および四周の立ち上がる面は、鉄分の付着で非常に固くなっている。西の池盆はさほどでなかったが、南と北の池盆はたいへんよく湿って、ヘドロ状になっていたので、木製品はほとんど空気に触れることがなく、保存が良かったのであろう。

  遺物の出土状況は、木製品と土製品では大きな差がある。「かわらけ」を主体にする土製品は焼塩壺をふくめ、西の池盆に折り重なって発見され、北・南の池盆では西の端から0.5?までの間の木製品の下、底のすぐ上に出土している。池の西側のごく限られた部分からだけで、他の部分からはほとんど出土していない。

  一方、木製品は西の池盆にも見られるが、その数はわずかで、主体は南・北の池盆からである。出土位置は底からやや上、ヘドロ状の土のなかで、明らかに「かわらけ」より上から出土する。箸のような細く長いものは、池の深いほうに向かって傾斜して出土する傾向があった。ちょうど池の面に漂っていたものが池の水が引くにつれ、あるいは木製品が次第に水を含んで重くなり、漂いながら底に沈んでいったと考えられる出土状況である。土製品のように一ヵ所に折り重なるというよりは、南・北の池盆を中心にして、ほぼ均一に文字どおり散乱しているという状況にあった。印象としては、箸のような細長いものが比較的下に、折敷(おしき)の底の板のような平らで薄いものが上に、という傾向があったといえそうである。 133

  こうした出土状況から考えると、池の西側から池に向かって、土製品・木製品など種々のものを一時に投げ込んだが、「かわらけ」をはじめとする土製品は自らの重量のためすぐに沈んで、投げ込まれた元の位置を保っているのにたいし、木製品はその軽さの故に池の面をしばらく漂ってから沈んだので、池全体に散乱したと考えられる。この間に折敷などはバラバラになってしまったものであろう。各部分が元どおりに付いたまま出土した例は、まったくといってよいほどにない。

(遺物の性格を考える際の大きな手がかり)
木製品のなかに寛永六年(1629)の紀年銘のあるものが二点

いずれも木札と考えられる
ほか 種々の墨書のあるものも 134

  ここから出土した白木の箸・折敷・木札を中心にする木製品、「かわらけ」を主体にする土製品は、一括して廃棄された可能性が高い。このほかのものはごく少数であるので、非常に特殊な性格の遺物である。白木の箸、折敷、「かわらけ」という組み合わせは儀礼的な性格の強い饗宴を考えさせる。このような饗宴の後始末に関係して、一時に一括投棄されたものであろう。単に紀年銘があるだけでなく、それが寛永六年三月であるので、翌四月に行なわれた将軍家の「御成」に関係した可能性が強い。種々の意味において重要な位置を占める出土品である。

  さらに土製品の出土状況から考えると、池そのものあるいは「御成」に関係して作られたのではないかと考えられる。たまたまあった池に「御成」に関係したものを投げ込んだというよりも、「御成」のために作られた池に、「御成」に関係する饗宴の後始末の食器を投げ込んだと考えるのが妥当かと思われる。というのは、「かわらけ」などの土製品はほとんどが池の底に密着した状態で出土しているからである。このことは池が作られてからあまり時間をおかないで、廃棄がなされたであろうことを推測させる。従来からあった池に投棄したのならば、底との間に一定の堆積があることが考えられるが、ここにはこうした堆積はまったくない。

  さらに調査地点内の、江戸時代の初頭かと考えられる遺構は、大規模な建築を推測させるものがまったくなく、あちらこちらにぽつんぽつんとある石も、建物に関係するというよりは庭園の踏み石のような性格を推測させる配置である。この地点は庭園の一部であったと考えるのが妥当であろう。あるいは「御成」にあたって造成した庭園がこの部分にあった可能性もあり、池もその庭園の一部として新たに造られたとも考えられる。 136

『加賀藩史料』・『越登賀三州志』によれば、前田家本郷邸に囲いが設けられたのはこの三年前の寛永三年のこと

それまでは下賜されたまま放置されたような状況であったものと考えられる

その時の「御成」に際しての光臨殿の造営が三年かかっている
(『越登賀三州志』:五二三)

「御成」の内命を契機にして 本郷邸の造営が始まったとも考えられないこともない

まったく別の要因であったことも十分にありえようが、造営を開始した時期と光臨殿の造営を始めた時期が一致しすぎている。

『大聖寺藩史』などによると、大聖寺藩の初代藩主利治が本郷邸内に居住を始めたのは寛永四年(1627)のことであり、「御成」の直前ともいえる時期である。利治が「諸侯」になるのは寛永一六年(1639)のことである。「御成」が行われたのはこの間のことであり、層位的にみても江戸時代最古の遺構の一つで、よく符合している。種々の意味で、江戸時代の初頭を考える際には欠かすことのできない遺構と遺物であろう。 137


(〈「かわらけ」と焼塩壺 ― 池出土の土製品〉 137〜)

(擂鉢、天目茶碗、鉄絵皿などの陶器も出土しているがごく少量で、主体は素焼の「かわらけ」であり、70キロをこえる量出土している。焼塩壺は「かわらけ」とともに一括廃棄された遺物であろうと考えられる。 137)



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