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くる天
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相撲の終焉
 
2011年2月11日 12時5分の記事

相撲というとまず思い起こされるのは、幼少の頃、日中農作業でほとんど家を空けている忙しない祖父母が、夕刻、相撲放送が始まる頃になると申し合わせたようにテレビの前に鎮座し、時に声を挙げ、手を打って取り組みに興じていた、その光景である。その祖父母から「八百長」と言う言葉を聴いたことは一度もない。

件の八百長騒動の後、ネットで目にした石原都知事のコメントは、要約すれば下記のようなものであった。すなわち、

八百長なんて折り込み済み。厳密なスポーツとは区別してこれを執り行うべし、と。

つまり、八百長なんか言わば暗黙の了解なんだからそのつもりで見てしかるべきと言う主張だ。似たような論調を石原氏以外にもいくつか散見した。
では何故それをこれまでおおっぴらに前提しなかったのか。何故、恰も真剣勝負のそれのように、どのメディアも、またこれに関わるどの人物も取り上げ続けたのか。
日本相撲協会はその”誹謗中傷”を拭うべく、裁判までおこしてたのではなかったのか。そのくらい協会にとっては譲れない一線であったということだ。そして、これまでの相撲報道はすべからく真剣勝負を前提としてのものであった。
石原氏の言うように、もともと相撲なんてそんなもの、と最初に高らかに宣言していればこんな混乱は起ころうはずがない。

何故彼ら、「それ」を識る者は誰も言及しなかったのか。

最初からそれとして出発していたのであれば、スポーツのテーブルにのって勝負にこだわる必要はもとよりない。そうなれば、当然そのための報道も不要だ。勝負は最初から「決まって」いるのだから。それをスポーツという真剣勝負の土台に載せて、行ったがゆえのこれは混乱である。
そこには決して積極的な意味ではなかったにせよ、わざわざ寝た子を起こす必要はないという、相撲道の精神や報道の精神、あるいは神事を司るにあたって保持すべきであろう厳かな意識とはかけ離れた隠蔽及び欺瞞の意識があったことは確実である。それなくしてこれほどまでに八百長が「脈々と」行われてきたはずがない。
念のため付記すれば、日本相撲協会はごく一部の限られた問題、として処理を図っているようにも見受けられるが、無関係といわれる親方衆そのほかの関係者の、知らなかった、という言葉は免責を意味しない。なぜなら、本当に何も知らず、気づかなかったのであれば、そんな八百長すら見抜けないような、その程度の眼力・見識しかなかった、ということなのだから。それで親方、あるいは指導的立場にある者としての資質があるといえるのか。

同時にこれは、歌舞伎同様本来は大衆芸能として普段の生活に土着していた文化を古典芸能という格式に祭り上げたがゆえの悲劇でもある。一体古くから続く文化が他より長く時間を持っているというだけで高々と掲げられるべきものなのかどうか常々疑問に思っているが、今回の騒動は、逆に伝統があるから、というだけでそのお題目を守らんがために様々な矛盾を抑圧し、ますます中身を腐らせる、というその負の側面を露呈した部分はあるように思う。相撲が品格・伝統という包装にこだわるあまり、言わば形骸化し、中がどんなに腐ろうと体面さえ保てれば、という”暗黙の了解”の誤謬に向かったのはほとんど自明だ。
伝統文化だから、という免罪符によって、本質的な問題をどこまでも棚上げし続けた、”伝統の盲点”を突かれたという部分はあるように思う。
朝青龍の放逐にしても、仮に朝青龍に処分されなければならない資質的な問題があったにせよ、品格という”刀”を振り回して、嫁いびりのような真似をして彼を暴発させ、それを口実に追い出したとしか見えなかったが、何故、弟弟子と取り組み後に気さくに歓談することが横綱の品格を汚すことになるのか、今でも分からない。むしろ、相撲協会がこんな力士の心までをもがんじがらめに縛り付けるような真似をせずに、むしろそのガス抜きのために、率先してサッカー大会を催すくらいの度量があれば、朝青龍が、その息苦しさのあまり、仮病を使ってまでモンゴルに帰る必要もなかっただろう。

これら、相撲協会の罪は当然重いが、その罪は白日に晒されることによって、あるいは目に見える処分がどうなるにせよ、実質的な命脈を絶たれることによって社会的に断罪された側面はある。他方、八百長を肌で薄々勘付きながら、これを黙殺し、いわばメディアとして何よりも優先すべき真実を糊塗し、秩序ある放送、という予定調和のもとにこれを真剣勝負として流し続けてきたNHKを始めとするメディアの”罪"はどうなのか。 その罪は、相撲協会が断罪されることによっていささかも減じるものではない。メディアへの信頼いう意味において、この問題はその喉元に刃を突きつけるものでもある。
今まで大相撲が始まれば、連日夕方何時間にも渡って公共放送の電波を用い延々と放送し続けたあれらは、そしてそれに連なる、もっともらしい解説、とことん勝敗にこだわった報道は一体何だったのか。そして今、放送側の当事者らはそれらをどのように受け止めているのか。加えるならば、朝青龍をヒールに仕立て上げた一連の報道をこの相撲協会の体たらくと照らし合わせてどのように思っているのか。
一体これまでの相撲放送において彼らの果たした役割とは、何だったのか。
政治家を糾弾するに、事あるごとに、国民に納得のいく説明を、と声高叫ぶメディアであればこそ、率先垂範してしかるべき説明があってもおかしくない話ではあるが、未だそんな話は聞かない。

玉木正之氏によれば、相撲には神事・興行・スポーツの三つの要素を持つとある(2011年2月7日某地方紙朝刊記事)。今回の八百長によって相撲のスポーツとしての相撲は崩壊した。”望まれない勝利”はありえないのだから。そんなものはスポーツとは呼べない。のみならず、それは同時に神事としての崩落でもあろう。なぜならスポーツ精神に背いたのみならず、これを真剣勝負とみなして応援した民心をも同時に謀る、神聖なるべき神事とはおよそ対岸に自らを置いたのだから。
膿を出せ、出直せという論調を連日目にするが、一体、どんな「膿を出」し、どのように「出直」せば、この先、人々が八百長という言葉が頭を掠めることなく相撲を見ることができるというのだろう。
これは、言わば大相撲が相撲道からも神事に関わる領域からも引導を渡されてるという事態に他ならないというのに。
その二つの意味で、日本相撲協会はターニングポイントではなく、終焉を迎えたといっていい。
後は、芝居としての興行の道が残されるのみであるが、確かに水戸黄門がどれほどパターン化された筋書きを踏襲しようと飽きることなく繰り返し放送され、また、フィギュアの「浅田ブランド」のように、実なきイメージ戦略が十分商売として成り立つこの国のことである、如何にそれが心技体の「相撲道」と乖離しているとはいえ、その道は確かに残されている。

途中、”今回の八百長によってスポーツとしての相撲は終わった。”と書いた。石原氏の言うように、もしかしたら、そんなものは最初からなかったのかもしれない。しかし、「折込済み」で「嘘だといってよ、ジョー」と言うファンが見当たらないにせよ、うちの祖父母のように、その前提をあえて持たず、解説を鵜呑みにして一喜一憂したファンも少なからずいたはずだ。最初からシナリオのある物を見せられていた、となれば、やはりそこに、それらの人々の心に背いた部分は否めないように思う。
そして最も同情すべきは、八百長の誘惑にも、そしてそれを拒否したがゆえに加えられたかわいがりという”合法的リンチ”にも、あるいはまた、折り込み済みという視線にも耐え、まさしく全身全霊を以って命を削るようにして本来あるべき心技体の相撲道を極めんとした、数少ないが確実に存在した、力士達だろう。
”腐ったリンゴ”とそれを漫然と放置し続けた”識者””関係者”らによって、彼らのためにこそあるべきであった土俵を奪われ、道連れにされた気持ちはいかばかりか、察するにあまりある。



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フィギュアについては、個々の選手およびフィギュアというスポーツの特性についても取り上げてみたいと思っておりますが、個々の選手についての記事につきましてはなるべく客観的に捉えて生きたいと考えておりますので、ファンの方にとりまして耳あたりのいい話ばかりにはならないと思いますので、ご贔屓選手については賞賛コメントしか受け付けないという方がおられましたら、その選手についての私の記事はどうかスルーでお願いいたします。文中敬称略にて書かせていただきます。
なお、著作権は”TALES OF  NIGHTGALE”に帰属しております。無断転載等はお控えください。
以上、よろしくお願いします。


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◆この記事へのコメント(投稿順)
1. ラッキーモク 2011年4月11日 2時51分 [返信する]
偶々貴女のブログに行き着いたので中身を拝見。
こちらは七十代の単身のおいぼれのヒマ人なので少しコメントさせてもらう。
初めに断っておくが自分は元々横柄でぞんざいな男なので敬語は使わない。
相撲の八百長問題について言及しているので
自分の意見を書こう。
相撲は国技だという、正に相撲は日本国の国技に相応しい代物だ。
日本人とはケジメがつけられない人種であり国なのだ。
だからケジメのつけられない国の国技にはこれまたケジメがつけられない相撲がピッタリなのだ。
相撲の八百長は江戸時代から連綿と続いていることであり、八百長が有るから相撲なのだとも言える。
俺に言わせれば相撲は男芸者の芸に過ぎないので有って現代スポーツとして本来扱うものでは無い。 要するに日本式プロレスショーの興業に過ぎない。
引退・現役の関取で八百長を一切やらなかった力士は5%にも満たないと思う。
であるから協会の幹部連中が一部の力士を首にするのはトカゲのしっぽ切りであり、自分達が現役時代に延々とやってきた八百長を隠蔽して一件落着にしようとしている訳だ。
相撲記者は八百長がはびこっているのは当然知っているが、勿論頬かむりして現代スポーツの国技として報道している。
何も相撲に限らない、日本国中ケジメのつけられない現象に溢れているではないか。

最後に、コメント欄が狭過ぎて書きにくい。

 

2. CANAL 2011年4月17日 17時2分 [返信する]
ラッキーモク様 初めまして。

拙ブログにお立ち寄りくださいましてありがとうございます。また、わざわざコメントをありがとうございました。自ブログにもかかわらず、3月11日以降、一進一退の原発にほとんど関心が行ってしまってすっかりお留守になってしまい、昨日久々に書き込みをしたのですが、その時もとにかくG20期間中に海外支援要請だけは書いておかねば!とそっちに頭が一杯でコメントの確認をするのを忘れてしまって御礼が遅くなりすみませんでした。

>日本人とはケジメがつけられない人種であり国なのだ。だからケジメのつけられない国の国技にはこれまたケジメがつけられない相撲がピッタリなのだ。相撲の八百長は江戸時代から連綿と続いていることであり、八百長が有るから相撲なのだとも言える。俺に言わせれば相撲は男芸者の芸に過ぎないので有って現代スポーツとして本来扱うものでは無い。要するに日本式プロレスショーの興業に過ぎない。<
まさにその通りだと思います。そしてブログ記事にも書きましたように相撲において何が一番問題であるか、と言えば、営々と八百長を執り行い続けてきた、そのことよりもむしろ、相撲協会やメディアが暗黙の了解のうちにそれをあたかもまごうかたなき真剣勝負の如く捉え続けてきたその姿勢にこそ、問題の本質はあると考えています。もしまだでしたら、2月13日付けの投稿も是非ご笑読ください。

>相撲は国技だという、正に相撲は日本国の国技に相応しい代物だ。日本人とはケジメがつけられない人種であり国なのだ。だからケジメのつけられない国の国技にはこれまたケジメがつけられない相撲がピッタリなのだ。<
同感です。前述しましたように、八百長を恰も真剣勝負であるかのごとく持て囃しそれで満足している、というその意味でこそ非常に日本らしいと言えましょう。そしてこれが国内で完結している分には全く問題ないのですが、そんな予定調和が全く通用しない、例えば、世界と対峙しなければならないフィギュアやあるいは今回原発事故対応のようにごまかしの利かない場面に遭遇した時に、この日本独特の論理はたちまち破綻し右往左往するしかない点に日本のひとつの限界があると言えます。そういう意味では原発事故はそのふやけた思考の一つの必然的な帰結とも言うべきものです。

>協会の幹部連中が一部の力士を首にするのはトカゲのしっぽ切りであり、自分達が現役時代に延々とやってきた八百長を隠蔽して一件落着にしようとしている訳だ。<
その通りですわ。おっしゃるように相撲協会は現在、皆が震災に気を取られているその間隙を縫うようにして処分を発表されていますが、こんな茶番で以って事態の収拾を図り、未だ真剣勝負を謳おうとするのは、スポーツという視点から見れば愚の骨頂でしかありません。しかしながら、それがいわゆる日本的システムを象徴している側面は確かにあります。

>最後に、コメント欄が狭過ぎて書きにくい。<
これは失礼しました。私のほうでコメント欄の設定を変えることができればいいのですが、コメント欄は一律にこちらのブログの運営母体であるくる天様にてデフォルトで設定されているのですよ…。またくる天様に伝えておきますね。

更新が滞りがちで恐縮ですが、また気が向いたらお立ち寄りくださいませ。

 


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