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「水の上下という感覚」
 
2016年5月9日 17時29分の記事





・江戸の上水

・歌川広重『東海道五拾三次・府中』






〜川を知る事典〜

(第三章 日本人の川への意識 扉絵:歌川広重『東海道五拾三次・府中』=安倍川

1 水の上下という感覚

◆『記・紀』より受け継がれた「三尺流れれば清し」

現在 日本の河川の多くは 少なくとも中流から下流にかけ 自然の岸ではなく 人工の護岸 堤防といった水を遠さない構造物によって

「カワ」と「ガワ」とが 遮断されている

ただし、その構造物の底面の地盤は、いずれも水を通す伏流を通じて川と繋がっており、その意味で、川の底では人間の目には見えない流れになっているのである。

(最古の神話である『古事記』の中で、スサノオが水田の灌漑用のアゼ=畔を壊したことがアマテラスを怒らせる理由の一つになっていて)

「ガワ」を破壊することは その中を流れる水の流れすべてが無秩序になるゆえの大罪だったのである

注.古事記上卷〔天照大神と須佐之男命〕3「須佐之男命の勝さび」の項の《天照大御神の営田(つくだ) の阿を離ち、其の溝を埋め》『日本書紀』〔神代上 第七段〕の「且毀其畔」=且畔毀 またあはなち す)

『古事記』『日本書紀』には 「主なる神」が川で「禊」をした結果として

多くの神が生まれた状況が繰り返し出てくる

これは、穢れたもの・汚れたものであっても川の流れで濯げば、「河水は三尺流れれば清し」、すなわちヨゴレた水は三尺も流れれば元のように綺麗になるという古諺のように、復活ないしは、新生を象徴するものでもあった。

また、川の中とその岸で「みそぎ」「はらえ」をする習慣は現在まで続いているともいえるが、奈良〜平安時代初期ころまでの河川遺跡からは、川の中から「はらえ」にもちいられた人形や絵馬が大量に発見されている。

(例. 大阪寝屋川市内の讃良郡条理遺跡)

川辺は古代人の祭祀の重要な場所であったことが『記・紀などの文献史料だけではなく 考古学の手法によっても次々に立証されている

(文化庁編『2003 発掘された日本列島』/朝日新聞社刊 にはそうした遺物がカラーで紹介されている)

同時に 川の「巨大さ」を観察した結果が 『記・紀』に記憶されているのだといってもよかろう



◆水の「良・悪」と「上・下」

こうした神話・古代の「カハ」と「ガハ」の関係は、水田耕作用の灌漑の意識にも受け継がれていく。一つの灌漑水系に属する水田の連鎖の中で、自分の所有する水田に流入する水を「良水」または「用水」と呼び、それを飲用にする場合は「上水」と呼んだりする。そして灌漑し、利用し終えた水が下流の所有地に流出する瞬間から、それまでの「良水」は「悪水」と呼ばれるようになるのである。

これに似た状況を日常生活の中で例えてみると、乾電池を直列につなぐ場合が思い浮かぶ。一本の乾電池のマイナス面に次の乾電池のプラス面を繋げ、さらにそのマイナス面に次の乾電池のプラス面を繋げていく接続法だ。マイナスが一本の乾電池を経てプラスに変わり、また次のマイナスもプラスに変わっていくという状況である。

それは単なる感覚の問題ではなく 実際にあったシステムの名称にも残された

かつては江戸の穀倉地帯であった埼玉平野および東京都東部では、「悪水吐(ばけ)」「悪水路」と呼ばれ、古公文書にもそのように書かれた用水のネットワークがいたるところに見られた。流れが自分に用がなくなった瞬間、あるいは余分になった瞬間から「悪水」という表現がいとも自然に発生している点に、江戸時代の洪水常襲地帯における水田耕作者の感覚が窺える。

水の「上下」という言葉についてみると、「上水」とは江戸時代以来続くシステムとしての水道、または上水路といった「ガワ」を使って運ばれ、飲用することができる水を指す。そしてその水が使用された瞬間から「下水」と呼ばれる。特に臨海低地に成立した都市の場合は、「下水道」という都市施設を経て海に排水されるシステムを必要とした。

「上・下水道」「良水・悪水」…いずれの区別も 同様の感覚

川の水の流れは単に地球の重力に従っての流れるようだが

それを取り巻く人間社会の「意識」の中では多様な流れ方をしている



◆川の希釈能力

日本人の「カハ」の水に対する「良・悪」、「上・下」という感覚は、自然河川の上流・下流の区別とはかなり違ったものと考える。そこに生活する人々から見た「要・不要」が「良・悪」「上・下」であり、その河川も「三尺流れれば清」くなるという考え方である。

1960年代に始まる高度成長期では都市近郊の宅地化が激増するとともに 地域の自然河川はオープンの下水道に利用されるようになった。さらにすべての廃棄物の投棄場に利用され、下流の都市部の河川に甚大な悪影響をもたらした。このように不用になった物の捨て場は川だという意識の源は、『記・紀』に散見される川での「禊」に発する。言い方を換えれば、自然河川の下水道化、廃棄物投棄は神武以来の“常識”の結果でもあった。

河川のエネルギーは ある地点の〔川の断面積〕×〔1秒間の流速〕×〔8万6400秒(1日の秒数)〕で算出される1日当たりの流量に比例する

例えば 幅1メートル・深さ0.5メートル・流速毎秒1メートルの川の1日の流量を計算してみると 水1立方センチの重量が1グラムだから 4万3200トンにも及ぶ

幼児がまたいで渡れるような小川でも、巨大な空母や戦艦の排水量に相当する水を、音もなく流し続けているのである。

このような川の“巨大さ”が知られていたために、「三尺流れれば清し」という川の大きな希釈能力が諺にもなった。ところが、そのヨゴレの発生の仕方が自然河川のエネルギーを超えるようになると、川の希釈能力はたちまち消失してしまう。希釈するどころか、汚染が蓄積されつつあるのが、現在の「川の自然状態」なのである。



◆都市施設としての上下水道

人工の動力による近代水道が普及する以前にも各地で水道施設が建設された

ある資料によると 15世紀半ばから19世紀半ばまでの約三百数十年間に建設された水道施設のうち 現在確認されている総数が40

内訳として 城下町25 その附属施設2 港町5 漁村2 宿場町3 農村1 工場1 軍事施設1 と数える研究者もいる

農村では、住民の生活用のほか灌漑用としての目的もあったであろうが、都市整備が急速に展開した江戸時代においては、その大部分が都市の水需要をまかなうために水道施設が建設された。


都市…人間がある土地に定着して集落を形成し 経済的な活動をする場所 という意味で…初期の都市はその土地が持つ本来の水資源の限りにしか成立し得なかった

つまり、水を自給自足できる範囲にしか都市は出現できなかったといってよかろう。しかし、都市建設がある程度進化してくると、そこにいる権力者の力に応じて、必要な水を他所から補給することが可能になる。

このことは、世界の古代文明を成立させた大都市の場合に限らず、日本にも共通していることはいうまでもない。城下町といった形の都市では、城主の権力に応じた規模で水道施設がつくられた。その代表的な実例が玉川上水で、これは最大の権力者である徳川幕府が、城下町江戸に建設した日本最大の水道施設である。


江戸の場合は やや特別な事情があり

大量の物資の移入を水運で確保する必要がある都市では 必然的にその中心部分=湊を臨海低地に構築しなければならない

さらに、江戸郊外から補給された上水が、使用されて下水となったときの専用路を設定しておく必要があった。そのうえ、江戸湊は海抜2メートル程度の臨海部に建設されたために、毎日2回ある潮汐の干満の影響を考慮する必要もあった。


下水道建設に際し まず臨海部の微妙な地形を測量(水盛 みずもり) それを下水道幹線の方向と勾配に反映させ それに重なる形に道路計画を確定した

つまり、実質的な下水道建設を確定したうえで、それから町割り=道路・街郭の設定というような都市計画を進めていったのである。

このように少なくとも臨海低地に都市をつくる場合、上水道施設の有無に関わらず、まず下水道を計画しておかないと、道路も宅地も無秩序な下水の氾濫によってぐしゃぐしゃになってしまい、都市が成立し得なくなる。この意味で、海抜高度の低い場所にある都市では、下水道が最も基本的な都市施設であった。

江戸時代といえども井戸から汲み出したり川辺から汲み上げるといった方法だけでは十分な水需要に応じられず 連続的に上水が供給される施設でなければ水道ではなかったのだ

ここにも「カハ」と「ガハ」のあり方が 本来はどのようなものだったかが理解されよう

そのような関係と意識の発生の結果 「アラカワ」+「ガワ」で「アラカワガワ」といった感覚が 日本人の川に対する基本的な感覚になった



◆ポンプ利用で変えられた河川の姿

40の江戸時代の水道施設は 水路に勾配をつけ自然流下で水を運ぶという 灌漑施設と同じ技術によるもので それを受けた下水も同様に勾配をつけた水路で川に流したり 直接海に放流するしくみだった

その場合の上・下水路は 人工の谷であり人工の川=「ガワ」に他ならない

その上・下水路を 近代水道の一部として利用するようになると 人工の谷や「ガワ」の様相は一変する

動力を利用して水道管に圧力(ポンプアップ方式)をかけて給水するシステムでは 自然流下の何倍もの水量が給水される

それは その地域の降雨量が何倍にも増加したのと同じ現象

自然河川がその流域に自然の雨量に応じて 窪み(谷)をつくりながら流れていた状況が崩れ 絶えず豪雨が降っている状況と同じような排水負荷が自然河川にかかるようになる

東京の場合、近代水道が普及する以前の明治一七(1884)年から、「神田下水」(千代田区岩本町)と俗称された人工の地下式下水道がつくられるようになった。ポンプアップされた水の供給が始まる前の自然流下式水道の時代でも、臨海都市東京の旧河流部などの特に地盤の低い場所では、自然流下式の玉川上水の下水化した水を人工的に排水しなければならなかったのである。

(江戸時代からあまり時を経ていない明治時代初・中期でもそのような必要性があった状況に加え)

近郊の住宅地化が進行し 近代下水道をつくらないまま(つくれないまま)近代水道が普及するようになると その排水は手近な自然河川に ストレートに放流されるようになった

その結果 都市内自然河川の負荷増大…言い換えると河川が洪水常襲状態になっていったのである


東京に限らず、ある川の流域が都市化・住宅地化するという状況とは、必然的に自然河川の流路を狭める形に護岸を築立てて、河流の効果的利用を目指すものである。例えば、流通拠点として河岸(かし)を造成すること、洪水を予想して宅地化を計画すること(主に工場用地などを沿岸に造成)、そして公園や緑地効果を求めて新規の沿岸を造成するなどの行為である。

しかし、そのいずれもが「川の生理」とは逆の人為に他ならない。本来、川の水はその流量に応じた「ガワ」をつくって流れるものであり、降雨量が増大し洪水ともなれば川幅を広げて流れてきたのに、その流域の都市化・宅地化という状況が「ガワ」や谷の役割を固定的な放水路に替えてしまったのである。さらに最近では、都市の高層化による水道供給量の増加や食糧・飲料水の輸入などによって、河川流域に降る自然の降水量の何十倍にも相当する水が、他所から運ばれているという状況もある。

流域外の土地から供給された水は 当然の事ながら自然河川への排水だけでは応じきれない

そのため、地下河川・地下放水路・分水路など名称はいろいろだが、多くは大深度の地下に建設された下水道に排水されることになる。この人工水路もまた、化石燃料によるエネルギーを多量に必要とするポンプ利用によるもので、「現代河川体系」は自然を無視した形で際限もなく拡大していく方向にある。
P98〜107



◆「ガワ」を否定した都市河川行政

近代日本の約百年間に及ぶ河川行政の中に 都市河川という概念が導入されたのは つい最近…平成一〇(1998)年のこと

それまでは農業を優先した「治山・治水」という観点からの河川管理だけで 都市の中を流れる川の機能に対する考慮は ほとんどなかったといってよい

都市…〈情報を含めたヒトとモノが触れあう場=いちば=市場の機能を持つ場所〉 という定義

物理的な「ハコモノ」で満たされた空間や人口数の大小などの量的な規模は その定義に基づいて都市機能が発達した結果にすぎない



都市河川管理のあり方の変遷

江戸の町では、同じ時代の世界各国の都市同様、水運の可能性を優先させて河川管理がなされていた。そしてその河岸地は、価格形成の場、すなわちヒトとモノが触れあう市場原理の働く場所であった。ところが、明治政府はその形成の経緯を全面的に否定して、河岸地の官有地化を強行した。

(そうした政策と結果については細かな具体的事実があるが)

大筋だけ…例えば 言葉の変遷でみると

元来は「道路橋梁」と「河川溝渠」とは
交通手段を表現するための対をなす四字熟語だったが

以降「道路」「橋梁」と「河川」「溝渠」とに分化される

都市内を流れる川は 市場機能を持つ河岸を奪われると同時に
流域を持たない「溝渠」の部分に限られるようになった


東京の場合でいうと、関東大震災の復興事業の際に、都市内河川の沿岸に沿った道路を廃止する措置がとられた。当時の手段における荷役作業の合理化、というのがその理由である。その結果、川は水の流れの部分だけが「川」として扱われるようになり、都市河川の沿岸は水際に沿ってビルが建ち並ぶ景観になった。さらに、戦災跡地の処理のために大幅な水路の埋立ても行われた。

やがて東京オリンピックに向けて都市建設が急ピッチで進むと、都市河川は流域を奪われたばかりか、水の流れの上空の部分も奪われてしまう。もちろんその象徴が、屋根のような高速道路に覆われた日本の道路元標のある日本橋で代表される。ところが、その高速道路は当初の設計予定を著しく超えた交通量によって、耐用年数よりもはるかに早く、疲労破壊が始まっているのである。この事実を前に、関係当局は平成一四年春、高速道路を日本橋川沿岸の民間ビルを貫通する形につくり変える“絵図”を発表した。

それほどまでに都市河川ならぬ都心の「溝渠」の沿岸には
道路に利用できる土地がないのだ

このような状況は、河川管理者が「ガワ」を人為的に否定して、水(カワ)を流した結果の一つの典型だといえよう。
P110〜112




道にみる「カワ」と「ガワ」の意識

古代ローマ文明を象徴する言葉「すべての道はローマに通じる」

確かに道路施設そのものや その復元的な説明は豊富にあるが
それは軍隊の通路としての視点からのもので どのように利用して食糧や巨大な建築用資材などを運搬しのか 具体的な説明が十分なされているとはいえないし 遺跡・遺物による立証も十分ではない

「ガワ」についてはわかっているが そこを流れる「カワ」が
どのように意識されていたかについては不明なのだ

紀元前に築造されたという「ローマの水道」についても同様で 「カワ」と「ガワ」の関係には ほとんど触れられていない

(道の話に戻る) 道路という「ガワ」に自動車という「カワ」が走るようになったのは 人間社会の歴史からいえばつい最近のことだが 北米大陸の場合 自動車が先に走って その走った跡に「ガワ」がつくられていった傾向が強い

中央アジアの砂漠地帯を経てオリエント(東洋)とオクシデント(西欧)を結んだ何本かのシルクロードの場合も かつては不安定な「ガワ=道」に 駱駝を主体とした強力な隊商群という「カワ=流れ」が通っていたが

自動車の登場に伴って自動車道路という「ガワ」が整備され
いわゆる「カワ」と「ガワ」との関係が逆転した感が強い
P112、3

川を知る事典 日本の川・世界の川』2003
鈴木理生(まさお)


鈴木 理生(1926年 - 2015年3月4日)
日本の歴史学研究者・歴史学者。本名は鈴木昌雄。
江戸を対象にした歴史研究をすすめ、地質学や考古学の知見をも活かした実証的な都市史研究をおこなった。とくに、徳川家康が幕府を開く以前の江戸について、あらたな歴史像を提示した。-Wikipediaより




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俗称「神田下水」

そのあたりからも 毎年葉書が届いていた




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